■火天C

 こつん、と窓に小石の当たる小さな音。気のせいかと思ったけれど、三回も続くと違うのだと気付いた。
 カーテンの隙間から覗く、深い夜の下に眠る見慣れた町並み。商館の窓辺は二階にしては高く、敷地内を広く見渡せる。いつもより暗い街の景色に戸惑いながら周囲を窺うと、路地裏に面した背の高い生垣の向こうに、手を振る友人の姿を見つけた。
「……フレデリカ?」
 眠気のまとわりつく頭で呟き、急いで細い髪を手櫛で整える。
 両開きの窓を空け放つと、部屋に入り込んでくる、まどろみを吹き飛ばす冷たい夜の風。手を振るフレデリカは、縁に花びらのような飾りのついた勿忘草色の民俗衣装《ディアンドル》に、白い前《エプロン》掛け姿。都市は夜になるとぐっと気温が低くなる。そんな薄着で寒くないのだろうか、と心配になる。
「どうしたの? こんな時間に」
 細い声を精一杯張り上げて訊ねると、フレデリカは少し恥ずかしそうにはにかんで、
「体調はどう? フィーネ」
いつもより硬い声で言った。
「随分いいよ。明日は学校に行けると思う」
 「ほら」と力こぶを作って見せる。フレデリカは一瞬、目を丸くしたけど、すぐにほっとした顔で笑ってくれた。
 温かい笑顔に、重たい石を括りつけられたように塞いでいた気持ちが、ふっと軽くなる。
 フレデリカとは子供のころ、入院先の病院で知り合った。その頃の私たちは今よりずっと身体が弱くて、満たされない好奇心にうずうずしていた。そんな私たちが院内の小さな遊戯スペースで仲良くなるのに、時間はかからなかった。
 彼女と友達になって、もう十年になる。
 フレデリカは数年と経たずに良い薬が見つかって、見違えるほど体調が良くなったけれど、私はずっと小康状態が続いている。
 身体が思い通りに動かない辛さやもどかしさを知っているフレデリカは、本心を口に出すのが苦手な私にとって、言葉に出さなくても通じ合える一番の理解者だ。
「こうやって話すのは久しぶりだね。……ちょっと照れるかな」
 フレデリカが気恥ずかしそうに頬を掻く。
 数年前までは、具合が悪くて学校を休まなければならなくなった日は、放課後になるとフレデリカが様子を見に来てくれて、こうして窓辺越しに話をした。
お父様に見つかったら怒られてしまうけど、それが高揚感にも繋がって、私たちは日が暮れるまで、お喋りに夢中になった。フレデリカは、いつも今日あった出来事を面白おかしく話してくれて、いつも最後は「またね」と元気に手を振って、坂道の向こうに走っていった。当時の私は、それを見るのが何よりの楽しみだった。
 冷たい夜の街路から、真っ直ぐに私を見上げてくるフレデリカ。幾つもの思い出が重なった。
 商会の人たちはもう帰ったはずだし、心配しなくても誰も見ていないはずだけれど、当時のことを思い出して、私の頬は熱くなる。
「そんなことより、フィーネ?」
 フレデリカの頬が風船のように膨んだ。
「やっぱり、まだ避難してなかったのね。いつまでもそんな恰好でいちゃ駄目だよ。早く逃げないと」
「……そんな恰好?」
 思わぬ言葉に自分の姿を見下ろすと、自分の寝間着姿が目に入って、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。ずっと臥せっていたから、着替えるのを忘れていた。
「そ、そうね。そろそろ着替えるわ……」
「もう! フィーネは呑気なんだから」
 呆れたように言うフレデリカに、私は曖昧に笑い返し、冷たい風の行き過ぎる街並みに視線を転じた。
 窓を開けるまで気付かなかったが、見飽きるほどに見慣れた夜の街路は、分厚い膜に包まれたように静かだ。第二階層は、他とは違い夜間営業の店も幾つかあり、夜もある程度明るいはずだけど、ネオンの光は見えない。全てが、夜の海に静かに沈んでいる。
 一時間ほど前に、都市全域に避難命令が出されたことは知っている。
 使用人たちが一緒に逃げましょうと声をかけてくれたけれど、私はそれを断って商館に残ることを選んだ。
「すぐに逃げないと。ここも危ないよ」
「……そうね。けど、お父様がまだ帰って来てないから」
 夕方ごろに秘書と出かけた父は、まだ戻っていない。
「帰って来た時に誰も居なかったら、寂しいでしょう」
 病弱な私は、いつも父に迷惑をかけてきた。早くに母を亡くした私を父は酷く心配して、忙しい仕事の合間にも顔を見に来てくれた。難病と言われた病の治療も、あちこちに高いお金を払って考えられる限りの処置をしてくれた。
 ベッドに臥せった私に出来ることは、疲れて帰って来た父を労う事だけ。それでも父は、私が「お帰りなさい」と出迎えると、嬉しそうに笑ってくれるのだ。
