■光輝天球A

 次々と現れては後方に流れて行く景色を見つめながら、ジブリールはそっとガラス窓に細い指を這わせた。
 冷たくそびえる中央管理塔の下で、リオとジブリールが再会してから十分と少し――その僅かな間に二人は、市民を避難誘導していた警備兵の一団から軽量装甲車を接収し、都市郊外へと車を走らせていた。
「次の道を左折して、幹線道路へ。そのまま真っ直ぐに第三階層へ向かって下さい」
 ガタゴトと揺れる軽量装甲車の後部座席から、ジブリールがそろそろと運転席を覗き込む。ジブリールが手をかけたシートの向こう側、助手席のリオが地図に目を落としたままルートを指示する。装甲車は指示通り細い側道を折れて、幹線道路へと乗り入れた。
「あ、あのね。リオくん」
 警備兵の青年――リオの審問官権限により、運転手として随行するよう命じられた――が、にこやかな笑顔を浮かべて隣のリオを見た。
「幹線道路を直進するのは難しいよ。バリケードが敷かれているのは君も知っているだろう? 都市はこういう状況を想定して、障害物の無い迂回ルートを用意しているんだ。階層を抜ける毎に検問があるのが難だけど、そっちを通った方が楽に」
「このまま真っ直ぐに行ってください。このルートを取るのが一番早いので」
 地図から顔も上げずに言い切られ、青年の笑顔が不自然に固まった。
 冷たい光を灯した青い瞳が、青年をひたと見上げる。
「さっきも言いましたが、時間が無いんです。とにかく急いで下さい」
(……ご愁傷様です)
 ジブリールは心の中で囁いて、そっと手を合わせた。
 いつもは穏やかで気弱な少年が発する冷たい声に、警備兵の青年は戸惑った様子で、ちらちらとリオの様子を窺うようにしている。車内の緊張感は相当なもので、軽口を発するのも躊躇われるほどだった。
(しかし、ダメでしたか)
 ジブリールはそっと溜息を吐いて、胸の前で十字を切り、耐え難い空気の中で迂回を申し出た青年の勇気を心から讃えた。何故なら、
「衝撃来ます! 気を付けてください!」

 リオが示したルートは、誰だって苦言の一つは呈したくなるほどに、厳しいものだったからである。

 やけっぱち気味に警備兵が叫ぶと同時に、車体が『へ』の字になった鉄とコンクリートの複合版へと乗り上げた。そのまま長手側の斜面を駆け登り――一気に落下する。どすん、と下から突き上げるような衝撃が車体を貫き、シートの上で跳ねたジブリールは、天井へと強かに頭をぶつけた。大型のサスペンションが軋み、絞殺された鳥の鳴き声ような音を立てる。
「っつつつ……痛い。リオさん、無茶し過ぎですよ……」
 リオに聞こえないよう、涙声で呟く。
 中央管理塔へ近づく車両の行く手を防ぐバリケード群は、都市中央へと至る車両を足止めするものだが、その逆――中央から遠ざかり外縁へと向かう分には、大きな障害にならない。長手側を走れば、さしずめ小さなジャンプ台といった所で、軽量装甲車は跳ねるように揺れながら、次々とバリケードを乗り越えて行く。もっとも、乗り越えることが出来ると言っても、バリケードは高さが一メートル近くもあるため、落下の衝撃は相当なものがあるのだが……。
「うぅ、お尻が痛いです」
 そっと腰を浮かして尾てい骨の辺りを擦っていると、バックミラー越しにリオと目が合った。リオは少し申し訳なさそうな顔で、
「バリケードが敷かれているのは第三階層までです。そこからは普通に走れますから、もう少しの辛抱ですよ」
「え、ええ。私のことはどうぞ、お気になさらずに……」
 引き攣った笑みを浮かべるジブリールにしかし、リオは目を離そうとはしなかった。バックミラー越しに、じっと覗きこむような視線を向け――救いを求めるように、その蒼い瞳が揺れた。
「ジブリールさん――間違いないんですよね?」
 苦しげに胸元を押さえ、絞り出すように尋ねる。

