闇の中で、蝋燭が燃えている。 淡く、柔らかな光が、部屋の至るところで、ぼぉ、と闇の中に浮かんでいる。 「報告は以上でございます。我らが姫君」 太く、大きな声が空間を揺さぶる。男は時代掛かった大げさな仕草で、恭しく頭を垂れた。 手に嵌めた手袋が、漆黒の外套に包まれたドレスシャツの白が、闇の中で百合の花のように鮮やかに揺れる。 「全ては、御心のままに」 病的なまで色が白く、堀の深い顔立ち。中世の大貴族の様な礼服に、威厳溢れる振る舞い。ちらり、と見えた、外套の裏地には鮮血の様な赤色。褐色の髪は長く、肩甲骨の辺りまで波打つように流れている。 それはまるで、絵画の中からそのまま出てきたような……。そう、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』でイメージされる姿そのままだ。“吸血鬼伯爵”という言葉ほど、この男を言い表すのに適した言葉も無い。 見た目は壮年といったところだが、年齢を感じさせないほどの生気がその男には溢れていた。 「大体の流れはわかった。……して、結局のところ、成果はあったのか?」 かしずくように頭を垂れる男に、鈴の鳴るような、少女の美しい声が応えた。 「それはそれは! もちろんで御座います。麗しきアルトルージュ・ブリュンスタッド!」 赤い瞳が大きく見開き、男は前に進み出た。 求婚の詩を歌い上げるオペラ歌手のように。あるいは、神を崇める熱狂的な信徒のように。 両手を大きく広げ、男は芝居がかった大仰な仕草で、彼の主を讃える。 「この者が、“ヒーシ”の場所を突き止めました。何の憂慮も要りません。事は順調に進んでおります」 伏し目がちに粛々と、しかし誇らしげに低い声を響かせる。そして、 「――おい、貴様。異論はないな?」 それまでの恭しい仕草は一転、男は隠しようも無い侮蔑の視線を足元に走らせた。 「は、はい。無い、です」 床一面に敷き詰めた赤い絨毯。そこに額が突くほどに深く跪き、若い男は震える声で応えた。 「ほぅ、そうか。思ったより早い展開だな」 「喜んでいただけて何よりでございます。姫君」 足元に傅く下僕を見下ろしていた侮蔑の視線を一転、男は顔を上げると満足げに首肯した。 「して。ロブ……といったか?」 「は、はい」 軽やかな少女の声に応えて、若い吸血鬼は顔を上げる。その途端、 「貴様……ッ!!姫の前でその汚い顔を上げるな!!」 雷のような怒声と共に、凄まじい衝撃がロブを襲った。 「ぐげ……ッ」 踏み潰された蛙の様な声を漏らし、ロブの身体が凄まじい力で床に押し付けられる。 何が起きたのかも解らず、ロブは猛烈な重圧の中、困惑に視線を彷徨わせた。 「身の程をわきまえろ! 下郎ッ」 息も絶え絶えに、声のする方に視線を移す。そこには、拳を握り締め、侮蔑の目でロブを見下ろす男の姿があった。 「げぇ、ぇ」 男は手を触れても居ない。だというのに、不可視の重圧がロブの全身を砕かんばかりに、押しつぶしている。ロブは請うような視線を男に向けるが、怒りに染まった顔に慈悲の色は微塵も存在しない。 ごきり、 音を立てて、体中の骨が砕けていく。 「――良い。フィナ・ヴラド・ツヴェルテン。我が従順なる騎士よ」 怒りを顕にする男を、少女の声が制止した。 「は、しかしながら――」 「功績を挙げた下々の者を労うのも王族の勤めだ。そう熱くなるな」 「は。――ふん、姫君の慈悲に深謝しろ」 ロブを押しつぶしていた、不可視の重圧が消え去る。 「顔を上げろ。我が僕」 ちゃぽん、 水の中に、何かが落ちる音が響いた。 ロブは、恐る恐る顔を上げる。 「……」 ロブの跪く場所と部屋の半分から奥を遮るように、白いレースが引かれている。