第五章 光輝天球 caelum empyreum

■書記審問官エンメルカルの記録E

 人を裁き罰するというのは、人の身に余る所業である。
 審問官と言えど人の子である以上、間違った判決を下すことがある。その際には審問官は相応の責任《リスク》を負わねばならない。自由を束縛したのなら同量の自由を差し出し、人を殺したのなら命で償わなければならない。
 この責任《リスク》を避けるため、女神アストレアの代行者を名乗る管理教会《アパティア》所属の審問官は、同じように女神に遣える審問官と返って来る責任《リスク》を分散する。これによって、積極的な審問を可能としている。
 しかし、堕天した審問官はこれが出来ない。彼らは管理教会《アパティア》とは異なる倫理観――即ち宿主となる審問官の正義――に基づき審問執行を行うため、責任《リスク》の分散を行うことが出来ないのである。
 僅かな怠惰が、欺瞞が、虚偽が、矛盾が、傲慢が、身を滅ぼす程の傷となって返ってくる。堕天審問官は管管理教会《アパティア》の審問官では裁けない罪をも裁くことが出来る。それはとても魅力ある権利であるものの、その代償は致命的であるとさえ言える。世界のあらゆる秩序を、一切の綻び無く組み立てることなど、人の身においては到底不可能なのだから。
 事実、堕天審問官の生存率は、堕天から僅か十日で一割を切ると言われている。

■光輝天球@

 乗っていた台座が傾いて、それからは一瞬だった。
 空気の充填されたチューブスライダーを、垂直に近い角度で滑り落ちる。永遠にも一瞬にも感じられる空白の間があって、気が付けば、公園の草地に寝そべり、頭上に聳える塔を見上げていた。
 はらはらと、紙幣が宙を舞っている。
 辺りは静か。塔の上に設置された仕掛け時計の秒針の音さえも聞こえそうな程だった。肩の上に、マグノーリエの姿が無い。力を使い果たしてしまったのだろう。
 紙幣の束が詰まったリュックに背を預けたまま、灰色の塔を見上げ、ゆっくりと目を閉じる。
 心の中は空っぽで、何の感慨も湧いて来なかった。生きて行くのに必要な何かを、ごっそりと抜き取られてしまったかのようだった。
――また、守られた。
 涙が一筋、頬を伝い流れる。
 あの塔にはもう登れない。リオの権限では、フレデリカが居る環境制御装置《ラケシス》のある区画まで辿り着くことが出来ないし、例え辿り付けたとしても、網膜認証のロックはアーダルベルトが自身の命と引き換えに破壊してしまった。
 大きな手のひらで掴まれたように、胸が苦しくなる。押し潰されてしまいそうなほど苦しくて、だけど身体は指一本動かせなくて。それなのに、涙だけが溢れてくる。
 悲しくて、寂しくて、悔しくて。身体が千切れてしまいそう。こんなに強い感情を抱いたのは初めてだった。
 今度こそ、僕が彼女を守ろうと思った。守りたかった。守らなくちゃ、いけなかったのに……。
『リオは、特別だから』
 最後に見た、今にも泣き出しそうなフレデリカの笑顔。
 僕たちは互いに解り合えたようでいて、その実、何も解り合えてなどいなかった。同じものに手を伸ばしているようで、てんでばらばらな方向を見ていた。それが、この別離をもたらしたのだ。
 『外の世界をたくさん見てきてね』と彼女は言った。けれど今となっては、そんなことにもう価値なんて無かった。
 父さんが居たから、誰からも認められるような審問官になりたいと思った。フレデリカが居たから、一緒に外の世界を見に行きたいと思ったのだ。
 いつか一緒に、外の世界を見に行こう、そう言って誘ったのはフレデリカだった。その時の僕たちは、まだほんの小さな子供で、教会の小さな庭だけが唯一の遊び場だった。
 あの日、フレデリカは白詰草で編んだ花の冠を僕の頭に載せて言った。
『東の海のずっと向こうに、エリュシオンっていう都市があるの。そこは病気も苦労も、不安なんて一つも無い素晴らしい場所で、たくさんの天使と神父様が世界の為に働いているんですって。リオは知ってる?』
 フレデリカはお姉さんぶった口調で訊ねた。
 僕は、ふるふると首を振る。
 フレデリカは『やっぱり』と満足げに頷くと、『私のお父さんとお母さんはね、そこで出会ったのよ』とどこか大人びた口調で言って胸を張った。
『私もそこに連れてってお願いしたんだけど……お父さんもお母さんも、忙しいから無理だって』
 宝石のように輝いていた瞳から光が消えて、悲しそうに揺れる。けれど、それも一瞬で、
『だから私、考えたの。それだったら私たちだけで見に行けばいいんだって!』
すぐにヘイゼルの大きな瞳に輝きが戻る。
 芝生の上に座り込んだ僕は、コロコロと表情の変わるフレデリカを食い入るように見上げていた。
 その頃の僕は、都市の外に出るなんてこと想像さえしたことなくて、「フレデリカは凄いなぁ」とただ素直に感心していたのだ。
『私、エリュシオンでたくさん勉強して、お母さんみたいな科学者になるの』
 フレデリカは声を潜め、内緒話を打ち明けるように言った。
『リオは、私のお父さんみたいに、神父様になるのよね?』
 首を大きく動かして頷く。ハイゼ神父は僕の尊敬する大人の一人だった。
 フレデリカはそれが嬉しかったのか、僕の手を取ってぶんぶんと振りながら、
『だったら約束ね! 一緒に外の世界を見に行きましょう?』