「塔の上から、『神の意志』の力が流れる気配がするというのは」

「え? は、はい。リオさんは感じませんか?」
 ジブリールは思わず問い返す。
 リオを守護する天使マグノーリエの<奇蹟《エレメンタム》>は<万能型《フルユニバーサル》>。炎を扱う天使が持つような<特化型《スぺシャライゼイション》>とは違い、審問官も天使を介せば、『神の意志』の力の流れを感じることが出来る。
「実は、その……」
 不思議そうに首を傾げるジブリールに、リオは僅かに口ごもり、
「マグノーリエが、力を使い果たしてしまったみたいで。さっきから呼んでも、応えてくれないんです。塔の中では感じられたフレデリカとの繋がりも、今は感じられなくて」
「……そうだったんですか」
 無理もない、とジブリールは憂うように頬に手を添える。
 書記審問官が開くことの出来る審問法廷の持続時間は、一般に、一日一時間と言われている。もうかれこれ三時間は天使の力を行使し続けているだろうリオは、よく健闘したと言えるだろう。
「〈神威《ゲニウス》〉を行使するには、天使を介して『神の意志』の力を取り込む必要があります。天使が居なければ当然、力は行使出来なくなる。フレデリカさんの声が聞こえないからと言って、焦る必要はありませんよ」
 項垂れるリオの肩に、そっと手を載せる。
 『神の意志』の力が大量に塔の上から流れ出ているというのは、紛れも無い事実だった。リオは大禍が審問法廷を開いているのではないかと推測しているようだが、ジブリールもその可能性は高いと思っている。
 リオの話しによると、彼が塔から滑り落ちて来た時、塔の中に生存者は大禍とフレデリカの二人しか居なかったと言う。
 『審問法廷』は対象となる被告人が居なければ開廷することが出来ない以上、今もフレデリカが生存している可能性は高い。そして、この事実はもう一つ、重要な意味を内包している。彼らが居るのが塔の最上階――吹きさらしの屋上なのだとしたら、最大の障害であり、リオが半ば諦めざるを得なかった、シェルターの網膜認証によるセキュリティロックの解除が必要なくなるのである。
「けれど、リオさん。フレデリカさんが塔の屋上に居るとして……。天使の力を使えないリオさんは、どうやってそちらへ?」
 リオはその問いには答えず、顎を上げると幹線道路の向こうを見つめた。その視線は真っ直ぐに、ゴシック様式の尖塔へと注がれている。


 ヴェステリクヴェレ第一教会のシンボルである、ゴシック様式の乾いた石造りの尖塔が間近に迫ると、軽量装甲車は街路灯が光を落とす石畳の街路を折れて、教会と隣接する自然公園へと乗り入れた。
 ガタゴトと揺られながら、薄い轍の跡を進む。道はなだらかに起伏しており、ヘッドライトの明りに薄く積もった落ち葉が照らされていた。小高い丘を覆うように茂った林道を抜けると、スチール製の古ぼけた倉庫が見えてくる。
 リオたちが『ハンガー』と呼ぶその場所こそが、ジブリールたちが目指していた目的だった。しかし、
「そんな」
警備兵の青年が、大きく息を飲んで絶句する。

 倉庫は燃え盛る炎に覆われ、赤々と燃えていた。

「ッ!」
 リオが速度を落とした車両から、転げるように飛び出す。
「リオさん!」
 ジブリールが慌てて手を伸ばすも、リオの僧衣はするりと指をすり抜けていく。装甲車は大きく迂回して、ハンガーから離れた林道の脇に停車した。
「教会に火を……? 酷い。どうしてこんなことを」
 警備兵の青年が、口元を押さえ蒼白い顔で呻いた。目を凝らすと、隣接する教会のステンドグラスにも、炎の揺らめきが映っているのが見えた。
 順番としては、先に火を放たれたのが教会で、その火が倉庫にも燃え移ったと考えるのが自然だろう。ただし、火の回りは石造りの教会よりも、薄い鉄板造の倉庫の方がずっと早い。
「貴方はここで待っていて下さい」
 警備兵の青年に言い置いて、ジブリールもまた車外に降り立ち、リオの背中を追った。
