審問執行のアストラエア



■プロローグ

 かつて、僕たちを育ててくれた人は言った。人の道を外れに外れた人間は、人の法では裁くことさえ出来ない存在――獣になるのだと。
 それを聞いた時、僕はそれまで抱いていた疑問が氷解し、腹の上に落ちてく行くのを感じた。
 そうか。そうだったんだ。神様が僕たちを救ってくれないのは、僕たちが人では無い、獣だからなんだ。
 それなら仕方ないや、と、僕はすぐに人の道を諦めた。
 けれど、心の中ではずっとずっと、待っていたんだ。罪に穢れたこの身体に光が溢れて、獣たちに神の赦しが与えられる日を。僕たちは空を昇って行く。本当のお父さんやお母さんに、再び逢う為に。
 僕たちは、どんな目に会ったって構いやしない。だから裁きの女神さま。僕たちに、罪深い獣に、どうか犯した罪に釣り合うだけの、罰をお与えください。


 ――ずっと考えていた。罪とは何かと。
 真夜中の街路。糞尿が腐ったような据えた臭いの中、身を潜め一人、乾いた意識で沈思黙考する。
 それは、創世から今日までの、罪と罰の歴史。エデンの園において、人類の始祖であるアダムとイヴが原罪を犯し、楽園を追われてから今日まで、罪を裁定・裁量する多くの制度が産まれ、消えて行った。時に、欲望を満たすために弱き者を犯しても許される時代があり、高位な身分の者が下位の者を殺害しても罪とされない時代があった。戦争で、何千何万という人間を虐殺しても、勇猛果敢と称えられる時代があった。
 時代が変われば、場所が変われば、周囲の人間が変われば、罪の制度は風にあおられる炎の揺らめきのように、千変万化に移ろいゆく。
 果たしてそれは、本当に正しい制度と言えるだろうか? 全知全能たる神が造りたもうた世界を形作る定理とあらば、それは、どんな状況下にあっても一切の矛盾なく適応し、いかなる事物に対しても等しく公平に下されるものでなければならない。
 そうでなければ、ならない。
 でなければ、到底受け入れられぬ。
「止めて。止めてちょうだい」
 考える。
 人は、いかなる心理の元に人を殺すのか。なぜ殺すことができるのか。殺す時に、何を考えるのか。
「止めて、止め……ぎあああああぁぁ!」
 ――殺した後に、何を思うか。
 薄汚れた服を纏った人形が、ボロ切れのように打ち捨てられる。冷たい地面に、一定の粘度を持って広がる、生温かい液体。
「わ、悪く思うなよ……」
 赤く染まった大振りのナイフをちらつかせ、縮れた赤毛の男が、倒れた中年女の癖のある長い髪を掴み上げ囁いた。過剰な興奮に打ち震える身体で、ひひ、と掠れた声を上げる。
「仕方ねぇんだ。仕方ねぇんだよ。奪わなければ、みんな飢えて死んじまうんだ。弱い生き物が強い生き物の食い物になるってのは、どこでだって当たり前のことだろ? そうだろ? なぁ!」
 独り言のように言って、掴んだ頭を反吐が張り付いた石塀に力いっぱい打ち付け、男はようやく、長く息を吐いた。歪んだ口元から、乾いた声が漏れる。それは、喉を塞ぐように何かが張り付いたような、低い、嫌な笑い声だった。
 街のあちらこちらから火の手が上がり、ゆっくりと夜に沈む街並みを照らし出していく。薄汚れた石畳の上に疎らに打ち捨てられた、かつて人だったもの。どれもが苦悶の表情を浮かべ、濁った瞳で、どこか遠い場所を睨みつけている。男は途中だった、荷車に麦袋を積み込む作業を再開した。辺りでは、同様の逆奪行為が、至る所で繰り広げられている。
