■□火天E 「――っ、なにを」 言いかけて、アーダルベルトは苦しげに声を詰まらせた。 リオは父を強い視線で見上げる。審問法廷こそ開いていないものの、リオの後ろには天使マグノーリエが控えている。天使を従えて発問している以上、リオに虚言申告は通じない。 震える喉が、ゆっくりと上下する。 何かを語り出そうとしたアーダルベルトの口が、微かに動き――。 不意に轟いたくぐもった地鳴りのような音が、掠れた声を掻き消した。 爆風と共に、幾つものコンクリート片が視界を右から左へ飛んでいく。後頭部に感じる、じりじりと炙るような乾いた熱気。振り返ったリオの視界の端には、四つの人影が映っていた。猟犬のように管制室に飛び込んで来るや否や、舞い上がった土埃に紛れて見えなくなる。 「……侵入者たちか?」 真っ白な頭の中に流れ込んでくる、茫然と呟く父の声。駆け出そうとしたリオはしかし、すぐに縫いとめられたかのように立ち止まった。 ダダダ、と連続して響く発砲音……。 ――短機関銃だ。 頭が理解すると、砂埃の向こうで細い悲鳴が上がり、男が誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。それを契機に、管制室に狂騒の気配が巻き起こる。悲鳴と銃声の嵐の中、負けじと声を張り上げた。 「ここに審議の是非を問う!」 二つに開いた聖典《レリクス》を頭上に掲げる。 「我が賢き天使マグノーリエの名において宣言する。開廷″!」 ――この聖典〈しるし〉を持って、汝は打ち勝たん。《イン・ホック・シグノ》 マグノーリエが謳い上げるように声を震わせ、緑のツタが壁面を伝って管制室を取り囲むように這い伸びる。 「この法廷で行われた犯罪行為は、即時審問執行の対象となります! 銃を降ろしなさい!」 あらん限りの声を張り上げて叫ぶも、その声もすぐに悲鳴と銃声の潮騒に掻き消されてしまう。 砂埃の中から、長い女の悲鳴が聞こえた。リオの顔から血の気が退く。 ――誰かが撃たれたのだ。 強張ったリオの顔が泣きそうに歪んだ。 「……マグノーリエ」 喉が震え、下肢に力が入らなくなる。 「お願い。みんなを守って……!」 囁きかけると、肩の上のマグノーリエが緑光に輝く光の翼を大きく広げた。 (助けられるか? この僕に……!) 下腹部に力を込めると、リオは固まりそうな足を動かし、聖典《レリクス》を盾に砂塵の中へと飛び込む。 第一資料《プリマ・マテリア》によって創られた聖遺物《レリクス》は、あらゆる物理的干渉を遮断する。リオに当たりそうになった弾丸は、その全てが不可視の壁に宙に縫いとめられたかのように静止し、床へと落ちた。 砂塵が薄れ、侵入者へと迫るマグノーリエのツタが見え出すと、マグノーリエが操るツタの動きを補助し、侵入者の手から短機関銃の銃口を掴み上げる。ダダダ、と軽い音が連続して響き、でたらめにばら撒かれた銃弾が壁や天井に突き刺さる。 身を低くして管制室の中ほどまで進んだリオのブルーの瞳に、捜し求めていたものが映る。 破片が散乱するリノリウムの床に横たわる、見覚えのある白衣。 「大丈夫ですか!?」 駆け寄り、横たわる身体を抱き起こし――思わず息を飲む。 巨大な繭のように身を丸め蹲まったそれは、リオを最初に迎えてくれた女性研究員だった。投げ出された腕はぴくりとも動かず、白衣のかかった腹の辺りを、どす黒い赤がゆっくりと侵食していく。 どこかを虚ろに見返す半開きの目――その奥の瞳は完全に死者のそれで、 「――――!」 身体の奥から得体の知れないものが駆け上り、リオは衝動のままに声を張り上げた。 ※ 緑のツタは、ざわざわと音を立てながら管制室の床面を広がると、仲間たちの足に絡みつき、瞬く間に身体中に這い上った。腰から背中、肩から首――そして頭部にまで這い登ると、みっしりと身体を覆いつくす。ギチギチと万力で締め上げるような音がして、中からくぐもった悲鳴が迸った。 何とも、おぞましい光景だった。 「あれが天使の声なのか……?」 駆け上がった階段の上から砂埃が舞う階下を見下ろし、一人の少年兵が手の中の自動拳銃を握り締めた。 ――ゥゥゥゥオォォ! 白い発光体は地鳴りにも似た雄叫びを放ち、自分を攻撃してくる全ての者へとツタを伸ばす。柱の裏に隠れていた仲間の身体が掴み上げられ、宙を舞う。すかさず鎌首を掲げたツタへと銃弾を放つも、一抱えほどの太さを持つツタに、拳銃の弾丸は通じない。巨大なツタはその腕を大きくしならせると、仲間の体を凄まじい力で壁面へと叩きつけた。 ツタとツタの間から覗いた腕が、あらぬ方向に曲がっているのが見える。 (殺したのか? 天使が?) 足がすくんだ。 人を守り、導くはずの天使がその圧倒的な奇蹟の力で人を惨殺する。 少年兵は震える腕で、鎌首を上げたツタへと銃口を向けた。 「……やっぱり、私たちの選択に間違いは無かったんだ」 手の中の拳銃を握りしめる。 緑のツタはざわざわと音を立てながら密度を増し、巨人の如く天井近くまで競り上がるも、標的を失って別の生き物のように蠢いている。 ――アレは自分を攻撃するものに自動で襲いかかっているんだ。 そう理解すると尚更、蠢くツタが不気味に思えた。天使がツタを操り、食虫植物のように人を食う様を想像すると、思わず悲鳴が口をついた。 構えた銃口が射線を落とす。少年兵は震える腕に必死で力を籠め――ぴたり、と凍りついた様に震えが止まった。 見てしまった。 自分を真っ直ぐに見上げる、冷たい碧眼。 ――見つけた。 審問官の少年が小さく呟くのが、唇の動きで解った。巨大なツタは、意思を得たように階段を這い上り始める。感覚の無くなった腕から、拳銃が零れ落ちた。 口元に張り付いた布地から、ふー、ふー、という自分の呼吸音がどこか遠いもののように聞こえている。 殺される、と思った。 自分もまた、三人の仲間たちと同じように。 あの圧倒的な暴力で。悲鳴を上げる間もなく。圧し殺されて……! 「どうしてだよ……!」 胸の奥で渦巻いていた何かが噴き出し、口を吐いた。 「そんな力があるなら、どうして私たちを助けてくれなかった!」 力の限り叫ぶと、音に反応したように巨大なツタが鎌首をもたげた。捕食者の動きで、弾けるようにツタが振り下ろされる。 もうダメだ。強く目を瞑ったその時――。 瞼の向こうを、眩い光が駆け抜けた。 目を見開くと眼球を焼くような熱風が吹き付け、たまらず顔を逸らす。