■□エリュシオンの園A

 カラカラカラカラ……。
 幻灯機が回るように、過去の映像が映し出されていく……。



 最果ての園、エリュシオン。
 世界で最も神さまに祝福された地に、一人の青年が居りました。
 神さまに代わって人々の罪を秤取る、審問官の集まり――管理教会《アパティア》の一人であった青年は、寛容で公正な審問を行うことから、人々からたいへん慕われておりました。何より、青年の天使は他のどの天使よりも強い輝きを放っており、その姿はしばしば、古い神話に登場する神さまに最も近いと謳われた天使≠ノ例えられました。
 人々は口々に言います。
「次の教皇さまには、最も素晴らしい天使がついている、あの方が相応しい!」
「あの方が次の教皇さまになってくれたら良いのに!」
 『教皇さま』とは、天使の代わりに神さまを宿した特別な審問官のこと。管理教会《アパティア》を統べる教皇さまは、玉座についたその日から眠り続け、夢の中で神さまと一緒に『世界の調律』を行うといいます。
 泣く子があれば心地よい風をそよがせ、日照りで苦しむ農民があれば恵みの雨を降らせ、疫病で苦しむ町があれば、病の元となる悪魔たちを追い払う。
 そうやって、教皇さまは神さまと一緒に、世界が永遠に美しい姿のままあるようにと力を注ぐのです。
 だからでしょうか。
 玉座で眠る教皇さまは、歳を取ることが無いといいます。永遠に美しままで、その役目を全うする時まで眠り続けるのです。
 教皇さまは、最も優秀で、心根の清らかな審問官がなる習わし。最果ての園に住む人々は、次の教皇さまには最も光り輝く天使を宿す、あの青年がなるものと信じて疑いませんでした。



 大罪事変、前日――。

 のっぺりと平たい丘を、一陣の海風が吹き抜ける。春の予感を秘めた穏やかな風に、丘一面に咲き誇るユキノハナが、滴に似た花弁を一斉に揺らした。
 風の来る方向を確かめるように、クロエは歩いてきた道を振り返る。起伏の激しい丘を、くねくねと這うように長く伸びる未舗装道が続いている。肺一杯に息を吸い込むと、春の風の中に微かに冬の匂いを感じた。
 厳しい冬を越え、生命の喜びに溢れるこの季節の風が、クロエは一番好きだ。仮に、死後の国なんてものがあるとして――聖職者たる審問官にあるまじき仮定かもしれないが――死後そんな場所へ行けるのだとしたら、それはこんな日が良い。
「駄目だ。つい感傷的になってしまう」
 首を振って、緩みつつある気分を落ち着ける。腹の底に息を吸い込むと、クロエは改めて目の前に聳える大聖堂を見上げた。
 精密に設計されたファザードと、その上に居並ぶ聖人たちの彫像……天の国を再現しようという試みの下に建立された大聖堂には、限界まで希釈された世俗感により、この世のものとは質を異にする空気が流れている。
 ついつい感傷的になり、死後の世界について思いを巡らせてしまうのも無理ない。何せこれら建造物は全て、それを目的として造られたものなのだから。
 異界めいた空気に飲まれないよう、寝不足で胡乱な頭を振って、クロエは石造りのアーチを潜った。



 教皇庁管轄ラダマンテュス大聖堂――世界中の審問官を統べる管理教会《アパティア》の総本山は、同時に世界最大の軍事力を誇る宗教国家の枢要機関でもある。
 いつもは警備の人間が散見される聖堂内は、メルクリウス枢機卿の命で人払いが済んであるようだった。いつもは銃兵器で武装した警備員が常駐している庭園も、今は海底に没した古代の神殿のように、重たい静寂の中に沈んでいる。
 十歳で管理教会《アパティア》所属の審問官となって、今年で九年目になるが、このように静かな庭園を見るのは初めてだ。
