階層型第十四自治都市『ヴェステリクヴェレ』。人口八万人ほどの小都市は、平均直径二十五キロメートル、高さ七メートルからなる円形基盤が、少しずつ重なり合うことで構成されている。ちょうど、少しづつ大きなドーナッツを重ねたような形状を想像してもらえば良い。不格好に重なり合った基盤の外周を取り囲んでいるのは、高さ五〇メートルからなる鋼の防壁。天蓋は分厚い強化ガラスで覆われており、外から見ると、ちょうど底の浅いバスケットが置かれているように見えることから、このような都市形態は『篭型都市』と呼ばれ、神様がこの地上から消え去った、九年前のあの日以来、世界の主要な都市を形成する代表的な都市形態の一つとなっている。

 九年前の、ある春めいた昼下がり、神様は突如この地上から姿を消した。何の予兆も無いままに。

 同時に、世界は激変した。それは、それまで流転していたありとあらゆる事物が、実は静止していたのではないかと錯覚するほどの急激な変遷だった。気候が大きく変動し、観測規模を遥かに上回る自然災害が、至る所で多発した。巨大な台風、竜巻が繰り返し発生し、稲光が打ち付ける雨のように、何日も降り続いた日があったかと思えば、月単位で深刻な干ばつが続く日もあった。幾つもの街が壊滅し、森が焼け、瞬く間に砂漠地帯は拡大した。
 生態系は様変わりし、環境の変化に耐えられなかった種は絶滅した。一説によると、僅か五年で数万といわれる動植物が歴史の海に姿を消したと言われている。
 残された資源を巡って小競り合いを続けていた人間たちが、争っている場合ではないのだ、と気づいた時には、世界の人口は四分の一ほどにまで減少し、多くの地域が頑丈な都市防壁なしでは暮らしていけない、不毛の大地――灼熱の砂漠へと姿を変えていた。それは、創世記に記されたノアの方舟の物語に似ていた。空に帰った神様が気まぐれで、世界を滅ぼそうとしているかのようだった。ただ一つ違うのは、生き残ったのは「神と共に歩んだ正しい人」ではなく、「ただ幸運なだけの普通の人」だったということ。

 ――下の階層から上の階層に向かって、今日も乾いた風が吹く。

 強化ガラス越しに差し込む太陽光が、上の階層の空気を暖め、上昇気流を発生させるのだ。逆に夜になると下層の空気が冷えて、今度は下降気流が発生する。都市の外に広がる砂漠は、夜は凍えるほどに寒くなる。
 風に遊ばれ、乱れる髪を抑える。
 今年で十五歳になるフレデリカは、外の世界のことを、よく知らない。地球が、人が住むには厳しすぎる環境へと変貌を始めた時、フレデリカは、まだほんの六歳の子供で、世界は小さな箱庭のような家と、いつも騒がしい託児施設だけだった。外の世界がどれだけ変わったのか、と問われても、フレデリカは上手く答えることが出来ない。
 ただ、今でも時折夢に見る。雪解けの季節。雲一つ無い、青く澄みきった空が移り込む静かな湖と、湖畔に無数に咲き誇る、真っ白な水仙の花――。
「フレデリカ。もう少しゆっくり歩いてよ……!」
 何度も思い返し焼き付けた、幼少の記憶に想いを馳せていると、上擦った声に現実へと引き戻された。振り返ると、たくさんの本を抱えたリオが、積み重ねた本の向こうから、物言いたげな視線を送っていた。
 リオは、今年で十四になる幼馴染の男の子だ。真面目な努力家だが、どこか呆としているというか、抜けている所があって頼りない。今も、どこかに躓いたらしく、バランスを崩して本を落としそうになっていた。
「誰も付いて来て、なんて頼んでないでしょ。バカ」
 フレデリカは、呆れ顔で溜息を一つ。リオはいつもこうだ。頼んでも居ないのに、フレデリカの後をとことこと付いて回る。
 この間、クラスの女の子が言っていた。
『リオくんって、飼い主(フレデリカ)を追いかける小犬みたいね。毛並みの良い、白いラブラドール・レトリーバー!』
 クラスの女の子が、自分のことを何て言ってるか教えてやったら、リオはどんな顔をするだろう。少しは頼もしくなるだろうか――そこまで考えて、フレデリカはゆるゆると首を振った。クラスの女の子が、その後に続けた言葉を思い出したのだ。
『――いいなぁ。私にもリオくんみたいな可愛い番犬がいればいいのに。だって、彼って『特別』でしょ?』
 これではむしろ逆効果だ。
 フレデリカが「頼りない」と思うのに反して、みんなの評価は少し違うらしい。少し鈍くたって、リオは決してクラスのみんなに軽んじられたりしない。
 『特別』なのだ。
「そんな、酷いよ! 部品の買い出しに行くから付き合えって言ったのは、フレデリカじゃないか」
「あれ? ……そうだっけ?」
「そうだよ! 君って人はもう」
 恨みがましい目で見つめられ、フレデリカは乾いた笑みを浮かべた。言われてみれば、そんな約束をしたような気がする。
「悪かったわよ。ほら、半分貸しなさい。持ってあげるから」
 上の方から数冊本を抜き取ると、その向こうに、ほっとした様子のリオの顔が現れた。癖はあるけど綺麗なブロンドの髪。澄み切った蒼い瞳。肌の色は、学校のどの女の子よりも白い。
「な、なに?」
「……何でもない。行きましょ」
 踵を返して歩き出すと、リオが駆け足で続いた。
 すぐに横に並ぶ。視線を向けると、にこにこと楽しそうな顔と目が合う。