 使用人たちが、騒ぎのどさくさに紛れて、商館内のお金になりそうなものを、ありったけ持ち出したことを、私は知っている。商会の中は今、空っぽも同然だ。全てを失くした今だからこそ、私はここで父を出迎え、労ってあげたかった。
「私たち家族はいろいろなものを失ってしまったけれど、きっとまたやり直せるわ。そうでしょう?」
 上手く微笑んだつもりだったけど、フレデリカの笑顔はぎこちなく歪んだ。
 落ち着きなく視線を彷徨わせて、
「あのね、フィーネ」
掠れた声で、絞り出すように言う。
「たぶんオスカーさんは……帰って、来ないと思う」
 どすん、と重たい衝撃が私の頭を揺さぶった。足が震えて、その場に座り込みそうになるのを窓の桟を掴み堪える。
「……そう」
 鋭く息を吸い込んで、
「そう、なのね」
風船から空気が漏れる様な声が出た。ゆっくりと息を吐き出すと、堪えていた涙が溢れて頬を伝う。
「待ってても、駄目なのね」
 フレデリカが凍りついた笑顔で俯き、唇を噛みしめた。
 予感はあった。父は悪いことをしてしまって、その報いを受けたのだ。
 何があったの? フレデリカを問い詰めたい衝動に駆られる。けれど、フレデリカの辛そうな顔を見たら、何も聞けなかった。
 フレデリカは、冗談や憶測でこんなことを言う子では無いし、私が知っておいた方が良いことは、いつもきちんと話してくれる。彼女が話さないということは、きっとそれは私が聞くべきではないと判断したからなのだ。
 「どうして」と悲鳴を上げる心を抑えて、涙を拭う。
「知らせに来てくれて、ありがとう。フレデリカ」
 見上げるフレデリカの目からも一滴、ぽろりと涙が流れた。それでも、フレデリカは真っ直ぐに私を見て、
「オスカーさんのためにも、フィーネは生きて」
強い声で、言った。
 私は頷き返す。
「それでね……その」
 フレデリカは再び視線を下げると、落ち着きなく何度も手を組み合わせた。じっと上目づかいに見上げて、
「外に、リオが先に避難してると思うの。あいつのこと、お願いしてもいいかな」
「リオ君? いいけど。フレデリカはどうするの? 一緒に逃げないの?」
「私は用事があるから。お父さんに言いつけられてることがあって」
「ハイゼ神父に……?」
 フレデリカのお父さんは、この都市の神父様だ。きっと侵入したテロリストたちの元へ向かったに違いない。父の為に少しでも役に立ちたいと言う気持ちは、私も痛いほど解る。
「わかったわ。リオ君はしっかりしてるから、私に出来る事はないかもしれなけれど」
 頼りない私の答えに、けれどフレデリカは安心したように微笑んで、
「……良かった。フィーネになら、リオのこと任せられる」
「え?」
「私が言うことじゃないけどね」
照れたように言って、はにかんだ。
 私は彼女の声を聞き取ることが出来なかったけれど、問い返してもフレデリカは曖昧に微笑むだけで、言い直すつもりは無いようだった。
「あ。それと、代わりにリオに『ゴメンね』って謝っておいてくれないかな」
「それはダメ」
 きっぱりと拒否すると、「ええー?」とフレデリカが不満そうな声を上げた。
「そういうのは自分で謝らないと意味無いもの。大丈夫よ。リオ君は優しいから、きっと許してくれるわ」
 フレデリカはしばらく「そんなぁ」とか、「少しくらい、ね?」とかしつこく何度も食い下がって来たけれど、私が聞く耳を持たないことに気づくと、「仕方ないかぁ」と肩を落とし、ちらりと上目遣いに私を見上げた。
「フィーネって、そういうところ厳しいよね」
「当たり前でしょ。フレデリカがいい加減過ぎるのよ。フレデリカは、いつも肝心なことは口に出して言わないんだもの。どんなことでも、きちんと言葉に出さないと伝わらないよ」
 自分のことは棚に上げて忠告する私に、フレデリカはくるりと背を向けた。私は戸惑う。気のせいだろうか? 一瞬、フレデリカの顔がくしゃりと歪み、泣きだしそうなものに変わったように見えた気がした。
「……フレデリカ?」
「そろそろ行かないと」
 いつもの明るい声で言って、
「それじゃあね。フィーネ。……バイバイ」
小さく手を振って駆け出す。背中で結んだ白いリボンが揺れて、ゆっくりと坂道の向こうに消えて行く。私はその背中が見えなくなるまで、小さく手を振り続けた。
 カーテンを閉めてからも、真っ黒な夜の中に消えていくフレデリカの背中が瞼の裏に残っていた。大切な、かけがえのない友達。その背中が不意に、夕方同じ窓から見送った父の背中と重なり、私は慌てて首を振った。
 気のせいだと自分に言い聞かせて、私はじっとりと汗ばんだ上着を脱ぎ捨てると、ベッドの下からお父様がプレゼントしてくれた、こげ茶色の革のトランクを取り出す。拍子に、意識していなかった言葉が毀れた。
「……今日は『またね』じゃないのね」

