■火天B

 荷台にしがみつき、頭だけを出して遠ざかる教会を見送った。
「アイゼンバッハ警備兵長は追ってきませんね」
「それはそうだろう。追ってくる気概があれば、始めから都市の危機に尻尾を巻いて逃げ出していない」
 銃のメンテナンスをしていたクレーエが、吐き捨てるように言う。相変わらずの手厳しい言葉に苦笑だけ返して、リオもまたクレーエと同様に埃っぽい革袋を頭から被る。顔を上げると、遠く宵闇の向こうに、中央管理塔の赤い非常灯の明りが見えた。すぐ隣には、身じろぎ一つせず進路を見詰めるジブリール。乗り物の類があまり得意ではないらしい。
がたごとと揺れる荷台に身を任せながら、リオは後ろ髪をひかれるように、もう一度だけ背後を振り返った。頭を過ったのは、部下の警備兵たちに引きずられて行った、コニーの恨めしそうな顔。
 少しやり過ぎただろうか。
 知らず知らずのうちに溜息を漏らしていると、クレーエの真っ黒な瞳と目があった。露骨な呆れ顔。どうやら考えていることが顔に出ていたらしい。
「気の弱い奴だな。お前は」
「あはは……すみません」
 リオが苦い顔で笑うと、クレーエは「ふん」と小さく鼻を鳴らして、
「あれくらい、俺からすればまだ手緩いくらいだ。中途半端が一番悪い。恨みを買いたくないなら尚更、敵意を向けてくる相手は徹底的に潰すのが鉄則だ。再起出来ないほどにな」
「て、徹底的にですか……」
「難しいことじゃない。鉛玉の一発二発撃ち込んでやれば、刃向おうなんて気も失くすだろうよ」
 リボルバーに弾丸を詰めていく黒い瞳は真剣で、どこまで冗談か計りかねる。
 不穏な発言を聞いたからか。首に抱きつくように権限したマグノーリエが、険しい顔でクレーエを見下ろした。じわじわと威圧するように、荷台に緑のツタを這わせる。
「待て待て。冗談だっての」
 クレーエが慌てて手を振り、無害であることを示すように両手を挙げる。
「落ち着けって。ほら。さっきだって何もしなかったろう?」
「……え?」
 コニーを転がしたり銃を突きつけて脅したりしていたような気がするが、あまり考えないことにするリオである。
 マグノーリエは大きな翠玉《エメラルド》色の瞳を細めると、渋々といった様子で這わせていたツタを退けた。少年の姿を象ったマグノーリエの姿が、窓辺の雪が解けるように、ゆっくりと消えていく。
「ったく。マグノーリエは頭が固いな。宿主にそっくりだ」
 藪目で睨むクレーエに、リオは笑って、
「そうですね。結構似てる所があると思います。マグノーリエは僕にとって、兄弟みたいなものですから」
 頭上に手を伸ばし、まだ薄らと形を保っているマグノーリエに触れる。頬を撫でると、マグノーリエはくすぐったそうに目を細めた。
 産まれた直後から一緒に居るマグノーリエは、リオにとって特別な存在だ。共に過ごした時間は家族よりも長い。歓びも悲しみも、余すことなく共有してきた。
「兄弟、ね」
 クレーエは笑っているような、呆れているような、何とも言えない表情をして、磨き上げたリボルバーを懐に納めた。ちらりと進路を見張るジブリールを見ると、綻んでいた表情を引き締め、
「なぁリオ。フレデリカは本当に、中央管理塔に向かったのか?」
頃合いを計っていたのだろう。ずっと抱いていたであろう疑問を口にした。
 リオの顔が目に見えて強張る。
「……解りません。けど、フレデリカが行くとしたら、そこしかないと思います」
「お前のことだ。それだけ言うなら、根拠があるんだろう」
 確信めいた問いに、リオは目を閉じ首肯する。
 話さなかったのは、自信が無かったからではない。また、クレーエを相手に嘘をつくつもりも無かった。都市の人間ではないのに、危険を犯してまで付き合ってくれたクレーエには、全てをきちんと話さなければという思いがある。
 だから問題は、どう話せば良いのか――そして、どこまで話すべきかという二点にあった。
 リオは瞼を上げると、険の強いクレーエの黒い瞳と目を合わせ、
「フレデリカの行動には、可笑しな所が幾つかあります。第一が、僕たちにハイゼ神父のことを知らせず、一人で教会を出て行ったこと」
人差し指を立て、簡潔に要点だけを説明する。クレーエの性格から考えても、余計な前置きは挟まない方が良いように思えた。
「いくら彼女が意地っ張りだからって、ハイゼ神父があんなことになってるのに、一人で都市の外に逃げ出すとは思えません」
汚物にまみれ、苦痛に顔を歪ませ果てた父を、フレデリカはすぐに十字架から降ろしてやりたかったはずだ。そこで尻込みするような子じゃない。
 しかし、フレデリカはそれをしなかった。いや、出来なかったのだ。それは何故か。
その答えは、神父が遺した手紙にあると、リオは考える。
「これを見てください」
 リオは懐から数枚の便箋を取り出した。聖堂の床に丸められ、転がされていた、神父の遺した最期の手紙――。
 手紙の裏には、フレデリカの手書きで、
『先に避難しています。ごめんなさい、少し一人にさせて下さい』
「この書置きは変です」
 クレーエの表情が微かに曇った。その顔にはありありと、「そうだろうか」とリオの直観を疑問視する色が浮かんでいる。確かに普通に考えれば、この書置きはそこまで可笑しいものではないのかもしれない。
 けれど――。
 リオは思う。けれど、それはやっぱり『普通の』感覚なのだ。
「僕にはやっぱり、この書置きは可笑しいと思います。神父は『大禍』がすぐそこまで迫っていることを、都市のみんなに知らせるように、と手紙に書きました。けれど、フレデリカはそれとはまったく逆のことをしています。聖堂に鍵をかけ、神父の遺体と手紙が他の人の目に触れられないようにした」
 フレデリカは一見、喜怒哀楽がはっきりしているように見えるが、我を忘れるほど感情的になることは滅多に無い。自制心が強いため、取り乱すほど感情を表に出すことは恥ずかしいことだと思っているからだ。
 だから、さっきは何かに傷ついて泣き出して、人前で泣いてしまったことで更にまた傷つき、逃げ出した。そこまで意地っ張りの彼女が、一人になりたいからという理由だけで、父の最期の言伝を放り出すだろうか。
 脳裏に蘇る、涙に揺れるフレデリカの赤褐色《ヘイゼル》の瞳。
 リオには、彼女が泣いた理由は解らない。けれど、これだけは確かに言える。
 彼女の意地っ張りは筋金入りなのだ。
 フレデリカが黙って一人で出て行ったことには、きっとそれなりの理由がある。
「フレデリカは、どうしてそんなことを?」