 クロエは改めて生成色の司教服の襟を正すと、広場の中心に据えられた噴水庭園を横目に石畳を進んだ。ファザードの下に見えるブロンズ像が視界に入るようになったところで、足を止める。
 噴水の中央に設置されたオベリスク、その足元、滾々と清水の湧き出る円形噴水の縁に、黒い人影が立っていた。
 春めいた周囲の空気とは質を異にする、野暮ったい黒の僧服を来た男だった。百九十は超すであろう上背。明るめの短い髪を後ろに撫でつけ、頬には縦に一筋、引きつったような傷跡がある。
 『神の国』を再現する教皇宮殿の中にあって、男だけが完全な異物だった。黒い影のような男が立つと、白亜の宮殿は、住む者の絶えた廃城のような不吉ささえ帯びる。
 男は足を引きずるようにして、どこか気だるげな様子で歩み寄ると、クロエの前で立ち止まった。力が漲る気配。男の身体が流れるように動き、鍛え上げられた右腕が伸びる。クロエはすかさずそれに応じ、
 パン、
乾いた破裂音が、石畳の広場に響いた。
「……つっ」
 乱暴とも言える所作で手のひらを打ち合わせると、男――司祭ダリウス・ロンブルは、クロエの手を強引に握りしめ、頬の古傷を引き攣らせて滲むように笑った。
「よく帰ったな、クロエ。元気そうで何より!」
 力強い声に、強張っていたクロエの口元が引き攣る。
 たまらず鈍く痺れた手のひらを摩っていると、不意にダリウスの脚の後ろから、二つの小さな影が猫のように飛び出した。
「何より! クロエ!」
「クロエ! 久しぶり!」
 飛び出したのは、小さな双子の女の子。はしゃいだ声を上げながら、思い思いにクロエの僧服にしがみつく。クロエは戸惑いつつも、
「レイラにライラ。出迎えに来てくれたのか?」
少女たちの無邪気な笑顔に、雪が溶けるように強張っていた表情を緩めた。
 二人は得意げに笑って、
「そうよ。そうよ。嬉しいでしょう?」
「愛想の無いダリウスじゃ花に欠けるもの。やっぱり私たちがいないとよね」
 ねー、と揃って首を傾げ、クスクスと笑い合う。小さな手を伸ばして、競うようにクロエの生成色の僧服を引っ張り始めると、ダリウスは頭痛を堪えるように白手袋の嵌められた大きな手で顔を覆った。
「すまないな。クロエ。ついてくるって聞かなくてな」
「いや、元気が出たよ。正直、ここへ来るまで気が重くてどうしようかと思ってたんだ」
 笑顔で言って、白手袋のまま、まとわりつく二つの小さな頭を撫でる。レイラとライラは陽だまりの猫のように目を細め、心地よさそうに身を捩り、
「それより! ちょっと、ダリウス!」
勢いよく振り返ると、揃って柔らかそうな頬を膨らませ、抗議の声を上げた。
「なんで謝るのよ!」
「こんなに可愛い私たちに出迎えて貰えて、嬉しくないはずがないじゃない!」
「わかった、わかった。俺が悪かったよ」
 ふくれっ面の姉妹に、ダリウスが降伏を示すように小さく両手を挙げる。それでも少女たちは剥れ顔でクロエの腰の辺りにしがみついて、
「どうしてお母さんは、ダリウスなんて選んだのかしら!」
「そうよね。私だったらクロエにするわ。若いし、将来有望だし、ダリウスはもうおじさんだもの」
母親譲りの赤茶色の目を細めて、ダリウスを非難めいた目で見上げる。ダリウスの眉尻が面白い位に下がる。黒い大型犬が子供の悪戯に困り果てて途方に暮れている、そんな顔だった。
「ははっ、あの鬼教官ダリウス・ロンブルが、子供たちの前では形無しだな」
「放っておけ」
 からかうように言うと、憮然とした表情のダリウスが微かに頬の傷を歪める。クロエは笑いを堪えながらも、一回りは年上の友人に改めて向き直って、
「三か月ぶりだな。ダリウス。そっちは変わりなく?」
