■エリュシオンの園B 「そう気を落とすなよ、クロエ」 「気を落としてなんかない。少し疲れただけだ」 小さな丸テーブルを挟んだ向こうでダリウスが眩しそうに目を細めるを見て、クロエは苛立ちを抑えるようにメタルカップの中のワインを一気に煽った。 エリュシオン郊外――小さな針葉樹の林の中にひっそりと佇む石造りの家。家主の身体に合わせた大きなソファに座り、クロエはダリウスと差向えで呑んでいた。 「おいおい、お前は酒が弱いんだ。無理をするなよ」 燭台から滲む温かな明かりに、何とも言えない表情をしたダリウスの顔が照らし出される。クロエは早くも襲ってきた酩酊感に、くらりと視界が揺らいで、それを誤魔化すように料理を運んできた女性に声をかけた。 「アイーシャさん、これ美味しいですね。何て言う料理なんですか?」 「パラーターです。私の祖国の家庭料理なんですよ」 にこりと笑顔で答えてくれた夫人に笑顔を返して、自分の皿に切り分けてあった分をフォークで口に運ぶ。 薄いクレープのような生地に、茹でたジャガイモなどの野菜を挟んで焼いた料理は、覚えのないスパイスの味がした。 「凄く美味しいです。こういうスパイスの効いた料理、エリュシオンじゃ食べられないから」 明るい声で言うクロエに、アイーシャは少女のように嬉しそうに笑った。 ダリウスの妻、アイーシャは、エリュシオンへやって来て二年ほどになる。 中東の産まれだという彼女は、この辺りでは珍しい褐色の肌に赤茶色の瞳という容姿をしているが、物腰や言動から感じられる気品の良さは、聖職者ばかりのエリュシオンにおいても際立って見えた。 夫であるダリウスよりもクロエの方が年齢が近いこともあって、クロエは彼女と友人のような付き合いをしている。 石造りの家には、クロエの知らない温もりで溢れている。穏やかな蝋燭の灯り、温かな絨毯、部屋を彩る赤を基調とした掛け布と、優しい家族たち。 「そういや、レイラとライラはどうしたんだ?」 「そっちで遊んでるよ」 ダリウスが指す先を追うと、部屋の奥に吊られた布地――細かな刺繍のあしらわれたタペストリーを吊るし、カーテンのようにしている――の隙間から、こちらを見つめる四つの瞳が見えた。声をかけようと手を挙げると、さっと隠れてしまう。 クロエは恨めしそうにダリウスを睨んだ。 「ダリウス……お前、二人に何か言っただろう」 「別に。俺は何も言ってねぇよ」 ダリウスは涼しい顔で嘯くと、テーブルの上のパラーターを摘まんで口の中に放り込んだ。 『神の目』と称されるクロエの瞳は、その中に嘘が含まれていないことを瞬時に読み取る。 ダリウスでないとなると、残る容疑者は一人しないが……。 ちらりと台所へ戻っていくアイーシャを見ると、ダリウスが小さく笑うのが解った。 (……余計な気は使わないで欲しいんだがな) 顔を向けずに目だけを動かすと、再び双子たちが布地の隙間から顔を出してこちらの様子を窺っているのが解った。好奇心いっぱいの猫のような目で、もじもじと落ち着かなくしているが、こちらに近づいて来ようとする様子は無い。 あんな小さな子供にまで気を使われてしまうのか、とクロエがそっと嘆息すると、不意にダリウスが立ち上がり、 「レイラ、ライラ! 手が空いてるなら、こっちに来て、落ち込んだクロエを元気づけてやってくれ」 「だから落ち込んでないと言っているだろう!」 鋭く声を上げるクロエに構わず、ダリウスはカーテンの向こうへと手招きする。すると、ばさりと厚手の布地が揺れて、小さな影が仔猫のような俊敏さで飛び出した。一直線に走り寄ると、そのままの勢いでクロエに跳び付く。 腹の辺りに重たい衝撃を受けて、クロエは小さく呻きを漏らした。手の中のコップから中身が零れないように、顰めた顔を上げると、そこには元気よく笑う双子姉妹の顔がある。 「やっぱりやっぱり、私たちが居た方が元気が出るわよね!」 「そうよそうよ。クロエが教皇さまになれなかったからって、私たちは気にしないんだから」 口々に言ってクロエの両隣りに陣取ると、レイラがボトルを、ライラがトングと皿を持って膝立ちになる。言い難いことをさらりと言ってくれるな、とクロエが苦笑していると、不意に揃ってびくりと身体を硬直させた。 