■□エピローグ 光 lux in tenebris,
■大罪事変F

 何が真実に正しいのか。それは一生をかけて見極めるべき命題だ。
 しかし、人は時に出し抜けに、その「正しさ」が何たるかを示すことを求められる。
 時は不可逆であり、決断はリスクを孕む。決断とは前に進むこと。事の良し悪しは別として、事象は結末へと転がり始める。そうして坂道を転がり落ちながら、少しずつ何かを傷つけ、傷ついて、様々なものを巻き込みながら肥大化し、加速していく。
 いつか決定的な破綻を迎える、その時まで。

 ――審問と執行を司る、正義の女神アストレア。

 そしてその名を冠する、性善説に基づき創られた、人の心を秤にかける演算装置。罪を背負うことに耐えられなくなった人々が求めた、楽園世界《アパティア》への免罪符。
「悪いと思う事は、やってはいけません」
 ただそれだけのことが強いられただけで、世界は平和になった。
 それなのに……。

 玉座へと駆け上がった、天使ミカエルは訴える。

 無条件に免罪符を与えることは正しいことなのか。
 システムの確立により、人は自らが犯した罪と、背負うべき咎が何たるかも考えようとせず、盲目的に罰を受け入れるようになった。
 人は、自らが犯した罪に苦しみ、考え抜き、身を磨り潰すような葛藤を経るからこそ、贖罪の道を歩むことが出来るのであり――他者の罪を裁き罰することが許されるのではないか、と。
 天使ガブリエルもまた、彼の側に立った。
 女神は戸惑った。
 迷いは、苦しみであるのに。決断は、痛みを伴うのに。
 その苦痛から逃れる為に、人は常世の深くから、女神を目覚めさせたのではなかったか。
女神は、自らの分身たる天使たちの声に耳を傾ける。
 そうして、苦悩の果てに、告げた。
「解りました。貴方たちに、試練を与えます」
 写し身たちを見下ろす女神の両手には、秤と剣がそれぞれ握られていた。

■書記審問官エンメルカルの記録G

 過ちを繰り返す人間に失望し、地上を去った女神アストレア。いったい何が心優しい女神の逆鱗に触れたのか――。
                                              書記審問官エンメルカルの記録

■光@

「慈しみ深い神よ。希望のうちに人生の旅路を終えた我らの仲間たちを、貴方の御手に委ねます」
 冷たく煙る雨の中、厳かな神父の声が響く。
「我らから離れてゆく、この兄弟姉妹たちの重荷をすべて取り去り、天の住かへと導き、聖人の集いに加え給え――。別離の悲しみのうちにある我らもまた、約束された復活の希望に支えられ、貴方の元へと召された彼らと共に、永遠の喜びを分かち合うことが出来ますように」
 顔を伏せる神父の前には、数十を超える木棺が並んでいる。
 煙る雨は止まず、棺を取り囲む蝙蝠傘が深い悲しみにゆらゆらと揺れている。
 都市を襲った『大禍』の出現により、早三日が経とうとしていた。
 空がガラスの天蓋で覆われてより数百年、一度も降り注ぐことの無かった恵みの雨は、人々の悲しみを現したかのように降り止まず、籠型都市の下層を少しずつ水の中に飲み込んでいった。
 犠牲になった遺体の全ては、身分に関係なくこの場で火葬される。
 都市は未だ混乱の中にあり、その機能の大部分を停止したままだ。だが、遺体を放置しておくことは出来ない。衛生上の問題がある。空調装置は稼働を始めたものの、天蓋には大穴が空いたまま。ここで伝染病が流行れば、今の都市にそれを凌ぐ手立てはない。
 アンドレアスは、一人ひとり解っている限りの犠牲者の名前を読み上げていく。
 その身体には幾重にも包帯が巻かれ、特に目元は包帯で完全に覆われており、何も見えていない。
 それでも、血を吐くように苦しげな声が尽きることは無かった。
「どうして全ての葬儀をアンドレアス神父が仕切っているんだ?」
 喪服姿の参列者の中から、こそこそと話す声が聞こえる。
「これだけの遺体の葬儀を、第二教会だけで仕切るのは難しいだろう」
「第一教会は燃えてしまったんだ、仕方がない。ハイゼ家の人間が居れば、まだどうにかなったかもしれないが……」
「リオ君はどうした? ハイゼ神父とは親交が深かったろう。フレデリカとだって、あんなに」
「深い傷を負って療養中だと聞いたよ。あの子だって、父親であるアーダルベルト市長を亡くしてるんだ。葬儀に出れる状態なら、この場に居るはずじゃないか」
「それは本当か!? それじゃあ今の都市には、審問官は盲目のアンドレアス神父しか居ないということじゃないか!」
 しめやかに執り行われる葬儀の裏で、ざわめく声は大きくなっていく。
「このままでは、都市が機能しなくなる」
「ただでさえ、都市機能が混乱して治安が悪くなっているのに」
「外延部では、オスティナトゥーアの奴らが暴動を起こしているという噂もあるぞ」
「どうなるんだ。この都市は……」
「おい! それより聞いたか? ハイゼ神父が、オスカーと組んでオスティナトゥーアへの支援金を――」

   ※   ※   ※

 深い枝ぶりの木々が落とす陰が途切れ、陽だまりの丘の上に出ると、緩やかに傾斜する坂道の向こうに、大きくうねる巨大樹の根が見えた。
 ジブリールは、荒い羊毛で出来た長いあずき色の外衣を頭から被った巡礼者の装いで、背丈より大きな羊飼いの杖を突いて立ち止まると、目深に被っていたフードをそっと上げて、歩いて来た道を振り返った。
「お花くらい、供えていった方が良かったのではないですか?」
 独り言のように呟く。
「冗談だろ?」
 後ろ髪引かれるような声に、前を歩いていたクレーエが、どこか気怠そうに振り返った。寒そうに厚い外套の前を重ねて、
「都市の人間からすれば、俺たちは災厄をもたらした疫病神だ。ここは面倒なことになる前に、さっさと逃げるに限る」
「むぅ」
 ジブリールは頬を膨らませると、頭をすっぽりと覆っていたフードを降ろした。流れるように落ちる、豊かな金色の髪を手で整えながら、
「考え過ぎではないですか? 貴方が『大禍』だと騒ぐ者が居るでもなし、いきなり囲まれて袋叩きに遭うなんてことは無いと思いますが」
「どうしてそう言い切れる。そうでなくとも俺はこの都市の人間に良く思われてなかったんだ。行っても迷惑そうに顔をしかめられるのがオチだ」
「もう! すっかりやさぐれが染みついてしまって……! 例えそうだとしても! 故人に別れの言葉でも遺していくのが人情ってものではないんですか!?」
「そんなあやふやな理由で命かけられるか。それに、どうやって故人に別れの言葉をかけるんだ? あそこに並んでるのはただの死体だ。その辺の石ころと変わりない」
「そ、それが元聖職者の言う言葉ですかっ!?」
「肉料理が好物の天使にだけは言われたくないな」
 声を荒げるジブリールに、クレーエは冷めた目を向け、
「だいたい、葬式なんてのは、遺った人間が納得いくようにやればいいんだ。……それに」
 不意に言葉を切ると、クレーエは難しそうに顔をしかめた。何事かと身構えるジブリールの視線から逃げるように目を逸らすと、
「どんな顔して葬列に混じればいいのか、解らねぇよ」
 予想外の言葉に、ジブリールは目を瞬かせた。
「意外と気が小さいんですね」
「気が小さいんじゃない。繊細なんだよ。図抜けたどっかのアホ天使と違ってな!」
 坂道を降り切ると、ようやく巨大樹の根元に触れることが出来た。クレーエはまるでそこにあるのが解っていたかのように、生い茂った弦草を掻き分けて、都市間トンネルの入り口に手をかける。入り口には簡易なバリケードが施されており、クレーエは木枠を引いたり叩いたりしていたが、途中で諦めたのか強引に蹴り壊した。
 びゅう、と鋭く風が吸い込まれ、徐々に湿った冷気が染み出して来る。
 ジブリールは風に乱れる長い絹の髪を押さえる。奥から響いてくる風の音は、どこか物悲しい響きを孕んでいるように思えた。
 剥ぎ取った木片の一つにオイルを注ぐと、クレーエは慣れた手つきで篝火を灯す。
 ぼう、と穏やかな明かりがトンネルの入り口を照らし出す。
 ジブリールは、穏やかな火の揺らめきを見つめた。
 一つだけ、確かめておかなければならないことがある。
「クレーエ」
「ん?」
「今回の二つの都市を巡る事件は、貴方のせいで起きたのではありませんよ」
 入り口を潜ろうと身を屈めたクレーエの動きが、ぴたりと止まった。
「貴方が責任を感じる必要など、何一つありはしない。きちんと理解していますか?」
 トンネルを覗き込んだクレーエの表情は、ジブリールの位置からはよく見えない。
「……ああ、解ってる」
 囁くような声は、暗がりへと解けて消えていく。
 前を行くやさぐれた背中に、ジブリールは重たい息を吐き出した。
「……やっぱり、引き摺ってるじゃないですか」
 奥に消えていく背中を追って、ジブリールもまたトンネルの中へと足を踏み入れる。見失わないように駆け足で。
(彼はまだ、迷いのトンネルの中に居る)
 真っ暗なトンネルを手探りで進みながら、思う。

 ――裁かれるなら、クロエがいい。

 九年前のあの日、赦しを願った友に応じてやれなかったことを、クレーエは今も悔やんでいる。
 ジブリールは少し先で揺れる松明の灯りを見つめ、そっと目を閉じた。
 暗闇の中に浮かび上がる、容赦なく罪の意識を刈り取る断罪の審問官ダリウス・ロンブルと、そのパートナー堕天使イグニス。彼らが操る紅蓮の炎の揺らめきは、三日たった今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
 きっと、この先も忘れはしないだろう。
 苛烈に生き、燃え尽きるように消えていった、二人のことを。 
 長いトンネルを歩くジブリールの意識は、三日前へと遡ろうとしていた。
 ぶつかり合う膨大な『神の意志の力』によって、都市全体が白い光に包まれた、あの瞬間へと――。