「ありがとう、フレデリカ」
 突然、リオが言った。
「いいわよ。買い出しに付き合ってって頼んだは私なんでしょ。……それより、リオ。さっきのこと、お父さんには言わないでよね」
「わかってるよ」
 ニコニコと嬉しそうにリオが笑う。リオは最近になって、急に背が伸びた。小さい頃から、ずっとフレデリカの方が高かったのに。何時の間に追い抜かれてしまったのだろう。
「フレデリカはホント、見栄っ張りだからなぁ。なに? またお父さんと喧嘩したの?」
「なによ」
 したり顔で笑うリオが気に食わなくて、軽く身体をぶつけてやる。リオはバランスを崩し、「わわわっ」と声を上げながら、傾いた本をすんでの所で立て直した。詰襟の祭服を見下ろし、泥が跳ねていないか確認している。
「……そんな長い服着てるから、変な所で躓くのよ」
 リオには聞こえないよう、フレデリカは小さな声で呟いた。
 実の所、リオの運動神経は、そこまで悪くない。何も無い所でよく転ぶのは、間違いなく、あの真っ黒な詰襟の祭服のせいだ。教会からの支給服は、最も小さいサイズでも、リオの足首を覆うほどの長さがある。傍から見ていても、躓いて転びやしないかと不安になるのだが、リオは変なところで強情で、「すぐに背が伸びるからいい」と丈を詰めるのを嫌がるのだった。そういう所は、まだまだ子供っぽい。
「ホント、鈍臭い。しっかりしなさいよね。マグノーリエが心配して出てきてるわよ」
 フレデリカがわざとらしく大きな声で言うと、リオは肩の上に輝く光の粒を振り返り、曖昧な表情で照れたように笑った。
 彼の背中には、『マグノーリエ』という名前の『天使』がついている。リオが『特別』だと言われるのは、彼がこの都市に三人しかいない『審問官』の一人だからだ。
 この世界を見捨てた神様が残した、忘れ形見――『天使』。彼らに選ばれた人間は、『審問官』と呼ばれる司法の体現者となって、人々の罪を裁き、罰を与える権利が与えられる。この荒廃した世界が、何とか秩序を維持していられるのは、おそらく、彼ら『審問官』と『天使』たちのおかげ。だから『審問官』は、世界に数多あるどの職業よりも、人々から尊敬を集めている。
「僕はともかく、フレデリカはお父さんと仲直りしないとダメだよ。たった二人の家族なんだから」
「あんたの正論しか言わないところ、わたし嫌いだわ」
「僕は捻くれて素直になれない、けど優しいフレデリカが好きだよ」
「はいはい。お子様お子様」
 いかにも如才ない笑みを浮かべるリオを適当にあしらって、大通りを抜ける。
 今日もヴェステリクヴェレの市場は活気に溢れている。様々な服装をした商人たちが、道端に敷いた多彩な布地の上に商品を並べ、各々貨幣のやり取りをしていた。その多くが、街の外から来た人間たちだ。
 多くの地域から人々が集まるこの市場では、基本的に何でも手に入る。晩御飯の材料から、表には出ていないけれど、奴隷の子供まで。外の人間が混じる分、いさかいも多いけれど、それでも一時よりは随分とマシになったもので――。
「リオ?」
 気がつけば、すぐ隣を歩いていたリオが姿を消していた。振り返ると、すぐ後ろの倉庫の前で、同年代の男の子たちに比べると小柄な、その姿を見つける。
 リオは呆けた顔で、立ち並ぶ石造りの倉庫の間に出来た、外来の商人も近寄らない、薄汚れた路地裏を見つめていた。
「ねぇ、フレデリカ」
「なによ?」
「ちょっといいかな」
 言うなり、ふらっ、と路地裏の中へと吸い込まれていく。フレデリカは、「何を勝手に」と頬を膨らませたものの、夢遊病者のような足取りで路地裏に吸い込まれていくリオのことが気になって、しぶしぶ後を追った。
 薄暗い路地裏はゴミ捨て場になっていて、生ごみが腐ったような、酸っぱい臭いがした。
「リオぉ、本、重いんだけど」
「ごめん、すぐ終わるから」
 リオは何かを探すように、辺りを見渡している。
 フレデリカは呆れたように息を吐くと、本を抱え直した。こうなったリオは、人の言う事を聞かない。それは長い付き合いの中で、よく解っていることだった。
「もう、早くしてよね」
 壁に寄りかかり、買い出しで回るルートはどうしようかしら、と考えていると、視界の隅で、さっと動く影があった。
 ――猫だ。
 白いゴミ袋の影から、白い猫が一匹、にゃぁ、と甘えるような声を出してリオの足にしなやかな身体を擦りつける。可愛いな、とフレデリカが身を屈めると、白猫は、びくっ、と身体を震わせ、とことこと逃げ出してしまった。
「……なによ。私じゃ嫌だっていうの?」
「あ」
 フレデリカが頬をひきつらせ、立ち上がったその時、首を逸らしていたリオが、小さく声を発した。瞬間、
「きゃあああああぁぁ!」
 突如、頭上から振って来た絹を裂くような細い絶叫に、フレデリカは思わず身体を硬直させた。何事かと顔を上げるより先に、山と積まれたゴミ山に、何か大きなものが落下して、派手な音を立てる。
 舞い上がる細かい埃が、陽光を反射して、きらきらと銀砂のように輝いた。
「――え?」
 身をすくませていたフレデリカは、思わず息を飲む。
 ゴミ山の上で倒れているのは、一人の少女だった。精巧な機械人形(オートマタ)のような整った顔立ち。透き通った人口灯の光を受け、金色に輝く細いブロンドの髪。身体に巻きつける様に身にまとったヴェールの様な白い薄布の下には、健全に伸びる華奢な手足が、陶磁器の様な白さで、すらりと伸びている。