 リオの姿は既に、ハンガーの扉の前まで来ていた。走る勢いのまま扉へと体当たりすると、扉は想像よりも容易に外れて内側に倒れる。中から黒煙が溢れ出し、倉庫の前の下生えに火の粉が降り注いだ。
 数秒遅れて追いついたジブリールもまた、ハンガーの中を覗きこみ――翆緑色の瞳を見開いた。倉庫は、既にそのほとんどが炎に包まれている。
 口元を押さえて倉庫に飛び込むと、複葉機によじ登るリオの背中が見えた。
「リオさん、危ないです! 戻ってください!」 
 風防を開いたリオが操縦席に潜り込む。勢いよく流れる風を感じて視線を移すと、背後のシャッターがゆっくりと開いていくのが見えた。風が吹き込み、酸素を供給された炎が勢いを増す。シャッターの向こうに、自然公園の通路を利用したでこぼこの滑走路が伸びているのが見えた。
「……まさか」
 すっ、とジブリールの顔から血の気が引く。
「その複葉機で、塔の上に向かうつもりですか!?」
「整備は出来てます。問題なく飛べるはずです!」
「そんなの、無茶です!」
 ジブリールは悲鳴に近い声を上げた。
「あちこちで起こっている火災のせいで、都市内の気流は不安定になっています。安定飛行に入る前に落ちてしまいますよ!?」
 飛行機は、離陸と着陸の時が一番危険度が高いと言われていることを、ジブリールは知っていた。ましてや、操縦するのが操縦経験の無いリオなら尚更だ。
 複葉機の下まで駆け寄り声を張り上げると、煤で頬を汚したリオの横顔が見えた。怖いくらいに強張った表情で、計器のチェックをしている。
「台風や竜巻に比べれば、気流自体は大した問題じゃありませんよ。それよりも、問題は高度……滑走路を飛び立ち、水平飛行に入るまでに、周囲の建物にぶつからない高度まで上昇出来るのか?」
 悪夢に魘されたような顔で呟く。
「……いや、風向きは、夜になると下層から吹き上げるように吹くはずだから、上昇気流さえ上手く掴むことが出来れば……」
「上昇気流――?」
 砂漠に囲まれた都市は、夜になると外気温が下がるため、上層部が冷えて塔の中央から外側へと向かって風が吹く。リオが言っているのは、その風のことだろう。
 ガレージは都市の中央へ向かって直角に建っているから、滑走時の風は向かい風になる可能性が高い。滑走路の延長は、自然公園の遊歩道も含めて三百メートル弱といった所。飛び立つには十分な距離だが、それは計算上の話でしかない。
「……本気で言ってるんですか?」
 上空では轟々と音が聞こえるほどに強く風が吹いている。火災によって発生した煙を、都市の空調が外に追い出そうとしている為だろう。この状況では、そもそも上昇気流が発生しているかどうかも怪しい。
「失敗すれば、助かりませんよ」
 じっと憂うように見上げるジブリールを、リオは手を止め真っ直ぐに見返した。ブルン、と機体が震え、エンジンが始動する。
 プロペラが旋回を始め、線でしかなかった羽根《ブレード》が面へと変わる。高い振動音が雄々しくハンガー内に響いた。巻き起こった風が、ジブリールの纏う薄布を煽る。
「……っ、リオさん!」
「覚悟の上です。それに、僕は分が悪い賭けだとは思わない」
 低い声を残して風防が落ちる。
 ジブリールはぐっと胸元で拳を握りしめると、近くの梯子から複葉機によじ登った。風防をこじ開け、後部座席に身体を滑り込ませる。計器の確認をしていたリオが、ぎょっとした顔で振り返った。
「ジブリールさん!? 何を」
「私も行きます」
「ダメです! こんな危険なことに巻き込む訳には」
 腰を上げたリオが、ジブリールの肩を掴む。
 その時だった。
 風防の向こうから、倉庫の一部が崩れ落ちる音が響いた。低い振動が複葉機を揺らす。シャッターが開き、プロペラが回転し始めたことで、舐めるように這っていた炎は急速に勢いを増し、倉庫を崩れさせようとしていた。
「時間が無い……!」
 リオは首から下げていたゴーグルをかけると、縋るような目で滑走路の向こうへと視線を向け、