「見ての通りだ、クロエ。お前こそどうした。辛気臭い顔しやがって。聖堂の毒気にでも当てられたか?」
片目を眇め、からかうように言うダリウスに、クロエは「そんなもんかな」と苦笑気味に返した。
 何せ、つい数時間前まで火薬の匂いと死臭がたち込める戦場の只中に居たのだ。
 今のクロエにとって、宮殿の清浄すぎる空気はかえって毒だ。
「出迎えてくれるのは有り難いが……どうしてこんな人気の無い所で待ってたんだ? 凱旋パレードを見に来れば良かっただろう」
 双子の姉妹を見降ろしながら言うと、ダリウスは困ったように笑って、
「……ああ。最初はそっちに行くつもりだったんだがな」
「あんな騒がしいところ、淑女の行くところじゃないわ」
「凄く煩かったんだもの! 耳が割れそうだったの!」
 左右から声が上がり、両の袖を強く引かれる。「あのね、あのね」と餌をねだる雛のように必死で口を動かす双子たちに、ダリウスは肩をすくめて「と、いうわけだ」と小さく付け加えた。
「しかし、パレードの騒ぎは尋常じゃなかったな。歓声がここまで聞こえていたぜ。まるで地鳴りのようだった」
「ああ。出迎えの審問官たちが、天使に祝砲を上げさせたんだ。あまりにも派手にやらかしたものだから、火の粉が降り注いで、街はパニック」
「はははっ、そうか。あれは歓声ではなく悲鳴だったか!」
 何がツボにはまったのか、ダリウスが身体を仰け反らせて笑う。突然のことに、双子の少女たちが揃ってアーモンドのように大きな目をぱちくりさせる。
「それは見に行かなくて正解だった。それにしても、お前の部下たちは気合が入っているな。俺が司教やってた頃は、凱旋してもそんなに熱烈に歓迎してくれたことなんて無かったぜ」
「そりゃそうさ。部下たちが無許可で天使に祝砲を上げさせたりしたら、あんたならどうした?」
「そうだな……。その場に居た全員に始末書を書かせて、すぐさま罰として一週間の山岳踏破訓練、って所だな」
 さして悩むでもなく答えて、「この時期なら、雪山がまだいい頃合いだろう」と真剣な表情で続ける。クロエは思わず、噴き出すように笑った。
「やっぱり。だからあんた、人望がないんだよ」
「ふん。……違いない」
 ダリウスも、ニヤリと唇の端を吊り上げる。
 話が分からないレイラとライラが、不満顔でクロエの僧服を引っ張る。その様子が何だか可笑しくて、クロエは本当に久しぶりに、心からの笑顔を浮かべた。



 玄関廊から伸びる柱廊には、幾体もの守護聖人の像が並んでいる。
 その足元を、そっくりの顔をした二人の少女が、くるくると忙しく駆け回っていく。転びやしないかと、先を行く子供たちを見守っていると、隣を歩くダリウスが口を開いた。
「今回の遠征はどうだった?」
「……さすがに苦戦したよ」
 力なく微笑み、クロエは視線を落とした。
「異教徒たちにとっても、今回の大遠征は長らく続いた宗教戦争の分水嶺だ。投入された人員も兵器の量も、これまでの衝突の比じゃなかった。戦場は、そりゃ酷いものだったさ」
 口にした瞬間、脳裏に黒焦げになった屍の山が蘇った。
 同胞の遺体に押しつぶされるようにして横たわる、事切れた少年兵の真っ黒な口腔――絶望を煮詰めた様な闇の中に、意識が吸い込まれていくような錯覚を覚えて、クロエは思わず額に手をやった。
「三日で片付くと試算していた総力戦が、一週間も続いたんだ。責める方も責められる方も地獄だったよ」
「天使の執行能力に頼って、『綺麗な戦争』ばかりやって来た審問官たちには、良い薬になっただろう。本物の戦場がどんなものなのか、理屈では解っていも骨身に染みて理解してる奴は少ない」