汚れ一つ無い、綺麗な白。 その奥に、シルエットが映っている。床に置かれた、船の様な形をしたシルエットと、そこに横たわる少女の影。 ちゃぽん、 浴槽に満たされた水面が揺れ、音を立てる。 「……っ!」 白い布一枚を隔てて、バスタブに少女が浸かっている。 どこか扇情的なその光景に、ロブは、思わず息を呑んだ。 「――おい貴様。姫君のご好意だ。謹んで請け給え。だが、貴様の、その……! その下賎な瞳で姫に穢れた視線を向けてみろ……!その時は……!」 「め、滅相もございません!!」 死徒二十七祖、フィナ=ヴラド・ツヴェルテンの大気を震わせる怒声に、ロブは泣き叫ぶように返事を返した。 「だから、よいと言っているだろう。フィナ」 どこかうんざりとした様子で、少女が言う。 「失礼しました。麗しき姫君。……ところで、貴様。もう一匹の方はどうした? 姿を見ないが。確か、ヴォロゾフと言ったか」 「それが、逸れてしまってからは行方がわからなくて……。向こうからの連絡も無いですし……」 話しているうちに興奮してきたのか、ロブは拳を握り締め、勢い込んで喋り出した。 「そ、そうだ、兄貴を助けてください! きっと、俺を待ってる!」 泣きそうな顔で、フィナの足元へと縋りつく。足に触れたロブの手を見下ろして、フィナは嫌悪感も顕に顔を顰めた。 「……貴様。見苦しいぞ。黙れ」 「お、お願いします……!! 捕まっているのかもしれません。お願いします。今ならきっと……!」 「黙れと言っているのが……!」 取り乱す若い吸血鬼に、苛立ったフィナが、腰元のサーベルに手を伸ばそうとしたその時、 「――ああ、あの男のこと? あれは消滅したわ。もう灰さえ残っていないでしょうね」 薄い笑みさえ含ませ、姫君――アルトルージュ・ブリュンスタッドは感慨も無く言い捨てた。 「兄貴、が? そんな、馬鹿な」 ロブの身体から力が抜け、その場にへたり込む。 「本当だ。昨日の晩、私との契約が一方的に破棄された。つまり、殺されたということだな」 くすくすと、少女は笑う。シルエット越しの細い肩が、小刻みに震えている。 「ということは、殺したのはエミヤシロウということですな」 触れていたサーベルから手を離して、白騎士が言った。 「そういうことだ。シナリオが少し早まっているようだ。あれも意外と鼻が利く」 ばしゃり、 弾むような水音を立てて、アルトルージュが湯船から一気に身体を起こした。すかさず、控えていた侍女達が少女の身体をタオルで包み込む。 「では、“ヒーシ”へと赴くとするか。聖杯もすぐ目の前だ。なぁ? 魔術師?」 「仰るとおりでございます。姫君。杯の復元も、まもなくかと」 部屋の隅で、老人の声が響いた。 「聖杯は必ず、姫君の手に」 小さなシルエットが、闇の中から進み出る。 全身を包み込む黒いローブ。白髪交じりの頭髪。背は曲がり、頬は扱けているが眼光だけが妙に鋭い。 ぎょろり、と大きな双眼を蠢かせ、老魔術師はここぞとばかりに前へ出た。 「ふふふ。東欧のような失敗は無い、と? 頼もしい限りだ。なぁ? フィナ」 「……はい」 部屋の隅で頭を垂れる老魔術士を、白騎士は鋭く睨みつける。老魔術師は、その視線を知ってかしらずか、爬虫類のような顔を緩ませたまま、ニヤニヤとした笑みを崩さない。 ――その媚を売るように笑みには虫唾が走る。 湧き上がる殺意を押し殺し、フィナは彼の姫君の元へと視線を戻した。 「服を――」 アルトルージュが短く命じると、侍女が一組のドレスを掲げて現れた。 「……ん? またこのデザインか? 違うのは無いのか」 仕切りの向こうで、アルトルージュが眉を顰める。