 ――私は、ここでフレデリカと別れたことを、後に後悔することになる。
 あの時の私には、想像することさえ出来なかった。まさか、これが元気に駆けて行くフレデリカの姿を見る、最後の機会になってしまうだなんて。



 地上三十階からなるヴェステリクヴェレ最大の高層建築は、科学技術がかつて栄華を極めた時代の名残を色濃く残し、楼閣と呼ぶに相応しい威厳を漂わせている。
 白っぽい常夜灯の明かりに照らされた塔……遠目から見ると、深い海の底に眠る古代の神殿のようにさえ見えるその建物の足元は、第一階層のプレートより一段沈んだ広場になっていて、直径百メートル程度の小さな広場になっていた。広場の中央には、都市を代表するモニュメントの一つである、石造りの噴水が鎮座している。
その噴水から、五十メートルほど手前……下層の広場と第一階層とを繋ぐ石段を挟んで、二つの影が対峙していた。
 彼我の距離は、水平距離にしておよそ十メートル。高低差は二メートルほどになる。
 両者は野暮ったい黒の僧衣姿。共に、大きな体躯を窮屈そうに僧衣の中に押し込み、石段の上と下とで、互いを牽制するように鋭い視線を交わしている。着ているのが僧衣でなければ、犯罪組織の構成員が縄張り争いをしているようにしか見えなかっただろう。
「お久しぶりです。大司教殿」
 塔より近い方……階段下の噴水の前に立った、顔中に無数の傷のある軍人のような立ち姿の男が、屈強な身体を折り、頭を下げた。
 周囲の光を飲み込む奈落――階段の上に立つ男が、陰気な影を従えて微かに表情を動かす。
「お前たちは手を出すな」
 背後に控える、武装した少年兵たちに低い声で告げると、一段飛ばしに緩やかな石段を降り始める。歩く度に不吉な気配が夜の大気に紛れ、周囲に拡散した。
 男からは、原始的で抗い難い死の匂いがした。
「覚えがあるぞ。貴様は確か」
 首を傾げ、こめかみの辺りを叩いて、
「私の部隊に居た……アンドレアス、と言ったか」
「覚えていただけていたとは。光栄です」
 ヴェステリクヴェレ司祭審問官アンドレアスは、いかつい顔を綻ばせ目を細めた。
「まさか、私のような下位の審問官の名前を憶えていただけていたとは」
「なに。密教をルーツに持つ審問官は少なかったからな。その五鈷鈴《ガンター》を見て、ピンと来た」
 言って、男はアンドレアスの腰元で揺れる黄金色の五鈷鈴《ガンター》を指差した。アンドレアスはちらりと視線を落とし、
「かれこれ十年ぶりになりますか」
歯を見せて、ニヤリと笑った。男も同じように笑い。
「久しいな。息災そうで何より」
「お蔭様で。しかし……貴方の方は息災とはいかなかったようだ。残念でなりません。管理教会《アパティア》から報告書を取り寄せるまでは、とても信じることが出来なかった」
 アンドレアスの顔から朗らかな笑みが消え去り、表情が強張る。顎を引くと、
「まさか、あの地獄を耐え抜いた貴方が堕天するなど、夢にも思いませんでした。一体何があったのです。ダリウス大司教閣下」
昏い瞳で、じっとりと男を睨み上げた。
 豪放な振る舞いの下から現れた昏い感情に、男――元・大司教ダリウス・ロンブルは階段を下りる足はそのままに、喉の奥で引き攣ったような声を上げて笑った。
「そうか。お前は知らなかったのだったな。九年前のあの日、何があったのか」
 アンドレアスが重々しく太い首を縦に動かす。
 アンドレアスが管理教会《アパティア》を離れ、ヴェステリクヴェレに戻ったのは『大罪事変』が起こる半年前。そこで何が起こったのかは、アンドレアスもまた世界中の人々同様、管理教会《アパティア》からの発表と、おぼろげな風の噂に聞くのみだ。
「貴方が堕天した理由は、『大罪事変』に……九年前の神の消失に関係があるのですね。『大禍』と呼ばれるに至った所以も」
 アンドレアスの問に、男は答えを返さなかった。ただ気負いの無い雑な歩みで、ひたすら間合いを詰めて来る。
 塔が投げかける常夜灯の光が差し込み、男の瞳を薄茶色に輝かせた。爛々と輝く瞳には、アンドレアスを通り越して背後にある噴水が――否、その向こうにそびえる中央管理塔が映っている。
(なるほど……。私など眼中に無いということか)
 アンドレアスは強く拳を握り締めた。
 皮の編み上げブーツが最後の石段を踏み、同時に怪しげな鬼火が周囲に浮かび上がった。いかつい肩の上に、褐色黒翼の天使が現れる。
 ――堕天使。
 アンドレアスの目が細く眇められる。
 実際に目にするのは十年ぶりになる。おぞましくいほどに人の姿に近い、翼を持つ異形の生物。能面のような顔はひたとアンドレアスを睨み、紅の瞳は周囲に浮かぶ鬼火のように、ぎらぎらと煌めいている。
 アンドレアスは内心舌打ちすると、左足を前に出して半身に開き、微かに重心を落とした。「ほう」とダリウスがわざとらしく眉を吊り上げる。
「闘るつもりか。この俺と」
「……ここは私たちの都市です。かつての上官とて、ここを通す訳にはいきません」
 アンドレアスが低い声で言って、身体中に闘気を巡らせた。握りしめた皮手袋が高く悲鳴のような音を上げる。
「はっ、いいだろう。揉んでやるよ。十年前のようにな。ただし――」
 薄汚れた僧衣から、同じく白手袋の嵌められた手を出して、指を鳴らす。
「受講料は高く付くぞ」
 乾いた音と共に、黒翼の天使が翼を広げた。瞬く間に大気の温度が上昇する。アンドレアスは腰元に構えた左手で五鈷鈴《ガンター》を鳴らした。

 ちりん、

 ――この法具〈しるし〉を持って、汝は打ち勝たん《イン・ホック・シグノ》

 天使ケムエルが渦巻く風と共に顕現し、甲高い電子音に似た雄叫びを発する。アンドレアスの眼前で燃え盛る炎が幾重にも帯状に奔り、蛇のように身を捩じらせた。
「ケムエル!」
 アンドレアスが鋭く呼気を発すると同時に、ケムエルが肩の上で両手を前に突き出す。鎌首をもたげ、しなる鞭のように襲い来る炎の蛇を不可視の壁が阻み、明後日の方向へと受け流す。
 近くの公園へと誘導された炎は芝生上で燃え上がり、闇夜の園内を昼間よりも明るく照らし出した。
 天使ケムエルが操る奇蹟《エレメンタム》の属性は風。
 意志を持った暴風は、あらゆる干渉を埒外へと放り出し、彼方へと運び去る。アンドレアスは五鈷鈴《ガンター》を手に、すかさず叫ぶ。

「我が守護天使ケムエルの名において宣言す。開廷″ッ!」

 広場を溢れんばかりの灰色の光が照らし出した。
 天使を通して現世に流れ込んだ『神の意志』が、渦巻く嵐となって吹き荒れる。目に見えるほどの密度を持った疾風が公園内を円周上に駆け回り、外界との間に明確な境界を築いた。
 『審問法廷』
 審問官が天使の名の下に展開する簡易議場では、あらゆる罪が秤取られ、それに見合った罰が下される。