 神話において三度、人の過ちを赦し、四度目にして、ついに人の世を見捨てた裁きの女神、アストレア。彼女が、この光景を見たとしたら、いったい何を思うだろう。やはり人は度し難い愚かな生き物だ、と呆れ果てるだろうか。それとも、憐憫の情から眉をひそめるくらいはするだろうか。
 ――どちらにしろ、全ては過ぎたことか。裁きの女神はもう居ない。新たなる司法制度を創り出そうとするのなら、この手で行わなければならない。まずはあらゆる罪を蒐集し、検分する所から始める。その過程を経てこそ、相応の罪とは何か、その答えを導き出すことが出来る。
 別の場所で細い悲鳴が上がる。痩せギスの若い男が、少女の上に馬乗りになり、ぎらつくナイフをちらつかせていた。少女の身体を包んでいた僧衣が、男の痩せ細った手によって引き千切られ、紙を裂いたような、乾いた悲鳴を上げた。
 湿った舌を伸ばし、男が嗤う。
「なぁ、そう睨むなって。シスター。その薄汚れた身体で、憐れな俺たちの魂を癒してくれよ」
「その格好で、よくもこんなことを! 天罰が下ります。恥を知りなさい!」
 両腕を押さえつけられた少女が、ベールの下から気丈な声を上げて男を睨み上げる。男は微かに眉を寄せ、はて、と首を傾げた。
「ん? 今、なんて言ったお前? 天罰? ははっ! カミサマなんて、もう消えちまったじゃねぇか。もう九年も前に!」
「痛……っ!」
「だから世界はこんなことになっちまった。そうだろ? この街を守ってくれるはずの神父サマも、一人だけ勝手に天に召されちまって、おかげで街はこの様だ」
「……ッ! どうして、神父様のことを」
 少女の顔に、色濃い絶望が浮かぶ。何故、と困惑の表情を浮かべる少女に、男は「何を今更」と呆れた表情を浮かべた。
「何だよ。知ってるから、こうして俺たちみたいな流れ者の標的になったんじゃねぇか。『審問官』が居たら、俺たちは街に手出しが出来ないんだからな」
「そんな……神父様のことは、中央教会以外には話していないはずなのに……どうして」
 少女の身体を覆う濃紺の修道服に、男が手を差し込む。声を上げようとした少女の口を、男はナイフを持ったもう一方の手で押さえつけた。少女は掴まれた魚のように身を捩るが、男の身体が蛇のように絡みつき、すぐに抑え込まれてしまう。
「ヒヒ、お喋りはこのくらいにしておこうぜ。恨むなら、俺たちをこんな目に合わせても平気な顔をしている、ヴェストリクヴェレの連中を恨むんだな」
「ん――っ!」
 身体をまさぐられた少女が、嫌悪と恐怖に身を固くした。頭部を覆っていたベールが外れる。艶のある金色の髪が、汚れた街路へと千路に広がった。
 周囲を取り囲む男たち――中には女も居る――は、未だ燻る興奮を持て余すように、湿った笑みを浮かべ、男の行為を静観している。
 人を殺すには、精神の高揚が必要だ。思考回路を痺れさせる脳内麻薬が不可欠だ。一度触れた狂気は、そう簡単に冷めるものではない。男たちは、高まった衝動の捌け口を求めており――その標的となるのは、いつだって、力の弱い者たちだった。
「へへ……俺たちは、教会の支配から、この世界を解き放つ救世主なんだ。だから、こんなことはどうってことはない。喜べよ、なぁ。お前は選ばれた人間に犯されるんだ。楽しもうぜ。なぁ……」
 湿った囁き声を吐きつけながら、男がもがく少女の足の間に身体を滑り込ませる。
「――ッ!?」
 がさついた指が、足の間へと伸ばされ、少女の恐怖が頂点を迎えようとした、まさにその時――不思議な声が、興奮して真っ白に染まった男の意識の間隙に滑り込んだ。