「ん?」 突然の変化にクロエが二人の視線を追うと、そこには薄暗い台所があるだけで誰の姿も無い。 「どうしましょう。怒ってるわ。後で怒られるんじゃ……」 「だ、大丈夫よ。レイラ。ダリウスがこっちに来なさいって言ったんだもの。私たちは悪くないわ……」 姉妹は青醒めた顔で何やら囁き合っていたが、訝しげなクロエの視線に気づくと、にっこりと笑ってクロエのメタルカップにワインを注ぐ。 「あ、ありがとう」 目を白黒させるクロエに、両腕を勢いよく突き上げて、 「ささ、ご遠慮なく!」 「ぐいっとやっちゃって!」 「……お前ら、どこでそんな言葉覚えてくるんだよ」 カラッとした笑みを浮かべる娘たちに、ダリウスが思案気に顔をしかめる。その様子が可笑しくて楽しくて、クロエは言われるがままに、並々とワインが注がれたカップを煽った。 ※ ――がむしゃらに地面を蹴って、あの丘まで走った。ドクドクと波打つ血潮の音を聞きながら、腹の中の怒りの全てを、駆ける脚へと篭める。 「クロエ……っ、もっとゆっくり!」 すぐ後ろで、シャロンが悲鳴のような声を上げる。徐々に増していく握った手の重さ。 「どうしたんだ、シャロン。宿舎暮らしで体力が落ちたか!?」 「当たり前じゃない。宿舎の中で私を走らせようとするのは、クロエくらいのものだわ……!」 抗議の声に、はっきりとした怒りが混じり始めたのに気付き、駆ける足を緩める。彼女は滅多なことでは怒らないけど、怒らせると後が怖い。 徐々にスピードを緩め、彼女の呼吸が落ち着くのを待つ。焦る必要はなかった。目指す丘はもう目の前にある。 「どうしたのよ……いきなり。こんな所に連れ出して。帰って明日の予習しておかないと、寮監先生に怒られるわよ」 吹き付ける向かい風に長い髪が巻き上げられないよう押さえながら、シャロンが低い声で言う。風は丘一面へ吹き付け、背の低い草原を揺らす。一段と重みを増した手を引いて、急になった上り坂を登る。 「この間、散歩しててさ。この丘から見る夕日が綺麗だったんだ。だから、シャロンにも見せてやろうと思って」 「……私の目が見えないの、知ってるでしょう」 シャロンが悲しげに顔を伏せる。ほどなく未舗装道が途切れ、丘の向こうに夕日が現れた。 「着いた」 歯科一杯に広がる水平線と、空と海を覆い尽くす、全天燃えるような赤――。 それまで頭を吹きすぎていくだけだった風が下から掬いあげるように吹いて、汗ばんだ肌を心地よく通り過ぎて行く。苦しげだったシャロンの顔から表情が消えた。息をするのも忘れたように、身じろぎ一つせず沈みゆく夕陽を見つめている。僕は握ったままの彼女の手を取って、ぐっと太陽に向かって腕を伸ばした。 「ほら、あっちが太陽」 「……それくらい解るわ」 太陽の方へ顔を向けたシャロンは、掠れた声で囁いて、 「温かいもの」 堅く閉じられた瞼から、涙が流れた。 エリュシオンにやってきたばかりの頃、貧民街上がりの僕たちは迫害に近い差別を受けていた。 審問官は人格者ばかりだというのは嘘だ。 人間をナンバリングし、ランク付けしている限り、人は嫉妬という産まれながらにして持つ罪悪の性質から逃れることが出来ない。最初は天使に愛されるほどの清らかな精神を持った子供も、管理教会《アパティア》の小さな箱庭の中で暮らすうちに、人格は捻じれ歪んで、悪性を帯びるようになる。 審問官の卵たちは、それら薄暗い感情をあからさまに表に出したりはしない。けれどそれゆえに負の感情は発散されず濃度を増していき、感受性の強いシャロンの首をゆっくりと、真綿のように絞めつけていった。 「ねぇ、クロエ。私たちはこの先、何になるの? たくさん勉強して、偉くなって、管理教会の身勝手な正義の為に、たくさんの人を殺す道具になるの? そんなの、私は嫌」 絞り出すような声に言葉を返さず、僕は赤く燃える夕日を見上げた。 彼女が抱える苦しみが、僕にはよく解った。 他人の顔色の微細な変化から、虚飾が透けて見えてしまう僕もまた、上辺ばかりを取り繕った見かけだけの教会組織に心から辟易としていた。ここに比べれば、貧困と暴力に満ちた貧民街の方がよほど健全と言えるだろう。 