「わかりません」
「お前な……」
「これを見てください」
 呆れ顔のクレーエに、リオはもう一度、神父の遺した便箋を突きつけた。
「『ごめんなさい』と書いてあります」
「……ああ。書いてあるな」
 「だから何だ」と続けようとしたクレーエに先んじて、リオが続ける。
「フレデリカは、何を謝りたかったんでしょうか?」
 リオは更に一歩、クレーエに近づく。
「お父さんの遺体を放って、一人で逃げ出してしまったことでしょうか? 僕たちに『大禍』が迫っていることを知らせなかったことでしょうか? ……僕はそうは思わない。フレデリカは、滅多なことでは謝らないんです。ましてや、さっきは僕に対して凄く怒ってましたから、尚更」
 前にフレデリカを泣かせた時は、たっぷり一か月は口を聞いてもらえなかったのだ。
 この手紙を最初に見つけるのがリオだということは、フレデリカだって解っていたはず。それなのにフレデリカは『ごめんなさい』と書いた。
 それが、手紙を読んだときに最初に抱いた違和感。その時、リオは思ったのだ。
「これじゃまるで」
「遺書みたい、か?」
 引き継いだクレーエの声に、澄ましていた顔が引きつる。
 そう、リオが感じた不安はそれだった。リオには、フレデリカがこの言葉を最後に、どこか遠くへ行ってしまいそうに感じられたのだ。
「もし、そうなのだとしたら――」
 クレーエの暗く深い瞳が、どんよりと輝きを失くす。どこまで深い、底なしの黒い瞳――。
「フレデリカは何をするつもりだ? どうしてそんな手紙を遺して一人で出て行った」
 刺す様な声に、知らず身体が強張る。リオは石のように動かない脚を動かして、クレーエの手元に便箋を差し出した。
 クレーエが緩慢な動作で便箋を手に取る。
「この手紙――宛名はフレデリカになっていますよね?」
「……ああ」
「なのに、書いてある内容はいかにも事務的です。時間が無かったのかもしれませんが、それだって娘に宛てた手紙なら、何か一言あってもいい。それに――最後の便箋を見てください」
紙片を繰り、三枚目に目を落とす。
「神父の署名がありません。『ディア』で始まれば、『フロム』で終わるのが手紙の形式です。遺書にしたって、署名は必要……神父はとても几帳面で、厳格に礼儀作法を守る方でした。なのに、手紙は『大禍』に関する情報を並べたところで終わっている。だから思ってんです。この手紙には、続きがあったんじゃないかって」
 クレーエは、リオの推理を吟味するように、じっと手紙を見下ろした。不意に目だけをリオに向け、
「もし、その遺書に続きがあったとして。フレデリカがそれを持っていったのだとしたら、そこには何が書いてあったと思う」
「環境制御装置《ラケシス》について書かれていたんだと思います。――装置はシュタルケ博士が命をかけて創り上げた都市の生命線です。博士から装置を引き継いだ神父も、最期までそれが気がかりだったはず」
「フレデリカは、装置の管理に必要な情報を神父から託された……。確か、神父は装置に何らかのトラブルが起こって、それで呼び出されていたんだったな?」
「はい。装置を守るために、フレデリカは中央管理塔へ行く必要があった。けれど、恐らく『大禍』が目指すのも中央管理塔で……」
「それにお前を巻き込まないために、神父の死を隠して一人で抜け出した」
 独り言のように呟いて、長い腕を組む。
「……もしかしたらフレデリカが警備兵たちに会ったのも、偶然じゃないのかもしれないな。奴らは住民の避難誘導の為にやって来たんだ。すぐにみんなに知らせて避難しろ、という神父の言葉はこれで果たせる」
 一気に話し終えると、クレーエは考え込むように口元に手を当てた。
 そう考えると、確かにフレデリカが遺した『ごめんなさい』という言葉も、違った意味を帯びてくる。クレーエはたっぷり五秒は考え込んで、
「それが、お前が考える『フレデリカが中央管理塔に居る根拠』なんだな」
リオの心の奥深くを見通そうとするかのように、鋭く目を細めた。
「はい」
 リオは躊躇いなく頷きを返す。
 クレーエは、他人の嘘を見抜けると言った。もし、今の話に僅かでも嘘が混ざっていれば、クレーエはこの先も付き合ってくれることは無かっただろう。
 だからリオは、今の話に嘘は混ぜなかった。
 クレーエは暫く難しい顔でリオの表情を窺っていたが、
「及第点といったところだな」
ため息交じりに言って、表情を緩めた。
「少し弱いが……まぁ、それでも行動を起こすだけの意義はあるか」
 僅かに笑みを浮かべると、リオの手元にある紙片を指差す。
「紙が丸めてあったのは、フレデリカがこれを正式な遺書ではなく、走り書きであると思わせたかったのかもしれないな。大切な遺書として見るなら、署名が無いのは不自然だし、丸めて捨てておくなんて扱いはしない。……少なくとも俺たちは、まんまと引っかかった訳だが」
「そうかもしれません」
 リオが短く息を吐き、肩から力を抜くと、不意に背中に柔らかな衝撃があった。
「遺書になんかなりませんわ」
 リオの背中を抱きしめ、ジブリールはフレデリカの走り書きを指でなぞり、
「だって、私たちはその為に行くんですから」
白い花が揺れるように、優しく笑った。
「……はい」
 ぎこちないながらも、何とか笑みを返す。
「――……っ、あ」
 ジブリールが被っていた皮袋が、風に煽られて舞い上がる。絹のような黄金の髪が、乾いた夜の空に流れた。
 あらら、と見上げたジブリールの頭上で、皮袋は噴き上げる風に攫われ――木の葉が激流に飲まれ、深い水底に吸い込まれるように――瞬く間に天蓋を覆い尽くす黒煙の中に紛れて、見えなくなった。



 地盤を形作るプレートは都市の構造上、下の階層に行けば行くほど小さくなる。となれば、それに沿って伸びる線路の曲線も急になる訳で、車両を変わらぬ速度で走らせていくと、いつかは遠心力で外方に弾き出されてしまうことになる。
 車輪が軋む音に応じて、リオは少しずつブレーキレーバーを落としていく。工事用のトロッコ――くすんだ鈍色をした動力付きの車両。後ろに手狭な荷台がついている――は、大きく螺旋状に伸びる線路の上を、軋む音を立てながら滑り降りていく。トロッコの操作は初めてだが、線路は曲線が一様で緩急がなく、速度を調整するのはそう難しい作業では無かった。
 荷台から名前を呼ぶ声に、リオは流れていく風の冷たさを頬に感じながら、背後を振り返った。
