血液を失って茫洋とする脳は、迷うことなく最も効率の良い手段を選択した。 あらゆる感情を鏖殺し、自らを殺戮装置へと変貌させる。もはや感情など性能を低下させる異物でしかないのだと、本能が理解している。 ――余分なモノは捨てよ。さもなくば、この身に明日は無い。 機械は矜持を持たない。 ゆえに、“代行者”シエルは自らに課した禁忌をも躊躇いも無く踏み越えた。 ――ごりごりと。 ごりごりと固いものが轢き潰される音が、足元から響いている。 人には生存する権利がある。故に、それが脅かされるに至っては、どのような行動をも正当化されるのだ。 こと、紛糾を極める戦場に至っては。 こと、節理の輪を外れた、外道が相手ならば。 私を責めることが出来る者など、在りはしない。 ごりごり――。 ごりごりと、死徒共が足先から轢き潰されていく音が断続的に響いている。 視線を落とすと、底なしの砂地に足を取られた死徒共の姿が目に映った。腰元までを乾いた土に埋もれさせ、ぽっかりと空いた口腔から虫の羽音にも似た声を軋らせている。 埋もれた砂地には高い圧力がかかっている。変幻自在の万力は、高圧のミキサーと化して恐ろしくゆっくりと死徒共の肉体をミンチと化していく。 死徒の騎士たちは今、酸鼻を極める拷問の最中にあった。禁忌の魔術はただ効率的に騎士たちの身体を破壊していく。 しかし――。 騎士たちの顔に浮かぶのは、他ならぬ歓喜の色。 奇妙な光景だった。彼らの顔は傍から見てそれと解るほどに悦楽に歪んでいる。 腐敗の激しい頭部が砂地に没する。自ら顔を砂山に突っ込み、騎士達は歓喜に喉を震わせる。 ――ああ、そうだった。 機械は思い出す。 あれは幻惑の魔術の効果。余分なことだから忘れていた。魔術で人間の幻影を造り出し、吸血鬼たちに差し出してやったのだった。 人間の姿をしていても、所詮は幻影。喉の渇きが満たされることはない。だがそれでも、騎士たちは嬉々として砂山に顔を突っ込み喉を鳴らす。その身体が少しずつ轢き潰されていることにも気付かないまま。 手元の殺人機械が何やら喚いているような気がするが、気づかない振りをする。それは思っていた以上に簡単な作業だった。 ――ああ、初めからこうしておけば良かった。 シエルは心から思った。本当は謳い上げるように言ってやりたがったが、思い直して口を紡ぐ。 言葉を発すれば残り少ない体力を消費することになる。非効率的だ。機械は無駄なことはしない。 ごりごりと。ごりごりと吸血鬼たちを挽き潰していく。単純で退屈な作業だけれど心が躍った。 「ああ、愉快――」 無駄だと解っているのに、それでも言葉が口を吐いた。口端が釣り上がっているのを自覚する。そういえば、こんな風に嗤うのは久しぶりだ。 一向に喉の渇きが癒されないことに気付いたのだろう。二人の騎士のうち一人が、上半身の動きだけで底なしの砂地を抜け出ると、獲物を探して鼻孔をひくつかせる。槍を構えたその騎士からは、膝から先が消失していた。 シエルはそれを何もせず見守る。匂いで獲物を探そうと言う腹らしいが、嗅覚を誤魔化せぬ程、彼女の魔術は易くは無い。 死者達の前には、匂いも味も感触も、本物そっくりの人間の姿が映っていることだろう。 しかし、槍兵は獲物の居る底なしの砂地には目もくれず、何かを探し求めるかのように鼻を引きつかせている。 シエルは僅かに眉を顰めた。血肉を貪り食うことしか能が無い癖に、何だあの反応は。 気でも狂れたか? 奴らは常に肉体を補修しづけなければ、朽ち果てていく運命にある。目の前の獲物に喰らい付くかずにはいられない。それに抗えるはずなど――。 「……ッ」 出来そこない。 吐き捨てるように呟き、魔術を使って槍兵の前に獲物を差し出してやる。 槍兵は口元が張り裂けんばかりに獰猛な笑みを浮かべた。