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3/殺人貴 魔術回路を励起するのと同時に、用意していた肉体補助の魔術を士郎と私の二人分行使。それだけで宝石が二つ、塵と化した。 左腕に刻まれた魔術刻印が、自律制御により演算という名の詠唱を開始する。 もう馴染となった、神経が人から乖離していく痛みが、遠坂凛を魔術師という名の装置へと切り替える。 「行くぞ」 先に動いたのは士郎だった。 すでに殺人貴を間合いに捕らえていた士郎は、一足飛びに踏み出すと、右手の干将を叩きつけるようにして振り下ろした。 直死の魔眼がどれほどの効力を持っているのか、あるいはその右手に持ったナイフの間合いがどれほどのものか、それらを判ずる間もなく繰り出した一撃。まさしく、先手必勝といわんばかりの躊躇いの無い踏み込みだった。 僅かにひび割れていた石造りの床に、踏み出した右足が沈む。 「ハ――ッ!!」 裂帛の気合に夜気が震え、白塗りの短剣が張り詰めた聖堂の大気を切り裂く。 斬撃は届かない。 殺人貴は大きく後ろへ下がることで干将の一撃を躱す。目標を失った剣は石造りの床を割るように引き裂き、全力で踏み込んだ士郎の体は、剣の勢いのまま前傾に崩れた。 産まれた隙に、殺人貴のナイフがぴくりと震える。しかし、士郎は殺人貴の微かな挙動を視界に捉えておきながら、さらに一歩、前へと踏み出した。 「オォ!」 なんて強い殺気。空気が帯電したようにピリピリと震える。 対する殺人貴は、右手のナイフを水平に構えると、左足を後ろに引き、半身に構えた。上体を前屈みに。しかしいつでも後ろに飛び出せるようにと、重心は後ろにずらしている。 凍える瞳が僅かに細まる。苛烈に責めに徹する士郎に対して、殺人貴は冷静に守りに入る。 士郎の莫耶が水平に、凪ぐようにして振るわれた。またしても全力を込めた大振り。 彼らしくない隙の多い攻撃方法ではあるけれど、その威力、速度は暴れ狂う嵐のように苛烈で、隙が無い。 殺人貴が苛烈に責めるような性格、能力ではないのは、先の様子を見て明らか。ここは一気に畳み掛けて反撃の機会を与えないのも一手。 間合いギリギリで莫耶の斬撃を避けた殺人貴が、僅かに上体を沈めた。反撃の機会を狙っているのだろう。手の中のナイフが、焦れたように揺れる。 しかし、 「―――||Anfang.《セット》」 後ろに控える|魔術師《わたし》を警戒する殺人貴は、後退を選ばざるを得ない。 「ハッ――!」 更に一歩、前に踏み出した士郎は、返す刃でもう一度、横凪の一閃を放つ。 胴体を両断せんと迫りくる莫耶を前にして、殺人貴はさらに後ろへと追いやられる。 しかし、 「ッ!」 殺人貴の背後には、玉座へと通じる巨大な扉。後ろにはこれ以上、逃げ場は無い。 鋭い風斬り音が大気を震わせ、直後、時速100キロで十トントラックが衝突したみたいな、そんな桁外れの衝撃が聖堂を揺さぶった。 扉を背にする殺人貴を、士郎は鋼と鉱石で作られた扉ごと、黒塗りの中華刀、莫耶で斬り裂いた。 火花が散り、巨大な扉は一瞬、アルミ缶みたいにひしゃげたかと思うと、大聖堂を震わせ崩れ落ちる。 「ちょっ、なんて身体してるのよ、アイツ……!?」 回り込むようにして駆けていた私は、思わず殺人貴の姿を確認するのも忘れて呆けてしまった。 なんて馬鹿力。切り裂かれた断面を見る限り、扉の厚さは二の腕の長さほどはあっただろう。それを、あんなアルミ缶みたいに斬り裂くなんて――! 「遠坂、上だ!」 もうもうと舞う砂埃の中から、士郎の声が聞こえる。 ――なるほど。アレを避けたか。 殺人貴の姿は崩れた砂礫に紛れて確認することは出来ない。 想像以上の俊敏さ。しかし、これくらい想定の範囲内である。 だって、この状況はさっきと同じ。同じ蹉跌を二度踏んでやるほど、私たちは易しい相手ではない。 士郎の声が聞こえた時には、指の間に構えた宝石を掲げ、最大限の出力で魔術刻印を駆動していた。 「――――|Anfang《セット》……!」 姿を捉えられないのは百も承知。ならば、出現するであろう位置を予測すればいい。 狙うは、士郎が振るった獏耶による傷跡より、六メートル上、天井と壁の境目――! 「|Vier《四番》,|brennt das ein Ende《終局 炎の剣》―――!」 真紅の閃光が、辺りを明るく照らし出す。一瞬の空白を置いて、凄まじい熱量をもった炎が、壁一面を舐めるように駆け上がった。 「!!」 目が眩むほどの紅蓮の炎が、壁一面を焦がし尽くす。 射程を広域に拡大した魔術は、大した威力は持っていない。