がたがたと足場が震え、ゆっくりと傾いだ。 熱気が収まるのを待って欄干から恐る恐る身を乗り出すと、煙を上げる管制室の機器類と、ごっそりと焼け落ち消し炭と化した巨大なツタが見える。 「……来てくれたんだ」 喜びと絶望を煮詰めてかき混ぜたような、粘性を持った笑みが口元に浮かんだ。 ――私たちの免罪符。破壊と再生を約束してくれた御伽話の悪魔。 取り落とした拳銃を手に立ち上がる。視線を送る破壊された入口の向こうには、暗く周囲の光を吸い込む影の気配が蟠っている。 ※ 管制室には、焦げたような匂いが充満している。 リオは夢から覚めた面持ちで辺りを見渡した。 舞っていた砂埃はいつの間にか晴れ、研究室を広く見渡せた。近くの視界に映るのは、真っ黒に焼け焦げたツタと、隅で震える職員たち。 「あの……? 大丈夫ですか」 震える二十代と思しき男性職員へと手を伸ばす。職員は悲鳴を上げて這うように後退った。 ――可哀想に。 リオは痛ましげに眉をひそめる。 恐ろしいことが有り過ぎて、混乱しているんだろう。 改めて管制室を見渡す。 いったい、誰がこんな酷いことを。 焦げ付いたツタの下には、三人の少年兵が倒れている。遠目にも重症であることが見て取れる。 「早く手当をしないと……」 呟き近づこうとしたところで、別の職員二人に肩を掴まれた。 「それ以上はダメだ! リオくん」 「彼らを殺す気か!?」 ――? リオは心底不思議だ、という顔で二人の職員を振り返った。真剣な顔の職員たちの顔を眺め見て、再度倒れた侵入者たちへと視線を戻す。 突如、目の奥で幾つかの映像がフラッシュバックした。マグノーリエのツタが次々と侵入者たちを沈黙させていく、そんな光景。それはさっきまで見ていた夢と同じ景色で――。 いや。 そうじゃない。 「夢じゃない……?」 開いた両手を見詰めると、震えていた。どうして震えているのかが解らず掌を見つめ、唇も細かく震えているのに気付いて、それらを鎮めようと重ね合わせた。 ――これは、僕がやったのか? 僕がマグノーリエに、「こうしてくれ」と命じたのか? 彼らを殺せ、と? 吐き気が込み上げて来て、口元を押させた。背中を折った所で、再び響いた悲鳴が薄れていた意識を現実に引き戻す。 ダダダ、とリズミカルな音を響かせるのは、沈静化したはずの短機関銃の音色――。 ほんの僅か、自分の目を疑った。 目の前には、さっきまでぼろぼろになって倒れ込んでいたはずの三人の侵入者の姿があった。彼らがいつの間にか起き上がり、可笑しな方向に折れ曲がったままの腕を振り回して、短機関銃や自動小銃を撃ち放っている。 逃げ遅れた職員たちが次々と撃たれて、ひきつけを起こしたみたいに身体をひきつらせる。不格好なダンスを躍っているみたい。 ぴちゃり、 飛び散った鮮血が頬にかかり、唇の端から口腔内へと侵入する。口の中に広がる、粘りつくような暖かい鉄の味。 「っ――!」 リオは今度こそ、声にならない悲鳴を上げた。 ざわざわと鳥肌が立ち、恐れとも怒りともつかない何かが足の先から這い登ってくる。心の中の獣が咆哮を上げた。 ――きちんと殺しておけば良かったのに! 空っぽになった頭の中で、どこかで聞いた声が反響する。 ――きちんと裁いておけば、みんなを守れたはずなのに。 「あああああぁぁぁ!」 頭の中に響く声を消し去りたくて、声を張り上げた。 許容量を超えて『神の意思』を行使した代償で、僅かしか顕現させることが出来ないツタを強引に奔らせて、銃弾を撒き散らす侵入者たちを拘束する。力を込めようとして、 「――……っ!?」 焼け切れそうなほどに過熱していた思考が、冷や水を浴びせかけられたように停止した。 ――飛び散る鮮血と、ばらばらに宙を舞う、分断された手足。 宙を舞っているのは、今しがた職員たちに銃を撃ち放っていた三人の少年兵たちの手足だった。ばらばらに解体されたそれらは千路に放物線を描いて宙を舞い、鈍い音を立てて管制室の床を叩き、転がる。 リオは咄嗟に、傍らに浮かぶ天使を上げた。マグノーリエの戸惑い顔と目が合う。 ――マグノーリエじゃない。 リオは瞬時に理解した。 (僕たちは何もしていない……。それじゃあこれは、いったい誰が) 「勘違いするなよ」 頭上から響いた声に、弾かれたように顔を上げる。 声の主は、階上に逃げた四人目の少年兵だった。 自動拳銃を片手に、欄干に寄り掛かってリオを見下ろしている。吹き付ける乾いた風が顔を覆っていた薄布を舞い上がらせる。 中から現れたのは、自分とそう歳の変わらないであろう、少女の顔だった。汚れた赤い縮れ毛を揺らし、暗い怒りに大人びた表情を歪ませて、リオを睨むように見下している。 「これは、私たちが自分で選んだ結果だ。お前の手柄なんかじゃない……。何も知らない無能な審問官。あんたのような審問官が居るから、私たちは」 少女の腕が無感動に動き、銃口を自身のこめかみに押し当て、引き金を引いた。少女の身体はぐらりと揺れ、欄干を乗り越えて落下し――リノリウムの床へと叩きつけられる。 真っ赤に花を咲かせる、赤いサルビアの花。 リオは引き攣った顔で、ただそれを茫然と見つめていたが、 「……っ」 砕けん程に歯を噛み締めると、弾かれたように宙空に浮かぶマグノーリエへと手を伸ばした。 マグノーリエをアンテナにして、周囲に網の目のように広がっている『神の意志』の流れを読み取る。 「誰だ……誰なんだよ!」 喚くような声が勝手に喉をついていた。 リオには確信に似た直感があった。 ――これは審問官の仕業だ。 自ら引き金を引いた少女の動きは、自分の意思によるものではなかった。別の天使による『執行』が行われたのなら、議場の力の流れに変化が出ているはず。 「……やっぱり、そうだ」 呟いたリオの顔が、悔恨にくしゃりと歪む。 『審問法廷』にマグノーリエの力が上手く行き渡っていない。まるで薄い絵の具がより濃い色で塗りつぶされるように、マグノーリエの力の流れを別の流れが飲み込んでしまっている。あまりにも強大な干渉の為、変化が起こったことにさえ気付けなかった。 誰かが『審問法廷』を開いている。 ――いったい、誰が? リオは思考を走らせる。 容赦のない審問と、残虐性を伴う行き過ぎた執行。幾ら下位とはいえ、天使マグノーリエの『審問法廷』を完全に無効化出来るほどの力の持ち主――こんなことが出来るのは、 「まだ審問官が居たのか」 一人しか、居ない。 暗く沈んだ纏わりつくような声に、ぞくり、と背筋に悪寒が奔った。 