   ※

 拡散していく光の雨の中、ジブリールはただただそれを見ていた。
 限界に近い『神の意志の力』の行使により、指先は火傷したように感覚が無くなり、銀杭剣が掠ったわき腹からはじくじくとした出血がある。
 痛みは感じなかった。
 開きっぱなしの瞳に映るのは、淡い黎明の天蓋スクリーンと、豊富な雨水を吸って生長し続ける水樹と、自分が立つ壊れかけの灰色の屋上――そして、残された二人の審問官。
 司教杖を振り抜いたままの姿勢のクレーエと、その少し後ろに、立ち尽くすダリウス。一瞬の交錯が産んだ衝撃は二人の天使を弾き飛ばしたようで、ジブリールは二人から五メートル以上離れた瓦礫に、半ば埋もれるようにして、その光景を見ていた。
 ぶつかり合って霧散した『神の意志の力』が、細かな光の粒子となって舞っている。辺りに音は無く、灰色の屋上は滅び去った古代の海底神殿のよう。
 背中合わせに立つ二人の身体は、死闘を繰り広げた神話世界の英雄たちのように真っ赤に染まっており、どちらも呼吸をしていないように見えた。
 しかし――その身に可能な限りの『神の意志の力』を宿し、それら全てを放ったジブリールには解っていた。
 先ほどの交錯がもたらした、勝負の結末を。
「――……っ、」
 微かな呼吸音と共に、ダリウスの巨体が傾いだ。膝から崩れ落ち、ゆっくりと水溜りの上に倒れる。
同時に、コンクリートの床に突き立てられていた全ての銀杭剣が塵となって消えた。
 数えるまでもなかった。十本全ての銀杭剣が、消えた。
 ジブリールは無意識音うちに立ち上がり、そこで初めて、全身に貫くような激痛を感じた。わき腹がじくじくと痛みだし、暖かな血液が腿を伝って落ちる。
 揺れる視界の中、思わずダリウスの元へと数歩、歩み寄り――そっと息を呑んだ。
 天蓋のスクリーンと、大樹を映した水溜り。その中に倒れ込んだダリウスの背中は、微かにではあるが上下を繰り返していた。
 焦点の合わぬ鳶色の瞳は見開かれたままで、ぼんやりと、ここではないどこかを見つめている。
 ――まだ、息がある。
 そう短く呟いた時、ジブリールは一瞬、自身の心臓の鼓動が止まったように感じた。

 苦しげに呼吸を繰り返すダリウスの頭上に、ずぶ濡れのクレーエが立っていた。

 冷たい黒色の瞳が無感動にダリウスを見下ろすと、緩慢な動きで腕が動き、司教杖を振り上げる。その動きに呼応して、宙空に残っていた幾つかの水の矢が、その向きを変えた。
 砕けんほどに歯を食い縛ると、薄い唇がぶるりと震え、
「許せ、ダリウス」
 枯れた声で言って、掲げた司教杖を振り下ろす。
 いや、振り下ろそうとして――けれど出来なかった。
 振り下ろそうとした杖の先に、小さな影が飛び込んだのだ。
「……止めろ」
 そう言ったのは、精一杯に四肢を広げた少女だった。
 強い意志の光を宿した深紅の瞳に、いっぱいの涙を溜めて。獣のように歯を剥き出しにして叫ぶ。
「ダリウスを傷つけるな! 家族を殺されて、お前にまで見捨てられて、ダリウスは!」
 細い身体は、怒りからか、それとも怯えからか、細かく震えている。それでも震える身体を懸命に突っ張って、鋭い殺意を発するクレーエを睨み上げる。
 天使との繋がりから、『神の意志の力』の流れを読み取ることが出来る、今のクレーエには解るはずだった。
 銀杭剣《レリクス》を失ったこの少女が、今や天使としての力を使うことの出来ない、ただの非力な子供に過ぎないことを。
 そして、堕天使である彼女もまた、肉体を失えば人間と同じく魂の形を保てない――不可逆の死を迎えるのだということを。
「……悪魔め」
 クレーエは感情の見えない瞳のまま、ぽつりと言葉を発した。吐き捨てるような声だった。
 瞬間、夜の湖面のようだった瞳に、怒りと憎しみの炎が吹き上がる。
 頬を引き攣らせて叫んだ。
「お前は悪魔だ。イグニス! お前がダリウスを鬼にしたんだ。そんなおぞましい姿をして、ダリウスを引き返せないところまで追い込んだんだ!」
 激昂するクレーエに、イグニスは何も返さなかった。
 ただ固く唇を引き結んで、殺意に濁るクレーエの真っ黒な瞳を睨み返す。
「どうして人の道を外れたダリウスを置いて、一人で神の元に帰らなかった! ダリウスの何が憎かったっていうんだ。どうして……どうして!」
 罵るクレーエの横顔が、痛みに歪む。
 それは、満身創痍の肉体の痛みだけではないだろう。
 額を抑えると、何かを振り払うように首を振り、
「お前は、悪魔だ。イグニス。お前がダリウスを不幸にしたんだ」
 びくり、とイグニスの小さな身体が震える。
 大きく見開かれた瞳から、透明の涙が溢れ出し、頬を伝い落ちる。それでも、見上げるイグニスの視線は揺るがない。
「……お前が!」
 クレーエは苛立ちに顔を引き攣らせ、振り上げた腕に力を込めようとして、
「や、めろ」
 低い声に、押し止められる。
 震えるイグニスを庇うように、丸太のように太い、一本だけの腕が突き出されていた。
「こいつ、を。そう、責めないでやってくれ」
 掠れ、今にも消えそうな声に、クレーエが引きつけを起こしたように短く息を吸う。
 ダリウスはクレーエに真っ直ぐな目を向け、ゆっくりと巨体を起こすと、縋りつくように身を寄せるイグニスの頭に、大きな手を載せた。
「お前は、悪魔などでは、ない」
 焼け爛れてがらがらになった声で、一言一言、区切るように。酷く掠れた、けれど強い言葉は、恐怖のあまり瞳を見開き固まっていたイグニスの顔を、くしゃりと歪めた。
 強張った少女の背に、ダリウスは子供をあやすように手を置いて、
「家族を失い、生きる力の全てを失った俺に、お前は生きる力をくれた。お前が傍に居る限り、俺は妻や娘たちのことを忘れない。あの時の絶望を、怒りを、嘆きを、ありありと、蘇らせることが出来る。そうだからこそ……いや、そうでなければ、俺は、生きてなどいられなかった」
「けれど――」
 静かに語るダリウスを、震える声が遮る。
「僕が、自分の身体を、君の、妻と子供たちから創ったせいで、君は」
 何度もしゃくり上げ、途切れ途切れに呟かれる涙声に、ダリウスは何も返さない。
「君を苦しめるつもりは無かったんだ。ただ、君が壊れていくのを見ているのが苦しくて、守らなくちゃって思って。君の大切な人の身体を僕が受け継いで、君を守っていこうって。……地獄の底までだってついて行こうって、そう思ったんだっ」
 焼け爛れ、煙を上げるダリウスの身体に抱き付き、イグニスは悲鳴のような声を上げて泣いた。
「ごめん、ダリウス。僕が、君を不幸にした……!」
「そんなことはない」
 ダリウスは間髪入れず、その言葉を否定する。
「この灼熱地獄の狂気の中こそが、俺が身を寄せられる、唯一の場所だった。そうして、その中に身を置いていたからこそ、俺は、こうして――」
 どこかたどたどしい声で呟いて、ダリウスはゆっくりとクレーエを見上げた。そこには、あの暗い死の国の気配は感じない。
 まるで憑き物が落ちたかのように、ダリウスの表情は穏やかだった。
「ありがとう。イグニス。俺はお前のことを、自分の子供のように思っていた。産まれてくることの出来なかった、俺と、アイーシャとの子供のように」
「ダリ、ウス……?」
 驚き見上げたイグニスの身体から、不意に力が抜ける。
 ダリウスは振り下ろした手刀をそっと持ち上げると、糸の切れた操り人形のように、ぐったりと弛緩した小さな身体をしっかりと抱き留め、力なく笑った。
「無様な姿を見せたな」
「無様なんかじゃないさ」
 クレーエはゆっくりと、しかし強く首を振る。
「イグニスのしたことは、正しい選択だとは思えない。だが……それが悪意から発せられたものではないということは解っていた。――正直に言えば、俺は鉄塔の上でお前たちを見かけた時、羨ましいと思ったんだ。お前の天使は、共に堕天する道を選んででも、お前と一緒に居ることを選んだんだから」

 ――もう。まだ言ってるんですか。ミカエルは、貴方の事を捨てたわけでは無くてですね、

「解ってる。天使たちが寄せてくれた思いは、人が人へと向けるものと何ら変わりない。何より純粋で、ひたむきだ。イグニスがお前を守ろうとする姿を見て思ったよ。アイーシャさんや、レイラとライラが生きていたって、たぶん同じようにお前を庇っただろうって」
「……あいつらが、俺を?」
 ダリウスは呆けたように呟き、はっとしたように限界まで膨れた瞼を開いた。
 ジブリールもまた、思わず息を呑んでいた。彼女は確かに見た。

 黎明の光が降り注ぐ朝靄の中に、ダリウスを守るようにして立つ、小さな二つの人影を。

 ――クロエ、何やってるのよ!
 ――ダリウスを苛めないで!