だがそれでも、壁を駆け上がったであろう殺人貴を炙り出すのには十分な威力を持っている。 「士郎、大丈夫!?」 炎と砂礫に包まれている士郎に声をかける。士郎には、ある程度の魔術耐性を附加してある。さすがに熱気までは防げないが、大事には至るまい。 外套の中から鉱石を取り出し、私は殺人貴の姿を探した。 逃げ場は無い。さぁ、炎に焼けて死ぬか、落下して士郎の剣に串刺しにされるか選ぶといい。 炎の灯りが聖堂の闇を払うようにして標的の姿を白日の下へ暴き出していく。いかに俊足を誇る殺人貴とて、最早逃げ場は無い――。しかし、 「なっ!?」 その時、異変は起こった。 壁を舐めるように、這うようにして広がっていた炎が一瞬で消失する。 水で消火したときに出る水蒸気も、燃焼に必要な酸素を失い、掻き消える時に出る、あの気の抜けるような音も無い。 そう、それはまるで、 炎の存在そのものを『殺して』しまったとでも言うかのような、消失だった。 微かに舞う砂塵の中から、士郎の腕が突き出る。瞬間、床から天井までを迸るように、一条の矢が撃ちだされた。 いや――。 違う。あれは矢じゃない。 一瞬で消えた炎のせいで、私の目は暗順応を起こしていた。そのおかげで気付くのが遅れたのだ。 そう。あれは矢ではなく、剣。白塗りの双剣、干将。 そして、その剣の向かう先に、彼の姿があった。天井の一画を蜘蛛のように駆ける、殺人貴の姿が。 月明かりに照らし出される、乳白色の外套。 殺人貴は迫り来る刀身にナイフを合わせ、剣の軌道を僅かにずらす。ただそれだけで剣は目標を失い、白塗りの刀は甲高い音を立てて天井に突き刺さった。 「……」 無機質な殺人貴の黒瞳が、士郎を見下ろしている。感情の抜けた、色の無い瞳。敵意も殺意も篭っていないその瞳を見ただけで、思わず身体が硬直した。 なんて表情をしているんだろう。それは酷く、人間味を欠いた瞳だった。 舞っていた砂埃が晴れ、中から士郎が姿を現す。 「やはりな」 殺人貴のその、冷たい瞳を見返して、 「お前ならそうするだろうと思っていたよ、殺人貴」 何が可笑しいのか。士郎は唇の端を吊り上げるようにして笑った。 ピシリ、刀身の突き刺さった天井に亀裂が走る。 同時に、天井は刀身が突き刺さった場所を中心に崩壊を始めた。 「ッ……!」 忌々しげに殺人貴の表情が歪む。一瞬、大きく目を見開いたように見えたが、その姿も降り落ちてきた砂礫と粉塵の中に紛れ、やがて見えなくなった。 派手な戦闘が過ぎたのだろう。大聖堂は地鳴りのような崩壊音を伴って、一気に崩れ始めた。 聖堂は石造りの頑強な造りをしている。落ちてくる砂礫とて、人一人を軽く潰してしまう巨石ほどの大きさである。 「ははは、手を抜いているからそうなる。初めからその魔眼で『剣を殺す』か、最初の矢のように『速度を殺して』いればそうはならなかったのにな!」 士郎は酷く場違いな声で笑って「なぁ、遠坂?」なんて得意げな顔を私に向けた。 「ちょっと、士郎! 暢気に笑ってないであんたも逃げなさいよ!」 崩れた瓦礫は、その真下にいる士郎にも降り落ちる。一瞬だけ見えた士郎の手には、剣は握られていなかった。天井に投擲した干将は解るとして何故、獏耶が握られていないのか――。 「まさか」 扉を切り裂いた時に、獏耶を殺されていたのか。 「心配はいらない。遠坂こそ気をつけろ――|熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》」 ひときわ大きな岩が落ちて、士郎の姿は完全に見えなくなった。しかし、岩が直撃する直前に小さく紡がれた言葉は、しっかりと私の耳に残っている。 確かに、他人の心配をしている場合じゃなかった。瓦礫が降り注いだくらいで、殺人貴が終わるとは思えない。 新たな宝石を二つ、右手に握りこむ。 「まったく、大赤字もいいところよ……!」 地響きを伴って、巨石が降り落ちる。一瞬にして、玉座へと続く扉と、大聖堂の半分が瓦礫の山と化した。まだ建物の形を認識できるほどには、原型を留めているが、これでは時間の問題だろう。 士郎と殺人貴は共に瓦礫の下だ。士郎を助け出すか、こちらから殺人貴に打って出るか迷ったが、私は殺人貴が這い出してくるのを待つことにした。 この瓦礫の下では、ナイフを満足に振るうことも出来まい。狙うとしたら這い出してきた瞬間だ。あるいは――。 「……?」 不意に何か小さく、音が聞こえたような気がした。 間違いない。瓦礫の下から、硬いものがぶつかり合う甲高い音が響いている。金属を叩き付け合ったような、そんな音。 ザン、 続いて、柔らかくて鈍い音。