「人口三十万人程度の都市で、三人も審問官が居るとはな。人手不足で騒いでいる割に、こう言う所がズサンなのだ。管理教会は何をやっているか」 暗闇に沈む階段の向こうから響く、太い声。脳髄に直接届くように、それは遠く離れたリオの耳にも流れ込んで来る。 じゃら、と響く金属が擦れる音。 リオにはそれが、首から下げた大振りの十字架《ロザリオ》が奏でる音であることを知っていた。 壊れかけた扉の桟の下に、白手袋に覆われた太い指がかかる。 「リオ! こっちだ!」 腕を掴まれ、強い力で引かれる。扉から目を離せずにいたリオは、腕を引く父を茫然と見上げた。傍に居た職員たちもリオのカソックを掴んで後ろから追いかけてくる。 アーダルベルトは奥の部屋まで走り寄ると、警備兵に隔壁を閉めるよう指示した。ゆっくりと閉まる隔壁。その向こうに見える、横たわる白衣の女性――。 「……っ!」 反射的に跳び出そうとしたリオを、避難していた職員たちが抑え込む。 「落ちつけ! リオ君。彼女はもう手遅れだ。見れば解るだろう!」 悲鳴のような声だった。 「でも……でも、まだ」 がたん、とひと際大きな音を立てて隔壁が閉じる。 強張っていた身体から力が抜ける。 俯きへたりこんだリオの耳に、アーダルベルトが職員たちに指示を送る声が流れ込んで来る。 動力中枢炉の格納庫は核シェルター並の強度がある。そこまで逃げて籠城戦に持ち込み、中央教会の助けを待つというのが、アーダルベルトの考えだった。 「地下通路まで逃げ切れば、活路は開けるはずだ。諦めてはいけない」 力強い声で言うアーダルベルトに、職員たちが同調の声を上げる。活気づく周囲にしかし、リオはアーダルベルトの顔に色濃く浮かんだ焦燥の気配に気づいていた。 ――当然だ。 低い声で呟く。 都市の中枢機能を奪われて、籠城戦も何もあるものか。何の用意も無く引き篭もっても、中央教会が編隊を組んで助けに来る頃には、全員飢えて死んでいる。 「皆は予定通り非常階段を使って地下へ。くれぐれも『大禍』を近づけぬように」 職員たちが頷き、非常階段へと走る――あれだけのことがあったというのに、統率の取れた動きだった。 いつから父は、中央管理塔の職員たちからこれほどの信頼を勝ち得ていたのだろう。 「リオ」 おぼろげに周囲を観察していると、厳しい声に名前を呼ばれた。顔を向けると、白い顔をした父と目が合った。 「お前はこっちだ」 歩きだしたアーダルベルトに、されるがままに引き摺られて行く。 職員たちが向かった方向とは違う、隔壁から最も奥まった扉まで近づくと、アーダルベルトは懐から白いカードを取り出し、スリットに通した。 軽やかな電子音がして、扉が開く。アーダルベルトは薄暗いその中へ踏み込み、素早い動きで扉を閉じた。ひんやりと冷たい空気が頬に触れる。扉がきちんと閉じた事を確かめて、ようやくアーダルベルトが詰めていた息を吐くのが解った。 「……父さん。いったいどこへ」 「いいから来い。お前には、守って貰わなければならないものがある」 厳しい声で言いながら踵を返した父の足が、凍りついたように止まる。 耳を澄ますと、奥の方から微かな機械音が聞こえて来た。薄闇に慣れた目が、四方に伸びる原色のチューブと、低く振動する工場機械の姿を捉える。それらは、短く伸びた通路だけを切り取るように、みっしりと周囲を覆いつくしていた。 そして――。 それら密集する機械機器の下――薄暗い通路の突き当たりに、小さな人影を見つけた。 ピピッ、……ブー カードをリーダーに読み込ませるも、返ってくるエラーを示す低い電子音。 人影は何度も何度も執拗にカードをリーダーに読み込ませ続けている。その動きには鬼気迫る何かを感じた。 「――……来てしまったか」 隣でアーダルベルトが重々しくため息を吐く気配がした。 目を閉じ、苦々しい顔で額に手を充てると、諦めたように緩やかに首を振り、 「止めなさい。フレデリカ。それより先に進むには、カードキーの他に網膜認証が必要だ」 ぴたり、と。 機械のように動いていた人影の腕が止まった。ゆっくりと振り返ったフレデリカは、何かを恐れるように、アーダルベルトと……その隣に茫然と佇むリオを見返した。 リオは強く口元を噛み締めると、弾かれたように通路を駆けだした。 フレデリカが身を強張らせて、逃げるように後退る。しかし、細く伸びる通路に逃げ場所など無く、リオの腕は容易く細い身体を捕まえる。 「……ッ!」 肩に手が触れた瞬間、フレデリカが怯えたように身体を竦ませるのが解った。押し返そうとする腕を掴んで強く隔壁に押さえ付け、身を捩ろうとする身体を強く抱きしめる。数秒の抵抗があって、フレデリカは身体から力を抜いた。 「……どうして、追ってきたの」 「君が逃げたからだ!」 おずおずと尋ねた細い声に、感情のまま声を張り上げる。しばらく何かを考える間があって、フレデリカは「ごめんなさい」と消え入りそうな声で謝った。 背中の後ろに、アーダルベルトの気配が立つ。 「神父は。ハイゼ神父は、どうした」 感情を押し殺した声に、フレデリカは茫然とアーダルベルトを見上げ、 「……う」 ヘイゼルの瞳に、大粒の涙を浮かべた。ずるずると扉の前に座り込むと、長い髪をふるふると揺らし、「父は亡くなりました」と、途切れ途切れの声で呟く。アーダルベルトは「そうか」とだけ返すと短く嘆息し、友を悼むように目を閉じた。 「残念だ。これでこの都市に在籍する管理教会公認の審問官は、もう居ないと言う事になるな」 こめかみをつまみ、嘆くように首を振る。 「……待って下さい」 淡々とした声に、リオが反応した。 「もう居ないって、それじゃアンドレアス神父は」 「……テロリストたちを指揮する男を見つけたという通信の後、連絡が途絶えた。『大禍』に遭遇したのだろう。生死の程は解らぬが、恐らく」 言葉を濁して目を逸らしたアーダルベルトにリオは言葉を失い、俯き強く唇を噛み締めた。アンドレアス神父。審問官としての師でもあった彼の訃報は、リオの心に強い衝撃を与えた。 ――なんだ。まだ審問官が居たのか。 先ほど、管制室の扉の向こうで男が放った言葉が、今も不気味に耳に張り付いている。彼は何らかの情報として「審問官が三人いる」と聞いた訳では無かった。三人の審問官に出会い――そして恐らく、それぞれに言葉を交わして、この都市に居る審問官は三人だと判断したのだ。 リオは、縋るようにフレデリカを抱きしめる腕に力を篭めた。