 息を飲み、そのまま立ちつくした。

「滑走路が……!」
 ジブリールが震える声で囁く。
 崩れ落ち大量に降り注いだ瓦礫は、シャッターの前にも降り注ぎ……滑走路の一部を、完全に塞いでいた。
 ガン、と強化硝子の風防が音を立てた。
「ダメだ。……これじゃ、飛べない」
 苦しげに呟くと、リオが再び風防を殴りつける。擦りキズだらけの手から滲んだ血が風防を汚した。
「どうしてこうなんだ! 何をしようとしても、上手くいかない……!」
 リオははゴーグルを毟り取るように外すと、力任せに操縦桿へと叩きつけた。肩を震わせ、獣が小さく吠えるように短く唸り声を上げると、不意に突風が吹きつけ、機体が大きく揺れた。
「リオさん!」
 身を固くするリオの頭を掻き抱き、ジブリールが上から覆いかぶさる。叩きつけるような突風に、機首が微かに持ち上がる。
 風は質量を持った大槌のように倉庫内を吹き荒れ、崩れかけていたプレハブの屋台骨をぐらぐらと揺らした。
 ――崩れる!
 ジブリールはぐっと身を固くし――一瞬の静寂。
「……?」
 待ち構えていた衝撃は、やって来ない。
 ジブリールは瞼を上げると、未だ揺れ続けている恐る恐る倉庫を見上げて――ぱちり、と長い睫毛を瞬かせた。
「これって」
 突風が奔り抜けた滑走路からは、先ほどまで散乱していた屋根材が綺麗さっぱり消えていた。身体の下に居たリオが身体を起こし、蒼い瞳を一杯に見開く。
「……しん、ぷ?」
 リオが茫然と何事かを囁く。ジブリールはその視線を追って――開いたシャッターの脇、大きな柱の陰にもたれるようにして立つ、何者かの影を見つけた。
「アンドレアス神父!」
 リオが鋭く名前を呼んで、風防を開いて操縦席の上に立ち上がった。柱に寄りかかっていた人影――足元は複葉機のヘッドライトに照らされているが、上半身はシャッターの影になってよく見えない――は、白い手袋の嵌められた手を揺らした。
「楽しそうなことをやってるなぁ。リオ君。元気そうで何よりだ」
「神父……」
 リオの顔がくしゃりと歪む。慌てたように顔を俯かせ、目元を拭いながら、
「ぶ、無事だったんですね。何があったんですか。そんなボロボロで……」
 瞳一杯に涙を湛えて尋ねると、「ボロボロは酷いな」とアンドレアスは声を上げて笑った。
「大禍に出くわしてな。手酷くやられたよ。……私では彼を止めることが出来なかった。済まない」
 真剣な声で言って、顔を俯け力なく首を振る。
 リオは、きゅっとカソックの胸元を握り締めた。
 微かに微笑む気配がして、アンドレアスは壁にもたれかかり、ずるずるとその場に座り込んだ。乱れた呼吸を繰り返す姿は満身創痍で、まるで熱に魘される病人のようだった。
「――神父?」
「大禍を逃してから……いや、逃して貰ってからは、というべきか。市民の救助と侵入者たちの説得に当たっていたのだが……しかし、これがなかなか上手く行かなくてなぁ」
 アンドレアスは倉庫の天井に視線を投げながら、よく通る声で言って、
「それだけ、都市が犯した罪は重いと言う事だろうか」
リオの方へと顔を向ける。ヘッドライトに照らされた皮肉に吊り上がった口元には、色濃い疲れが滲んでいた。
「神父……もしかして気づいて」
「ああ。大禍に教えられた。情けないことだ。こんな事態になるまで見抜けなかったとは。都市に侵入したテロリストというのは、オスティナトゥーアの者たちなのだろう? ……どうにかして救いたかったが、敵わなかった」
 アンドレアスは首を動かし、滑走路の脇に広がる林を一瞥した。
 リオもまた林の中に目を凝らし――小さく声を上げそうになる。倉庫の横――崩れた瓦礫が散乱する芝生の上には、バラバラになった人体の一部が小山となっていた。教会に火を付けたオスティナトゥーアの人たちのものだろう。四肢を切り離されたそれは、さながら公園に置かれたオブジェのようだった。
「彼らは皆、ダリウス大司教――大禍と『誓約』を交わしていたようだ」
と、アンドレアスは乾いた声で囁いた。その声は冷たく、どこか達観している。彼は元軍人だ。いつか見た、戦場での風景を重ねているのかもしれない。
「ハイゼ神父には先ほど、別れを済ませて来たよ。遺体を安全な場所まで移動させたかったのだが……出来なかった。これも謝らなくてはならないな」
 悔しそうに口元を噛み締める神父に、リオは涙をこらえて、ぶんぶんと頭を振った。
 神父は困ったような顔で再び微笑み――不意に表情を引き締めると、
「『神の意志』の力の流れを、中央管理塔の上から感じる。君はそこに向かう気か?」
「はい」
 迷いなく応えるリオに、アンドレアスは片膝を立てて丸まっていた背中を伸ばすと、背後の柱に押し付けた。旋回するプロペラの方へと顎を向け、
「古い複葉機だな。高度が心配なら、私がサポートしよう。風の<奇蹟>《エレメンタム》を持つケムエルならば、この不安定な気流の中でも飛び立てるはずだ」
 僧衣をまさぐり、中から五杵鈴《ガンター》を取り出す。カラン、と涼やかな音色が薄闇に染み入るように流れると、風を身にまとった天使ケムエルが姿を現した。
「……神父は、僕を止めないんですね」
 リオが不意に、静かな声で尋ねた。どうしてそんなことを聞いてしまったのか、リオ本人でさえ解っていなかったようだった。それは、ただ不思議に思ったことをそのまま聞いてしまった、そんな調子だった。
 アンドレアスは口元を歪めて、「止めて欲しいのか?」と苦笑気味に言った。
「君は、ハイゼ神父と私の教え子だ。まだ心配な面もあるが、もう一人前としてやっていけるだけの力量は備えていると思っている。ハイゼ神父も生前仰っていた。あれは良い審問官になる、と」
「ハイゼ神父が?」
 驚きリオが尋ねると、アンドレアスは真剣な顔で頷いた。