 ルロロロロロ――……

 ケムエルが再度、雄叫びのような声を上げた。
「おお、おお! 威勢がいいな。アンドレアス。貴様の風は冷たく重たい。まるで玄翁で頭を殴りつけられるようだ!」
 男は歩きながら歓悦に顔を歪ませ、宙空から細身の杭を思わせる短剣を取り出した。天高く掲げ、叫ぶ。
「行くぞ、イグニス!」

 ――この剣〈しるし〉を持って、汝は打ち勝たん《イン・ホック・シグノ》

 周囲一面に濃密な炎が吹き上がり、たちまち見上げるほどの壁となって頭上を覆う。微かに後退したアンドレアスに、男は取り出したばかりの短剣を矢のように投げ放った。
 アンドレアスの身体が滑るように動く。
 向かい来る銀の短剣を捻るように繰り出した裏拳で打ち落とすと、死角から放たれた巌の様な拳を紙一重で受け流す。
「田舎暮らしでも衰えては居ないようだな」
 互いの肉体が交差する刹那、男が歯をむき出しにして笑う。
「見くびらないで頂きたい!」
 アンドレアスは鋭く呼気を吐くと、足に絡む旋毛風に乗って間合いを離し、
「田舎暮らしというのも、決して楽ではないのですよ。ずっと本部勤めだった貴方には、解らないかもしれませんが」
「応とも。そうでなければ。そうでなければ面白くない」
 男が低い声で笑い、首を回しながら大股に間合いを詰める。一見すると隙だらけ。しかし、間合いに捕まれば一瞬で首をへし折られそうな威圧感がある。アンドレアスはその背後に、炎をまとった不動明王の姿を見る。
 ――まるで鬼神。
 アンドレアスは微塵も表に出さず、そっと背筋を震わせた。
(十年前と比べても、迫力は微塵も衰えていない……いや、一層増したか)
 慎重に半身に構える。
 あらゆる武術をくまなく習得したアンドレアスと違い、ダリウスは八極拳ただ一つを極めた武人だ。動き自体は予測し易いものの、その錬度は達人級で、微塵の隙も見出せない。ただ無心に放たれる内臓を破壊する拳打は、解っていれば避けられるという単純なものではない。
 打ち合えば、先に音を上げるのはアンドレアスであることは目に見えていた。天使が持つポテンシャルも、堕天使であるイグニスの方がケムエルよりも数段上手だ。しかし、
 ――だからといって、勝ち目が無いわけではない。
 アンドレアスは自らに言い聞かせる。
 これは格闘戦ではない。審問官同士の闘いなのだ。優勢に議論を展開した方が議場における支配権を持つ。言葉で揺さぶりをかけることが出来れば、むしろ劣勢を強いられるのは堕天審問官であるダリウスの方であるはずだ。
「お聞かせ願いたい」
アンドレアスはよく通る声で訊ねる。
「大司教。いったい貴方は、どんな大義があってこの都市に危害を加えるのですか」
 今、法廷の主導権を持つのは議場を展開しているアンドレアスだ。ダリウスは出された問いに三つまで、答える義務がある。
 ダリウスは微かに考える間を置き、
「それはこの都市が、それに値する罪を犯したからだ」
答えは明瞭だった。鬼神を思わせる顔がにやりと笑みに歪む。
「まさか、この都市を任される審問官たるお前が、都市が犯した罪に気づいていないなどということは無いだろうな」
 踏み込んだダリウスの身体が大きく沈む。伸び上がるように懐に飛び込むと、驟雨の如き拳打がアンドレアスを襲った。
 打拳、肘打ち、背中からの当身、転じて膝蹴り、震脚――打拳。手刀による払い――。
 短いストロークで繰り出される拳打は、アンドレアスに考える隙を与えない。アンドレアスはそれらを、ほぼ反射と勘だけで捌いていった。
 十年前の訓練で見たダリウスの動きは、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。アンドレアスは軍人時代に習得した近接格闘術を中心に応じ、一手一手を慎重に受け流していく。それでも重たい拳に、次第に腕を痺れが蝕んだ。
 勢いを逸らし切れず、たまらず足元がよたつく。瞬間、ダリウスの身体に殺気が漲った。
 達人の域にまで練り上げられた、八極拳の円を描く動き。
 捻り上げるように顎めがけて打ち出された拳を、アンドレアスは両の掌で受け止める
 重たく踏み込み、重心を移動させることで拳との相殺を狙ったが、殺しきれず手首の間接に激痛が走る。アンドレアスは声に出さずに呻いた。剛の拳は、まるで鉄塊を打ち下ろされているかのように重たく骨に響く。
「どうだ。答えろよ。アンドレアス司祭。お前は都市が犯した罪に、心当たりがあるか?」
 問い返された以上、アンドレアスもまた答えなければならない。その数、同じく三度。
「この都市の商人、オスカー・グートルンベーツが犯した罪のことか? それならば、既に都市の中でカタがついている」
「カタがついている? おいおい、随分と勝手な言い草だな。それはお前たちの主観での話だろう?」
「っ! ケムエル!」
 鋭い叫びに応じ、ケムエルが分厚い風の壁でダリウスを弾き飛ばす。宙に投げ出されたダリウスは、虚空より取り出した二本の剣を地面に突き立て勢いを殺すと、更に二本、同じつくりの短剣を取り出した。
「動揺したな? アンドレアス。ハハハハ! 何か思い当たるところでもあったか? ん?」
 羅刹の如く笑うダリウスの肩の上で、黒翼の天使が紅蓮の炎を燃え上がらせ、白い歯を剥き出しにした憤怒の形相で、血走った紅の瞳をアンドレアスへと向ける。