 ダリウスの強張った顔がぶるりと震える。掠れた声で小さな少女たちの名前を呼ぼうとして――再び声を詰まらせた。
引き攣った頬に、寄り添うように褐色の手が触れていた。見上げたダリウスの顔が、丸めた紙屑のようにくしゃりと歪む。
 そこには彼が気が狂うほどに焦がれたはずの女の姿があって、

 ――あなた。どうか、自分を責めないでください。

「……ああ。懐かしい響きだ」
 ダリウスが染み入るように呟いた時には、全ては夜明け前の幻だというように、朝靄の中に消えていた。
「すまない、アイーシャ」
 呟く声と共に、太い腕が迷いを払うように動き、一面に紅蓮の炎が奔る。クレーエは反射的に後ろに退がった。すぐに炎の向こうのダリウスを追おうとして、
「この世界はあまりにも不完全に過ぎる」
流れて来た低い声に、はたと足を止めた。
「無念のままに消えた無数の魂を救済するには、新たな秩序を、新たな法と裁きの担い手を見出す他に無い。過去はただの事実の集積ではないのだ。それを蔑にしては、無念のままに死んでいった者達があまりにも報われない。過去があるから、未来があるのだ。未来の為に過去があるのではない。人は、背負ったものの重みを噛み締め、後悔の炎に身を焼かれながら、現在を生き、その集積が、結果的に未来となる。……無為に未来を積み上げようとも、それが過去を凌駕することなどあり得ない。彼らの生を意味あるものにするためには、現在は過去に復讐されなければならない。俺が神に代わって不出来な世界を創り変える。その結論に、今をもって何ら変わりは無い」
「待て、ダリウス!」
 炎の向うから響いてくる重たい声は、ゆっくりと遠ざかっていく。
 声は鈍器のように重たく、針のような鋭さを纏っていた。
「俺は、この身が地獄に落ちようとも、この世界を正して見せると誓った。それが俺があれらに出来る、唯一の償いだからだ。新たな未来で過去を塗り潰そうという、お前の結論には同意できないな。クロエ」
「……――ッ」
 クレーエは苦しげに目を瞑り、けれど何かを振り切るように手の中の司教杖を構えた。
「解り合えないなら、それでいい。だが、決着はここでつけなければならない。それは神の座を目指す俺たちには避けて通れない道だ。違うか?」
 世界が辿ることが出来る道は一つ。二つの意志が相容れない以上、互いに食い合う他に無い。
「……ふん」
 ダリウスは小さく鼻を鳴らした。面白くなさそうに、
「そうしたいところだがな。俺も相棒も、いささか消耗し過ぎた。こんな死に体に止めを刺しても、お前だって後味が悪いだろう」
 いつかのような冗談めいた声が聞こえると、不意に炎が揺らぎ、
「したがって、ダリウス・ロンブルは、一時休廷を提案する」
どこまでも真剣な鳶色の目が、クレーエを見つめていた。
 言い終わるかどうかという刹那、ダリウスの足が屋上の縁を乗り越え、空の向こうに消える。片腕でイグニスの身体を抱いたまま、明け方の空に溶けるように。
「ッ!?」
 クレーエは弾かれたように屋上の縁に駆け寄った。炎を踏みしだき、身を乗り出して、塔の下へと視線を奔らせ――強く、拳を握りしめる。
 震える口が何度か動き、ようやく、絞り出すように、
「解った。ダリウス。その提案、受け入れよう」
 手の中の司教杖を、強く強く握り締め、
「本法廷は、一時休廷とする。……いいか、ジブリール」

 ――貴方がそれで良いのなら。

 黎明の空を映す、都市のスクリーン。多量の雨水が降り注いだ階層路盤は、湖面のようにスクリーンの映像を映し返す。
 その境界にある塔の上で、溶け合うことの出来ない二つの空を見つめながら、残されたクレーエは一人、声を殺して泣いた。

   ※

 トンネルを抜けると、視界いっぱいに眩しいほどの光が溢れた。
 捻じれ合う木々の間を吹き抜ける、清かな風。どこからか、小川のせせらぎも聞こえて来る。
 ジブリールは木の桟橋に駆け寄ると、桟橋から身を乗り出した。複雑に絡み合う根の間を、細い清水が流れている。
「まぁ! 豊かな水源ですね」
 流れに指を浸すと、伝わってくる、ひんやりと心地よい感触。思わず目が細くなる。
夜明け前から歩き詰めで、喉が渇いていたところだ。
 自然な流れで、水流に浸した手で水を掬い上げようとして、
「飲まないほうが良いぞ」
ぶっきらぼうな声に、手を止めた。
 少し先の、日当たりの良い茂みの切れ間に、仏頂面のクレーエが立っている。顔を覆っていた黒い布きれを解きながら、
「この水は『神の意志の力』を多く宿し過ぎてるんだ。人の身には毒になる」
「人の身?」
 ジブリールは無垢な少女のように首を傾げて見せる。
「天使はどうなんですか?」
「さぁ? 試してみてもいいが、体調を崩したとしても知らんぞ。邪魔になるようなら、そのまま捨てていくからな」
「む……なんですか。まるで人を犬か猫みたいに……」
 ジブリールは頬を膨らませて抗議の意思を示すと、軽い足取りで丸太の足場を踏み越えて、クレーエの隣に並んだ。
追手が来ないか心配なのだろう。クレーエは先ほどから、しきりに周囲を気にしている。
「本当に、良かったんですか?」
「何がだ?」
「リオさんとフレデリカさんに黙って出て来ちゃって」
 クレーエの仏頂面が更に不機嫌そうになった。
 口をへの字に引き結ぶと、舌打ち交じりに目を逸らす。
「出ていく時は必ず言って下さい、って念を押されていたでしょう」
「いいんだよ。別れを言いに行くなんて、柄じゃない」
 憮然とした顔で言って、ぼりぼりと後頭部を掻く。視線の先には、緩やかに傾斜する林道。少し登った先に、開けた丘が見える。
「……シャロンの時は、夜中に部屋まで訪ねて来て、泣いて帰った癖に」
「何か言ったか?」
「いいえ。別に」
 つれなく顔を背けて見せると、クレーエは気にした風もなく歩き出した。
(まぁ、気持ちは解らないでもないですが)
 横目に伺いながら、ジブリールは声に出さず呟く。
 いつかこの都市を出て、外の世界に行くことを夢見ていたリオとフレデリカ。しかし、二人はこの先も都市で生きていかなければならないという制約を負った。
 見送りに来ればきっと、彼らは夢と現実の差を目の当たりにすることになる。
 まだ見ぬ世界へ旅立つクレーエとジブリールの姿に、リオが穏やかな心持でいられるはずもない。そして、そんなところを見せれば、フレデリカはきっと、深く傷つく。
 それは二人にとって、とても残酷なことだ。少なくとも、ジブリールはそう思った。
小鳥たちが囀る色濃く茂った木立を抜けると、道は二手に分かれる。
 一方は階層型第十三自治都市オスティナトゥーアへ至る道。そしてもう一方は、外の世界――無限の荒野へと至る道だ。
 朽ちかけた標識の前に立ち止まると、ジブリールは刻まれた文字にそっと指を這わせた。
 先日、ヴェステリクヴェレの臨時議会は、オスティナトゥーアの全ての住民を難民として受け入れることを決めた。
 都市としての機能を失い、住む者がなくなったオスティナトゥーアは、そう遠くないうちに地図から消えることになるだろう。
「ヴェステリクヴェレは、復興を遂げることが出来るでしょうか。環境制御装置《ラケシス》の力を借りずに」
 囁くような声に、先を行くクレーエが足を止めた。首だけで振り返ると、どこか億劫そうに、
「さぁ」
「さぁって貴方。リオさんたちを信じてないんですか!?」
 食って掛かったジブリールを、クレーエは面倒くさそうに見返した。溜め息交じりに首を振って、
「現実問題として、楽観視出来るほど、都市が置かれた状況は良く無い。復興は難しいだろうし、出来たとしても長い時間がかかるだろう。それこそ、あいつらが一生をかけたって、成し遂げられないかもしれない。そんな状況で大丈夫だ、なんて言ったって、無責任な気休めの言葉にしかならない」
「それは、そうかもしれませんけど……」
 思わず肩が落ちる。
 頭では解っていても、納得できないことがある。
 人の心はそんなにロジカルには出来ていないのだ。もっとも、ジブリールは人ではないのだけれど。
「そう、都市が置かれた状況は厳しい――だが、やって貰わなければ困る。あいつらは、この世界を変えようとした堕天審問官の前で誓ったんだからな」
「……そうですね」
 ジブリールが小さく笑ってみせると、クレーエは目を逸らし、少し照れくさそうに頭を掻いた。
 二つの都市を繋ぐ小径には、幾つかのシダ植物が暖かな木漏れ日を浴びて、ゆらゆらと踊るように揺れている。
 平穏そのものの目の前の光景と、二つの都市がこれから歩むであろう未来に、大きな隔たりを感じる。
 ――全ては、神の采配か。
 溜め息混じりに、階段状になった木の根に足をかけると、ふと額の上に気配を感じた。
 顔を上げると、いつの間に移動したのだろう。目の前に少し不機嫌そうなクレーエの顔があった。
「な、なんですか?」
 胸を押さえて飛び退るジブリールに、クレーエはやり辛そうに頭を掻いて、
「どうしたんだ? 浮かない顔をしてるな。何かフレデリカたちに言い忘れたことでもあるのか?」
 その声は真剣そのもので、ジブリールは思わずたじろぐ。
「い、いえ。別に、そういう訳では……」
 咄嗟に答えると、クレーエは何とも言えない顔をした。もどかしそうに後頭部をがしがしと掻き、何事かを言おうとして、けれど何度も躊躇って、
「あのな、お前」
「――気がかりがあるならあると、はっきり言えばいいだろう」
不意に流れて来た低い声に、弾かれたように顔を上げる。
 ジブリールは、反射的に声のした林の方へと顔を向け、
「クレーエ!?」
駆け出したクレーエに気づき、ジブリールもまた、その背中を追って林の中へと飛び込んだ。
 獣道をかき分け進むと、不意に視界が開ける。
 穏やかな日差しの降り注ぐ、小高い丘の上。
 そこから緩やかに下った細い川のほとりに、石造りの女神像が立っていた。大きな岩石を割るように生えたハシバミ。その木の根元に、見覚えのある男が寝そべっていた。
「黙って都市を出るつもりだったんだろうが、当てが外れたな」
 忘れたくても、忘れられるわけがない。
 野暮ったい僧服に身を包んだ男は、どこか気怠げな声で言うと、一本だけの腕で器用に身体を起こした。言葉を失う二人に、ふん、と小さく鼻を鳴らし、
「観念して全て話すことだな、ガブリエル。どの道、そいつには嘘が通じんのだ」

