■火天F

 どちらが言い出した訳もなく、通路に座り込んだ。
 逃げるように奥へと駆け出してから、まだいくらも進んでいなかった。名前もわからない機械の陰に二人並んで、雨に濡れた子犬のように身を寄せ合う。
 フレデリカは声を殺して泣いていて、リオは重たく纏わりつく疲労感に途方に暮れていた。暗がりを見つめたまま、ぼんやりと父と過ごした日々を思い返す。
 みんなみんな、居なくなってしまった。
 掬い上げた砂が、指の間から零れ落ちていくように。全ては取り返しのつかない彼岸の彼方だ。
 二の腕に触れる暖かな感触に現実に引き戻されると、すぐ傍にフレデリカの旋毛が見えた。汚れの目立ち始めたカソックに顔を押し当て、声を殺して泣いている。生地を通して涙の温もりが肌に伝わってくると、しゃくり上げる声が少しだけ大きさを増した。
 ……僕と彼女はよく似ている。
 ぼんやりとした薄明かりの下で、リオは思った。
 幼い頃に母を亡くし、今まさに唯一の肉親だった父を亡くした。こうしてみると、二人は迷子になった子供そのものだった。歩き疲れて途方にくれ、心細さに細かく身を震わせている。この箱庭のような世界で、拠るべき場所を失って……。
 僕たちはいったい、どこで道を間違えてしまったのだろう。
 涙が頬を伝って落ちる。リオは組んだ両腕の間に顔を埋め、声を立てずに泣いた。
 ……どれくらいそうしていただろう。
「ゴメンなさい」
 フレデリカが掠れた声で囁いた。
「叔父様に頼まれたの。リオをシェルターの中に投げ込むから、そうしたら外に出てこないよう引き留めて欲しいって。私きっと、ああなるって解ってた。解ってたのに、リオを引き留めたの」
 リオが重たげに顔を上げる。気だるさが全身に鎖のように巻きついて離れなかった。
「私が余計なことをしなければ、叔父様はあんなことにはならなかったかもしれない。私が殺したようなものだわ」
 辛そうに罪を告白するフレデリカに、麻痺していた心に痛みが戻る。「違うよ」と乾いた声が喉から洩れた。
「父さんが死んだことと、君がしたことに直接的な因果関係は無い。あれは父さんが自分で選んだ最期だった――罪悪感を持つのは止めた方がいい」
 淡々とした声で告げる。
 それでもフレデリカは、「ゴメンなさい」と声を押し殺して泣いた。声には、拭いようのない悔しさが滲んでいた。胸を焦がすやり場のない憤り……。それはリオの中にも同様に燻ぶっていた。どうして父が殺されなければならなかったのか。罪に対して罰が与えられた――それだけのことと解っていても、すんんなりと受け入れられるものではない。
『審問官として相応しい振る舞いをしなさい。それがお前に課せられた役目だ』
 父アーダルベルトが繰り返し言っていた小言が蘇り、リオはきつく唇を噛んだ。
 胸の中を、得体の知れない熱風が吹き荒れていた。
「ーーまだだ」
 小さな炎が胸の中に灯る。
 父やハイゼの意志をここで途切れさせるか、それともどこかに結実させるかは、これからの選択次第。都市を救うことが出来る者が居るとすれば、それは父でもハイゼ神父でもない。生きている自分たちだけなのだ。
「絶対に、無駄になんてさせない」
 ハイゼ神父の死を。父アーダルベルトの決断を。
 審問官として、出来ることがあるはずだ。力が無いからこそ、考える。どうすれば、『大禍』を退けることが出来る――?
