■光輝天球B

「フレデリカ……君、その腕」
 轟々と渦巻く風の音が、ほんの一瞬、止んだような気がした。辺りは静まり返り、ただ心臓の音が強く聞こえている。ドク、ドク、と脈打つたびに、視界が赤く狭まっていく。
「……――っ」
 青褪めたフレデリカが微かに口元を動かし、リオの立つ方へ手を伸ばした。意識が朦朧としているのだろう。焦点の合っていない淡褐色《ヘイゼル》《ヘイゼル》の瞳は、何かを伝えようと悲しく揺れている。白い陶磁器のような頬を、透明な涙がはらはらと伝い落ちた。
 全身を、電流に似た何かが駆け抜けた。
 ぞわぞわと産毛が逆立ち、頭蓋のスクリーンが真っ白な閃光で満たされる。今にも奔り出そうとする身体を抑えて上げた視界の真ん中で、
「この悪条件の中、よく無事に塔に着陸できたな。褒めてやるよ」
不吉な夜色の僧衣が気怠げに揺れる。
 細かいコンクリート片で汚れた僧衣を払うと、男は襟を正しニヤリと笑った。リオはその気安い声には答えず、ひたと大禍を睨みつける。
 風が逆巻き、リオの白い僧衣を揺らした。周囲がざわざわと賑やかになる。
「ほう――」
 大禍が僅かに片眉を上げ、嗤っているような、感心しているような、何とも言えない顔をした。微かに細めた濃い鳶色の瞳が、ぎらぎらと冷たい光を映している。
 逆巻く風は、リオを中心に巻き起こっていた。発散された『神の意志』の力が、気流に影響を及ぼし、大気の密度を目まぐるしく変えていく。
 リオは、熱く波打つ流体が血管を満たし、全身を目まぐるしく駆け回っているのを感じていた。身体が内側から膨れ、どこまでも拡がっていくようだった。
 ――今この時、リオの周囲には、『審問法廷』を開いている時の数倍ともいえる『神の意志』の力が満ち溢れている。
「『神の意志』の力を審問官の力だけで汲み上げるか。大したものだ。司教クラスの者と比べても遜色ない」
 大禍が笑みを深め、虚空から銀の短剣を掴み取る。
 リオはフレデリカと大禍を結ぶ直線の、その中間に立った。手の中に喚び出した聖書《レリクス》の、常磐色《エバーグリーン》の下地に金の刺繍が施された表紙へと指を這わせ、
「――リ、オ」
よく耳に馴染んだ――けれど今まで聞いたことがないほどに震えるか細い声を聞いた。
「来ちゃダメ……リオ」
 細く小さな、けれど必死に訴えかけるその声は、悪夢に魘される子供のそれに似ていた。
「……逃げて」
「それは出来ないよ。フレデリカ」
 訴える声に、リオは背を向けたまま答える。低く押し殺したそれは、どこか冷たい響きをもっていた。
「君をそんな姿にさせられて、どうして何もせずに居られるんだ。僕はそんな薄情な人間じゃない。それとも君は、僕をそんな人間だと思っていたのかい?」
 強く吹き付ける風に、リオの細い金色の髪が嬲られるように揺れる。拡がる赤い空。頭上にはもくもくと黒い雲が盛り上がり、さながら世界の終末の様相を呈している。
 フレデリカが戸惑ったように息を止めた。
「どうして怒ってるの……?」
「怒るに決まってるじゃないか!」
 強い声に、フレデリカがびくりと身体を震わせるのが解った。
「君はいつだってそうだ。学校の宿題とかどうでもいいことは何でも僕に相談するくせに、肝心なことはいつも一人で決めるんだ。勝手に一人で環境制御装置《ラケシス》を止に塔を上って、勝手に僕一人を塔の外に放り出して……そんな姿になって。君は馬鹿だ。大馬鹿だ! そんな君の言う事なんて、もう聞けない」
「……ダメだよ」
 掠れた声は、今にも消えてしまいそうだった。
「リオは、死んじゃダメなの。私のせいで、あんたまで死んじゃ。あんたは『特別』だから。みんなが、期待してるんだから」
「僕は特別なんかじゃないよ」
「特別だよ。……私とは、違うんだよ」
 うわ言のように呟く声が、最後の方は消えてしまう。リオは堪えきれずに振り返った。力なく座り込んだフレデリカは、焦点の合わない瞳で、じっと冷たいコンクリートの床を見詰めていた。呼吸は浅く、肌には生気が無い。額には大粒の汗が浮かび、色の無い唇は「逃げて」と繰り返している。