■光A

 深い洞窟から流れ出す風のような声を、クレーエは最初、理解することが出来なかった。思考の空白から回復した頭は、「なぜ」、「どうして」と馬鹿のように繰り返すも、それらは大した意味を為さない。
 目の前の男が夢幻の類ではないのなら、答えはもう目の前に出ている。
 気を落ち着けるために額に手を当てると、細い影が前に立った。
「生きていたのですか。ダリウス・ロンブル」
 鋭い声は、緊張の為だろうか。僅かに強張っている。
 クレーエと男との間を隔てるように立ったジブリールは、眦を決して女神像の前に立つ男を睨んだ。張りつめた空気は、ぴりぴりと帯電したようでさえある。
「そう警戒するな。この身体だ。何もする気は無い」
 ダリウスは言って、手に持った杖を微かに掲げて見せた。
 穴だらけ僧衣の下には、幾重にも巻かれた包帯の白が見え隠れし、杖をついての歩みは酷く緩慢でおぼつかない。
 しかし、
「何もする気は無い?」
ジブリールの視線の強さは、微塵も揺るがない。
「それなら、いったい私たちに何の用があると?」
 突き放すような冷たい声で言って、湖面のように深い翠緑色の瞳を眇める。警戒の色を露わにした目は、手負いの獣ほど用心するべきものは無いと言っている。
「クレーエとの審問法廷は、一時休廷ということで話がついたはず。まさか、この後に及んで都市の罪を暴こうとでも?」
「それこそまさかだ」
ダリウスは間髪入れずに否定した。
「都市ヴェステリクヴェレへの粛清は、オスティナトゥーアの住民を都市に送り込んだ時点で終えている。原告も居ないのに働くほど、俺は勤労意欲に溢れてはいない。何をどうしようという気もないさ」
「何をどうしようという気も無い、ですって?」
 強張ったジブリールの白い顔が、さっと紅潮した。
「何を抜け抜けと! 貴方はオスティナトゥーアの住民を送り込んだ後も、ハイゼ神父やアーダルベルト市長、中央管理棟の研究員たちに対して執行を行ったではありませんか! リオさんやフレデリカさんにだって!」
「おい、落ち着け」
 今にも掴みかからん勢いで飛び出したジブリールの襟首を、掴んで引き戻す。
 ジブリールの怒りは相当のものだった。威嚇する猫のように髪を逆立てるも、ダリウスは気にした様子もなく、平時のように淡々と、
「あれらが罰を受けたのは、それぞれの心にやましいものがあったからだろう」
「詭弁です! 貴方は言葉で彼らを糾弾し、追い詰め、罪の意識を煽ったではありませんか!」
「それもまた、奴らが望んだこと。罪を暴かれ、心の痛みから解き放たれたいと望んだからこそ、断罪の刃は下されたのだ。そもそも、俺がこの二つの都市を巡る争いで自ら動いて審問執行を行ったのは、オスティナトゥーアを襲った盗賊たちを裁いた時と、市民を犠牲として私腹を肥やしていた商人オスカーを裁いた時、そして『山狗の仔』レオパルを裁いた時の三度だけだ」
「馬鹿を言うな」
 あまりにも理不尽な言い草に、クレーエはたまらず口を挟んだ。
「あんたは、ヴェステリクヴェレの罪を裁く為に管理塔へと現れた。鉄橋を捻じ曲げ、道まで作って。その行動まで、自分の意志ではないというつもりか」
「そうだ」
 ダリウスの声に迷いはない。
「俺があの塔へ足を運んだ理由は、都市が犯した罪とは関係ない」
「……なんだと?」
 クレーエは反射的に懐の中のリボルバーに手をかけた。
 塔の職員たちを皆殺しにし、リオとフレデリカを執拗に追い立てたこの男の行動が、自らの意志ではないなどとは言わせない。
 今にも銃を抜き放とうというクレーエに、ダリウスは「やれやれ」と肩をすくめ、
「やはり、何も聞かされてなかったのだな」
「何をだ」
「この都市に起こった騒動のあらましを、だ。いい加減、話してやったらどうだ。ガブリエル」
 言って、ダリウスは意味ありげな視線をジブリールへと向けた。
「何か知っているのか?」
 小声で尋ねるクレーエに、ジブリールが微かに身を固くする。
 無理に視線を合わせようと肩を掴むと、ジブリールは大きく深いため息を吐いた。
「……だったのです」
今にも消えそうな声で、囁く。
「なに?」
「全ては、勘違いだったのです」
 強い声で言うと、深い悲しみを秘めた翠緑色の瞳を向ける。
 僅かに躊躇うような間を置くと、しかし明瞭な声で、
「都市が犯したと思っていた罪は、私たちの勘違いだったのです」

   ※

「中央管理塔で、リオさんとは別の部屋に閉じ込められた時、コンソールから塔の記録領域にアクセスしてみたんです」
 背中を向けると、ジブリールは静かな声で語り出した。
「私たち天使はもともと、情報の取り扱いに特化した存在です。記録の大部分には厳重なプロテクトがかかっていましたが、それらを突破して情報を引き出すことは、そう難しい作業ではありませんでした」
 ジブリールの話によれば、塔に残された記録には、ハイゼ神父、アルトマン市長、そして商人オスカーが行っていた密談の資料と、シュタルケ博士が遺した『環境制御装置《ラケシス》』に関する記録が遺されていたという。
 それら膨大な記録に目を通したジブリールは、三人が犯して来た罪が何たるかと、『環境制御装置《ラケシス》』が持つ機能の詳細――つまりラケシスに、周辺の環境を制御する力が無いということを知った。
「可笑しいとは思っていたんです。環境制御装置などという代物を運用しようとすれば、途方も無いエネルギーが必要となります。管理教会の『巨大量子演算装置《アストレア》』は、深層無意識の領域から『世界霊魂』《アニマ・ムンディ》を汲み出し、その力を動力としていますが、それはエリュシオンが『世界軸《アクシズ・ムンディ》』の通る聖地だからこそ出来ること。このような辺境の都市で、しかもたった一人の科学者の能力だけで運用仕切れるものではありません」
 シュタルケ博士の研究データから分かったことは、主に二つ。
 一つは、いわゆる『編年史の喪失』を経た今の時代の科学技術では、周辺地域の環境を制御する装置を造り出すことなど出来ないということ。
 そしてもう一つは、都市の周辺で起こっていた環境の変化に、ヴェステリクヴェレの『環境制御装置《ラケシス》』は関与していないということ。
「……ちょっと待て。だったら、『環境制御装置《ラケシス》』はいったい」
 クレーエは戸惑い口元に手を当てる。ジブリールは一つ頷いて、
「シュタルケ博士は、もともと管理教会《アパティア》で『巨大量子演算装置《アストレア》』のメンテナンスを行っていた技術者だったようです。塔の記憶領域に対する保護措置《プロテクト》のパターンが『巨大量子演算装置《アストレア》』とほぼ同じでした」
 どういう経緯があったかは解らない。
 だが、本来抜け出せるはずもない管理教会《アパティア》の中枢から逃れたシュタルケ博士は、学んだ技術を使って、この欧州の地で『環境制御装置《ラケシス》』創り出した。
 その機能は、周辺の環境変化を『予測する』こと。塔一つを使った旧式の電源装置では、その程度の機能を運用するのが限界だったのだ。
「待ってくれ。その、なんだ。つまり――」
「中央管理塔に製造された『環境制御装置《ラケシス》』は、環境を『制御する』装置ではなく、環境の変化を『予測する』装置だったということです」
 どこか冷たく聞こえる声で言うと、ジブリールは悔しげに口元を噛みしめた。握りしめた服の裾に、ぎゅっと皺が寄る。
「ラケシスと言う名を聞いた時に、もっと疑問に思うべきでした。ラケシスとは、ギリシャ神話に登場する運命の三女神モイラの一柱。運命の糸の長さを測り取り、全ての被造物の寿命を決定する彼女の名が現す意味は、『運命を測定する者』」
「なんだよ、それ」
 クレーエは思わず額に手を当てた。
 酒を呑み過ぎた後のように、くらくらと視界が揺れる。
「都市は初めから罪を犯していなかった? どうして、そんな勘違いが」
「原因はこれだ」
 ダリウスは言って、指の間に挟んだ封筒を投げて寄越した。
 封筒はくるくると回転しながら、クレーエの足元に落ちる。拾い上げたクレーエは、釈然としない思いでそれを見つめていたが、何を言っても無駄かと諦め、中の便箋を取り出した。
 開くと目に飛び込んでくる、流れるような筆記体の文字。しばらく読み進め――荒い手つきで封筒をひっくり返して、差出人の名前を確認する。
 手紙の差出人は――シュタルケ・ハイゼ。フレデリカの母親だ。
「これは」
「そう遠くない都市にある研究機関の教授に宛てられた手紙だ。シュタルケ博士は死の間際、開発途中の装置の効果と、取り扱い方法について記した手紙を、恩師である宛先の人物に送った」
 ヴェステリクヴェレには、先端科学に精通した者が他に居なかった。
 彼女の行動は当然のものだった言えるだろう。
 シュタルケ博士は、ヴェステリクヴェレ周辺の土地が持つ生産能力が、一進一退を繰り返しつつも、確実に衰えつつあると綴り、その対策として環境予測装置ラケシスを創り出したと手紙の相手に説明していた。
 豊作と不作の周期パターンから、都市が存続出来なくなるまでの期限が予測できれば、対策を立てることが出来る――病に犯された自分にはそこまで辿り付けないことを悟った博士は、恩師にその役目を託した。
 淡々と語るダリウスは、そこで「だが」と語気を強めた。低く唸るような声で、
「だが――頼りにしていた恩師は、ヴェステリクヴェレにやって来なかった。代わりに装置の運用を引き継いだのは、夫であるヴィクトール・ハイゼ。彼に科学に関する知識は皆無だったが、『ラケシスは都市を救う装置だ』という妻の遺した言葉を信じ、装置を起動させた」
 そしてその時、偶然にも気候のサイクルが移り、都市には豊富な恵みの雨が降り注いだ。
 対照的に、隣町のオスティナトゥーアは日照りばかりが続くようになり、それらの状況からハイゼ神父は思った。
 これら変化は、装置が天候を操作した為に起こったのだ、と。
 くしゃり、と手の中で便箋が音を立てる。
「全て、ハイゼ神父の勘違い? どうして博士はきちんと装置の機能の説明を……。いや、可笑しいのはそれだけじゃない。あんたの言うことが真実なら、天使はどうしてハイゼ神父の元を去ったんだ? 天使が去ったことは、ハイゼ神父が罪を犯していたことの何よりの証拠じゃないか」
「らしくないな」
 ダリウスは詰まらなそうに鼻を鳴らす。
「それでは順序が逆だ。天使が去ったから罪があったのではない。罪があったから天使は去ったのだ。忘れたか? 俺たち審問官に事の真偽は関係ない。天使は、『他者を踏みつけにしてでも自分の娘の幸せを得ること』を選択した神父の心根に失望し、彼の元を離れたのだ」
 低い声が途切れると、朝の陽ざしが降り注ぐ小さな丘に静寂が訪れた。クレーエはゆっくりと目を閉じると、強く口元を噛みしめ、
「どうして、彼らを裁いたのですか」
怒りに震える、細い女の声を聞いた。
「貴方は初めから知っていたのでしょう? 彼らの罪が勘違いによるものだと」
 ジブリールが、強い怒りを宿した瞳をダリウスへと向ける。ダリウスの表情は変わらない。ただ淡々と、
「今の俺は、そういう存在なのだ。病の原因を突き止め、化膿した病巣を取り除く。そういう一つの現象となったのだ」
 どこか疲れたようなその声に、クレーエは胸の奥がずきりと痛むのを感じていた。
 クレーエにはよく解っていた。それが、ダリウスの意志とは無関係に行われる、不可避の行為なのだということを。
「……手紙を受け取った恩師とやらは、どうしてこのことを知らせようとしなかったんだ?」
「来れなかったのだ。手紙が届いた時、教授は既に亡くなっていた。流行り病にやられたらしい。この封筒も、机の上に山のように積まれた手紙の中に埋もれていた」
「その教授、お前の知り合いか?」
「さぁ。どうだったろうな」
 ダリウスは微かに目を細め、遠い目で巨大な大樹の枝ぶりを見上げた。
 科学分野に縁の無いクレーエには、真実の程は解らない。
 だが、ずっと昔にダリウスから聞いたことがあった。かつて、彼がどこかの研究機関に所属していたことがあるということを。
 ――死者の願いとあらば、無碍にすることも出来ない立場でな。
 そう呟くダリウスは、運命の巡り会わせを嘆くように首を振った。
「どうだ? クロエ。今からヴェステリクヴェレへ戻り、このことを子供たちに伝えるか?」
 ダリウスが薄い笑みを浮かべたまま尋ねる。
 クレーエは眉間に皺を寄せた。いつもの癖で、口元に手を当てながら、
「この土地が衰え、作物を育てられなくなるまで、あんたは後どれくらいの時間があると考える?」
「せいぜい五年といった所だろう」
 間髪入れずに帰ってくる答えに、クレーエは思わず眉間に皺を寄せた。
 考える。
 リオとフレデリカの二人がこれから築いていくだろう、都市の未来を。