一度だけ、強く目を閉じ、 「フレデリカ」 ゆっくりと身体を離すと、泣き晴らした顔のフレデリカと目を合わせる。フレデリカは恥じるように目を逸らした。 「話してくれるかな。ハイゼ神父は、君に何を頼んだの?」 「知らない……」 フレデリカはきつく口元を引き結ぶと、何かを堪えるように顔を俯ける。浅く呼吸を繰り返す顔は真っ青で、ぶるぶると震えるその姿からは、酸欠の兆候が見て取れた。 リオの目が、苦しげに細まる。 いったい、どれほどの悲しみをその身に受ければ、人はここまで苦しそうに乾いた涙を流せるのだろう。 ――これ以上、彼女を傷つけたくない。 強く思うも、『大禍』から逃れる方法を見出すには、真実を知らなければならなかった。 「そんなはずない」 リオは肩を押さえると、幼馴染の宝石のような瞳を覗き込む。 「君は何かを頼まれた。神父が君に宛てた遺書の中で――その頼みごとは、神父が審問官としての資格を失っていたことと関係があったはずだ」 「……っ」 フレデリカの両肩が弾かれたように跳ね上がり、驚いた顔でリオを見上げた。見開かれたヘイゼルの瞳の中で、丸い瞳孔が輪郭を広げていく。 「どうして」とフレデリカの口が声にならない声を発した。過呼吸を起こしたように、短く何度も息を吸う。リオは身を捩るフレデリカの肩を強く押さえ、自分にハイゼ神父の立場を貶める意図が無いことを告げた。 「これは、都市を救うために必要なことなんだ。解って欲しい。フレデリカ。ハイゼ神父は審問官としての資格を失うほどの罪を犯していて、それを『大禍』に裁かれた。そうだね?」 「いや……離して」 フレデリカが震える声を上げて身を捩る。 「そして、これは僕の想像だけど……。神父が犯した罪には、君のお母さんが発明した『環境制御装置《ラケシス》』が関係する」 「もう止めて!」 フレデリカは子供がするように、いやいやと首を振った。嘘の証言を見抜けるマグノーリエの力を借りなくても、既に答えは見えていた。リオは顔面蒼白のフレデリカの肩を、爪が食い込むほどに強く掴んだ。強く厳しい目で、フレデリカを追いつめて行く――。 「止めなさい、リオ」 押し殺した声が背中からかかって、リオはゆっくりと顔を上げた。振り返ると、そこには父の強張った顔がある。 「もういい。私が話す」 「あ……」 フレデリカが縋るように、強張ったアーダルベルトの顔を見上げた。アーダルベルトは、フレデリカを安心させる為だろうか。うっすらと微笑むと、小さく頷く。 「お願いします。……父さん」 リオがフレデリカの肩から手を離すと、アーダルベルトは僅かに目を瞑り、長くゆっくりと息を吐いて、 「環境制御装置《ラケシス》には、重大な欠点があったのだ」 訥々と、真実を語り始めた。 「環境制御装置《ラケシス》は、近隣の天候を操作し、降雨量や日照量を自動的に調整することが出来る装置だ。このような装置は世界中を探しても類を見ない。しかも、未完成ではあるが永久機関に近い動力源を備えている。これだけの素晴らしい装置が、広く世間に公表されていない理由が解るか?」 「僕は、装置を開発したシュタルケ博士が亡くなったからだと聞きました。下手に中身を調べて、動かなくなっても修理できる人間が居ない。だから装置を世間には公表しなかったんだって」 リオの返答に、アーダルベルトは重々しく頷いた。 「そうだな。装置の仕組みがどうなっているかは、博士以外に誰も知らないというのは事実だ。そして、それが壊れてしまっては、もう誰も直すことが出来ないというのも」 リオは思い返す。だからこそ、フレデリカは母の跡を継ごうと、都市の外で最新の科学技術を学ぶことを願ったのだ。装置の仕組みが理解できれば、都市は長年抱いていた後ろめたさから解放される。博士も、そうやって装置が世界中の人々に認められて初めて、世紀の発明を世界に認められるだろう。 「けれど、父さん。それは『大禍』が都市を襲うほどの理由にはならないはずです。――発明はシュタルケ博士のものであり、それを公表しなかったのは彼女の意思だ」 強い口調で言うリオに、アーダルベルトが続ける。 「もちろん、理由はそれだけではない」 アーダルベルトは躊躇うように視線を落とした。 それは、聞く者の胸が詰まるほどの、重々しく、苦々しい告白だった。 「この辺りは知っての通り、砂漠地帯だ。地域に降る年間の降雨量は一定であり、その量は極少ない。……とても簡単な話なのだよ。要は限られた牌の取合いなのだ。環境制御装置《ラケシス》が地域の環境に干渉した結果、都市は日照りや旱魃などの災害を免れた。だが、その皺寄せは別の場所へ行く」 「……まさか」 思わず呟いたリオが、強くフレデリカの服を握り締めた。 頭に浮かんだのは、オスティナトゥーアの市民。作物の不作と流行病が続き、貧困に喘ぐ隣の都市の人々だった。 そういえば、彼の都市は、ほんの十年ほど前までは貧しいながらも飢えに怯えることのない、平和な都市だったと聞いている。その原因が、まさか――。 「環境制御装置《ラケシス》は、都合の良い魔法の装置ではなかったのだよ」 アーダルベルトは自嘲気味に言って、唇の端を吊り上げた。 彼らがそのことに気付いたのは、装置を起動してから三年ほど経った頃だった。きっかけは、オスティナトゥーアを襲った疫病……。不可解な環境の変化を疑問に思ったハイゼ神父が、環境制御装置《ラケシス》の環境測定データをまとめていた時だったという。 「愕然としたよ。シュタルケ博士の遺した論文には、そんなことは書かれてなかったからな。彼女は病床でハイゼに言ったそうだ。『突破口は、事実事象をありのままに観察する中から見出される。私が死んでも、そのことは忘れずに居て欲しい』と。そして、『審問官である貴方には、真実を見極める力がある。それでどうか、都市の人々をどうか正しい道へと導いて欲しい』と」 しかし、シュタルケ博士の願いも虚しく、ハイゼ神父はその『真実』を見極めるのに、三年の月日を要した。 神父は、オスティナトゥーアを襲った流行病の発生原因が、環境制御装置《ラケシス》稼働による急激な環境の変化によるものだと結論付けた。作物の不作による体力の低下が、死者の数の増加に拍車をかけているのも明らかだった。 「そうして真実が解り……それでも私たちは装置を止めることなく運用し続けた」 アーダルベルトの圧し殺した声が、狭い通路に響く。 彼らの頭には、九年前の流行病があった。