 リオの顔がくしゃりと歪む。弱り切ったその姿は、病床で息を引き取った母の姿に似ていた。
 ――ああ、神様。
 祈るような想いで手の中の聖書《レリクス》を握りしめる。
 一体、彼女がどんな罪を犯したと言うのでしょう。どうして、こんな罰を受けなければならないのでしょう。
 悲しくて、辛くて、胸が締め付けられるように痛くて。すぐにフレデリカの下へと駆け寄り、その細い身体を抱き締めたくなる。
 けれど、それは許されなかった。
 視線を戻した先には、銀の剣を気だるげに揺らす、殺気に満ちた大禍の姿がある。
「君が僕を『特別』だと言うのなら、それでもいい。それなら僕は、自分の『特別』を守るだけだ。僕にとって『特別』な君を」
「……私が、『特別』?」
 フレデリカが、まるでその簡単な言葉の意味が解らない、と言うように不安げに聞き返した。
 その声はいつもよりもずっと幼くて、リオは子供の頃に過ごした、教会の小さな庭園を思い出す。
 ――あの頃からずっと、真っ直ぐで、不器用で、怒りんぼで、けれど落ち込みやすい、頑張り屋な君が僕にとっての『特別』だった。君は、僕がどれほど君に励まされてきたのか、知らないんだろう?
 夜遅くまで審問官の勉強していて眠くて堪らない時、いつも君のことを思い出した。学校に通いながら、一人で教会の雑務をこなし、大人たちに交じって機械工の仕事をしている君ことを思うと、僕も頑張らなくちゃと思えた。
 母さんが亡くなった時もそうだ。幼い頃に同じように母を亡くし、瞳いっぱいに涙を堪えて、それでも真っ直ぐに前を向いて葬列に加わっていた君の姿を見ていたからこそ、僕は立ち止らずにここまで来れたんだ。
 そして君は、何より僕に夢をくれた。
 一緒に外の世界を見に行こう、という夢を――。
「立ち止りそうになる僕の手を引っ張って、外の世界に目を向けさせてくれたのは、いつだって君だった。壊れて動かない複葉機を修理して、これで一緒に海を見に行こう、と言ってくれたとき、僕がどれほど嬉しかったか、君は知ってる?」
 しっかりと、フレデリカの瞳を見詰めて想いを口にする。
 フレデリカが淡褐色《ヘイゼル》の瞳を僅かに見開いた。瞳の焦点が合い、リオを映すと、フレデリカは白い顔を哀しげに伏せた。
「違うよ。私なんか、『特別』じゃないよ。……神父の娘なのに、私には天使が来てくれなかった」
「……フレデリカ」
 いつだって受け取ってばかりだったから、気づかなかった。僕の隣に居ることで、彼女が傷ついていることに。彼女はたくさんのものをくれたのに、僕は何も返せていない。
「そんなもので、人の価値は決まらないよ」
「そんなもの、じゃないよ。……凄く、大事なことだよ」
 苦しむ彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れる。
 僕は自分の選択が間違っていたことに、気付いた。
 ずっと勘違いをしていた。
 相手のことを理解するには、相手の言葉を聞き、意志を汲み取って、その通りにして上げるのが良いのだと思っていた。けれど、そうじゃなかったのだ。一方通行じゃ駄目なのだ。お互いに言葉をぶつけ合って、例えそれで傷ついたとしても、僕たちは同じ答えを探すべきだったのだ。
 たくさんの人が、互いを思い合い、結果的に互いを傷つけた。ハイゼ神父が、父さんが、あるいはオスカーさんが――。今のこの状況を誰が望んだ者は、一人も居なかっただろう。最良と思えた選択はしかし、悲劇をもたらした。
 そして今――選択の機会は僕の元へと訪れた。
 僕たちは神様じゃない。
 未来を見通せないから、手持ちの欠片《ピース》で、最良の未来を描かなくてはならない。最良の未来を――。
「君は『特別』だよ。フレデリカ。少なくとも、僕にとっては」
「……違うよ。私は、『特別』なんかじゃない」
「僕が何が『特別』かを決める権利は、僕だけにある。例え君でも、僕の大切なフレデリカを蔑にするのは許さないよ」
「リオぉ!」
 僕の両手には、抱えきれないほどの想いがある。