それは、まるで、人間の身体を切り裂いたような……。 「まさか……」 まさか、二人は瓦礫の下で戦っているのか!? 砂礫の山を貫いて、士郎の短剣が飛び出す。 「はぁぁあああ!!」 続いて、同じように巨石の山の中から二つの塊が飛び出した。 一つは、突き出された刀身を躱しながら空中を舞う、殺人貴。そして、岩石を貫いて飛び出したのは、先ほど殺人貴に破壊された獏耶と、それを握った士郎だった。 「……やってくれる!」 士郎から数メートルの距離をはさんで、殺人貴は空中で体勢を立て直し、地面に着地する。猫科の動物のような、しなやかな身のこなし。 「|熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》がただの紙切れだ……。くそっ、化け物め!」 感情を露にして、士郎が毒づく。殺人貴を射るように睨み付けたまま、口の中に溜まった血痰を吐き出した。 そうか。あの鈍い音は、|熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》が『殺された』音だったか。 「……化け物? 片腕で石造りの扉を吹き飛ばすようなヤツには言われたくないな」 体中についた砂塵を振り払い、殺人貴が立ち上がる。 「ふん。お前に比べれば幾らかマシってもんだ。そうだろう、殺人貴」 右手に構えた干将がゆっくりと消えていくのを見つめならが、士郎は眉根を寄せた。 「これが、『直死の魔眼』」 何も握られていない右手を見つめ、忌々げに呟く。もうすでに何度か見ているはずの殺人貴の能力。それでも、感嘆の声を漏らさずにはいられない。 これが、『直死の魔眼』。 その呟きは、双剣を『殺された』ことに対してよりも、士郎が絶対の信頼を置く七つの護りを、おそらく『ただの一撃で』無効化されてしまったことへの驚きが強いだろう。 「くそ、忌々しい|能力《ちから》だ」 「それはお互い様。俺も正直驚いてるよ。暖簾に腕押し……。いや、金太郎飴に近いかな、この感覚は」 殺人貴がため息交じりで呟く。 剣を失ったはずの士郎の右手には、一度失ったはずの陰陽の双剣が握られている。 「斬っても斬ってもキリが無い。まさかそんな便利な能力だとは思わなかった」 呆れたように笑うその表情は、先ほど戦っていた時に見せた無機質なものとは違って、とても穏やかだった。それは、最初に話をしたときの、あの柔らかな印象に近い。 「……」 一体、どちらが本当の殺人貴なのか。戦っているときと、会話をしているとき。それらは酷くかけ離れていて――とても、危うい。 「『投影』だっけ。実に厄介だ。気が滅入るよ」 「名高い『殺人貴』に誉めて頂けるとは恐悦至極。実に創りがいのある闘いだ」 殺人貴の言葉に、皮肉を籠めて士郎は嘲った。 「お互い誉めあってどうすんのよ。士郎、身体は平気?」 どこか不貞腐れたような背中に声を掛けると、士郎が険しい表情で振り返った。その外套は砂塵にまみれ、ところどころ破れている。腕には、僅かに出血の跡も在った。 「血が出てるじゃない! 大丈夫なの?」 思わず大きな声が出る。 殺人貴の一撃は全て必殺。ナイフが腕を掠り、神経を傷つけただけで、魔術回路が死んでしまう恐れさえある。 士郎の『投影』も、非常に特異ではあるものの、所詮は魔術の延長に過ぎない。魔術を扱う者にとって、魔術回路を破壊されるというのは、その首を刎ねられることと同義である。 「ああ。あのナイフにつけられた傷なら、こんなもので済んでいないさ」 殺人貴から目を逸らさないまま、士郎が答える。 「まぁ、そうでしょうけど」 ナイフをその身に受ければ……いや、恐らく軽く掠るだけでも、勝負は決まる。それは士郎も解っているようだった。 その証拠に、さっきの戦闘において、士郎は殺人貴のナイフを紙一重で交わすようなことは一度もしなかった。必ず剣で弾くか、大きく間合いを離してナイフを避けている。 際どい橋も渡れない。ほんの少しの予断も許されない。それだけ、殺人貴のナイフは不吉な予感を孕んでいるのだ。 「……仲がいいね。お二人さん。まるで仲の良い夫婦か姉弟みたいだ」 殺人貴が、身体に巻きつけるようにして羽織っていた乳白色の外套を地面に放った。 白い外套は砂埃にまみれ汚れているものの、その体躯には一片の傷も見られない。頬の辺りに小さな擦り傷が見えるが、これも士郎に直接つけられたものではないだろう。 あの士郎の暴風のように苛烈な攻撃を、あんな小さなナイフ一本で防ぎきった。なんという、戦闘技術。 「――ああ。そうそう」 殺人貴と士郎を見比べていると、視線に気付いた殺人貴と目が合う。