(これが、かつて天使だったものの姿なのか……!?)
 あらゆる戦場を駆け抜けてきたアンドレアスの背筋に震えが走る。
(――何という形相をしている! あれではまるで化け物ではないか)
「……大司教。お聞かせ願いたい。まさか、貴方が率いて来たテロリストたちは」
「そういうことだ」
 アンドレアスは弾かれたように、ダリウスの背後――建物の陰に身を隠すようにしている少年兵たちに視線を転じた。じっとりと嫌な汗が背中を伝う。
 まさか、本当にそうなのか? このテロリストたちは――。
「更に言うなら、だ」
 ダリウスはアンドレアスの反応を楽しむように、
「お前はどうやら、まだこの都市が犯した罪が如何なるものなのか、その本質を理解していないようだ」
「本質?」
 審問法廷内で虚言を弄することは許されない。何の兆しも現れないということは、彼が言っていることは真実だということだ。
「事は子悪党一人を裁けば良いという問題ではないのだ。……そこを退け。アンドレアス。それを知らぬのなら、お前にもう用は無い。それとも俺に、この都市の罪を見抜けなかった貴様の手落ちさえも審問させる気か?」
 両手に一本ずつの短剣――そして、背後の宙空に更に二本の短剣を出現させ、ダリウスが両手を広げる。
「あの、ハイゼという司祭のように」
「大司教。最後に一つ、教えていただきたい」
アンドレアスは震える喉で三つ目の質問を搾り出す。
「この都市が起こした罪――それはこの私はおろか、市民の全てが償わなければならないものなのですか」
「……」
 目を眇めたダリウスの口から、細い呼気が漏れる。
「回答は、イエスだ。アンドレアス。お前の言うとおり、田舎暮らしというのも大変なのだろう。だが、お前はその忙しさにかまけて、決して見逃してはならない罪を放任した」
 そう言ったダリウスの顔は、色濃い怒りに歪んでいた。
「……なるほど」
アンドレアスは長く息を吐く。
「どうやら、この状況で貴方を論破するのは難しいようだ」
 ダリウスが返事の代わりに、構えた短剣を打ち鳴らす。アンドレアスは一度瞑目して、
「しかし……私も人を罰する嵐と成り果てた貴方を、見逃すわけには行かない」
 五鈷鈴《レリクス》を腰紐に括り付けると、瞑目し、両の掌を合わせた。
「合掌――無無明亦無無明尽」
 ふっ、と。
 周囲を照らしていたあらゆる照明が、消えた。
「……停電か?」
 真っ暗闇の中で、ダリウスが訝しむ。
「非常電源も無いのか? どうなってんだ。この都市は」
 毒づき、そこで言葉を切ると――ダリウスは慎重に辺りを見渡し、イグニスが発する炎が勢いを減じたのを見て、微かに目を細めた。
 ――気付いたようだな。
 分厚い闇の帳の中で、アンドレアスは両手を合わせたまま、薄く唇の端を吊り上げる。
「イグニスの炎の煌めきでも闇が払えない……。音も聞こえなくなった。違う。違うな。これは停電などではない。これはアンドレアス。貴様の――」
「ご名答です。大司教。……貴方に私の神威《ゲニウス》をお見せするのは初めてでしたね」
 ダリウスがぎょっとしたように目を見張り、周囲を見境無く放った炎で照らし出す。彼にはすぐ耳元でアンドレアスの声がしたように聞こえたのだ。
 イグニスの強い炎の輝きに、一瞬だけ闇が暴かれるも、それはアンドレアスの元へ届く前に、無明の闇に呑まれて消えてしまう。
「議場を外の世界から切り離しました。私の神威《ゲニウス》は空間を遮断する」
 イグニスの炎に照らしだされたダリウスが、ぎょろりと目を剥いた。果ての見えない闇を睨むと、手にした短剣で無造作に闇を払い、
「時間稼ぎのつもりか? 無駄なあがきだ。切り離したところで同じこと。イグニスの炎で貴様を燃やし尽くせば、良いだけの話だ」
「それはどうでしょう」
アンドレアスは余裕の色を滲ませながら答える。
「さっきから貴方が撒き散らしている炎……イグニスの手を離れて燃え続けるには、酸素が必要だ。閉じた空間の中において、酸素の絶対量は限られている。それ以上炎を使い続ければ……後は言わずとも解るでしょう」
「はっ」
馬鹿にしたように息を吐いて、ダリウスは短剣の切っ先をアンドレアスの方へと向けた。
「それはお前も同じだろう。アンドレアス。俺と心中でもする気か?」
「それはどうでしょう。ケムエルの奇蹟《エレメンタム》をお忘れですか?」
 静かなアンドレアスの声に、ダリウスの顔が忌々しげに歪む。
 風のエレメントを持つケムエルなら、炎に炙られ酸素濃度の低くなった空気をダリウス元に集めることが出来る。
 ダリウスが闇の中で手を振った。周囲の炎が一瞬で掻き消え、紅に輝いていたイグニスの姿もまた、闇の中に没する。
「どうしますか? お答え願いたい。ダリウス大司教。ここで、もうこの都市には近付かないと誓うなら、この空間遮断を解いて差し上げても構いませんが」
「……お前が質問する権利はもう無いはずなんだがなぁ」
 間合いを詰めてくることを警戒し、アンドレアスは慎重にダリウスから距離を取った。風の防壁を利用し、自身の声を反響させることで、どこから聞こえるのか解らなくしている。真っ暗闇の中、ダリウスにアンドレアスの位置を探る術は無い。
 ――これで逃げ切れば、私の勝ちだ。