 父さんも、ハイゼ神父も、アンドレアス神父も、クレーエさんやフレデリカ、そしてたぶん、母さんや都市のみんなだって――たくさんの人が僕に、期待を預けてくれた。頑張れって背中を押してくれた。僕はその期待に応えなくちゃ、とそればかりを考えて、思うように応えられない自分が、ただただ恥ずかしかった。けれど……。
 誰かが言ったからとか、誰かのためとか、そんなのじゃなくて。
 未来が予測不可能で、結末を見通すことが出来ないならばこそ、僕は僕自身が正しいと信じた道を進みたい。
「行かないで……」
 一歩を踏み出したその足に、囁くような声がかかる。
「行かないで。リオ」
 涙で濡れた、幼馴染の女の子の辛そうな声。
「傍に居て。私を、一人にしないで」
 絞り出すようなその声に、踏み出した足が動かなくなる。
 ――今の言葉が、決して本心から出たものではないことを、僕は知っている。彼女は、自分の不安を紛らわすために、こんなことを言う子じゃない。
 ここで逃げて、それで何になる? 僕たちはどこへも行けやしない。僕たちは未来を掴み取るために、闘わなくちゃいけない。行く手を阻む、大きな壁と。
 恐怖に竦みそうになる足を、理性で抑えつける。
 みんなから受け取ったたくさんの想いが、踏み出す勇気をくれる。
 いつも通りの自分に見えるように、精いっぱいの笑顔で振り返った。
「待ってて。フレデリカ。全部終わらせて帰ろう。かけがえのない、穏やかなあの日に」
 その時、そこに僕が居なかったとしても。
 それでも、君が穏やかに笑ってくれるなら――。
「リオ――!」
「来い! 『英知の探究者』マグノリア!=v
 叫んだ瞬間、雷が落ちたように全身を衝撃が走り抜けた。痺れた指に引き攣るような痛みが奔り、雷鳴を轟かせながら顕現したマグノーリエが、肩の上で怒りに震える甲高い咆哮を張り上げる。
 毛細血管が破れるほどに溢れる力の濁流に、心臓が狂ったように鼓動を刻む。
 『限界動作《オーバークロック》』。
 天使固有の名前《コード》を鍵《キー》として、管理教会《コミュニティ》によってかけられた制限《リミッター》を解放するそれは、天使に膨大な『神の意志』の力を行使させることを可能とする――。
 ただし、それは天使としての限界値であり、その膨大な力を共有する審問官のことは考慮されない。
 視界が霞み、音が遠くなる。額に負った傷から血が溢れ、喉を伝った。
 ――何かを得るためには、代償を支払わなくてはならない。
 それは、この都市の未来を選択した先達たちが、痛い程に強く教えてくれたこと。
 許された時間は、五分弱。
 その僅かな時間で、僕は目の前の審問官を問い殺す。
「これより、審問法廷を開始する。――開廷!」

   ※   ※   ※

 リオから遅れること、およそ五分。ひしゃげた複葉機の機体から、こそこそと這い出す白い影があった。
「ごほ、ごほ、生きた心地がしませんね……」
 薄いヴェールと金砂の髪にかかったホコリを払い、手鏡を覗き込んで情けない顔になる。頬についた油と真っ黒な煤を拭って顔を上げると、屋上の中央に争う二人の審問官の姿が見える。
 ジブリールは二人を何か遠いものを見る様な目で見つめると、迷いを振り切るように駆け出した。
「大丈夫ですか? フレデリカさん」
「ジブリールさん、リオが……」
 コンクリートの床にぺたんと座り込んでいたフレデリカは、今にも泣き出しそうな顔でジブリールを見上げた。数時間ぶりに見たフレデリカの顔には、色濃い疲労と焦燥の色が浮かんでいた。闘う二人の審問官の姿を見守る横顔は、驚くほど白い。
「大禍のことは、リオさんにお任せしましょう。今はそれよりも、貴女の治療の方が先です。……腕、少し見せて戴きますね」
 言うなり、ジブリールはフレデリカの隣に座り込み、痛々しい切断面を見せている右上腕部に顔を寄せた。
「天使の執行だけあって、切断面は綺麗ですね……。出血も治まっているようですし、これなら」
 眉ひとつ動かさずに傷を検分すると、強張っていた表情を微かに緩める。