 真っ直ぐに前を見詰めたまま、ダリウスが感情のこもらない声で呟く。
 ダリウスの戦場経験は、クロエよりもずっと豊富だ。詳細に説明しなくとも、互いの戦力と交戦結果さえ解れば、あとは現地で何があったかなど容易に想像出来るのだろう。
「しかし、お前の口から苦戦したと聞くのは意外だったな。風の噂では、クロエ総大司教が駆け付けた戦場は常勝無敗の敵なしだったと聞いたんだがな」
「確かに常勝だったさ。けど、それは俺が居た戦場に限った話だ。俺に与えられた任務は、全軍を統率して審問騎士団を勝利に導くこと。そういう意味では、戦績は精々五分といった所だ」
「はっ、五分もいけば十分じゃねぇか」
 ダリウスは吐き捨てるように言うと、自身の大きな掌に視線を落とした。じっと茶色い瞳を眇めるようにして、
「俺たちが何度退けても、諦めなかった連中だ。今回の戦争では、奴らは鼻から命を捨てる覚悟で来ていただろうよ。そんな奴ら相手に、寄せ集めの審問騎士団でよく戦ったってものだぜ。クロエ……お前は欲張りなんだよ。森で夜盗共に囲まれて震えていたガキが、分不相応な高望みをするんじゃねぇ。世界を救う英雄にでもなったつもりか?」
 低く抑えた声で言って拳を握ると、心中を見透かすような鋭い視線を向けてくる。
 これがこの男なりの励ましの言葉だと知っているクロエは、沈みがちになる表情に、無理に笑みを浮かべた。
「十年前の話を今更持ち出すなよ。ダリウス。昔話ばかりしていると、司教たちが噂し始めるぜ。泣く子も黙る指導教官ダリウス・ロンブルも歳を取ったもんだって」
「泣く子も黙る? ……誰だ。そんなデタラメを広めているのは」
「ん? あながちデタラメって訳でも無いだろう」
「いいや。とんでもないデタラメだ。……脅したくらいで静かになるなら、俺はレイラやライラの扱いにこれほど手を焼いてねぇ」
 憮然とした表情で呟くダリウスに、クロエは思わず声を上げて笑った。
 ダリウスも低く抑えた声で笑う。はしゃぐ双子たちの声が、遠く玄関廊から響いてくる。
「ところで――」
 柱廊も中ほどを過ぎた頃、ダリウスが真剣な表情で口を開いた。
「『山狗』は、どうなった」
 クロエはほんの一瞬、表情を強張らせるも、笑みを貼り付けたまま小さく首を振る。
「死んだよ。俺が手ずから執行したから、間違いない」
「そうか」
 ダリウスは感情の読めない声で囁くと、視線を転じて、外周の白壁の向こうにあるエリュシオンの街並みを見通すように目を細めた。
 今回の掃討作戦で、管理教会にとって最大の脅威だった『山狗』の処刑に成功した。有史以来、形を変え指導者を変え続いてきた宗教対立は、あと数か月ほどで決着を見るだろう。
 ――戦争は、終わる。
 新しい時代がやってくるのだ。
「お前たち騎士団が遠征に出てすぐのことだ。エリュシオンにも、戦場で捕虜になった『山狗の仔』が連れられて来たんだがな。……正直、扱いに困っている」
「『山狗の仔』……」
 物憂げなダリウスの声につられる様に、クロエの表情も曇る。
 つい三年ほど前の話だ。中東の片隅にあるとある街で、異教徒掃討の為に派遣された、選りすぐりの力を持つ審問官たちが、年端もいかない子供たちに惨殺された。
 犯行を行ったのは、中東世界が雇った傭兵――『山狗』。そして、山狗が育てた子供たち『山狗の仔』。審問行為の一切が通じない彼らに管理教会は思わぬ反撃を受け、圧倒的な戦力差の下に終息すると思われた宗教戦争は、長期戦となった。
 彼らの多くは、教皇聖下の名の下に特別執行権限を与えられた、司教職以上の審問官たちの手によって処断されたが、それでも年端の行かない子供を殺すことを躊躇った審問官たちは多く、相当数の捕虜が生じた。