 ――びっくりした。天使が空から降ってきたのかと思った。
 フレデリカは、リオに見えないよう、そっと胸を撫で下ろす。
 隣でリオが、驚きに目を見開いたまま、固まっている。抱えていた本を落とさなかっただけ、立派なものだろう。
「……リオ」
「な、なに?」
「鼻の下伸びてる」
「え!?」
 リオが弾かれたように、口元に手をやる。フレデリカはゴミ山に近づくと、ぴくりとも動かない人形のような顔を覗き込んだ。この辺りでは見ない顔だ。年の頃は、アデーレたちより少し上――十七、八といった所だろうか。眠るように瞼を閉じている。
「うわー……まつ毛長い。腰回りなんかこんなに細くて、手足も……リオ、いい加減鼻の下伸ばすのやめなさいよ」
「の、伸ばして無いよ! フレデリカ、僕の顔も見ないで、どうしてそんなことが解るのさ!」
「絶対に伸ばしてた」
「伸ばしてないって!」
 ムキになって反論するリオを無視して、横たわる細い身体に触れる。
 脈は正常。気絶しているだけだろう。怪我は無いか、眠り姫を起こさないよう細い身体にかかったゴミを退けて――思わず、手が止まった。
 白い薄布に覆われた身体の至る所に、僅かだが血が滲んでいる。小さなカミソリで何度も斬りつけられたような、小さな傷跡――。背後から、そうっと覗き込んできたリオが、小さく声を上げた。
「フ、フレデリカ。この人」
「わかってるわよ。……どう見ても、落ちて来た時についた傷じゃないわね。何かトラブルに巻き込まれたのかも」
 傷は細かく、出血はそれほど酷くないが、頭を強く打っている可能性がある。医者に見てもらった方が良いだろう。取りあえず、リオに警備兵を呼んで来させて――そこまで考えた時、倒れている少女が微かに身を捩った。薄布の裾がはだけ、艶めかしい素足が露わになる。リオが直立したまま、僅かに身体の向きを変えた。
「ん……っ、いたたたた」
「大丈夫ですか?」
フレデリカが手を伸ばすと、少女は、猫のような大きな翠緑色の瞳で、不思議そうにフレデリカを見上げた。
「……?」
 ことり、首を傾げた一瞬の間があって、
「た、助けて下さい!」
はっと目を見開くと、少女は、ひし、とフレデリカの手を取った。細い腕に反して、掴む手は力強く、フレデリカは僅かに眉をひそめる。彼女が切羽詰まった状態にあることが窺えた。
「変な人に追われているんです! それで、あの、わたし……!」
「あ、あの。大丈夫ですから。だから落ち着いて」
 酷く慌てた様子の少女の背中を、フレデリカがそっと擦った。その時、
「――変な人、とは随分な言いようだな」
低く口ごもるような声が、狭い路地裏に響いた。少女の顔が歪み、泣きだしそうなものに変わる。
 大通りへの出口を塞ぐ様に、二人の男が立っていた。一人は、濃い紫のスーツを着た中年の男。薄い髪に、妙に艶の良い顔。ずんぐりとした土人形のような体型をしている。鼻や口はずんぐりと大きいのに、目だけが鋭く細い。
 もう一人は痩身の男――黒いベルトを幾重にも巻き付けた、高速具のような黒地のロングコート姿と言う異装姿の男だった。頭の先から足の先まで、くまなく巻かれた黒い布地に隠れて、その表情は見えないが、薄汚れた路地裏でも、はっきりと違いがわかるほどの不気味な気配を放っている。
「オスカーさん」
 見覚えのある顔に、フレデリカが目を見開く。
 リオが咄嗟に、フレデリカの後ろに隠れた。
「おお、お前はハイゼ神父のところの。奇遇だな。神父は元気かね?」
 ずんぐりと肥った方の男――オスカーがだぶついた頬を揺らしてほほ笑んだ。オスカーは、ヴェストリクヴェレで最も力を持つ商会の主人だ。父であるハイゼと付き合いがあるため、フレデリカとも面識がある。陰湿な策略家で、あまり良い噂を聞かないこの男のことを、フレデリカはあまり好きでは無かった。
 痩身の男がパチリと薄刃のナイフの刃を出し、少女へと近づく。最近雇ったと言う用心棒だろう。全身くまなく覆われた黒い布地の下で、目だけがギラギラと、野犬の様に輝いている。薄絹の少女が、怯えたようにフレデリカの腕を掴み立ち上がった。
「待って下さい。オスカーさん。彼女をどうするつもりですか?」
「その女性を引き渡してくれるかな。フレデリカ。彼女は、私の購入した絵画に、傷をつけたんだ。弁償してもらわなければならない」
「嘘です! 私は、傷なんてつけていません!」
 少女が悲鳴のような声を上げて、フレデリカの背後に隠れる様に退がった。
 オスカーが、不機嫌そうに舌打ちする。
「……何があったか、話してもらえますか」
 フレデリカが落ちついた声で促す。少女は一瞬、翆緑色の瞳を迷うように揺らすも、訥々と、落ちついた声で話し始めた。
 彼女の話をまとめると、以下の様になる。
 オスカーが経営する商館の敷地を歩いていると、一台の荷馬車が門扉につけた。商館の者が二人出て、オスカーの指示の元、荷馬車から美術品を運び出す。屋敷を見上げながら歩いていた少女は、門扉の前で絵画を運んでいた商会の下男に肩をぶつけてしまった。少女は余所見をして歩いていたことを下男に謝罪し、門扉を出る。十メートル程歩いた所で、不意にオスカーの怒声が聞こえた。