 アンドレアスは慎重に気流を読んで、相手の出方を探る。風の奇蹟《エレメンタム》を持つ天使は、炎の奇蹟《エレメンタム》を持つ天使に比べ、突破力こそ劣るものの、機動力には分がある。
 ダリウスはしばし、身じろぎ一つせず息を殺して周囲の闇を窺っていたようだが、
「……ふん」
鼻から短く息を吐くと、
「燃やし尽くせ、イグニス」
 低い声で命じると同時に、幾つもの炎の帯が夜の空に駆け巡る。それらは瞬く間に石畳の地面へと燃え移り、無明の闇を篝火のように照らし出した。
「正気か!? 空間遮断はまだ続いている。それ以上炎を使えば」
「どうにもなりはしないんだろう?」
 動揺するアンドレアスに、ダリウスは鼻で笑うように言った。
「貴様に、空間を区切る神威《ゲニウス》は無い。答えろ《・ ・ ・》。そうだろう?」
 イグニスが従える炎の密度が上がる。三度目の質問――アンドレアスは顔を悔しげに歪ませる。
「……その通りだ。だが、どうして」
「ケムエルの風の防壁が、外側にも向けられたままだった。天使は議場の展開中、外からの攻撃を自身で防がなければならないが、もし貴様が空間を遮断しているのなら、その必要は無いはずだ。俺だけに集中すればいい」
 イグニスの手の中で、火球が膨れ上がる。
「っく」
 アンドレアスは神威《ゲニウス》の効果を解いた。闇が晴れ、元居た噴水と石畳の街道が現れる。
 ダリウスの言う通り、アンドレアスの神威《ゲニウス》は、感覚を限定するだけであり、実際に空間を遮断するほどの力は無い。しかし、だからこそアンドレアスはそれを悟らせないだけの細工を施した。視角を封じ、聴覚を遮断し、言葉で弄した――だが、
「それに、だ。それほど強い力を持っているなら、あの傲慢な管理教会が手放すはずがない。炎の奇蹟《エレメンタム》を持つ、全ての天使に対する脅威となる能力だ。管理教会はお得意の洗脳教育を施してでも、貴様を本部に留めておいたはずだぜ」
それがどうだ! 足止めにしさえならなかったというのか!
「アンドレアス。貴様は確か、異教徒の討伐任務を放棄して、管理教会《アパティア》を逃げ出したのだったな」
 ダリウスの目が獲物を見据える獣のように細まる。引き摺るようにして二本の短剣を持ち、太い首を鳴らす。
「司教の座も剥奪されて、司祭に落とされたと聞いている。『山狗掃討作戦』だな? あそこで地獄を見たんだろう」
「……ッ、ケムエル!」
 ダリウスが踏み込むと同時に、塔の一部に風の塊をぶつける。抉られたように塔の壁が崩落し、巨石となって広場に振り注いだ。
 頭上を振り仰いだダリウスが身を固くする。巨石は容赦なくその上に降り注ぎ、ダリウスと異形の天使の姿を飲み込んだ。
「っはぁ、はぁ、はぁ……!」
 アンドレアスは荒い息を吐き、じっと瓦礫の山を窺う。物音ひとつしない。大粒の汗が顎を滴り落ちる。
「……ははっ」
 知らず、口元に薄い笑みが浮かんだ。
「残念です。大司教殿……。当時の私は、貴方ならば至高天《エンピレオ》にさえ到達出来るかもしれない、と。本気で思っていたのですよ」
 アンドレアスは表情を引き締めると、静かに両手を合わせた。口の中で弔いの言葉を並べ、
 からり、
 不意に聞こえた音に、表情を凍りつかせた。
 土ぼこりを上げて、瓦礫が持ち上がる。下から現れたのは、ぼろぼろの僧衣姿のダリウスだった。調子を確かめるように、太い首を鳴らしている。
「……『金剛』」
 アンドレアスはダリウスが持つ神威《ゲニウス》の名を呟いた。すぐに素早く首を振る。
 ――馬鹿な。十年前までは確かに、あれは身体強度を少し上げるだけの能力だったはず。
 同時に、思い出す。あれが世間に何と呼ばれているのか。そして、この九年間をどのように生きてきたのかを。
「……九年間を、堕天審問官として生き永らえて来ただけのことはあるということか」
 アンドレアスはようやく気付く。相対するこの男が、九年前と同じではないということに。
「終わりにしようか。アンドレアス」
 人の身で災厄と呼ばれた男の背中の上で、褐色黒翼の天使が両の翼を広げる。火天《アグニ》の異名を持つ、異形の堕天使イグニス。
「管理教会《アパティア》から逃げ出したお前を、俺は責め立てはしない。その苦悩はかつて俺も味わったものだ」
 ダリウスが両手を広げると同時に、背後の空に十の短剣が現れ、その銀の切っ先を一斉に、ぴたりとアンドレアスへと向けた。
「しかし、お前は自分の弱さに屈した為に、多くの人々を救う機会をふいにした。それは、多くの人を見殺しにしたことと、本質的には変わりない。お前が受け入れたその弱さが、今回の悲劇を引き起こしたのだ」
 風を纏ったケムエルが、アンドレアスを守るようにぴたりと頬に寄り添い、威嚇するように目を吊り上げる。
 銀の剣を掴み取ったダリウスの太い腕が、真っ直ぐにアンドレアスへと突きつけられた。
「裁きの時だ。アンドレアス」
 イグニスが夜色の翼を広げ、深紅の瞳から赤い涙を流す。
「残念だよ。お前がそれら重責に耐えることが出来るほどの強さを持っていれば……こうして、かつての部下を裁くことも無かったのにな」