 ――そうすれば、ずっと、ずーっと。一緒にいられるよ……。

「――う、うぅ……っ」
 悔しさで喉が鳴って、視界が涙で滲んだ。震える手で顔を覆って、声を殺して、けれど殺しきれなくて。
「言いだしたのは、君なのに。どうして、あんな。……バカだ。君は本当に、バカだよ」
 もう、立ち上がる気力も無かった。このままここで消えてしまいたかった。
 僕は、生きるのに必要な理由の全てを失くしてしまった。心にはもう何も残ってなど居なかった。理由も無いのに、どうやて生きて行けて行けばいい?
 ――ああ。
 僕は今まで、何をしていたのだろう。
 父さんを、母さんを、フレデリカを。大切な人を守れる審問官になりたかったのに。
「あら? そちらに居るのはもしかして」
 鈴を転がしたような声に顔を上げると、頭上にさっと影が差す。
「どこか痛いんですか? リオさん?」
 水の中から外を見たように歪む視界の中、見知った女性はどこか惚けた顔で、小さく首を傾げた。

   ※   ※   ※

 外の世界を見に行きたい――そう思う一方で、そのことを何よりも怖れている自分が居た。
 都市を出れば、今までと同じ生活は送れない。それは至極当然のことだった。けれど産まれてから一度も都市の外に出たことの無いフレデリカにとって、それは想像するに難しい問題だった。
 ――お父さんから外の世界に出ることを反対された時、私は年相応の反発心を抱きながら、心のどこかでほっとしてもいたのだ。
 何かを選択するということは、ほかの選択肢を捨てると言うこと。
 この街で産まれて、恋をして、子供を産んで。大切な人たちに看取られながら死んでいく。それは、決して悪い人生ではないように思えた。その選択肢を、私は捨て去る勇気が持てなかった。
 ――けれど、リオはそうじゃなかった。
 彼に、フレデリカのような躊躇いは無かった。
 いつも真っ直ぐに、夢だけを見詰めている。今はまだ準備が出来ていないからここに居るけれど、その時が来れば、躊躇いなく外の世界へと飛び出していくだろう。
 ――いつかリオは、躊躇う私を置いて、外の世界に飛び出して行ってしまう。
 幼い頃から漠然と抱いていた予感は、クレーエがやって来たことで現実味を増す。どれだけ邪険にされても、時に怒鳴られたり脅されたりしながらも、リオは瞳を輝かせてクレーエの後をついて回った。フレデリカはすぐに、彼がクレーエを通して外の世界を見ていることに気付いた。
 クレーエのことは、口で言うほど嫌いじゃない。命の恩人だし、乱暴で怖い時もあるけれど、悪い人間ではないことは知っている。
 けれど、リオと一緒に居るのだけは嫌だった。リオをどこか遠くへ連れ去ってしまいそうで……。
 そして半年が過ぎ――。
 予感は、ジブリールが現れたことで確信へと変わる。
 美しく強かなジブリールは、魔法のように一瞬でリオの心を奪ってしまった。私はただ呆然とその様子を見ているしかなかった。
 彼女こそ、最も怖れていた『リオを外の世界に連れて行く大人の女性』そのものだと気付いたときには、私たちの世界は大きく動き出していた。
 嫉妬と焦燥、羨望、そして劣等感――胸を焦がす、薄暗い感情。いたたまれないほどの自己嫌悪の中で、ふと気づく。
 ――私は連れ出して欲しかったんだ。恐ろしい外の世界に、『大丈夫だよ』と手を引いてくれることを望んでいた。もしそれが敵わなくても、リオは私を選んでくれると思っていた。審問官の夢よりも私を選んで、傍に居るよと言って欲しいって、心のどこかで願っていた。
 私は、最低だ。
 心の底から、そう思う。
 だから、あの結果は当然だったのだ。
 リオは私の前で、ジブリールと管理教会《アパティア》へ行く約束を交わした。
 彼は、私を選んではくれなかったのだ。