「そいつらは今、どこに?」
「教皇庁の独房に入れられている。原理主義のバカ司教が数人、天使が裁けないのならこの者たちに罪は無い、なんてぬかしやがって、何人かが保護観察処分になった。裏から手を回して、独房からは出さないようにしているが、原理主義の奴らはそれさえも気に食わねぇようだ」
「無罪? 本気で言ってるのか?」
「奴らに冗談をいうようなユーモアのセンスはねぇよ。奴らが言うには、偉大なる神の使いである天使の裁定に間違いなど無い。それに背くことは神への冒涜に近いんんだとさ」
 困ったもんだ、と呟きダリウスは重たい息を吐いた。
 クロエも思案気に腕を組む。
 天使が裁けないから無罪など、馬鹿げた主張だと一蹴したいところだが、天使万能説を支持する原理主義は組織内にも多く、幹部級の審問官の中にも支持者は少なくない。
 クロエは思う。
 罪を裁くことが出来ないのは、その審問官の審問能力に問題があるからだ。天使はあくまで執行者であって、罪悪を秤り取り、罰を裁定するのは同じ人間である審問官の役目。天使はあくまでその助力をするだけだ。審問官と揃って初めて『審問執行』という一つの機能を全うする。天使は決して『全知全能の神の使い』などではない。
「それで? ダリウス。あんたはそう言われて、大人しく退き下がったのか?」
「突っかかるなよ、クロエ。俺は司教を退いて司祭に下った身だ。特例として形式上の権限は保持されているが、それでも発言力は司教共には敵わねぇよ。多数決で押し通されりゃお手上げだ」
 苛立つクロエは、「らしくないな」という言葉をすんでのところで飲み込んだ。本当は気付いていた。何より悔しい想いをしているのは、ダリウス本人であると。
「俺を非難する前に、お前はどうなんだ。クロエ。お前は奴らの上役、大司教だ。お前が執行部に戻って、原理主義の奴らにびしっと決めてくれれば、それで片が付く話だろう? 今を時めくクロエ総大司教様の言う事なら、奴らも聞くんじゃないのか?」
「……それが出来れば苦労しない」
 ダリウスの詩的に、クロエは忸怩たる思いで拳を握りしめた。
 クロエはこの作戦後も当分の間、前線の指揮に立つことが決まっている。本部に戻るのは半年は先になるというのに、不可侵を保っている原理主義の人間といざこざを起こすのは上手くない。
「良い方法が思いつかないなら、俺が考えてやろうか?」
 悩むクロエに、ダリウスがおどけた調子で口を開いた。思案するように腕を組み、
「そうだな。実地訓練と称して、中東の砂漠辺りに原理主義の奴らを置いて来るっていうのはどうだ? 無事生還した奴らには、捕虜となっている『山狗の仔』たちと実践組手。面白そうだろう」
「そんなもの許可できるか。異教徒掃討戦に参加していない原理主義の奴らじゃ、『山狗の仔』とやりあって生還する確率はゼロに近い。人手不足の中、ただでさえ少ない審問官を何人も駄目にしたなんてことになったら、あの口うるさい枢機卿《カーディナル》たちに怒鳴り散らされるぞ。管理教会を潰す気か、って」
「はっ、それも悪くねぇじゃねぇか」
 好戦的な光を瞳の奥に光らせ、ダリウスが笑う。口調は冗談めいているが、目が本気だった。
 今でこそ所帯を持って丸くなったダリウスだが、司教を務めていた頃は、他の審問官に審問対決を吹っかけて力で押し切ってでも、自分の考えを曲げなかった。
 今、それをしないのは、恐らく、管理教会の反対を押し切って、司教職を辞したことに対する引け目があるからだろう。
 前線で戦う司教の立場を退き、後進の指導官として司祭職に収まるダリウスを、腑抜けと揶揄する者が居るのも事実だ。しかしそれでも、