「ねぇ、ダリウス。まだ話が終わらないの?」

 思考の海に沈みかけた意識を、高い少女の声が引き上げた。
 小川のほとりに立つ女神像のすぐ傍に、褐色の少女が不満そうな顔で立っていた。
「話が終わるまで黙っていると約束しただろう」
「そうだけどさー」
 後ろ手に手を組み、不貞腐れたように唇を尖らせ、
「……なに?」
自分を見つめる視線に気付くと、あどけなさの残る顔を嫌悪に歪めた。
「貴女に一つ、聞きたいことがあります」
 ジブリールは、イグニスを氷のように冷たい目で見下し言った。
「貴方は、全てを知っていて都市を――中央管理塔に居た人々を裁いたのですか?」
「そりゃそうさ」
 イグニスは小馬鹿にしたように薄らと笑った。
「ダリウスが知っていることは、当然僕だって知ってる。ダリウスの審問結果に従って、執行を行うのが僕なんだから当然だろう」
「良心が咎めなかったのですか?」
「良心も何も無い。さっきダリウスが言ったろう? 僕たちはそういう存在なんだ。どうのこうの言われても困」
 言いかけたイグニスの顔の前を、何かが奔り抜けた。
 微かに光る刃の輝き。後ろの草群が、音を立てて爆ぜる。
 ジブリールが水の矢を放ったのだとクレーエが気づいたのは、イグニスの頬を一筋の赤い滴が滴り落ちるのを見てからだった。
「は……はははは」
 血のように赤く染まったイグニスの瞳が、サァッと殺意の光を宿す。
「今度こそ消し炭にしてやる!」
 叫んだイグニスは両腕を振り抜くと、女神像の周りに炎の渦を巻き上がらせた。熱気はクレーエまで届く。
 身の危険を感じたクレーエは、ジブリールを連れて逃げようと身体の向きを変え――
「いいでしょう。上等です」
目を瞬いた。
 静かな怒りを湛えたジブリールの冷たい横顔。
 その口元には、好戦的な笑みが浮かんでいる。
 ――やっぱり、こいつも堕天してるんじゃないのか。
 声を失うクレーエを振り返り、
「どうしますか? クレーエ。私は十分に戦えますよ」
「……馬鹿。こんなところで騒ぎを起こしたら、リオ達に気付かれちまうだろ」
 せっかくこっそり出てきたのに、とぼやきつつ、前のめりになったジブリールの後頭部を叩く。
「なんだ。やらないのか?」
 苦笑を堪えるように頬の古傷を歪めたダリウスが、からかうように聞いてくる。クレーエは仏頂面のまま、恨めしい気持ちでダリウスを見返し、
「リオ達には、このことは知らせない」
答えを、告げた。
「クレーエ!?」
 すぐ隣から響く抗議の声を無視して、続ける。
「あいつらは、装置に頼ることなく都市を復興させると誓った。五年という時間は少し短いかもしれないが、その中でもあいつらは、誓いを果たしていかないといけない」
 そうでなければ、あの日の審問法廷は全て嘘になってしまう。
 そう言うクレーエの心を見通すように、鳶色の目は矢のように細まり、
「ふん、面白くもない答えだ」
残念だとでも言うように首を振る。口元に笑みを貼り付けたまま、
「貴様らが今から知らせに行くと言ったとしても、俺は止めやしないんだがな」
「必要ないって言ってるだろ。俺だって審問官だ。ただの同情でこの都市の罪を見逃した訳じゃない。罪に対して罰が与えられた――真実はどうあれ、その誓いは揺るがない」
 クレーエは冷たくも聞こえる声で言い捨てると、唸りを上げるジブリールの腕を掴んで、横手に伸びる獣道へと足を踏み入れた。
「どこへ行く?」
「顔を合わせていれば、また殺し合いになる。お前らはもう俺たちの前に現れるな」
「はっ、嫌われたもんだ」
獣道を進むクレーエを、ダリウスは何もせずに見送った。イグニスも、不満そうに眉間に皺を寄せるも、追いかけてくる様子は無い。
 そうして、足場の悪い獣道をいくらも進まないうちに、
「クロエ」
再び、低い声に呼び止められた。
「まだ何かあるのか」
 もう一度くらい呼び止められるような気がしていたクレーエは、苛立ちを抑えるように頭を掻きつつ振り返り、
「お前に頼みがある」
胸に飛び込んで来た重たい衝撃に、たまらず数歩よろめいた。