 反射的に顔を上げる。周りの人間も、みな同じ方を向いていた。ぼんやりと闇に浮かぶ荷馬車の影で、倉庫から麦袋を運び出していた赤毛の男が一人、じっと夜の中に立ちつくしている。
「おい、何か言ったか?」
 近くに居た仲間の一人が声をかける。赤毛の男は麦袋に手をかけたまま、ゆっくりと首を傾けると、視線を注ぐ皆の方へと焦点の合わぬ瞳を向け、
「―――、」
半開きの口から、ごぼり、と黒く澱んだ血液を吐きだした。赤黒く塗りつぶされた唇が細かく蠢き、細く短い声が漏れる。
 それは、何か意味のある言葉ではなかった。あらゆる言語から、意味やニュアンスを取り去った、残り滓のような音。例えるならそれは、驚きを表す「は」という発音に似ていた。
 重たい沈黙が、分厚い帳(とばり)のように街路に降りる。誰もが皆、乾いた土の上に崩れ落ちた男を、ただ静かに見つめていた。男の背中には、銀色に光る細長い、短い杭の様な剣が突き刺さっている。
「伝説の英雄のような、人類の指導者となるべき選ばれし者は、より大局的な正義を為すためならば、既存の法や規範をも超越する資格を持つ」
 周囲に色濃く蟠る闇の中から、低く陰鬱な声が漏れ出し、男たちは夢から醒めたように顔を上げた。下生の草木の陰から、薄汚れ、色あせた革の編み上げブーツが現れる。
「――愚かな。金貸しの老婆を殺したラスコーリニコフを気取るか」
 強い怒りを孕んだ、底冷えする暗い声。闇の中から現れた男は、嫌悪と怒りに巌の様な顔を歪ませながら、取り囲む男たちを睨み据えた。四十がらみの、色艶の出るまで磨き抜いた黒檀の、太い宮柱のような大男だった。噴き上がった炎に照らされる唇は笑みの形に歪んでいるのに、瞳は炎の赤黒い灯りを受け、悪鬼のごとく爛々と輝いている。
 銃器の照準が、一斉に闖入者へと向けられた。取り囲む男たちの顔色は一変していた。その視線は、ただひたすらに男がまとう黒く長い僧衣へと注がれている。
「……神父だと? どういうことだ。この町にはもう、『審問官』は居ないはずじゃ」
 銃を構えた男の一人が、緊張をはらんだ声で言った。ざわり、とどよめきがさざ波のように広がる。急激に高まった緊張に、気の弱そうな一人の男が、衝動的に声を張り上げそうになり、
「騒ぐんじゃねえ」
落ちついた若い声が響いて、男たちはすぐさま静まり返った。先ほどまで膨れ上がっていた緊張が、音を立てて萎んでいく。声を発したのは、つい今まで女に圧し掛かっていた痩せギスの若い男だった。
「ルチェルトラ」
 誰かが、男の名前を呼んだ。
 男は立ち上がり、気だるそうに小さく首を回した。灰色がかった髪が、炎の灯りの下に現れる。痩せギスの身体は、飢えた野犬を思わせた。
「落ちつけよ。カソックを着ているからと言って、『審問官』だと決まった訳じゃない。――俺みたいにな」
 痩せギスの男はおどけた調子で言って、自分の着ている、黒の僧衣を示す。太い宮柱のような大男が、僅かに眉をひそめた。
「おっと。オッサン、勘違いするなよ。俺は神職者じゃねぇ。これは制服みたいなもんなんだ。そういう決まりになってんの。あんたもその口だろ? とても神父様ってツラには見えねぇもんな」
 ニヤニヤと笑みを浮かべ、痩せギスは馴れ馴れしい口調で言って男を見上げた。口調は気安いのに、黄色く濁った瞳だけが、妙な輝きを宿して怪怪と輝いている。
 男の眉間に刻まれた皺が、より一層深いものとなった。
 ――プロイセン王国の軍人であり、軍事学者であるクラウゼヴィッツは言った。『おぞましさのあまりに目をそむけたくなる部分があるからといって、その営為について考えまいとしても無駄である。否、無駄であるどころか有害でさえある』