彼は小さく唇を吊り上げるようにして、 「そっちの彼女も意外な伏兵だったな。まさか炙り出されるとは思わなかった」 「それはどうも。安心して頂戴。まだまだストックは残ってるから」 にっこりと最高の笑顔を返して、私は右手に構えた宝石を二つ、殺人貴に向かって振ってみせる。 「敵は士郎だけだと思っていると痛い目見るわよ、殺人貴さん?」 む、と殺人貴の眉が寄った。困ったように小さく笑って、 「そうか――。そうだな」 冷たい瞳で、真っ直ぐに私たちを見据えた。やはり、殺気も敵意も篭っていないその瞳はしかし、 「それじゃあ、次は二人とも腕を『殺させて』貰うとするかな。魔術も剣技も、腕が無ければ意味が無いだろう?」 ただただ私たちに、どうしようもない程の不吉な予感を与えた。 自然と、身体が強張る。士郎の顔も緊張に引きつっている。 高まる緊張感の中、自然体なのは殺人貴だけ。どうしてこの青年は、ここまで平然とこの場に居られるのだろう。お互い、どちらかの死地となるであろうはずの、この場所で。 「……ッ」 ギリ、 士郎の口から、奥歯をきつく食い縛る音が漏れた。 「来ないなら、こちらから行かせてもらうぞ!」 時間が経つのを嫌った士郎が、先手を打った。半身で大きく身体を開くと、拳法の演舞のように腕を回して円を描く。手に持った陰陽の双剣が触れ合い、シャリン、と澄んだ音色を夜の聖堂に響かせた。 月光を映し華麗に輝く、白と黒、陰陽を模した双剣。先ほど見せた大振りの太刀筋が嘘のように、双剣は舞うようにして殺人貴へと襲い掛かる。 これこそが、士郎が最も得意とする、剣技を主体とした戦法。双剣は互いの隙を補うようにして空中を舞い、相手に付け入る隙を与えない。 しかし、 「――遅い」 虚空を幾つもの蒼い閃光が奔ったように見えた。ナイフは先回りをするかのように士郎の双剣を受け流し、あるいは弾く。 数合に一度、士郎の剣が一瞬の煌きを伴って消滅する。しかし、瞬きの後には、寸分たがわぬ剣が、その手に復元されている。 殺人貴の眉が、僅かに顰められるのが解った。 士郎にとって、武具を『殺される』ことは大きな痛手とはならない。これまで、あらゆる存在を一撃の下に屠ってきた殺人貴は、士郎の投影魔術に何を思うだろう。 上から振り下ろすようにして叩きつけられる陰陽の双剣。それを、下から掬い上げるようにして、逆手のナイフが迎え撃つ。 「――っ」 どこか舞踏にも似た二人の剣舞。その剣技を。その殺人技術を純粋に、私は『美しい』と感じた。二人の剣舞は私に、八年前、極東の地で起きたある戦争の記憶を呼び起こさせる。 月光の如く煌く双剣を繰る赤い弓兵と、稲妻の如き切っ先を繰り出す青い槍兵の、苛烈にて美麗な鬩ぎ合い――。 相手の武装が持つ間合い、戦闘スタイルこそ違うものの、その光景は二人の英霊の決闘を想起させるには十分だった。 いま思えば、あれは私を戦地へと誘う舞踏だったのかもしれない。あの日から始まり――。そして、今もこうして繰り広げられる私達の戦争の。 鋼と鋼がぶつかり合う、高らかな、けれどもどこか華やかな音が、闇に包まれた聖堂に響き渡る。 私はただ呆然と、その光景に見入っていた。 思わずため息が漏れる。 八年前、二体の英霊が繰り広げた剣劇。当時の私は、その鬩ぎ合いがどれほどの高みにあるものなのか、理解していたつもりだった。 けれど、こうして八年の年月を経た今――。その認識は思い違いだった……。いや、思い上がりだったと言わざるを得ない。 一歩でも、ほんの少しでもその高みへ近づくことが出来た、今だからこそ。その高みに近づくことの困難を。その高みを目指し続けることの苦悩を、より強く感じることが出来る今だからこそ。 「正直、アイツと比べたって遜色無いわよ。衛宮くん。……あなたの力は、英霊にさえ迫ろうとしている」 そうだ。 士郎は、理想へ近づいている。 だったら、私だって負けていられない。修練の成果をアイツに見せてやらなくちゃ……! 「遠坂ッ!」 手の中の宝石を握り締めた時、士郎が叫んだ。 「黙ってみていろ!」 「え? ちょっと、どうしてよ……!」 殺人貴のナイフが士郎の剣を弾き上げ、不吉な切っ先が、士郎の胸を薄く斬り裂く。 「ッ!?」 「余所見なんてしている余裕があるのか? 贋作屋」 ナイフを繰る手を休めずに、どこか不満そうな声で殺人貴は呟いた。 「ふん。それは悪かったな」 ニヤリ、と。不敵な顔で、士郎が唇の端を吊り上げるようにして嘲う。 「お前の|鈍《なまく》らに付き合うのも少し飽きてしまってな。はっ、思わず余所見をしてしまったようだ。――それでは、そろそろ全力で行かせてもらおうか!」 