「言っておくが、俺は本気だぜ。原理主義の野郎どもは、真の戦場の臭いを知らない。だからあんなことが言えるんだ。囚われてる『山狗の仔』を都市に放ってみろ――聖都は地獄に変わるぞ」
不意に見せる眼光の鋭さは、全盛期と比べても微塵も衰えていない。
 クロエは口を噤んで、少し先を走り回る双子たちに目を向けた。
 ダリウスの推測は、恐らく正しい。
 城壁の内側に自ら飢えた虎を放っては、幾ら管理教会といえども為す術がない。原理主義の連中は、そんな簡単な理屈も解らないのだろうか。
「はぁ。まったく、総大司教ともなると心労が多いなぁ、クロエ」
「まるで他人事だな、ダリウス」
 苦笑交じりに呟いたダリウスに、クロエが噛み付く。
「元はと言えば、管理教会の執行部に原理主義が蔓延ったのは、あんたがさっさと前線を退いて、俺に大司教の席を譲ったのが原因だろう。あの時、炎の奇跡《エレメンタル》を持つ司教の中で……いや、管理教会の審問官の中で、一番実力があったのは、あんただった。空席だった大司教の座にあんたが就けば、原理主義の連中を締め出すことだって出来たはずだ」
 そう。
 つい一年ほど前まで、『最強の審問官』の称号は、クロエではなくダリウスの為にあったのだ。
 触れる者を容赦なく焼き尽くす、炎の奇跡《エレメンタル》を持つ天使イグニスと、それを宿す鬼神の如き審問官ダリウス・ロンブル。中でもダリウスのあらゆる欺瞞を許さない執行は、歴史上類を見ないと評判だった。
 当然、誰もが火の奇跡《エレメンタル》の長――大司教には、彼が就くものと思っていたのだ。
 それなのに――。
 この男は大司教の任命式の前日になって、いきなり「子供が出来たから司教を辞める」と自らの地位を投げ出したのだ。
 ダリウスから辞意を伝えられた枢機卿《カーディナル》たちの、ハトが豆鉄砲を食らったような顔は、今でもよく話題草になる。
「俺では、執行部の派閥をまとめられないことくらい解っていただろう」
「それは、まぁ、悪いと思ってるが……」
 恨めしい目で見上げられ、ダリウスは罰が悪そうに頬を掻く。
 急遽、繰り上げで大司教になったのが次点のクロエだったが、クロエは当時十七歳。派閥をまとめ上げるには、実績と人脈にあまりにも乏しかった。
 そして、その時の禍根は二年たった今もなお、続いている。
「過ぎたことを蒸し返すなよ、仕方ないだろう? 責任をとってと言われては、男としては誠意を示すより他にない。もっぱら殺人罪を裁く俺が、色恋沙汰で有罪判決なんぞ食らっちまったら、それこそ審問騎士団の名に傷がつく」
 取り成すように言うダリウスに、クロエは渋々視線を和らげた。
「ともかく、あんたにはまだ第一線に居て貰わないと困る。あんたが中のことを仕切ってくれれば、俺も気兼ねなく戦場で戦えるからな」
「天下の総大司教様に頼みにされるとは光栄だな。まぁ、そんなに心配しなくとも、エリュシオンにはシャロンが居る。あれが居る限り、大した被害は出ないだろう。……知ってるか? 原理主義の奴らは、今じゃお前よりもシャロン嬢ちゃんの方が怖いらしいぜ」
「お前はまたそうやって」
 言い募ろうとするクロエの間隙に食い込むように、ダリウスの腕が動いた。流れるような動きでクロエの胸倉を掴むと、ぐいと顔を引き寄せる。驚くクロエへと、ダリウスは真剣な表情を向け、
「クロエ。お前が教皇となって、世界を変えろ。俺がこうして大人しくしているのは、お前に掛けているからだ。俺では辿り付けなかった場所に、お前は立っている。お前は俺の希望なんだよ」
「――……っ」
 絞り出すようなその声に、すぐに答えを返すことが出来なかった。