 荷台に寄りかかるように立つクレーエは、相変わらずの仏頂面。それどころか、いつにも増してピリピリした気配を放っている。
「随分と遠回りしているように感じるが……。本当にこのルートが一番早いのか?」
 線路は各プレートの外周を螺旋状に走っているので、直径何キロもあるプレートの上を東西南北へとぐるぐる走り回らなければならない。クレーエにはそれが、遠回りをしているように感じられるようだった。
「いえ、このルートが一番早いはずですよ」
 見通しの良い前方を見つめ、リオが答える。
「各階層《プレート》を一周することになるので遠回りに見えますが、障害物が無いぶん街路を行くより楽なはずです。……あれを見てください」
 線路下を横切る道路を指差すと、「なるほど」とクレーエが呟くのが聞こえた。
「確かに、これじゃ道路は使い物にならないか」
 最下層から放射線状に走る十二本の舗装道路《ペーブメント》には、テロ対策のバリケードがいくつも築かれている。馬車から戦車まで、あらゆる車両の進入を防ぐ、高さ二メートルのコンクリートと鉄鋼の複合版。常時は路面の役割を果たしているが、有事の際は「へ」の字にハネ上がり、道路を封鎖する壁となって都市の中枢ーー中央管理塔を守る。
「その点、軽便鉄道は緊急時も避難誘導に使えるので、封鎖しない決まりになっているんです。鉄道なら、侵入者に乗っ取られても進行を阻むのは容易ですから」
「線路を外してしまえば列車は走れない……。理に適っているな」
 クレーエは感心したように言って、未だ小さく言える中央管理塔を眇め見た。しかめっ面が微かに緩んだような気がした。
 街路はけたたましい警報音で溢れ、天蓋には火災によって発生した黒煙が立ちこめている。都市の空調システムは最大出力で動いているようだったが、火災の規模が大き過ぎる為だろう。黒煙を排出し切れていない。
 都市区画の線路は、高さ五メートルほどの鉄橋の上に敷かれているため、車両内からも街の様子がよく解る。
 トロッコは教会のある第四階層から、その下の第三階層へ移動していた。遠く東側、リオの家の辺りに火の手が上がっているのが見える。
残された母の遺品が燃えていく様を想像して、リオは胸に握り拳を当てた。
 心の柔らかい部分がすり潰されて行くような息苦しい喪失感。燃えてしまった物は、二度と元に戻らない。死んでしまった人も、また。
「中央管理塔へ着く前に、フレデリカさんを見つけられると良いのですが」
 不安な心を煽り立てるように、もくもくと立ち上る黒煙を見つめながら、ジブリールが憂うように透き通った頬に手を当てる。
「難しいかもしれないな。フレデリカの姿が見えなくなってから、もう一時間以上経っている。徒歩で向かったとしても、着いていて可笑しくない時間だ」
 涼しい顔で言うクレーエに、「またそうやって不安を煽ることを」とジブリールが眦を吊り上げる。
「悪いな。そういう気遣いは出来ない性質《たち》なんだ」
 クレーエは悪びれた風も無く言って、
「だが、現状は正しく認識した方がいい。楽観視していられる状況じゃないだろう」
「そんなことは解っています! しかし、モノには言い方というものが」
「あの」
 おずおずと声をあげたリオに、荷台に身を乗り出そうとしていたジブリールがぴたりと動きを止める。集まる視線に、リオはバツが悪そうに笑って、
「すみません。どうしても気になることがあって」
「……いや、謝ることは無い。こういう時だからこそ、疑問は解消しておくべきだ」
平坦な声で先を促すクレーエに、リオは「ありがとうございます」と頭を下げ、
「あの……」
躊躇うように一瞬、二人の顔を見渡した。そして、
「お二人は、どうして僕の言うことを信じてくれたんですか?」
道中、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「教会では何も説明していないのに、フレデリカが中央管理塔へ向かったっていう僕の話を信じてくれましたよね? マグノーリエの声が聞こえたなんて、そんな話も笑わずに聞いてくれましたし……どうしてなんだろうって」
「どうして、って」
 クレーエが困り顔で繰り返し、助けを求めるようにジブリールを見る。ジブリールは不機嫌そうな顔になると、逃げるように目を逸らした。
「あの、僕変なこと聞きましたか?」
 戸惑うリオに、ジブリールは慌てた様子で顔の前で手を振り、「そんなことはありませんよ」と柔らかく微笑んで見せた。
「悪いのは、そこのトウヘンボクですから」
 棘を含んだ声に、クレーエがあからさまに不機嫌そうに舌打ちをする。
 訳が解らず目を瞬かせるリオに、ジブリールは翆緑色の瞳を和ませ、
「お話しておいた方がいいですね」
独り言のように言って、じっとリオの顔を覗き見るように顔を寄せた。
「リオさんがマグノーリエの声を聞くことが出来たのは、恐らく『神威《ゲニウス》』の力があったからだと思います」
「……ゲニウス?」
 尋ね返すリオに、ジブリールは人差し指を伸ばすと、教師が授業中に使う指示棒のように振って、
「平たくいえば、審問官が守護天使の力に感化して授かる、特別な力のことです」
「あ……言葉だけなら、聞いたことがあります」
――『神威《ゲニウス》』。
 管理教会《アパティア》によれば、天使が数々の奇跡を起こすことが出来るのは、彼らの意識が根源で『大いなる意志』――神と呼ばれる存在――と繋がっており、そこから力を引き出しているからだという。
 川の流れに例えるなら、『大いなる意志』は豊富に水を湛えた水源地であり、天使はそこから流れ出る無数の支流となる。同じ水源から流れる水でも、行く先や使われ方が様々なように、天使たちが使う『大いなる意志』の力も、天使の個体によって発現の仕方に違いが出る。
 『火』を象徴とする天使ならば、燃え盛る炎となって。『木』を象徴とする天使ならば、生い茂る植物となって。
 これが天使が行使する『奇蹟《エレメンタム》』だ。
そして、天使が神の意志と繋がっているように、審問官もまた、守護天使と意識の底で繋がっている――。
「その結びつきが強い審問官の中には極稀に、『大いなる意志』の力を天使を通じて自らに取り込み、行使できる者が居ます。この審問官が直接行使する力を、管理教会《アパティア》は『神威《ゲニウス》』と呼んでいます」
「それはつまり……僕がマグノーリエの声を聞くことが出来たのは、神威《ゲニウス》の力だってことですか?」
はっきりとは言えませんが、とジブリールは眉尻を下げて頷いた。