歓喜の声を挙げて獲物に食らいつくと、再び音を立てて人を貪り喰い始める。 「それ見たことか」 騎士の真似事などしていても、所詮はただの化け物。理性など存在しないのだ。ただ奪い、殺し、貪り食う。自身が朽ち果てないために。それしか無いのだ。かつて人間だったことなど覚えてもいない。 「ああ、愉しい」 独白する声はどこか遠い。 感情の籠らぬ瞳で騎士たちを見下ろし、乾いた声で嗤う。そうして最後に冷笑を浮かべようとして、 「どうして?」 最後の最後で、躓いた。 滑稽なのに。こんなにも無様なのに、どういうわけか笑うことが出来ない。 「どうして? こんな……」 中途半端に引き攣った表情そのままに、シエルはその疑問について考えを巡らせようとして、 ――考えるな。 胸の裡より湧いた声に静止された。 声は言う。答えを出せば、お前は再び無間地獄へと叩き落とされるぞ、と。 でも、解らない。どうして笑えないのか。こんなにも可笑しいのに。こんなのにも愉しいのに。 解らないままで居るのは、気持ち悪い。 ――考えるな。 どうして? あと少し――。あと少しなのに。あと少しで、私は苦しみから抜け出せることが出来るのに! 「そう。まだ足りないんだ」 黒鍵を構え、槍兵を見据える。 そうだ。きっとコイツを殺せば笑える。惨めに、残酷に滑稽に、コイツの存在を蹂躙すれば、私はきっと――! 槍兵は今もなお、嗚咽するように幻影の獲物を貪り繰っている。目を瞑っていても仕留めるのは容易い。 兜にあるスリットから、白い息が上がっている。漏れる息は今にも燃え尽きてしまいそうなほど熱そうなのに、その身体は凍えているかのるように震えている。 「なんて浅ましい――」 得物を握る手に力が籠る。 脳裏には、繰り返し一つの言葉だけが響いていた。考えるな、と。しかし、考えずにはいられない。答えを出さなくてはいけないから。だから尋ねる。どうして、と。 どうして私は笑えない。どうして槍兵は獲物を貪り食うのを止めた。どうして何かを探すように鼻孔を引きつかせた。 どうして、どうして。 「どうして、泣いているのです?」 不意に、そんな言葉が口を突いた。 あれ? どうして私は、彼らが泣いているなどと思ったのだろう……。そんなはずないのに。 彼らは、魂の通貨たる血液でその身を潤し続けなければ存在できない。故に、吸血を快楽と認識する。生きることは快楽だから、吸血鬼たちは血液を貪り喰らう。 ――誰も泣いてなどいない。あの腐敗した顔を見ろ。弛緩し切った顔は、快楽に溺れる表情そのものじゃないか。 知っているだろう? 「違う。泣いている。快楽に溺れながら泣いている。だって、私は……」 ――考えるな。地獄に引き戻されるぞ! 「彼らと、同じだから」 頭を振り、呻くように言った。 不意に、揃ったように吸血鬼たちの動きが止まった。 目の前の槍兵も、砂地に顔を埋もれさせた弓兵も、そろって動かなくなる。 どうしたのだろう。彼らが死体を喰うのを止めるなんて――。そう思った次の瞬間、天を仰ぎ見た彼らの乾ききった赤い瞳から、真っ赤な血の涙が溢れだした。 「――!」 思わず数歩、後ずさる。乾いた音を立てて、黒鍵が指先から抜け落ちた。 頭の中で誰かが狂ったように声を挙げている。 ――コロ、シテ。コ、ロシテ、クレ。 空洞に木霊する風の音に混じって、踏み出した槍の騎士が微かな声で囁いた……ような気がした。 ――タマシイヲ、コノロウゴクカラ。 それは、風のうねりよりも小さな囁きだった。槍の、そして弓の騎士の口から、泡のような言葉が漏れ出しては消えていく。 タスケテ、 ケシテ、 スベテ――。 懇願する言葉とは裏腹に、二人の騎士は各々の主装を構え、臨戦態勢を取る。幻惑の術は既に効いていない。