士郎は軽口を叩くが、その顔は僅かに引きつっている。当然だ。今ので士郎は『殺されて』いても不思議じゃなかったんだから。 刀身は身体までは達していない。どうやら、上衣を切断されるに留まったようだ。 「訂正。やっぱり、まだまだね」 自然と、笑みが零れた。ゆっくりと、魔術回路に注ぎ込む魔力量を増やしていく。 ――黙ってみていろ、か。言うようになったじゃない。あんたがそう言うのなら、黙って見ててあげてもいい。ただし、 「もう駄目だと思ったら、あんたごと吹き飛ばしてやるんだからね……!」 膨大な魔力の奔流が周囲の大気に流れ、左腕の周囲が紫電を伴って弾けた。いつでも全力で魔術の行使が出来るよう、細心の注意を払って二人の闘いを見守る。 ぶつかり合った鋼が、鮮烈な火花を散らす。 「は――!」 士郎が吐く、裂帛の気合を、 「……ッ」 殺人貴は、氷の瞳で受け止める。 力と剣技では士郎。速さと能力では殺人貴に分があるといったところか。総合力は現時点で、ほぼ互角。 「分があるとしたら、士郎の剣は新しく造られている、っていうところかしらね」 士郎の剣がもし、『弾かれても自動的に手元に戻ってくる』あるいは、『破壊されても元に戻る』という能力を持っているだけだったら、士郎に勝機は無かっただろう。それでは殺人貴には太刀打ちできない。 『直死の魔眼』。 万物の死を理解する殺人貴の眼は、その存在そのものの死を視る事ができる。 例えば、一番初めに士郎が射た矢。あれは、両断されると同時に『力のベクトル』までをも殺人貴に『殺され』、失速し、地に堕ちた。まさしく、殺人貴という異名に相応しい異能である。 対する士郎の能力は『破格の投影魔術』。もともと無い場所から、剣を創り出す、異能の力だ。剣自体の能力で戦っているわけではないから、剣自体を破壊されても影響は少ない。 士郎は『創る者』。そして殺人貴は『壊す者』。 あるとすれば、そこが勝機。 殺人貴がいかに士郎の剣を『殺そう』とも、士郎は新たに剣を『創造する』。殺人貴にとって、これほど戦い憎い敵というのもいないだろう。 殺人貴の口元から微かに舌打ちの音が聞こえる。彼が士郎を殺すには、士郎の懐まで踏み込む必要がある。ナイフ自体の間合いは短い。士郎の身体を通すにはかなりの接近を必要とする。 「――チッ」 しかし、士郎の持つ剣は双剣。懐に潜るには二度、その刃をやり過ごさなければならない。そして――。 「ハァッ!」 やすやすと接近を許すほど、士郎の剣技は易しくない。 火花が一際大きく散って、殺人貴は士郎から一歩大きく距離を取った。 手首を庇うように抑える仕草。殺人貴は苛立った様子で士郎を見上げた。 ――手首を痛めたか。 純粋な力比べでは、士郎に分が在る。元々の膂力もそうだが、士郎には魔術によるサポートがあるからだ。殺人貴は巧く攻撃を流していたが、あの出鱈目な威力を持つ剣撃を何合も受けていれば、腕が悲鳴を上げるのも当然と言える。 「どうした。もう終わりか? 操る方がそれでは、自慢の魔眼も形無しだな」 「……っく。言ってろ」 構えを崩して、殺人貴が手首の調子を確かめるようにナイフを振った。疲労感を隠せない殺人貴だが、対する士郎の表情は涼しい。 「経験の差、ってところかしらね」 小さく呟く。 際立った能力を持つ殺人貴は、長期戦の経験が少ないのだろう。彼にとって戦闘とは、武器を殺し、守りを殺し、生命を殺せば終わる、そんな短いものだったろうから。 そろそろかしら――? 口元に手を当て、僅かに逡巡し――。私はここを好機と踏んで口を開いた。 「大分お疲れのようね。殺人貴さん」 薄く笑って、あえて余裕たっぷりに腕を組む。 「そろそろ、ここを通す気になってくれたかしら? 何もしないと誓うなら、そうね。あなただけなら見逃してあげてもいいわよ」 「おい、何を言っている。遠坂」 「だってそうでしょう? 私たちの目的はお姫さまだけだもの。彼はただの護衛。これ以上闘っても、お互いのためにはならないわ。無駄な浪費は避けるべきでしょう。無駄な浪費は大嫌いなの。私」 宝石代も馬鹿にならないし、贅肉は少ないほうがいいに決まっている。 納得がいかないという顔をした士郎は、挑むように殺人貴を睨みつけていたが、 「……ふん」 構えを解くと、呆れた、というような目線を私に返した。好きにしろ、ということらしい。 「もし、完全降伏して今すぐ城を出て行くって言うなら、私たちにとってあなたは障害にはならない……。このまま闘っても結果が変わらないなら、同じことでしょ? あなたにとっても悪い提案じゃないと思うけど」 「……」 頭を垂れた殺人貴の表情は伺えない。