「天使の奇蹟《エレメンタム》がそれぞれの性質によって違うように、神威《ゲニウス》もまた、審問官によって発現の仕方が異なります。天使に比べるとささやかな力ではありますが、その種類は千差万別。ある程度系統が決まっている天使の奇蹟《エレメンタム》とは比べ物になりません」
 だから、天使の声を聴くことが出来る、なんて神威《ゲニウス》があっても可笑しくないと思ったんです、と続けて、ジブリールは目元を綻ばせた。
「神威《ゲニウス》が発現しているということは、審問官と天使が良好な関係を築けている証拠です。昨日リオさんが私を助けてくれた時も、マグノーリエの声が聞こえたと仰っていましたよね」
 間近から翆緑色の澄んだ瞳でじっと見詰められ、リオは自分の顔が紅潮していくのを感じた。胸の奥がざわざわと落ち着かなくなる。そんなリオの心境を知ってか知らずか、ジブリールは悪戯っぽく微笑んで、宙空に浮かぶマグノーリエに手を伸ばす。
「実は、あの時から神威《ゲニウス》の兆候があるのではないかと思っていたのですが……管理教会《アパティア》本部から招待状が来たと聞いた時に、確信に変わりました。彼らが招待状を書くのは、神威《ゲニウス》の兆候を掴んだ時くらいのものですから」
「それって、管理教会《アパティア》が僕の神威《ゲニウス》に気付いて招待状を送って来たってことですか? いったいどうやって」
「さぁ? どうやってでしょう」
 目を丸くするリオに、ジブリールは小首を傾げて、くすくすと楽しそうに笑った。出来の良い生徒を褒めるような優しい声。柔らかな身体がそっと離れる。洗いたてのシーツのような、良い香りが微かに過った。
「管理教会《アパティア》について詳しい方が居るといいんですけど」
 ジブリールは目を細めると、ちらりと後ろの荷台に座るクレーエを流し見る。クレーエが居心地が悪そうに視線を逸らし、
「……どうして俺を見る」
「貴方なら、何か聞いたことがあるのではないかと思いまして」
 翆緑色の瞳が怪しく輝く。可憐な微笑みには、得体のしれない凄味がある。耐えかねたようにクレーエが頭を掻きむしった。
 心底不機嫌そうに、舌打ちを一つ。
「食えない奴」
「やだ、食べる気だったんですか?」
 ジブリールがおどけたように言って、豊かな胸元を庇う仕草をする。クレーエはこれ見よがしに溜息を吐いて、
「管理教会《アパティア》には、『記録審問官』という役職がある」
「まぁ、酷い。無視ですか」
 ジブリールが抗議の声を上げるも、クレーエは冷ややかな視線だけを返して、取り出した煙草に火を点けた。お前なんかに構ってられるか、とふてくされたような暗い瞳が言っている。
「『記録審問官』の仕事は一つ。『大いなる意志』の流れを観察し、記録し続けることだ。天使の数は決まっているから、もし、これまでとは違う場所に力が流れているのが見つかれば、それは管理教会の把握していない神威《ゲニウス》を持つ審問官が現れたということを意味する。……今日、お前に手紙が届いたのも、『記録審問官』が神威《ゲニウス》の発現に気付いたからだ」
 手紙のことを当然のように話題に出され、リオは目を丸くした。『管理教会』から招待状が届いたことは、クレーエにはまだ話していないはずだ。
「奴らの仕事は早い。管理教会《アパティア》名義ですぐに招待状を送りつけ、反応が無ければ使いを出して監視させることもある」
 つまり、クレーエとジブリールは、リオに神威《ゲニウス》の発現があったことに気付いていて、だから「天使の声が聞こえた」というリオの突拍子もない話を信じたのか。
 どうしてか落胆している自分に気づき、リオは慌ててその心の迷いを振り払った。いったいどんな答えを期待していたのか。
 クレーエは続けて、管理教会が神威《ゲニウス》の発現に敏感なのは、神威《ゲニウス》を有する審問官の中には、飛び抜けて強い力を持つ者が多いからだ、と語った。遠方に住む優秀な審問官が、異教徒や他の組織に懐柔される前に、管理教会《アパティア》本部で預かり教育を行う……これが管理教会《アパティア》が持つ強大な権力を維持しているのだという。
「強い力を持つ審問官をどれだけ囲うかは、勢力のパワーバランスに直接影響する。管理教会《アパティア》もそこは必至な訳だ」
クレーエの口元に、皮肉とも取れる曖昧な笑みが浮かぶ。それは批判的であり、同時にどこか自虐的な笑みでもあった。
九年前までは絶対と呼べるほどの権力を持っていた管理教会《アパティア》も、『大罪事変』により神がこの世界から消えてしまってからは、大きく力を落としている。特にエリュシオンから離れた南の都市では、管理教会《アパティア》の使いを追いだし、別の異教に統治を許しているものもあるという。
「組織のパワーバランスを左右するほどの力……」
リオは思わず自分の両手に視線を落とす。自分にそんな力があるなんて、考えたこともなかった。
「僕にそんな力があるなら」
 開いた掌をじっと見つめ、ゆっくりと握りしめる。
「堕天審問官と出くわした時に、何か出来ることは無いんでしょうか」
 真剣なリオの問いに、クレーエは長く紫煙を吐き出し、
「無いだろうな。神威《ゲニウス》は扱いが難しい。自分の中にこれまで使ったことが無い器官が一つ出来るようなものだ。数日やそこらで使いこなせるものじゃない」
「また、貴方は夢も希望もないことを……」
「無責任に有りもしない夢や希望を抱かせるのは、詐欺と同じだと思うがね」
 頬を膨らませるジブリールに、クレーエが愛想の無い顔で答える。
「そんな一気に何もかもが出来るようになることなんて、ありはしないんだよ」
疲れた老人のような声で言って、「そんなものより」と煙草を挟んで手でリオを指差した。
「神威《ゲニウス》なんてものに頼るより、お前は審問官としての基礎的な能力を磨くべきだ」
「基礎的な能力?」
「堕天審問官は、管理教会《アパティア》のヒエラルキーから外れるが故に、通常の審問官とは大きく違った審問が可能となる。『審問官のジレンマ』さえももろともしない……そうだな?」
 確認するような視線に、リオは大きく頷きを返した。
 『審問官のジレンマ』――執行される罪は、罪の意識の大小に比例する。つまり、心根の正しいものほど大きな罰を受け、根っからの罪人は罪が軽くなる。リオはそのジレンマに、これまで何度も歯痒い思いをしてきた。