この都市の多くの仲間を、そしてシュタルケ博士を奪った恐ろしい病が。 真実が公になることを恐れた都市は、環境制御装置《ラケシス》の存在を隠匿し、真実を都市の主要なメンバーと装置を運用する塔の職員以外に公表しないことにした。そして伝染病が広がるのを防ぐためという目的で、当時交流のあったオスティナトゥーアとを繋ぐ、巨大な榛の木《アールキング》を刳り貫いて造られた隧道にコンクリートを流し込んだ。 それ以降は、オスティナトゥーアのことは全てオスカー商会に一任した。見たくないものから目を逸らし続けたのだ。 「見殺しにしたんですか。オスティナトゥーアの人たちを!?」 声を荒げ、怒りに身体を震わせる息子を前に、アーダルベルトは疲れたように首を振った。 「そういうことに、なるのだろうな」 「……っ! そんな、他人事のように」 「言い逃れをするつもりなどない。私が犯した罪は、決して許されるものではないだろうからな。……それに、神は全てをご覧になられていた。隧道を塞いだおかげで、ヴェステリクヴェレに流行病が蔓延することは無かった。しかし、ヘンリエッテは」 アーダルベルトは疲れた顔で首を振る。 思わぬ言葉に、リオは途方に暮れて苦しげな父の顔を見上げた。 そうだ。 隧道を塞いでも、リオの母――ヘンリエッテは流行病に倒れた。 三人だ、とアーダルベルトが圧し殺した声で囁く。 「あの年、都市で産まれた伝染病の犠牲者は、たった三人だった。それは一面においては素晴らしい成果だったろう。それなのに、その犠牲者が隧道を塞ぐことを決断した私の妻だったとは、皮肉なものだよ」 「それじゃぁ、もしかして」 言いかけたリオの脳裏を、恐ろしい想像が過ぎる。次の言葉を継げない。口の中が乾いて、砂を食っているようだった。 「それが、この都市の罪だと言うのなら」 間違いであってくれ。そう祈りながら、尋ねる。 「この都市《ヴェステリクヴェレ》を襲う、あの子供たちの正体は」 「確認したわけではないが……恐らく、お前が想像した通りだろう」 リオは腕の中のフレデリカの存在も忘れて、その場に崩れ落ちた。 「そんな、ことって」 フレデリカは何かを堪えるように俯き身体を震わせている。彼女は神父の手紙で、この恐ろしい事実を知ったのだろう。 ――何と言う事だ。 汗ばんだ両手で頭を抱える。 僕らが当たり前のように受け取っていた幸福は、オスティナトゥーアの人々の不幸の上に成り立っていたのだ。 「ここに居たのか。探したぞ」 暗く沈んだ声が、扉の向こうから染み込むように漏れた。 鋼の扉が溶けるように焼け落ち、その向こうから黒い僧衣が踏み込んでくる。無骨な十字架《ロザリオ》が立てる硬質な金属音。 「どうしたのです? 市長殿。顔色が悪い」 コートに手を突っ込んだまま、男は長身を屈めて通路に入ってくる。歯を見せて男が笑うと、背中に浮かぶ異形の天使が褐色の腕を振り上げ、赤黒い炎を通路の両脇に奔らせた。 「どうです。ここらで一つ、お暇を戴いては。お手伝いしますよ」 「……っく」 アーダルベルトが気圧されたように苦悶に顔を歪め、ゆっくりと後ずさる。 リオは口元を押さえると、フレデリカの頭を胸に抱き寄せた。 男の手には、地下通路へと向かった研究員たちの首が握られている。誰もが苦痛と絶望に顔を歪め、口を大きく開けて果てていた。 『大禍』は大きな手をコートから出すと、頬に着いた血液を白手袋の嵌められた手の親指で拭った。炎に照らされ、男の短い髪が剣山のように炎を映す。 「――鬼ごっこは終わりだ。無知蒙昧に草を食む羊たちよ。貴様たちの耳に、困窮に喘ぐ人々の声は聞こえるか?」 男の手にはいつの間にか、職員の首の代わりに一本の銀の細剣が握られていた。無数に浮かぶ鬼火の一つを斬り裂く様に振り上げ、 「羊たちよ、天使イグニスの前で己が罪を懺悔せよ。さすれば我が炎は火天へと至り、貴様らの罪を焼き払い清めるだろう。裁きの時は来たれり!」 天に掲げ、高らかに叫んだ。 通路を区切るように炎が奔り、周囲を取り囲む。 リオが手の中の聖書《レリクス》を握りしめ立ち上がる。 「父さん。フレデリカを連れて逃げて下さい。僕が時間を稼ぎます」 歯を剥き出しにして笑っていた『大禍』が、そこで初めてリオの存在に気付いたとでも言うかのように視線を向けた。 「――フレデリカ?」 首を傾げ、爛々と輝く赤茶けた目を眇める。遠目から扉に背中を押し当て震えるフレデリカの、限界にまで見開かれたヘイゼルの瞳を覗き込むと、男はにやり、と口端を吊り上げた。 「――そうか。お前があの神父の娘か」 暗い歓びの声で囁き、無造作に通路を歩き出す。 その場に居た全員が、思わず後退った。 「その様子では、もう会ったようだな。神父に。どうだった? 自ら首を吊った父の最期の姿は」 「……あなたが、『大禍』」 フレデリカが震える声を絞り出す。 「あなたが、お父さんを……!」 虚ろだったフレデリカの声に、激しい怒りの感情が浮かび燃え上がった。かちゃり、と乾いた音がして、フレデリカは背中から一丁の自動拳銃《オートマチック》を取り出す。 「父さん!」 リオの叫びに、アーダルベルトがいち早く反応した。隔壁へと駆け寄ると、カードをリーダーに通し、網膜認証を突破する。音も無く開いた扉へと、浅い息を吐き銃を構えるフレデリカを押し込んだ。 「往生際が悪いぞ! 羊ども!」 男が両手にそれぞれ握った細剣を大きく頭上に振り上げ、撫で斬りにするように打ち鳴らす。擦れる銀の音色に呼応するように、背後の堕天使が甲高い悲鳴のような声を張り上げた。 「マグノーリエ!」 リオはマグノーリエが操るツタに、ありったけの意思の力を注ぎ込む。同調したマグノーリエが白い輝きを発する。 ――堕天使が操る炎に、マグノーリエのツタは通じない。 熱くなる頭で、リオは努めて冷静に状況を分析する。 クレーエが言った通り、天使マグノーリエと堕天使イグニスの相性は最悪だ。幾らツタを放とうとも、ことごとくが焼き落とされてしまうだろう。 ――ほんの数秒でいい。 ズキズキと痛む頭で、リオは祈るように念じる。 (父さんとフレデリカ、二人が逃げる時間が稼げれば、僕はどうなっても構わない!) 強い決意と共に、マグノーリエと自分の意識を限界まで同調させる。幾本ものツタを太く束ね合わせ、自分の左腕と連動させて振り上げた。一抱えほどもあるツタは頭上で大きくたわみ、炎を従え迎え撃つ姿勢を取る『大禍』へと、狙いを定める。 (これを振り下ろせば、大禍は僕と闘う大義名分を手に入れるだろう。けれど、ここで闘わなければ、父さんは間違いなくこの男に斬殺される) 迷いは一瞬だった。 短く息を吸うと、リオはそれを全力で振り下ろし、 背後から伸びてきた腕に襟首を掴まれ、背中から放り出された。 「――!?」 一瞬の浮遊感。 直後に強かに背中を打つ、硬いコンクリートの感触。視界から揺らめく炎の気配が遠ざかり、冷たい空気の中に包まれる。 一瞬の混乱。それでも、痛みを堪えて跳び起きる。 眩い光が漏れる通路の向こう――数十センチはあろうかという分厚い隔壁の先に、『大禍』と向き合う見慣れた父の背中があった。 「人にはそれぞれ課せられた役目と言うものがある」 背を向けたまま、アーダルベルトは厳しい声で告げた。 「神は、私たちがそれら役目を果たして、天の国へ帰ってくることを望んでおられる。審問官は多くの人の命を背負わなければならない。それは、力を持った者の宿命だ。立派に役目を果たしてこそ、審問官は人々から尊敬の眼差しを受ける。自分の大切なものを贔屓して助けるなど、もっての他だ」 「父さん……?」 ひりひりと焼けつくような予感があった。 マグノーリエに「父をこちら側へ引き摺り入れろ」と命じようとするものの、喉が引き攣ったように動かない。 たまらず、父の背に駆け寄ろうとして――背後から、暖かい腕に強く抱き止められた。 「フレデリカ……? 何を」 「……!」 背中にしがみついたフレデリカが無言で首を振る。 あまりに必至な様子に戸惑っていると、扉の向こうに立つ父が振り返った。強張っていた表情が僅かに緩み、静かな微笑を形作る。 「お前は未熟者だ」 アーダルベルトは穏やかな声で言った。 「だから管理教会《アパティア》で勉強して、立派な審問官になれ。私のような弱い人間では無く、たくさんの人を守れる人間に」 「何を言ってるんですか!? 父さん! 早くこっちに!」 声を張り上げ手を伸ばすと、父は申し訳なさそうに目を細め、背を向けた。それを合図としたように、分厚い隔壁が音も無く閉まる。 「待ってください!」 駆けより、扉に縋りつく。取っ手一つない扉は、押しても引いても、びくともしない。強く壁を殴りつける。 『私たちは何も持っていかない』 すぐ傍から響いた声に、はっと顔を上げた。 扉の隣に設置されたモニターに、外の映像が映し出され、薄闇の中にぼう、っと浮き上がる。 『都市も装置も書物も、全てお前たちに残そう。ユズリハの葉が、新しい葉に居場所を譲るように。……ただ、葉に着いた病だけは持って行くことにするよ。お前たちは健康であれ。幸いであれ。何も知らなかったお前たちには、罪も罰もありはしないのだから』 細い声で囁き、アーダルベルトが懐から小さな拳銃を取り出す。 「ダメです!」 モニターに張り付きリオは叫んだ。 「『大禍』に銃を向けてはダメです! 早く降ろして……」 叫ぶも、アーダルベルトの手は止まらない。ゆっくりと銃口を通路の奥――大禍が立っているであろう場所へと向けた。 ――こちらの声が聞こえていない。 腹の底がそっと冷たくなる。全身がざわざわと泡立ち、居てもたっても居られなくなる。 「父さん! 聞こえるなら返事をして下さい! 銃を捨てて、すぐにこっちへ」 叫び扉を叩くも、モニターの中のアーダルベルトは振り向かない。 「……ッ、どうして……!」 足がわななき、その場に崩れ落ちそうになる。強く握り締めた拳を振り上げると、モニターの向こうでアーダルベルトが嘲う気配がした。 『どうだ。『大禍』。貴様の炎でも、この扉は敗れんだろう。この部屋はいわば環境制御装置《ラケシス》という雛鳥を守る卵の殻。強度はシュタルケ博士の折り紙つきだ。中に入るには、この扉のロックをクリアする以外に方法は無い。もっとも、それにはこのカードと、私かハイゼ神父、どちらかの網膜認証が必要だがな。――そうだな。死体でも網膜認証は出来るかもしれない。……だから私は、こうすることにするよ』 アーダルベルトは小銃の射線を上げると、銃口を逸らし、彼方へと向けた。扉の脇に設置されたカードリーダーへと向け、躊躇い無く引き金を引く。 パン、パン、パン、と連続して三度。一瞬の間をおいて、 ビー…… エラーを示す電子音が、通路に木霊する。 『こうすれば、もう扉が開くことは無い』 アーダルベルトが得意げに笑う。通路の向こうで『大禍』が怒声を張り上げるのが聞こえた。 「――!」 これから父が何をしようとしているのか、その全てがリオには手に取るように解った。 叫び過ぎて、頭の中が可笑しくなりそうだった。それでも力の限りに喚いて、手の形が変わるほどに分厚い扉を殴りつける。 ――ダメだ。 力の限りに叫ぶ。 受け入れてはいけない。抗わなければ。抗わなければ、貴方は。 『大禍よ。私はお前が審問しようとしている全ての罪を認め、如何な罰をも受け入れよう』 アーダルベルトが抑えた声で言って、小銃を投げ捨てる。 それから、ほんの数秒。 遠くで何事かを囁く声がして、 ――ぐしゃり、 何かが潰れる、湿った音。 目の前のモニターが、鮮やかな赤色で染まる。 首を失くした父の身体は、糸の切れた操り人形のように、自身の血で出来た水溜まりの上に崩れ落ちた。 ※ ※ ※ ……思い付く限りの反社会的な行いは、全てやったように思う。 酒、麻薬、暴力行為。目的があった訳じゃないが、一つ所に留まると良い顔をされなかったから、ふらふらと都市から都市を渡り歩いた。 ただ旅を続けるだけでも、多くの人々から暗い感情を向けられた。余裕の無い暮らしをする人々は、何ももたらさない素性の知れない流れ者を、決して歓迎したりはしなかった。 僧衣の一つでも着れば、もう少しマシにはなったんだろう。しかし、例え嘘でもあんなものを二度と着るのは御免だった。人々は俺を酔いどれ《ドランカー》と呼び、蔑み、避けた。誰かれ構わず噛み付く始末に負えない狂犬に、自分から関わろうとするものは居なかった。 当時の俺は、自暴自棄になって世界中のあらゆるもの全てを憎んでいた。憎んで憎んで憎み抜いて、呪いの言葉を吐いて死ぬつもりだった。幸い、下界には当り散らすに最適なクソ野郎が腐るほど居た。 金になりそうなものなど持ってないのに、奴らは身ぐるみ剥がそうと向こうから襲いかかってくる。 『身ぐるみを剥がす』と言っても、殺してから金目になりそうなものを剥ぎ取るという類のものだ。