 袖を引かれる感触に視線を落とすと、心配そうな顔で見上げるフレデリカと目があった。
 凍えていた心が温もりを取り戻す。一人じゃ迷い込みそうな闇の中でも、二人なら道を間違わずに行ける気がした。
 大丈夫だよ、と伝えるように栗色の柔らかな髪を撫でると、フレデリカはむずがるように首を捻った。頬を紅潮させて、僅かに目を逸らす。顔は背けていても、意識が自分の方を向いているのが解った。
 僕たちは今、確かに通じ合っている。
 身体の奥底から、これまで感じたことのない力が湧いて来る。重たく圧し掛かる悲しみを振り払って、リオは肩の上を振り仰いだ。うっすらと浮かび上がったマグノーリエが、小さく頷きを返す。
 答えはもう出ている。
 今この状況で、審問官である自分がやるべきことは、一つしかない。
「フレデリカ。僕たちの手で、環境制御装置《ラケシス》を破壊しよう」
 『大禍』が裁こうとしている都市の罪を見つけ出し、彼に代わって『審問執行』を行う。一度執行された罰は、審問に大きな過失が無い限り覆すことは出来ない。そうなれば、大禍はもう都市に手出し出来ないはずだ。
 真っ直ぐに見つめ返すフレデリカの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「リオは、強いね」
 凍えるような声で囁く。
「ゴメン。フレデリカには辛いことかもしれないけど、今はそれしか」
「違うの」
 強ばった声で言うリオに、フレデリカは緩やかに首を振った。
「私も、そうするつもりだったの。お母さんが発明した環境制御装置《ラケシス》が多くの人を不幸にしたなんて、信じたくなかったけど……。お父さんも、そうするのが良いって、手紙に」
 俯いて、胸のペンダントを握り締める。
「役環境制御装置《ラケシス》を壊したって、私たちの罪が消えるわけじゃない。それでも、」
「それでも、けじめをつけなくちゃいけない。装置《ラケシス》を稼働し続けることを選んだ大人たちに代わって、彼らの子供である、僕たちが」
 言葉を引き取って続けると、フレデリカは少し驚いた顔をして、けれど嬉しそうに笑ってくれた。


 二人連れ立って、機械の森を進む。辺りは薄暗く、非常灯の薄赤い光だけが足元を照らしてくれていた。通路を取り囲む機械はのっぺりと滑らかな表面を持ち、塔を昇ってくる途中で見た内臓を思わせる機械群よりも洗練された印象を受ける。
 空気は装置を冷却するためだろうか。ひんやりと冷たい。
 じわじわと染み入ってくる冷気から逃げるように、繋いだ手に力を篭める。確かな感触が、直に温もりを伝えてくれた。
 冷たい床に短く伸びた二つの影が、寄り添い合うように重なっている。
 ーーつい最近もこうして、彼女と並んで坂道を歩いたっけ。
 ほんの数時間前の光景が、冷たく暗い通路と重なる。
 あの時は四人だった。第一階層でみんなで夕食を食べた帰り。石畳の街路の上で、わいわいと喋りながら階層を昇っていった。クレーエやジブリールに自慢の複葉機を見せたくて、うずうずしていた。
 あの時はまだ、アーダルベルトもハイぜ神父も、アンドレアス神父だって近くに居た。小さな争いこそあれ、都市は平穏と呼べる日常の中にあった。そんな生活がずっと続くと思っていたのに。そんな当たり前の光景が、今はこんなにも遠いーー。
 箱庭の世界は崩れ落ちていく。
 それは恐ろしいほどの劇的な変化だった。赤黒い炎はこれまでの生活を焼き付くし、その下に隠された醜悪な罪を露見させた。それを暴くのは本来、審問官であるリオの役目だったはずだ。
 リオはハイぜ神父に天使の気配が感じなくなったことに、早くから気づいていたのだから。もしアーダルベルトの死にフレデリカが責任を持たなければならないのなら、リオはハイゼ神父の死に責任を持たねばならないだろう。
 不意に、ヘイゼルの瞳と目が合う。「どうしたの?」と視線で問うと、フレデリカは慌てたように顔を背けた。
「あの……ジブリールさんは、無事に都市の外に逃げられたのかなって思って。……あと、あの浮浪者も」
 最後の方はもごもと尻すぼみになっていく。

 クレーエに対する彼女の態度は、終始一貫している。今だって、最初から気になっていた癖に、クレーエに関することは付け加えるような言い方をする。
 こんな時でも変わらず意地っ張りな彼女が、何だか可笑しかった。
「……何よ」