天使の力がまだ弱く、無力な子供でしかない僕たちは、途方もなく複雑で巨大な世界を前に途方に暮れてるしかなかった。それは、今足元で強い風に嬲られるままになっている草原のように。 「知ってるか? シャロン。この風はさ、神様と一緒に世界の調律をしている教皇様が吹かせているんだってさ」 僕は彼女の腕を掲げて、精いっぱい夕日の方へと伸ばす。 シャロンは無言で頷いた。 「教皇様になれば、いろんなことが出来る。風を起こすことも、困った誰かを救うことも。今の管理教会《アパティア》のやり方だって、きっと変えられる」 「けれど、教皇様はずっと眠り続けなくちゃいけないのよ。途方もなく長い長間、一人でずっと」 それはとてもとても寂しいわ、と囁いて、シャロンは空いている方の腕で目元を拭った。繋いだ手に痛いほどに力が篭もる。僕はそれを同じ強さで握り返して、 「シャロンが教皇様になったら、目が醒めるまで僕が待っててあげるよ」 「わ、私だって、クロエが教皇様になったら待ってるわ。起きた時に親しい人が誰も居なかったら、きっと寂しいもの」 顔を寄せて訴える彼女の表情があまりにも必死で、僕は小さく笑った。 「大丈夫だよ。一人にしたりしないから。約束する」 頭に手を載せると、シャロンは俯き目元を拭いながら、何度も何度も頷いた。 柔らかな金色の髪に指を通す。 日が暮れるまでずっと、二人で吹き付ける風の音を聞いていた。 ※ ――気付けば、髪の毛を掴まれたり頬を突かれたりと、双子姉妹の玩具になっている自分が居た。 「あははは。クロエの髪、硬くておもしろーい」 「ほらほら、たくさん食べて元気になってくだちゃいねー」 半開きの口から、無理矢理スプーンを捻じ込まれ、夢と現の間を彷徨っていたクロエの意識は覚醒した。目の前には、膝立ちでクロエの顔を覗き込み、けたけたと笑う双子の姉妹の姿がある。視界がぶれて二重写しに見えている訳ではない。 「おう。ようやく目覚めたか」 低い声に身体を起こすと、ダリウスが、苦笑を堪えるような顔で見ていた。 「相変わらず、酒が弱いな。クロエ大司教」 「すまない。……寝てたか」 「気にするな。ここ数日、碌に寝ていなかったんだろう」 「ああ。まぁ、そうなんだが……」 きゃいきゃいと髪を引っ張る双子たちを見やり、訴えるように目配せをすると、ダリウスは「ん?」と目を細め、 「なんでこいつら、こんなに顔が赤いんだ?」 「もっと早く気付けよ。酒を飲ませたのか?」 「そんなはずはない。雰囲気に酔ったんだろう。お前の酔いっぷりは見事だったからつられたんだ。……どれ」 ダリウスは立ち上がると、慣れた様子で軽々と二人の娘を担ぎあげた。双子たちは揃って「えー」とか「うー」とか唸っていたが、抵抗する気力は残っていなかったらしく、大人しくダリウスに運ばれていく。 クロエは胡乱な頭で、その後ろ姿を見送る。胸の奥がざわざわと揺れて落ち着かなかった。古い夢を見ていたような気がする。このざわめきは、そのせいだろうか。 「あの人が子供たちをあやしてるのが、そんなに意外ですか?」 後ろから聞こえた声に振り返ると、空の料理皿を持ったアイーシャが立っていた。 「そんな顔、してましたから」 呆けた顔のクロエを見下ろし、穏やかな笑みを浮かべる。 クロエは、差し出されたグラスを煽った。冷たい水が喉を流れ落ち、胸の辺りで渦巻いていた何かが、熱を失って解けていく。 軽く頭を振ると、ほう、と息を吐いて、 「そうですね。確かにそうかもしれないです。正直、今のダリウスの姿は昔からは想像も出来ないですよ。誰よりも厳正で、力強く、苛烈な審問官。それが俺の知るダリウスでしたから」 今は亡き都市の片隅で拾われ、このエリュシオンへとやって来て九年――産まれてから十九年の歳月のうち、およそ半分をダリウスと一緒に過ごして来た。 時に師として。時に上官として。時に、友人として。 その中でクロエの記憶に鮮明に残っているのは、ダリウスが審問をする姿だ。 あらゆる詭弁を許さず、容赦なく罪人を断罪するその背中は、修羅か鬼神と見紛うほど。騎士団内での異名は『最強の執行者』。