「君が行くと決めたのなら、私はそれを止めはしない。……それに」
 そこで言葉を切ると、アンドレアスは疲れた顔で、
「先ほどの……あそこまで悔しげな君の顔は、初めて見た。君がそこまで悔しがるとなると、まぁ、思い当たる状況はそれほど多くない」
 リオは一瞬、蒼い瞳を大きく見開き――ぐっ、と口元を噛み締めた。目元には大粒の涙が浮かんでいた。アンドレアスが再び、困ったように笑う気配がした。
「ケムエル。彼らが塔に着くまで、力を貸してやってくれ」
 透明な青年の姿をした天使が、頷きを返す。そのまま腕を振り、『神の意志』の力を振りまいた。
 ――風の流れが変わる。
 轟々と鳴り響いていた周囲の風の音が止み、周囲のざわめきが鳴りを潜めた。リオは操縦席に座り直すと、ゴーグルをつけ直す。エンジンが再び出力を上げると、作業机の上に置いてあった設計図が煽られ、ばたばたと音を立てた。
「アンドレアス神父!」
 後部座席から身を乗り出したジブリールが、声の限りに叫んだ。
「良いのですか!? それ以上、力を使えば」
「構わん。いいから行け!」
 アンドレアスが声を張り上げると同時に、リオは機体を繋いでいたワイヤーのロックを外した。ブレーキを解除すると同時に、機体が前進を始める。ラダーを調整しながら滑走路のスタートラインにまで機体を移動させると、すぐ隣に座り込んだアンドレアスの姿が見えた。
「なぁ、ガブリエル。教えてくれ」
 不意に呼びかけられた名前に、ジブリールは驚いた顔でアンドレアスを見下ろした。
 長い睫毛を伏せ僅かに躊躇うも、先を促すように小さく頷く。
「……はい」
 アンドレアスは喘ぐように身を捩り息を吸うと、緊張に強張った声で尋ねた。
「この先。俺たち人間に、救いは訪れるのか?」
「……わたくしの口からは、何とも」
 ジブリールは姿勢を正すと、いつもとは少し違った声音で答えた。
「人の世は、確かに一度、道を誤りました。しかし、今この時も、正しき道を模索している者たちが居ます。幸福を求め足掻く者たちが居ます。空からは、彼らの姿は這いずり回る小虫ほどにしか見えないのかもしれません。それでも、女神はまだ人間という愛し子を、完全に見捨ててしまった訳ではない……。わたくしたちの存在が、それを証明しています。正しき道を見出せたのなら、いつか光溢れる日もありましょう」
 厳かで、優しく、透き通った声に、アンドレアスの傷だらけの頬が微かに引き攣る。強張った目元を綻ばせると、少年のように笑って、
「そうか。……それを聞いて、安心した」
 複葉機が離陸態勢に入る。プロペラがひと際高い音を立てた。
「我々は理由なく守られることに慣れ過ぎたのだ。今度は、我々がこの世界は守られるに足る世界だと、神に示さねばなるまい」
 小さく重たい声に、ジブリールは小さく頷いた。視線を戻そうとして、
「――アンドレアス神父!」
 大きな声に、アンドレアスが呆けた顔を操縦席の方へと向けた。
 離陸準備をしていたリオが立ち上がり、白い顔でアンドレアスを見下ろしている。その視線は、座り込んだ神父の腰元へと注がれていた。
 乱暴に頭上のライトを掴み、リオは神父へと光を向け――息を呑んだ。
 アンドレアスが着こんだ、分厚く野暮ったい真っ黒な僧衣――そこには数え切れないほどの穴が穿たれ――水を吸ったように、重たげにアンドレアスの身体に張りついていた。石畳には、夥しい量の血液が流れ出している。
 そしてリオを見上げる、その顔には、
「神父……その目は」
 固く閉じられたアンドレアスの両瞼には、乾いた血の跡が黒ずんだタールのようにこびり付いていた。アンドレアスは両瞼を閉じたまま、唇の端を吊り上げ、皮肉めいた笑みを作った。
「『大禍』に審問された結果だ。都市が犯した罪を見逃すような節穴の目など必要ないだろう、ということなのだろう。全く、情けない」
「……離陸は後です。神父。せめて応急手当を」
「思い上がるなッ! 馬鹿者!」
 張り上げられた怒声に、エンジンにかかったリオの手が止まった。アンドレアスは驚きに固まったリオの顔を見上げ、苦しげに、
「全てを救えるなどと、思うな。お前の小さな手では、掬える量は限られている。そうだろう?」
 操縦席のリオは、驚いた様に目を見開き、しばし呆然とアンドレアスの顔を見つめていたが――歯を食い縛り、こくんと小さく頷いた。
 エンジンのスロットルを最大まで開く。ブレーキを外すと、機体がゆっくりと加速を始めた。流れていく景色の中で、風に乗ってアンドレアスの声が聞こえてくる。
「リオ! 審問官に必要な素養とはなんだ!」
「……ッ、人の痛みを、知ることです!」
 迷いの無い速さで、リオが答える。それは何度も二人の間で繰り返されてきた問答。問われては、いつもリオが答えられなかった問だった。
「痛みを知らない審問官に、人を裁く資格は無いから……!」
 力の限りに、リオは声を張り上げた。
 離陸態勢に入った複葉機は、着実に加速を強めていく。流れる風の中で、アンドレアスの満足げな声を聞いた気がした。
 ジブリールは後部座席から操縦席の計器を覗きこんだ。複葉機はハンガー前の芝生から開けた林道を抜け、公園の遊歩道に出る。凸凹のついた滑走路の延長は、二百メートル弱。まずは離陸出来るかどうかが運命の分かれ目となる。
「大丈夫です。きっと……」
 操縦席のリオが前を向いたまま、シートの上に置かれたジブリールの手に自身の手を重ねた。細い肩が震える。ゴーグルの間から零れた涙が後方に流れた。
「アンドレアス神父がサポートしてくれるんです。何も、心配はいりません……!」
 遊歩道が途切れ、縁石を乗り越え芝生に出る。尾輪が持ち上がる。リオは操縦桿を、ゆっくりと手前に引いた。