 あらゆる不都合な事実から、目を背けてはならない。人は、今一度考え、向き合わなくてはならないのだ。罪について。その報いとして与えられる、罰について。
「で、何者だ? あんた」
「俺は、お前たちを審問し、死を執行する者だ」
 誰何の声に、僧衣の男は低く押し殺した声で答えた。ゆっくりと一歩を踏み出す。
「――は? 何だって」
「我は問う。罪とは何か」
 囁く声は、地獄の淵から響いて来るような、不吉な気配をはらんでいる。
「罰とは何か」
 心を撫でられるような響きに、取り囲む男たちから、目に見えて落ち着きが無くなっていく。
 ――神は全知全能であり、あらゆる罪に適正な罰を与える。
 天罰、神罰、仏罰。
 幼い頃に、誰もが耳にしたことがあるはずだ。自らの行いには、いずれ相応の報いが訪れると。
「……なんだ、こいつは」
 誰かが呻くような声を漏らした。
 麻痺していたはずの良心が、『殺人』という大それた自らの行いに怖れおののく。男たちは等しく、棒立ちになった。柔らかな心の深部に、木の杭を打ち付けられたかのように。
「我は問う。貴様たちが持つ、人の心に」
 夜闇を煮詰めたような男の僧衣が翻った瞬間、二人の男と一人の女が、石畳の上に崩れ落ちた。呆然とした顔で目を見開いて炎の灯りを映している。額に、十字架のように細長い、銀の短剣を生やして。
 いったい、何が起こったのか――。
 痩せギスは、呆然と僧衣の男を見上げ――巌のような肩の向こうに、青白い光が浮かんでいるのを見つけた。
「『天使』――……本物か」
 呟いた瞬間、女たちが甲高い悲鳴を上げ、駆け出した。男たちもみな、抱えていた荷物を放り出し、一目散に逃げ出す。
「……チッ、『審問官』に出くわすとは。面倒なことになっちまった」
「貴様は逃げないのか?」
「逃げる? はっ、そんな必要は無え。さっきも言ったろう? 俺はさ、選ばれた人間なんだ」
 痩せギスは言って、手の中のナイフをちらつかせた。鋼の刃が、暗く燃え上がる炎を映して、千路に色を変える。その自信にあふれた態度は、とても虚勢には見えなかった。
 どういうことだ? 男が問うような視線を向ける。痩せギスは、唇の端を歪め、低い声で言った。
「俺はな、『山狗の子供』なんだ」
「山狗の子供?」
「そう。人の心を持たない獣の子供さ。俺は昔、審問官の前で人を殺したことがある。言いがかりをつけてきた、どうってことないただのゴロツキさ。普通なら、代償として腕の一本や二本、奪われて当然だ。だが、その審問官は俺を裁かなかった。いや、裁けなかった。どうしてか解るか?」
 痩せギスが、ぎらつく瞳で男を見上げる。
 問われた男は、色濃い苦悩を眉間に刻んだまま、口を開こうとはしなかった。
「チッ、だんまりかよ。……まぁいい。『山狗の子供』には、罪の意識ってもんが根こそぎ抜け落ちているんだ。要するに、ケモノなのさ。人が人の為に創ったルールなんて、知ったことじゃない。罪の意識が無い者を、審問官は裁くことが出来ない。裁けない以上、天使は罪人に罰を与えない。つまり俺は、神の代理人である天使にさえ、罪を咎められることはないのさ。奪い殺す権利を与えられているんだ」
「なるほど。初めから人の心を持たぬ者か。審問官は、畜生に人の理を教えることは出来ぬ、と罪を問う事を諦めた、と。――しかし、奪い殺す権利を与えられたとはどういうことか。その権利を与えたのは、いったい誰だ?」
 その問いと同時に、痩せギスはナイフを握る方とは反対の手で、銃を抜き放った。照準を男の眉間に合わせ、酷薄な笑みを浮かべる。