   ※ 

 振り返ると同時に、胸元に飛び込んできた小さな包み……反射的に受け取ったクレーエは、ずっしりと重たい感触に戸惑い顔を上げた。
「これは?」
「ヴィクトール・ハイゼの聖遺物《レリクス》だ」
 ざわりと背中の毛が総毛立った。
「ハイゼ神父の? しかし神父は」
 思わず上ずった声が出る。
 聖遺物《レリクス》を持ち主以外の人間が持っているというだけでも珍しいことだというのに、しかもその聖遺物《レリクス》が、何年も前に審問官の資格を失ったハイゼ神父のものと来たものだ。頭も混乱する。
戸惑うクレーエにも構わず、ダリウスは無感動な瞳で、
「それを俺の代わりに、この巨大な榛の木《アール・キング》の根元に置いて来てくれ」
「……は?」
 ――話が見えない。
 思わず隣を見るも、ジブリールも目を真ん丸にして首を横に振っている。
 気の利いた言葉も返せずにいると、不意にダリウスが重たい息を吐いた。杖を器用に使って、身体の向きを変えながら、
「この巨大樹、可笑しいとは思わないか」
頭上を覆う巨大な榛の木《アール・キング》の枝ぶりを見上げた。
「辺りは砂漠か荒野だというのに、この木だけがぽつんと立って、その周辺だけが豊かな水源に恵まれている。その恩恵に縋り、ヴェステリクヴェレとオスティナトゥーアの二つの都市は、数々の大災害を乗り越えて来た。記録によれば、大樹がこの地に現れたのは、今から四百年前のことだそうだ。シュタルケ博士は、そもそも大災害をもろともしないこの大樹を研究する為に、ヴェステリクヴェレへとやって来たらしい」
 脈絡の無いように思える一人語り。戸惑っていると、ダリウスはゆっくりと視線を転じた。隣りで身を固くするジブリールを見やり、
「ガブリエル。シュタルケ博士の専攻が何だったか知っているか?」
「……ええ」
ジブリールは身を守るように自分の腕を腰に回し、
「『神の意志の力』の運用方法に関する研究――特に、聖遺物を原動力とした機械の」
 そこまで言うと、何かに気づいたように息を止める。
 ダリウスが微かに口の端を吊り上げたように見えた。
「そうだ。巨大樹の根元には、今から四百年前にある審問官が遺した聖遺物《レリクス》が眠っている。巨大樹《アールキング》はそこから『神の意志の力』を吸い上げ、これだけの大きさに成長することが出来たのだ」
 淀みなく語る声に、今度こそクレーエとジブリールの二人は言葉を失った。
 ダリウスは二人の反応に一度頷くと、核心へと話を進める。
「しかし、その聖遺物《レリクス》も寿命を迎えようとしているようでな。数年前に起こったという飢饉もその為だ。近いうちに『神の意志の力』は枯渇し、地下に安置された聖遺物《レリクス》は砕ける――『環境予測装置《ラケシス》』によって、都市に危機が迫っていることを突き止めたシュタルケ博士は、何とかそれを食い止めようとした。劣化した聖遺物《レリクス》の破壊は止められない。ならば、どうすればいいか。簡単なことだ。古い聖遺物《レリクス》の代わりに、新しい聖遺物《レリクス》を据えれば良い」
クレーエの脳裏に、閃くように先ほど目を通した手紙の内容が浮かんだ。
 二枚目の便箋には、確かこう書かれていなかったか。
『教授が研究材料として持つ、聖遺物《レリクス》を一つ譲っていただきたい』
「くそっ!」
胸の奥から衝動が込み上げてきて、クレーエは力の限り近くの木を殴りつけた。
「どうしてシュタルケ博士はそんな大事なことを都市の誰にも伝えなかったんだ! 装置の機能についてもそうだ。ハイゼ神父にラケシスが環境予測装置であることを伝えていれば、こんなことには」
「お前には解らないのか?」
「なに?」
 低い声に、クレーエは半ば八つ当たりのようにダリウスを睨んだ。ダリウスは僅かに嘆息すると、淀みない声で続ける。
「聖遺物をこの世に遺す方法は、ただ一つしかない」
 そんなことは知っている、と怒鳴り散らそうとして、クレーエは言葉を飲み込む。――何か、見落としがあるのか?
 聖遺物は、審問官の死と共に砕け散るのが通常だが、それを遺産として後世に残す方法が、ただ一つだけある。
 それは、審問官が命を終える際に天使の力の全てを聖遺物に篭めること。
 審問官の命と、天使の魂を代償にすることで、一代限りの奇跡を、後世へと引き継ぐことが出来る。
「まだ解らないか」
 ダリウスが静かに口を開く。
「シュタルケ・ハイゼの夫は審問官だ。都市を救うには聖遺物が……もっと単純に言えば、審問官とその天使の命が必要になる。そうなれば、話はもう見えてくるだろう」
「――っ」
 ぎり、と噛みしめた歯が軋み、音を立てる。
 強く拳を握り締め、俯く。
「なんだよ、それ」
 こんなことが、あるだろうか。
 全ては悲しい擦れ違い――どうしてか、就任式前夜のシャロンの顔が頭に浮かぶ。
「俺は、知り得る全ての真実をヴィクトール・ハイゼに告げた。それを知ることが奴の願いであり、償いだったからだ。そして」
 ハイゼ神父は、十字架に縄をかけ、自らの首を括った。
 滅びに向かう都市に、己の聖遺物《レリクス》を遺すために。
「待て」
 語り終え一息ついたダリウスを、絞り出した声で引き止める。きっと、今の自分は酷い顔をしているだろう、と思いながら、
「まだ疑問が残っている。ハイゼ神父は、もう随分前に審問官としての資格を失っていたはずだ。聖遺物はおろか、天使も宿していなかった」
「そうだな。俺もそう思っていた。だが、真実は違ったのだ」
 クレーエの問いに、ダリウスは表情一つ変えず、
「ヴィクトール・ハイゼの天使ケントニスは、罪悪を戒めるため、宿主の元を去った。しかし――天使はそれでも、ずっと傍に居たのだ。宿主が真実に気づき、己が罪を償う日が訪れることを信じて」
 そして、その時はついに訪れた。
 堕天審問官の導きにより、償いの時を迎えたハイゼ神父の元へ、天使ケントニスは姿を現す。
 それは、恐らくハイゼ神父が、そして天使ケントニスが、心から願っていた瞬間で、
「その結末が、これか!」
吐き出した怒声は、周囲の梢をざわざわと揺らす。
 疑問に思ってはいた。
 何故、ハイゼ神父が己の人生の幕切れに、聖職者として最も忌避すべき自殺を選択したのか。
 その疑問の答えを、まさかここで聞くことになろうとは。
「確かに、予想も出来なかった結末だ。だが、最も大きな誤算は、奴が俺に聖遺物《レリクス》を頼む、なんて言い残しやがったことだ」
 それまでの口調を一転、ダリウスは恨めしそうにクレーエの胸元にある小包を指さし、
「生憎と、死者の望みには逆らえないのが今の俺でな。仕方なく聖遺物を地下の神殿まで運ぼうとしたのだが、途中で気づいた。俺では、大樹の根元、地下深くにある神殿まで辿り着けないことに」
「だろうな。イグニスの炎では、巨大樹ごと焼き払ってしまいかねない」
 そういうことだ、とダリウスは一つ頷いた。
「地下道は巨大樹の根が入り組んでおり、天使の助力は不可欠だった。だから、都市の罪を見抜けたなかった罰も兼ねて、あの木の奇跡《エレメンタム》の天使を宿したガキにやらせようと思ったんだが」
 言葉を切ると、疲れたように息を吐き、微かに笑う。
「上手くいかないものだな。あいつらは俺の姿に、裁かれるべき罪を思い浮かべることしか出来なかった」
「……そりゃそうだろう。あんな風に追いかけられちゃぁな」
 クレーエは苦々しい思いで呟く。
お前に追いかけられれば、誰だって自分の罪をあらいざらい懺悔したくなるだろう、という言葉を飲み込んで「それでも」と続ける。
「リオは最後に答えを出したろう」
「ああ。とんでもない方法まで使ってな。だが、その答えは俺が認めるわけにはいかないものだった」
『現在は、過去により復讐されることで、未来へと進むことが出来る』
 そう唱えるダリウスにとって、未来の行いによって罪を償うというリオの答えは受け入れられるものではなかった。
「肯定などすれば、俺の論理が崩壊する」
 ダリウスは聞こえるか聞こえないかという声で言った。
その呟きは、彼には珍しい弁解の言葉のようにクレーエには感じられた。
 ダリウスもそれに気づいたのだろう。バツが悪そうに頭を掻き、
「喋り過ぎたようだな。俺の話はそれだけだ。後は任せたぞ。ガブリエルの水の奇跡《エレメンタム》なら、それを地下まで届けるくらい、造作も無いだろう」
 いくらか気安い口調で言うと、ダリウスは杖を頼りに丘を下り始めた。ぎこちない歩みが向かう先には、荒涼とした赤土の荒野がどこまでも広がっているはずだ。
 影を追いかけるように、ジブリールが前に出る。
「私たちがさっきの話をヴェステリクヴェレに知らせに行くと言ったら、貴方はこの聖遺物をどうするつもりだったんですか!?」
 ダリウスは振り返らない。
 ジブリールはしばらく答えを待っているようだったが、返事がないと解ると「全くもう!」と頬を膨らませた。
「どうするつもりだったのか、か」
 クレーエには、ダリウスの考えが解るような気がした。
 もし、都市に纏わる罪が勘違いだったのだと伝えれば、リオがダリウスと交わした『都市の復興の為に未来を捧げる』という誓約は意味を失くす。
 しかし、意味は失くしても誓約を立てた以上、効力は無くならない。他の審問官ならまだしも、ダリウスは絶対に誓いを反古にすることを許さないだろう。それは、彼が背負った誓約から考えてもそうだ。リオは真実を見抜けず、塔の研究員たちを、父アーダルベルトを死なせてしまったことに責任を感じている。
 だから、ダリウスはリオに種明かしをしたく無かったのだ。犠牲になった人々が道化になってしまわないように。精一杯のリオの誓いを汚してしまわないために。
 そして、見てみたいと思ったのかもしれない。光に背を向けてしまった自分では辿り着けない、幸多き未来――リオとフレデリカ、二人が手を取り合って創っていくであろう、新しい都市の在り方を。
 それはきっと、リオに希望を託したアーダルべト市長や、都市の未来の為に命を捧げたハイゼ神父も同じで、