騎士たちは絡みつくような殺気を纏い、ゆっくりと間合いを詰め、シエルへと迫る。 ――それ見たことか! 彼らはこの争いを止めはしないだろう。タスケテ、ユルシテ、と懇願しながらお前の身体を貪り食うのだろう。 それはなんて――。 「なんて、恥知らず」 感情の消失した声で呟き、手元の殺人機械を低く構える。 そうだ。今ならまだ間に合う。今ならまだ、私は狂気の中に埋もれていることが出来る! シエルは震える口元に乾いた笑みを浮かべると、上半身だけで擦り寄る槍兵の胸元に杭の先端を押しつけた。 最後に、耳朶を震わせる騎士達の懇願を黙殺し、 ――いや。 もう、気づかない振りをすることなんて、出来なかった。 頭の中を充満していた靄が消失していく。己を取り戻したその時、シエルは自分が再び地獄の底へと堕き落とされたのだと理解した。 「ああ――」 妙に清清しい、空っぽの頭で宙を見上げる。 「滑稽なのは私だ。結局、化け物を演じることも出来なかった」 いっそ、狂ってしまえばどんな楽だろうと思った。 終わりの見えない暗闇の中を、鉄の鎖に繋がれ、どこまでも引き回されていくのはもうたくさんだと。 「救いなどないということは、ずっと前から気づいてました。けれど」 背負った罪は重く、償う道は在りもせず、贖うことなど叶わない――。 「それでも、 呟いた言葉は底なしの絶望で塗りつぶされていて……。それでも世界が清清しく、価値あるものに思えた。それが酸素の欠乏によって分泌された脳内麻薬が見せた幻に過ぎないと理解していてもなお、ただ一つ、真実だと言える思いがある。 シエルは忘我の果てに、神を見たのかもしれない。 絶望に塗りつぶされていく世界で、修道女は救いを求める逆徒に白銀の切っ先を突きつける。逆徒の槍に肩を貫かれながらも、神の教えの具現を強く押しつける。 身を削りながらも、みっともなくとも、人として生きる。 それが、彼女が選んだ道だった。 その時、毒々しく発光を続けていた 「なんだ、これは……!」 斬り込む手を緩めず、士郎が叫ぶ。 森が啼いている。 低く、洞窟を抜ける風鳴りのような音が、森全体を駆け巡っている。ドームを覆う木の幹や根を駆け巡るのは、血色に色づけされた禍々しくも膨大な魔力……そこに至って士郎は、最も恐れていた事態が起きてしまったのだと、理解した。 「儀式が始まったのか……!」 呟く声は細く震えている。 「ふふふ。はははは……!」 白騎士は爛々と光る瞳を見開き、歓喜に喉を震わせた。 「時間がないぞ、エミヤ。ほら、急がないとなぁ!」 白騎士の背後に聳える石柱――術式の核に大量の魔力が流れ込む。赤黒く変色した、血液で描かれた魔法陣に沿うように、真紅の光が奔る。 「士郎! 早くあの支柱を壊して!」 凛の声が凍りついた士郎を動かした。 「くっ!」 打ちつけた鋼から乾いた音が響く。 「――――― 走り寄る凛の右腕に刻まれた、魔術刻印が赤光を放つ。石柱への狙撃を試みるも、それらは悉く、銃士の放つ魔弾に遮られた。 「ッ、また……!」 銃士は付かず離れずの位置から凛を狙撃してくる。凛は追い縋る銃士を倒すことも無視することも出来ず、たたらを踏んだ。 「こんなことしてる場合じゃないのに……!」 刻々と強まる焦燥感はもはや強迫観念に近く、精神を蝕む強烈な重圧に四肢が弾け跳んでしまいそうだった。 「っ、遠坂……!」 白騎士へ斬り込んだ士郎は、視界の隅に映り込んだ凛の様子が可笑しいことに気付いていた。 「あ、れ――?」 凛の身体が、ふらりとよろめく。僅かに留まる仕草を見せるが、そのまま、受け身も取らずに地面へと倒れこんだ。 「動くな! 遠坂ッ」 脇腹を貫いた傷は深く、内臓を傷つけている。 「士郎、早く――!」 最早、動ける状態ではないのは遠目から見ても明らかだ。しかし、 「くっ! 