「このジレンマは、審問官の三つの審問条件にそのまま当てはまる。つまり、『都市《コミュニティ》において罪と判じられないものは裁けない』、『世界中の人々が無意識の内に罪ではないと感じているものは裁けない』……だが、堕天審問官は、そういった基準とは無関係に刑を執行する。堕天審問官本人の中で論理が矛盾なく完結していれば、他の裏付けを必要としないからだ」
一度言葉を切ると、クレーエはその場に座り直した。手近に落ちている砕石を手にとって、
「例えば、ここに人類がかつて経験したことのないほど強力な伝染病に汚染された村があるとする」
黒々とした木が嵌め込まれた荷台に、大きく丸を描き込んだ。
「感染力が半端なく強いやつだ。致死性は高く、もちろん特効薬などありはしない。村は壊滅寸前だが、幸い僻地にある為、感染者が居るのは今のところこの村だけ。特効薬の開発を待っていれば、病が世界中に広がってしまう恐れがある。お前ならどうする?」
 クイズのような軽い問いかけに、リオはたっぷりと五秒は考え、
「村を隔離して、特効薬の開発を急ぎます」
「妥当な選択だ。しかし、現実として僻地の村一つを隔離するのはとても難しい。……こういう時、管理教会《アパティア》の幹部たちなら、こう命令を下すだろう。『住人ごと村を焼き払え』」
「そんな」
 リオは自分の耳を疑った。
 これが隣国の独裁者が下した判断だと言うならまだ頷ける。しかし、審問官を統制する管理教会《アパティア》が、そんな非情な命令を下すだろうか。
「突拍子もない例え話だと思うか?」
 クレーエは、じっと覗き込むようにリオを見つめた。その暗く底の見えない瞳は、これがただの言葉遊びではないと語っている。
「確かに、そこだけみれば虐殺だが、種の存続という立場からすれば、それは正しい選択であるとも言える。犠牲を最小限に抑えて、最悪の事態を免れるのがこの方法だからだ。司教以上の審問官は、『人類の集合無意識』を審問材料の一つとして扱う。種の永続は生命の根源的な願望だ。よって、天使の力を使って村を焼き尽くした司教を咎めることは誰にも出来ない。……唯一、堕天審問官を除いては」
 堕天審問官は、審問官が持つしがらみに囚われない。虐殺という行為を咎め、容赦なく刑を執行するのだろう。その審問に、司教が抗うことは難しい。人類の為に下した決断とはいえ、多くの罪なき人を殺したことに、司教自身、罪の意識を感じずに居られるわけがないからだ。
 神を頂点としたヒエラルキーのしがらみに囚われない審問を行うことができる。それこそが、『堕天審問官』の持つ一番の強み。
「けれど、堕天審問官は大きなリスクを負っている……ですよね」
 クレーエは口元を吊り上げるように笑った。小さく頷き、
「そうだ。あらゆる矛盾を相互に負担し合う、神を頂点としたヒエラルキーの中に居る審問官と違って、堕天審問官は審問過程に、一切の矛盾が入り込むことが許されない。もし自己に『論理の綻び』が生まれれば、それまで裁いてきた全てのツケが自身に帰ってくる。これは実に厳しい条件だ。実際問題、管理教会は堕天審問官の存在を天災の類と位置づけ、これといった対策を講じていない。それは何故か? 簡単なことだ。堕天審問官は、発生しても数日と経たずに自己に生じた矛盾に圧殺されてしまうのさ。誰かが打倒するまでも無く、じっと身を潜めてさえいるだけで、堕天審問官はこの世から消えてくれるんだ」
 警備兵たちが闘わずして逃げることを選んだのは、あながち間違った対処法ではないということだな、と続けてクレーエは暗い声で笑った。
「つまりーーその『論理の綻び』こそが、堕天審問官の弱点だと」
「そういうことだ。万が一出くわし、逃げるのが難しい場合は、堕天審問官の『論理の綻び』を指摘してやればいい。僅かな綻びでもいい。迷いを生じさせることが出来れば、相手は勝手に自滅してくれる。……その点で言えば、お前は力不足だな。リオ」
 びっと鋭くリオを指差し、
「お前に足りないのは、相手の心を揺さぶる言葉だ。審問官は法廷で公平中立で澄まし顔をしていればいんじゃない。被疑者の欺瞞を暴き、虚飾を引きはがし、罪を意識させるのが本来の役目だ」
 『審問とは対話であり、相手を説得する行為だ』と教えてくれたのは、ハイゼ神父だったか。
 一人前の審問官は、本人さえ無自覚に抱いていた虚勢や誤魔化しを暴き、被疑者にそれがどれだけの罪なのか正しく認識させる。
 ……言葉の上では知っていた。それが、東の森で無法者たちに襲われた時、何もできなかった自分と、彼らを裁くことが出来たアンドレアス神父の差だと。
 しかし、赦されるのだろうか。
たかだが十五に過ぎない、世間知らずの自分が、誰かの心に踏み入り、武装した論理で強引に価値観を変えるなんて――。
(違う。それじゃ駄目なんだ)
 弱音が口を突く前に飲み込み、拳を握りしめる。
 安易に答えを求めるのはやめよう。
もし仮に、クレーエが答えを持っていたとしても、それを手に入れた時点で、自分は迷うのを止めてしまう。
 それはきっと、何よりも恐ろしいことなのだ。
「……クレーエさんは、審問官のことをよく知ってるんですね。審問官として勉強してきた僕なんかより、ずっと」
いつもの曖昧な笑みを浮かべながら、リオは胸が押しつぶされていくのを感じていた。
 それは例えるなら、悔しい、という感情に近かった。この十五年間、力の限り頑張ってきたつもりなのに、まだどこにも手が届かない。
 自分は怠惰だったのだろうか。審問官という立場に思い上がって、知ろうとする努力を怠っていたのだろうか。きっと、フレデリカが傷ついていたことに気付けなかったのも。
「外の世界を見て回れば、僕もクレーエさんみたいになれるんでしょうか」
「それは」
 クレーエは、真っ直ぐに見上げるリオから、逃げるように目を逸らし、
「俺は、お前に目標にされるような立派な人間じゃない」
冷たい顔が怒りとも悲しみとも似つかない形に歪む。一瞬の静寂。迷う様な魔を置いて、
「俺は……」
と、強く吐き出された声を掻き消すように、強い音が腹の底に響いた。ダダダダ、と連続して反響する機械音。クレーエが弾かれたように荷台から身を乗り出す。
 リオも顔だけ出してガラスの風防から外を見渡すと、少し先の陸橋の上に二つの人影が見えた。
「あれが、侵入者?」
「だろうな。位置的に考えて、お前の家を襲った連中が、その足で中央管理塔を目指していたんだろう」
 クレーエが嘲るように笑い、リオのブロンドの髪を隠すように布袋を被せる。陸橋は線路の伸びる先で同じ高さになる。今は狙いが甘いせいで当たらないが、このままでは確実に射程距離に入ってしまうだろう。