ゆっくりと息を整え、肩を上下させている。 自身の中で葛藤するものがあるのだろう。 どのようないきさつで真祖の姫の護衛になったのかなんて、私は知らない。だけど魔眼持ちとは言え、魔術師でもない、平和な国に住む一市民であったはずの青年が、このような人の寄り付かぬ廃墟の城で、真祖の姫の護衛なんかをするようになった経緯には、決して浅く無い理由があるのだろう。 しかし、現実は易しくはない。いや、厳しいんだ。 何かを護りきるというコトは。変わり行く何かを維持していくというコトは、想像している以上に難しい。ましてやそれが、生物的な終わりを持たない、人外の生物ならば、尚のこと。 殺人貴は俯いたまま、何も応えない。 よし、迷ってる。あともう一押し……! 「悪いけれど、殺人貴。これ以上あなたに構ってる時間は無いわ」 腕を伸ばし、宝石を一つ、殺人貴に向かって突きつける。 「だから、これ以上は」 「……よく喋るヤツだな」 「――え?」 「問題は無い? 結果が変わらない? ふざけるな。『これ以上は』なんだって言うんだ?」 頭を垂れたまま、殺人貴は独白するように言葉を吐く。そこには、隠しようもない敵意と――紛れも無い殺意が、込められていた。 空気が一変する。世界が反転する。 裏返った世界から現れたのは、戦闘中に殺人貴に感じられた、あの不吉な気配そのものだった。 俯いていた殺人貴が、ゆっくりと顔を上げる。 「なんて、無様だ。殺したくなる」 瞳に映るのは、冷たく蒼い輝き。 それを見た私は、どういうわけか、彼の言葉には一切の偽りも脚色も無いってことが解ってしまった。 「……っ」 ゾクリ、と背筋を悪寒が走りぬける。そこに立っているのは、敵意と殺意がカタチになった、未曾有の獣。 とんでもない化け物を飼っていたものだ。あの優しげな表情や気弱そうな笑みは全て虚飾だったのか。心臓を鷲掴みにされているような感覚。周りの温度が数度下がったような気がする。絶対的な死の予感を引き連れて『殺人貴』は、 「来いよ。――次は殺す気で行く」 ナイフを握った手を、だらりと小さく揺らした。 「ふん」 不機嫌そうに眉を顰め、士郎が二刀の双剣を構える。目が合うと、彼はあの、呆れたと言わんばかりの視線を再び私に向けた。 「それはそうだろうな。これくらいで翻す意志ならば、こんな廃城で門番などやってはいない」 「ッ、うるさいわね!」 「遠坂。おまえ勘違いしているぞ。コイツには何を言っても駄目だ。そんな常識は通用しない。全くの無駄だ。見当違いにもほどがある」 士郎は嫌悪感を露に殺人貴を見据えた。その唇は、全てを嘲るかのように、不敵に吊り上がっている。 士郎は笑っていた。蔑むように。哀れむように。吐き捨てるように言うと、殺人貴を見下ろし、 「そもそも、コイツは正気じゃないのさ。だってそうだろう? こんな廃墟で、理性も失いかけてるような化け物の傍にいるなんて、とてもじゃないが」 「――黙れ」 蒼い残光がゆらり、と揺れ――。殺人貴の姿が、闇に消える。 「え?」 思わず声が漏れる。 殺人貴が、消失した。 そう、それはまさに、消失したという表現が相応しかった。士郎を挟み、目と鼻の先ともいえる距離で相対していた殺人貴が、突如その姿を消したのだ。 不意に訪れた静寂が、私達を包む。月明かりの中、動くものは勿論、物音一つ響かない。完全なる無音の世界。 「遠坂、気をつけろ!」 士郎が緊張を孕んだ声で、小さく呟いた。 「気をつけろって……」 無茶を言う。姿はおろか、気配一つ感じられない相手を、どうやって察知すればいいと、 「――!」 瞬間、暗闇を切り裂くナイフの音を聞いた。 「……ぐっ!?」 「士郎!?」 士郎の身体が、くの字に折れ曲がる。 確かに聞こえた、鋼を叩き付け合う高い音とは違う……何か重く、湿っぽいものを切り裂くような、不快な音を。 疑いようも無い。 それは、士郎の身体を殺人貴のナイフが通った音だ。 「ちょっと、士郎! 返事しなさいよ!」 「大丈夫だ。身体までは届いていない。外装を、殺されたようだ」 お腹の辺りを押さえたたまま、緊張に強張った声で士郎が応える。その声を聞いて、私は小さく胸を撫で下ろした。 しかし――これは不味い。 周囲を見渡し、私は僅かに身を屈めた。 殺人貴の姿は、未だ闇に紛れて見えない。 先ほども、ナイフが空を斬り裂く音は聞くことが出来たものの、殺人貴の姿どころか、ナイフの軌跡さえも視界に映す事が出来なかった。 いつでも宝石魔術を行使できるよう、慎重に辺りを見渡すが――。果たして、その行為に、どれほどの意味があるだろうか。 と、その時、再び空気を斬り裂く鋼の音が聞こえた。 