解っている! だが……!」 士郎は白騎士と拮抗状態を保つのが精一杯で動けない。 斬り合う士郎と白騎士の元にも銃士の魔力弾は及び、直撃した石床から砂塵が舞い上がった。 「はぁ、……あぁ」 這うように石床の上を移動しながら、凛は辛うじて魔弾をやり過ごす。最早、銃士の魔弾を士郎から遠ざけることも出来ない。魔弾は次々と、斬りあう士郎の近くに被弾した。 「……ッ!」 舞い上がった砂礫によって視界の殆どが遮られる。しかし、士郎は切り結ぶ手を止めるわけにはいかなかった。 「固有結界を使いなさい! 儀式を成功させちゃ駄目!」 凛が叫ぶ。 固有結界ならば、一時的にこの空間を魔術式の一部から切り離すことが出来る。基盤部への魔力の流入も防げるはずだ。 「オォ!」 声を張り上げる凛を仕留めようと、銃士が瓦礫の中から躍り出る。振り向き様、腰元の短剣を投げ放った。 「っ!?」 短剣は、吸い込まれるように銃士の肩に突き刺さる。凛に向けられた短銃の照準が僅かに逸れ、放たれた魔弾が凛の顔のすぐ横を通り過ぎていった。 すかさず、叫ぶ。 「 撃ち放ったガンドの閃緑弾はついに銃士を捕え、身体の大部分を被弾した銃士は力なく崩れ落ちた。 ――ようやく、倒した。 しかし、喜びの声を挙げる時間など無い。 士郎のサポートにと、震える手で宝石剣を取り出す。上手く立ち上がることが出来ない身体がもどかしい。 「……士郎、早く! 時間が無いの。早く白騎士から距離を取って。術発動までの時間は私が」 「解っている! しかし……ッ」 固く食いしばった士郎の口元から、苦悩の声が漏れる。瞳に浮かぶ真紅の炎が様々な色を帯びて輝いた。 「ふん。正直に言ったらどうだ」 そんな二人のやり取りを、白騎士は嘲けるような笑みを浮かべて見つめている。お互いの剣の柄で鍔競り合った瞬間、白騎士は斬りあう士郎へと目一杯顔を寄せ、囁いた。 「使わないんじゃなく、使えないんだよなぁ?」 「……ッ!」 「吸血鬼になるということは、魂まで犯されるということ。世の中の価値観が置き換われば、精神世界に変質が起きるのは当然だ。 固有結界とは、自己の意思で世界を塗りつぶす大禁呪。術の行使には、自己の精神世界を正しく把握することが必須となる。即ち」 「ッ、く――!」 「まだ造り替わった世界を把握出来ていない半端者では、術の発動は不可能というわけだ。ははは!」 「黙れ……ッ!」 白騎士を跳ね除け、士郎は瞳に殺意を宿し――ふと背後に、視線を感じた。 振り返る。そこには、 「どういう、こと?」 驚きに目を見開き、茫然と立ち尽くす凛の姿があった。 今にも倒れそうな身体を必死で支え、士郎を見つめている。 「どういうことなの? 士郎。あんたが吸血鬼、って」 感情の消失した凛の声。聞き間違いであってほしいと、その瞳は語っている。 士郎は逃げるように凛から視線を逸らす。そして、 「なんだ、話してなかったのか。なら、私が代わりに教えてやろう。 代わりに口を開いたのは愉しげに口元を歪め、凄絶な笑みを浮かべた白騎士だった。その声は多分に芝居じみた色を含んでいる。 「我が姫君と契約したモノは、契約時に姫君から血を受けるのだ。それはすなわち、姫君の死徒と成ることを意味する」 「貴様……ッ」 怒りに燃える士郎は握りこんだ双剣を左右同時に投げ放った。鶴翼二連――白騎士の背後に飛び退った二本の剣は、弧を描いて背後から白騎士の首を狙わんと飛翔する。 「はっ。何をするかと思えば」 背後を警戒するそぶりも見せず、白騎士は嘆息する。 「またこれか。同じ技が二度も通じると思うなよ」 「黙れ!」 士郎は手の中に長柄の得物を投影すると、渾身の助走を持って白騎士の間合いへと飛び込んだ。 翻る、二メートル余りの得物。 白騎士の顔から、笑みが消失する。 「オオォ!」 