あらゆる欺瞞を焼き尽くし、己が信じる道を進むその姿に、どれほどの審問官が背筋を正したか。 「……私の、せいなのでしょうね」 「え?」 「私が居たから、あの人は前線で戦えなくなって……貴方がその重責を追うことになってしまった」 不意に零れた呟きに、クロエは思わず言葉を失った。アイーシャがそんな風に思っていたとは思ってもみなかったから。 知らず視線が落ちる。 「そんなこと、ないです。……これは俺が自分で望んだことですから」 頭の中のイメージに反して、出てきた声は弱弱しかった。自分を責める必要などどこにも無いと、力強く否定するべきなのに。 気まずい静寂が降りると、計ったようにダリウスが戻って来た。 「すまんな、クロエ。あいつら、なかなか寝付かなくてな」 「私、片づけしてあの子たちの所へ行ってますね」 アイーシャがいそいそと食器を持って、キッチンへと入っていく。 ダリウスは小さく嘆息すると、自分の定位置であるクロエの向かいのソファに腰を下ろした。肘掛けに腕を置き、物憂げに顎を撫でながら、 「なぁ、クロエ。シャロンの所へは、行かなくていいのか?」 「……ああ」 クロエは視線を落とすと、スチールカップの中を覗き込むように両膝に肘を突き、前のめりになった。 「明日の夕方には即位式って話だ。いろいろと片づけておかないといけないこともあるだろう。邪魔をしちゃ悪い」 「そうか」 ダリウスはそれ以上何も言わず、グラスの中に残っていたウイスキーを煽った。クロエもコップに残った酒を一口含む。良いワインのはずだが、美味いとは感じなかった。 「急な話だったな」 不意にダリウスが感傷的な声で言った。 「アナスタシア教皇聖下のお目覚めには立ち会ったか?」 クロエはテーブルの上のカップを見詰めたまま首肯する。 教皇アナスタシア・セレーネが目覚めたのは、メルクリウス枢機卿によって教皇選出会議《コンクラーベ》の結果が告げられてから、僅か三時間後、午後二時を少し過ぎた頃だった。 目覚めの兆候を感じ取った枢機卿団の手によって、玉座はラダマンテュス大聖堂後陣にある『神の間』から、手前の内陣へと移されていた。 聖堂内には多くの審問官が詰めかけ、誰もが息を飲んで祭壇の上の玉座を見守っていた。午後二時を過ぎると、不意に枢機卿たちの動きが慌ただしくなって――。 吹き渡る涼やかな風と、微かに香る花の匂い。そしてそれらを彩る鳥の囀る声が響く中、天蓋《クーポラ》から降り注ぐ柔らかな日差しを受けて、教皇は目覚めた。 教皇に就任した時から変わらぬ美しい姿のまま、まるで午睡から目醒めたばかりのような、穏やかさで。 「なかなか感動的なもんだった。お前とそんなに歳の変わらないように見える女の子が、何十年も神と共に世界を守り続けていたなんてな」 「在任期間六十七年……十七歳で眠りについて今日までか。士官学校ではメルクリウス枢機郷と同期だったと聞いたが」 「らしいな。だからだろう。最初に出迎えたのがメルクリウス枢機卿だったのは」 ダリウスは記憶を手繰るように目を細めた。 「目覚めた教皇と枢機卿が視線を交わし合った時は、正直身震いがしたぜ。六十七年間の時間を超えた再会だ。交わした視線の重みは俺などには及びもしないが……今度は、その道をシャロンが進むと思うと、何とも複雑に気分なる」 ダリウスは感慨深げに呟くと、鳶色の目を細めた。 「まさか、お前と一緒に薄暗い森で震えていたガキが、教皇になるなんてな」 反応を窺うような声にしかし、クロエの視線はテーブルの上のカップへと注がれたまま動かなかった。燭台の灯りが水面に落ちて、きらきらと光を反射する。揺らめく光を見詰めながら、じっと何かを探るように息を殺している。 ダリウスは肩をすくめると、テーブルの上のボトルを手に取り――不意にクロエが立ち上がった。 「どうした? トイレならそっちだぞ」 「すまない、ダリウス。今日は酔えそうもない。早めに帰ることにするよ」 乱れた襟を正し、掛けてあった生成色の僧服を手に取る。 「今日は招待してくれて、ありがとう。アイーシャさんにも、お礼を言っておいてくれ。夕食、凄く美味しかったですって」 一気に捲し立てると僧服を羽織り、玄関へと向かう。 