キィン、 闇の中にオレンジの火花が散る。今度はナイフを受けることができたようだ。士郎の干将から、高い金属音が響く。しかし、 「――無駄」 殺人貴は、士郎の背後から現れた。 士郎の顔が驚愕に染まる。殺人貴の右腕で、ナイフが怪しく光った。 「……!」 剣で受けるには間に合わず、避けるのも不可能なその一閃。万事休す。背筋から冷や汗が噴出す。 「っく!」 士郎は僅かな躊躇いも見せなかった。左手の莫耶を、地面に向かって叩きつける。瞬間、閃光が辺りを包み、衝撃が石床が抉られるようにして吹き飛んだ。 「|壊れた幻想《ブロークン・ファンタズム》……!」 吹き飛んだ石片から顔を庇いながら、士郎から距離を取る。爆風をまともに受けた殺人貴は次の一手を警戒したのか、再び夜闇の中へと消えた。 「くそっ、なんて動きだ……!」 緊張と戦慄に強張る士郎の声。今までに無い焦りの色が強く滲む。この闘いで、士郎が初めて動揺を露にした。 「もう、目で終える速さじゃない。……くそっ、なんなんだ。アレは」 毒づきながらも、その視線は四方八方へと世話しなく移動している。 殺人貴のスピードは常識の範囲を超えてはいるが、だからといって士郎の目が追いきれないほどではない。所詮は人間。再現できるスピードには限界がある。それでも士郎の目が追い切れないのは、殺人貴が死角を突き、加速と停止を巧く使い分けることで実際のスピード以上の『速さ』を相手に感じさせているからである。 微かな殺気だけが、夜闇を伝わり肌に届く。 闇の中で獲物を狙う捕食者のように、殺人貴は闇の中を移動し、私達の首を狙っている。 「まるで蜘蛛だ、化け物め……!」 辛くも凌ぎつつ、苛立ち紛れに士郎が呟く。士郎は、殺人貴の姿を完全に見失っているようだった。 真夜中とはいえ、空には明るすぎるほどに大きな満月が輝いている。半壊してる聖堂に、天井は半分ほどしか掛かっておらず、月の明るさは眩暈を覚えるほどに強く感じられる。それでも、なぜ殺人貴を……居ることがわかっている暗殺者を、捕捉することが出来ないのか。 理由は簡単だ。 原因は、この半壊した大聖堂にあった。 天井、壁、床……石材で作られたそれらが破壊され、崩れたことで、あちらこちらに瓦礫の山が出来た。そのせいで、あちらこちらに無数の影が出来ている。殺人貴は、その僅かな、夜闇よりも濃い濃密な影の中にその身を紛らせ、私達の死角を移動しているのだ。 「私は、思い違いをしていたのかもしれない」 殺人貴は、得物を殺し、守りを殺し、生命を殺す……。そういうスタイルを取るものと思い込んでいた。 しかし、それは間違いだ。 士郎の剣術が王道ならば、殺人貴が操るのは邪道――つまり、暗殺術。 まともにぶつかり合う必要など無いのだ。彼が本来、最も得意とする戦闘方法、それは、 暗闇からの、奇襲。 「これじゃあ、完全に」 立場は逆転した。 真祖の姫を狩りに来た私たちは今、その護衛に狩られようとしている。 シュッ、 耳朶に届く、三度目の閃き。 「――|Anfang《セット》.」 迫る気配に素早く身を翻し、私は僅かの躊躇いも無く、右手に構えていた宝石を宙に放った。 恐怖に駆られて思わず身体が取った反応。しかし、それが明暗を分けた。 「|Los! Zweihander――!」 月明かりの大聖堂を紫電が駆け抜ける。目標を決めずに発せられたそれは、辺り一面の空気を引き裂くように迸り、闇夜に潜む獣を一瞬のうちに暴きだした。 ――キィン。 再び響く、甲高い鋼の音。 視線を向けると、そこには、剣を交叉しナイフを受ける士郎と、蒼い瞳をした死神の姿があった。 「……っくッ」 「死ね」 死神のナイフが、鬩ぎあっていた黒塗りの短剣、莫耶を『殺す』。そして、瞬きほどのタイムラグさえ無く、ほぼ同時と言って良いほどの速さで、 「――馬鹿な」 その身を貫こうと振るわれた干将を、返す刃で『殺害』した。 士郎の身体を護るものは、何も無い。 殺人貴の刃が無情にも閃く。宝石を翳すも、全ては後の祭り。 「――!」 叫んだ言葉は、宝石に封じ込められていた魔術を発動させる為に発せられた詠唱だったのか。彼の名前だったのか。それとも――ただの悲鳴だったのか。それさえも解らなかった。 剣を投影するには間に合わない、と悟った士郎の右手が、殺人貴の身体を掴もうと伸びる。しかし無常にも、そこにはすでに殺人貴の姿は無い。 世界がゆっくりと、コマ送りで流れていく。 士郎の身体がゆっくりと倒れる。その上には、後頭部を砕かんと逆さまに宙を舞う、殺人貴の姿があった。 思わず駆け寄る。だが、到底間に合うはずもない。 