 フレデリカが不貞腐れたような顔で、小さく吹き出したリオを睨む。
「私があの浮浪者を心配するのが、そんなに可笑しい?」
「違うよ。フレデリカらしいなって」
「どういう意味よ、それ」
 拗ねるフレデリカを宥めて、リオはこれまでの経緯を買い摘まんで説明した。話が進むにつれて、フレデリカの顔が目に見えて強張っていく。
「なにやってるのよ。助けにいかないとダメじゃない!」
 話が終わると、フレデリカは立ち止まり、強い眼差しでリオを睨み据えた。
「……大丈夫じゃないかな。クレーエさんは強いし、ジブリールさんもその辺は上手くやってくれると思う。そもそも二人とも都市の人間じゃないんだし、『大禍』だって審問執行の対象には」
「そういう問題じゃないでしょ!?」
 フレデリカは眦を決して声を荒げた。
「どうしてそんな落ち着いていられるのよ。どうしてあんたは、そうやって」
 血色の悪い顔で捲し立てながら拳を振り上げ――力なく下ろす。
 リオは小さく息を飲む。
 ヘイゼルの瞳は、何かに傷ついたかのように小さく揺れていた。
「……心配なら、心配だって言えばいいじゃない。私、また酷いこと言っちゃうところだった」
 哀しげな非難の声。リオは「ゴメン」と頭を下げた。
 リオだって、クレーエやジブリールのことは心配だ。出来るならすぐにでも駆け付けて無事を確かめたい。けれど、そんなことをしても二人が喜ばないであろうことは容易に想像出来た。
 『俺には俺の闘いがあり、お前にはお前の闘いがある』とクレーエは言った。『フレデリカを任せたぞ』とも。
 それがあるからこそ、リオは今この場所に居る。そして、フレデリカを不安にさせまいと楽観的な態度を取って見せたのだが、それは結果的に彼女を傷つけることになってしまった。
 きっとこれまでも、同じようなことはあったのだろう。
 悪意が無くても、誰かを傷つけてしまう事がある。相手を慮っても、それが良い結果をもたらすとは限らない。
 それは、とても哀しいことだとリオは思う。
 落ち込むリオに、フレデリカが呆れたように息を吐いた。
「あんたが何を考えてるかは、大体解ったわよ。けど、ジブリールさんに何かあったらどうするつもりなの? あんたの気持ちってそんなものだったの?」
「僕の気持ち?」
 リオが首を傾げると、フレデリカは苛立ったように声を荒げ、
「ジブリールさんのことが好きなんでしょ!?」
「…………」
 奇妙な間が、空いた。
「……どうしてそうなるの?」
「一緒にエリュシオンに行きたいって言ってたじゃない。それってつまり……そういうことでしょ」
 フレデリカは言いにくそうに目を逸らす。
「そういうことって」
 論点がいまいち掴めないリオは、澄んだ青い瞳でフレデリカを見つめていたが、いつにも増して赤い顔をして俯くフレデリカの姿に気付くと、
「ええ!?」
素っ頓狂な声を上げ、数歩後退った。
「ち、違う! 違うよ!」
 真っ赤な顔でぶんぶんと勢いよく首を振る。
「あれはそういうのじゃなくて……。だって、そもそもエリュシオンにはフレデリカと三人で行くつもりだったんだし、そんな深い意味は全然」
「……どうしてそんな嘘をつくの? 好きなら好きって言えばいいじゃない」
「嘘じゃないよ! 僕は最初からフレデリカを誘うつもりだったんだ。そういう意味でジブリールさんに声をかけたんじゃない。だって僕は」
 そこまで一気に言って、言葉に詰まる。
 ――だって僕は。
 僕はその後に、何と続けるつもりだったんだろう。
「……私を誘ってどうするのよ。私はこの都市から出られないのに」
 フレデリカが恨めしそうにリオを見上げる。
「だからハイゼ神父を説得しないと、って言ってたんじゃないか。約束したじゃない」
「それは、確かにしたけど」
 フレデリカは顔を背けると、寒さを堪えるように自身の身体に腕を回した。
「今更そんなことを言われても……困る」
 か細く小さな、当惑の声――。
 リオは火照った顔を押さえ、肺の中の空気を吐き出した。額に浮かんだ汗を拭って、とぼとぼと凍える通路を歩き出す。少し遅れて、フレデリカの足音が続いた。
 ――こういう話は苦手だ。
 猫背ぎみに歩きながら、心の中でぼやく。
 こういう話しは一見単純そうに見えて、しかし一歩間違えばすぐに迷宮に迷い込む。審問官の中にはそういった恋愛事を専門に扱う者も居ると聞くが、リオにはまだ荷が重すぎた。
