■第二章 翼と錫杖


 同心円状の九つのプレートが、小さい物から順に重なり合う事によって構成される都市の階層は、外周より、警備兵たちの屯舎からなる警備区、農畜産、養殖地で占められる生産区、市民の家や商店からなる生活区、都市管理施設、学術的な研究機関からなる管理区の四つの地区から成り立っている。各プレートには、最下層を中心として放射線状に十二本の大通りが走っており、それぞれに学校や病院、公共施設、市場が立ち並んでいた。全ての大通りが集まる最下層の中央広場には、高さ三十メートルにもなる灰色の塔――この都市の心臓とも言える総合管理塔が、天蓋の強化ガラスに届かん程に高くそびえている。
 フレデリカは、耳にかかった癖の強い金褐色の髪をかき上げた。
 天上に届かんと伸びる灰色の塔はまるで、神話に謳われるバベルの塔のよう。電力不足によって大幅に機能を制限された総合管理塔を見上げる自分と、天に至ろうとした傲慢な行いを咎められ、塔を崩された古代の人々の姿が重なる。神様が居なくなってから後、かつての科学技術の多くが失われ、文明は数百年単位で後退した。神様の逆鱗に触れ、言語を乱されて世界中に散り散りになってしまった古代の人々も、きっとこうやって目を細め、変わり果てた塔を見上げていたはずだ。四肢を痺れさせる、抗いがたい無力感と一緒に。
 がたん、ごとん、と列車は急こう配を昇って行く。車内は人気が無くひっそりとしていて、四人掛けのボックス席には、明度を落としつつある人口灯の灯りが差し込んでいた。窓際の席からは、緑の牧草地が広がる、生産区のプレートがよく見渡せた。都市を構成する、七枚のプレート全てに螺旋状に敷かれた線路の上を、古ぼけたトロッコ列車が駆け昇る。速度はあまり出ないが、軽便鉄道は、都市に欠かせない重要な交通網の一つだった。
「あ、見えてきましたよ」
 草原に放牧された牛の群れが眼下を通り過ぎた頃、リオが丘の向こうに現れた緑の茂みを指差した。目指す森は、外周から二週目の階層に、警備区と生産区を隔てる形で茂っている。
「クレーエさん、居るかなぁ」
 リオが思案気に首を傾げた。
「……私は居ないことを祈るわ」
 フレデリカはため息混じりに呟き、窓際の肘掛けに身体を預けた。
 クレーエは、三ヶ月ほど前にヴェストリクヴェレへとやってきた浮浪者だ。長身の若い男で、いつも腰から二丁の拳銃をぶら提げている。
 初めの頃は街の権力者の用心棒をやっていたようだが、最近は街外れの森に打ち捨てられた丸太小屋に住みつくようになった。
 昼間から酒場に現れては、商売の為に都市を訪れる怪しげな男たちと、こそこそと話をしている。彼がどこから来たのか、何をしに来たのか、知る者は居ない。警備兵たちは、他の都市や盗賊団などが送り込んだスパイなのでは、と警戒しているようだが、今のところ大きな問題は起きていないので、彼らに何かをしようとする気は見られなかった。
 都市には、このヴェストリクヴェレに限らず、余所から人が訪れることは喜んでも、居付くことは歓迎しない傾向が強い。ましてや、それが都市にとって害悪となる可能性が高い人種であるのなら、尚更だ。
「驚きました。まさかジブリールさんが捜している人が、クレーエさんだったなんて」
 フレデリカの隣で、リオが興奮した様子で言った。
「私もです。これも主のお導きですね」
 向かいに座るジブリールが、包帯の巻かれた両手を祈るように組んで、敬虔な修道女の佇まいで目を伏せる。
 窓枠にもたれたフレデリカが、不機嫌そうに目を細めた。
「確かに特徴は似ていますけど……。間違いかもしれませんよ。あんな奴、とてもジブリールさんの知り合いだとは思えない」
「もう! どうしてフレデリカはクレーエさんのことを悪く言うのさ。クレーエさんは、いい人だよ!」
 身を乗り出したリオが咎めるように唇を尖らせると、フレデリカは、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らして顔を背けた。
「リオさんは、彼のことを良く知っているようですね」
