■第六章 エリュシオンの園  archangelus,i,m.
■書記審問官エンメルカルの記録F

 天使の出現から三百二十年を数えるこの年、管理教会《アパテイア》はついに主要な宗教派閥を習合し、唯一絶対の宗教国家を作り上げた。それは、二千年以上続いていた宗教戦争の終息を意味していた。武闘派と呼ばれる審問官たちが有する軍事力は、今やかつて大国と呼ばれた国々を遥かに上回り、審問官の中には、単身で空軍一個師団を壊滅させるほどの力を持つ者さえ現れた。異教徒の家族を、住む家々を焼き払い帰還した審問官が、正義を為した英雄として万雷の喝采をもって称えられる姿は、何とも歪で、滑稽でさえあり――。
 だからきっと、彼らが迎えた結末は、至極当然と言えるものだったのだろう。

■幕間

 ゴリッ、
 ナイフが骨を削る感触があり、反射的に身を捩った。
 背中に奔る激痛。背後を振り返ろうとして、踏みしめていた足場が消失する。
 訪れる浮遊感と、頬を掠めていく冷たい風の感触。落下するままに見上げた空の中に、赤い鉄塔と、こちらを見下ろす女の姿が見えた。
 野暮ったい修道服のベールの下から覗く、獣を思わせる金色の瞳。敬虔な信徒を思わせる毛皮を纏い、瞳を獰猛な殺意に煌めかせる獣の顔はしかし、小さな子供のように悲しげに歪んでいる。
(――なんて顔してるんだよ)
 ナイフで背後から刺されて、鉄橋から突き落とされたっていうのに、罪悪感に胸がはち切れそうなほど痛んだ。「これじゃあ、まるであべこべだ」そう笑おうとするも、どうしてか頬が引きつって巧くいかない。
 落ちる、落ちる、どこまでも――いっそ地獄まで堕ちてしまえ。
 すぐ下には深い闇が口を空けている。覗き込み、その深くを見通そうとして、俺は思い直す。地獄に堕ちるのではない。俺は消えるのだ。あの深い闇に呑まれて、消えてなくなるのだ。
 ちょうどいい、と俺は今度こそ笑った。死後の世界なんぞ、考えただけでうんざりする。

 ……――ああ、どこかで誰かが泣いている。

 どこか聞き覚えのある子供の声……。

 瞼を開けると、目の前に真っ赤に燃え上がる炎の煌めきがあった。
 篝火のように燃える食料庫。その只中で、炎と煙に囲まれながら、小さな女の子が泣いていた。縋るように傍らに倒れる男に手を伸ばし、「お父さん」と名前を呼ぶ。
 傍らに立つ俺は、それを黙って見つめていた。
 任務である山狗の殺害は無事完了した。すぐに帰還し、本体と合流しなければならない。指揮官である山狗が死亡したからといって、山狗の仔たちが闘争を終わらせるとは思えない。騎士団総長として、俺には戦場に戻る義務がある。
 急がないと――。
 俺は踵を返し、けれどすぐに立ち止る。
 そうだ。
 あの山狗の仔は、瞼を縫い止められているため目が見えないのだ。視角が効かない中、この炎の海を無事に渡り切ることは、不可能に近い。その事実はざわざわと必要以上に俺の心を掻き立てた。
 再び踵を返して元の場所に戻る。少女は迫る炎の中、這い進みながら探るように虚空に手を伸ばし、父の名を呼んでいる。太い糸で歪に縫い合わされた瞼から涙は流れていなかった。少女の腕が探るように父を求め、その小さな手が山狗に触れる。少女の顔に喜びの色が溢れる。崩れ落ちる建物に煽られ、火の粉が飛んだ。少女は反射的にそれを払い――その拍子に、片方の瞼を縫い止めていた紐が解けた。
 金色の瞳が、首の無い山狗の姿を捉える。
 斬り落としたのではない。山狗が身体中に爆薬をつけていたのは解っていた。だから俺は山狗の頭を天使の炎で焼き尽くし、塵さえ残さず消し去ったのだ。
 少女の美しい金色の髪が逆立ち、炎の照り返しを受けて怪しく蠢いて、銀色に見えた。真ん丸に見開かれた金色の瞳が、山狗を映し――俺を見上げる。
 汚れひとつ無い、真っ白な僧衣と、光り輝く美しい天使。
 父を殺した男を見て、少女は何を思ったろう。

 吸い込まれるように炎の灯りが消えて、暗転。

 辺りには静寂が訪れる。

 ――そうだ。
 あの日から数日もしなういちに、俺は審問官としての資格を失った。東の果て《エリュシオン》、管理教会《アパティア》本部にある教皇宮殿。歴代の教皇像が立ち並ぶ回廊《キオストロ》の最奥、『神の門』の向こうに鎮座する、冷たい玉座の上で。