立ち上がったダリウスは掴んでいたボトルを手にそれを見送りながら、出ていくクロエを見やり、 「また来いよ、クロエ。すぐに次の遠征で忙しくなるのかもしれんが、無理にでも時間を作って来い。二人のお姫様もお待ちだ」 「ああ。またご馳走になりに来るよ」 微笑を浮かべると、クロエは足早に外へと飛び出した。 昼間の陽気とは違う冷たい風が、熱くなったクロエの頬を冷やしていく。 ※ ※ ※ 「クロエくん、大丈夫かしら」 「大丈夫じゃないだろう」 子供たちを寝かしつけたアイーシャが向かいの椅子に座ると、ダリウスはグラスの中身を一気に煽った。 重たい息を吐くと、強張った眉間を揉み、重たい口を開く。 「ようやっと異教徒掃討部隊《クルセイダーズ》の総指揮官として戦場を切り抜けて来たと思ったら、今回の教皇選定会議《コンクラーベ》だ。大司教の立場にあるとはいえ、十九の若造が耐えられるものじゃない。……しかも、教皇に選ばれたのは、あいつにとって唯一の肉親とも言えるシャロンだ。自分がなるならまだしも、シャロンが人身御供になるだなんて、奴には耐えられないだろう」 「人身御供なんて」 「……口が滑った。しかし、俺からしてみれば、似たようなものさ。クロエがどう考えてるかは知らんがな」 非難めいた視線を向けるアイーシャから逃げるように目を逸らして、ダリウスはグラスにウイスキーを注ぐと、ストレートのままそれも一気に飲み干した。封を切ったばかりのボトルは、早くも空になりかけている。 ダリウスは腹の底から絞り出すように、長い息を吐いて、 「俺は、あいつの精神が持つかが心配だ。あの細っこい神経を持つクロエには、最近の出来事は重すぎだ。今は疲れで神経が麻痺しているから実感がないのだろうが、感覚が戻った時、その重さに潰れてしまうんじゃないか。シャロンのこともそうだが、中東での戦いもそうだ。戦場から帰還するたびに、クロエの表情には陰りが増していく。今や中東は地獄だ。肉体が怪我無く帰って来たとしても、精神の方が無事ではいられない」 「……」 アイーシャがそっと俯いたのを察して、ダリウスは、はっと顔を上げた。罰が悪そうに額を抑えて、 「……すまない」 「いえ」 アイーシャは、悲しそうな顔のまま、小さく首を振った。 ダリウスの妻アイーシャは、ダリウスが異教徒掃討作戦の遠征先である中東で出会った女性だ。 もつれ込んだ管理教会と中東勢力の武力衝突に巻き込まれ、戦場となった小さな町。作戦終了後、市民の救助活動を行っていたダリウスは、砲撃によって崩れた瓦礫の下敷きになったアイーシャを発見、保護した。 この地域の人々が皆そうであるように、管理教会《アパティア》に対して強い憎しみを抱いていた彼女は、当初教会の保護の申し出を拒否した。 しかし、彼女の住む町は壊滅状態で生活の目途は立っておらず、彼女はダリウスの説得により、渋々保護の申し出を受け入れた。 背に腹は代えられなかったのだろう。 彼女には、まだ幼い二人の娘がいた。 夫は民兵として戦争に参加し、帰らぬ人となったという。 それから様々な紆余曲折あって、アイーシャはダリウスの妻となった。長い話し合いの中で、二人の戦争に対する立場には折り合いがついているものの、故郷が地獄と化しているなどと言われて良い気がする訳がない。 ――何をやっているんだ。俺は。今が一番大事な時期だってのに。 ダリウスは酔いが醒める思いで顔を覆った。 アイーシャの腹の中には、まもなく臨月を迎えようとしている子供が居る。 「気にしないでください。今の私たちには、直接関係のないことですから」 「しかし……」 気丈に微笑む妻の姿に、ダリウスは祈るように顔を上げ、 「それに、苦しい思いをしているのは、貴方も同じでしょう?」 全てを見透かしたような声に、ダリウスのしかめっ面がくしゃりと歪んだ。 かつては異教徒殲滅戦の先鋒に立って部隊を率いていたダリウスが前線を退いたのには、アイーシャと二人の娘の存在がある。 戦場で闘う異教徒たちにも、同様に妻や子供が居る――そう思うと、彼女たちの同胞たちを殺すことに耐えられなくなったのだ。