 カン、カン、カン、カン、

 薄い鉄板が敷かれた螺旋階段は、どこまでも空へ向かって続いていくようだった。足元に伝う、装置が発する低い振動音。それは獣の唸り声のように響いて、フレデリカを追い立てる。
 ――私は塔を登る。これ以上誰かの重荷になる前に、自らの命を終わらせる為に。
一人で全てを終わらせることは、父の遺書を読んだ時から決めていたことだ。
 真実を話せば、リオは同情してくれただろう。もしかしたら、都市に残ると言ってくれたかもしれない。けれど、それではダメだった。リオは私を選んでくれなかった。同情で残るなんて言われても、惨めなだけだ。
 私は、誰かの重荷になりたくなかった。
 だから、都市が犯した罪にリオが気づく前に、一人で環境制御装置《ラケシス》を破壊しようと思った。そうすれば、リオは余計な重荷を背負うことなく、ジブリールと外の世界に歩いて行ける。そうしたら私は、静かにこの世界に別れを告げるのだ。心から二人の未来を祝福しながら……。
 それで、全ては綺麗に方が付く。
 方が付く、はずだったのに。
「どうして、あんなこと言うかな」
 私を選んでくれなかったと思っていたのは、私の勘違いだった。リオは、外の世界に私を連れて行ってくれるつもりだったのだ。
 私はそれを聞かされた時、どうして今まで素直に気持ちを伝えなかったのだろう、と後悔した。その時にはもう、何もかもが遅すぎたけれど。
「けれど、もうそれで十分。そうだよね、フィーネ」
 叶わない願いなら、口に出さないままでいい。今更言っても、リオの重荷になるだけだ。
 本当の気持ちを胸に秘めたまま、私はいくことにする。お父さんとお母さんの居る場所へ――。


 二つある隔壁のロックを解除して、塔の外に出る。隔壁は外から入るには網膜認証が必要だったけれど、中から出る分にはカードキーだけで良かった。
 鉄板で出来た急な螺旋階段が、緩やかなコンクリートの階段へと代わる。上がる息を抑えながらサビの目立つ扉を押し開くと、乾いた風が正面から吹きつけた。
「――……」
 ほんの一瞬、呼吸さえ忘れる。
 そこからは、都市の全てが見渡せた。最外層にある警備兵たちの警備宿舎はおろか、東の森と、その向こうに聳える巨大な榛の木《アール・キング》の白々とした幹までも。
 中央管理棟屋上――都市で一番見晴らしの良いこの場所が、私の最期の地だった。
「空が、赤い」
 天蓋のスクリーンが下界の火災を写しているためだろうか。空は、夕焼けよりも、もっとはっきりとした赤色だった。こんな空の色を見るのは初めてで、私は思わず「まるで神様が怒っているみたい」と呟いた。
 屋上の縁に掴まって、紅色の空に向かって手を伸ばす。
 私は鳥になりたかった。リオと二人であの広い空をどこまでも飛んで行って、澄んだ海を見に行きたかった。
 リオを脱出ポッドの中に押し込んだ時、迷いが無かったとは言わない。私は、彼と一緒に行きたかった。
 けれど、私は天使に選ばれなかった女の子で……リオとはやっぱり、違う。
 その決断は、今では私にとって何よりの誇りだ。彼はきっと、これからたくさんのことを学んで、多くの人を救う審問官になるだろう。彼の将来を、私の我がままで汚してはいけない。
 私はゆっくりと目を閉じ、最期に夢見る。大人になった彼が立派な審問官になって、この都市へ帰ってくる日を。その隣には、一緒に大人になった私が居て――。