 後ろから続くフレデリカの足音は元気がない。もともと貧血気味だったのに、顔を赤くしたり声を張り上げたりしたから疲れたのだろう。
 装置《ラケシス》に辿りつくまでには、もう少し時間がかかりそうだ。リオは話題を変えることにした。
「正直に告白するとね。僕、ジブリールさんに母さんを重ねてたんだ」
 正面切って話しかけるのも気まずいので、前を向いたまま独り言のように言う。背後からフレデリカが非難めいた視線を向けてくるのが解った。
「……あの部屋を使って貰ったのも、それが理由?」
「うん。あ、もしかして母さんの部屋を使って貰ったこと、怒ってる?」
 歩調はそのままで尋ねると、いくらかの間があって「……別に」と不貞腐れたような声が返って来る。リオは肩を落とした。こういう言い方をするということは、怒っているということだ。
「……気付かなくてゴメン」
「謝らなくていいわよ。怒ってなんかないし」
 フレデリカの返事は素っ気ない。こつん、と床の上を這うパイプを蹴り上げる音が聞こえた。通路は細く長く続いており、いつの間にか緩やかな上り坂に変わっていた。
「ジブリールさんって優しくて、ふわふわしていて、マグノーリエにどこか雰囲気が似てて……。だから初めて会った時、空から落ちてきた彼女を見て、母さんが天使になって会いに来てくれたんだ、って思ったんだ」
 フレデリカの足音が止まる。
 リオもまた、数歩進んで立ち止まった。
「本当は、父さんにもそう思って欲しかったんだけど」
「……」
 フレデリカが何かを堪えるように息を吐く気配がした。振り返ると、不貞腐れた顔で睨み上げられ、「バカ」と囁かれる。
「子供っぽかったかな?」
 苦笑混じりに尋ねるリオに、フレデリカは「そんなことない」というように大きく首を横に振った。
 通路を戻り、フレデリカの手を取る。
 フレデリカは一瞬だけ身を固くするも、おずおずと手を握り返してくれた。それからは二人とも何も言わずに、のっぺりとした冷たい坂を昇っていく。
 ジブリールと網膜認証の扉を突破してから、随分と長いこと塔を上って来た気がする。この塔を昇り切った時、そこにどんな光景が見えるのだろう。希望の光は差すのだろうか。
 息が上がり始めた頃、通路の先に青白い光が差し込んでいるのが見えた。揃って、小走りに駆け出す。目の前の景色が開ける――。
 管制室の三分の一ほどしかないその小さな空間は、細長い筒のような形をしていた。円筒形の壁は特殊な金属で囲まれており、底の中央が深く窪んだ造りになっている。
 どちらが言い出すこともなく中へと駆け寄り、欄干から身を乗り出した。深く窪んだ円筒の底に、縦に長い直方体の機械が鎮座しているのが見えた。
 一目で繊細だと解る白銀色の精密機械。表面にはたくさんのキーが並んでおり、周囲に設置された大小様々なモニターには、びっしりと複雑な記号が表示されていた。
「これが……」
 ――これが、環境制御装置《ラケシス》。
 思わず、呆けたような声が漏れた。
「私、ここに来たことがある……。ずっと、ずっと昔に」
 フレデリカが誘蛾灯に惹かれる羽虫のように、ふらふらとステップを降りて円筒形の機械に近づく。窪みから二メートルほど頭を出した白銀色の機体は薄らと青く光を発し、神の手で創られた太古の宝物のように、神秘的に輝いていた。
 卵を思わせる滑らかな表面に、恐る恐る手を伸ばす。何事かを思い出そうとするかのように、細い指が優しく表面をなぞった。
 リオは縫いとめられたように動けず、ステップの上からその光景を見つめていた。気安い気持ちで立ち入ってはいけない気がした。
 ――今、彼女の胸に去来しているのは、どのような感情なのだろう。もしかしたら、殆ど覚えていないと言っていた、シュタルケ博士のことを思い出しているのかもしれない。
 躊躇いがちにステップを降りる。環境制御装置《ラケシス》に寄り添うフレデリカは、母親の足にしがみつく子供のようだった。どこか胸が締め付けられるその背中に近寄り、手を沿えた。
「フレデリカ。早く環境制御装置《ラケシス》を壊してしまおう。大禍が来る、その前に」
 そうすれば、大禍がこの都市を襲う理由は無くなる。
 フレデリカはきゅっと唇を噛んで、ゆっくりと冷たい白銀色の機体を見上げた。小さく、だがはっきりと頷く。
 リオは肩の上を振り返り、中空に揺蕩うマグノーリエと視線を交わした。マグノーリエが柔らかな緑光を放つ腕を掲げると、リオの足元から緑のツタが這うように伸びて、瞬く間に機体に繋がるケーブルへと巻きつく。