奴らは外套の一枚、金歯の一本の為に人を殺す。襲われた俺は、手加減できる時は半殺しにしたが、少しでも厳しいと思ったら容赦なく殺した。抵抗はあまりなかったように思う。審問官時代に天使の力で人を殺した時と似たようなものだ。執行の道具が天使から、中折れ式の回転式拳銃に変わっただけだ。 そうして生きていると、審問官として生きていた自分が如何に歪んだ常識の中に居たのかを痛感したが、そんなことはもはや、どうでも良かった。ただ自分が生きる為に、人を殺した。別に命が惜しかった訳じゃない。ただ、こんな奴らにくれてやるなら、もう少し生きた方がいくらかマシだと、そう思っただけのことだ。 降りしきる冷たい冬の雨の中、濡れた土の上に倒れた男が、憎しみに澱む目を向けて来る。 煙草に火を点けようとした俺は、湿気って点かないそれを吐き捨てると、倒れている男の腹を容赦なく蹴り上げた。男は怨嗟の言葉と、それ以外にもいろいろと吐き散らして、泥水を吸って重くなった服で地面をのたうち回った。 殺してやる、と男は言った。 冷たい唇が笑みに引き攣る。 そこまで強い衝動を抱くことが出来ることが裏ましく、時に愉快でさえあった。そこまで憎まれれば、まぁ殺されてやるのもいいかもしれない。 雨は夜を通して降り続き、夜明け前に俺は二十人を越す男たちに囲まれた。恨みを持っている奴らが結託して襲って来たのだ。中には随分遠い都市で見かけた奴の姿もある。 それからは、何ともあっけない物だった。 四方から機関銃の一斉掃射だ。たった一人の流れ者相手に随分な歓迎だったが、その威力は十二分に俺を追いつめた。命からがら逃げ出し、何とか振り切ったところで無様にゴミ溜めの上に倒れ込む。体幹に何発かの銃弾を受けていた。死に至る傷だった。 「――ざまぁねぇな」 喉の奥から出てきたのは、吐き捨てるようなスラングだった。白い息が、凍えた空に昇っていく。万人の喝采を受け、エリュシオンの遥か高みに居た俺が、たくさんの悪意を受けて、ゴミの上で死ぬのは愉快だった。他方で、人の生き方を勝手な裁量で捻じ曲げてきた自分には相応しい末路に思えた。四肢が冷たくなっていくのを感じながら、俺は一人笑い続けた。星一つ無い空に浮かんだ月が、やけに綺麗で、そればかり見上げていた。 どれくらいそうしていただろう。 不意に、月が陰った。 雲ではなかった。 「……気にくわねぇ」 低い声に目だけを動かすと、目の前によぼよぼの爺さんが座っていた。ボロボロの傘の下で、煙草をふかしながら、俺を見下ろしていた。 「なんてツラしてやがる。この世の不幸を全て背負って死にます、ってか。冗談じゃねぇ」 爺さんは俺の襟首を掴むと、引き摺ってどこかへと連れて行った。 あのゴロツキたちのところへ連れて行くのか? ……それでもいいさ。せいぜい俺の死体をおもちゃにして、面白おかしく遊べばいい。 そうされても文句が言えないくらいには、俺は罪を犯してきたのだから――そこまで考えて、意識を失った。 目が覚めた時、天の国なるものが本当にあるのか、と目を疑った。少なくとも、地獄ではないらしい。十歳くらいのガキが、真ん丸の目で俺の顔を覗き込んでいた。 「兄ちゃん! じいちゃん! 目を覚ましたよ!」 甲高い声を上げて走っていく。 (なんだ、そうか) 上手く働かない頭で俺は考えた。 (また、死ねなかったのか) その家には老夫婦と幼い兄弟が居た。爺さんは無愛想な顔で、息子夫婦はこの辺りを縄張りにした砂漠の海賊に殺されたのだと教えてくれた。 彼らは決して裕福な生活をしているとは言えなかったが、動けない俺にも食事を食わせてくれた。よく解らなかったが、ゴロツキたちに見つからないよういろいろと手を回してくれていたらしい。爺さんの孫である幼い兄弟は、得意げにそれを俺に教えてくれた。二か月ほどして動けるようになると、俺はリハビリがてら、彼らの仕事を手伝いに出た。別に目的など無かったのだから、時間は幾らでもあった。 仕事を手伝っていると、彼らの置かれた状況が解ってきた。彼らが暮らす都市は、数年前に流行った疫病のせいで他の都市との交流を制限されているらしかった。必要なものは近隣の都市に居を構える商会が用意していたが、この商会が曲者で、都市を活かさず殺さずのギリギリで搾取しようとしているのは、余所者の俺にもすぐに解った。 都市に居た神父は、ひと月ほど前に流行病で亡くなったという。 隣の都市には、教会公認の審問官が二人も居るらしかったが、この状況をどうにかしようという気は無いようだった。 「俺がどうにかしてやるよ。オスカー商会をぶっ潰して、もっとマシな商会を据えてやる」 強い口調で言う俺に、爺さんは人を馬鹿にしたような顔で俺を見上げると、やっぱり馬鹿にしたように声を上げて笑った。 ごねる幼い兄弟たち――ラルフとミハエルを宥めて、俺は私物をまとめていた鞄を引っ張り出すと、荷造りを始めた。鞄を開くと、繕われて別物と化したコートが現れた。ぼろぼろに破けて、何度も捨てようと思って、それでも捨てられなかった、自分がまだ綺麗な志を抱いていた頃に着ていた僧衣だった。見覚えのない金釦が輝いている。 「警官だった息子が使っていた制服から拝借した金釦だよ。格好良いだろう」 いつの間にか部屋に居た婆さんは、得意そうに目を細めて、ひひひ、と甲高い声で笑った。爺さんそっくりの嫌な笑い方だった。 話を聞くと、彼の息子は警官で、都市を食い物にする商会の不正を正そうとして、口封じに殺されたらしい。爺さんはそんなことは一言も言っていなかった。 俺は彼らに「半年だけ待っていてくれ」と告げて、都市を出た。 愛用の、頑丈さだけが取り柄の中折れ式回転式拳銃を手に、砂漠の丘の上に立つ。 巨大な榛の木《アールキング》の下には、『森林都市』と名高い籠型都市の威容がある。 重たい金釦をいじりながら、俺は樹影に隠れるように立つその都市を見上げた。 もう何年かぶりに、死人だった身体に生気が戻るのを感じる。商会の悪事を暴き、彼らの生活を良くする。まずはその為に、もう一度だけ人の道を生きてみることにした――。 ――その結果が、これか。 乾いた風が吹きつける。この都市で二番目に高い鉄橋の上で、クレーエは遠く見える顔なじみの少年の背中に中折れ式の回転式拳銃《リボルバー》の銃口を向けた。 「追いかけっこは終わりだ。ミハエル」 撃鉄を起こし、狙いを定める。鉄橋は大きな力で捩じ切られたように落ち、そこから先には道が無い。