しかし――まさにこの時、 「この瞬間を、」 勝ち鬨の声を上げたのは、 「待っていた!」 他ならぬ、士郎だった。 ザアァァァッ、 士郎の身体が流れるように動き、左足が地面を踏み締める。片足を軸に、大きく円を描くように回転。片膝を曲げ、片手を突いて地面に伏せる。 予め計算していたとしか思えない、一切の迷いの無い動き。それは完全に殺人貴の動きを読んでいなければ出来ない、命がけの予定調和だった。 「……ッ!?」 大きく身体を伏せた士郎に、殺人貴のナイフは届かない。士郎の後頭部を捕えることなく、ナイフは宙を滑り、やがて殺人貴の身体は自由落下を始める。 その一撃は、必殺でなければならない一撃だった。 決して、外してはならない一撃だった。 本来、『邪道』とはそういうもの。奇をてらうから、予測不能の不意打ちだからこそ、それは王道に対する一度限りの脅威となる。故に、見切られてしまったのなら王道には敵わない。――そこには、大きな隙が生まれる。しかし、 「……!」 これでは決着まで、僅かに届かない。 投影する武器が干将莫耶では――。いや、『斬り払う』ことを主体とする剣では、宙を舞う殺人貴まで刃が届かない。 この間合いを詰めることが出来るのは『突き』を主体とした長柄の武装くらいのもので、 「――さぁ、ここからは君の運だけが頼りだ。殺人貴」 士郎の右手には、いつか見た二メートルに届かんという赤槍が握られていた。 その槍は贋作である。 しかし、創造理念を忠実に再現された幻想は、とある呪いまでも再現する。 オリジナルには及ばないだろう。 完全な呪いとは言えないだろう。 しかし、士郎の魔力が込められたその魔槍ならば、因果律の逆転を再現しうる。真名をもってこの槍が開放されたのなら、殺人貴が選びうる結末は、その『運』に全てが委ねられる。 「|刺し穿つ《ゲ イ ・》」 両手に構えた魔槍が大きく震える。これから貫く心臓の感触と、甘美な血の温もりを前に。 「|死朿の槍《ボ ル グ》―――!」 大きく身体を開き、伸び上がるようにして、士郎は必殺の魔槍を突き出した。 ただ呆然と空中に身体を投げ出している殺人貴の姿が、目に映る。その蒼い瞳は、自分の身を貫かんと迫りくる赤槍の穂先だけを映していた。 「――」 死を前にして、その表情は穏やかで……。この場所ではない、どこか遠くを見ているようだった。 その姿を見て、なんとなく。本当に、なんとなくだけれど、私は彼が随分前から死を覚悟してたのではないかと、そう思ってしまった。 それほどまでに、彼の表情は静かで、綺麗で、私は、 ――その横顔が、突如現れた白い手に殴り飛ばされて行くのを、ただ呆然と見送っていた。 「――……へ?」 ナンダ、アレハ? 「なっ――。なにぃ!?」 士郎の素っ頓狂な声が聖堂に響く。 ああ、なんだか士郎らしい声で、ちょっと安心した。何に安心したのかわからないけど。いや、そんなことはどうでもいい。 何が起きたのかわからない。完全に、思考が停止していた。 だから――。 だから私は、魔槍が殺人貴を貫く直前、何者かがその横顔を殴り飛ばしていったのだと、そう理解するまで――。 たっぷり三秒。 それだけの時間を、要した。 「――ッ!? っ! ――……」 聖堂の端まで弾き飛ばされた殺人貴は、白磁の石で造られた床をゴム鞠のように跳ね、ぼろ雑巾のように転がって、潰れたトマトみたいに壁にぶつかって停止した。 「どういうことよ、これは?」 砂塵舞い散る廃墟となった大聖堂。その中央――。 士郎と殺人貴の間に、一人の女性が立っていた。 「チッ。間に合わなかったか」 士郎が呟き、聖堂に一瞬の静寂が下りる。 「……っ。ぃた……」 石壁によりかかるようにして、殺人貴が立ち上がる。呻きながら、殴り飛ばされた右頬の辺りを押さえる。 「――あ」 その瞳が、一人の女性を映し出した。 「こんばんは、志貴」 白亜の聖堂を涼しい風が吹き抜ける。 「元気そうで安心したわ」 巨大な月はその輝きを数段強くし、空気はその濃密さを増したような気がした。 金砂の髪を月光が撫で上げ、降り落ちる塵がキラキラと眩しく輝きながら純白のドレスに舞い落ちる。 その目には、深く怪しい真紅の瞳。 「ア……、アルクェイド!?」 起き上がった殺人貴が驚きの声を上げ、 「くそっ、あと少しというところで……」 士郎が悔しそうに毒づいた。その手に残っていた魔槍が、音も無く砕け散る。その役目を、遂に果たすことなく。 「アルクェイドって……まさか。ちょっと、士郎!?」 真祖の姫は、白く輝くような笑顔を殺人貴に向け――。士郎と私を、その真紅の双眸で静かに睨み付けた。 |