 『四肢を斬り取る』執行は、他の刑に比べると相当に厳しい部類に入るが、それら刑の執行の目的は肉体の自由を奪うことにあるのであって、肉体的苦痛を与えることにあるのではない。
 よって、天使の執行よって作られた切断面からの出血は、通常の傷よりもずっと少なく、それが原因で命を落とす者もほとんど居ないのが普通だった。
「……止血の必要がない程に傷が塞がりかけているのは、さすがダリウス・ロンブルといったところですね。簡単にですが、応急処置だけしておきましょう」
 ジブリールはまとっていたヴェールを切り裂くと、それを包帯代わりに簡単な止血を行った。気休め程度ではあるが、痛々しい切断面が隠れるだけでも随分と違う。
 ぎゅっと縛られる感覚に、フレデリカが辛そうに身を捩った。
「ジブリールさん、私のことはいいから、リオを」
「聞いてください、フレデリカさん」
 暴れるフレデリカの肩を押さえつけ、顔を寄せる。真剣な翆緑色の瞳に、フレデリカは魅入られたように息を止めた。
「この状況を打破するには、誰かがそれを成し遂げないといけないんです。リオさんは、強い覚悟の下にここに辿り付きました。この悪天候の中、飛行機を操縦して塔の上に着陸することが、どれほど難しいことか、貴女にはよく解るでしょう?」
 諭すような声に、フレデリカの顔がくしゃりと歪む。泣きだしそうになって、けれど何かを堪えるように俯いて、口元を噛み締めた。
 ジブリールの細く冷たい指が、労わるようにフレデリカの透き通った頬を撫でる。
「ジブリールさん」
「何ですか?」
「私、聞いたんです。レオパルト……オスカーさんの用心棒から。あいつが、クレーエが」
 それ以降は言葉にならず、フレデリカはえづいて、ぎゅっとジブリールの服の裾を握り締めた。微笑を浮かべてたジブリールの表情が、すっと固まる。けれど、すぐに小さく笑って、
「大丈夫ですよ。殺したって死ぬようなヤツじゃないですから」
 いつもの優しい……けれど、どこか強張った声で言って、二人の審問官へと視線を向ける。祈るように片手を胸に押し当て、
「……信じましょう。奇蹟を」
「奇蹟なんて言葉、僕たちが軽々しく使うものじゃないよ」
からかうような少女の声に、弾かれたように顔を上げた。
 所々が錆びついた鉄製の扉と一体化した、エレベーターの昇降機塔……二メートルほどの高さを持つその建物の上に、ゆらゆらと揺れる影を見つける。
そこに居たのは、一人の少女だった。
 歳の頃は、十ほどといった所だろうか。肌理の細かい褐色の肌を持った、綺麗な顔をした少女だった。子供らしい微笑みを浮かべながら、昇降機塔の上に腰を下ろし、ぶらぶらと褐色の素足を揺らしている。
茫然と見上げるジブリールと目が合うと、可愛らしく小首を傾げ、微笑む。一本にまとめた濡れたような黒髪《ブルネット》が肩の上で揺れ、ちろちろと揺れる赤っぽい瞳――光の加減だろうか――が、悪戯めいた光を湛えて、ジブリールを見下ろしている。
「せっかく忠告してやったのに、のこのこ現れちゃって、まぁ」
 少女が呆れたように肩をすくめる。
 ジブリールの顔に、さっと驚きが走った。
「……あなたは確か」
 ジブリールはその東洋人の少女に、見覚えがあった。
 そう。あれはこの都市へとやって来てすぐ――クレーエの姿を探して、オスカーの商館へ向かった時のことだった。門扉のすぐ近くに生えた一本の常緑樹の脇で、ジブリールは彼女の姿を見つけた。
 少女は真っ黒で質素なドレス姿で、つまらなそうな顔で美しい銀のナイフを弄りながら、絵画を運ぶ召使いたちを見つめていた。東洋人とは珍しい。この屋敷の召使いの子供かしら、と思ったので、記憶に残っている。
 直後、「絵画を傷つけられた!」と叫ぶオスカーの怒声によって、記憶は有耶無耶になってしまうが、その姿は見紛うはずがなかった。
 ジブリールの言いたいことが解ったのだろう。少女は赤い唇を吊り上げるようにして笑った。その年の少女が浮かべるには艶やか過ぎる笑い方だった。
「この都市へ来てから、こうして顔を合わせるのは二回目かな。改めて挨拶を。久しぶりだね、ガブリエル」