 漂ってきた腐った水の匂いに顔を上げる。

 気づけば俺は、薄汚れた路地裏の小道を歩いていた。剥き出しの足に伝わる冷たい感触。視線の先にある足は小さく、見上げた街灯の青白い明かりが遥か遠くに見えた。視点が明らかに低い。俺は十歳くらいだろうか。小さな子供の姿に戻っていて、左手には同じくらい小さな手を握り締めていた。表通りで大人たちが争う声が聞こえる。
 立ち止まると、肩に柔らかい衝撃。繋いだ手が後ろに引かれる。
「……どうしたの?」
 振り返った俺は息を呑む。細い声の懐かしさに、その場に崩れ落ちそうになる。
 ここまで駆けて来たからだろう。その子は陶磁器のような頬を薄く紅潮させて、不思議そうに俺を見上げていた。薄汚れた服に、俺と同じ冷たそうな剥き出しの足。小首を傾げた頭は人形のように小さく、閉じられた瞼の向こうから、じっとこちらの様子を伺う気配がする。
 彼女は産まれつき目が見えない。
 今こうして顎を上げて俺を見上げているのも、その方が俺の声を聞き取りやすいからという、それだけの理由に過ぎない――そのことを、俺は誰よりもよく知っている。
「いや――」
 喉が張り付いて、上手く声が出ない。
「何でもない。行こう」
 手を引くと、その小さな女の子は前のめりになりながらも、俺の後を付いて来た。目頭が熱くなる。ズキズキと痛む凍えた足の裏に石畳の感触を感じながら、取り繕うように前を向いて足早に歩く。冬を間近に控えた都市の街路。漏れ出る家々の灯りを見上げた時、俺は自分がどこに居るのかを悟った。
 ここは、俺が生まれ育った街だ。今はもう無い、アジア有数の大都市の一角。
 これは走馬灯なのだ、と俺は思った。
 ――走馬灯《ファンタスマゴリア》。人は死ぬ時、影絵がゆっくりと回る仕掛け灯篭のように、生前の思い出を繰り返し見るという。先ほどの戦場も、この路地裏も、いずれも俺が通過してきた人生の分岐点に違いない。俺は何度もこの記憶を思い返して来た。死の間際に、それらがもう一度頭を過ったとしても、何ら不思議ではない。
 それなのに――。
 脳に刻まれた記憶を読み返しているだけ、そう解っているのに、涙が溢れて止まらない。
 俺はこれまでずっと、死後の世界で彼女と再会できるなどという妄想を否定してきた。微塵も信じてなど居なかった。それなのに――まさかこのような形で再び出会うことになろうとは。こうして言葉を交わし、手を取って歩ける瞬間が訪れるとは。
 俺は讃美歌を歌いながら街中を駆けまわりたいほどの幸福感の中にあった。そして、それと同じ位の質量で、冷たい悲しみに心を磨り潰されそうにもなっていた。
「ねぐらまでもうすぐだ。少しなら、パンもある。温めて食べよう」
 驚くほどに優しい、今よりもずっと甲高い少年の声。
 返事の代わりに握り返された手を取って、俺たちはゴミだらけの路地を歩いていく。どこまでもどこまでも、彼女とこうして手を引いて、夜の中を歩いていたかった。
 狭い路地裏を何度も曲がって、行きつ戻りつ遠回りをして進む。わざと遠回しているわけではない。都市には、乞食たちの互助グループのようなものがって、それらグループは縄張り意識が強く、いつもいざこざを起こしていた。
 下手に目をつけられると面倒なのだ。別のグループの縄張りの獲物――とある大商会の主の財布――に手を出した乞食仲間のユアンは、失敗して他のグループの奴らに見せしめに嬲り殺された。
 俺たちは、産まれた時から孤児だった。物心ついた時には、大都市の片隅で物乞いのような生活をしていた。俺たち二人が出会い、一緒に生活をし始めたのがいつだったのかは覚えていない。覚えていないが、産まれながらに天使が憑いていた俺たちは、どこのグループにも属すことが出来なかったから、それは至極自然な成り行きと言えた。貧民街には、審問官に恨みを持つ者も多い。
 素足で触れる石畳は、凍えるほどに冷たかった。もう雪が降り始めたって可笑しくないような気温だ。惨めで辛い思いだけの生活――しかし、手の中には確かな温もりがあった。
 俺は溢れる涙を必死に堪えて、夜の街路を歩いた。彼女の手の温もりが嬉しくて、視界が歪んで仕方なくて、同時に「どうして泣いてるの?」と彼女に尋ねられやしないかと心配で仕方が無かった。そう訊ねられた瞬間、この夢から覚めてしまうのではないかと恐れた。
 俺は心から願った。
 死によって、全ての自我が泡のように消えてしまっても構わない。それでも、どうか。どうか死者に触れるという、条理をの外にある望外の奇跡を、一秒でも長く――。
 手を引かれる彼女は、一言も言葉を発しなかった。彼女は産まれつき目が見えなかったが、機微の変化には敏感だった。きっと聞かないだけで、今も俺が泣いてることには気付いているのだろう。俺は、彼女もまた彼女の走馬灯の中にあればいいのに、と思った。時間の不条理を超えて、俺たちは今、共に死に行こうとしている一瞬を、手を取り合って歩いているのだ、と。冷たい路地を、死の淵に向かって……。
 俺が持つ記憶で、これより昔のものはない。いわば、これは原初の記憶。ここが過去を遡る走馬灯の終点だった。終わりが近づいてくる足音が聞こえる。
 不意に視界が開け、小高い丘に出た。
 懐かしい都市の夜景。涙で滲んで、視界いっぱいに万華鏡のように光が溢れる。空には満点の星が瞬いていた。
「――ねぇ」
 背後から、そっと呼びかける幼い声。
「北極星は、見えてる?」
 俺は無言で星空の中から北極星を探した。その頃の都市は大災害が起こる前で、空に偽物の天蓋などついていなかった。本物の星明りがそこにあった。明る過ぎる眼下の町並みの中でも、それはすぐに見つかった。北の空に、大きな星が一個瞬いている。
「ああ、見えるよ」
 夜空を見上げたまま答えると、すぐ傍で、そう、と安堵にも似たため息が漏れた。白い息が昇っていく。
「それなら安心ね。道に迷っても、すぐに帰り道を見つけることが出来るもの」
 どこかはしゃいだ声で彼女は言った。彼女自身は目が見えないのに、まるで同じ星を見ているように楽しげだった。普段は感情の変化に乏しい顔に、柔らかい笑みが滲む。
「ねぐらに戻るだけじゃないか。迷ったりしないよ」
 僕は少しむっとして言った。いつも彼女の手を引いてきたのは僕だった。ねぐらに戻るのに迷ったことは一度も無い。
「絶対に迷わないとは限らないでしょう? 迷って立ち止ってしまった時に、すぐに歩き出せる目印があることは、とても大切なことよ」
 むくれる僕に言い聞かせるように、優しい声で彼女は言った。細い腕がすっと頭上に伸びる。僕は彼女の顔の向きに自分の目線を合わせて、彼女の細い人差し指が北極星を指すように誘導した。息がかかったからだろうか。彼女がくすぐったそうな声を上げる。
「この先にある星が北極星だよ。だから、あっちが北」
「ありがと。……ねぇ、知ってる? あの星は今は北極星だけど、いつもそうだとは限らないのよ」
「うん? 北極星はいつだって北極星だろう」
 思わずまじまじと見つめた僕に、彼女は「そうだけど、そうじゃないの」と謳くように言った。
「北極星は二万五千年周期の歳差運動で移行して、別の星に代替わりするのよ。今は、こぐま座のα星『ポラリス』が北極星だけれど、今から千七百年後には、ケフェウス座のγ星『エライ』が北極星になる」
 僕は目をぱちくりさせて、彼女の透き通った白い顔を見て、次に北極星を見上げた。
 あれが別の星に代わるなんて、想像もしていなかった。貧民街に暮らしてるのに――しかも目が見えないのに――彼女は孤児の子供たちの中で一番物知りだ。
 感心する僕にしかし、彼女はどうしてか、悲しそうに眉間に皺を寄せる。
「変わらないはずの北極星が、代わってしまうの。今見てる北極星は、いつか他の星たちに紛れて、誰にも見向きもされなくなるのよ」
「そんな心配しなくても、僕たちは、そんなに長生きできないよ」
 彼女は、変わらないはずの北極星が別の星に代わってしまうことが悲しいのだろうか。それとも、かつての北極星が代替わりした後、誰からも見向きもされなくなることが悲しいのだろうか。考えたけれど、答えは見つからなかった。
 けれど、心配いらないよ。
 繋ぐ手に力を篭めて、僕はそっと心の中で囁きかける。
 僕は他の人に比べて目がいいんだ。ずっと遠くだって見通せるし、大人が嘘をついたってすぐに解る。だから、あの星が北極星じゃなくなったって、僕は無数の星の中から、それを見つけ出すことが出来るだろう。満点の星の中に埋もれたって、見失ったりしない。望むなら、いつだって君の手を取って、その位置を示してあげる……。
 本当はそう口にして彼女を安心させてあげたかったけれど、何だか気恥かしくて、僕は結局、それを口にすることが出来なかった。凍えそうな冬の空の下、熱くなった頬に冷たい風を感じながら、二人並んで夜空を見上げる。
 ――それが、僕の心の原風景。
 あの頃の僕らは貧しくて、無力で、その日食べる者にも困る有様だったけれど、大人になった僕たちがどれだけ手を伸ばしても届かないものを持っていた。
 喜びも安らぎも未来も希望も。正義は僕と彼女の為にあったし、その為になら悪い大人たちからお金を盗むことだって許された。
 僕らの澄んだ瞳には、常にあの北極星《ポラリス》が映っていたんだ。
 けれど僕は……。
 ――いや、俺は、その幸せから迂闊にも手を放してしまった。手を離した途端、それは星空の海に落ちて、他の星の煌めきに紛れて見えなくなってしまったんだ。
 時は不可逆であり、天使の奇跡を持ってしても、失った人を取り戻すことは出来ない。

 俺は、全てを失った。
 失敗したんだ。
 他のグループの縄張りに手を出してな嬲り殺された、貧民街の小さな少年のように。

 気づけば、俺はねぐらに戻る彼女たちを俯瞰の視点で見下ろしていた。身体も元の大きさに戻っている。
 幼い二人が、手を取り合ってねぐらに戻っていく。戻った後は、汚れた毛布にくるまって、二人身を寄せ合って眠るのだろう。しばらく後に管理教会《アパティア》の審問官に拾われ、幹部候補生としてエリュシオンの宿舎に入る、その時まで。
「北極星は、見つかりましたか?」
 すぐ近くから声をかけられ、弾かれたように振り返る。
 気付けば隣に、一人の少女が立っていた。最期に見た姿と同じ、この路地裏から八年後の、十八歳の姿のままで。
 ーーああ。
 大人に戻った俺の頬を、涙が一滴伝って落ちる。俺は反射的に彼女へと手を伸ばし――触れるのを躊躇った。彼女は変わらないままなのに、俺はあまりにも変わってしまった。この汚れた手で、彼女に触れることは、震えるほど恐ろしいことに感じられた。
 不格好に手を伸ばし、涙を流す俺を、彼女はただ微笑み見つめていた。光を映さないはずの深い暗緑色の瞳には、静かな理解の色が浮かんでいる。
 それだけで、俺は全てが報われた気がした。これが己の身勝手な妄想なのだとしても、この辛く苦しい九年間の放浪の旅の終わりがここなのだとしたら、俺は何度だって同じ旅を繰り返すだろう。炎の煌めきに誘われる羽虫のように、何度だってその中に飛び込むだろう。
「行かなくていいんですか?」
 澄んだ春の風のような声に、俺は戸惑い声を上げた。
「……行くって、どこに」
 彼女の視線が、つい、と下に落ちる。視線を追って眼下に目を向けると、ねぐらに急ぐ幼い日の俺たちの姿が、いつの間にか違う誰かに変わっていた。
 手を取り合って、薄暗い路地を行く二人。
 あれは――リオとフレデリカだ。
「彼らは、私たちに似ていますね」
 懐かしむような声に、俺は頷いた。
「助けに行かなくて、いいんですか?」
 俺は言葉に詰まる。
 行けるものなら、行きたい。
 行きたいがしかし――全てはもう過ぎ去った時の中だ。こぼれたミルクは戻らない。それはこの九年間で、何度も味わった絶対の条理だった。
「行きたいのは山々だけどな。戻る当てがない」
 肩を竦め、おどけて見せた俺を、彼女は静かな瞳で見返した。皮肉めいた仕草と物言いは、この九年間で染みついたものだ。本当、嫌になる。卑屈めいた笑みには、きっとみっともない自虐の色が浮かんでいるのだろう。
 そんな俺に、彼女は嫌悪感を露わにせず――どこまでも静かな瞳を向けた。
「どうやって、って。貴方には立派な手と足があるでしょう?」
 隔たりを示すように、小さな間があった。
 俺は、とんだ思い違いをしていることに気付く。
「助けに、行けるのか?」
「貴方が、そう望むなら。貴方はきっと、どこへだって行けます」
 呆然と尋ねる俺に、答える彼女の表情が微かに変化した。喜んでいるような、哀しんでいるような、複雑な表情――。
 俺は自身の手元に視線を落とした。そこには見紛うこと無き自分の両手があった。傷だらけで節くれだった、あの頃より大きく厚い手のひら。
「この九年間を、貴方は贖罪のためだけに生きてきた訳ではないでしょう? 多くのものを失くして、そこから再び拾い上げたものもあったはずです」
 光を映さないはずの暗緑色の瞳が、心の中を見透かすよう俺を映す。
 いろいろと話したいことがあった。伝えたいことがあった。けれど、俺は――。
「……そうだな」
 気が狂いそうな程に焦がれたはずの姿に、背を向ける。それは俺たちにとって、至極当然の流れだった。かつての俺たちなら、そうしただろう。だから俺は、その流れに従った。彼女の期待を裏切るような真似はしたくなかった。
 顔を上げた先には、微かな明かりが見えている。あちらに歩いていけば、何とかなるだろう。背中に感じる視線も、その予感を肯定している。
 俺は歩き出し、しかしすぐに立ち止まる。
 息を吸っても、どこかから空気が抜けているように実感がない。俺は鋭く息を吸い込んで、
「今は戻るけど、すぐにそっちに行くことになると思う。――……だから、その」
僅かな間を置いて言った。
「もう少しだけ、待っていてくれないか」
 自分でも情けなくなるくらい、力の無い声だった。背後で彼女が小さく息を呑むのが解った。息苦しさに耐えきれず、恐る恐る振り返ると、
「ええ。待ってます。急がなくていいですから、必ず来てくださいね」
彼女は柔らかく笑っていた。
 これまで見たことがない程に、嬉しそうな笑顔だった。俺も自然と笑っていた。再び遠くに見える明かりに向かって歩き出す。
 穴だらけの外套を羽織り直し、懐からリボルバーを取り出す。頑丈さだけが取り柄の無骨な銃身に指を這わせると、ひやりと身が引き締まるような思いがした。
 見上げた空に、北極星《ポラリス》は見えない。
 それでも今は、瞼の裏に焼き付いたその姿があれば、なんとかやっていける気がした。