 ――二百メートルの滑走路を目いっぱい使った複葉機『フェアリー・ソードフッシュ』は、重たい風に都合四枚の翼を軋ませながら、離陸速度百十五キロで、第四階層上空へと飛び上がった。

   ※   ※   ※

 気付けば、夜の湖に私は立っていた。
 ふくらはぎの辺りに感じる、冷たい水の感触。剥き出しの腿を、涼やかな風が通り過ぎて行く。水面には無数の星が輝いていて、頭上にはぬるりと湿った夜の空が拡がっていた。
 湖に映っているのは『私の世界』だ、と私は思った。
 誰から教えられた訳でもなく、私はそれを知っていた。
 水面に無数に輝く星は、この世界で起こる輝かしいこと、楽しいことを表している。
 世の中にはまだ、私の知らない、たくさんの輝きが無数に散りばめられていた。思わず見惚れるけれど、私は『私の世界』が輝きだけで満たされている訳ではないことを知っている。
 幾千の星々は、いわば砂漠に落ちた砂金のようなもので、探し出すことは容易ではない。水面に映る光は無数にあれど、割合で言うならば周囲に広がる夜の静寂《しじま》の方がずっと多い。水面に映った夜空は、世の中にある辛いこと、嫌なこと、哀しいことを表しているのだった。
 私は水面が返す光を受けながら、夜の向こうを見通そうと目を凝らす。そこに何らかの意味を求めるように。
 のっぺりとした表面を持つ、底の見通せない夜の部分。しかし、それはどこまでもどこまでも続いていて、それだけで私の心を孤独にさせた。
 私は湖の中を歩き出した。
 波紋が立ち、のっぺりと粘性を持った黒い水面が揺れる。星が瞬き一瞬消えて、けれどまた変わらぬ光を投げかける。
 怖かった。
 星の光は無数にあれど、それだけでは私はこの夜に留まることは出来なかった。
 もっと大きな光が欲しかった。
 手が届かなくても、触れられなくてもいい。夜の闇の中でそっと傍に居てくれる光さえあれば、私はきっと夜を越えて行ける……。
 冷たい水に足先の感覚が失くなり、腿がだるくなって来た頃、少し先にひと際大きく輝く光が見えた。
 近寄り、そっと覗きこむ。それは湖面に映った黄金色の満月だった。
 湖面に映った水月は、私が立てた波紋に微細に形を変えながら、優しい独眼のように私を見上げている。
私はたまらず手を伸ばした。すると水面が波立って、月が輪郭を歪ませる。私は不安に胸が締め付けられて、動けなくなった。あまり水面を揺らすと月が消えて、無くなってしまうのではないかと怖くなったのだ。
 例え勇気を出して触れても、きっと湖面の月は掴めない。ゆらりと形を崩して揺れるだけで、私を孤独にさせるだろう。
 月は変わらず水面で揺れている。
 それなら、触れられなくてもいい、と私は思った。
 例え触れられなくても、傍で私を照らしてくれるだけで良いのだ。例えその輝きが実は私に向けられたものでは無かったのだとしても、それでも。
 儚い湖面の水月。
 その光が届く限り、私は暗い夜の中も歩いていける。

 そっと伸ばした手に水月を透かして見下ろした瞬間――夜を切裂く獣の遠吠えのような声に、湖面を彷徨っていた私の意識は、吸い込まれるように水底深くへと引き摺りこまれた……。