士郎の咆哮が大気を震わす。弾けるような助走により加速を得て、禍々しい呪いを孕んだ刃は唸りを挙げて標的を見据えた。狙うは一点、吸血鬼フィナ=ヴラド・スヴェルテンの心の臓。 「 ――時間が許す、最後の一手。この一瞬に全てを託す! 「 標的の背後から迫る陰陽の双剣を視界に収めつつ、駆ける。決して逃しはしない――! 「―― 突き入れざま、呪いの朱槍、その真名を開放する――! 「 白騎士の身体から、跳ね上がるように細剣を突きだされる。しかし、その脆弱な剣では、渾身の力で突きだされた長柄の穂先を捌くことなど出来ようはずもない。 「――ハァ!」 それでも、白騎士は撓む剣で穂先の軌道を強引にねじ曲げる。間一髪、心臓を狙って突きだされた穂先は左脇下へと軌道を変えた。 なんたる奇跡。しかし、士郎の鷹の目は遂にそのトリックを見破った。 通常では考えられない軌道を描く白騎士のフルール。それを士郎は、剣の技量によるものだと考えていた。しかし真実は違ったのだ。 白騎士は剣技で士郎の剣戟を避けていたのではない。それとは別の不可視の力……即ち、吸血鬼が持つ異能の一つ、世界に干渉するその『意思』、いわゆる ここに至って白騎士の剣技の 隠しておいた奥の手。それは白騎士の奇術の前に破られたかに、思えた。しかし、 「――ッ」 士郎の朱色の瞳は、微塵もその穂先から揺らいではいない。 「チェックメイトだ! エミヤ!」 白騎士は遂に決闘に終止符を打つべく、最後の一手を繰り出す。自らに課せられた使命を全うしたという、その結末に酔いしれながら。絶望を見届け、失意のまま死んでいく士郎の姿は、この舞台の幕を飾るには実におあつらえ向きと言えよう。 槍の一撃を外し、無防備な身体を向ける士郎を守るものは何もない。白騎士は身を屈め、その細剣で容赦なくエミヤシロウを突き刺し――。 確かに躱した士郎の赤槍が、白騎士の眼前に再度出現した。 逆転した因果律は、白騎士のイカサマを赦さない。 「!?」 白騎士が。幾星霜の時を息抜いてきた生粋の化け物が瞠目する。 気付いた時には、彼の心臓は無数の死棘によって完膚なきまでに破壊されていた。 「ヒ――ク、ククク」 引き攣ったような笑いが白騎士の口元から毀れる。 「……まだこんなものを隠していたとはな。ケルトの英雄――その魔槍か。油断したわ」 士郎は突き刺した穂先を捩じり、抉るように心臓の中を掻きまわした。白騎士の巨体が大きく震える。 手元の感触は、穂先が確実に白騎士の外套を通り、心臓を貫いていることを証明している。しかし――ここに至ってもまだ、士郎は勝利を確信できずにいた。最後の運頼み、と取った策が勝ち取った、あまりにも出来すぎた結末に戸惑う。 やがて白騎士の外套から、彼の滅びを体現するように細かい塵が舞落ちるのを確認するに至って、ようやく士郎は息を吐いた。 白騎士の大柄な体躯がよろめく。その時、 「――だが、この魔槍。一度に貫ける心臓は一つきりである見える」 不意に、心臓を完膚無きまでに破壊され、後は崩壊を待つのみと思われた白騎士の口から、嘲笑を含んだ声が漏れた。 士郎は訝しげに眉を潜め――。白騎士の外套から屑折れるように落下したモノを見て目を見開いた。 「これは――!」 今まさに、真っ赤な鮮血を流し、そして塵と化して滅びようとしているのは……。 凛の喉から細い悲鳴が漏れる。 倒れ伏している何者かの屍体――良く見ればそれは、士郎たちをこの空洞へと案内してくれた、あの子供のものだった。 「さて。問題だ。お前が貫いたのは、どの心臓だ?」 士郎が握る槍先にあった感触の消失が、その問いの答えを示していた。士郎が貫いたのは、この子供の心臓だ。 「……なん、だ。これは?」 「コレか? コレは先ほど、お前たちの案内役を務めた子供だよ。