 …………。

 ガタガタと揺れる振動に目を覚ますと、目の前に月のように丸々と肥った中年男の顔があった。
「だ、旦那! 目を覚ましましたか。良かった。一時はどうなることかと!」
 行商人のモレク――いや、今は商館の主になったんだったか――が興奮気味にまくし立てながら、汗ばんだ顔を近づけてくる。今にも汗が振り落ちてきそうな勢いに、思わず腕を突き出した。
「……な、なんですか。いきなり」
「すまん。反射的に」
 顔を押し返されたモレクが不満そうに上体を引く。俺は腕を下ろして、ゆっくりと上体を起こした。
 胡乱な頭を軽く振って、ぐるりと周囲を見渡す。
 どうやら俺はモレクが所有する軍払下げの砂漠色(サンドカラー)の小型ガントラックの後部座席に寝ていて、どこかに移動している途中らしい。
 身を捩ると、背中に当たる堅めのクッションが、カサカサと乾いた音を立てる。車窓を流れる風景は、ヴェステリクヴェレ第一階層のものだ。
「何だ、お前ら。まだ逃げてなかったのか」
「だ、誰のせいで逃げ遅れたと思ってるんですか。もう」
 助手席に戻ったモレクが、汗を拭き拭きぼやく。そうか。こいつらが逃げ遅れたのは俺のせいだったか。
「そりゃすまなかったな。……都市の外に出るなら、第四階層の緊急隔壁を使え。コイツなら砂漠の中でも走れるだろ」
「そうしたいのは山々ですがね。この状況で外に出るのは自殺行為ですよ。少なくとも私は御免ですね」
「……あん?」
 不可解な答えに、まじまじとモレクの丸い顔を見る。
 火災も『大禍』の侵入者《テロリスト》も都市の中での出来事だ。巻き込まれたくなかったら、二、三日都市の外に出ていればいいだろうに――と、そこまで考えて、ふと引っ掛かるものを感じた。這うように窓際に移動し、くすんだ窓ガラスから、黒煙がくすぶる天蓋の向こうに目を凝らす。
「ああ。嵐が来てるのか」
「……貴方の目には望遠レンズでも入ってるんですか」
 感心するような、呆れているようなモレクの声。
「強烈な台風が来ているようです。都市の外は半分、水の中ですよ。巨大な榛の木《アールキング》がある分、いくらかマシだとは思いますが……。少なくとも今の段階では、外よりも中に居た方が安全です」
 モレクは何かを恐れるように助手席の窓から塔の天蓋を見上げた。都市の中に居ると意識することは無いが、市から都市へと渡り歩く行商人にとって、荒天に出くわすかどうかは死活問題だ。旅は気まぐれな天候と二人三脚。下手を打てば、積荷を失うどころの騒ぎでは済まない。
 ふと思った。この欲深な行商人が、旅の生活を終わりにして都市内で新しく商売を始めようと思ったのは、気まぐれな天候のご機嫌を窺い、びくびく生活するのに疲れたからなのかもしれない。
「……っくそ、まだ頭が働いてねぇ」
 未だ働きの悪い頭に、苛立ったように首を振って、
「それにしたって、何も第一階層に居ることはないだろう。この都市で今、一番危険なのはここだぜ」
「あ、貴方とあのレオパルトが鉄塔の上でやりあってると聞きましてね。これは加勢せねばと駆け付けたんですが」
 そこまで聞いて、俺はようやく思い出す。
 そうだった。俺は鉄塔の上でレオパルトの奴とやりあったんだ。それで後ろから刺されて――。
「道中は気が気じゃありませんでしたよ。私たちは二人とも高い所が苦手なものでして。せっかく助けに言ってもお邪魔になるんじゃないかと」
「なぁ、モレク」
「はい?」
「どうして、俺は助かったんだ?」
「……さぁ? 私たちが来た時には、捩じ切れた鉄塔の一部に引っ掛かってぶらぶらと揺れてましたよ。高さは地面から三メートルほどって所でしょうか。ダリアンが手を伸ばして届きましたからね……あの、クレーさん? もしかして貴方、塔の天辺から落ちてきたなんてこと、ないですよね?」
 俺は思わず目元を覆った。鉄塔の高さは優に二十メートルはあったはずだ。そこから落ちて、それでも生きてただと? そんな馬鹿なことがあるか。
 肩を落とす俺に、モレクが「運が良かったですねぇ」と、驚き半分、呆れ半分で声を漏らす。「まさに神の未業としか思えない奇跡だ」
「そんなんじゃねぇよ」
 小さく舌打ちして、窓の外に目を向ける。何はともあれ、命が助かったのだ。結果が出ている以上、深く考えてもしょうがない。
「そういや、ダリアン。どうしてお前がここに居る? 動いて平気なのか?」
「平気。問題ない」
 運転席のダリアンが抑揚のない平坦な声を返す。
 問題ないわけがない。ダリアンは昼間、酒場でレオパルトに毒の塗られたナイフで切りつけられ、担ぎこまれた病院で生死の境を彷徨っていたはずだ。
「昨日は働けなかった分、いま稼ぐ」
「稼ぐって、お前な」
 商魂逞しい仲間の返事に、呆れて物も言えなくなる。医者は二、三日は絶対安静とか言ってなかったか?
「ったく。俺も他人のことを言えた義理じゃないが、お前らも大概だな……。それで稼ぐってお前、この状況でどうやって」
 言いかけて、寄りかかっているクッションが持つ違和感に気付く。身体をずらして、膨れ上がった袋の口を覗き込むと、束になった現金紙幣が詰まっているのが見えた。僅かな沈黙――。
「……まさか、お前ら火事場泥棒」
「ち、ちち違いますよ! そんなことしませんよ! それは落ちていただけです!」
「落ちていただけ?」
 呟き、もう一度袋の中を確認する。中には誰でも知ってる大都市で発行された紙幣の束が詰まっている。細かい相場は解らないが、都市の主要区画に庭付き一戸建ての新築を建てることが出来るくらいの金額はあるだろう。
「子供の言い訳じゃねぇんだからよ……。いくらなんでも無理があるだろ」
「嘘じゃありませんよ! この目を見てください!」
 憤慨やるかたない、というようにモレクが身を乗り出し、黄色く濁った細い目を見開く。欲望にまみれた中年男の顔に収まった、顔の大きさの割には小さい瞳には、確かに嘘の気配は感じられない。どうして額に多量の汗を掻いてるのかは疑問だが。
「分かった。分かったよ。あまり身を乗り出すと座席から転げ落ちるぞ。……これが拾いものだっていうのは信じるよ。だが火事場泥棒でないっていうなら、お前らはこの状況でどうやって稼ぎを上げるつもりだったんだ?」
 訝しげな俺の問いに、モレクが胸を張って答える。
「それはもちろん、投資です」
「投資?」
「そうです。私たちはこれからこの都市で商売をしていこうという身です。人助けをして恩を売っておくことは、余所者の私たちにとって、商売を円滑に進める潤滑剤となります」
 したり顔のモレクに、俺は「さすがだよ」と素直に賞賛の言葉を贈った。
 確かに信頼は金では買えない。ここで都市のために尽くしてる所を見せれば、閉鎖的な所のある都市の連中も、モレクたちを仲間と受け入れてくれるかもしれない。
「先ほども、商館で逃げ遅れていたお嬢さんを避難場所まで連れていって差し上げた所です。随分と泣かれてしまいましたがね……」
 そこまで言って、何故かモレクはがっくりと肩を落とした。
「ど、どうしたんだよ?」
 急な気分の落ち込みように尋ねると、モレクは上目遣いに俺を見上げ、怯えた小動物のような顔で、
「クレーエさん。私たちのしたことは正しかったのでしょうか? 今都市を襲っている、この事態――これら全てのきっかけが、何だか昼間の出来ごとにあったように思えて」
 思わぬ言葉に、車内に静寂が下りる。それはその場に居た誰しもが心の中で思いながら、口にしなかった言葉だった。ダリアンも息を殺し、思索に耽るように遠くを見つめている。
「……さぁな」
 俺は座席に座り直すと、咥えた煙草に火をつけた。
「その答えが知りたかったら、せいぜい長生きすることだな。歴史となった今日を、冷静に検分出来るくらい……に?」
 そこまで言って、思考が止まった。手からぽろりとタバコが落ちて、現金の詰まった袋の上に落ちる。
「どわっ!? 何してるんですか!」
 モレクが後部座席に身を乗り出して、火の付いたままの煙草を揉み消した。抗議の声を上げようと顔を上げ――俺の視線の先にあるものに気付き、素っ頓狂な声を上げる。