「突然、絵画を弁償しろと怒鳴られて。思わず逃げ出してしまったのです。……その、驚いてしまって」
「あなたの身体の傷は?」
「そこの、人に」
 自分の身体を掻き抱くようにして両腕を回すと、少女は怯えた様子で細い指を伸ばした。指差された用心棒の男は、何も答えず、じっと闇の中に佇むように、不気味な視線を投げかけている。フレデリカはその視線に、ぞわぞわと肌の上を得体のしれない不吉な何かが走り抜けて行くのを感じた。
「美術品は、荷馬車から降ろす時に、私自らが傷がついていないか確認している。絵画商立ち合いの元にだ。傷が付けられたのは、荷物を降ろしてから。その間に絵画に触れたのは、美術品を運び出した召使い二人と、君しかいない。それは君も見ていたはずだ。違うかね?」
「……それは、そうですが」
 少女が胸に手を当て、悲しげに俯く。いたたまれなくなったフレデリカが前に出た。
「オスカーさん。ちなみに、その絵画って、いくらくらいのものなんですか?」
「そうだな。ざっと見積もって――」
 そうしてオスカーが口にしたのは、その場に居た全員が思わず目を見張るほどの額だった。少女が青褪めた顔で、「そんな額、お支払い出来ません!」と悲鳴に近い声を上げる。
「ふん。どう補償するかは後回しだ。今はそれよりもはっきりさせなくてはならないことがある。……絵画に傷を付けたのは君だな?」
「そんなこと、していません」
 少女が消え入りそうな声で囁くと、オスカーが怒声を張り上げた。
「やってないと言うのか? では、どうして絵画は切り裂かれたのだ! いや、そもそもどうして、お前は私の商館の庭に居たのだ。可笑しいだろう!」
「それは……」
 威圧するように凄むオスカーに、少女が委縮したように身を縮こまらせる。
「召使いたちが刃物を持っていないことは、私が確認している。お譲さんしか居ないのだよ。あの場には、他に誰も居なかったのだから」
 オスカーが睨み上げる様に言うと、少女は迷うように視線を彷徨わせ、
「その……他にも、近くに居た人は居ます」
絞り出すような声で言った。
「何だって?」
「門扉の傍にあるクスノキの下に、女の子が居ました。黒いドレスのような服を着た、東洋人風の女の子です」
「はっ、商館の庭に? バカを言うな」
 苦し紛れともとれる言葉に、オスカーが馬鹿にしたように鼻で笑う。
「警備の人間は、お前以外に不審な人間は見ていないと言っていたぞ」
「嘘じゃありません!」
「話にならんな。おい、レオパルト」
 オスカーの合図に、痩身の男が一歩、少女へと近づく。ぎらつくナイフの鈍い輝きに、少女は怯えたように、同じ分だけ後退した。
「違うんです。私は何も……!」
「言い訳は商館でじっくり聞かせてもらう。これ以上抵抗するなら、警備兵を呼ばなくてはならなくなるぞ」
 警備兵という言葉に、少女が迷うように視線を落とした。ヴェストリクヴェレでは、都市内で問題を起こした余所者は即刻、強制退去処分となる。僅かも時間は与えられない。
 都市の外に広がる砂漠を抜けるには、水や食料などの相応の装備を整えるのが不可欠だ。薄衣を纏っただけの少女に、その準備が出来ているとは思えなかった。
「待って下さい! オスカーさん」
「邪魔はしないでもらおうか。フレデリカ。これは大人の問題なんだ。――おい、このお嬢さんを黙らせろ」
 オスカーへと歩み寄ったフレデリカの腕を、背後から忍びよった痩身の男が素早く捻り上げる。あまりの早業に、フレデリカがぎょっと目を見開いた。
「ちょっ……止めなさいよ!」
「大人しくしていれば、乱暴な真似はしない。君は友人の娘だ。約束しよう」
 頬をたるませ笑うオスカーに、フレデリカは顔が真っ赤になるほどの憤りを感じた。
 乱暴な真似はしない? 背後から女の腕を捻り上げるのが、乱暴以外の何だと言うのだ。
 すぐにでも叫び出したい衝動に駆られるが、背後の痩身の男がそれを許さない。決して力が強そうに見えない男だが、フレデリカは全く身体を動かすことが――声を張り上げることさえ――出来なかった。
「……大人しくしていろ。騒ぐなら腕をへし折る」
 耳元に、掠れた囁き声が漏れる。痩身の男の声だった。感情の籠らない不吉な声に、フレデリカの背中を冷たいものが伝う。脅しではない。この男はそれくらいのことは簡単にやってのけるだろう。確信めいた予感があった。
「さぁ、私と一緒に来るんだ。お嬢さん。そうすれば、この子には危害を加えない」
「――ッ! ……そんな」
 オスカーの太い指が、俯いた少女の細い腕を掴む。抵抗を諦めた少女に、オスカーのだぶついた口元が、にやり、と歪んだ。
「賢明な判断だ」
「止めなさいよ……! 嫌がってるじゃない!」
 力なく腕を引かれる少女に、フレデリカが思わず声を張り上げる。瞬間、背後の男の腕が小さく動いた。
 ――騒ぐなら腕をへし折る。
 男の不吉な声が、脳裏に蘇る。
「っ!?」
 遅い来る痛みの予感に、フレデリカは身体を強張らせ――突如、自由になった身体にバランスを崩して、たたらを踏んだ。拘束を解かれた腕をさすりながら振り返ると、そこには、じっと自分の腕を見つめる痩身の男の姿があった。黒い革手袋を嵌めた手には、腕の辺りまでびっしりと、植物の蔦が幾重にも絡みついている。