「けど、そんな。待ってください。だって彼らは……」
 リオは、すんなりとその事実を受け入れることが出来なかった。
 こんなことがあるのだろうか。
 武装した侵入者は、顔を布地で覆っているものの、一目で解るほど幼い体つきをしていた。
「争い事は止めてください!」
 前触れなく上がった凛とした声に振り返ると、ジブリールが座席の上に立ち上がり、少年たちに語りかけている所だった。祈るように胸の前で手を組んで、
「争いは、哀しみしか生み出しません! 武器を捨てて下さいっ」
「頭を出す奴があるか!」
 引き摺り、屈ませようとするクレーエに、ジブリールは真剣な顔を向け、
「離してください」
「奴らは銃を持っている! 恰好の的だぞ」
「平気です。彼らの弾は、私には当たりません」
 確信に満ちた声に、クレーエが驚いたように目を見張る。ジブリールが纏う純白の布地が薄暗い夜の照明を透過し、うっすらと青白い光を投げかける。まるで神の祝福を一身に受けているような立ち姿――。
「お前……」
 呆然と呟いたクレーエに、ジブリールは遍歴の巡礼者の穏やかな微笑みで、
「大丈夫。私には神の御加護が」
 チュン、
 鋭く高い音と共に、たらり、とジブリールの頬から真っ赤な血が一筋滴り落ちた。ジブリールの笑顔が凍りついたように固まる。
「……あれ?」
「バカ野郎! 死にたいのか!?」
 クレーエが怒声を張り上げて、ジブリールを乱暴に引き摺り降ろす。布袋を被せて頭を下げさせると、直後にサブマシンガンの銃弾が、車両の側面を雨のように叩いた。
「リオ! 絶対に頭を出すなよ。これじゃ良い的だ!」
 はい、とリオは布袋の下からくぐもった声を上げた。頭を低く保ったまま、水面から息を吸うように顔だけ出して、
「“開廷”!」
叫ぶと同時にマグノーリエが実体化し、議場を区切る奇跡《エレメンタム》の力でリオたちを守る。跳弾が車内を飛びまわり、無数の火花が散る。派手な音を立てて風防の窓ガラスが割れ、被った布袋の上に降り注いだ。身体が竦んだように動かない。
 溜まらず叫ぶ。
「クレーエさん! これ以上は危険です。 別のルートを考えましょう!」
「駄目だ! 今止まれば、それこそ敵の良い的だ」
「どうするんですか!? マグノーリエもそう持ちませんよ……!」
「速度を上げる。しっかり掴まってろ!」
 叫ぶなり、荷台から伸びたクレーエの脚が、下りていたブレーキレバーを蹴り上げた。
 トロッコがゆっくりと加速を始め――すぐに制限速度にまで達する。増加した遠心力に、レールと車輪が軋み悲鳴を上げた。
 リオは両手で耳を塞いで、座席に強く身体を押し付ける。それまで車体を叩いていた銃弾が一瞬止み、直後、
 
 ―――!

心臓の鼓動が止まった。
 目も眩むような閃光と同時に、衝撃と振動が車体を激しく揺さぶる。
「――くそっ、奴ら手榴弾まで持ってやがるのか」
「無茶し過ぎですよ!」
呻くように言うクレーエに、リオが悲鳴のように声を張り上げる。あと少しスピードを上げるのが遅れたら、爆発が車両を直撃していただろう。
 視界がチカチカする。キーンという甲高い音が耳から離れない。マグノーリエが険しい顔でリオの首にしがみつく。
「? おい、どうした。大丈夫なのか?」
 戸惑った声に、リオは視線をトロッコ内に移す。車内の被害を確認していたのだろう。計器を覗き込んでいたクレーエが、声一つ上げないジブリールの顔を覗き込んでいた。
「……どうして。けど、まさか」
 ジブリールは座席の上に蹲り、何やら深く考え込んでいるようだったが、不意にはっと何かに気付いたかのように顔を上げると、クレーエを恨めしそうに見返し、
「……」
「どうして俺を睨む」
 クレーエが不満そうに言うと、ジブリールの身体がわなわなと震え始めた。
「……そういうことですか。どうりで可笑しいと思ったんです。この都市に入ってから、凶暴な犬に追いかけまわされるわ、会いたくない人にニアミスするわ……」
「何言ってるんだ? お前。頭でも打ったか?」
「クレーエさん。車体が!」
 後方に傾き始めた車体に、リオが声を張り上げる。さっきの爆発で高架橋が寸断されたのだろう。後方にレールが傾き始めていた。ギギギ、と低くレールが軋む音が聞こえてくる。
「リオ、マグノーリエのツタで車体を引き上げろ。次の橋脚を超えさえすれば何とかなるはずだ」
「解りました。マグノーリエ、お願い!」
 繊細な作業を行うには、実際に目で見て指示を出す必要がある。リオは這うように砕け散った風防の前で立ち上がると、マグノーリエが顕現させた腕ほどもある太いツタを、橋脚の欄干に沿って這い進ませた。すぐ先の陸橋の上に、何かを投げ込もうとしている侵入者の姿を見つける。
「また来ます! 手榴弾です!」
「――解ってる」
 すぐ隣で低い声が聞こえた。クレーエは音も無くリボルバーを抜き放つと、二つの人影が投げ込んだ二つの金属の塊に、ゆっくりとリボルバーの照準を合わせた。
 クレーエの澱んだ瞳が鷹のように細まる。
続けて鳴る二発の銃声。
 直後、巨大な玄翁で撲られたかのように車体が揺れて、おびただしい量の熱風が、風防が壊れたせいで無防備になっている顔面を直撃した。あまりの衝撃に平衡感覚が無くなり、足元がふらつく。
「――ッ!」
 トロッコが爆炎の中を突っ切る。すると、すぐ目の前に陸橋の上から落下していく二人の少年たちの姿が見えた。
 爆発が直撃したのだ。一人の少年の困惑に歪んだ目が、助けを求めるようにリオを見上げていた。
 ――どうして。
 無駄と知りながら手を伸ばしつつ、リオはそう視線で問わずにはいられなかった。
 どうして、そんな躊躇いもなく人を殺せるの? どうして、そんな目にまであって――。
 鉄橋の高さは優に五メートルはある。リオは少年たちの身体が地面に届く前に目を閉じた。
「……嘘だろ、おい」
 心の空隙に、呆然と呟くクレーエの声が滑り込む。リオは弾かれるように顔を上げた。
 クレーエが見つめる向こう――目と鼻の先に迫ってきた橋脚の鉄骨の上に、黒い影が立っていた。
 どこまでも深く、周囲の光を吸い込むような立ち姿。リオの目には、その大男の姿がどこまでも不吉なものとして映った。
 ――あれが、『大禍』。
 直感だけで理解した。
 男の身体から、真っ赤な炎が噴き上がる。男の身体を覆うように赤黒い翼が纏わりつき、二本の真っ白な腕が背中から生える。男の背後に浮かび上がったのは、黒く艶やかな髪を振り乱した少女。炎の煌めきの向こうに見える、夜色の翼と、真っ白な怪しい少女の裸身――。