「決まってる。この世界を見捨てた、非情な神サマだよ」
「神に?」
 その答えに、男は不意に、歯を剥き出しにして笑った。銃を突き付けた痩せギスが不審に眉をひそめるのにも構わず、黄色く変色した犬歯を剥き出しにして、はっ、と嘲るように鼻を鳴らす。
「貴様の言っていることは矛盾している。神を無能だ、非情だと蔑んでおいて、自分はその神に権利を与えられたと言う。無能な神に与えられた権利に何の価値がある。道理無き免罪符など、地獄の羅刹の前では鼻紙にさえ劣るだろう」
「……なんだ、お前は。俺に対して『法廷』は開けない。殺そうと思えば、すぐにお前を撃ち殺せるんだぞ」
 痩せギスの顔に、初めて戸惑いの色が浮かんだ。何かが違う。この男は、これまで見て来た、どの審問官とも違う。いや、そもそも神に仕える者が、こんな禍々しい気配を放つものだろうか。神を冒涜するような言葉を吐くだろうか。
「成程成程。確かに貴様の言う通り、神は無能だ。神の代理人を語る審問官が、その程度の罪悪も裁けなかったのでは、信仰心も失せるというものだ。神に身限られ、それでも抗うこと一つせず、ただ滅びに向かうのを静観しているしかない訳だ!」
 強い怒気を含んだ声に、熱せられた大気が揺れる。
 まるで重戦車を前にしているような圧迫感に、痩せギスは思わず息を飲んだ。僧衣の男は唇の端を歪に吊り上げ、更に一歩、痩せた山狗の子へと近づく。
「罪に善悪の概念など存在しない。本人がどう思っていようと、人の道から外れた者は罰を受けなければならないのだ。それが人の世を守る真なる理!」
「ッ!? コイツを殺せ!」
 痩せギスが叫ぶと同時に、建物の影に隠れていた男たちが、一斉に銃の照準を男に合わせた。僧衣の男は、早口に、低く押し殺した声で告げる。
「罪とはお前だ。罰とは私だ。私が裁き、私が執行する。――裁きの時だ! 跪け!」
 懐から銀の短剣を抜き放つ。頭上に掲げると同時に、背後の闇が細波(さざなみ)のように揺らぎ、その向こうから、紅蓮の炎が迸った。

 ――この剣<しるし>によって、汝はうち勝たん(イン・ホック・シグノ)

 炎が揺らぎ、人語を発する。
 中空で燃え上がる炎の中から現れたのは、真紅の瞳をした異形の少女。夜闇よりも濃い黒髪を熱気に舞い上がらせて、一糸まとわぬ白い腕を大きく広げる。産まれたばかりの雛鳥が、悦びの声を上げるように、その背中に生える漆黒の翼を広げた。――背後の闇に、殺意に鈍く光る十の剣を控えさせて。
「黒い翼の天使? まさか、こいつは――」
 痩せギスが、銃把を握り締めたまま、忘我の声で呟く。その顔が、次第に歪な歓喜に染まった。
「ククク、ハハハハハ! そうか。遂に俺の前にも現れたか。俺の罪を焼きつくす、俺の、俺だけの天使が!」
「そうだ。裁きの時が来たのだ。獣の子よ」
 乾いた笑い声に、男は眼球が零れんほどに大きく目を見開き、怒りに染まった羅刹の表情で、銀の短剣を振り上げた。
「今こそ貴様に、贖罪の機会を与えよう。死を持って償え。――我は獄卒。我が天使が纏うは、煉獄の炎。ここに正義を執行する。開廷″!」





■第一章 審問官@

 どうして人は、自分のことを棚に上げ、臆面もなく他人を非難することができるのだろう、とフレデリカは疑問に思う。
 例えば、もしもの話として、ここに人の命を預かるような、重責を負う役目を任された人が居るとする。彼はそれまで別の、それも極めて大切な仕事をしていたが、どちらの役目も、彼以外に務めることが出来ないので、二つの役目を兼務することにした。彼は二つの役目を両立させようと、懸命に努力し働き続けた。しかし、どちらの役目も十全にとはいかず、どうしても手の届かない所ができた。