「うおぉ!? 塔の屋上が燃えてるじゃないですか!? それに、うっすらと浮かんでいるあの光の帯は」
「……モレク」
「はい?」
「あそこに行くにはどうすればいい」
「む、無理ですよ」
 モレクの丸い顔が絵に描いたような困り顔に変わる。
「昨日までなら、鉄塔から跳び移るのが良いですよ、とアドバイスしてたところですけどね。ご覧の通りあの有様です」
 モレクが指差す先には、飴のようにねじ切られ、見る影もない鉄塔がある。切れた鉄骨の一部が突き刺さり、中央管理塔はサボテンのようになっている。
「酷い有様だな」
「い、いったい何があったんだでしょうね……って。貴方なら知ってるでしょう? あそこから落ちてきたんだから」
「忘れた。なぁ、塔の中から登るってのはどうだ? あの高さだ。エレベーターの一つでもついてるんだろう」
「無理」
 運転席のダリアンが平坦な声で言った。
「エレベーターにはロックがかかってる。テロリスト対策。塔の警備マニュアルに書いてある」
「そのロック、解除できないのか?」
「出来ない。専用のカードキーと網膜認証が無ければ開かない。ロックを解除できるのは、限られた権力者……緊急時に市長の代理を務めることができる、幹部クラスの権限が無ければ駄目」
 冷静に事実を述べるダリアンに、クレーエは腕を組み目を細めた。
 ダリアンはこう見えて、情報セキュリティのエキスパートだ。オスカーを追いつめる際に使った資料も、この男が居たからこそ揃えることが出来た。
「階段で地道に登ろうにも、あの手の建物は中が入り組んでいて迷路になってるはず……となると、やはりエレベーターを使いたいが」
「か、幹部クラスの役人たちなんて、飛行艇を使って真っ先に逃げ出してしまいましたよ! 残ってる訳ないじゃないですか」
 非難めいた口調でぼやき、モレクが塔を恨めしげに見上げる。
「塔の中には市長が居るでしょうが……彼は噂に聞く隠しシェルターに閉じ籠もって出て来ないでしょうね。いつの時代も権力者たちが考えるのは、自己の保身だけです」
 再び車内に重たい空気が流れた。
 大災害が世界を襲った時、限られた全天候型都市に移り住むことが出来たのは、ほんの一部の人間だけ。その選抜に漏れながら外の世界で生き抜き、商人としての地位を手に入れたモレクたちにとって、都市の権力者は良い商売相手であると同時に、仲間を見捨てた憎むべき裏切り者でもある。その感情は複雑だ。
「……そういえば、さっきから市民の姿が見えないな」
 先ほどから車窓の景色を眺めているが、通りに人気がない。軌道自転車で鉄橋を移動している時は、逃げ遅れて右往左往している人々が随分と見えたものだが……。 
「全員、地下の避難所へ移動してますよ。警備兵団が思ったよりも上手く機能しているようですね」
「警備兵団?」
「ええ。ほら、あそこ――」
 モレクが言って、フロントガラスの向こうを指差した。
 第一層と二層を繋ぐ石段の踊り場に、警備兵の一団が右往左往しているのが見える。
 高台の上に陣取って、何やら作業しているようだが……。
「んん? おお!?」
 双眼鏡を覗いていたモレクが素っ頓狂な声を上げた。
「あ、あれは……もしかして」
「対戦車ミサイル。第三世代のパッシブ誘導方式だな」
「どうして自警団がそんな兵器を? 旧国の遺物を隠し持っていたのでしょうか」
 出どころまでは解らないが、都市がそれら遺産を秘密裏に隠し持っていたとしても、何の不思議も無い。ミサイルは装甲車両に設置されている。向きから考えて、狙いは中央管理塔だろう。
「塔に対して仕掛けるつもりなのでしょうか。……んん? 奥に居るのはアッヘンバッハ警備兵長ですね」
「ダリアン」
「ん?」
「トラックをあの一団の所へ回してくれ」
「待ってください! こ、困りますよ。今の状況で警備兵に出くわしたら、何を言われるか」
 ちらちらと後ろの札束が詰まった鞄を振り返りながら、モレクが抗議の声を上げる。
「いいから回してくれ」
 強い声で繰り返すと、ガントラックは急旋回で向きを変え、元来た道を戻り始めた。
「ダリアン! な、何をやっているのですか!?」
 悲鳴を上げるモレクに、しかしダリアンは黙って前を睨み車を走らせる。モレクの額から溢れる汗の量が増した。
「ク、クククレーエさん! いったい何を」
「警備兵長ってのは、都市内でどれくらい偉いんだ?」
「そこそこ。有事の際は市長に次ぐ指揮命令権を持つ。警備部門のトップ」
「警備部門のトップなら、中央管理塔のシステムにアクセス出来る権限くらい持っているよな」
「……待って下さい。なんですかその不吉な言い回しは! 嫌な予感がしますよ!」
 モレクが金切り声を上げて頭を抱える。
「わ、私は自分の想像が間違っていることをこれほど願ったことはありません! ク、クレーエさん。あなた、もしかして」
 恐る恐る訪ねるモレクに、俺はニヤリと笑って答える。
「コニー・アッヘンバッハを拉致って、塔のエレベーターロックを解除させる。それとついでに、あの対戦車ミサイルも戴こうか」
「興した商会を一日で潰す気ですか!?」
「商売に失敗はつきものだ」
「そういうことは全力を尽くしてから言うことです! 商売する前に全力で潰してどうするんですか!」
 たるんだ頬を揺らし、モレクが声を荒げる。その顔は真っ赤に紅潮し、細かく震えていた。本気で怒っているらしい。さすがにそこまで怒ると思わなかった俺は、少しビビる。
「お、落ちつけよ、モレク」
「これが落ち付いていられますか! まったく。まったくとんでもないことです! 夕食時は本気で貴方を勧誘しましたけど、それは間違いだった。貴方に商才はありません! 商才どころか、真っ当な常識さえ持ち合わせていない!」
「モレク。旦那は俺たちを」
 低く唸り声を上げるモレクを、ダリアンが宥める。しかし、モレクの怒りは治まらない。義理堅い技術屋のダリアンとは違う。彼は生粋の商人なのだ。
「幾らクレーエさんでも、見過ごすことは出来ません!」
 モレクはふるる、と息を吐くと、丸く膨らんだ背中からマスケット銃を取り出し、俺の頭に銃口を突きつけた。ぎょろりと剥いた目で睨むように俺を見て、
「だから、貴方との取引は今回でこれっきりだ!」
そう啖呵を切って、空の銃に弾丸を装填し、肩に担ぐ。
「ミサイルでも何でも手に入れましょう。ただし、商談でです! 力づくでは私たちもオスティナトゥーアを襲った夜盗と変わりありません。私たちはこの都市を地域一番の貿易都市にすると、リオ君たちと約束したんだ。簡単に諦められないんですよ!」
「そうだったな」
 自然と頬が緩むのを止められない。俺はこの欲深な商人を、少し甘く見ていたのかもしれない。
「悪かった。……すまないが、もう一仕事頼む」
 頭を下げると、モレクは驚いたように目を剥いて、
「あ、貴方は、商人をただ働きさせる天才だ。こんな出鱈目な依頼、受けることは二度とありませんからね」
「ああ」
 闘牛のように興奮するモレクの肩を叩いて、通りの向こうを見据える。前の座席に座る二人からは見えないように、鈍く疼痛を訴える脇腹を抑えた。
 心配しなくても大丈夫だ、モレク。
 どのみち、これが最後の頼みになる。

 ……そう言えば。
 目覚める前に彼女が最後に言ったあの言葉――あれはどういう意味だったのだろう。
『――ところで。あの子とはもう会いましたか?』
『あの子?』
『ええ。貴方もよく知っている子ですよ。会ったら、力になってあげて下さいね。あちらはあちらで、随分と苦労しているようですから――』
 ……あの子って誰だよ。
 ぼやいてみるが、夢の中の出来事に文句を言っても仕方がない。夢は夢。そこに何を見出そうと、それ以上でもそれ以下でもない。
 ガントラックが、甲高いブレーキ音を立てて、第一階層の階段下に停車する。俺はトラックから飛び降りると、階段を駆け上がり、有無を言わさぬ足取りで警備兵たちの中を突っ切って、突然の闖入者に驚くコニー・アイゼンバッハ警備兵長の前に進み出た。
 警備兵たちが一斉に銃口を俺へと向ける。牽制するように辺りを見渡しながら、俺は誰にも聞こえない声で口の中で囁いた。
 ――何にせよ、俺が生きてるうちに会えればいいんだがな。