なんだ、もう忘れてしまったのか?」 「そうじゃない! 呪いの赤槍は、確実にお前の……。白騎士フィナ=ヴラド・スヴェルテンを心臓を貫いた! なのに、どうしてこの子供が……」 「約束をしていたのだよ」 愉しげに、謳いあげるように白騎士は言った。 「攫って来た子供たちとだ。お前たちを無事に案内できたものには、褒美を取らせるとな。だから、願いを聞いた」 「願い?」 「そう。何でも叶えてやるとな。そうしたらどうだ。なんと両親に逢いたいという! だから、望み通り取り込んでやったのさ」 白騎士は自身の胸を指差す。 「私の肉体の一部として、な」 「貴様――ッ!」 掴みかからんと腕を伸ばした士郎をいなすと、白騎士は鋭い蹴りを士郎の鳩尾に搗きいれた。思わず蹲った士郎の色の無い髪を掴むと、顔を上げさせ、喉を掴み、その身体を高々と持ち上げる。 「残念だったなぁ。いくら化け物とて、普通は心臓は一つだけだと思うよなぁ! だが、残念。フユキの聖杯戦争のデータは私の頭の中にも入っている。英雄達が操った宝具についてもな。当然、貴様がクー・フーリンのゲイ・ボルグを投影出来ることも承知の上だ」 「ぐッ、あぁ!」 凄まじい握力で首を締め上げられ、士郎が激痛に悲鳴を上げた。傷口から鮮血が滴り落ちる。 「その手を離しなさい!」 迸った士郎の悲鳴に、凛が宝石剣を抜き放った。準備は整っている。士郎が白騎士から距離を取った時点で、大斬撃を繰り出そうと機会を伺っていたが、このまま見殺しにするわけにはいかない。 「Paradigm Cylinder!」 宝石剣を振り上げると、刀身の宝石が七色に輝いた。大気中のマナは濃密。威力は十二分に確保できる。特定の空間に座標を固定し、術式を発動させる――。だが、一瞬。ほんの僅かな躊躇いが凛の動きを鈍らせた。 宝石を振り下ろす刹那、心の中で何者かが囁く。 ――このまま振りぬけば、士郎も殺してしまうかもしれない。 瞬間、凛の心を様々な葛藤が駆け抜けた。冷静では無かった。――ゆえに、背後から奔る魔弾に気付かなかった。 「――ッ! しまっ……!」 魔弾は、寸分違わず凛の右手を弾き、宝石剣は空高く舞い上がった。七色に輝いていた光がゆっくりと収束していく。振り返った視界の中に、塵と化していく銃士の姿が映る。その銃口は、しっかりと凛を捉えていた。 倒したとばかり思っていたが、まだ滅び切ってはいなかったのか。 「うっ、ぐぅ、」 弾き飛ばされた凛の身体が、地面に叩きつけられる。総身を貫く激痛は、魂を爪で削り取られるかのように凄絶だった。 「早く、……ないと」 受身を取ろうなどとは思わなかった。ただ、一秒でも早く、宝石剣を手にすることを願った。 洞窟自体が赤黒く鳴動し、大量のマナが洞窟内部に満ち溢れる。 「――残念。タイムリミットだ」 微笑を含んだ、白騎士の声。 顔をあげれば、そこには背後に聳える魔術の基盤、石の支柱に手を伸ばし、興奮に燃える目を見開く悪魔の姿があった。 「さぁ、生贄が古の神に捧げられるぞ……! 伝説の騎士たちが求め、手に入らなかった 狂喜に声を荒げ、白騎士は洞窟内を仰ぎ見る。爛々と光る真紅の瞳。禍々しい光に、誰もが絶望に膝を折る。しかし、 「……ははは」 不意に、乾いた笑いが響いた。 白騎士は怪訝そうに顔を上げる。そこには疲れた笑みを浮かべた士郎の姿があった。 ――ついに気でも狂れたか? 白騎士は僅かに首を傾げる。しかし、 「待っていたぞ」 士郎は牙をむき出しにしてニヤリ、と口元を引き攣らせた。 「貴様がここまで近づいてくれる、この時を」 「なに?」 「―― 静かな詠唱が響く。すると、虚空に水面に石を投げ入れたかのような波紋が幾つも現れ、空中に数多の刀剣が出現した。 「小癪な真似を……!」 白騎士の口の中から低い唸り声が漏れる。 