 ジブリールが微笑みかけると、リオの顔が、日が差したように明るくなった。
「はい! 都市の外で夜盗に襲われた時、クレーエさんが僕たちを助けてくれたんです。凄かったんですよ。ライフルや剣鉈を手に向かってくる五人の夜盗たちを、抜き放った銃で、バババーンと!」
「まさか、殺してしまったんですか?」
 腰元から銃を引き抜いて撃つ仕草をしたリオに、ジブリールが眉を上げる。
「いえ……すいません。紛らわしかったですね。利き手だけを正確に撃ち抜いて、警備兵に差し出したんです。一瞬で夜盗たちから刃向かう気力を奪ってしまったんですよ」
「あら、まぁ。それは凄いですね」
 まるで自分のことのように得意げに話すリオに、ジブリールがくすくすと笑みをこぼす。
「では、夜盗たちの審問はリオさんが?」
「いえ。彼らの審問は、教会審問執行官であるアンドレアス審問官が。……見習いの僕には、彼らを裁くことが出来ませんでしたから」
 力なく笑うリオに、ジブリールが優しく目を細める。何故、と聞いたりすることは無かった。
 通常、審問官が夜盗に好きにされることなど有り得ない。彼らには審問と執行を約束する『天使』がついているからだ。審問官の前で犯罪を起こすことは、自らの首にナイフを突き入れることに等しい。
 けれど――とフレデリカは拳を握りしめる。リオは審問に失敗した。偶然クレーエが通りかからなかったら、どうなっていたことか。
「――ねぇ」
 頬杖を突いて二人のやり取りを見ていたフレデリカが、目だけを二人に向けた。
「前から不思議に思ってたんだけど、同じように天使がついてるのに、どうして審問に成功したり失敗したりすることがあるの?」
 フレデリカの問に、ジブリールが口を開く。
「フレデリカさん、それはちょっと違いますよ。『審問』を行うのは、あくまでも審問官の役目です。天使は、その結果に応じて『執行』を行っているに過ぎません」
 だから天使の正確な名称は、『執行天使』なんですよ、とジブリールは続けた。
「それって、審問成立の可否に、天使の力は関係ないってこと?」
「そういう訳では無いのですが――審問官と天使は、二人合わせて一人の『審問執行官』。裁けぬ罪があるとすれば、それは審問官と天使、双方がまだ未熟だったと言うことでしょう」
「双方が未熟……ですか」
 微笑むジブリールに、フレデリカは考え込むように口元に手を当てた。
 フレデリカの脳裏には、三か月前に東の森で夜盗に襲われた時の光景が蘇っていた。
 あっという間の出来事だった。茂みの中から男たちが飛び出してきて、フレデリカたちを拘束したのだ。
 あの時、リオは五人の夜盗たちを前に、審問を行うことが出来なかった。いや、審問は行えても、夜盗たちに罰を与えることが出来なかったのだ。フレデリカは、首に剣鉈を突きつけられていたのに。
それ以来、ずっと引っかかっていた。どうしてあの時、審問は失敗したのか?
 考え込んでしまったフレデリカに、ジブリールはそっと顔を寄せ、
「少し、審問のシステムについてお話ししましょうか」
「……え? はい」
 目を丸くするフレデリカの眼前に、指を三本立てて見せた。
「審問官が、審問を成立させるために集めることが出来る証拠には、三つの要素があると言われています」
 にこにこと微笑みながら、指折り数え挙げる。
「一つ目が、本人が抱く罪の意識の認識。二つ目が、その者が属する母集団が判ずる罪の認識。そして最後が、人類大多数が無意識の内に判ずる罪としての認識。リオさんはまだ見習いですから、天使は、まだ一番目の要素――『本人が抱く罪の意識の認識』によってしか審問を行うことが出来ません」
「それってつまり――」
 首を傾げたフレデリカの淡褐色(ヘイゼル)の瞳が、くるくると回る。
 審問を成功させるためには、審問官が対象となる者の罪を立証し、それがどの程度の刑罰に相当するかを、相手に納得させなければならない。