「あなた、まさか……イグニス?」
 ジブリールが思わず発した名前に、少女はニヤニヤとした笑みを返した。ジブリールは信じられない物を見るような目で、少女を見上げる。
「イグニス……? それって、大禍が連れている天使の名前じゃ」
 フレデリカが戸惑った顔で囁いた。
 確かに、小柄なシルエットは似てなくも無い。しかし、少女の姿は紛れもなく人のそれと同じだった。先ほど大禍の肩の上に浮かんでいた、人の形を模した半透明の光の塊ではない。
 フレデリカの視線に気づいた少女が、悪戯を企む子供のように愉しげに目を細めた。
「天使っていうのは、魂の段階で言うと人間より高次の存在でね。人間とは違い、肉体という外殻が無くても、霊体を劣化させずに保つことが出来る。つまり、肉体を必要としないんだ」
 鈴を転がしたような可愛らしい声に、フレデリカが怯えたように身を小さくする。
 ――ようやく思いだした。
 フレデリカは、以前にも彼女の姿を見たことがある。昨日の夕方、第二階層の大通りで、見たことも無いような激しい怒りの感情を浮かべて、こちらを見つめていた。水銀灯の明りに照らされた、炎のような揺れる真っ赤な瞳に映った強い憎しみの感情を、フレデリカはありありと思い浮かべることが出来る。
「大丈夫だよ。そんなに怯えなくても、君にはもう何もしないから」
少女は少し困ったように笑うと、両手を上げて肩をすくめてみせた。フレデリカは、自分よりも年下の少女とは思えない堂々とした姿に目を丸くする。
「さて。話を戻そう。……天使は肉体を必要としない。肉体が無いから、飢えや病気、寿命という概念さえも存在しない。存在し続けたいと言う自我がある限り、『神の意志』の力をエネルギー源として、幾らでもこの世界に留まり続けることが出来る。ただし」
「ただし、『堕天使』は例外――彼女たちは、神の加護から外れた存在。神の眷属に加われない魂は、肉体無しでは損耗を免れない。存在を保つには受肉――つまり、肉体と言う容れ物を纏う必要がある」
 ジブリールが冷たい表情で、淡々と言葉を継ぐと、少女は物語に出てくる魔女のように、にたぁ、と唇の端を吊り上げるようにして笑った。
「さすが、理解が早いねぇ」
「それじゃぁ、あなたは私たちと同じ……?」
「その通りさ。お嬢ちゃん。僕たち堕天使は、本質的には君たち人間と同じなのさ。傷つけられれば血を流すし、心臓を貫かれれば絶命する。『神の意志』の力を操れるっていうだけで、他は人間と変わらない」
 飄々と、どこか楽しそうにさえイグニスは語る。
「それが『堕天』。つまり、逆説的に言えば肉体を持った天使は、全て堕天使ということになる」
 イグニスの、ちろちろと冷たい炎を宿した真紅の瞳が、ジブリールを見つめる。ジブリールは厳しい表情で、その視線から目を逸らした。
「ま、いいや」
 イグニスが、ぴょん、とその場に立ちあがる。細い身体を伸ばして、ぐっと伸びをしながら、
「そうそう。この肉体ってやつだけどね、思ったより悪いものじゃない。睡眠ってやつは、たっぷりと取ると気分が晴れるし、食事も豪勢なものを取れば元気になる。肉体を持つがゆえに出来ることも、結構あるんだ。例えば」
 少女の身体が、ふっと視界から消える。ジブリールが大きく目を開くと、
「こんなことも」
すぐ耳元で、少女の声が囁いた。
 すぐに身体を捩るも、間に合わない。一瞬で背後に移動したイグニスは、腕を捻り上げると、ジブリールの身体を地面に押さえつけた。
 ジブリールは驚きに目を見開いたまま、息をのんで自分を拘束する少女の、真紅の瞳を見上げた。
「今のは、いったい……」
 警戒よりも、戸惑いの方が勝った。一瞬で背後へと回り込んだ、今の移動法……『神の意志』の力が流れる気配は感じたが、天使が使う奇跡《エレメンタム》の気配は感じなかった。奇跡《エレメンタム》とは全く異質の力の発現。これはまるで……。
「何を驚いているんだい? ガブリエル。人間ではない僕が、『神威《ゲニウス》』を使うことが出来るのがそんなに不思議かい?」
「『神威《ゲニウス》』? そんな、まさか」