 彼を責める権利は誰にもない、とフレデリカは思う。
 もしあるとすれば、それは少なくとも、彼と同じように、誰かの為に、何かを精いっぱいやっている人間でなければならない。少なくとも、成績も悪く、性格はそれに輪をかけて醜悪で、でっぷりと肥って運動も出来ない癖に妙に雄弁な、あのヨーゼフにそんな権利はネジ一本分も存在しないと思う。だから、この街の神父と機械技師を兼ねている父の仕事を非難されても、フレデリカはまったく、ほんの数グラムさえも悔しく思う必要などないわけで――。
「ひぃ!? フ、フレデリカ。机なんて持ち上げて、いったい何を」


 体当たりのようにして観音開きの扉を開いて外に出ると、街路に歩いていた人たちの視線が一斉に集まった。
 フレデリカは一瞬、虚を突かれたように淡褐色(ヘイゼル)の大きな瞳を見開いた。俯くも、すぐに眦を吊り上げ、耳に掛かる、細かく編んだ金褐色の髪を跳ね上げて、歩き出した。
 石畳に薄く広がる水溜りを駆け足に通り過ぎ、ぎゅっと拳を握りしめる。
(泣いてる所、見られた。恥ずかしい……)
 真っ赤な俯かせ、肩に掛かった植物と花の柄があしらわれた麻のショールで、さっと涙を拭う。ざらっ、としたごわついた感覚が頬をかすめた。
 街は今日も、乾いた風と砂ぼこりの臭いがした。
 露店商が溢れる大通りを足早に過ぎ、急な坂を降り切った所でそっと辺りを見渡すと、先ほど感じた好奇の視線は、すっかり消えていた。誰もが楽しそうに、わいわいと露店を見て回っている。いろいろな声が聞こえてきた。この通貨は使えないよ、これから砂漠を越えるんだ、もう少し安くならないかね、あの物騒な噂はどうなった……。
「待って!」
 周囲の雑音に紛れるように、織物屋の軒先を曲がった背中に、上擦った声がかかった。
「待ってよ。フレデリカ……!」
 必死に女の子の名前を呼ぶ情けない声に、道行く人が「何事か」と視線を向ける。フレデリカは頭が痛くて堪らない、というように額を押さえると、「ああ、もう!」と癇癪を起したように地団駄を踏んで、勢いよく背後を振り返った。坂の上から、両手いっぱいに本を抱えた小柄な少年が、小犬のように駆けてくるのを見返して、
「付いて来ないでよ。リオ! あんたって、ホントどんくさいのね」
 積み上げた本の向こうから、「だって」と弁解じみた声が聞こえてくる。短くて癖のあるブロンドの髪が、本の向こうに現れたり消えたりした。フレデリカは再び集まり出した好奇の視線を避けるように、無言で歩き出した。追いつき、横に並んだリオが、剣呑な雰囲気を放つフレデリカにかまわず、潜めた声で言う。
「あれはやり過ぎだよ。フレデリカ。椅子でヨーゼフの頭を殴りつけるなんて」
「いいのよ。少し頭を打った方が、あの豚並みの性能しか持たない頭も、少しは良くなるってものじゃない。むしろヨーゼフの為だわ」
「フレデリカ! ……はぁ。君って人は。そんな言い方をしちゃいけないよ。確かにヨーゼフも口が過ぎたと思うし……その、フレデリカが怒るのも、よく解るけど」
 最初は説教をするように力強かった口調が、段々と尻すぼみになって、消えてしまう。青い瞳を憂うように揺らし、ついに俯いてしまった。フレデリカは、そんなリオを盗み見て、
「ほんと、バカ。なんであんたがそんな顔するのよ」