「――つまり、あの時リオは『一番目の要素』だけで、夜盗たちの罪を立証しようとしたけど、審問を成功させることは出来なかった。けれど、アンドレアス審問官は、他の要素も合わせて立証の材料にすることが出来るから、夜盗たちを裁くことが出来るのね」
 ぱん、両手を合わせる音が車両に響く。
「ご明察です! フレデリカさん」
 坂を昇っていたトロッコが、がたん、と大きく跳ねた。
「けどジブリールさん。あの夜盗たちは私たちを殺そうとしたんですよ? 一番目の要素――『本人が抱く罪の意識』だけで、十分に立証が出来たんじゃないですか?」
「罪は立証できても、罰が与えられないんだよ」
「……なによ。大きな声で言いなさいよ。へっぽこ審問官さん」
 不機嫌そうな目で、じろりと見つめられ、リオは慌てて身体を守るように両手を前に出し、
「えっと、その。もちろん、僕らを傷付けたり、殺したりしたなら、夜盗たちを拘束することが出来るよ。けど、身体を抑えつけたくらいじゃ、罪の意識も低い。彼らの自由を奪うだけの罰を与える理由にはならないんだよ」
「呆れた。人が殺されるまで、じっと見てるしかないってこと? そんなの審問官の意味無いじゃない」
「う。まぁ、そうなんだけど。そうなんだけどさ……」
 容赦の無いフレデリカの指摘に、リオが肩を落とす。二人のやり取りを見守っていたジブリールは、「仰る通りですが」と困ったように笑って、 
「審問官として一人前になれば――厳密に言えば、『天使』の位が上がれば――ですが、より多くの存在から証言を集めることが出来るようになりますよ。第二、第三の要素はもちろん、人間以外のものや、集団や法律といった概念からも。そうなれば、リオさんもこの都市の『教会審問官』のように、夜盗たちを裁くことが出来るはずです」
 リオさんなら、すぐに一人前になりますよ。だから落ち込まないでください、と肩に手を載せるジブリールを、リオが赤くなった顔で見上げる。
「その、ありがとうございます。ジブリールさんって、審問官のことについて詳しいんですね」
「そうですか? 旅をしていれば、審問官の方のお世話になることも多いですから、これくらいの知識は必然的に身に付きますよ」
「へぇ〜、旅をしていると、そんなことまで」
 感心した様子で頷くリオを横に、フレデリカは、背もたれに身体を投げ出す。
「うーん……。どうにも納得できないわ。人を殺そうとすることは立派な罪よ。それが成功しても失敗しても。……証言を取れるかどうかなんて関係ない。それをそうしようとした時点で犯罪は成立する。――違う?」
「そ、それは、そうかもしれないけど」
「アンタが未熟だろうとなかろうと、誰が見たって、人を殺そうとすることは犯罪よ。どうしてそんな単純なことが立証できないのよ」
 目を細めたフレデリカが、ぐっと寄せる。リオは苦笑しつつ、逃げる様に車窓の方へと身体をずらし、
「……誰の心にも、神が住まわれるとは限らないのですよ」
不意に聞こえた冷たい囁きに、揃って顔を見合わせた。
 引き寄せられるように、向かいに座るジブリールに視線を移す。
「ジブリールさん?」
「はい」
 ジブリールは暖かい日差しを浴びて、変わらず穏やかな笑みを湛えている。
「あの――今、なんて」
「あ、着いたみたいですよ」
 フレデリカが言いかけた言葉を遮って、ジブリールは間近に迫った緑の森を指差した。
 その声に、先ほど感じた冷たい影は感じられない。二人は、じっと目の前の少女を見つめる。窓の外を流れる空気は、ゆっくりと、しかし着実にその温度を下げていた。

   ※

 丸太小屋は、濃い緑の葉を生い茂らせた大振りの枝の間に隠れるように、ひっそりと建っていた。
「クレーエさん! いらっしゃいますか!?」
 がたついた木の扉を開けて、リオが小屋の中に入り込む。フレデリカとジブリールもそれにも続き、すぐに小屋の中に漂う甘い匂いに顔をしかめた。
「なによ、これ」
 思わず口元を手で覆う。薄暗い室内は、濃いアルコールの匂いが充満していた。よく見れば、床という床に、たくさんの蒸留酒の瓶が転がっている。
「失礼します」