■エリュシオンの園@

 金属が削れる音と共に火花が散り、腕に耐え難い衝撃が奔った。
 ダリウスの顔に一瞬、驚きが広がり、すぐに噴き出すような憤怒に変わる。強引に鍔迫り合いに持ち込もうとするのを受け流して、間合いを離した。
「……ぬぅッ」
 追撃をかけようとして、けれど踏み留まったダリウスに牽制の視線を向けつつ、腕の中に視線を落とす。
「待たせたな、リオ」
 軽い調子で声をかけると、まん丸に見開かれた蒼い目が、猫のようにこちらを見上げた。
 汚れ、裾がほつれた白い僧服に、焦燥し切ってやつれた頬。顔は紙のように白く、目の下には黒々としたクマが出来ていた。死相が出始めている。
 表情が強張るのを意識せざるを得なかった。
 いったい、この短時間に何が起きたのか。すぐ傍で佇むマグノーリエの身体は八割が植物と同化し、もはや人の姿を失くしつつある。
 管理協会本部の人間は、人の姿を保てず異形と化した天使を嫌う。リオはもう、管理協会本部の招待を受けることは出来ないかもしれない。
「クレーエ、さん」
「よく頑張ったな。後は任せろ」
 穏やかではない内心を隠して、柔らかく声をかける。見上げる顔が、堪えていたものが溢れたように、くしゃりと歪んだ。
 思わず苦笑してしまう。柔らかな金色の髪に節ばった手を載せようとして、
 ギンッ、
堅い金属音に顔を上げた。
 コンクリートの床面に、楔のように打ち込まれた銀の細剣。墓標のようにも見えるその向こうには、暗い殺気を放つ片腕になった男の姿がある。
「何だ? お前は。何をしに現れた」
「後で答えてやる。少し待ってろ」
 短く答え、殺意を振り撒く男に背を晒す。ダリウスは鋭く舌打ちすると、臨界点まで高まっていた殺気をあっさりと消した。
「クレーエさん。どうやって、ここに?」
 横抱きにしたリオが掠れた声で囁く。
「勇猛果敢な警備兵長様に一働きして貰ってな。後はエレベーターで一直線だ。お前の大冒険に比べりゃ、楽なもんさ」
 屋上の縁で鉄屑と化した複葉機に目をやり、小さく笑ってみせる。リオが眩しそうに目を細める。意識が朦朧としているのだろう。まつ毛が細かく震えている。
 リオを抱いたまま昇降機塔の前まで移動し、うつ伏せに倒れる人影の前で立ち止まる。
「生きてるか?」
 声をかけると、フレデリカは細かく息を吐きながら、睨むようにクレーエを見上げた。
 リオの元へと這って行こうとしたのだろう。コンクリートの床には重たい物を引きずったような血の跡が続いている。
「何よ」
 見ためよりもずっと確かな声で、しかし不機嫌そうに、
「生きてたんなら、早くそう言いなさいよ」
「悪かったな」
 浅く呼吸を繰り返すフレデリカの隣に、リオを横たえる。フレデリカは這うように身体の向きを変え、リオの顔を覗き込んだ。
 強張った表情のフレデリカに、リオが力なく微笑み返す。宝石のような赤褐色《ヘイゼル》の瞳に、涙が溢れた。
「……バカ」
「ゴメン」
 小さく呟き、リオが瞳を閉じる。強張っていた身体から力が抜けると、フレデリカが弾かれた様にクレーエを見上げる。
「大丈夫だ。命に別条はない」
 消耗が激しいようだから、しばらく目を覚まさないだろうが、心配は要らないだろう。
 リオの傍に佇む、半ばまで樹木と一体化したマグノーリエと視線を交わす。
 天使は普通、審問官が気を失うと実体を失い消失する。しかし、マグノーリエはいささか現世の物質と同化しすぎていた。今しばらくはそのままでいるだろう。
「大したもんだよ、お前は」
 改めて、安らかな表情で眠るリオを見下ろす。
 この小さな少年は、絶望的ともいえるこの状況で、命をかけて大切なものを守り抜いたのだ。
 俺はかつてその決断が出来なかった。大切なものを大切と言えずに、気付いたときには全てを失っていた。俺もそうするべきだったんだ。例え世界の全てを敵に回したとしてでも。
「そこで大人しくしてろ」
 寄り添う二人に背を向ける。頭の中には、驚きに見開かれた猫のようなリオの蒼い瞳に浮かんでいた。
 ここまで来る途中、ずっと考えていた。
 「もう駄目だ」という時に颯爽と助けに現れたなら、きっとヒーローのように恰好いいだろうって。
 かつての俺だったらそう感じたはずだし、「そんな奴居るはずがない」と思いながら、心のどこかでそんな誰かが現れてくれることを願っていた。
 もう一度だけ、二人を振り返る。眠るリオの手を悲痛の面持ちで握る、片腕のフレデリカ。斬り落とされた腕の切断面からは、今もなお痛々しく血が滴り落ちている。
――許してくれ、リオ。
 少し、来るのが遅れてしまったみたいだ。
「待たせたな」
 視線を戻し、改めて対峙するべき相手と向かい合う。
「ふん――」
 ダリウスは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、片手の白手袋を口で引っ張り嵌め直した。
 ――生真面目な奴。
 相手は律儀にも、こちらの話が終わるのを待ってくれていたらしい。

 ※

 ――吹きつける風が重い。
 クレーエは首をすくめて、外套の襟を立てた。
 都市の外壁が解放されたのだろう。風はいよいよ叩きつけるように塔を激しく揺さぶり、屋上を覆い尽くしていた赤黒い炎はこの風に煽られて火の粉を飛ばし、今や階下にまで燃え広がっていた。炎が全てを焼き尽くすのに、それほど多くの時間を必要としないだろう。
 そこまで考えて、クレーエは屋上の中央付近に視線を向け――ほんの一瞬、悼むように目を細める。
 離れた暗がりには、一人の女が打ち捨てられている。
 幼い頃に、戦禍の運命へと連れ込まれた、一匹の獣の子供。彼女がこうして冷たいコンクリートの上で最期を迎えた責任は、自分にもあると、クレーエは思う。
「どうだった? あいつの審問は」
「まだまだ詰めが甘いが、なかなかのものだ」
 不意打ち気味に放たれたクレーエの問いにしかし、『堕天審問官』ダリウス・ロンブルは予め予想していたとでもいうかのように、すぐに答えを返した。
「少し詰めが甘いがな。もし、それの語る言葉に僅かでも詭弁が混ざっていれば、俺の聖遺物《レリクス》は瞬く間に柔らかな肉を串刺しにしていたことだろう」
 不機嫌そうに、批評家のような口ぶりで言う。まるで他人事のようではあるが、その声には認めた相手に対する、ある種の敬意の響きがある。
「管理教会の数多の司教、あるいは大司教が挑んでも敵わなかった、この俺の腕を斬り落としたのだ。功績としては十分。それだけに、俺が手ずから執行を言い渡さなければならない。――そこを退け」
 否定を許さない声。男の背後で赤黒い炎が吹き上がる。ちゃきり、と銀の短剣を携え、ダリウスが歩みを進める。
「審問官ではない人間に、この法廷を邪魔する権利は無い」
「そうだな。確かに、俺は審問官じゃない」
 全身に殺気を漲らせ、獄卒の如く歩み寄る男に、クレーエはどこか軽い調子で言葉を返した。だらりと腕を垂らした、どこかだらしない立ち姿で男の前に立ち、世界の全てを皮肉るような、濁った瞳を向ける。
「だがその法廷、俺にも加わらせて貰う」
 クレーエの長い腕が、外套の中に差し込まれる。愛用の回転式短銃《リボルバー》を取り出すと思いきや、取り出した手に握られていたのは、黒い布に包まれた棒状の物体だった。
 指が白い紐にかかり、幾重にも縛られたそれを解く。
 黒い布の中から現れたのは、金色に輝く一本の金属棒だった。長さはちょうど、クレーエの肘の長さ程度。薄汚れ、傷だらけではあるが、下地に見える黄金色は色褪せることなく美しい輝きを放っている。
 ダリウスの巌のような表情が、険しく強張る。
 審問官なら解る。その手の中にあるのは間違いなく、
「そう。『聖遺物《レリクス》』だ。。審問官同士が法廷で争う場合は、どちらかの天使が法廷を創ればいいはずだったな。法廷への参加資格は、『聖遺物』を持っているか否かによってのみ決定する――」
「チッ……貴様、『審問代理人《レガティー》』か?」
「いや? これは元から俺の聖遺物《レリクス》だぜ。今でこそこんな成りをしてるけどな、昔は審問官をやってたんだ」
 まぁ、出来が悪くて天使には逃げられちまったんだがな。
 自嘲気味に呟いて、クレーエは金属棒の底面を掌で強く押し上げた。ギミックが作動し、カシャン、と軽い音を立てて金属棒の上半分が割れ、左右に腕を伸ばす。伸びた両の腕の両先で、僅かばかりの鎖がゆらゆらと揺れる。
「それは――」
 ダリウスの瞳が見開かれ、周囲の時間がぴたりと止まったように音が途切れた。限界まで見開かれた赤茶けた瞳には、クレーエが手に持つ聖遺物《レリクス》だけを映している。
「天秤の、聖遺物《レリクス》?」
 チェーンは外れ、両皿は紛失しているが、それは紛れも無く一個の天秤だった。汚れ、傷だらけのガラクタ同然のそれを、ダリウスは穴が開くほど注意深く見つめ、
「ククク、ふははははははは!」
引き攣った口元から、掠れたような声を響かせた。細剣を握ったままの拳を目元に押し付け、身体を折って乾いた笑い声を響かせる。
「そうかそうか。そういうことか。なるほど」
 力の抜けた声で呟くと、どこか親しげな足取りでクレーエの元へと足を進める――手を伸ばして触れるかどうかの所まで来ると、だしぬけに腕を振り上げた。
 冷たい空気を切り裂いて、振り下ろされる一閃。クレーエは握っていた天秤の柄で銀剣を受ける。
 鮮やかな火花が散り、荒く金属を削る音が乾いた屋上に響いた。
「よくもッ!」
 見開いた瞳を寄せ、ダリウスが腹の底を震わせるような怒声を張り上げた。
「よくもおめおめと俺の前に現れたな! よくも、よくも俺の前に!」
 黄色く変色した歯を剥き出しにして、ダリウスが吼える。その眼は剥き身の刃のようにギラギラと殺意に煌めき、その表情は歓喜か憤怒か。マグマのように噴き出した得体の知れない感情に引き攣ったように歪んでいる。
「気付かなかったぞ! なんだその形りは。まるで浮浪者ではないか。なぁ、クロエ!」
「久しぶりだな。ダリウス。こんな形で再会することになろうとはな」
 上背が頭一つ分は高いダリウスに押し込まれ、クレーエが強張った顔を引き攣らせる。
「まさか、鋼の精神を持つお前が堕天していたなんて、夢にも思わなかった……いや、違うな」
乾いた笑みを浮かべ、言葉を切る。
「意外ではあるが――堕天するとしたら、それはお前のような男だろうと思っていた」
 ギラギラと瞳を輝かせるダリウスに対して、クレーエの顔には、いつもの不敵な様子は無い。どこか苦しそうにさえ見えるその表情の奥に垣間見えるのは、色濃い苦悩。
「――……はははっ!」
 不意にダリウスが狂ったような声を上げ、片手に握った細剣を、再びクレーエへと叩きつけた。
 あまりの衝撃に、溜まらず小さく声を漏らす。痛む右手首を庇うように、懐から取り出した回転式短銃《リボルバー》を突き出すと、ダリウスは哄笑を上げながら、何度も出鱈目に細剣を叩きつけた。
 一撃毎に威力が増していくような重たい剣撃に、クレーエの顔に浮かぶ苦痛の色が濃くなっていく。間合いを離そうと腰を浮かしかけると、丸太のような脚に鳩尾を貫かれた。
 たっぷり二メートルは蹴り飛ばされ倒れこんだクレーエに、短剣を捧げ持ったダリウスが声を張り上げる。
「何だ、この巡り合わせは! 誰の思惑が貴様を俺の前に引きずり出したのだ! 何たる因果。何たる帰結! いいだろう。貴様に引導を渡す役目、この俺が引き受けてやる。――本法廷は審問官リオ・テオドール・アルトマンの意識消失により、一時閉廷とする!」
 ダリウスの宣言により、辛うじて形を保っていたマグノーリエの審問法廷が光の粒子を残して消失する。
 クレーエは、その声に跳ねるように身体を起こした。形振り構わず、頭を低くしてコンクリートの床を転がる。
 瞬間――。
 ダリウスを中心として、凄まじい熱気が噴き上がった。屋上全てを飲み込む、荒れ狂う炎の嵐。ダリウスが短剣を握った腕を水平に広げて叫ぶ。
「来い、イグニス! 仕切り直しだ! ――『開廷』!」