「そんなに驚くほどのことじゃないだろう? 『神威《ゲニウス》』とは、昔から肉体に宿るものだと言われて来た。受肉した僕がそれを使えたとして、何の不思議もない」
「しかし、だからといって『空間転移』なんて……。神威《ゲニウス》の範疇を越えています!」
驚き声を張り上げるジブリールに、イグニスは煩そうに耳を塞いで、
「……まぁ、確かにね。僕たちはもともと、揺るぎの中に生きて来たようなものだけど、肉体まで揺るぎの中に持ち込めるとは、少しやり過ぎかもしれない。……けど、考えても見てよ。元は霊体だった僕らの方が人間よりも『神の意思』の力の扱いに長けているのは当然のことじゃないか。それを思えば、これくらい起こり得る範疇だろう?」
おどけた様に言うイグニスを、ジブリールは強い視線で睨み上げた。イグニスはケタケタと愉しげに笑うと、形の良い細い眉をひそめ、
「けど、この力も万能って訳じゃないんだ。とにかく、力を使うと疲れるんだよねぇ。今日は昼間に四回、夜になってからは五回も使ってるから、もうヘトヘトだよ。特にシェルターの壁を突破するのは骨が折れてね。おかげでガス欠起こして、こうして休んでるってわけ」
「シェルターの壁……? それって」
 思わず呟いたフレデリカに、イグニスは親しげな視線を向けた。
「そう。君も見てたでしょ? 市長が扉を閉めちゃったせいで、えらく苦労したんだよ。転移出来る範囲には限りがあるってのに、ダリウスってば、ここで逃がす訳にはいかないから、何としても追えって」
「饒舌ですね。貴女がそんなお喋りだとは知りませんでした」
勢いづいて喋るイグニスを、ジブリールの冷たい声が止める。ジブリールは身体を捩ってイグニスを見上げると、嘲るように笑って、
「それとも、肉体を持った天使は、余計なことまでベラベラと喋るようになるのですか?」
「……自分の胸に聞いてみれば?」
 イグニスの表情が冷たく凍る。次の瞬間、ジブリールは不可視の力で地面に押し付けられた。重力が倍加したかのように、身体が動かなくなる。
「うぅ」
 重圧は周囲にも及び、フレデリカが苦しげな声を上げる。
「イグニス、貴女……!」
「そんな怖い目で見ないでよ。そっちの子の方は、きちんと加減してるからさ」
 イグニスは淡々とした様子で言うと、凍える様な瞳でジブリールを見下ろした。
「君がそんな姿に身をやつしてまでここにやって来た理由を、僕は知らないし、別に知りたいとも思わない。けれど、大人しくしてて貰うよ。ダリウスの邪魔をされちゃ困るんだ」
「……いいのですか? 私を抑えている限り、貴方は宿主の元で天使としての力を振るえないのでしょう?」
「大丈夫だよ。僕が傍に居なくたって、ダリウスは負けたりしない」
 どこか誇るような声で、イグニスは言った。弾む声には、全く疑う響きが感じられ無い。
「あの審問官は、どう足掻いてもダリウスには勝てないよ。実力や経験はおろか、天使の階級も、奇蹟《エレメンタム》の相性でさえも、僕たちに不利な要素は無いんだからね。君だって知ってるだろう? <万能型>《フルユニバーサル》の奇蹟《エレメンタム》を持つマグノーリエは、こういう争い事には向かない。その点、さっきのケムエルの方がまだ愉しみ甲斐があったな」
 瞳に好戦的な光を宿して愉しげに語るイグニスに、ジブリールは、くすり、と笑みを漏らした。
 ぴくり、とイグニスの頬が微かに震える。
「……何が可笑しい?」
「本気で思っているのですか? 天使の力や奇蹟《エレメンタム》が、審問対決の決め手になると」
 険しい顔をしたイグニスを、ジブリールは強い瞳で見返した。
「あの若い審問官を侮ると、痛い目をみますよ」
 挑発的とも言える微笑みを浮かべ、どこまでも深く底の見えない翆緑色の瞳を向ける。
 イグニスはしばらく、不快そうにジブリールを見下ろしていたが、やがて興味を失ったように、二人の審問官の対決へと意識を向けた。



(>∀<)ノぉねがいします!



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