「レオパルト。何だ? それは」
 何か不気味なものでも見たような声で尋ねるオスカーに、
「……天使」
レオパルトと呼ばれた痩身の男は、掠れた声で囁き、ゆっくりと視線を路地の奥へと向けた。人口灯の届かない薄汚れた路地の奥――。
 そこには、厳しい顔を向けるリオの姿があった。手には、先ほどまで抱えていた図書館の本は無く、代わりに一冊の聖典が握られていた。
「その蔦は、貴様の仕業か? 坊主」
 オスカーの細い目が鋭さを増した。睨みつけるように見下ろすオスカ―を、リオは屹然とした表情で見上げる。
「彼女の腕を離して下さい。オスカーさん。その人の無実は、僕が証明します」
「お前は……確か、市長の所の」
 何かに思い当たったオスカーの顔がいまいましげに歪む。唇を吊り上げ、吐き捨てるように言う。
「――確か、『審問官』だったか」
「見習いですが」
 オスカーが渋々と言った様子で少女の腕から手を離す。まだ子供とはいえ、『審問官』であるリオの言葉は、オスカーとて無碍にする事は出来ない。
 『審問官』には、神様に代わって人の罪を裁く権利が与えられている。もちろん、誰でもなれるという訳ではない。中央教会の発表では、およそ二十万人に一人ほどの割合でしかなれる者は居ないと言われている。
 『審問官』は聖職者でもある。認められるには、まず公明正大で健全な精神を持っていることが不可欠。これが認められると、どこからか『天使』が現れ、その者に神様に代わって人を裁く権利を授ける。
 その証となるのが、リオが手にしている一冊の聖典。聖遺物(レリクス)と呼ばれるそれは、『審問官』の力の象徴にして、神様に選ばれた司法の代弁者たる何よりの証だった。
「ここは預けてもらえませんか。神の代理人たる僕と、『天使』マグノーリエに」
 はっきりとした声で言った瞬間、リオの背中に光の粒子が集まり、薄らと人形(ひとがた)を形作った。それは黎明の空に現れた太陽のように、清かな光を薄汚れた路地裏に撒き散らす。
 中空に浮かぶ、金色の光で構成された、幼い光の少年――『天使』。
 その場に居た全員が、美しい光の輝きに言葉を失くす。同時に、辺りがざわざわと騒がしくなった。
 振り注ぐ光の粒子に導かれるように、大通りを歩いていた人々が足を止め、次々と路地裏に集まり始める。目を動かすだけでそれを確認したオスカーは、ほんの一瞬、苛立ちに顔を歪めるも、すぐに平静さを取り繕い、大仰な態度で頷いた。
「――いいだろう。私には何一つとして隠すことなど無いのだからな」
 少女もまた、リオの問うような視線に、胸の前で手を組み、祈るように目を閉じる。
「神の御心のままに」
「それでは――開廷″」
 リオが少年らしい、しかし低く抑えた声で告げると、天使の背中から、真っ白な翼が噴き出した。どこからか、濃い緑の蔦が路地を覆うように伸び、空間を区切るように円周上に広がる。それらは幾重にも重なり合い、路地裏に複雑な模様を形作った。
 『審問法廷』。
 この円の中で行われた誓約は絶対不可侵。もし破れば即刻、それに見合うだけの罰が与えられる。

『この聖典<しるし>を持って、汝は打ち勝たん(イン・ホック・シグノ)』

 金色に輝く天使が、透明な声で祝福の声を告げる。
「リオ……」
 フレデリカは、無数の蔦で覆われた法廷内を見渡し、胸に当てた手を、ぎゅっ、と握りしめた。
 ――これが、リオが『特別』な理由。
 『審問官』には、天使の守護が与えられる。リオの姿を常に見守る天使の名前は、マグノーリエ。リオの、リオだけを護る天使だ。審問中、天使は『審問官』の指示の元に本来の力を存分に行使することが出来る。法廷内は見えない力で守護されており、外に居る人間は、内部にいかなる干渉をも行う事は許されない。
 リオが円周上に区切られた法廷の中心に歩み出て、手の中の聖典を広げた。 
「原告人。名前と起訴内容を」
「オスカー・グートルン・ペーツ。貿易商だ。そこのお嬢さんが私の財産である絵画を傷つけた事に対する、賠償を請求したい」
「次に被告人、名前を」
「ジブリール……ジブリール・マラークと申します」
 少女が身にまとった薄布をつまみ、恭しい仕草で頭を下げた。その顔には、先ほどまで浮かんでいた怯えは無く、どこかほっとしたような表情が浮かんでいる。
「被告人、原告人の起訴内容に、反論はありますか」
「はい。私は彼の絵画を傷つけていません」
 少女――ジブリールの言葉に、頷くと、リオは聖典に視線を落とした。
「これより神と我が天使、マグノーリエの名の元に、審問審理を開始します。原告人、被告人。両人共に、ここでの発言に嘘、偽りの無いことを我が天使マグノーリエに誓って下さい」
「嘘、偽りの無いことを誓います」
「偽りの無いことを誓います」
 二人の宣誓の言葉に、リオが手元の聖典の装丁をなぞる。
 聖遺物(レリクス)の形状は使役する天使の性質を表している。リオが持つ聖遺物(レリクス)は智と信仰を象徴する『聖典』。マグノーリエは、神聖な場所での偽りに対して、殊更厳粛な天使だった。
 二人の先制の言葉を受けて、リオの背後に浮かぶ天使が金色に輝く。集まっていた野次馬から歓声が上がった。『審問法廷』は、市民にとっての娯楽という側面もある。見慣れぬ若い審問官による審問に、野次馬から声援の声が上がる。オスカーが、細かくこめかみを引き攣らせた。
