その町には、一軒のカフェがある。 ちょっとシックな感じの、カウンターと、テーブルが三つほどしか置いていない小さな店だ。木目調を基調とした、落ち着いた外観。光の取り入れ方が巧く、店の中は柔らかい光で満ち溢れている。店を作った人のセンスが感じられるような、落ち着いた内装だ。 遠坂凛は、数年ぶりにその店を訪れた。 特別な感慨は無い。しかし、心はどこか弾んでいた。それはこの場所が彼女にとって、故郷の家のような、特別な場所だからだろう。 ――『魔術師としての私』の実家が遠坂の家だとしたら、ここはきっと『家族と過ごして来た私』の実家なんだ。 凛は自分の心に涌いた感情を、そう分析する。 数年ぶりの帰郷。懐かしさに顔がほころぶ。 時刻はまもなく午前十時になろうとしていた。待ち合わせの時間まで、後わずか。一歩を踏み出した。 ガラスのはめ込まれた、濃い樫色の扉に手をかける。すると、過ぎていった時間が一瞬、扉を開けようとする手を躊躇わせた。わずかな逡巡。だけどそれも一瞬で、凛は大きく息を吸い込むと、一息に扉を開いた。 「こんにちは」 扉を開けると、カランコロン、と大きな鈴が明るい音色で鳴り響いた。どこか懐かしい、コーヒー豆の良い香りが鼻腔をくすぐる。 「いらっしゃいませ……と。これは珍しい」 入ってすぐ。カウンターの奥でグラスを磨いていた長身の女性が、旧友の姿を見て眼鏡の奥の目を見開いた。 「久しぶり。元気してた?」 軽く片手を挙げて挨拶。自然な笑顔で笑いかける。 「一年ぶりかしら? あ、もう二年になるか」 凛が唇に手を当て言うと、カウンターの奥に立つ女性は、ハァ、と呆れたように溜息を吐いた。 「……三年です、凛。まったく、あなたという人は――。連絡の一つくらい出来なかったのですか」 「あはは、ごめんごめん。ちょっと忙しくて」 ははは、と悪びれた様子も無く笑って、 「で、桜は何処にいるの? ライダー」 ライダー……。バーテンダー姿の女性に問いかけた。 「サクラなら部屋にいると思いますよ。呼びますか?」 「んー……」 僅かに考え込むような仕草。しかし判断は早かった。 「いいわ。今日は桜に会いに来たわけじゃないし」 凛はカウンターから、入り口の扉と同じ樫色の椅子を引っ張り出すと、そこに腰を下ろした。 ライダーは眼鏡の奥で一瞬小さく眉を寄せる。 「いいのですか?」 「ん?」 何のことを言っているのかわからない、と言うように見返す凛に、ライダーは少々苛立った様子で磨いていたカップをカウンターの上に置いた。 身体の大きさの割りに手先の細やかな彼女には珍しく、がちゃん、とカップが乱暴な音を立てる。 「凛。私が口を出すことではないかもしれませんが、あなた達は姉妹でしょう。挨拶くらいするのが普通なのではないのですか?」 ずい、と顔を寄せるライダーに、凛は苦笑を返す。 「止めておくわ。話の種になるような話題もないし。それに」 小さく息を吐いて肩をすくめる。 「これから来る人のことを考えたら、居ない方が好都合よ」 「これから来る人?」 惚けているのか、言う必要は無いと思っているのか、凛はそれ以上話そうとしない。眼鏡の奥で、ライダーが眉根を寄せる。 「凛。ちょっと確認しておきたいのですが……。これから来る人というのはもしかして」 カラン、カラン、 小気味良い鈴の音と共に、再び樫色の扉が開いた。 慣れた様子で、長身の男が入ってくる。体格の良い、浅黒い肌の男だった。迷うことなく入ってくると、カウンターの方へと視線を向け、驚いたように目を見開いた。 「先に着ていたか、遠坂。悪い。待たせたみたいだな」 凛と目が合うと、男は小さく片手を挙げた。 「いいえ、私も今着いたところよ。久しぶりね、衛宮くん」 凛は涼しい顔でにっこり、と上品に微笑む。 「士郎!?」 ライダーが素っ頓狂な声を上げる。衛宮士郎は怪訝そうな顔で、大きく見開かれたライダーの目を見つめた。 