アイーシャから夫を――そして二人の子供たちから父の命を奪ったのも、管理教会《アパティア》の審問官たちだ。 結果、ダリウスは管理教会内での権力闘争から弾き出され、審問官の位階は司教にまで降格となった。 全ては、ダリウスが自ら望んだこと。しかし、アイーシャがそのことを後ろめたく感じていることにも気付いていた。それなのに、 「あなたが罪悪感を抱くことは無いわ。あなたは何も悪いことをしていない。私に対しても、クロエくんに対しても」 アイーシャは、ダリウスを赦すと言う。それはダリウスの中には無かった価値観だった。罪悪は公平に裁き罰せられるべきだと考えてきたダリウスは深く深く頭を抱えた。 ダリウスの隣にアイーシャがそっと腰を下ろす。褐色の肌が、燭台の灯りにそっと映し出されて、それは酷く暖かそうに見えた。ダリウスは寒さを堪えるように、アイーシャの身体を抱き寄せ、額に唇を押し当てた。 「クロエくんに席を譲ったこと、後悔しているの?」 腕の中で、アイーシャが囁く。 「いや……遅かれ早かれ、あいつは俺を抜いたさ。それに、あのまま大司教を務めていれば俺は枢機卿だ。そうなれば、一生結婚なんて出来なかった。……引き際だったのさ」 囁く言葉に、偽りはない。それなのに、どうしてか顔には自嘲めいた笑みが浮かぶ。胸の疼きを堪えるように、アイーシャの身体を強く抱き締める。 「あいつは、審問官をやるには優しすぎるんだ」 「あなたもそうですよ」 「いっそ、機械であれば良いと思ったこともある。あらゆる罪をただひたすら公平に、裁き続ける機械であればと。そうすれば、きっとこんなに苦しむことは無かった」 「そんなあなたならきっと、私たちはここに居なかったわ」 アイーシャの細い腕が、ダリウスの頬の傷をなぞる。赤い宝石の埋め込まれた金属製の腕輪が、燭台の光を反射して血のように煌めいた。ダリウスは妻の身体を強く強く抱き寄せた。 運命は時に、分岐点を迎えたと気付いた時には、目ぼしい選択肢が残っていないことがある。坂道を転がり落ちる車輪のように、辺りの何もかもを巻き込んで加速し続けた後では、途中で方向を変えようとしても思う通りにならない。勢いがついてしまった車輪に許された選択肢は、ただ二つ。 坂道を最後まで転がり切るか、途中で壊れて砕け散るか。 二つしかないのだ。 運命の車輪は回り続ける。 恐らくそれは、深い森の奥で二人の子供たちを見つけたあの時から始まっていたのだ。 ※ 「――誰?」 鳥の羽音よりも微かな物音に、大司教シャロン・ウィルスティーズは顔を上げた。 使っていたブラシを鏡台の上に置くと、丸椅子から立ち上がる。白いレースのあしらわれた薄いワンピースの胸元を押さえると、灯り一つない真黒な部屋で、迷うことなく入り口へと顔を向ける。 警戒を示すように天使が黄金色の光の粒子を撒き散らすと、入り口のハンガーツリーの近くで息を飲む気配がした。 微かな間があって、 「……なんだ、起きてたのか」 戸惑ったような声が返ってくる。覚えのある響きに、シャロンは刺すようだった警戒の色を消した。 ほんの一瞬、安堵に頬を緩ませると、大きく息を吐き、 「貴方は、寝てると思っていた女性の部屋に無言で忍び込んだんですか? クロエ大司教」 責めるような声に、闇夜の闖入者――クロエは驚いたように目を見張った。 「そんなつもりは……いや、そういうことになるのか?」 じっと様子を窺うような気配に、目眩を堪えるように額を押さえる。何事かを一人でぶつぶつと呟くと、 「いや……すまん。気が回らなかった。悪気は無かったんだが」 ふらふらと揺れる、実態の無い声で言って頭を下げた。 「……?」 いつもと違う隙だらけの反応に、シャロンは微かに首を傾げた。ほんの少し、からかうつもりだったのに、いつもと様子が違う。ふとした予感に顎を上げると、形の良い鼻をひくつかせ、形の良い眉を顰めた。 「お酒、呑んでるでしょう」 低く咎めるように言う。クロエは悪びれた様子も無く肯定すると、近くにある来客用のソファにどっかりと腰を下ろした。 ソファに腰掛けると、胡乱だった意識の焦点が実像を結んだ。ここまで来る間、休みなく走って来たから、胃の中に残っていたアルコールが一気に全身に回ったのだろう。 