「これより発言したことに嘘、偽りが含まれる場合、天使マグノーリエの執行の対象となります。いいですね?」
 リオの言葉に、二人が口元を引き結んで厳かに頷いた。
「では、審問に入ります。原告人の訴えに対して、被告人はその事実を否定しています。双方の主張には隔たりがある。原告人。被告人があなたの絵画に傷を付けたということを、証明することが出来ますか」
「……形として示すことは出来ませんな。しかし、この状況から言って、彼女以外に絵画を傷つけられる者は居ないと考えるのが妥当だろう」
「では被告人、自身の無実を証明することが出来ますか?」
「出来ません。しかし、神は全てをご存知のはず。私の嫌疑は晴れるものと信じています」
「……わかりました」
 リオが考え込むように口元に手をやる。
 審問官が、一回の法廷で一人に質問できる回数は三回まで。審問官は、質問の内容を厳選して行い、適正な判決を下さなくてはならない。といっても、この三回という誓約は、それほど『審問官』に不利に働くものではない。天使には人の嘘を見破る力がある。質問を受けた原告人、被告人、あるいは召喚された証人は、どの質問に対しても誠実に答えなければならない。もし、嘘を吐いていることが知れた場合は、天使による『執行』の対象となる。
「被告人。一つ、聞かせてください。あなたは原告の商館を訪れてから今まで、刃物、あるいはそれに類する道具は所持していましたか?」
「いいえ。私は今朝目覚めてから一度も、刃物の類を扱ってはいません。……斬りつけられたことはありましたが」
 手を組み合わせ、祈るように目を伏せる少女の言葉に、オスカーが気圧されたように顔を歪める。すぐ傍に控える痩身の男の表情は、真っ黒な布地に隠れ、わからなかった。
「もう一つ聞かせてください。被告人。事件が起こった時、クスノキの下で黒いドレス姿の女の子を見たというのは本当ですか?」
「本当です。私は、黒いドレス姿の女の子を見ました。東洋人の女の子です。細長い短剣を、しきりに指で撫で回していました」
 ジブリールは、はっきりとした声で答えた。
 リオが薄らと目を閉じる。審問中、被告人は基本的に、聞かれたことにだけ答えればよい。話せば話すほど、被告人にとって不利になることが多いからだ。しかし、ジブリールはそれに付随することも懸命に話しているように見える。それは、彼女の身が潔白であることの証左であるように思えた。
 リオは一つ頷き、視線を上げた。マグノーリエが翼を広げ、金色の粒子が薄汚れた路地裏に降り注ぐ。
「では、判決を」
「なに? まだ一回、質問できる回数が残っているだろう! どうして質問しない? お前がやったのだろう、そう尋ねるだけで済む問題ではないか!」
「質問をしないのは、もう十分だからです。それに、あなたの言った質問には、重大な欠点がありますし、彼女は既に『嫌疑は晴れるものと信じている』と発言しています。採用することはできません」
 冷静な声で言って、リオは、ぱたりと聖典を閉じた。
「判決――被告人は、無罪とします」
「……バカな! 真面目にやれ! そんな判決、納得いくわけ」
 声を張り上げ、一歩を踏み出したオスカーの行く手を、周囲から伸びた緑の蔦が阻む。
「……っく」
 オスカーは悔しげに呻き、振り上げた拳を握りしめた。開廷中は、何人も審問官に触れる事は許されない。アスカ―は幾条もの蔦に行く手を遮られ、動きを止めざるを得なかった。
「考えてもみてください。オスカーさん。あなたの証言が正しければ、絵画に付けられた 傷は明らかに、鋭利な刃物でつけられたものであるはず。しかし、被告人は目覚めた時から今まで、刃物やそれに類するものを扱っていないと証言しています。被告人は、どうやって絵画に傷を付けたのですか?」
「……それは」
「マグノーリエも、彼女の証言に嘘偽りはないと証明しています。状況から考えて、絵画に傷をつけたのは、その黒いドレスを着た女の子である可能性が高いでしょう。被告人を裁くなら、まずはその女の子を証人として召喚することが必要だと僕は考えます。――よって、本法廷における判決は、被告人は無罪。何か反論はありますか」
「……審問官がそう結論付けたのなら、仕方があるまい」
 オスカーが苦しげに唸った途端、オスカーを拘束していた緑の蔦が消失する。肩を落としたオスカーに、リオは厳しい顔で告げた。
「確証も無いままに犯人と決めつけ、彼女を追い、傷つけたことは、看過しがたい罪です。彼女に、相応の賠償を。これを持って『執行』の代償とします。もちろん、そこのあなたもです。雇い主とはいえ、言われるままに人を傷つけるのは感心しません」
「……神の御心のままに」
「了解した」
 オスカーが苦虫を噛み潰したような顔で頷き、痩身の男が掠れた声で答える。オスカーは改めてジブリールに向き合うと、スーツから紙束を取り出し、サインをして手渡した。
「悪かったな、お嬢さん。この市場で今日一日、私のツケで好きに買い物をして貰って構わない。済まなかった。私とレオパルと二人分、これを持って賠償としたい」
 リオの背後に浮かんでいた天使が頷いた。リオはそれを確認し、
「では、これにて『閉廷』!」