 瞼を開いた瞬間、飛び込んでくる、様々な赤い色彩。
 遠くに広がる、夕暮れを写したような天蓋スクリーン。
 大気を焦がしてちらつく灼熱の残り火。
 粘つく血が広がる冷たいコンクリート。
 そして、
「あああああああ――――!」
目の前の女の細い身体から滴り落ちる、鮮やかな血の、赤。
 身の毛もよだつような絶叫を振り絞り、レオパルトは細い喉を逸らして身を捩った。全身に突き刺さった短剣そのままに、細い首を掴み上げる野太い腕に爪を立て、黒革の巻かれた両手足を出鱈目に振り回す。
 手足を昆虫の節足のように蠢めかす度に、ぱらぱらと血の雨が降り落ちた。
 真っ赤に色付く蕾と、触れる者を傷つける茨の棘。それは鮮やかな薔薇の花にも似ていて、
「はははははははは!」
 その向こうにそびえる黒い壁が、張り上げるように声を上げ笑った。恫喝しているような、泣いているような、無理に作ったような声だった。
 まるで影絵の劇のようだ、とフレデリカは思った。
 宙吊りにされて揺れる細い影と、奥にそびえる巨大な黒い壁。それは、十字架に首をかけて吊った父の姿にも似ていて――。
 吐き気が込み上げてきて、身体を折って嘔吐く。
 コンクリートの床面に映る影絵が動いて、黒い壁から生えた野太い腕が、吊り下げられた細い身体を貫いた。茨の棘が一本増える。
 細い影が、再び獣の咆哮を上げた。
 その細い身体から、どうしてこんな声が出せるのだろう、というような凄まじい声だった。びくびくと震える手足。全身に巻かれた黒革がズレて、嘘みたいに白い肌が微かに覗いたのが、やけに生々しかった。真っ黒な壁が再び、狂ったような哄笑を上げる。
「はははははは、まさか、修道服の下に爆薬を仕込んでいたとはなぁ! どんなしつけをしやがったんだ、山狗め!」
 ――爆薬?
 そう思って見渡してみれば、周囲は爆撃を受けたかのような有様だった。屋上のコンクリートは所々が吹き飛び、そこかしこに破壊の爪痕が残っている。
 レオパルトほどではないが、大禍もまた満身創痍といった姿だった。重たげな僧衣は破れ、呼吸は激しく乱れて、耳の辺りから大量に出血している。
 女の首を掴む白手袋が鬼火のように揺れ、女の身体を無造作に放り投げた。まるで濡れた雑巾のように、レオパルトの細い身体は地面を転がる。幼い頃に見た、車に敷かれた野良犬の姿が脳裏を過ぎる。
 大禍は痛みに顔をしかめながら、天を仰いで浅い呼吸を繰り返した。まるで地獄を踏破しようと挑む罪人のようだった。足元に、白いもやが纏わりついている。一瞬、それが若い女の腕のように見えると、大禍の顔が何かを恐れるように引き攣った。
「ちっ……! 寄るな!」
 怒声を張り上げ、黒いブーツでもやを踏みつける。
 ――どうしてこの男は、ここまでして人を裁くのだろう。
 と、フレデリカは思った。こんな亡霊に付きまとわれてまで、どうして。
「それが契約だからだ。贖罪《救い》を求める者に、等しく罰を与える、というな」
 『大禍』は押し殺した声で言って、真っ直ぐにフレデリカを見下ろした。その姿はどうしてか、深い悲しみに彩られているような気がした。
 血を流し過ぎた為だろうか。意識が朦朧として、目のピントがずれる。壁のように立つ僧衣の男が、いつの間にか苦悩に顔を歪ませる父の姿に取って代わっていた。
「お父、さん……」
 見上げ、掠れた声で呟く。
 男の顔が哀しそうに歪み――不機嫌そうに舌打ちして背を向けた。未だ血まみれの耳をうっとうしそうに撫で、
「……ん?」
 訝しげに顔をしかめ、周囲へと視線を走らせる。
「何だ。この音は……?」
 音のする方を追って頭上を振り仰ぐ。フレデリカもまた、無意識のうちにその視線を追って――ぎょっ、と目を見開いた。
 それまでどこか現実味を欠いていた赤く呪われた世界が、鮮やかな色彩を取り戻す。黒ずんだ空と、灰色の中央管理塔と、真っ赤に燃えるスクリーンと――その中を一直線に切り裂く、複葉機。
 遠く逆巻く風の音。むせかえるような血の臭い。鈍く痛む失くした右腕。なだれ込むように襲いかかって来たそれら感覚さえも通り過ぎて、見覚えのあるくすんだ黄色い機体に釘付けになる。
 空を見上げたまま、呆然とその機体の名前を呼んだ。
「フェアリー・ソードフィッシュ……?」
 ――夢を見ているのだろうか。
 二人で惜しみない時間と情熱を注いだ自慢の愛機。二人の夢を象徴した自由の翼が今、ワイヤーの拘束を解かれ、狭い都市の空を縦横無尽に飛び回っていた。