凛の赤を貴重としたシックで落ち着いた服装に対して、士郎は長袖のTシャツに色褪せたジーンズと、非常にラフな格好をしていた。二人の服装はその身に纏う雰囲気とも相まって、対照的とさえ言える。他の客が見たら、とてもじゃないが二人が待ち合わせをしているようには見えなかっただろう。 「まぁ、そこに座りなさいよ。桜は居ないみたいだし」 そう言って、凛が席を勧める。士郎は顎に手を当てると、何か考え込むような仕草で、ふむ、と小さく頷いた。 「そうか、桜は居ないか」 どこか安心したように呟く。しかし、すぐに思い直したように、いや、別に桜がいちゃいけないという訳でも無いんだが、と言い訳がましく呟いた。 隣に腰かける士郎を、凛はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ見つめている。 「士郎! あ、あなたは一体、今まで何をしていたんですか!? 桜がどれだけ心配したと――!」 呆然と士郎を見つめていたライダーが、ついに声を荒げた。普段あまり感情をあらわにしない彼女にしては珍しい反応である。 「すまないが、ライダー。コーヒーを一つ。遠坂も同じのでいいか?」 「ええ」 凛が涼しい顔で頷く。バーテンダー姿のライダーは、手の平をカウンターの上に叩きつけ、士郎に詰め寄った。 「士郎! あなた、私の話を聞いているんですか!?」 「ああ、聞いてるよ。だが何をしていたかと聞かれてもな……」 四郎はどこか惚けたような顔で言うと、口元に手を添えて瞑目した。そのまま黙り込む。 「大陸で戦争の調停でしょ?」 ポツリ、と隣の凛が呟いた。 「戦争?」 「ええ。テレビで見なかった? こっちでも結構ニュースになっていたと思うんだけど」 人差し指を向け、軽くウインク。ライダーの顔が目に見えて青ざめた。 「戦争というと、まさか」 ライダーは数日前に見たニュースを思い出していた。正直なところ、あまり興味が無かったので詳しく覚えてはいないが、東ヨーロッパの方で争いがあったと若い女性キャスターが言っていたのを覚えている。 凛の話によると、概要はこうだ。 数ヶ月前、長らく緊張状態にあった二つの国のうち、片方が相手の国の領空を侵犯するという事件があった。故意であったのか、はたまた偶然だったのかはわからない。 普通ならば、さほど問題視する必要の無い事件。しかしそれまで諍いの絶えなかった両国の間では、小さな火種でも開戦の決め手となるのに十分な効力を持っていた。 両国間では一気に戦争への気運が高まり、そして、まもなく激しい争いが始まった。血で血を洗う凄絶な衝突。両国の国力に大勢を決めるほどの優劣は無く、争いは長引く様相を見せていた。しかし、 「四、五日前だったかしら? 泥沼化していた両国に、停戦の協定が結ばれたのは」 「士郎。あなたという人は……」 ライダーががっくりと肩を落とす。盛大なため息と共に、恨めしそうに士郎を睨みつける。呆れ過ぎて怒る気力も無くしたらしい。 「ライダー。こいつには何を言っても無駄よ。困っている人がいたら、どんなとこでもすっ飛んでいくんだから。随分無謀なこともしてるみたいだし。そうでしょ? 正義の味方さん?」 テーブルに突いた肘に顎を乗せた凛が、どこか冷たい、呆れたような顔で士郎を流し見る。士郎は凛から逃げるように視線を外すと、 「さぁ? しかし、相変わらずの地獄耳だな。遠坂は」 居心地の悪そうに大きな背中を丸めた。 「時計塔の中にいたって耳に入るわよ。衛宮くんの無謀っぷりは。もっとも、表の世界には名前も出てきやしないでしょうけどね」 「それはそうだろ。俺みたいなヤツがニュースに流れるようになったら、それこそ世界は終わりだ」 「それもそうね」 どこか皮肉げに笑う士郎を見て、凛はどこか痛ましげなものを見るように目を細める。 「そんなことより、俺の方こそ遠坂の話はよく聞くぞ。