侍女達が戸惑っているのが気配で感じられる。 「し、しかし、フィナ様がこれを、と」 恐る恐るといった様子で、侍女の一人が応えた。 「フィナが? おい、フィナ。どういうことだ。これは」 剣呑なアルトルージュの声に、従順な騎士は、顔色一つ変えることなく静かに頭を垂れると、 「それが、姫君に最も似合うお召し物に御座います」 確信の篭った声で、そう断言した。 「またか。フィナ。なんだこの無駄な装飾の付いたドレスは。私はこのフリフリの付いた服が嫌いだと、何度言ったら……」 「何を言っております! 姫君!!」 困ったように眉を顰める主に、フィナは嘆くように額に手を当た。 「何度も申しているではありませんか! その服が、そのドレスこそが、姫君の魅力を! 余すことなく存分に発揮することの出来る、至高の召し物であると!!」 両手を広げ、演説する政治家のように拳を握り締める。そんな従僕に、アルトルージュは呆れ果てたような眼差しを向けた。 「お前の趣味は聞いておらん。私は、もっと大人っぽい服が……そうだ、リィゾ。お前はどう思う?」 その言葉で、闇が動いた。 「……」 老魔術師が立っている、すぐ傍の横壁に、もたれるように立っていたリィゾ=バール・シュトラウトは、暗く深い海の底から浮かび上がるかのように、ゆっくりと顔を上げた。 「!?」 現れたリィゾの姿に、老魔術師の浮かべていたニヤニヤとした嫌らしい笑みが、一瞬で驚きに取って代わる。 無理も無い。老魔術師は、すぐ隣に立つリィゾの存在に気付いてさえいなかったのだから。 「どうだ? 私には、こんな童女が着るような服より、貴婦人が着るような優雅なドレスが似合うだろう?」 どこか弾むような、期待の篭った声がレースの向こうから響く。 「……」 僅かな沈黙。主の問いかけに答えるべく、黒騎士は端正な白い顔を姫君の方へと向けると、透き通るような静かな声で答えた。 「我が姫君。あなたにはどんな服でも、お似合いになるでしょう」 黒騎士の静かな言葉に、アルトルージュの肩が落ちる。 「……お前に聞いた私が愚かだった。いい。早く着せよ」 不機嫌そうに呟くと、両手を広げ、侍女たちを促す。着付けは澱みない手つきで行われ、バスタブが片付けられた。長い髪に櫛を入れ終わると、部屋を隔てていたレースが静かに取り払われる。 そこには、豪奢な漆黒のドレスを身に纏った、黒の姫君が艶かしい笑みを讃えて立っていた。ゴシック調の可憐なヘッドドレスをゆるやかに揺らして、白魚の様な、たおやかな指先を揺れる華のように、柔らかく差し出す。 「さぁ、始まりだ」 凛、と通る声を響かせ、アルトルージュ・ブリュンスタッドは彼女の従僕達を見渡した。 「戦争だ。戦争が始まるぞ、我が従僕たちよ。その身をもって、我が欲望を満たしてくれ」 「おお、」 感極まった様子で、フィナが声を震わせる。 「我らが姫君よ。気高くも美しい、我らが月よ……!」 「――、」 その場に介していたもの全てが、静かに跪き頭を垂れる。 愉悦に顔を歪ませ、歓喜の表情を浮かべる者。 媚びるような笑みを貼り付け、恐れに身を震わせる者。 無表情に、ただ静かに頭を垂れる者―――そして。 「――そんな、兄貴が、死んだ? ……エミヤめ、あの裏切り者め……! 必ず、必ず殺してやる……!」 大きな戸惑いと、身を焦がすほどの灼熱の怒りに顔を歪める者。 様々な思惑の中、その全てが例外無く、彼らの姫君に服従と忠誠を誓った。 うらびれた古城の窓から覗いた空には、灯のように星達が瞬いている。 月は、無い。 ―――背後の壁がのそり、と蠢く。朱色の瞳を輝かせ、ガイアの怪物は来る戦いの予感に静かにその身を震わせた。 |