シャロンが閉じられた瞼の向こうから、探るような気配を投げかけてくる。見えない手で顔を撫でまわされるような無遠慮な気配に、クロエは真っ暗闇に視線を落とした。 「今日はどうしたんだ? いつもは天使に部屋の周りを警戒させているだろう」 「……明日の即位式に備えて、天使の力はなるべく使わないようにって言われてるの」 探るような気配はそのままに、シャロンが答える。 「だったら、警備兵を置くべきだ。君が教皇になるのを面白く思ってない連中も多い」 「……それじゃ駄目だから起きてたんじゃない」 「ん?」 消え入るような声に顔を上げると、シャロンは逃げるように顔を背けた。ベットサイドまで歩いていき、厚めのカーテンを開く。クロエは普通の人よりも夜目が利くが、シャロンが気を使ったのだろう。 窓の向こうには、満月と言うには少しだけ欠けている月。まだまだ冷たい外の空気を透過して、薄らとほの白い光が差し込んでくる。 豊かな金色の髪が、月明かりを弾いて輝く。シャロンの顔は陶磁器のように白く、冷たく滑らかだった。アルコールで鈍化した思考のせいだろうか。思わず見入っていると、不意にシャロンが子供のように頬を膨らませた。 「な、なんだよ」 「……」 何も言わず、気配だけで非難の意志を伝えてくる。思わぬ反応にどぎまぎしてしていると、シャロンは小さく息を吸って、 「……お酒、どこで呑んできたの?」 どこか剥れた様な顔のまま、ぼそりと呟く。 「ダリウスの家」 「ダリウスの? ご迷惑だったんじゃない? アイーシャさん、そろそろ臨月でしょう」 シャロンが驚いたように眉を上げた。クロエは小さく肩をすくめて「誘ってきたのはダリウスの方だよ」ぐっと大きく伸びをすると、ひんやりと冷たいソファに背を預けた。 「アイーシャさんの料理、食ったことあるか? めちゃくちゃ美味いんだぜ。あんな味付けは、管理教会《アパティア》の中じゃまず食べられないな。なにせスパイスが違う。今日ご馳走のなったのは、パラーターっていって」 「……クロエ。貴方、そんな話をしに来たの?」 柔らかかったシャロンの声に、棘が混じる。あまり表だって感情を露わにすることのないシャロンの不機嫌そうな声に、クロエは思わず身構えた。 「な、なにか不味かったか?」 「不味いに決まってるでしょう。夜中に他の奇跡《エレメンタム》の大司教の部屋に忍び込むなんて、ただでさえ軍法会議ものなのに、よりによって忍び込んだのが審問官のトップである総大司教だなんて。追及されたらなんて言い訳するつもり?」 「見つかるようなヘマはしないよ。俺の神威《ゲニウス》が何かは知ってるだろう」 「幾ら千里を見通せる貴方の目でも、後れを取ることもあるかもしれないわ。さっきだって、私が起きてることに気付かないで驚いてたじゃない」 「さっきはちょっと油断してたんだ。それにもしもの時はシャロンがサポートしてくれるだろ?」 「そんなの当てにしないで」 シャロンは冷たい声で言って、顔を背けた。そのまますたすたと歩いていき、部屋の奥に置かれたベットの淵に腰を下ろす。 (……なにやってるんだろうな、俺は) クロエは大きく息を吐いてソファに背を預けると、改めて大きな白い部屋を見渡した。 一番手前にハンガーポールがあって、次に来客用の四人掛けのソファと、小さなテーブル。その奥にはクローゼット、クイーンサイズのベットと鏡の抜かれた鏡台があって、隣に小さなスーツケースが一つ置かれている。 昔からあまり物を持たない方だと思っていたが、ここまで綺麗に片付いていると拍子抜けしてしまう。新教皇となることが告げられてから、まだ十二時間も経っていないのに、備え付けの家具以外はスーツケース一つくらいしか私物は残っていない。 僧衣の下の懐中時計に視線を落とす。時計の針は午前二時を指そうとしていた。 「明日は早いんだろう。早く寝た方がいいぞ」 「それが夜中に尋ねて来た男の言うこと?」 気を使って言ったつもりだったが、刺々しく返される。不機嫌な理由は、寝るのを邪魔されたからという訳でも無いらしい。となると、クロエが話をするのを待ってくれているのだろうか。 クロエは大きく息を吐くと、観念したように全身の力を抜いた。