「ごめんね。お父さん、お母さん」
 フレデリカが哀しげな声で白銀色の冷たい機体に語りかける。
「けれど、これがきっと正しい選択だと思うから」
 名残惜しそうに滑らかな表面に触れると、周囲のモニターに浮かぶ文字列の一つ一つに視線を走らせ、ぎゅっと胸元のペンダントを握り締めた。
「フレデリカ。いいよね」
「……うん」
 装置が発する、ブーン……ブーン……という低い唸り声ような音だけが、やけにはっきりと響いている。
 リオは意識を集中すると、マグノーリエのツタに力を篭めた。カーボン繊維のケーブルに巻き付いたツタは、装置からケールブルを外そうと徐々に力を篭め、

「本当に、それでいいのか?」

暗く陰鬱な声に、悪戯を見咎められた子供のように動きを止めた。
 振り返る。
 ステップの上――入り口前の欄干にもたれるように、僧衣姿の男が立っていた。
 周囲のあらゆる光を吸い込む奈落のような気配。不敵に吊り上った獰猛な口元。猛禽類を思わせる茶色い瞳が、何かを見定めるように二人を見下ろしている。
「どうやってここに」
 硬直するフレデリカを庇うように、前に出た。思わず口走った問いに、男はどこか気だるげな仕草で肩を竦め、
「どうやってって、扉を通ってに決まってるだろう。この要塞《シェルター》を突破するのに、他にどんな方法がある」
気安い口調で言って、押し殺した声で嗤った。
「しかし、市長殿には驚かされたよ。まさか、あんな手に出るとはな。おかげで、随分と手こずらせて貰ったぞ。さすがのイグニスも堪えたようで全く姿を見せん」
 「ほら」というように自身の肩の上を指差す。その言葉通り、男の背には絶えず傍にあった堕天使の気配が無かった。大禍ほどの審問官が、天使の顕現を保てないほどに消耗すると言うのは、余程のことと言える。
「リオ、早くコードを」
 切迫した声でフレデリカが囁く。
 リオはすぐさま頷き返すと、マグノーリエに目を向けた。大禍は今、天使の力を使えない。その手で装置《ラケシス》を破壊する機会は、今しかない。
 リオの意思を感じ取ったマグノーリエが、操るツタに力を篭める。
「おいおい、壊してしまっていいのか? もったいないな。大事な装置なんだろ?」
 耳朶に流れ込む、粘性を持った大禍の声。
「都市には貧困が訪れるぞ? 繁栄は一転、荒廃へと転落するだろう。よくよく考えて決断したらどうだ」
「余計なお世話です」
 リオは迷いのない声を返した。
「誰かを犠牲にして成り立つ生活なんて、こちらから願い下げです。それに……白々しいにも程がある。もし仮に僕たちがこの装置《ラケシス》を守ろうとすれば、貴方は僕たちに刑を執行するんでしょう?」
 鋭い視線で睨みつけると、大禍は微かに口端を吊り上げ、無精ひげの生えた顎を撫でた。
「ふん。その様子では、真実に辿りついたようだな。市長殿から聞かされたか? それとも……いや。何にせよ、それで迷わず装置の破棄を決めたのなら、なかなかの決断力だ。褒めてやるよ」
 ぱん、ぱん、と白手袋を嵌めた大きな両手を打ち鳴らす。
 ――耳を貸してはいけない。
 大禍の声は、人の心をざわつかせる。不安にさせる。
 リオは小さく首を振ると、身体に纏わりつく不吉な予感を振り払うように、マグノーリエのツタへと意識を傾けた。
「だが、これは知っているか?」
 耳を背けても染み込んで来る不吉な声に、心の奥の柔らかい部分が逆撫でられる。悪寒に歯を食いしばり、マグノーリエのツタへと意識を集中させ、
「装置を壊せば、その娘の命はもう助からないぞ」
思わぬ言葉に、あらゆる思考を凍結させた。
「その娘は不治の病に侵されている。その装置が無ければもう助からない。――それでも壊すのか?」
「何を、言って」
 一瞬の混乱に、頭の中が嵐の只中に放り出されたように掻き回される。大禍の言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。永遠とも刹那とも取れる思考の空白――答えは出ない。
「……フレデリカ?」
 救いを求めるように顔を向けると、そこには唇を噛み締めたフレデリカの白い顔があった。
 サァ、と音を立てて、頭から血の気が引いていく。
 嫌な予感がした。
 フレデリカが口を開く。
 ダメだ。これ以上聞いてはいけない――!