「……っ!?」
 どこまでも不吉で生々しい姿に、ぞくりと身の毛がよだつ。
「リオ、お前は車体を引くのに集中しろ!」
 クレーエの怒声に、リオは手放しかけていたマグノーリエの制御に意識を集中した。
 異形の少女が白い喉を大きく逸らし、断末魔の悲鳴を発する。姿は人間であるのに、その金きり声は人間の発する音域を遥かに超えていた。ぞぞぞ、と怖気が足先から這い上る。
 大気の密度が薄くなる気配がして、百雷が一時に落ちるような音が耳を貫いた。車体が煽られ傾くのを、マグノーリエのツタが何とか押しとどめる。
 堕天使によって、何らかの攻撃を受けている。
 リオに解るのは、ただそれだけだった。
 車両がゆっくりと橋脚を通過し、再び前傾に加速を始めた。クレーエはリオの頭を下げさせると、皮袋を被り直し、橋脚の上に立つ男へと、リボルバーの銃口を向け、
「――な」
リオは、見上げたクレーエの顔が布袋の下で驚愕に歪むのを見た。
 何時如何なる時も、見惚れるほど正確に動いていた腕が震え、銃の照準がぶれる。クレーエは結局、引き金を引くことなく、トロッコは瞬く間に加速を始め、『大禍』の姿を遥か後方に残して進んでいく。背後には、無残にも跡形もなく吹き飛ばされた高架橋が見えた。
 その前で――。
 小さく見える男の口元が、微かに歪む。
 男は嗤っていた。
 ――違う。
 リオはそこで、これまでとは違った恐怖を感じた。違うのだ。根本的に、自分と彼らは何かがズレている。
「……クレーエさん?」
 銃を構えたまま動かないクレーエのコートの裾を引っ張る。
 クレーエはここではない、どこか遠くを見ていた。焦点の合わぬ目が、一瞬だけリオを映し、すぐにどこかへと虚ろに彷徨う。
「奴は……まさか。どうしてこんな所に」
 そう呻くクレーエの顔はこれまで見たことも無いほど真っ白で、額には雨に濡れたようにびっしりと汗が浮かんでいた。



 第二階層に入ってからは、侵入者の姿を見ることはなかった。
 街はひっそりと静まり返り、ちらほらと避難中の住民の姿が見え隠れする。この分なら、侵入者に出くわす前に市民の避難は終わりそうだ。
 都市は薄暗く、ほとんど暗闇と言っても良い程の明るさ。第二階層には夜間も営業を続けている店がいくつもあり、常夜灯の数も多いはずだが、今はそのほとんどが灯りを消している。都市の換気作業に電力のほとんどを充てているためだろう。
 リオはトロッコの運転席から、死んだように沈む町並みを見渡した。
 先ほど出くわしたのが侵入者の最前線部隊だとしたら、リオたちはそれを追い抜いたことになる。フレデリカと侵入者たちが出くわすより先に、一緒に都市の外に逃げ出すという計画に光明が見えてきた。もちろん、それには彼女が無事に中央管理塔へ辿り着いているという前提が必要なのだが、幼い頃から都市を遊び場にしていたフレデリカのことだ。侵入者たちに出くわすようなヘマはしないだろう。
「……本当に、死ぬかと思った」
 先ほどの襲撃を思い出して、リオはぶるりと身震いした。
 彼らはリオたちを殺すことに、微塵の躊躇も抱いてはいなかった。こちらが何らかの武器を持っているならともかく、無抵抗のうちに容赦なく殺そうとしたのだ。侵入者たちのことを、コニーが『テロリスト』と呼んだ理由がようやく解った。
 彼らは危険だ。
 絶対に、フレデリカと会わせてはならない。
 トロッコは滑らかにレールを滑り、ついに第一階層のプレートに到達する。ここまで来たら、中央管理塔まであと少し。リオはブレーキレバーを調節し、可能な限りの速度を保つったまま、トロッコを走らせる。奇跡的に片方だけ無事だった前照灯《ヘッドライト》を点けると、改めて周囲を見渡し、
「……はぁ」
視界に入った二人の大人の姿に、がっくりと座席に蹲った。さっきから胃の辺りがしくしく痛むのは、おそらく気のせいではない。
 荷台のクレーエは片膝を立てて座り込み、思いつめた死人のような顔でじっと隅の方を見詰めている。助手席に座るジブリールは、焦点の合わぬ虚ろな目で前方を見詰め、時折何ならでぶつぶつと呟いていた。
 さっきはあんなにも頼もしかった二人が、たった三十分ほどで抜け殻のようになってしまった。今では不安要素しか感じられない。
 何か話しかけた方がいいのだろうか。
 迷っていると、低い声に名前を呼ばれた。
「何ですか?」
 会話の初端を掴んだリオが、満面の笑みで振り返る。荷台に座るクレーエは、生気のない顔をリオに向け、
「『大禍』に出くわしたら、どうするつもりだ」
「闘います。フレデリカを連れて帰るまで、退くわけには行きませんから」
 僅かでも心を揺らすことが出来れば、堕天審問官にも勝つことが出来るかもしれない。
 希望がある以上、逃げるわけにはいかない。迷いなく答えるリオに、しかしクレーエは厳しい顔で眉間にしわを刻んだ。
「駄目だ。『大禍』に会ったら、迷わず逃げろ。挑もうなどと考えず、とにかく逃げるんだ」
「そんな……!」
 立ち上がり、どうして今更、とクレーエを見下ろす。やり方次第では勝ち目があると言ったのはクレーエのはずだ。そう訴えるも、クレーエはゆるゆると首を振り、
「さっきのことは忘れろ。奴はそんな生易しい考えが通じる相手じゃない」
「どうしてですか。理由を説明してくださいっ」
 食い下がるリオに、クレーエは口を開くのも億劫だというように、緩慢な動きでリオを見上げ、
「俺は、奴が堕天する前のことを知っている」
力ない声で囁いた。野犬のようにギラギラと輝いていた瞳に光は無く、真っ黒な瞳には、ただひたすら諦観に似た感情が泥のように堆積していた。
「奴の階級は、最高で大司教だった」
 言葉を返せないでいるリオに、クレーエは疲れた老人のような声で続けた。
「堕天した時の位は司教だったようだがな。……堕天使の力は、堕天する前より二つほど階級が跳ね上がる。大司教クラスの天使が堕天すれば、その階級は最上位である総大司教より上か、良くて同等」
「それって……」
 リオは呆然と声を漏らした。
 総大司教――通称『四大司教』より上の位となると、もはや教皇しか居ない。その教皇も、神がこの地を去って以来、空席が続いている。
 絶望的な答えに、クレーエは銃を持っていない方の手で顔を覆った。
「歴史上、確認された堕天審問官のなかで、最も危険なのがあいつだ。まさか未だに生き残っていたなんて。それも、こんな場所で」