 彼らの気持ちが理解できてしまう、クレーエもまた――。

「そこの浮浪者! おい!」
 耳障りな喚き声に顔を上げると、遠ざかるダリウスの隣に、ぶんぶんと手を振るイグニスの姿を見つける。
「決着はまだついていないからな! 勘違いするなよ、クロエ・シュトラウス! 薄汚い浮浪者め! お前には腹黒のガブリエルがお似合いだ!」
「――なんですって!?」
 ジブリールが柳眉を逆立て、前に出る。クレーエは小さく吹き出すも、すぐに精一杯の不敵な笑みを浮かべて、
「いいぜ。いつでも来いよ。クソ堕天使。それまでせいぜいダリウスをとり殺さないよう気を付けろよ」
「誰が宿主を殺すか。クソ審問官! お前、本当に口が悪くなったな!」
「それはお互い様だ」
 イグニスが両手で口を横に引っ張って、いーっと舌を出す。
 血のように赤い瞳は、幼い少女の顔に不釣り合いな鋭利な殺意にギラギラと輝いている。
 ふと思った。
 この世界の節理から外れた存在である彼女もまた、数奇な運命の巡り会わせの犠牲者なのかもしれない、と。
「――思い出を過去の幻想として埋葬出来ない限り、孤独の亡霊は荒野を彷徨い続けるだろう」
 不意に流れた低い声。
 予言めいた言葉は、独り言のようにも別れの言葉のようにも聞こえる。
森を抜けたダリウスが立ち止まる。一本だけの腕を掲げて、
「天を目指せ、クロエ! 各遊星を巡って至高天《エンピレオ》へと至り、世界の果てに何があるのか見てくるといい!」
 風を受けて、厚手の僧服が翻る。
 その背中に、クレーエはいつか別の森で見た審問官の幻を見た。
 ――おい、怪我はないか?
 頭上から響く、低く太い声と共に差し出された、節くれだった大きな掌。
 ――馬鹿。泣くんじゃねぇよ。ガキは苦手なんだ。
 何よりも恐ろしく、同時に何よりも憧れた男の姿を。
「次に会うのは、管理教会本部《エリュシオンの園》――アストレアの玉座の前だ。そこでどちらが神を担うに相応しいか、審問対決といこう!」
 クレーエの声にも振り返ることなく、虚ろな影は眩しい朝日の中に吸い込まれて、燃え尽きる様に消えて行く。
 二人を見送るジブリールの目は何だか悲しそうで、クレーエはその頭に、ぽんと手を置いた。
「心配いらない。あいつはいつか見つけるさ。自分の罪の償い方も、過去への折り合いのつけ方も」
 ジブリールはしばらくの間、何も言わず森の向こうを見つめていた。ゆっくりと薄い唇が開き、
「彼は、貴方と同じです」
押し殺した声で囁く。
 クレーエは自分の節くれだった手を見下ろした。確かにそうかもしれない、と笑って、
「そうだな。あいつは、俺だ」
「そういうことではありません」
 そう言って振り返ったジブリールの張りつめた瞳は、光の加減だろうか。ゆらゆらと揺れているように見えた。
「神が造りたもうた完璧な世界に、どうして堕天審問官という異端の存在が許されているのか、貴方は考えたことがありますか?」
「……いや」
「彼らの存在は異端ではありますが、想定外ではない。一端末でしかない天使は、母体であるアストレアの意志に逆らうことが出来ません。例え、アストレアが暴走し、人という種を滅ぼそうと考えても、止めることが出来ないのです。しかし、システムの支配の外にある堕天使には、それが出来る。堕天使とは、一つの安全装置なのです」
 ジブリールはそこで口を噤み、クレーエを見上げた。翠緑色の瞳は、とても苦しそうで、
「強力な力を行使することが出来る代償に、短命となるのもその為です。抑止としての役目を果たした堕天使は、それ以上世界に害悪を及ばさないように自己崩壊を起こして消える。必要悪――彼女という存在、その苦しみもまた、神が配置した正しい道へと至るためのプロセスの一つなのです」
「……それが、どうして俺と同じなんだ?」
 問いかけと共に落ちる沈黙。しかし、長くは続かない。
「神は世界の裁定を行う証人として、二人の人間を自身の目とし、耳とすることを選びました。一人は、システムの真実を知りながら、それを否定した貴方。そして、もう一人が――」
荒野から吹き込んだ渇いた風が、ジブリールの声を掻き消す。
 全ては、神の掌の上――。
 そう囁くジブリールは、今にも泣き出してしまいそうで、
「お前がそんな顔するなよ」
少し乱暴にジブリールの頭に手を載せ、無理やり視線を下げさせる。滴となって零れていく暖かな涙。ぎゅっと口元を噛みしめる、震える唇。
 それらを見下ろし、クレーエは穏やかに目を細める。
「なぁ、ジブリール。俺たちにしてみれば、神様の思惑なんてのは、どうでもいいんだよ。そりゃ、踊らされていると聞いて面白い気はしないが、それと引き換えに世界の運命を変える権利が得られるっていうんなら、是非もない。釣り合いは取れてる。それより」
 一拍の間をおいて、
「お前はどうなんだ」
 何を、とジブリールが視線で問い返す。そこに先ほどまで浮かんでいた涙の痕は見当たらない。
「お前は、神様の思惑って奴が気に入らないんだろ? だったらどうしてここまで俺を追いかけてきたんだ?」
「……理由は、二つあります」
 白魚のような細い指が、二本、立つ。
「一つは、女神から人が背負った罪の重さを学んで来なさい、と命じられたから」
 そっと表情を和らげ、
「貴方は言いましたね。人は、自らの意志で罪に向き合わなければならないと。ただ罰を与えられるのを待つのではなく、自らの意志で償いの道を見つけなければならないと。だから神は、学ぶことにしたのです。人の痛みを。苦しみを。嘆きを。本当に正しい裁定を、自らの意志で下すために。その目となり耳になるために、神は私を遣わされました」
 ちらりと自分の薄汚れた姿を見おろし、「おかげで、こんな苦労を背負い込むことになってしまいましたが」と苦笑交じりに言う。
「そして、もう一つの理由は、貴方を独りにしないで欲しいと、私の大切な人に頼まれたからです」
 二本になった指の向こうで、ジブリールはどこか困ったような顔で笑っていた。情けなさそうに、そして、少しだけ誇らしそうに。
「彼女の願いとあらば、聞かない訳には行きません。……天使って、そういうものなんですよ」
「――……そうか」
 クレーエは何も言わず、ジブリールに背を向けた。背後で、そっと息を吸う気配がする。
「私は天使。穢れを知らず、生き物を殺し摂取することなど無い存在。しかし、私は罪を犯し、欲にまみれ、それでも生きたいと願うヒトという種を愛しています。彼らと共に生きてみたいと思っています。そして、貴方が出す答えを、彼女に変わって誰よりも近くで見届けたいと、そう願っています」
「期待外れに終わるかもしれないぞ」
 出来る限り真剣な表情で言ったつもりだった。しかし、ジブリールはクレーエの顔を見ると、全てお見通しという顔でくすりと笑って、
「構いません。私は、正しい答えが知りたい訳じゃない。貴方が出す答えが知りたいのですから」

■□幕間5

 ――こうして、二人はこの都市を去った。現れた時のような唐突さで、たった一言の別れの言葉さえ言わずに。

 残された私は一人、焼け残った教会のつるつるした長椅子に座って、崩れつつある十字架を見上げている。
 考えているのは、朝方息を引き取った女性のこと。

「修道院の子供たちは、無事に逃げられたでしょうか」
 粗末なベッドに横たわる女性は、酷く掠れた声で囁いた。
 昏睡状態から三日――洗面器の水を取り替えに来たフレデリカは枕元に駆け寄ると、息を殺して耳を澄ます。
「オスカーの用心棒を引き受ける代わりに……修道院に援助をお願いしていて……ルチェルトラも、私の我がままを、聞いてくれて」
何かを求めるように伸びた手を、反射的に掴む。
 横たわる女の身体は瘧のように震えていて、ぽつりぽつりとうわ言のような声を漏らす。
「シスターは、逃げられたでしょうか。ミハエルは。ラルフは無事に」
「それ以上喋ってはダメです!」
 たまらず声を振り上げると、レオパルトと呼ばれていたその女性は、緩やかに首を振った。
「……いいのです。地獄へ堕ちる覚悟は、出来ています」
「地獄なんてそんな。きっと天国へ行けます!」
 自分で言っておきながら、ありきたりな言葉だ、と思う。
 フレデリカはこれまでも何度か、病人の死を看取ったことがあった。今から数年前。都市に伝染病が蔓延した時に、病院をあぶれた患者を、教会で受け入れたのだ。
 教会に運び込まれたのは、もう助かる見込みの無い、あとは死を待つだけの患者ばかりだった。
「貴方は、私のことを何も知らないから、そんなことが言えるのです」
 振り絞るような声で、女は言った。
 じっとりと濡れた包帯に巻かれた手は触れているだけでも熱くて、彼女が熱にうかされているのだということが解る。
 けれど、彼女の薄い唇から漏れる声は酷く落ち着いていて、そして、深い悲しみに満ちていた。
「あの子たちには、こんな生き方しか知らない私とは、違う生き方をして欲しかった。人間として、生きて欲しかった」
 包帯で巻かれているので、表情は見えない。
 いつか夜の屋上で見た、美しい銀髪も、ネコ科の動物を思わせる金色の瞳も。
 許して下さい、と震える口元から、熱い吐息が漏れる。
 私が取った方とは反対の手が、何かに縋るように天へと伸ばされる。けれど私の腕は一本しかなくて、両方の手を取ることは出来ない。
「私は、ヒトではない。私たちは、山狗の子……人の心を理解できない、獣の子」
「そんなことありません……! だって、だって今の貴方は」
「フレデリカさん。神様は、人でなしの私にも……慈悲を、与えてくれるでしょう……か」
 目元に巻かれた包帯が、じっとりと濡れる。女性は涙を流しながら、息を引き取った。
 人の心を持たず、それ故に獣の心しか持たない己に罪を意識を抱き、怯え、祈るようにしてこの世を去った、一匹の獣。きっと追い立てられるような恐怖に怯え、抱え切れない程の罪を犯して来たのだろう。
 そんな彼女を、神様は自業自得と笑うだろうか。
「きっと、許してくれます」
 思い出すのは、夜の教会で一心に祈りを捧げる彼女の姿。あの日、彼女は「こんな私にも神は慈悲を与えてくるのでしょうか」と問うた。
 濡れた包帯を取り除き、まだ暖かさの残る銀色の髪に触れる。聞く者が安らいでくれるように、精一杯の穏やかな声で、
「神様は、貴方を許して下さるはずです。だって、ここで祈りを捧げる貴方の姿は、見惚れるくらい美しくて、神様に近い場所に居るように見えたから」
 哀れなほどに魂の救済を求めた、獣の仔。