「……本当のことよ」
 フレデリカは感情の読めない冷たい表情で、はっきりと答えを口にした。
「私は治療方法の見つかっていない重い病気にかかっていて、その進行を止めるには安定した気候と、凄く高価な薬が必要なんですって。……もうずっと昔からそう。だからお父さんは、環境制御装置《ラケシス》を止める訳にはいかなかったの。全ては、私を助ける為だったのよ」
「そんな」
「お父さんの遺書に書いてあったの。……けれど例えそれが事実でも、やることに変わりはないわ。環境制御装置《ラケシス》は、私が破壊する」
 フレデリカの手が背中に伸びて、服の下から一丁の拳銃を取り出した。躊躇いの無い動きで白銀に光る銃口を環境制御装置《ラケシス》へと向ける。
 リオは弾かれたようにフレデリカの前へと飛び出した。
「だ、駄目だよ、フレデリカ」
「退いて、リオ」
「退けないよ!」
 混乱する頭で必死に思考を巡らせる。
 環境制御装置《ラケシス》を止めなければ、大禍は止まらない。都市は壊滅的な被害を受けるだろう。しかし、破壊すればフレデリカは……。
「そこを退いて。リオ」
 混乱に瞳を揺らすリオに、フレデリカは落ちついた声で告げる。
「それを庇えば、きっと大禍は貴方を許さない。……そうでしょう?」
「応とも。審問せざるを得なくなるだろうなぁ。真実を知ってなお庇い立てしようと言うのなら、同情の余地はあるまい」
 大禍が、すらり、と僧衣の下から二本の細剣を抜き出す。
「……っ」
 背中を、冷たいものが伝った。
 カン、カン、と高い靴音を立て、肩を揺らしながら大禍がステップを降りてくる。
「――『開廷』」
 低い呟きと同時に、炎が窪みを区切るように大禍から這い伸びた。
 リオは聖書《レリクス》を強く握りしめる。装置を守るように立ち、腕を広げた。
「本件の休廷を提案します! ここで装置《ラケシス》を止めれば、多くの人が苦しむでしょう。それよりも、一時的にオスティナトゥーアの人々をヴェステリクヴェレが受け入れた方が効率が良い。審問執行は、それからでも遅くは無いはずです。都市の中枢部には、僕が責任を持って説得を」
「本気で言ってるのか? お前」
 ステップを降りた大禍が両手の細剣を打ち鳴らし、強い瞳でリオを見下ろす。その顔には燃え上がるような怒りが浮かんでいた。
「そんなことを、オスティナトゥーアの連中が認めると思うのか?」
「……ッ! しかし、貴方の方法では」
 言いかけたリオの声を遮るように、甲高い金属音が響いた。大禍が銀の細剣を床面に突き立てたのだ。硬直するリオに、大禍は厳しい表情を向け、
「これを見ろ」
ぱちん、と太い指を打ち鳴らした。まるでその音が伝播したかのように、モニターに表示されていた文字列が揺れて、別の映像を写し出す。
 ……低くスピーカーから流れる、怒号と悲鳴。
 リオは息を飲んだ。
 モニターに映し出されたのは、ヴェステリクヴェレの人々を撃ち殺し、また自らも四肢を撥ね飛ばされて息絶える、オスティナトゥーアの人々の姿だった。
「もう、気づいているんだろう?」
 低い声が、刃のようにある事実を突きつける。リオは後退り、空気を求めるようにぱくぱくと口を動かした。
 ヴェステリクヴェレの人々を撃ち殺すたび、凄惨に手足を斬り飛ばされ息絶えるオスティナトゥーアの人々――。あれらは間違いなく、殺人を犯した罪人へと下される、天使の執行によるものだ。
 しかし、幾ら強力な権限を持つ堕天審問官でも、立ち合い無しでこれほど強力な執行を行うことは出来ない。現行犯を除き、死刑を執行するには綿密な聞き取りと、明確な根拠の提示が要求される。
 彼らの傍に、刑を執行する審問官は居ない。罪に応じて審問法廷が開かれた形跡もない。
 その上で、このような真似が出来る方法があるとすれば、それはただ一つ。
「こいつらが、俺と『誓約』を交わし、命を引き換えにしてこの都市を亡ぼそうとしてるってことに」
 低く不吉な声に、リオは気圧されたように退がった。
 『誓約』。
 原理は昼間、リオがオスカーに対して行ったものと同じだ。刑の対価の代わりに罪人に一定の条件を呑ませ、それを順守すると誓わせる。そうすると、誓約を破った場合、その場に審問官が居なくても定められた刑を執行することが出来る。