 ――この剣<しるし>によって、汝はうち勝たん(イン・ホック・シグノ)


 片腕のダリウスの背中で、黒翼の天使が翼を広げ声を張り上げる。放たれた炎の渦が屋上を焦がし、耐え切れなくなったコンクリートの床が、ぴきぴきと乾いた音を立ててヒビ割れた。
「――……!」
 光と見紛う程の濃密な炎に照らし出された黒い男のシルエットを、フレデリカは抗いがたい絶望の中で見上げていた。
 彼女の目に、それは人として映らなかった。恐ろしい鬼。人を裁き八つ裂きにする暴力の塊が、全てを無に帰そうと暴れている。
 喉を逸らして狂ったように声を張り上げる僧衣の男。ダリウスはゆっくりと顎を引くと、決闘に挑む騎士のように短剣を捧げ持った。
「裁きの時だ! この世に災いをもたらした罪びと『大禍』よ! 世界は貴様が裁かれるこの日を心待ちにしていた!」
「――え?」
 ――しまった。
 思わず出てしまった声に、フレデリカは表情を凍らせる。
 恐ろしい鬼の首がゆっくりと動き、赤く殺意に輝く瞳にフレデリカを捉えた。フレデリカはたまらず短い悲鳴を漏らし後退り――それでも、気丈に口元を引き締め、男を睨み上げる。
「……何の、こと」
 震える声で、問いかける。
「『大禍』は、貴方のことでしょう?」
「違う」
 ダリウスは、地獄の門のように屹立しながら、いっそ静かとも思える声でフレデリカの問いに答えた。
「俺は堕天審問官。無能な神など居らずとも、自らの手で世を粛清してみせる。それが唯一の教義だ。神の依り代になることなど望みはしない」
「神の依り代? それって、教皇様に触れったっていう」
 世に言う『大罪事変』。世界を変えてしまった九年前の事件。フレデリカの頭の中を読み取ったかのように、ダリウスは険しい顔で頷き、
「応とも。最も『神の座』に近いと言われながら、道を誤り神子を汚し! この世界を神に放逐させた! 歴史上もっとも罪深い大罪人『大禍』とは、目の前に居るこいつのことよ。そうだろう、クロエ!」
 怒りに歪んだ声に、炎の向こうでクレーエがよろよろと立ち上がる。貫かれた鳩尾を抑え、てんで可笑しな方を向いて、呆けたように炎の海に首に巡らせる。
 コンクリートの床面に落ちた、長く伸びる暗い影。クレーエは途方に暮れたように立ち尽くすと、ゆっくりと視線を彷徨わせた。やがて、それは横たわるフレデリカを見つけて止まり、
「――っ!?」
 フレデリカは見た。
 呆けたクレーエの顔が固く強張り、怯えたように歪むのを。まるでフレデリカを恐ろしい物でも見るかのように見つめ、一歩後ろに下がる。
「クレーエ……?」
 フレデリカが小さく囁くと、クレーエが息をのむ気配がした。どこか呆けた顔に、理性の色が戻る。
「被告人、審問官としてこの法廷に参加せんとするなら、階級と名前を名乗れ!」
 ダリウスが声を張り上げる。
 クレーエはフレデリカを見つめたまま、僅かに口を開き――しかし何も言わず、その視線から逃げるように目を逸らした。
 手の中の華奢な天秤の聖遺物《レリクス》を強く握り、幽鬼のような声で名乗りを上げる。
「元総大司教審問官、クロエ・シュトラウス。『聖遺物』《レリクス》の加護によって、この審問法廷に参加する」
「……クロエ?」
 血を失い過ぎて上手く働かない頭に、誰かの声が蘇る。それは、幼いころから何度も聞かされた寝物語。昔話というにはあまりにも現在に近いその物語は、『大罪事変』といった。
 そこで語られる、あらゆる災厄の現況――『大禍』が、あのクレーエ?
 見つめるフレデリカに、クレーエの黒い瞳はただ周囲の炎を映すだけで、答えを与えてはくれない。吹き上がる熱風に煽られた黒い髪が、別の生き物のようにさわさわと揺れている。
 ――そうだ。忘れていた。
 いつからか噂されるようになった『大禍』の特徴――恐ろしい呪いによって染まった夜闇のような黒い髪と、絶望を映した沼の底のように濁った黒い瞳――は、まさしくクレーエの特徴そのものだ。彼がこの都市に来た時、人々から疎まれ避けられたのは、まさしく彼の特徴が噂の『大禍』そのものだったからではなかったか。
 ダリウスの髪はスレートグレー、瞳は赤みがかったブラウン。噂に聞く姿とは、あまりにも遠い。
 ――思い違いをしていた。
 私たちは、あのダリウスこそが『大禍』であると決めつけてしまっていた。奈落のようにあらゆる光を吸い込むような男の気配は、まさしく噂に聞く『大禍』のイメージそのものだったから。しかし、真実は違ったのだ。
「形式に則って、こちからも問おう。首切り役人と化した審問官――階級と名前を名乗れ」
「堕天審問官ダリウス・ロンブル――さぁ、審問法廷を開こう。問うべき罪状を決めろ」
 急かすように銀剣の刃でコンクリートの床を叩くダリウスに、クレーエは迷うことなく口を開く。
「俺たちが追求し合うべきは、『大罪事変《あの日》』以来、俺たちが背負った全ての罪について=B気に入らないなら、お前が決めろ。俺をどう審問するかは、全てお前に任せる」
「審問を、任せる?」
 クレーエの言葉に、ダリウスの顔が一瞬、呆けたようになり――すぐに憎々しげに歪んだ。悪鬼の如く歪んだその表情は、噴き出すような憎悪で溢れている。
「いいぜ。それでいい。それでやろう! ――事前に協議するべき事項について確認した。これより審問を開始する!」
 歪んだ頬を引き攣らせ、ダリウスが片腕の銀剣を振り上げる。最初に質問する権利は、審問法廷を開いたダリウスにある。
「問おう! お前は九年前のあの日、玉座に侵入し、選出されたばかりの『教皇』シャロン・ウィルスティーズをその手にかけた。相違ないな?」
「相違ない」
「そのせいで、この世界には荒廃が訪れた」
「そうだ。それがきっかけだった」
「そうとも、違えようはずがない! 貴様が諸悪の根源なのだ。世界が荒廃に包まれ、多くの者が亡くなった原因は貴様にある! その責任はあまりにも重大。万死をもってしても償い切れるものではない! 全ては貴様の浅ましい欲望が原因だ。愚かにも自分が神の依り代に成り換わろうなどと」
「違う」
 糾弾する声を、クレーエの静かな声が遮る。澱んだ瞳を真っ直ぐに向け、
「それは違う。俺は、あいつの代わりに教皇の座につきたかった訳じゃない」
 クレーエを呑みこもうと這い寄っていた四方を囲む炎が揺らめき、遠退く。鬼のように険しいダリウスの表情が訝しげに歪んだ。
「違う? では貴様はあの日、なぜ玉座に立ち入ったのだ」
「次は俺が質問する番だ」
 有無を結わさぬクレーエの声に、ダリウスが沈黙する。
「答えろ、ダリウス。お前は堕天してまで、この世界で何を成そうという」
「知れたこと。この世界を捨てた神を問い殺し、新たな神を選び出す」
「本気で言ってるのか?」
「本気かどうかは、この法廷が証明している。……この九年間、お前はこの世界を見て回ったのだろう? 世界は罪科と悪意で溢れている。救いようのない奴らだとは思わないか? 奪い奪われ、殺し殺され、支配し支配されの繰り返しだ。奴らは何も学ばない。審問官がいくら心を砕いた所で、世界は同じ場所を堂々巡り。それではあまりにも報われない……報われないんだよ。こいつらは」
 ゆらり、と一瞬、炎の向こうに苦しみ声を上げる亡者の影が顕れる。クレーエはそれを苦しげに見つめ、
「彼らを殺したのは、俺でありお前だろう。……無暗やたらに戦火を振り巻くことが、世界の救済に必要なのか?」
「俺は全てをゼロに戻すことにしたんだ。パズルを全て分解して、一から組み直す――溜まった恨みつらみを全てぶちまけて、そこから始める。世界中の全ての怨嗟の声を蒐集し、それを訴状として神を問い殺し、新たな神を据えて世界を再構築する。それが俺が辿るべき唯一の道」
 揺るぎない声で告げるダリウスに、クレーエは痛ましい物を見るような目を向けた。
 その願望は、あまりにも途方が無さ過ぎた。例えそんな考えを持つことがあったとしても、実際に為そうとする者など、この男意外に居ないだろう。
「次は俺の質問でいいな? 貴様の死刑を確定する前に、一つ聞いておきたいことがある」
 言って、ダリウスは不意に、視線をフレデリカへと向け、
「そこの子供たちを守ろうとするのは、過去への罪滅ぼしか?」
 ぽかんと見上げるフレデリカを、クレーエが無感情な表情で見つめる。僅かに考える間があって、
「そうだな。否定はしないよ」
感情の篭らない声で囁く。
「初めて郊外の森で会った時、こいつらは夜盗に襲われていてな。最初にフレデリカが夜盗に組み伏せられて、リオは夜盗たちを審問しようとしたが、上手く裁けずに居た……夢を見ているのかと思ったよ。まるで過去の俺たちをみているようだった」
 言って、遠くを見るような目を向け、
「お前が俺たちを助けてくれたのも、そんな状況だったよな」
「……そんなこともあったかもしれないな」
 ダリウスは微かに顔を歪め、吐き捨てるように言う。
「まさか、そのことを後悔する日が来るとは思わなかったが」
 銀剣を手に間合いを詰めるダリウスに、クレーエが半身に構えを取る。
「この俺に勝てると思ってるのか? クロエ。お前に審問の方法から、闘い方までを教えたのは、どこの誰だ」
「解ってるさ。だが闘わないと守れないだろう? 全てはあの時と同じ。俺は犯した罪の代償に審問官とての力を失い、無力な俺に戻った。夜盗に襲われて、何も出来ずに居た俺に……だがそれでも、子供二人を守れるくらいの大人にはなったつもりだ」
 クレーエの腕が上がり、回転式短銃《リボルバー》の銃口をダリウスへと向けた。フレデリカが声にならない悲鳴を上げる。
 それではあの男は倒せない。それは銃を向け、その代償として右腕を斬り落とされたフレデリカがよく知っていた。そんなもので倒せるほど、あの男は易しくない。銃の腕も殺意も本物のクレーエが引き金を引けば、あの黒翼の天使は、容赦なくクレーエの命を刈り取るだろう。
「無駄と知りつつ、抗うか。いいだろう。それに応えてこその堕天審問官だ」
 言って、ダリウスは銀剣を頭上に高くに掲げた。微かに動く唇の動きに呼応して、細身の刀身の表面に細かなアラビア文字が浮かび上がる。
「我は問ふ! 汝に罪はありや。罰を受くる覚悟はありや。汝、神に逆せし大罪人なり! 地に落ち、地獄の業火を知る我が天使よ、この者に下る罰の在り処を示せ!」