 ジブリールが遠慮の無い足取りで、つかつかと部屋の中央に歩み出た。古びた黒いソファと水瓶、テーブル代わりの木箱と小さな暖炉しかない殺風景な部屋を見渡し、
「留守のようですね」
「出かけているんでしょう。まったく。不用心だなぁ。鍵もかけないなんて」
 呆れたように言うリオは、この部屋の様子に慣れているようだった。勝手知ったるといった様子で締め切られた窓の前に立つと、それらを一気に開け放つ。
 夕澄みの涼しい風が吹き抜け、白い光が小屋の中を照らし出した。窓からは、中央管理塔の細長い影がよく見える。
 どうしたものか、と考えていると、リオが床に散乱した酒瓶を片づけ始めた。どう見ても手慣れている。これまでも何度かこの丸太小屋を訪ねたことがあるのだろう。
「……止めておきなさいって言ったのに。人の言うこと聞かないんだから」
「何か言った? フレデリカ」
「何でもないわよ」
つん、と顔を背けると、不意に荒れ果てた小屋を厳しい表情で観察するジブリールの姿が目に入った。
「ねぇ、リオ」
 ジブリールには聞こえないよう、そっとリオに耳打ちする。
「どうしたの? フレデリカ」
「もう帰ろうよ。案内するって約束は果たしたんだし、私たちには関係のないことでしょ?」
「そうだけど」
 でも、と言いかけたリオの服の袖を、細い手で掴む。フレデリカは眉をハの字にすると、不安そうな声で、
「私、あの男が苦手なの。知ってるでしょ?」
言って、そっと身震いした。
 脳裏に蘇る、暗く静かな、夜を写したような真っ黒な瞳。まるで絶望しか残っていないようなのに、それでも死に切れずに動き回っているような――。
「お前ら。そこで何をしている」
「――っ!?」
 心臓がひと際高く鼓動を刻んだ。響いた低い声に驚き振り返ると、開け放たれた扉の向こうに、背の高い、影のような男が立っていた。
「うわ……帰って来ちゃった」
「クレーエさん!」
「また来たのか。リオ。お前、ここには近付くなと言っといただろうが」
 不機嫌そうに舌打ちして、男は百八十を超える高さから、真っ直ぐに自分を見詰めるリオを見下ろした。無精ひげが伸びる痩せこけた土色の顔。まだ若いだろうに、胡乱気な瞳に生気は無く、死体のように濁っている。
「あの、今日は用事が無いのに来たわけじゃなくて」
「帰れ。ここは子供の遊びに来る所じゃない」
 吐き捨てるように言うと、男は薄汚れた金釦の嵌まったスタンドカラーのコートを引き摺るように歩き過ぎ、身構えるフレデリカを無視して、どかりとソファに腰を下ろした。すれ違う際、強い酒の臭いが鼻を掠める。かなりの量を呑んでいるらしい。
 帰りましょう、とフレデリカがリオに乞うように目で合図を送る。リオが迷うように斜め上に視線を向けると、視界の隅で白い花が揺れた。
「昼間からお酒ですか。良い身分ですね」
「……あ?」
 胡乱な黒い瞳が、じろりとジブリールを見上げる。祈るように手を組んだジブリールは、百合の花が揺れるように柔らかく笑って、
「酷いざまですね」
低く乾いた声で言って、男を濁りの無い、宝石の様な翆緑色の瞳で見下ろした。
 男――クレーエの濁った瞳に、すっと冷たい光が灯る。
「誰だ? お前」
「すっかり落ちぶれて。昔の知人が見たら何と言うでしょう」
 顔を覗きこもうと身を屈めたクレーエの視線を、絹のような金色のヴェールが阻む。くるりとジブリールが背を向けると、クレーエがまとう空気が帯電したように殺気を帯びた。長い指が、コートの中の銃把を掴む。
「クレーエさん!」
「黙ってろ、リオ」
 咎める声に、クレーエが低い声で答える。間髪入れず、鋭い視線と共に尋ねた。
「管理教会(アパテイア)の人間か?」
「うーん。それは難しい質問ですね」
「真面目に答えろ」
 剣呑な声が全く聞こえなかったというかのように、ジブリールは軽快な足取りで窓辺まで歩いて行くと、小さく伸びをした。白い薄布が揺れ、人口灯の光を通して金色に輝く。
「管理教会の人間か――そう問われれば、私は、『ノー』と答えるでしょう。しかし、貴方の質問の真意を組むならば、『イエス』と答えるのが相応しいのかもしれません。それは、個人の主観によるところが大きいのでしょうが」