 この男はそれを利用して、ヴェステリクヴェレに侵入した全てのオスティナトゥーア市民に『誓約』を行わせたのだ。
 リオがそのことに気付いたのは、鉄橋の上から落ちていく少年の姿を見た時。地上数十メートルから落下し、地面に叩きつけられるまでの呆けた顔に、違和感を覚えた。恐怖にも苦痛にも彼らの表情が変わらなかったのは、ある意味で当然と言える。なぜなら彼らの首は、鉄橋から落下を始めた時にはぽきりと花のように折れ、地面に到達する前に、既に死亡していたのだから。
「お前は、何故俺がこの都市を襲うのか、と尋ねたな」
 絞り出すように大禍は言った。
「俺は彼らの嘆きに応じたまでだ。虐げられるままの運命にあった子羊たちに、圧制者を打ち倒す剣を与えた。彼らの嘆きが私を呼んだのだ。真実を知った彼らは言った。命を賭してでも、お前たちに裁きを下したいと。『犯した罪には、相応の罰を受け入れる』それを条件に、私はここに贖罪の場を設けた」
 そう語る男の声には、強い怒りの感情が滲んでいた。近くに天使の姿は見えないのに、男の身体から漆黒の炎が吹き出し、この部屋を舐めつくしていくようだった。
 リオは、震え出した腕を掴み、男を睨み上げる。
「……彼らの覚悟は解りました。貴方の行動の意味も。けれど、今は時間が必要です。零れたミルクは戻らない。安易な死刑の執行はするべきではない」
「そうやって機会を逸して、また犠牲者を増やすのか?」
「犠牲? ……なにを」
 男の声に応じて、周囲の空気が質量を持ったようにリオの双肩に圧し掛かる。
「先ほど職員たちが撃ち殺された時、お前は一度制圧した兵士たちに執行を下さなかった。お前が手心を加えたせいで、兵士たちは再び銃を取り、犯されなくても良い罪が犯され、死なくても良い職員が何人も死んだ」
 大禍が床面から細剣を引き抜き、水平に薙ぎ払う。
 ゆらり、と男の前の陽炎が揺れ、地面から浮き上がるように、のっぺりと黒い影が立ち上がった。
 リオはまじまじとその影を見つめ――小さく悲鳴を漏らした。
 ゆらゆらと陽炎のように揺れる影は、先ほど短機関銃の弾丸を受けて倒れた、あの白衣の女性研究員と同じ姿をしていた。
「お前の甘さが被害者を生んだのだ。お前が殺したのと同じだ。聞こえるか? 亡者たちの声が」
 炎に炙られた陽炎が揺れ、次々と影が立ち上がる。それらは父アーダルベルトの影であり、ハイゼ神父の影だった。
「こいつらは言っているぞ。審問官である貴様が審問を躊躇ったせいで自分達は殺されてしまったんだと。辛い、痛い、苦しいと。全て未熟な貴様のせいだと!」
「……ふざけるな」
 恐怖なんて感じなかった。吹き上がったのは、形容し難いほどの圧倒的な黒い憎しみの感情。大切な人たちを、死者たちを見世物のように扱う姿に、頭が沸騰するほどの怒りを覚えた。
「お前に何がわかる! 残酷な執行を受けて家族を殺された、僕らの気持ちが!」
「解るさ」
 不意に、大禍の口調が変わった。
 怒りに染まった男の顔に、僅かな自嘲の色が浮かぶ。
「俺は、甘ったれた審問官が下したおざなりな執行のせいで、逃げ出した犯罪者に妻と二人の子を殺されたんだからな」
「な……」
 マグノーリエの蔦がリオの意思に反して動き、リオの身体を拘束する。
 ――しまった。
 思わず呻く。
 抱いた罪悪感に、マグノーリエが反応したのだ。この議場を制圧している審問官は、『開廷』を宣言した目の前のこの男。位階が圧倒的に下のリオは、審問官としての立場さえも失おうとしている。
「……それが、貴方が堕天した理由ですか」
 押し殺した声で問うリオに、大禍は小さく鼻を鳴らした。
「さぁな。ただの例え話だ」
 大禍の後ろに、赤黒い灼熱の炎が吹き上がった。炎が爆ぜる音は、死んでいったオスティナトゥーアの人々の怨嗟の声で埋め尽くされているように、リオには聞こえた。
「審判の時は訪れた」
 銀の細剣を掲げ、大禍が低い声で告げる。
「罪を見過ごし、真実から目を逸らした審問官よ。貴様もまたこの都市の指導者と同罪だ。貴様の弱さが、人々に嘆きをもたらした。聞こえるか。虐げられる者の嘆きの声が。感じるか。都市の未来の為に生命を秤にかけた者の覚悟のほどが。怒りの炎に身を焼かれ、己が罪の深さを知るがいい」