『正義の剣はここに裁く。受けよ、深淵より噴き上がる怒りの炎、死者たちの嘆きを!』

 ダリウスの叫びに呼応するように響いた細い声に、フレデリカは弾かれたように空を見上げた。
『死刑! 死刑! 死刑!』
 赤熱の空には、無数の剣を背後に控えさせた堕天使の姿があった。言葉を発しないはずの天使が、地獄の亡者のように声を張り上げる。有り得ない景色はそれだけでは終わらなかった。周囲の景色に異変が起こる。赤熱の空が、焦げたコンクリートの床が歪み、足元から冷たい空気が這い上がる。
 フレデリカは、我が目を疑った。
 数瞬の眩暈の後に目の前に広がっていたのは、荒れ果てた塔の屋上などではなかった。リオを追いつめた死者の国――無限に広がる地獄の荒野が、先ほどとは比べ物にならないほどの現実感でどこまで広がっていた。地を、あるいは天を構成するのは、無数に蠢く死者たちの顔、顔、顔。腕を、あるいは脚を触手のように揺らし、苦悶と怨嗟の合唱を張り上げる。フレデリカは短く悲鳴を上げ、眠るリオの頭を掻き抱いた。
 ――こんなもの、まともに耳にすれば頭が狂ってしまう!
 ギン、
 死者たちの合唱を打ち消すように、ダリウスがアラビア文字の浮き上がった細剣を地面に突き立てる。
「貴様が犯した罪はあまりにも重い。議論を闘わせようとも、結論は既に出ている。――判決を言い渡す。クロエ・シュトラウス、貴様を死刑に処す。貴様が殺した者たちの手によって堕ち、無間地獄で永遠の責め苦を受けよ!」
 告げると同時に、死者たちが一斉に手を伸ばす。
 死者の腕に足を取られながら、クレーエは『聖遺物』《レリクス》である天秤を眼前に掲げた。
「デウス・エクス・マキナ」
 呟く声に、突き立てた細剣に乗ったダリウスの指が微かに動いた。真意を秤かね、探るような視線を向けるダリウスに、クレーエはゆっくりと首を振る。悲しそうに、ゆっくりと、
「違うんだよ。ダリウス。お前が世界中の悲哀を集めたって、神は決して裁けない。アレが再びこの世界に戻って来ることもない」
「……見苦しいぞ。クロエ。裁きの時は来たのだ。これ以上、俺を失望させるな」
「俺の判決は、それでいい。お前が決めたんだ。それが俺に相応しい最期なんだろう。……だが、まだお前の判決が出ていない。その結論が出て初めて、俺たちの審問法廷は閉廷となる。次は俺が質問する番だったな」
「……ッ、――イグニス!」
 ダリウスの声と同時に、無数の火柱がクレーエの周囲に立ち上がった。手を伸ばそうとしていた死者たちの幾つかが、その炎に飲み込まれ、溶けた飴のように表情を歪ませる。
「その必要は無い! 貴様の刑の執行によって、この法廷は閉廷だッ」
 叫ぶダリウスの呼吸は乱れ、額には多量の汗が浮かんでいる。
 ダリウスには得体の知れない予感があった。これから発されようとしているのは、鍛え上げた鋼の精神を土台から崩壊させ得るものだと。
 全てを受け入れたとでも言うような、クレーエの表情――それがダリウスの心を酷く揺さぶる。
 宙空に浮かぶ十の銀剣が、一斉にその切っ先をクレーエへと向ける。
 ダリウスは腕を振り上げたままの姿勢で、クレーエを見詰めた。僅かに逡巡し、
「ダリウス。俺たちが信仰していた神がどういう存在なのか、お前は考えたことがあるか? あれはな」
それらを振り払うように、叫んだ。
「……執行!」
 天より降り注ぐ、十の銀剣。
 それらを真っ直ぐに見詰め、クレーエは赤く燃え上がる天を見上げた。いつか彼の天使と共に駆けた空。力強くうねる力強い太陽の紅炎の揺らめきを。
「俺たちが信仰する神は」
 最期に、終わりを告げる言葉を紡ごうとして、