 足元が冷たくなるような浮遊感――。
 耳朶に流れ込む擦過音に目を開くと、投げ出された両足の向こうに、車両にぶつかりひしゃげるトロッコと、その向こうに天蓋を覆う雲のような煙と、更に彼方にビロードのように広がる深い夜の空が見えた。
 ――空へ、落ちている。
「リオ! しっかりしろ!」
 叱咤する声に目を動かすと、真っ暗な空の隅にクレーエの顔が見えた。
 クレーエはリオの襟首を掴み、緊張に顔を強張らせている。隣には同じように襟首を掴まれたジブリールのきょとんとした顔が見えた。――逆さまに。
「……――え?」
 よく見ればクレーエの姿も逆さまに見える。足元には夜の空。そこでようやく、自分が逆さまに落下していることに気付いた。
「! マグノーリエ!」
 頭上に向けて腕を掲げ、落下地点に見える針葉樹林にマグノーリエの力を繋げる。すぐ眼前に林が迫り、全身を針で串刺しにされた様な衝撃が貫いた。耳をつんざくがさがさという音がして、足元の視界から空が消える。がくん、と首に衝撃が伝わり、逆さだった視界がぐるりと回転して元に戻った。
 襟首が閉まって、息が詰まる。ぐっと目を閉じると、頭上で低く呻く声が聞こえた。顔を上げると、宙吊りになったクレーエのしかめ面が見える。
 リオとジブリール、二人の襟首を掴むのと反対手の手は頭上高く掲げられ、腕にはチェーンが巻き付いていた。
 クレーエがチェーンから手を放す。三人は揃って下生えの草むらに落下した。
「……生きてるか?」
 よろよろと立ち上がったクレーエが、低く呻くように言った。
「何とか……」
「し、死ぬかと思いました」
 ジブリールが頭を押さえてよろよろと立ち上がり、リオも悪夢から醒めた様な声で呟く。頬についた擦り傷を指でなぞりながら顔を上げると、三メートルほどの樹高を持つモミの木の中ほどで、細いチェーンの一端が揺れていた。反対側は遥か頭上――鉄橋に括り付けられていた。
「あそこから落ちたんですよね……」
 十数メートルはあるだろう鉄橋を見上げ、リオはそっと身体を震わせた。チェーンを鉄橋へと結びつけたのはクレーエだろう。あの一瞬で、ほれぼれするほどの手際の良さだった。
「クレーエ。貴方、力持ちなんですね」
 同じように頭上を見上げたジブリールが、更紗《サラサ》の肩掛け《ショール》の位置を直しながら目を丸くする。
「……っ」
 クレーエは肩を押さえて辛そうに顔をしかめている。額にはびっしりと浮かんだ汗。無理も無い。クレーエの左肩にはリオとジブリール、そしてクレーエ自身と、三人分の荷重がかかったことになるのだから。
「あの。クレーエさん、それ」
 気遣うように手を伸ばしたリオを制して、クレーエは「くそっ」と一人毒づくと、不機嫌そうな顔でジブリールを見下ろした。半ば八つ当たりのように顔をしかめて、
「……お前、飯を食い過ぎなんだよ」
「ど、どういう意味ですか、それは!」
頬を紅潮させて詰め寄るジブリールを、クレーエは痛めた方とは反対の腕で押しやり、いつもより険しい目でリオを見下ろす。
「行くぞ。ここからなら、中央管理塔は目と鼻の先だ」