辺りに異常なまでに満ちるマナ、そしてざわつき始めた地上に潜む異界の魔獣が孕む魔力に紛れ、展開された魔術に気付くのが遅れたのだ。 「計算高い手ばかりを使うお前のことだ。あの石柱には、幾重にも 「貴様……」 「だが、ここまで中に入れば安心だ。 士郎の身体を掴んだ白騎士は、苛立ちに砕けんばかりに口元を噛み締める。 石柱の前に立つ、白騎士――。それらを囲む込むように、無数の剣がその切っ先を向けている。 これだけの数、即興で投影出来るものではない。士郎は何手も前から、この秘策を講じていたのだ。 「こうなっては逃げられまい。ただの一本でも避ければ、石柱は砕けるぞ」 ニヤリ、と士郎の顔に笑みが浮かぶ。 「貴様。私ごと心中する気か?」 剣の切っ先は、士郎にも向いている。このまま無数の刃が降り注げば、士郎とて命は危うい。しかし――。 「知っているぞ。白騎士。お前は唯一、この無限の剣製を警戒していた」 ここで躊躇うほど、エミヤシロウは真っ当な神経をしてはいない。 「まだ足掻くか、三下が……!」 白騎士が怒号を響かせ、士郎の喉を握りつぶさんと力を込める。だが、士郎は止まらなかった。例え、首を落とされたとしても止まるつもりなど無かった。 「うおおおぉぉぉ!」 ありったけの魔力を注ぎ込み、叫ぶ。 「っ―― 魔術回路がスパークし、暴走した魔力が身体の随所を引き裂いた。それでも、無数の刀剣は数を増し続け――百に及ぶ弾になって、遂に四方八方から石柱を砕かんと空を駆け出した。 「させるか!」 白騎士は低い怒声を響かせ、その手に握ったフルールを振り上げる。低い声で、その真名を以て命じる。 「迸れ、 瞬間、ヴラドのフルールに異変が起こった。 刀身が幹のようにうねり、先端から四方八方に伸び上がる。伸び上がった無数の蔦は、瞬く間に空中の刀剣に巻き付き、飛び交うそれらを絡め取っていく。 「な……! あれは」 士郎は驚きに目を見開く。伸び行くヤドリギの枝。その光景には見覚えがあった。 あれは、ロブの身体に植えつけられていた――。 「気づいたか? そう。この剣こそが、あのロブに埋め込んだモノの本体だ」 「まだだ!」 士郎が叫ぶ。まだ策は尽きていない。隠し、仕込んでおいた三本の刀剣に命じる。 一本は、自動策敵の機能を持った 一本は、かつて真祖の姫の空間断絶を潜り抜けた、空間を潜り抜ける逸話を持った一振り。 そして、一本は再び士郎の手の中に投影された、ゲイ・ボルグだ。 士郎は首を捕まれた位置そのままに、その手に投影した槍を振りかぶる。狙いは、白騎士ではない。士郎の真名開放では、ヴラドを仕留められないのは明らかだ。ヴラドは群体。心臓とて、奴は再び代わりの者を差し出すだろう。 だから、今ここで放つは“ 即ち、本来の真名開放。投げ槍である存在意義を存分に発揮する対軍宝具。 「ウォォォ!」 士郎の雄たけびが空間を震わせる。後のことなどどうでもいい。今は、この儀式を止めることに死力を尽くす――! 「 「……っ、我が力と、姫君の名を以て再度、命じる。迸れ、」 対する白騎士は、強い声で命じ、自身の刀剣に可能な限りの魔力を注ぎ込む。白刃のフルールを振り上げた。 「 「 真名解放と同時に、士郎の三本の刀剣が支柱へと奔り、白騎士の魔枝がそれを絡め取らんと紅の空を迸る。 大気を切り裂き、唸りを上げる三振りの宝具。そのどれもが必殺の力を秘めた刀剣は、絡め取らんと迫る無数の蔦を薙ぎ倒し、縦横無尽に空を駆け巡る。 初めに、空間を潜り抜ける逸話を持った一振りが魔枝に絡み取られ、動きを止めた。 次に、フルンディングが蔦の海に消えた。 しかし、士郎の顔に動揺はない。士郎はロブと呼ばれる死徒を相手にしたことで、あのヤドリギの枝の性能を理解していた。白騎士を屠るのは難しいだろう。