何者かが――恐らく『大禍』ダリウスが鉄橋を焼き切って、塔へ至るための梯子に利用したのだろう。その証拠に、すぐ傍に聳える中央管理塔の側面には、ぽっかりと大きな穴が空いている。 「どうしてこんな真似をしている? ……俺は半年待てと言ったはずだが」 強い口調で問うも、ミハエルは答えない。襤褸切れを体中に巻きつけただけの粗末な服装で、強く服逆巻く風に身を任せている。 クレーエはその背中に躊躇なく銃弾を放った。風に靡く布地に親指大ほどの穴が開く。 「どうしてこんな真似をしているのか、って聞いてんだよ! オスカーの罪は暴いた。次の商会の当てもつけた。全てが良い方向に動き出してたってのに、お前は何てザマだ!」 怒声が乾いた空に流されて、舞い上がる。轟々と、どこからか吹き込んだ風が音を立てていた。 「……遅かったんだよ」 ミハエルは俯き、吐き出すように言った。 「爺さんと婆さんが死んだ。……ラルフもだ。いきなりやって来た夜盗たちに襲われて、抵抗したら殴り殺された」 「!? 夜盗に?」 「俺はじじぃに肥溜めに落とされて無事だった。不様だったよ。クソにまみれて気を失ってたんだから」 ミハエルがゆっくりと振り返る。自嘲気味に歪んだ顔には、一筋の涙の跡があった。ぎこちない動きで、肩にかけていた自動小銃の銃口を向けてくる。 「何もかも壊して、終わりにしてやろうって思ったのさ。俺たちを食い物にしていたこの都市の奴らに、少しでも俺らが感じた苦痛を味あわせてやりたかった」 クレーエはしばし呆然と、少年を見詰めた。やがて強く口元を噛み締めると、その瞳に色濃い怒りの感情を逆巻かせ、眉間に皺を寄せて苦しげな表情になった。 ぼたぼたと、コートの下から多量の血が流れていく。足元は小さな水たまりになっていた。動けば動くほど出血が酷くなることは解っていたが、追わない訳にはいかなかった。 この少年を、これ以上踏み誤らせないために。 「正義はこちらにある。おっちゃんだって、そう思うだろう? 俺たちがこうすることで、オスティナトゥーアに残されたみんなは助かる。もうさほど残っちゃいないけど、それでも意味はある。死んだ仲間たちだって、きっと喜んでくれるはずだ。俺は許せない。絶対に許せないんだよ。……悪魔に魂を売ったって、構いやしないと思ったんだ」 自己嫌悪に身を焼き、光の差さない絶望の淵に沈み、全てを憎んで壊れてしまえと願う――クレーエには、その気持ちが苦しい程に理解できた。 そして、そんな所に居る奴には何を言っても言葉は届かないということも。 それでも、言わずにはいられない。 「ダメだ、ミハエル」 回転式拳銃《リボルバー》を仕舞い、両手を広げる。 「それじゃダメなんだよ。誰かのためと自分を誤魔化して、無関係の人々の家々を焼き払う。跡に残るのは焼け野原と、途方に暮れる住人だけだ。それ以上でも、それ以下でもない」 そして、その罪は消えずに残り――少しずつ、精神を削り続ける。その頃にはもう、自分は取り返しがつかない所に立っているのだ。 ミハエルが力なく首を振って、自動小銃の照準をクレーエに合わせる。 「見たぜ。おっちゃんが俺たちの仲間を鉄橋から落とすのを」 ミハエルは固く凍りついた声で言った。 「約束してたんだ。あいつらが誰かに殺されたら、残された奴は必ず仇を取るって。約束を違えるわけにはいかない。顔向けできないから」 「……お前たちはそれで、救われるのか」 ミハエルはしばらく黙って、小さく首を振った。疲れ果てて、何もかもがどうでも良い――そんな仕草だった。 「そろそろ時間だ。……じゃあな、おっちゃん。おっちゃんと一緒に暮らした時間は、割と楽しかったぜ」 ダダダダ……、 連続した銃声が響いて、襲い来るであろう衝撃にクレーエはたまらず目を閉じた。その憎しみを受けるのは、自分であるべきだと思った。逃げることなく、その全てを受け入れようとして――しかし、痛みはやって来なかった。 目を見開いたクレーエは見た。ゆっくりと傾いていく、ミハエルの驚きに見開かれた顔。まだ幼さの残る少年の身体が、鉄橋の向こうに崩れ落ちていく。少年の足には、あるべき左足が見当たらなかった。 バランスを崩した少年が、真っ暗に広がる空の中へ吸い込まれていく。必至に手を伸ばすが、間に合わない。 空に投げ出された身体は、黒い空の中に落ちていきーーすぐに見えなくなった。 ――今のは何だ? クレーエは膝を突くと、言葉にならない声で茫然と呟いた。ミハエルの左足を断ち切った鮮やかな切断面には見覚えがある。 「天使による執行……? しかし、いったい誰が」 俺に対して銃を放ったことに反応したのか? そういえば――。 ミハエルは、何と言っていた? 『悪魔と契約してでも、都市を守りたいって――』 「――くそっ!」 叫んで、クレーエは地面を殴りつけた。掠れた声を張り上げる。 「何てモノと手を組んだんだ。お前らは……。そんなことをしても、何も、誰も救われなんかしないのに! そんなことくらい、お前だって解っていただろう!?」 内臓が捻じれ、今にも擦り切れてしまいそうだった。跪き、鉄橋に額をこすり付ける。 「いや……」 枯れたと思っていた涙が溢れて、赤錆びた鉄橋を濡らした。 「……違う。違うんだ。ミハエル。俺にはお前を責める資格なんてないんだ。……そこに落ちていくべきは俺だったんだ。俺だったんだよ。俺であるべきだったんだ!」 「だろうな」 背後から響く冷たい声。振り返った途端に、ごり、と背中に突き刺さったナイフが捻じれる感触がした。 ゆっくりと流れる視界の中、視界の隅で揺れる、銀のたてがみ。 「教会騎士団総長、『神の目』クロエ」 血走った金色の瞳が、じろりと俺を睨んだ。 「父の仇だ。――堕ちろ」 声がして、浮遊感。 力を失った身体が押されるままに放り出され、ミハエルと同じように、陸橋を落下していく。空中で反転し、最期に見上げた空。陸橋の上に立つレオパルトが、僧衣の下でこちらを見下ろしている。 なんだ、とクレーエは呟いた。 クレーエの目には、悲しげに顔を歪める彼女の顔が、あの日燃える空の下で見た、泣いている少女の姿と重なって見えた。 ――ほっとした。 あと数秒の命と知って頭に浮かんだのは、その一言だった。 九年の時を経てようやく、購いの時は訪れた。長い、長い旅の終わりが、ようやく訪れた。 ――罰してくれて、ありがとう。 クレーエは穏やかに笑って。 途方もない無力感の中で、冷たい死を受け入れた。 |