   ※   ※   ※

 ――横から叩きつける乾いた風は、まるで機体をばらばらに引き裂かんと振り下ろされる巨人の槌のようだった。
「……ッ、何て風だ」
 操縦席を引きつけるように握り補助翼《エルロン》を、左のペダルを踏み込み方向舵《ラダー》を制御して機体が流されないように保つ。上空の気流は想像していた以上に強く、まるで密閉構造を持つ籠型都市の只中に、嵐が出現したようだった。ぱらぱらと風防を叩くのは、砂漠で巻き上げられた砂が強化ガラスを叩く音だ。空調制御装置には、不純物や病原菌、雑菌などが入り込まないように幾重ものフィルターが設置されている。この行き過ぎた換気は、空調制御装置によるものではないのは明らかだった。
(誰かが大型船就航用の格納扉を開いたのか? だとしたら明らかな失敗だ)
 リオは円周上に旋回しながら、都市の外郭部を見渡す。しかし、どの位置の格納扉が開いているのかまでは解らなかった。
 格納扉を開いた人間は、このままでは都市が黒煙で溢れてしまう、とでも思ったのだろうか。あるいは、そこから外に出ようと思ったのかもしれない。しかし、どちらにしろそれは失策だ。特に今日に限っては、それは絶対に選択してはならない方策だった。間の悪いことに、都市の外は災害級の大嵐の真っただ中にあったのだから。
 外殻の操作は通常、中央管理塔の職員が行っているが、彼らが外の状況も確かめずに扉を空ける様な真似をするはずが無い。そもそも、『大罪事変』以降の大災害から身を守るために設計された籠型都市の外殻を開放すること自体が、都市防衛思想に反しているのだ。
「大禍に襲われた時に、都市の制御系統を手動に切り替えたのか……? けど、これじゃ逆効果だ。早く外殻を締めないと」
 各階層に設置された地下シェルターの入り口には、多くの人々が列を無し、途方に暮れたように空を見上げている。都市の外に逃げようにも、外の嵐が凄まじく、外に出られないのだろう。都市の地下シェルターには、全ての住人を格納できるだけの広さは無い。
 リオは苦しげに胸を押さえて、七階層からなる都市のプレートを見渡した。
 強化ガラスで造られた天窓には、黒煙が入道雲のようにたち込め、元は白かったスクリーンは、下界の炎を映して真っ赤に染まっている。主に外縁部から上がった火の手は暴風に煽られ、着実に避難する人々の列へと迫っていた。
 ――まるで地獄だ。
 上空から俯瞰して初めて、リオは都市が陥っている状況が想像よりも遥かに逼迫していることに気付き、顔を青褪めた。
「誰か聞こえませんか? 審問官のリオ・テオドール・アルトマンです!」
 航空無線を調整して、根気強く無線を飛ばしていると、避難誘導中の警備兵の一群と繋がった。陀一階層から第二階層で交戦中との舞台に、大まかに事情を説明する。
『了解した。すぐに外縁部周辺に居る舞台に格納扉を締めに向かわせる。リオ審問官。そちらの状況は?』
「僕は、『大禍』を止めるため、中央管理塔屋上へ向かいます。すみませんが、そちらの方はお願いします」
『……了解した。幸運を祈る』
 機体はようやく、中央管理塔の上空に差し掛かった。ぐっと高度を落として、塔を中心に旋回を始める。
(きっと居るはずだ。きっと無事で……!)
 リオは目を凝らして、塔の屋上を見渡した。ちらちらと揺れる炎の中に、幾つかの人影が見える。
 一つ、二つ……三つ? いったい誰だ? 目を凝らすと、こちらを真っ直ぐに見上げる少女と目が合った。
 ――リオ、来ちゃダメ。
 震える声が、聞こえたような気がした。
「フレデリカさんです! フレデリカさんが居ました!」
 ジブリールがはしゃいだ声を上げて、屋上を指差す。しかし途端に顔を曇らせて、
「けれど、この風では……着陸なんて、とても」
 轟々と吹きつける風は強く、空から見れば着陸地点である塔の屋上は酷く小さく見えた。失敗すれば、塔から真っ逆さまに落ち、地面に叩きつけられる。
 轟々と吹きつける風が、旋回する複葉機を細かく揺さぶる。
「ジブリールさん。僕、凄くショックだんたんですよ」
リオは掠れた声で呟いた。その視線は真っ直ぐに、屋上に佇む一つの人影に注がれている。
「僕たちは傍にいるようでいて、全く解り合えていなかったんです。これで終わりなんだと思うと、悔しくて堪らなかった。このまま朽ちて死んでしまってもいいとさえ思った。……あんな気持ち、僕の内側から出てきたなんて、とても信じられなかった」
「リオ……さん?」
 初めて、彼女との間に横たわっている壁の存在に気づいた。それは思っていた以上に冷たく高い壁だった。けれど、
「僕は、彼女の気持ちをきちんと受け止めたい。そして、僕の気持ちを伝えたい」
 リオはラダーペダルを力いっぱい踏み込んだ。機体が横滑りに流れて、機首を中央管理塔の正面につける。フラップを降ろして、強引に着陸態勢に入ると、機体は産まれたばかりの雛鳥のようにふるふると震えた。
 複葉機は黒煙の中を切り裂いて、一直線に塔の上を目指す。
「――――っ!」
 バランスを崩して座席にしがみついたジブリールの目に、光の粒子が降りかかる。
 顔を上げるとそこには、薄らと顕現したマグノーリエの姿があった。

   ※   ※   ※

 触れられそうなほど低くたち込めた黒煙の雲の中から、一筋の光が差し込む。
 いつもよりずっと暗い空を照らす、複葉機の探照灯《サーチライト》。低く唸るような音を発しながら、一機の複葉機が姿を現した。
 それは十分な減速を行わないまま、叩きつけられるように塔の屋上へと降り立った。塔の縁石に車輪が触れ、車軸が折れて機体が傾いた。瞬間、機体の正面から殴りつけるような重たい風が吹き付け、煽られた機体は急速にスピードを緩める。まるで神様がその手で、複葉機を受け止めたようだった。
 塔の上に鳥のように降り立った機体は、激しい擦過音を響かせながらコンクリート造の屋上を削り取って進んだ。車輪が跳ねて飛び、プロペラが機首の下になって粉々になり、主翼がへし折れて傾く。火花を散らしながら屋上を対角線上に横切って反対の縁にまで進むと、操縦席から伸びた緑色のアンカーが屋上へと突き刺さり、ぴん、と伸びた。複葉機は大きく蛇行すると、ようやく無く静止した。
「今の風は……アンドレアスか」
 大禍が忌々しげに呟き、両手の白手袋を嵌め直す。
 原形を留めぬほどに損傷した機体の風防が開き、白い煙を上げる操縦席から、一つの小柄な人影が飛び出した。
 床に座り込んだフレデリカが、泣き出しそうな声でその名前を呼ぶ。
 ぱたぱたと、割れた額からしたたる血で顔を汚しながら、
「……フレデリカ?」
現れた少年審問官は、ただ真っ直ぐに、片腕となった幼馴染の姿を見詰めた。







(>∀<)ノぉねがいします!



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