 漆黒の翼を持つ天使が男の背中に覆い被さる。褐色の堕天使は大きくその華奢な身体を広げ、判決を告げるように細く長い咆哮を上げた。
「断罪の天使、イグニスの名において告げる!」
 大禍が叫び、掲げた細剣に力を篭める――瞬間、ジリリリリ、と甲高い警報音が鳴り、頭上から無数の水滴が降り注いだ。
「リオ! こっち!」
 強く腕を引かれて、煙る雨の中を走り出す。
 地面を走っていた炎が濡れ、白い煙を発する。降り注ぐ水滴は、天井に設置された火災検知用のスプリンクラーによるものだと、頭の中の冷静な部分が告げていた。
 前を走るフレデリカの、濡れて色を変えていく服と、水を玉のように弾く肌と、濡れた栗毛を必死で追いかけた。まるで幼い頃に戻ったようだった。ただ手に伝わる手の温もりを、縋るように握り締める。
 機体の裏に回り込み、フレデリカは脇にある小さな部屋に飛び込んだ。そこは小さな倉庫のようで、たくさんの段ボールと名前も解らない機械部品が散乱しており、部屋の隅に汚れたスチール机と一脚の椅子が置かれていた。
 フレデリカは『エマージェンシー』と白いペンキで書かれた扉の前まで来ると、迷いなくハッチを開けた。空気が吹き込まれる音がして、一瞬でチューブクッションが膨れ上がる。
「この非常脱出用のチューブスライダーを使えば、塔の外に出られるわ。リオ。そこのロッカーを開けて」
 言われるままに、傍らのロッカーを開ける。
 無造作に詰め込まれていた大型のリュックを引っ張り出すと、フレデリカはフラップを上げ、きつく縛られていた紐を緩めて中を覗いた。
 反射的に、リオもまた一緒に中を覗き込み――思わず目を丸くする。
 中にはびっしりと、現金紙幣の束が入っていた。
「もしもの時は、このお金を使いなさいってお父さんが手紙に書いてたの。こうなった時でも、私だけでも逃げられるようにって。バカみたいでしょう?」
 そういうフレデリカの声は悲しさで濡れている。
 その小さな背中が放っておけなくて手を伸ばすと、タイミングよくフレデリカが振り返った。
 何かを決意したような、ヘイゼルの瞳。
「逃げるのよ。少しでも遠くに」
 うわ言のように呟くと、リオにリュックを持たせ、ハッチの中へと押し込む。
 リオは数瞬だけ迷い――覚悟を決めた。自らハッチの中に飛び込むと、リュックを奥へと寄せる。元々、大人数の避難を想定して作られたものではないのだろう。中は狭く、リュックを含めると一度にスライダーを利用できるのは二人が限度に思えた。
「フレデリカっ!」
 ハッチの外に向かって、手を差し出す。
 しかし、フレデリカはその手から逃れるように、後ろに退がった。
「……フレデリカ?」
「ごめんね、リオ」
 フレデリカの手がぱっと動いて、傍らのスイッチを押す。同時に、上下の隔壁が動き始めた。
「何を」
 呻くリオに、フレデリカは後ろ手にぎゅっと手を握って、小さく笑った。
「約束破っちゃったね。いつか一緒に海を観に行くって約束……。私の分も、いっぱい外の世界を見てきてね」
 強化プラスチック製の隔壁が閉まる。リオは声を張り上げ、その半透明の隔壁に張り付いた。
「どうしてだ、フレデリカ! どうして」
 必至で問うリオに、フレデリカは悲しげに笑って、
「私を認めれば、リオはきっと審問官としての資格を失くしてしまうわ。お父さんがそうだったように。……私は病気のせいで、どの道長生き出来ないから」
「それでも構わない!」
 一緒に行こう、と声を張り上げるリオに、フレデリカはどこか遠く、手に入らないものを焦がれるような目をして「ダメよ」と首を横に振った。
「リオは、『特別』だから」
 ハッチに張り付いたリオの顔が、絶望に凍りつく。
「今までありがとう。さようなら」
 今にも泣き出しそうな声で言って。
 フレデリカは笑顔のままで、もう一つのスイッチを押した。




(>∀<)ノぉねがいします!



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