しかし、石柱までなら十二分に通用する。 士郎の読み通り、いかな魔枝とて 「させるか……!」 白騎士が叫び、石柱の前に魔枝を縫い合わせた防壁を作り上げる。呪いの赤槍は、大気さえも穿つかの如く激烈さで石柱へと奔ると、それら魔枝の防壁に大穴を穿った。赤槍に触れた魔枝は悉く四散する。その先には、儀式の発動により赤く輝きを帯びた石柱があった。 「っ、曲がれッ!」 白騎士が赤槍へとフルールを突きつける。白騎士の強靭な意思によって空間が捻じ曲げられ、細剣に弾かれた赤槍は軌道を逸らす。しかし強力な呪いによって曲げられた因果律は、その軌道を易々と修正した。 そうして遂に、呪いの魔槍は石柱へと奔り――。 その手前、残り僅かの位置で突如、力尽きたように地に落ちた。 「――馬鹿、な」 士郎が呻く。目の前の光景が信じられなかった。因果律さえも歪める呪いを、どうして躱しきれたというのか。 「ふん」 白騎士は、吊り上げていた士郎の身体を地面へと叩きつけた。 「ぐぅ、ぁ」 革のブーツが、士郎の首元を強く踏みつけた。呼吸も出来ず、士郎は白騎士の足を強く掴む。 「オリジナルを、あのロブに植えつけた添え木と同じように思ってもらっては困るな」 禍々しい凶悪な乱杭歯を剥き出しに、白騎士が嗤う。 「この木は、ミスティルティン。かつて、あらゆる災厄から例外となりえた北欧の光の神を刺し殺した魔槍だ。この槍に触れた瞬間、あらゆる幻想は例外の内に破約される」 「――さぁ、始まるぞ」 基盤部に流れ込んだ魔力が、膨大に膨れ上がっていく。それらは天蓋を覆う木の根を伝わり、地上に囚われた生贄の元にまで及んだ。 異界の魔獣が唸りを上げる。それは、取り込まれた人々の、苦悶の叫びに他ならない。 「止めろ……」 呟いた士郎の口から、鮮血が溢れる。それを塞ぐように、白騎士は喉を踏みつけた。 凛は白く霞んでいく視界の中で、それを見つめていた。 (早く、行かないと……。宝石剣を、私には最後の切り札が――) 突き動かされるように、懸命に手を伸ばす。 (あと少し、あと少しだけ――) 凛はゆっくりと宝石剣に近づいていく。――否、近づいている、つもりだった。 無情にも、血や土埃で汚れきった身体は僅か足りとも動いてなどいなかった。傷口から入った細菌は、凛の脳を熱病のように犯す。その唇から、うわ言のような囁きだけが漏れ聞こえる。 「お願い、お願いだから――」 ――誰か、助けて。 乞い願うその瞳から涙を流し、凛はただ自らの失態を恥じる。 シエルは、しぶとく食い下がる死徒、その最後の一体に剣先を打ちこんだ所だった。発動した術式に気付き、虚空に浮かぶ満月を見上げ――そして全てを悟った。戦慄く口元を噛み締め、神の非情さを呪う。地獄へと舞い戻ってきた己の愚かなまでの生真面目さに天を仰ぎ、慟哭する。 「ああ、もう誰も――」 儀式を止めることは出来ない。 魔法陣が遂にその効力を発揮し、地上の化け物はその生命力を喰らっていく。人々の断末魔の叫びは、士郎の脳髄を破壊せんとばかりに氾濫し、充満した。 「止めろ」 士郎の力無い手が、懇願するように白騎士の指を掴む。 「止めてくれ」 哀訴の声はしかし、人ではない彼には届かない。化け物は恍惚に顔を歪め、自らが整えた舞台に満足げに口端を吊り上げる。 「止め、」 ただただ虚しく漏れ出る言葉。死者の王はそれを聞き入れない。虚ろな空には、ただ一つきりの満月が浮かんでいる。 ――月光は、彼まで届かない。 かつて英雄を夢見た青年の瞳は、いつしか絶望という名の漆黒に塗りつぶされて――。 「止めろ――――……!!」 掠れた声が、赤黒く鳴動する大空洞に響き渡る。 それは、魂が上げる慟哭の叫び。 こうして長き苦悩の果てに、絶望の闇はエミヤシロウという機能を完膚なきまでに破壊した。 |