その言葉と同時に、周囲を覆っていた緑の蔦は消え、リオの背後に浮かぶ天使もゆっくりと、その姿を消した。


 閉廷の言葉と同時に、オスカーは用心棒を連れて、そそくさと路地裏を離れていった。
 その背中を見送って、フレデリカはそっと安堵の息を吐く。オスカーは何かと評判が悪い貿易商だ。何事も無く済んだから良かったものの、話がこじれれば、厄介なことになっていたかもしれない。
「助けていただき、ありがとうございました。審問官さん」
 審問を終えた少女が、聖典を持ったリオの手を取って微笑んだ。
「いえ、そんな……その、当たり前のことをしただけですから」
 大きな翠緑の瞳に見つめられ、リオは恥ずかしそうに頭を掻いた。目のやり場に困っているのは、薄着の奥から柔らかそうな肌が見えているからだろう。
「本当に助かりました。あなたが来てくれなければ、どうなっていたことか」
 ジブリールは目を閉じ、豊かな自身の胸の前に手を当て、ほっと安堵の息を吐いた。よほど怖かったのだろう。無理もない。リオが路地裏で彼女を見つけなければ、彼女はオスカーに連れて行かれていたはずだ。そうなれば、どうなっていたかわからないのだから。
「マグノーリエが僕に言ったんです。あなたを助けて上げて欲しい、って。あ、声が聞こえたような気がしただけなんですけど……」
「まぁ! 天使の声が?」
ジブリールが口元に手を当て、目を丸くした。
「では、あなたがこの街の神父さん?」
「いえ。僕は、まだ見習いで」
「見習いの身で、もう天使の声が聞こえるなんて! 才能あるんですね」
 俯いた顔を下から覗き込まれ、リオの顔が耳の先まで真っ赤に染まった。彼女が言った通り、審問官として一人前になるまで、天使の声は審問官には聞こえないのが普通だ。一人前となった審問官は神父として一つの都市を任されるが普通だが、十代で任命されたことがあるという話は、ほとんど聞いたことが無い。
「あの、才能なんて全然。僕の勘違いかもしれませんし」
「そんなことありません。その声のおかげで、私は助けられたのですから」
「あ、あの、その」
 ジブリールが手を取り、じっとリオの目を覗きこむ。豊かな胸が迫り、リオの目がぐるぐると回り出す。
「あなたの年齢で天使の声が聞こえるなんて、滅多にあることじゃありませんよ。もっと誇っていいと思います」
「あ、ああああ、あの、その」
「……いやらしい」
「――!?」
 すぐ傍から響いた声に、リオは全身に電気が走り抜けたように跳び上がった。
「フ、フレデリカ!」
 茹で上がるのでは、と思うほどに顔を紅潮させたリオが、慌てた様子でジブリールから離れる。
 フレデリカは、ふん、と小さく鼻を鳴らすと、両手いっぱいに抱えた荷物を突出し、
「重たいんだけど」
口をすぼめて言う。
「え?」
「酷くない? 女の子に全部持たせるなんて」
 フレデリカは言って、腕の中の本を示した、良く見れば、リオが持っていた分の本まで抱えている。
 じっ、見つめる冷めた視線に、リオは「ご、ごめん! 僕の分まで」と抱えている本へと手を伸ばす。フレデリカはすかさず、一気に腕から力を抜いた。
「うわわ、フレデリカ! ちょっと!」
 抱えれきれない程の本を手に、リオが悲鳴のような声を上げる。フレデリカは「さてと」と小さく一息入れると、目をぱちくりしているジブリールを振り返った。
「災難でしたね。お姉さん。外からいらした方ですよね?」
 人懐っこい笑みを浮かべて、手を差し出すと、ゆっくりとジブリールの顔に柔らかい笑みが浮かんだ。
「――っ!」
 思わず、話しかけたフレデリカの方が赤面する。それは、同じ女性であるフレデリカでさえ思わず見惚れるほどの、何だか、見ている方が幸せになるような優しい笑顔だった。
「ジブリールと申します。巡礼の旅をしております」
 フレデリカの手を握り、ジブリールが微笑む。フレデリカは、予想外の言葉に息を飲んだ。
「巡礼者の方でしたか。私の父は、この都市で教会の神父をしているんです」
「まぁ! それは奇遇ですね。これも神のお導き……。フレデリカさん。庇っていただいて、ありがとうございました。ところで……あの、リオさんは大丈夫なんですか?」
 ジブリールが心配そうな顔で、フレデリカの背後へと視線を向ける。振り返ると、リオが両手いっぱいに抱えた本を抱え、ふらふらとバランスを取っているところだった。
「大丈夫です」
 フレデリカは冷めた声で答え、苛立ちを堪える様に、こめかみを押さえた。
「……まったく、オスカーさん相手に啖呵切るなんて、なに考えてるんだか。上手くいったから良かったようなものの、余所から来た人を庇うなんて、変な言いがかり付けられてもしょうがなかったんだからね」
「フ、フレデリカには言われたくないよ……!」
「私はいいの! お父さんは神父だし、オスカーさんだって変な言いがかりはつけられないんだから。けど、あんたのとこは違うでしょ?」
 窺うように視線を向けると、抱えた本の向こうでリオが肩を落とすのがわかった。
「まぁ、そうだけど」
 しゅん、と俯いてしまったリオを気遣うように、歩み寄ったジブリールがリオの背中にそっと手を回した。