 幼い頃、都市の掃き溜めのような一角で、この男に拾われて以来、クロエはその背中を負って、幾多の戦禍をくぐり抜けてきた。
 権力闘争の伏魔伝と言われる管理教会の階段を上り詰め、ついに総大司教に任命された時も、ダリウスの背中はクロエの前に見えた。
 しかし――今、その男の姿は、クロエの後ろにある。
「ダリウス……」
 踵を返したダリウスが背を向ける。
 黒い僧衣が春の風を受け、ばさりと音を立てた。太い腕を、真っ直ぐに水平に伸ばし、
「行け。クロエ。他の大司教たちはもう集まっている。先ほど、教皇選出会議《コンクラーベ》の結論が出たそうだ」
「結論が? もう出たのか」
「悩むまでもなかったのだろう。適性試験の結果はエリュシオンに暮らす者なら誰だって知っている」
 背を向けるダリウスから目を離し、玄関廊にあるブロンズ製の大扉へと視線を移す。扉の前には、いつの間にか双子たちが行儀良く並び、クロエを見送ろうとしていた。
「頑張ってね、クロエ」
「私たちがついてるから」
 何か予感めいたものを感じているのか、いつもより強張った表情で言う。クロエは小さく笑って、
「ありがとう。……行ってくるよ」
 微笑み声をかけ、それぞれの頭に手を載せると、双子の少女たちは恥ずかしそうに笑った。
 改めてブロンズ製の扉の前に立つ。襟を正し、
「クロエ」
 気安い声に、呼び止められる。
 振り返ったクロエを、ダリウスはじっと射抜くように見つめたが、不意にニヤリと口の端を吊り上げるようにして笑った。
「結果を聞いたら、久しぶりに一杯やろう。ウチに来い。アイーシャに美味いもん作って貰ってやる」
「……そうだな。そうさせてもらうよ」
 相変わらずの友に苦笑を返すと、クロエは重たい大扉の取っ手に手をかけた。

   ※

 玄関廊の大扉を抜け、荘厳な装飾の施された身廊を歩いていると、内陣の手前で見覚えのある背中を見つけた。
「エンメルカル」
 声をかけると、振り返った小柄な少年が、青銅色の蛇が巻き付いた自身の背丈よりも大きな白い杖を下げ、恭しく頭を下げる。
「これはこれは。クロエ総大司教。ご機嫌麗しゅう。先の掃討作戦でのご活躍はかねがね」
「何だ、こそばゆいな。いつも通りにしてくれよ」
 ことさら砕けた口調で言うと、少年は顔を綻ばせ、どこか困っているようにも見える、柔らかく滲むような笑みを浮かべた。
 くすんだ白色の僧服を着た少年の名前は、エンメルカル。薄褐色の肌に、金色に近い薄茶色の髪。少女と見紛うような整った顔の中で、焦げ茶の瞳が穏やかな光を投げかけている。
「それじゃぁ、お言葉に甘えて……お帰りなさい、クロエ。今回は随分と苦労したようだね」
「ああ。想像以上に困難な掃討作戦《ミッション》だったよ。しかも、ようやく片づいたと思ったら、待った無しの帰還命令だ。さすがに疲れた」
 掃討作戦が終了してすぐに、中東の戦地から東の最果てにあるエリュシオンまで、休み無しで移動して来たため、もう丸二日ろくに寝ていない。
 蓄積した疲労は、頭の働きを鈍らせる。凱旋パレードの時も、我先にと懸案事項の決済を迫る部下たちには辟易としたものだ。メルクリウス枢機卿から呼ばれていることを盾に後回しにして貰ったが、後のことを考えると気が重くなる。
「君が弱音を吐くなんて、よっぽどだね。少し休んだらと言いたいところだけど……これからもっと慌ただしくなるよ」
「教皇聖下の容体は、そんなに悪いのか」
「恐らく、今日の夕方には目覚めるだろうね」
「今日……? そんなに早く?」
 想像を上回る答えに、クロエの表情が引き締まる。
 エンメルカルは深い湖面のような瞳でクロエを見上げると、いつになく真剣な声で、