「お前は誰だって聞いてるんだよ。所属と名前を言え」
 身を低くして跳びかかった黒犬のようだった。クレーエは素早く間合いを詰めると、一瞬でジブリールの腕を捻り上げ、汚れた壁に押し付ける。鏡のような翠緑色の瞳が、顔を覗きこむ殺気だったクレーエの顔を静かに写し出す。
「まるで暴漢ですね。目を見ていないと、そんなに不安ですか?」
「っ!」
 囁く声に、クレーエは熱いものにでも触れたように、ジブリールの細い腕から手を離した。やつれた土気色の顔に、明らかな動揺の色が走るのが、傍で見ていたフレデリカにも解った。
「……クレーエさん?」
 リオが目を丸くしている。
 フレデリカも驚いていた。まさか、五人の夜盗に囲まれても眉一つ動かさなかった、あのクレーエが、線の細い人形のような少女――優しげに微笑むジブリールを、何か恐ろしいものでも見る様な目で見つめている。
「……はぁ」
 今にも銃を抜き放ちそうなクレーエに、ジブリールは「呆れた」と言うように小さく息を吐き、
「臆病なのは相変わらずですか。まるで動物そのものですね」
「黙れ。答えろ! お前は何者だ。何の用で俺の前に現れた!」
 なお殺気立つクレーエに、ジブリールは、そっと艶やかに微笑む。神に祈りを捧げるように、豊かな胸へと両手を引き寄せ、
「いいでしょう。お答えします。――私は世界を巡る者。人としてこの世界を生き、人々の声を聞き届ける者です」
舞台の上に立つ役者のように、透明な声で、謳い上げるように言った。今度は、クレーエの顔を真っ直ぐに見つめたまま。
「私のことが解りませんか? クレーエ」
 花の様な微笑みに、クレーエが動揺を隠せぬ声で呻き、後ろに退がる。顔面は蒼白で、今にも倒れそうだ。
「あの」
 二人の顔を交互に見つめていたリオが、困惑気味に口を開いた。
「ジブリールさん。クレーエさんは本当に、あなたが捜していた人だったんですか?」
「……ジブリールだと?」
 リオの問に、何故かクレーエが驚きの声を漏らした。クレーエは、微笑むジブリールを、まるで悪夢を見ているような顔で見つめている。静寂を破るように、仕事収めを告げる教会の鐘の音が響いた。
「リオ、そろそろ帰らないと」
 間髪いれずに声をかけると、リオがすかさず賛同する。
「そ、そうだね。ジブリールさん。そろそろ日も暮れてきましたし、今日はこれくらいにしませんか。八時を過ぎるとガス灯も消えちゃいますし、今の内に戻らないと。宿はどこの階層ですか?」
「宿、ですか?」
 尋ねるリオに、ジブリールが、きょとんとした顔を向ける。微かに首を傾げ、
「私、宿なんてとってませんけど」
「ええ!? 宿を取って無いって……どうするつもりだったんですか!? この季節の都市で野宿なんて無理ですよ!」
「はい。どうしましょう」
 のほほんと言うジブリールに慌てた様子は無い。フレデリカは思わず額に手を当てた。都市に来たばかりのジブリールは、まだ都市の夜を理解していないのだろう。都市は昼間は暑いぐらいだが、夜は凍えるほどの寒さになる。しかもあんな薄着とあっては、野宿など無謀以外の何物でもない。
 どうしたものか、とフレデリカが思案していると、ぐっと拳を固めがリオが前に出た。
「あの、ジブリールさん!」
 ジブリールを見上げると、躊躇うように一度、視線を落とし、
「泊まる所が無いなら、うちに来ませんか? ……もし良かったらですけど」
「ちょっと、リオ! 何を勝手に……!」
「ありがとうございます。けど、私はここで結構ですよ」
 ジブリールが微笑み、ゆっくりと首を振る。思わぬ言葉に、今度はフレデリカが声を上げた。
「ここって、まさかこのボロ小屋に泊まる気!?」
「はい」
「……待ってくれ。何勝手に決めて」
「良いではないですか」
 抗議の声を上げるクレーエを、ジブリールが透明な瞳で見上げる。
「知らない仲でもありませんし。貴方にはいろいろと聞きたいこともあります。ボロ小屋とて、寒さを凌ぐくらいは出来るでしょう」