やれ、南米で遠坂らしき死体が怪鳥に腐肉を喰われているのを見ただとか、砂漠で遠坂らしき乾いたサレコウベを踏んだ、だとか…」 思い出すように中空を睨みながら、士郎が指折り挙げていく。 「誰よ。そんなデタラメ言ってるのは」 凛はげんなりとした顔で頭を抱えた。 「火の無いところにはなんとやら。そんな噂が立つ心当たりは無いのか?」 「心当たりって……」 口元に手を当て、眉根を寄せる。が、すぐに小さく頭を振った。心なしか顔色が悪い。思い当たる節がいくつかあるのだろう。 カウンターの向こうにいるライダーが、疑わしげな目で凛を見ていた。 士郎の口元がニヤリ、と小さく笑みを形作った。 「まぁ、その全てが外れていたわけだけどな。どちらにしろ、随分無茶をしているみたいじゃないか。弔われた青春と学院時代に腐敗した真実の愛を探すためにというには少々……」 「あ、ああああ! あんたなんでそんなことを!?」 士郎の言葉を遮って、顔を真っ赤に染めた凛が椅子から立ち上がった。それまでの優雅な所作はどこへやら。カウンターに手を突いてぷるぷると握った拳を震わせている。 「いや、とある情報筋からね。遠坂、もう少し発言には責任を持った方がいいぞ」 どこか惚けた、けれど勝ち誇ったような士郎の顔。凛は悔しげに口元を震わせている。 「く……! 士郎の癖に……!」 「はぁ。全く、二人とも」 ライダーは呆れてものも言えない、というような顔で、そそくさと珈琲を煎れ始めた。 「覚えてなさいよ。士郎! 桜に全部言いつけてやるんだから……!」 凛が捨て台詞を吐く。すると、 「さ、桜は関係ないだろ」 士郎は拗ねたような表情で顔を背けた。 「ん?」 思った以上の反応に、凛は一瞬、目を丸くするも、すぐに口元に意地悪げな笑みを浮かべた。 「ふふん」 形勢逆転。勝ち誇ったような顔で目を細める。 「相変わらずね。正義のヒーローになっても、衛宮くんは桜に頭が上がらないんだから」 「別に頭が上がらないというわけでは」 ぼそぼそと、士郎が口ごもる。 「それに、俺のことを正義のヒーローなんて言ってるのは遠坂ぐらいで」 「まぁ、いいわ。ところで」 ぼやく士郎を遮るようにして、凛が口を開いた。視線を悪戯っぽく眇め、言う。 「今日は何? わざわざこんなところに呼び出して。どういう了見なのかしら?」 凛の一言に、士郎の表情が僅かに引き締まった。軽く首を傾げると、考え込むようにして目を閉じる。 「ああ、そのことなんだがな」 静かに瞑目したまま、 「遠坂は、この後は何か用事があるのか? ……予定が入っているとか」 思い出したように尋ねた。 「特に無いけど。けど、いつまでもここでのんびり、というわけにもいかないわ。あんただって、どうせまたすぐにどっか行くんでしょ?」 「はい、珈琲入りましたよ」 カチャ、と小気味良い音を立てて、二人の前にアンティーク調の珈琲カップが置かれる。 深い色合いの液体が僅かに揺れ、香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。張り詰めていた空気が弛緩し、凛も士郎も合せたように、ひとまず休憩、と珈琲カップに視線を移した。 「ありがと、ライダー」 にこり、と凛がライダーに笑みを返す。 「お、これは……」 カップを掴み、鼻先へと近づけ士郎が感心したように声を上げた。 「うん。いい香りだ。腕を上げたな、ライダー」 「何を言っているんですか。私はあなたに言われた通り煎れているだけですよ。そもそも、ここはあなたのお店でしょう?」 凛も、カップを口に運び、思わず嘆息する。 なるほど、確かにいい香りをしている。これだけの物を出すには、それなりの経験を必要とするだろう。 「ライダーには迷惑をかけるな」 「迷惑をかける? そう思うならサクラに……!」 「ところで、遠坂。本題に移りたいんだが」 ライダーの追求から逃げるように視線を逸らすと、士郎は再び珈琲を口に運んだ。かみ締めるように、口に含む。 「もう一度、俺と手を組まないか?」 |