「教皇不在の期間をあけぬ為にも、次の教皇は速やかに選出されないといけない。特に今は、管理教会にとって大切な時期だから」
「新教皇の即位式は?」
「出来れば、明日にでも」
「明日……」
 オウム返しに呟き、口元を手で覆う。
 ――明日、新しい教皇が誕生するのか。
「さぁ、どうぞ内陣へ。クロエ総大司教。他の四大司教と、メルクリウス枢機卿がお待ちです」
 恭しく頭を垂れるエンメルカルに頷きを返すと、クロエはエンメルカルの背後に薄らと顕現する天使に会釈して、白い光の漏れる内陣へと歩き出した。
「クロエ」
 呼ぶ声に振り返ると、エンメルカルが大きな杖を握りしめ、じっとクロエを見詰めていた。普段は静かな湖面のように穏やかな瞳に、強い意志の光が浮かんでいる。
 十歳程度の少年の姿をした古い友人は、何か言いたげに口を開いたが、
「――ううん。やっぱり、何でもない」
小さく首を振ると、いつのものように柔らかく微笑み目を細めた。

   ※

 薄暗い身廊を抜けると、視界一杯に光が溢れた。
 クロエはゆっくりとした足取りで、祭壇の設置された内陣へと進み出る。採光用の高窓《クリアストーリ》から降り注ぐ清浄な光――緻密に計算された光はどこまでも透明で、訪れる者の心に神の息遣いを感じさせる。
 遥か頭上には、聖人の描かれた半球形の巨大な天蓋《クーポラ》。それを四つの巨大な柱が支えている。支柱の根元は祭壇になっており、管理教会《アパティア》が秘蔵する四つの特異な聖遺物《レリクス》が安置されていた。
 クロエはそのうちの一つ――右手前の支柱へと足を進めると、祭壇の前に立つ。改めて見渡すと、他の三本の支柱の下にも、同じように人影があった。皆クロエと同じ生成色の下地に金の刺繍が施された僧服を纏っており、白い大理石の床に一様に跪き、じっと顔を伏せている。
 クロエはそっと顔を上げると、右奥にある支柱へと目を向けた。祭壇の前に跪く、金色の長い髪をした少女が、クロエの方へと微かに顔を持ち上げ、微かに口元を綻ばせる。
「――これで全員、揃ったな」
 内陣に厳かな声が流れると、クロエもまた、他の三人と同様に石床の上に跪き、頭を垂れた。
 中央に建つ女神アストレアの神像の後ろから、深紅の僧服を羽織った禿頭の老人が姿を顕す。
 メルクリウス枢機卿――管理教会《アパティア》の中枢を担う枢機卿団を束ねる長であり、大宗教組織管理教会《アパティア》の実質的支配者。枢機卿《カーディナル》は多くが大司教経験者が引退後に就任するため、その発言力は、現職の審問官の中でも最高位にあるクロエたち四大司教よりも大きい。
「顔を上げよ。管理教会《アパティア》の誇り高き花、四つの審問騎士団を束ねる大司教たちよ」
 年齢を感じさせない力強い声に、四つの祭壇の前に跪く大司教たちが顔を上げる。
「アナスタシア教皇聖下の容体の変化については、既に諸君らも聞き及んでいることだろう。事態は急迫している。よって、些か例外的ではあるが、今この場で教皇選出会議《コンクラーベ》の結果を発表する」
 他の三人の大司教が身を固くするのが、気配で分かった。
 胸を騒がせる期待と不安に、緊張で身体が強張る。
 新教皇は、四人の大司教の中から枢機卿団によって選出される。
 つまり、今この場に集まった四人の中の一人が、新たな教皇となるのだ。
 ――ついに、この時が来た。
 期待と不安で身体が震える。
 白く眩んでいきそうな意識の中、メルクリウスが厳かに告げる声が聞こえる。
「次代の教皇。その任に就くのは――」






(>∀<)ノぉねがいします!



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