「待て待て待て……! 俺はお前みたいな可笑しな女、知らないぞ!」
 夜の森で一瞬で五人の夜盗を黙らせたクレーエが、声を上ずらせて歩み寄る。ジブリールは、
「……はぁ」
これ見よがしに深いため息を吐いて、冷たい視線をクレーエへと向けた。ゆるゆると首を振って、
「何と察しの悪い……。まぁいいです。というわけで、私はこのボロ小屋に泊まります」
いそいそとソファの上の毛布を抱え込んだジブリールの行く手に、両手を広げたフレデリカが立ちはだかった。
「だ、ダメです!」
 素っ頓狂な高い声が喉から出る。
「さすがの私も、それは見過ごせません! その、同じ女性として! あんな浮浪者みたいな奴と一晩過ごすなんて、危険すぎます!」
「どうしてですか? フレデリカさん。何か問題があるのでしょうか?」
 きょとん、とした顔でジブリールが首をかしげる。フレデリカは、うっ、と息を飲み、
「あの、その……。とにかく、駄目です! ジブリールさんは、私と一緒に来てください。ウチ、教会なんです。巡礼者なら、神の家である教会に泊まるのが普通でしょう?」
「そんな、悪いですよ」
「俺の所に泊まるのは悪くないのかよ」
 クレーエが低い声で抗議の声を上げる。リオがおろおろと、三人の顔を代わる代わる見つめる。
「とにかく! いいですか。ジブリールさん。修道女であるあなたが、こんな所に泊まっていたと町の人たちに知られれば、間違いなく変な噂が立ちます。修道女を浮浪者に……て、てごめにされたとあっては、ウチの信用に傷がつくんです!」
「て、てごめって、フレデリカ!?」
「ううううるさい! あんたは黙ってなさい!」
 顔を真っ赤にしたリオにつられて、フレデリカの顔も徐々に赤く染まっていく。対するジブリールは、相変わらずの惚けた調子で、しかし優しげな瞳でフレデリカを見つめている。
「良く解りませんが……。つまり、私がこのボロ小屋に泊まると、フレデリカさんにご迷惑をかけてしまう……。そうなんですね?」
「そうなんです!」
 真っ赤になったフレデリカが、真剣な表情で叫ぶ。ジブリールは、しばし考え込む様な仕草を見せたが、
「わかりました。そういうことなら、お言葉に甘えさせていただきましょう」
胸の前で手を組んで、柔らかく微笑み首肯した。
「正直、助かりました。私も、こんなボロ屋に泊まることになると思うと、気が滅入っていた所ですわ」
「てめぇ、さっきから人の家をボロ屋ボロ屋連呼しやがって」
「事実じゃない」
「うるせぇ。フレデリカ、お前もだ。人を浮浪者扱いするな」
 クレーエが頬を引きつらせ、低い声を出す。玄関口へと歩いて行ったジブリールは、思い出したように振り返ると、花のように可憐な笑みを浮かべ、
「それでは、クレーエ。また明日」
「ちょっと待て……! もう少し話を」
 追い縋るようにクレーエが一歩を踏み出す。すると、
「また明日、と言ったはずですが」
ジブリールはそれを、ぴしゃり、と冷たい声だけで制した。
 はぁ、と再びため息を吐くと、
「それより貴方、明日までにもう少し身なりをきちんとして置いて下さい。あなたが浮浪者の体では、フレデリカさんの家に傷がつくそうです。それと、お酒ばかり呑んでいないで、もう少しマシなものを食べて下さい」
「……ッ、お前、勝手な事ばかり言いやがって。人の話を」
「お前ではありません」
 宝石のように大きな翠緑の瞳が、真っ直ぐにクレーエを見つめる。クレーエは一瞬、はっとしたように息を呑むも、すぐに気圧されたように視線を逸らした。
 ぼさぼさの黒髪をがしがしと掻くと、悔しげに舌打ちを一つ。
「わかった。……ジブリール。明日の朝、またここに来てくれ。話がある」
「わかりました。おやすみなさい、クレーエ。良い夢を」
 ジブリールが華やかに微笑む。それは文句なしに美しい、天使の様な笑顔だった。




(>∀<)ノぉねがいします!



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