「終点だ」

 閉じたはずの扉が、軋む音を立てて開く。
 錆びた扉の向こうから現れた大禍は、まるで夜の闇を一身に背負っているかのように不吉な気配を引き連れていた。屋上の縁に立つ私を、険しい表情で一瞥する。
「どうして装置を壊さなかったの?」
 私が声をかけてくると思わなかったのだろう。大禍が少し意外そうな顔をした。
「壊さなかったんでしょう? 動力炉がまだ動いている音がするもの」
 僅かに考え込む間があって、「確かに、装置は破壊していない」と大禍は褒めるでもなく怒るでもなく、平坦な声で言った。言葉を切ると、微かに首を傾げ、
「だが、どうして俺が装置を破壊すると思ったんだ?」
手にした細剣で肩を叩きながら、不思議そうに訊ねる。
「どうしてって……あなたはオスティナトゥーアの人たちを助けるためにここに来たんでしょう?」
 拍子抜けしながら訊ねると、大禍は「それは結果的にそうなるかもしれないというだけの話だ」と続けた。
「俺は罪を犯すものがあればそれを審問し、相応の罰を執行する。ただそれだけだ。装置を破壊するのなら好きにするといい。それはお前たちの仕事であって、俺とは関係ない。それよりーー」
 ギョロリ、と濁った瞳が動き、見晴らしの良い屋上を見渡した。
「もう一人居ただろう。審問管のガキはどこへ行った」
「彼はもう、塔の外よ」
 答えた途端、大禍は酷く間抜けな顔をした。猫の頭を撫でようと手を伸ばしたら、引っかかれた。そんな顔だった。
「嘘をつけば、罰が下されるぞ」
 見え透いた脅しには答えず、ただ真っ直ぐに大禍を見返す。
 大禍はしばらく睨むようにしていたが、
「……要らぬ労力をかけてくれる。この場でカタがつくと思ったんだがな」
疲れた声でぼやくと、くるりと背を向けた。
「しかし、まぁ良い選択だ」
 僅かに笑みを含んだ呟きを残して、薄い扉に手をかける。
「待って」
 大禍の足が止まった。
「私を、裁かないの?」
 大禍は僅かに間をおいて、再び歩き出した。答えは無い。
「それじゃあ――」
 フレデリカの頬が強張る。掠れそうな声を、絞り出すように言った。
「リオを、裁くの?」
「リオ? あの若い審問官のことか?」
 そこでようやく、大禍が反応を示した。振り返った表情は、フレデリカからは影になってよく見えない。
「そうだな。アレには罪を見過ごした責任がある。話をつけねばなるまい。相応の罰を示すこともまた、審問官の先達としての役目だろう」
 大禍はそう言い残して、開いた扉の向こうへと足を踏み出した。僅かに身を屈めた所で、すぐ横の壁が音を立てて弾け――動きを止めた。
 大禍がゆっくりと振り返る。昏い瞳で、じっとフレデリカを睨みつけた。
「……何のつもりだ?」
「そんなの、私が許さないわ」
 短銃を構えたフレデリカが、強い声で言う。
「リオの所へは、行かせない」
 ほぅ、と大禍の顔が笑みの形に歪んだ。
「そんなに裁いてほしいか、お前自身の罪を」
 踵を返して、ゆっくりと戻って来る。すらりと宙空より二本目の銀剣を取り出し、
「ならば、応えてやらねばならないな。神を見限り、堕ちた審問官として!」
「……っ!」
 冷たい殺気が吹き出し、またたくまに脚に絡み付く。フレデリカは銃の照準を大禍の眉間に合わせた。構えた腕がブルブルと震える。
 ――まだだ。もっと引きつけて撃たないと。
 大禍の背中に、堕天使の姿は無い。チャンスは今しかない。
 引き金にかけた指に力をかける。最初に撃った警告用の一発目とは、引き金の重さが比べ物にならない。
 目前に迫った大禍が、ゆっくりと細剣を振りか被った。
 あと、一歩――。
 フレデリカが視線を定め、覚悟を決めたその時――ぴたり、と大禍の足が止まった。その距離、およそ二メートル。傍で見上げる岩壁のような身体は、どこに撃っても当たるような気がした。
 ぎょろり、と濁った瞳が動いて、フレデリカを見下ろす。
 黒く硬い髪に、薄茶色の瞳。まばらに伸びた無精髭が熱気に煽られ踊るように揺れている。大禍は値踏みするようにフレデリカの足の先から頭の先までを視線でなぞると、
「『神明裁判』というのを知ってるか?」
どこか愉しげな口調で訊ねた。
「『神意裁判』や『神裁』とも言う。遥か昔――古代から中世にかけて、世界中至る所で行われていた裁判形態の一つでな。真偽や正邪の解らぬ者に試練を与えて、その結果で罪科のほどを量って判決を下す」
 緊張で身を固くしていたフレデリカは、思わぬ事態に気圧されたように後ろに下がった。屋上の縁に背を押し付ける。
 とても、不吉な予感がした。
「例えば、『水試し』。被告人を水に沈めて罪科の程を判定する。被告人が沈めば有罪、浮かべば無罪。例えば『火試し』。被告人の手を火の中に入れて、火傷をすれば有罪。しなかったら無罪。正しい者は神の加護により罰を受けないというのが、この裁判方法の基本理念という訳だ。面白いだろう?」