 柔らかい感触に、唇を塞がれた。

「――否、天は汝に罰を下さず」
 唸りを上げて近づいていた十の短剣が、見えない腕に弾かれたように軌道を変え、地面に突き刺さる。
 オォ、
 蠢いていた死者たちが苦悶の声を上げ、波のように押し寄せた炎が辺りを赤く染め上げた。一瞬の眩暈――気がつくと、目の前に広がっているのは、元の荒れ果てた塔の屋上だった。
 近くには今にも泣き出しそうな顔をしたフレデリカと、死んだように眠るリオの姿。クレーエは、訳も解らず目を瞬かせ、
「……なにやってんだ。お前」
唇を塞ぐ柔らかな指の持ち主――ジブリールの横顔を睨みつけた。
「待たせたな。ふっ……」
 人差し指を突きつけたジブリールが、振り返り得意げに目を細める。呆然とするクレーエへと、ジブリールは嘲るような目を向け、
「何です? さっきの恰好つけは。『待たせたな、リオ』なーんて。見ていて寒気がしましたよ」
顔を背け、嫌だ嫌だ、とぶるりと身体を震わせる。
「お前、いつから」
「最初からずっとです。屋上に辿りついたのは私たちの方が先でしたからね。眠るリオさんの顔を見てニヤニヤしてた所も、フレデリカさんを亡者と間違えてビビッた所も全部見てましたよ」
「な、何を……言って」
 血の気を失くしたクレーエの顔が、徐々に赤く染まっていく。いろいろな想いとか覚悟、その他用意していた悲喜交々としたものが、突然現れた濁流に容赦なく洗い流されていくようだった。
「そ、そんなことはどうでもいい! それより、こんな所で何やってるんだ、お前……!」
「お前ではありません。ジブリールです」
 ぴしゃりと言って、酷く透明な瞳を向けてくる。その視線の強さに、クレーエは思わずたじろいだ。言葉を飲み込んだクレーエに満足げな視線を向けると、ジブリールは人差し指を唇から離し、
「心配しなくても大丈夫ですよ。天使の執行は、対象者以外に影響を与えることが出来ません。無関係な私を傷つければ、その傷はダリウスにも返ってきますから」
くすりと、可愛らしい少女の仕草で微笑んだ。

『……ガブリエル』

 低く唸るような声に顔を上げる。
 元の色を取り戻した夜の空――その只中に、煌めく炎を従える異形の堕天使の姿があった。怒りに歪んだ紅の瞳から零れるのは、真っ赤な血の涙……あまりの迫力にクレーエが息を呑むと、その視線を遮るようにジブリールが前に出た。どこか冷たく感じる声で、
「無様ですね。イグニス。そんな醜い姿が、新たな世界の神に相応しいものだと?」
『……黙れ』
「宿主に寄生する貴方には、堕天使の名すら相応しくない。醜い悪魔がお似合いです」
『黙れ黙れ黙れ! 僕たちの邪魔をするな――!』
 激高したイグニスが掲げた両腕を振り下げ、紅蓮の炎を放つ。悪意から発せられた黒色の炎は、巨大な火柱となって立ち上がると、ジブリールに向かって、その鎌首をもたげた。
「っ、イグニス、止めろ!」
 どこかでダリウスが叫ぶ声が聞こえる。しかし、イグニスは止まらない。
 クレーエは反射的にジブリールへと手を伸ばした。しかし――間に合わない。全天燃え上がるような炎の壁が、絶望的なまでの密度でジブリールへと降り注ぐ。
 その刹那、クレーエは見た。
 胸を張り、前を見つめるジブリールの静かな横顔を。細く長い金糸のような細い髪が、熱風に煽られ巻き上げられ、地獄に差し込む蜘蛛の糸のように煌めくのを。
 炎はジブリールを飲み込むと、獣が唸り声にも似た音を響かせて轟々と燃え上がった。断末魔の声さえ聞こえなかった。
 肌を焦がすような熱気に関わらず、クレーエは黒い瞳を大きく見開いて、その光景を見詰めていた。薄くなった酸素に視界が揺れ、倒れるように膝を突く。
『ハハハ! 裁きの時は来た! 死刑! 死刑! 死刑!』
 宙空のイグニスが狂ったように叫び、炎を撒き散らす。それはまさしく地獄の景色そのものだった。炎は見境なく辺りに燃え移り、周囲に幾つもの篝火を生み出す。
「……くそっ!」
 コンクリートの床に打ち付けた拳が、焼けて爛れる。
 クレーエは、胸に堪えがたい悲しみが満ちていくのを感じていた。後悔と言う名の鎖が、痛い程に胸をしめつける。
 自分が居なければ、彼女は死ななかったはずだ。
 自分さえ、居なければ……。
「――っ!?」
 床に突いた震える手に薄らと何かが絡み付き、クレーエは身を固くした。それは、消え去ったはずの死者の腕だった。ジブリールを見殺しにしたという罪悪感に呼応し、再び姿を現したのだ。死者たちの腕は次々と現れ、クレーエの身体にしがみつく。
 ――身体が重い。
 それは纏わりつく死者の重さだけではなかった。それは、いうなれば罪の重さ。歴史上もっとも罪深いと言われる『大禍』が抱える罪の重さは、一人の人間が背負うにはあまりにも重すぎた。歩き出せないほどに、重かった。
 駄目だ。
 呼吸が追いつかない。意識が遠のく――。

 ぽっかりと空いた闇の中に引きずり込まれながら、出鱈目に手を伸ばし叫ぶ。
 まだ、俺はダリウスを止められていない。
 俺が止めるんだ。
 あいつを止めることが、俺に出来るせめてもの償い。
 ……頼む、シャロン。
 もう少し。もう少しだけ、俺に時間を
 
「顔を上げなさい。クレーエ」
 頭上から降ってきた静かな声に、ふっと身体が軽くなる。言われるままに顔を上げると、鼻先に薄い光の帯のような、メスリンの布地が触れた。
 見下ろす翠緑色の瞳の美しさに、ほんの一瞬、呼吸さえ忘れる。
 気付けば周囲を取り囲んでいた炎は姿を消し、代わりに炎とは違う、弾けるような清廉な光が、きらきらと辺りに煌めいていた。纏わりついていた死者たちが、細い悲鳴を上げながら光の中に溶けていく。
「どうして、お前」
 呆然と呟くと、ジブリールは何故か不服そうな顔を向けて頬を膨らませた。『お前ではありません』彼女の言いたい言葉が発せられるより先に頭に浮かんだが、思考がそれ以上前に進まない。ジブリールは諦めたようにため息を吐き、火傷一つ負っていない陶磁のように白い腕を差し出した。
 クレーエは反射的にその手を掴もうとして――指先に触れる、微かに纏わりつくような感触に手を引く。
「これは……水?」
 ジブリールの周りには、彼女を守るように透明な水の膜が張り巡らされていた。同時に感じる。大きな『神の意志』の力の流れ。ただの水ではない。これは――。
「この姿を見ても、まだ気づきませんか?」
 ジブリールが僅かに向けた背に、クレーエは思わず息を飲んだ。
 両手を組み、祈るように佇む彼女の背中には、半透明の白く輝く四枚の羽根があった。
「何故だ……何故だ、クロエ!」
 血を吐くような声に、弾かれたように顔を上げる。
 声の方へと顔を向けると、そこには罪無き者を傷つけようとした対価として、胸に巨大な裂傷を負ったダリウスの姿があった。
「何故、神に捨てられ、天使にも見放されたお前が、天使の加護を受ける!? 世界を絶望に追い込んだ大罪人であるはずの貴様が、何故清廉な光を纏う天使の加護の下に居られるのだ……! 神に触れれば消えると知っていながらその手を伸ばし、世界をこのような地獄に替えた、お前が!」
 口を開くたびに多量の血液を滴らせながら、ダリウスが怒りに顔を歪め叫ぶ。静観するジブリールが冷たい目を向け呟いた。
「貴方は理解していないようですね。今の瞬間、救われたのが誰だったのか」
「……なに?」
「いいでしょう。私が真実を教えて上げます」
 ジブリールはそう囁くと両手を広げ、中空から何かを取り出すような仕草をした。振り返った彼女の両腕には、いつの間にか大きな姿見が抱えられている。
「その鏡は、まさか」
 クレーエは思わず声を漏らし、吸い込まれるようにその姿見を見つめた。ダリウスもまた、息をのんでそれを見つめる。

 管理協会に居た審問官ならば、誰もが知っている。
 その鏡は、前教皇の――。

 見つめる鏡面が水面のように揺らぎ、その向こうに光り輝く黄金の門扉が映り込む。
 ――見紛うはずがない。
 クレーエの胸に形容し難い感情が溢れる。
 あれは、エリュシオンの中心――大聖堂の最奥、教皇の寝殿へと至る『神の門』。高さ八メートル幅四メートにも及ぶ巨大な門扉は、神の元へと繋がる唯一の道と伝えられる。
「貴方達には、自身の目で確かめてもらいます。九年前のあの日、『神の間』で何があったのか――」
 透き通るようなジブリールの囁きと共に、鏡面から光が溢れる。
 そして、暗転。
 抗う術などありはしなかった。
 クレーエの意識は、渦巻く水流に巻き込まれるように、鏡の中へと吸い込まれていく……。






(>∀<)ノぉねがいします!



<前へ   表紙へ   トップへ   次へ>