 彼女が罪人だというなら、私は――。

   ※



 失くした腕が疼いて、私は一本きりの腕を抱え込むようにして、椅子の上で膝を抱えた。
 たった一度の殺意は、私から大くの希望を奪い去った。
 機械工になるという夢を。
 二人で海に行くという約束を。
 かつて追いかけていた無数の星は見えない。
  ――ああ。
今の私は、中途半端に燃え残ったあの十字架のようだ。もはや与えられた役割を果たせないのに、不格好に燃え残って、惨めにぶら下がっている。
 こんなことならいっそ、全て焼け落ちてしまえば良かったのに。
「フレデリカ」
 躊躇うような声に振り返ると、半ば崩れた入り口にリオが立っていた。
 私はさっと視線を逸らし顔を俯ける。
 見られたくなかった。きっと、今の私は酷い顔をしているから。
「ここに居たんだ。僕も、少しいいかな。しばらくお祈りをしていなかったから」
 松葉杖が床板を突く音が、少しずつ近づいてくる。私は零れ落ちそうになる涙を堪えるのに精いっぱいで、顔を上げられない。
 随分苦労して、リオは私の隣に腰を下ろす。私は顔を俯けたままそっとリオを見た。顔を上げると、涙が零れてしまいそうだった。
「……お葬式には、行かなくていいの?」
「うん。まだ起きて歩くには辛いから」
「アンドレアス神父、一人で大変だと思うわ」
「そうだね。けど、本当に大変なのはこれからだから。早く怪我を直して、僕も手伝わないと」
 少しキツイことを言って追い返してやろうと思ってたのに、リオは涼しい顔でほとんどが割れて無くなったステンドグラスを見上げている。
 その顔は、どこか誇らしげで、清々しい光に満ちていた。
「さっき街の人に聞いたんだけど、クレーエさんとジブリールさんが、都市を出たみたいだって」
「……私も聞いた」
「一声掛けてください、ってあれだけ言ったのに。クレーエさんは意地悪だよね」
「うん」
 それは、本当にそう思う。クレーエは、本当に意地悪だ。今朝になって、ようやくきちんとお礼を言おうと決心出来たのに、たったそれだけのことさえさせてくれなかった。
 首を振ったら涙が落ちて、それからまた一粒、二粒、と涙が溢れ出す。「ああもう」と腹立ち紛れに呟いて、乱暴に目元を拭った。
 リオが穏やかな視線を向けている。
「ねぇ、フレデリカ」
「……っ、何よ」
「泣かないで」
 優しい声といっしょに、強く抱き留められる。
 あまりのことに私は呼吸さえ忘れて、時が止まったかのようだった。拭っても拭っても溢れ出していた涙までもが、ぴたりと止まっている。
 ぽん、と背中に暖かな掌が触れる。
「君は一人じゃない。ずっと、僕が傍に居るよ」
「――うっ」
 その声で全てが崩れた。私が必至で築いていた防波堤はあっさりと破られて、堪えていたものが封を切ったように溢れ出す。
「あああああぁぁぁあっ!」
 真っ白になった頭の中に、たくさんの大切な人たちの顔が浮かんでは消えていった。
 


 あの時、たくさんの篝火が揺らぐ冷たい屋上で、リオはあの恐ろしい処刑人を前に誓った。
「僕はこれからの人生を、都市の復興、そして二つの都市の和解の為に捧げることで、罪を償おうと思います」
 私は朦朧とした意識でそれを聞きながら、悔しさに口元を噛み締めていた。
 リオがその決断をすることになったのは、私を守るため、彼が塔に戻ってきたから。リオにとって、私とこの都市に居続けることは、犯した罪を償うために与えられた罰だった。

「止めて」

 私は声を大にして叫びたかった。
 私は誰かの重荷になんてなりたくなかった。
 本当にやりたいことを我慢してまで傍に居て欲しいなんて願ったことは無かったし、そんなことになるくらいなら、あの『大禍』に裁かれて消えた方がよっぽどマシだった。
 私の想像上にある未来のリオと、父さんの最期の姿が重なる。
 私を生かすために、償い切れないたくさんの罪を背負って逝ってしまった父さん。
 私と母さんの何よりの誇りだった、天使の加護さえ犠牲にして、最期は自ら十字架で首を吊った、私の最後の家族。
 この先、私の薬が足りなくなった時、リオはどうするだろう。
 再興に向かう都市の中で、自由になるお金はほんの僅かしかない。
 日々を過ごしていく中で、それでもリオの肩の上には、清らかな天使の光が浮かんでいるだろうか。 
 彼は管理教《アパティア》会に行かなければならなかった。立派な審問官になって、多くの人を救わねばならなかった。
 私たちを庇って亡くなった叔父様だって、そう願っていた。それなのに――。
「ゴメンね、リオ」
「どうして謝るの?」
 泣きじゃくる私をあやすようにしながら、リオが不安げな目で尋ねる。
 私は、彼に一つだけ嘘を吐いた。
 薬がどれくらい残っているかと聞かれた時、私はあと五年は大丈夫だなんて言ったけれど、実際はそんなに持たない。もう一年も経たないうちに、薬は尽きるだろう。
 父さんもきっと、そのことが頭にあったから、エスカレートするオスカーさんの行動を止めることが出来なかったのだと思う。
 あと一年。
 それだけの時間で、都市を復興させることは、きっととてもとても、難しい。

――ねぇ、リオ。

 これから頑張って都市の為に働いて、一年が経ったら、二人でそっとこの都市を抜け出して、海を見に行こう。
 そうして、波打ち際に二人横たわりながら、私はリオに看取られて死ぬ。
 それは、とても良い考えのように思えた。少なくとも、無理に命を引き延ばしてリオを苦しめるよりはずっといいはずだ。
 だから、リオに付いている天使様。
 どうかそれまでの間、私を裁かないで。
 貴方が守るリオから大切な時間を奪う事になるけれど、もう少しだけ、私に時間を下さい。
 自分勝手な考えだとは解っています。
 けれど、それでも――。

 ひび割れた窓から覗いた外の世界は、これまで過ごしてきた場所と全く違って見えた。
 どこにも希望の星は輝いてなくて。昏く深く、地の底のような夜空が、どこまでもどこまでも広がっていて。
 そして、
「フレデリカ?」
 月だけが、優しく私を照らしている。
「どうして、泣いてるの?」
「ううん。なんでもないの」
 朝露を吸った柔らかな金髪に、ぎゅっと頬を押し付ける。
 きっと、私の元に天使は永遠に訪れない。
 私はリオを縛り続け、リオの未来を奪い続ける。それは何よりも罪深いことで、私にはもう、心から安らげる時は来ないのかもしれない。
 それでも。
 神様。どうか、お願いします。
 この罪深い魂を、私の全てを捧げますから。

「ゴメンね、リオ」

 どうか私の我儘を、あと、もう少しだけ――。





fin.





(>∀<)ノぉねがいします!




――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき(仮)


 死闘を戦い抜いた強敵が今、常世の世界に沈んで行こうとしています。
 それは僕にとって厳しい父であり、優しい母であり、愛しい子、あるいは好敵手でした。
 ずぶずぶと沼の中に沈んでいきながら、それが叫びます。

「お前は戦いの運命からは逃れられない。私が倒されようと、第二第三の私が」

 という妄想をしていました。こんにちは。舶来でございます。
 遂に、遂にこの時がやって来ました。二年間に渡る戦いの果てに「審問執行のアストレア」完結です!
 長い物語でした。皆様、如何だったでしょうか。

 いろいろと思いはありますが、今はラストまで書き終えた充足感でお腹いっぱいです。
 出演者一同も、舞台裏でほっと一息をついていることと思います。
 彼ら全てが、いろいろと酷い目に合わせたりしてしまいましたが、僕にとっては誰もが愛すべき子供たちです。(「お前の愛は歪んでる」とか言わない。)

 長編オリジナルの小説としては、「逆行カノン」から続いて二作目となった本作。(未完を含めれば三作目)
 前作が完成まで三年かかったことを考えれば、一年も時間が短縮したことになりますが、「逆行カノン」は一度書いたものをプロットから分解して再構成、大幅に書き直ししたものなので、最初に立てたプロットのまま走り切った本作とは作成までのプロセスが全く違っていたりします。

 今思うと、もっとプロットを詰めて調整しておけば、という思いもありますが、自分の書きたいことは全て書けたのではないかとも思っております。あとは、もっともっと贅肉を削ぎ落として、物語の骨格を浮かび上がらせれば、きちんとした物語にはなるのではないでしょうか。なって欲しいな。ホントにお願いだから。

 今思い返しても、そんなに必要のないシーンでも「書くかどうか迷ったら書く」というスタンスでやっていたので、酷く効率の悪い書き方をしてしまっていたなぁ、という思いです。その分、物語への理解が深くなったりもしたのですが、このような実験を皆様に公開する小説でやるのは適切でなかったように思います。

 二年間も追いかけて下さったほんの僅かな方々には、心からお詫びさせていただきます。

 申し訳ありませんでした。

 そして、何より感謝の言葉を。最後まで付き合ってくれて、本当にありがとうございました。
 
 皆さんからいただいたウェブ拍手が、一言コメントが、僕に大きな力をくれました。
 たった一つの拍手でも、誰かが見ていてくれているという実感は僕の心を突き動かしました。

 本当に本当にありがとう。

 そして、必ず本作を贅肉の無いシャープな「小説」にしてみせると、ここで誓います。
 まだ終わらんよ!

 さてさて。
 なにはともあれ、これで完結した小説は二本目。
 手元の回転式拳銃に篭めた弾丸は、二つになりました。
 今年はこの二発の弾丸を最大限生かして、外の世界で闘っていきたいと思います。

 詳細な振り返りは後日するとして、本日はここで一先ず筆を休めたいと思います。
 世界観の補足、テーマの説明、設定の理由、登場人物たちのその後なども、つらつらと書いていけたらと。

 申し訳ありませんが、いただいているコメントへの返信は、次回で!(これからのことは、次回話をするのが良いかと)
 第三の強敵が芽生えつつありますが、それはきちんと休息を取って(積りに積もったやるべきことを片付けて)から挑みたいと思います。

 ではでは。ここまで読んで下さった皆様に、重ねて最大限の感謝を。ありがとうございました! 


2013年4月10日 舶来









(>∀<)ノぉねがいします!



<前へ   表紙へ   トップへ   次へ>