 一人、低く笑うと、大禍はおもむろに自身のこめかみに太い指を当てた。握ったままの銀の刀身に、赤い空が写り込み、水面のように光を返す。
「そこで、どうだ。お譲さん。ここは一つ、その銃で俺を撃ち殺せるかどうかに、神意を問うと言うのは。俺を殺せればお嬢さんは無罪。殺せなければ有罪。公正性は審問官たるこの俺が保証しよう。悪くないだろう?」
「ふざけないで。そんなこと」
「審問とは呼べない。野蛮で出鱈目で下等な行為だって? どうかな。当時はそれが最も素晴らしい裁判方法だと信じられていたんだぜ? こんな馬鹿げた方法で、多くの人間が裁かれ、本来無罪となるべき者が殺され、有罪となるべき者が生き残った」
 それが歴史だ、と低い声で言って、大禍は一歩、間合いを詰めた。
「審問方法は時代とともに移り変わっていく。天使や審問官たちが現れるより前は、人が人の手で罪科の罰を与えていたのだ。断頭台で首を撥ね、致死量の薬物を注射し、高圧電流を流して脳を焼き切り、絞首台で首を括らせた。……死ぬまで牢に繋いで置くのが死刑よりも人道的だと信じられていた時代があった。罪をどのように裁くか、というのは、永遠に議論されていくべき命題だ。何を持って罪科を量り、罰を下すか――その技術は今後も改良されて行くだろう。より優れた審問方法が産まれるたび、我々はどうしてこのような愚劣で野蛮な方法をとっていたのだろう、と自らを恥じながら。これまでもそうであったし、これからもそうでなければならない」
 どこからか低い呻き声が聞こえたような気がして、フレデリカは辺りを見渡した。大禍が目と鼻の先に立つ。冷たく不吉な空気が首筋を撫でた。どこから染み入るように聞こえてくる苦悶に喘ぐ声は、次第に明瞭になっているような気がした。
「管理教会が台頭してから四百年。世界から悪心は消え去ったか? 否、人間は何一つ変わっちゃいない。騙し、騙され、奪い、奪われ、傷つけ、傷つき、殺し、殺される。オスティナトゥーアの連中はヴェステリクヴェレに長年搾取し続けられ、人口を半分にまで減らされた」
 見ろ、と大禍は顎でフレデリカが寄り掛かる屋上の縁の、その向こうを示した。
 ――見たくない。
 頭ではそう思うのに、意志に反して身体が操られたように動く。
 フレデリカは、恐る恐る背後を振り返り、縁の向こうを覗き込んで――小さく悲鳴を上げた。
 そこには、小さく縮小された都市が俯瞰して見えるはずだった。フレデリカのよく知った都市ヴェステリクヴェレの町並みが。
 しかし、そうではなかった。
 そこにあるのは、びっしりと地面を覆いつくす程に溢れた死者の群れだった。何百何千という青白い顔が、一様にフレデリカを恨めしそうに見上げていた。男も女も老人も、子供の姿もあった。彼らは皆、恨めしそうな顔でフレデリカを見上げ、手を伸ばし、苦しげに声を上げていた。
「外に見えるのは、俺と誓約を交わした者たちだ。皆、この都市の人間に復讐するために、あの榛の木を貫く隧道に集まり、ろくな道具も使わずに塞がれた穴をこじ開けて、東の森へと辿り着いた。……もっとも、無事にこの都市に入れたのは、二割にも満たなかったがな。大半は夜盗たちに与えられた傷が元で死んだか、飢えて死んだか、あるいは発狂した。隧道には、今も女子供や老人のすすり泣く声が延々と木霊しているだろうよ」
「止めて!」
 堪らず叫んだ。
「何を言う。彼らが止めてくれと懇願したとき、お前は彼らの願いを聞いたのか? 元は一つの民族。いわば兄弟も同じだ。お前たちは兄弟を手に掛けたのだ」
 亡者たちの怨嗟の声は耳を塞いでも頭に流れ込んでくる。ざわざわと蠢く無数の死者たちの気配。あの世から蘇った冷たい炎が、奈落の底から吹き出したかのようだった。フレデリカは寒さから身を守るように両手で身体を掻き抱き、ずるずるとその場に座り込む。
「ヴェステリクヴェレの連中を道連れにして死んだ奴らも相当居るようだな。死者はまだまだ増える」
 大禍が覗き込むと同時に非難めいた喧騒が強まって、フレデリカは強張った頬を吊り上げた。
「……彼らを追い詰めたのは、私達よ」
 白い顔で囁く。
「だったら、私を裁けばいいじゃない! どうして無関係な人まで襲うの? 都市で暮らす大勢の人は、あの装置がどういうものか知らなかったのに」
「知らないから、許されると? 本当は薄々感づいていたんじゃないのか? 少なくとも、オスティナトゥーアが疫病と飢餓に苦しんでいたことは、この都市の人間なら誰しも知っていたことだろう」
 静かな声に、気圧されたようにフレデリカが目を伏せる。凍えるように震える身体を抱いて、声を張り上げた。
「装置は私が壊す。だからお願い! もう都市の人を傷つけるのを止めて!」