 リオには聞こえないよう、小さな声で呟いた。心優しい彼は、真実のところ、ヨーゼフではなくフレデリカに同情しているのだ。それがわかるからこそ、フレデリカはリオの顔を真っ直ぐに見ることが出来ない。
 きゅっと唇を引き結ぶ。リオのこういう態度は、説教されるより、よっぽど胸に響く。
 ヨーゼフなんて適当にあしらえる自信があった。ヨーゼフの言う事なんて、クラスのみんなは誰も本気にしない。そんなこと、わかってたはずなのに。
「先生も心配してるだろうし、後で謝りに行かないと駄目だよ。僕も一緒に行くから」
「なによ、もう! リオの癖に!」
 苛立ちまぎれに、リオの足を踏みつける。たくさんの本を抱えるリオが、体勢を変えることも出来ず、声も出さずに小さく呻いた。
「なによ。偉そうに。つい最近まで、私の影に隠れて何も言えなかった癖に」
 リオには聞こえないように呟いて、フレデリカは、石造りの家々に切り取られた狭い空を見上げた。
 そこにあるのは、人工的な光を放つ巨大な照明と、全面ガラス張りのドーム型の天蓋。そして、天蓋を外側から覆い隠すように伸びる、緑色の葉を生い茂らせた枝木――『アール・キング』。突然変異で産まれたという巨大というにはあまりにも巨大な榛の木は、ドーム型の都市を傘のように覆い隠している。生い茂った枝葉のせいで、太陽光が満足に届かないこの街は、自然光よりも人工灯の輝きの方がずっと強い。本当の空は、木漏れ日の中を探しても微かにしか見えやしない。
 フレデリカは、自分がまるで鳥かごの中に入れられた小鳥のように思えて、思わず泣きたくなった。どうして空がこんなに遠いのだろう。視界いっぱいに広がる空を、心行くまで見渡し、その向こうの国々に想いを馳せることが出来れば、それはどんなに幸せなことだろうか――。
「やっぱり、神様なんて居ないんだ」
 低い声で呟くと、最近、急に背が伸びたリオが顔を覗き込んできた。
「ねぇ、フレデリカ」
「……な、何よ」
 目が赤くなっていやしないかと心配になり、慌てて顔を逸らす。リオは、真剣な表情でフレデリカの顔を見つめたまま、案ずるような声で言った。
「神様が居ないなんて、そんなこと言っちゃ駄目だよ。だって君は、この街の神父の娘なんだから」
「……うん」
 触れそうな距離から見つめられ、思わず素直に頷いてしまう。何だか調子が狂う。昔はこんなこと無かったのに、最近はこうして言いくるめられてしまう事が多くなった。リオの背が伸びたことと、関係があるのだろうか?
 俯くフレデリカに、リオは身体を話すと、「大丈夫だよ」と勇気づけるように頷き、
「神様はきっと見ていてくれる。……確かに君は、ちょっとお転婆でガサツな所があるし、手が出るのも早いから、聖職者には向いていないだろうけど、神様は寛大だから許して下さるは」
「ふん!」
「〜〜〜〜!」
 力いっぱい足を踏みつけた瞬間、リオの身体がバネ仕掛けの玩具のように跳び上がった。抱えていた本が、ばさばさと大きな音を立て、石畳の上に広がる。
 フレデリカは、怒りと悲しみの混じったような、やるせない感情をもてあまし、まなじりを吊り上げ、天蓋を見上げた。胸いっぱいに乾いた空気を吸い込み、空に向かって叫ぶ。
「もおぉぉぉ! なによ。なによ。こんな街、いつか出て行ってやるんだからあぁ――!」
 叫んだ声は階層に響いて、キンキンと甲高い音を立てて天蓋に昇って行く。すぐ隣で、大声に驚いたリオがバランスを崩して転ぶ、派手な音が聞こえた。





(>∀<)ノぉねがいします!



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