もともと血色が良いとは言い難い顔は、蒼白を通り越して土気色をしている。その顔を見ただけで、『大禍』が当初の想定を遥かに上回る難敵であること、そして、噂に違わぬ化け物であることが知れた。
「それなら」
 リオは張り付きそうになる喉で、何とか声を絞り出す。声だけは明るく振る舞って、
「それなら、すぐに管理教会に四大司教の派遣をお願いしましょう。僕、聞いたことがあります。四大司教の力は、軍事大国一個師団にも匹敵するって……中には、空から生き物以外を焼き尽くす光の雨を降らせて、一滴の血も零させずに紛争を終結させた人も居て」
「……砂漠の山狗掃討作戦」
「そうです! その人ならきっと」
 期待に縋るような声に、クレーエの反応は芳しくない。
「クレーエさん?」
 問いかけるも、クレーエから返事はない。ただ、何かを堪えるように俯き、絶望に打ちひしがれている。
「望みは薄いでしょうね」
 変わりに答えたのは、いつから聞いていたのか、醒めた目で間近に迫る中央管理塔を見つめていたジブリールだった。
「四大司教は通常、異教徒鎮圧の任務に当たっているはずです。異教徒が管理する地区となると、連絡を取るだけで数日はかかります。『大禍』が元大司教なのだとしたら、この街を焼き尽くすのに一昼夜もあれば十分でしょう」
感情を抑えた声に、クレーエが「その通りだ」と絞り出すように囁いた。
「運良く四大司教が捕まったとしても、『大禍《ヤツ》』に勝てる保障は無い。神が不在の現状ならなおさら、管理教会《アパティア》本部が貴重な四大司教を簡単に派遣するとも思えない」
 教会の権力を体現する四大司教が返り討ちにあったとなれば、教会の権威は大きく揺らぐ。少なくとも、誰を派遣するかで管理教会《アパティア》本部は揉めるはずだ。
「せいぜい今回は調査役を送られて終わりだ」
 クレーエは頭を抱え、膝を引き寄せ蹲った。
「――読み違えた」
 血を吐くような声で、呻く。
「俺は『大禍』とは、これまで発生した堕天審問官たちの総称なのだと思っていた。でなけりゃ、何年も噂が続いていることを説明できない。歴史上、そこまで長く存在した堕天審問官は一人も居なかったんだ。……だが、あれは違う。正真正銘、この九年間を『大禍』として生きて来たんだ」
 最後の方は、もはや独り言に近かった。
 リオは、しばらくクレーエの言葉に思いを巡らせていたが、
「一つ、聞いてもいいですか?」
まっすぐな瞳で、クレーエに問う。
「その人は……どうして堕天してしまったんですか?」
 リオには理解できなかった。
 正義を執行する審問官が、堕天し人々を苦しめる理由が。管理教会《アパティア》において十二人しか居ない大司教まで上り詰めるには、相当な努力と適性が必要だったことだろう。審問官が正しい心を失えば、天使は審問官の元を離れる。しかし、堕天審問官は天使に見放された訳ではない。それどころか、天使に審問官と共に神に対して反旗を翻し、誰からも疎まれる道を進むことを選択させている。
 クレーエが息を呑むのがはっきりと解った。ゆるゆると疲れたように首を振るが、仕草からクレーエがそれを知っていることは明らかだった。
「……すみません。今回の出来事とは関係ありませんでしたね。ただの好奇心でした。忘れてください」
 頭を下げると、クレーエはバツが悪そうな顔をして、
「いや、相対する審問官の思考を把握しておくことは、本来ならばとても重要なことだ。しかし……今回ばかりは駄目だ。出会った時点で負けだと思え」
 言ってから、クレーエは念のため、と言って、堕天使が操る奇跡《エレメンタム》の属性と、『大禍』が得意とする審問分野を口早に説明した。
 紅蓮の炎を操る天使――クレーエが懸念する通り、マグノーリエとは相性の悪い相手だ。得意とする審問分野も、今回の状況に恐ろしい程適している。しかも、元は大司教の座にまで着いた相手。 出会ったら負け、というクレーエの言葉にも頷ける。
「何としても、奴より早く中央管理棟に辿り着き、フレデリカを連れ出すんだ。生き延びるには、それしかない」
「……あのぉ、ちょっといいですか?」
「相手は百戦錬磨の猛者だ。姑息な真似を使おうとしても、すぐに見抜かれる。形振り構わず、とにかく逃げることだけを考えるんだ。いいな」
「……解りました。約束します」
「あの、二人とも!」
 真剣な顔で話すクレーエの後頭部を、ジブリールの細腕がバシバシと叩く。びきっ、と音を立ててクレーエのこめかみに青筋が浮かんだ。
「何なんだ、お前は! 人がまじめな話をしている時に……!」
 クレーエは声を張り上げると、荷台に身を乗り出したジブリールへと詰め寄り、
「俺に何か恨みがあるのか? ええ? どうして事あるごとに」
「いいんですか?」
きょとん、としたジブリールの翠緑色の瞳に、戸惑ったように声を落ち着けた。
「……何がだ」
「前に列車が」
「列車?」
 ジブリールがついと出した指の先を追って、クレーエが面倒臭そうに線路の向こうに視線を投げる。リオも釣られて前を見て、

 思考が、停止した。

 斜面を下る線路の向こう、トロッコの進む先に貨物列車が止まっている。
「っ!」
 悲鳴を押し殺してブレーキレバーを落とす。同時に、けたたましい金属のこすれる音が響いて、夥しい火花が車両の下から噴き出した。慣性で投げ出されそうになるのを、座席にしがみついて堪える。
 間に合わない。
 ぶつかる!
「くそっ!」
 クレーエが毒づく声が聞こえたのを最後に、それからは意識が真っ白になった。
 周囲の風景がゆっくりと流れ、意識だけが別の時の流れの中に居るかのように感じられた。足元が冷たくなるような浮遊感――もしかしたら、その数瞬は意識を失っていたのかもしれない。
 耳朶に流れ込む擦過音に目を開けると、投げ出された両足の向こうに、車両にぶつかりひしゃげるトロッコと、その先に天蓋を覆う雲のような煙と、更に彼方にビロードのように広がる深い夜の空が見えた。
 ――空へ落ちている。
 複葉機に乗って、どこまでも空に向かって上昇しているかのようだった。
 そうだ。ずっと夢見てきた。雲を超えて、どこまでも広い空の中をフレデリカと二人、どこまでも――。

 冷静な意識から薄幕隔てた向こうに、遠く深く、どこまでもひたすらに反響していく自分の声を聞いた。





(>∀<)ノぉねがいします!



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