「あの、リオさんを叱らないで上げてください。リオさんは、私を助ける為にあの人に立ち向かってくれたのですから。叱るなら、どうか私を。……私、本当に怖かったんです。あの黒づくめの人、まるで私を追いつめるのを楽しんでいるようで」
 思い出したのか、ぶるりと身体を震わせるジブリールに、フレデリカは小さく息を吐く。
「わかりました。けど、ジブリールさんも気を付けた方がいいですよ。後ろ盾のない旅人は、ただでさえ変な言いがかりを付けられ易いんですから。商館の敷地内で何をしていたのかは知りませんけど、迂闊な行動は慎むべきです」
「……はい。ごめんなさい。気を付けます」
「――はっはっは! 相変わらずフレデリカは厳しい。なぁ、リオ」
 豪快な笑い声に振り返ると、すぐ後ろに四十がらみの髭面の大男が立っていた。
「それくらいにしてやんな。フレデリカ。俺は楽しかったぜ。リオが『審問官』として活躍する姿が見れたし、何より、あのいけすかねぇオスカーに目に物見せてやることが出来たんだからな」
 上機嫌に言って男――果物屋の主人、ダヴィッドは大きな拳を突き合わせて、ニヤリと笑った。
「ダヴィッドさん! リオを甘やかさないでください。コイツ、普段は大人しいくせに、変な所で意地っ張りなんだから」
「男はそれくらいで丁度いいのさ。ましてや、リオは神の代弁者、審問官なんだからな」
 ダヴィットが岩の様な手で、リオの頭をがしがしと撫で回す。大量の本を抱えて身動きが取れないリオは、うわわ、と上擦った声を上げた。
「もう! みんな、リオには甘いんだから。こんなことをしてたら、いつか大変なことになるわ。……最近は何かと物騒な噂も聞くし」
 頬を膨らませ、フレデリカが声を尖らせると、ダビッドは太い指が豊かな口髭へと伸ばした。
「むう。物騒な噂ってのは、『大禍』のことか」
「ダヴィッドさんも、聞きましたか」
「ああ、今朝から市場はその話題で持ちきりさ。東の森で不審な人間を見たっていう警備兵も居る。まだ、おおっぴらに騒ぐような奴は居ないが」
「東の森で!? あそこは他よりも警備が厳しいはずですよね」
「ああ。あそこで採れる作物は、この都市の最も重要な財源の一つだからな。初めは、オスティナトゥーアの連中が食べ物欲しさに忍び込んだのでは、と言われてたんだが」
 ダヴィッドは言って、太い腕を組んで眉をひそめた。話を聞いていたジブリールが、きょとんとした顔で首を傾げる。
「タイカ……ですか?」
「やめなよ。二人とも。ただの噂じゃないか」
 ジブリールが眉を寄せたのを見て、リオがダヴィッドとフレデリカの二人を咎める。
 いつにも増して口を挟むことが多いリオに、フレデリカは一瞬、不機嫌そうに顔をしかめると、ふん、とバカにしたように鼻で笑って、
「あんたって、ホント楽天家ね。そんなこと、誰にも解らないじゃない。警備の厳しい東の森に不審者が侵入するなんて、今まで一度も無かったのよ。……きっと『大禍』よ。オスティナトゥーアが襲われて、多くの人が亡くなったっていう噂もあるし」
「そ、それはそうだけど」
「もしかしたら、『大禍』はもうこの都市に入り込んでいるのかも……」
 おどろおどろしい口調で言うと、リオの顔が微かに青褪めた。
「そんな、じょ、冗談だよね。フレデリカ。だって、そんなことになったら、さすがに警備兵の人たちが気付くだろうし」
「どうかしら? 大禍がどんな奴かなんて、誰も知らないのよ。わかってるのは、黒い髪をした大柄な男だっていうくらいで。怪しい奴なんてたくさん居るじゃない。……例えば、村の外れに住んでる薄汚い浮浪者とか」
「ク、クレーエさんはいい人だよ!」
「……おいおい、お前ら。喧嘩するなら余所でやってくれねぇか。オスカーがいちゃもんつけに戻って来たら困るだろうが」
 ダヴィットが言い争う二人を宥める。しかし、フレデリカもリオも、睨み合い互いに一歩も譲ろうとしない。
「フレデリカ。さっきの言葉を訂正して。クレーエさんは薄汚い不良者なんかじゃないよ」
「なによ。ムキになっちゃって……。どうして、あんな素性の解らない浮浪者の肩をもつのかしら」
「フレデリカ!」
 不機嫌そうに首を振るフレデリカに、リオが詰め寄る。しばらく睨み合い――視線が逸れる。先に目を逸らしたのは、フレデリカだった。ヘイゼルの瞳を揺らし、「なによ」と不貞腐れたように呟く。
「……クレーエ?」
 不意に、しんと静まり返った路地裏に、細い声が漏れる。戸惑ったように揺れる小さな声に、その場に居た全員の視線が一点に集まる。
 フレデリカは視界の隅で、白い百合の花が揺れるのを見た。どうしてこんな所に、と思う前に、それが目の錯覚だったことに気づく。百合の花のように見えたのは、白いヴェールの布地だった。ジブリールの白く細い手が、リオの華奢な肩を掴む。
「審問官さん、お願いがあります!」
「え? え? 僕!?」
 切迫した声に、肩を掴まれたリオが、戸惑いの声を上げる。触れ合いそうなほど近くに迫った宝石の様な深い翠緑の瞳に、真っ赤に染まったリオの顔が映り込む。ジブリールは、真剣な表情をリオへと向け、上気した顔で言った。
「お願いです! そのクレーエって人の所に、私を連れてってくれませんか!?」





(>∀<)ノぉねがいします!



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