「『誓約』は相互の承諾があって初めて成立する厳正な儀式だ。一方の意志で破棄出来るものではない。……もっとも、俺が死ねば執行者であるイグニスが居なくなるから、誓約は破棄されるだろうがな」
「…………そう」
 大禍の言葉に、嵐のただ中にあるかの如く吹き荒れていた心が、冷たく温りを失っていく。
「貴方さえ死ねば……!」
 殺せ、と身体の奥から声がする。指の感覚が無くなるほど強く銃を握り締めた。
「いいぜ。撃てよ。俺が憎いんだろう?」
 フレデリカは震える腕で短銃を握りしめ、銃口を大禍の額に向けた。
 大禍は薄い笑みを浮かべ、微動だにしようとしない。
 靴の底からひんやりとした空気が染み込んできて、身体が小刻みに震えた。何故だか涙が溢れて止まらない。
 こんな暗い感情、リオは理解してくれないだろう。神父の娘が誰かを強く殺したいと願うなんて、許されることではない。
 けれど、私はやっぱり――。
「私は、貴方を許せない……!」
 引き金を引いた瞬間、火薬の弾ける音と同時に、肩に衝撃が走った。
 腕の腱に凍り付くような痛みが走って、腕が痺れて感覚が無くなる。痛みは骨に達し、強過ぎる信号に頭の中が真っ白に染まった。
 握っていた銃の重みが消失する。反射的に行方を探す視線の先で、水気を含んだ重たい何かが冷たいコンクリートの床に叩きつけられた。
「――――っ!?」
 折れた花のように横たわるそれは、紛れも無く切り離された私の腕だった。
 声にならない悲鳴が喉から迸り出て、身体を丸めて地面に額をこすり付ける。
 一拍遅れて、軽くなった肩から、壊れたポンプのように暖かな液体が噴き出した。背中の筋肉が痺れたように痙攣し、痛みで視界が赤と黒に交互に明滅する。
 ――大禍は?
 頭の中でもう一人の私が囁く。
 銃弾は、命中したの?
 歯を食いしばり、目の前の黒いブーツを辿って顔を上げた。途端、
「あ」
 ――ぱらぱらと音を立てて落ちる、小雨のような鮮血。
 ぬらりとした血液に顔を濡らしが大禍が、濁った瞳だけを動かす。
 じっとりと肩の辺りまでを自身の鮮血で濡らしながら、大禍は緩慢な動きで、形を変えて引き攣れのようになった耳朶に触れた。
「何のつもりだ……?」
 強い怒りを押し殺した声。弾かれたように背後を振り返る。
「イグニス!」
「――どうして僕が怒られなきゃならないのさ」
 いつからそこに居たのだろう。
 大禍の背後――扉の前に、質素な黒いワンピース姿の少女が立っていた。
 あまりにも場違いな姿に、幻覚を見ているのではないかと目を疑う。
 フレデリカより五つほど年下の、あどけない顔をした少女。褐色の肌に深い紅に輝く瞳は、つい最近、どこかで見た覚えがあるような気がしたが、痛みで白く塗りつぶされた意識ではいまいち判然としなかった。
 少女は、今にも掴みかかりかねないほどの怒気を孕んだ大禍を真っ向から見返し、さらさらと揺れる長い黒髪を掻き上げる。
「『金剛』の神威《ゲニウス》が使えない状態で、どうやって弾を避けるつもりだったんだい? 弾道が逸れてくれたから良かったものの、危うく死ぬところだったんだよ。怒りたいのはこっちの方だね」
「……?」
 意識の大部分を痛みに塗りつぶされながらもフレデリカが理解出来たのは、大禍を仕留めそこなったのだという事実と、腕を跳ね飛ばしたのが、このあどけない少女だという確信。
 銃弾はあと一歩と言う所で逸れ、大禍の右耳を吹き飛ばすに留まった。
「まさか、死ぬつもりだった訳じゃないよね?」
 少女が後ろ手に手を組み、非難めいた目で大禍を睨み見上げる。
 大禍は怒りに染まった瞳で少女を見下ろしていたが、手にした細剣を握り締めると、鋭く舌打ちをして目を逸らした。
 肩を抑え、荒い息を吐くフレデリカを見下ろし、微かに目を細める。
「気を失わなかったか。大したものだ」
「……どうして」
 地面に落ちた自らの腕を見つめ、フレデリカが声を絞り出す。大禍は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「その様子では、直前に狙いを変えていたようだな。もし頭を狙っていたなら、今頃お前の首は胴体を離れ、ブロックの上を転がっていただろう」
 生暖かい風に吹き抜けて、黒の僧服を翻した。大禍は首筋を流れる自身の血液を拳で拭うと、細剣を屋上の床面に突き立てた。
「邪魔が入ったが、これも天の差配だ。……お前は相応の罰を受けた。好きにするといい」
 ブーツを鳴らし、入口へと向かって歩き出す。褐色の少女もまた、フレデリカを冷たい目で一瞥すると、すぐに後を追った。
「……待って」
 絞り出すように言って、残っている左腕を動かす。
 ――この男をここで行かせてはいけない。
 真っ白な頭に、ただそれだけが警鐘のように響いていた。
 頭が痛い。吐き気もする。脚に力が入らない。徐々に身体が冷たくなっていく。
「……はぁ、はぁ、ぁ」