 体中についた木の葉を払いながら、古城街道を移設したという古い街並みを横切る。辺りはひっそりと静まり返って、住人の姿は見当たらなかった。
 振り返れば、そこには先ほど着地した林。木が生えているのは本当に小さな区画で、他は石材で出来た家々や煉瓦敷の街道が広がっている。運良くこの場所に着地できたのは奇跡に近い。
 中央管理塔は、見上げなければ全体が見えないほど近くにあった。
 天蓋に届かんほどに伸びる、のっぺりとした白い壁面。不気味な静けさに包まれた塔は、さながら白い墓標のようだった。
「――誰か居る」
 クレーエが低く抑えた声で言った。
 細く伸びる薄暗い街道の中央――ちかちかと明滅を続ける飾りランプの明りの下に、細い人影を見つけた。黒の修道服と、短いプラチナブロンドの髪が暗がりの中にゆっくりと浮かび上がる。色の白い、一見して眼鼻立ちのすっきりとした女だった。
 歳の頃はリオたちよりも上――恐らく、二十代前半といった所だろう。身体の線は細く、いかにも清貧を旨とする修道女といった様子だ。顔を伏せ、じっと長く伸びる自身の影を見詰めている。
「……お前か」
 クレーエが疲れた声で言って、長く息を吐いた。
「お知り合いですか?」
とリオは何気なく尋ね――顔を上げた女の目を見て、思わず息を呑んだ。
 黒いベールの下で輝く女の瞳は、鮮やかな金色をしていた。緑がかった青い虹彩が、ちらちらと炎のように揺らめく。巨大な肉食獣を思わせる金色の瞳には見覚えがある。
「クレーエさん、この人は――」
「レオパルトだ」
 言いかけると同時に、クレーエが答える。
「え? それってオスカーさんの用心棒じゃ……え?」
「何の用だ」
 混乱するリオを置いて、クレーエが女へと声をかけた。
「俺たちには、お前とやりあう理由はないんだがな」
 殺気や敵意を含まぬ透明な声は、言外に余計な衝突は避けたいと語っている。クレーエがこのような物言いをする以上、やはりこの修道女がオスカーの用心棒レオパルトなのだろうか。リオは女を食い入るように見つめた。
 痩せギスの修道女は、感情の読めない不思議な瞳で、じっとクレーエを見つめていたが、
「オスティナトゥーアに残っていた同朋が殺された」
 ぽつり、
 耳をそばだてていないと聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「名前は?」
「ルチェルトラ」
「知らない名前だな」
 クレーエが淡々と答えて首を振る。まるで旅人に道を尋ねられたような自然な反応だった。女だったのか、とかどうして修道服を着ているのか、とか、そういったことがクレーエには気にならないらしい。
 レオパルトの頭が、がくんと前に倒れる。ぎょっとするリオの耳に、抑揚のない声が流れ込んで来た。
「ルチェルトラは、私が知る限り最後の同朋だった。どうしようもない奴だったが、それでも大切な仲間だった。ルチェルトラは『大禍』に殺されたと聞いた。私の雇い主も、そうらしい」
「……待て。どういうことだ? 雇い主が殺された? オスカーがか?」
 クレーエが割って入るも、レオパルトの呟きは止まらない。
「同胞を殺した相手を、私たちは決して生かしておかない。必ず討ち滅ぼし、死んだ同朋に手向ける。それが群れの掟だ」
 一息で言い切る。クレーエが呆れ顔で溜息を吐いた。
「お前たちの掟はどうでもいいがな……。誤解があるようだから言っておく。お前の仲間を殺したのは『大禍』だ。俺じゃ」
「誤解などではない」
 それまでの呟きとは違う、明瞭な声。レオパルトは白く整った顔を上げてクレーエを睨み上げると、迷いの無い声で断言した。
「私たちの仇は、お前で間違いない」
「……なに?」
「私たちは、『山狗の子』だ」
 クレーエの顔が、嫌そうに歪む。その顔には「そんなことは知っている」と大書してある。
「『山狗の子』は、決して弱くない。『山狗』は私たちにそういう教育を施してきた。旧国の軍人はおろか、管理教会《アパティア》直属の審問官を相手にしても、私たちは負けなかった」
「もういい」
 話の通じない相手に、クレーエは苛立った声で言って首を振り、
「もう一度だけ言う。人違いだ。恐らく、お前の仲間を殺したのは、今都市を襲っている堕天――」
「『神の目』クロエ」
 不意に漏れた女の平坦な声に、クレーエの動きがぴたりと止まった。
「間違いない」
 レオパルトはそう繰り返し、修道服の襟元から覗いていた革のベルトを、自身の顔に巻きつけた。焦げ茶色のベルトの隙間から、じぃ、と獲物を観察する様な瞳が、強張ったクレーエの顔を見上げる。
「間違いない。ルチェルトラは殺された。だから、私がここに来た。同朋の仇を討つために。私たちの仇は、お前だ。……思い出した。九年前! 九年前だ! 間違いない」
 言い終わるや否や、腰元からずんぐりと太い一本の短剣を抜き放つ。リオはクレーエを庇うように前に出ると、マグノーリエを顕現させ、
「どうして解らないんですか! クレーエさんは『大禍』ではないと言って」
 声を大きくするリオに、レオパルトの金色の瞳がぎろりと動き、リオを見返す。瞬間、金縛りにあったように身体が動かなくなった。背中に氷柱を指し込まれたかのように、骨の髄まで纏わりつくような悪寒が染み込んで来る。
「……っ!?」
 一瞬の混乱と同時に、背中に多量の汗が浮かび、瞬く間に滴り落ちる。がたがたと顎が揺れ、歯の根が合わない。
 クレーエは動けないリオの肩を掴んで強引に退がらせると、そのまま傍に立っていたジブリールの方へと押しやった。
「おい、お前」
「ジブリールです」
 こんな時でも容赦のない淡々とした声に、クレーエは一瞬、呆れ顔になったが、リオをしっかりと受け止め、強く背中を叩いて正気に戻した手際の良さを見ると、心なしか表情を緩め、
「……ジブリール。リオを連れて中央管理塔へ向かえ」
「貴方はどうするのですか?」
「こいつを片づけたら、すぐに後を追う」
 言うなり、懐から愛用のリボルバーを取り出す。
「どうしてですか! クレーエさんには争う理由なんて」
 ジブリールに肩を掴まれたリオが食い下がるも、クレーエはいつもの陰気な表情で、
「いや、こいつの言っていることに間違いはない」
「そんな」と視線を落とすリオに、クレーエはリボルバーを握ったままの手で、わしわしとリオの頭を掻き回して、
「何を弱気になってる。自分でなんとかするって決めたんだろ?」
 笑みを含んだ、からかうような声。リオがはっとしたように顔を上げると、クレーエは表情を引き締め、レオパルトへと向き直った。
「俺もな、昔は審問官だったんだ」
 背中を向けたまま、独り言のように呟く。
「管理教会《アパティア》で、異教徒鎮圧の任務についていた。少しでも世の中が良くなればいいと思って、数え切れない異教徒や罪人を処断した。出来るものは何でもやったし、差し出せるものは何でも差し出した。どんな思いをしても、それで誰かが救われればそれでいいと思って、手を伸ばし続けた……だが」
 リボルバーを握った左手が胸に押し当てられる。
「駄目だった。俺は道を間違えて、あらゆるものを失った。終いには天使にまで愛想を尽かされて、審問官の資格さえ失った。……天使は俺にとって父であり、兄であり、師であり、親友だった。唯一の家族だった。気付いた時には、俺は一番の理解者にさえ見限られてたんだ」
 空っぽの声で言い終わると、クレーエは何かを振り切るように顔を上げ、
「俺は審問官が嫌いだ。審問官は、何も知らない癖に、上っ面だけ整えて、単純な言葉で片付けちまう。……それで全てが片付いたなんてのは傲慢だ。罪は、人と人の繋がりの中で生まれる。理由も無く悪いことをしようとする人間は居るだろうか? 善意も悪意も、やりとりされるうちに捻じれて絡まって、それでも無理を通そうとして、道理を外れ、罪になる。……そんな複雑なもの、俺たちに片づけられる訳が無いんだよ」
最後は自分に言い聞かせるように言って、首だけでリオを振り返った。
 その顔には、哀しげな笑みが浮かんでいる。
「自分が犯した罪に対して、どんな罰を科すかを決めるのは、最後は自分自身だ。俺には俺の闘いがあり、お前にはお前の闘いがある……。お前は先に行くべきだ。リオ」
「クレーエさん……」
 「フレデリカを任せたぞ」と低い声で言って、クレーエはリボルバーを構えた。左腕は林に落ちた時から一度も動かした所を見ていない。恐らく、使い物にならないのだろう。
「行きましょう」
 ジブリールが囁いて、リオの腕を引いた。リオは縫い付けられたように動かない足に力を込める、きつく拳を握りしめると、勢いよく踵を返した。震える背中に声がかかる。
「リオ。あの時、迷わずフレデリカを助けに行くと言ったお前は、最高に格好良かったぜ」
「……っ」
 声にならない声で返事をして、リオは冷たい石畳を蹴る足に、力を篭めた。



(>∀<)ノぉねがいします!



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