 銃は切り離された右手が握りしめたまま。折れた花のようにくの字に折れ曲がり、コンクリートの床に投げ出されている。バランスの上手く取れない身体で這うように近づく。ほんの三メートルほどのその距離が、気が遠くなるほど、遠い。
 切り離された右腕に触れる。
 のっぺりとした質感をした腕は、自身のものと思えないほどにおぞましい感触を返して来た。血で濡れた手で何とか引き剥がそうとするが、銃はがっちりと握られており、片腕では上手くいかない。
 大禍が間もなく扉に手をかける。ゆっくりと、視界が暗く染まっていく。
「うぅ……」
『もし頭を狙っていたなら、今頃お前の首は胴体を離れ、ブロックの上に転がっていただろう』
 大禍の残した言葉が脳裏に蘇る。
 ――私は、殺意を持って、あの男の額に向けて引き金を引いた。
 なのに、どうして私は生きているのだろう。
 無意識に狙いを変えていた?
 私には、覚悟が足りなかったのだろうか。
 ――お願い、逃げて。
 拳を握りしめ、声にならない声で叫ぶ。
 ――逃げて、リオ……!
 大禍の腕が、扉のノブを握る。強く瞼を閉じたその時――甲高い金属音が、遠のく意識を呼び戻した。
 ゆっくりと、瞼を上げる。
 扉の前には、目を閉じる前と同じ形で、ドアノブに手をかけた大禍の姿があった。動かない。機械人形《オートマタ》が停止したように、ぴたり、と静止している。
 フレデリカは、霞む視界の中、必死に目を凝らし――壁のような背中に、いつの間にか数本のナイフが突き刺さっているのに気付いた。
「……貴様は」
 大禍が苦々しい声で言って、分厚い僧衣を翻し振り返る。フレデリカもまた、その視線を追って――思わず、目を見張った。
 乾いた風が吹きすさぶ、薄暗い屋上。遠く離れたその隅に、ボロボロの修道服を纏った細い身体が立っていた。幽鬼のように無形に佇み、冷たく鋭い視線を大禍へと向けている。
 眼前を炎の塊が横切り、幽鬼の近くで弾ける。
 氷のような銀髪が、炎を照り返して赤く燃え上がった。
 金色の瞳が、挑むように男を睨み据える。
「探したぞ、『大禍』」
 細い風鳴りのような音が、轟々と音を立てて燃える炎の中で、妙にはっきりと聞こえた。
「あ……」
 フレデリカはその姿に、覚えがあった。
 あの女性《ひと》は、夜の教会で熱心に祈りを捧げていた――。
「『狂骨』。オスカーの用心棒か。噂はかねがね。だがまさか、塔の外壁をよじ登って来るとは思わなかったぞ。まるで爬虫類だな」
 揶揄するように言う大禍に、女は何も返さなかった。
 ――用心棒? あの人が?
 先日、ナイフを突き付けられた時に見上げた冷徹な目と、数時間前に見た教会に祈りを捧げる哀しげな目が同時に浮かび、フレデリカは軽い混乱に陥った。そして同時に閃く、ある事実……。
 先ほどリオは、用心棒はクレーエが引き受けたと言っていた。
 その彼女がここに居るということはつまり、クレーエ《あいつ》は――。
 女がフレデリカの前を横切る。片腕を失い朦朧とした頭で荒い息を吐くフレデリカを一瞥すると、ほんの一瞬、哀しげに金色の瞳を細めた。紛れも無くそれは、夜の教会で見たあの目。絶望の底で救いを求める様な、胸の奥が締め付けられるような哀しい目だった。
 無意識に手を伸ばすフレデリカに、女は、顔も向けずに一言、
「あの男は死んだ」
静かな声で告げた。
「私が、殺した」
 汚れた修道服が離れていく。
 大禍は褐色の肌の少女を庇うように背中に回すと、迎え撃つように半身に構えた。目的を問う声の前に、女が応える。
「私は、山狗の娘。仲間の仇を、討ちに来た」
「山狗?」
 短く囁く声。一拍の間があって、大禍は身体を仰け反らせて声を上げて笑った。
 フレデリカの背筋を、薄ら寒いものが伝う。
 狂気じみた笑い声は、ただひたすらに不吉な予感を聞く者に抱かせる。
「なんだ。まだ残党が残っていたか! 大方狩り尽くしたと思っていたんだがな!」
 挑発的な哄笑に、金色の瞳が冷たい殺気を返す。ぎちり、とボロボロの僧衣の下で革ベルトが軋む音が聞こえた。
「ルチェルトラを殺したのは、お前だな?」
「オスティナトゥーアで山賊紛いのことをしていた男か? ああ、殺したとも。肉片も残らぬまで串刺しにしてやった。はははは!」
 引き攣った笑い声を上げる大禍に、女の気配が変わる。哀しげな修道女のそれから、冷徹な獣のそれへ。瞳からは人間らしい色が消え去って、ネコ科の肉食獣のように緑色の光彩が細まった。
「天使に憑りつかれた狂人め……!」
 細い身体が後方に跳ね、短機関銃のように幾本ものナイフを打ち出す。大禍は顔の前で両腕を合わせ、正面からそれらを受けた。
 甲高い金属音が響き、弾かれたナイフがコンクリートの床に落ちる。僧衣の下に鋼でも仕込んでいるのだろうか。まるで金属塊を叩いたような音だった。

 ――この剣<しるし>によって、汝はうち勝たん《イン・ホック・シグノ》

「……開廷″」
 低い呟きと同時に噴き出す、赤黒い炎。顕現した堕天使が、燃え盛る炎を従え、褐色の両腕を広げる。
「――……執行」
 フレデリカは知らず、消失した自身の右腕の付け根を抑える。審問官の眼前で行われた犯罪には、即時執行の対象となる。ナイフを放ったレオパルトは、対価として四肢を斬り飛ばされ、
 ――いや、そうではない。 
 無形に構える女には、何の変化も起こらなかった。金色の瞳を見開き、女は薄い唇に微かな笑みを浮かべる。
「やはり。誓約を交わそうと、執行を下すのは天使の力。これだけ広範囲の審問法で執行を行っていれば、力は分散される」
「……お前は、手ずから執行を下さねばならぬようだな」
 舌打ち交じりに呟くと、大禍は宙空から細剣を抜き放つ。両手の革手袋が乾いた音を立てる。

 ――――イィィィィィッ!

 甲高い嘶きが、屋上に吹き付ける乾いた風を切り裂く。
 大禍の背後に浮遊する堕天使は、生身の質感の色濃く感じる褐色の両腕を広げ、深紅の両目から血の涙を流す。
「……血の、涙」
 女は金色の瞳を眇め、薄い唇を微かに震わせる。
「非情な死の天使。貴方はこんな私の為にも、泣いてくれるのですか」
 その呟きは、大禍はおろか、フレデリカの耳にさえ届くことなく……。





(>∀<)ノぉねがいします!



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