眉間の揉んでしょぼつく目に鞭を打ち、ソファの背もたれから身体を起こす。 「実は……言い忘れていたことがあって、それを伝えに来たんだ」 シャロンの顔を真っ直ぐに見つめながら、明瞭な言葉で伝える。 「おめでとう、シャロン。君が教皇に選ばれたことを、友人として心から誇りに思う」 「クロエ……」 教皇になるのは、二人の悲願だった。エリュシオンにやってきたから九年――シャロンはついにその夢を叶えた。その喜びは、きっと二人で分かち合うべきだ。 「管理教会《アパティア》の頂点に立つ教皇の位だ。ウィルスティーズ卿もさぞかし喜んでらっしゃることだろう」 シャロンは驚いた顔でクロエを見つめていたが、僅かに顎を引いて、 「……そうね。お父様には、大層喜んでいただけたわ。みんな、次の教皇は貴方がなるものだと思っていたから。驚き過ぎて実感が無いと言う様子だったけれど」 遠くに思いを馳せるように呟く。少し様子を伺うような間があって、 「シュトラウス卿は、何か言ってらしたの?」 「教皇に選ばれなかったことは残念だが、総大司教《パトリアルクス》にまで成ってくれたのだから十分だと言ってくれたよ」 「そう」 良かった、と安堵の息を漏らし、シャロンは終始強張っていた肩の力を抜いた。 彼女が考えていたことは手に取るようにわかる。 ウイルスティーズ卿とシュトラウス卿は、管理教会の名門枢機卿だ。彼らは将来有望と思われる審問官が現れると養子として迎え、後見人としてバックアップを行う。その見返りは、養子として迎えた審問官が出世をして、管理教会内で高い地位に就くこと。枢機卿の発言力は、家門からどれだけ優秀な審問官を排出しているかに直結する。中でも教皇職は特別で、家門から教皇となる審問官を排出したとなれば、その地位は向こう百年間は盤石になると言われている。次代の教皇はクロエで間違いないだろう、というのが管理教会内での下馬評だったから、シュトラウス卿にしてみれば当てが外れたことになる。 クロエは小さく嘆息すると、ソファの背もたれに身体を預けた。 ――部屋に入った時から少し表情が硬いようだったが、そんなことを心配していたのか。 呆れ顔をしているのが伝わったのだろう。シャロンは照れくさそうに笑って、 「後ろ盾の無い私を養子として引き取って、ここまで後押ししてくれたのはお父様たちだもの。クロエだって恩返しをしたいという気持ちは同じでしょう? 思いがけない形だったけれど、今回の結果は本当に嬉しいわ」 そっと視線を落とし、小さく微笑む。 「私には、貴方のように取り立てて優れた能力も無かったから」 「馬鹿」 間髪入れず、シャロンの言葉を打ち消す。 「シャロンは十分、優れてるよ」 強い口調で言うと、シャロンは肯定も否定もせず、ただ少し罰が悪そうに笑った。 クロエが言ったことは、お世辞でもなんでもない。 水の奇跡《エレメンタル》を持つ彼女の天使が行使する力は、効力を及ぼす範囲の広さ、精度の高さは頭一つ抜けている。シャロンの天使が操る極薄の水の膜は、聖都エリュシオンの全域を覆うほどの規模で展開が可能で、通常兵器を無効化するほどの耐久性を持つ。また、『神の耳』と呼ばれる彼女の神威《ゲニウス》は、天使が形成した水の膜に触れたものの姿形、様子までをも克明に把握することが出来る。 索敵と専守防衛に特化したその力は、管理教会内でも稀有で強大――そもそも、管理教会で四人しかいない大司教の位に、実力の無いものが就けるわけがない。 「君が居るおかげでエリュシオンの住人は枕を高くして眠れるし、俺たちは戦場で心置きなく戦える。もうすぐ、長らく続いた宗教対立にも終わりが訪れる。そうなった時に必要とされるのは、あらゆる敵を排除し恐怖を与える俺の力ではなく、大事なものを守り安心を与える君の力だ」 だからこそ君が教皇に選ばれたんだろう、そう言って、クロエは長い長い溜息を吐いた。 今日まで張り詰めていたものが緩み、奇妙な倦怠感が全身にまとわりついている。なんだかんだで期待してたんだな、と澄ましていた自分に苦笑いが浮かぶ。 「君はこれからの時代に相応しい教皇だ。……本当に役立たずなのは、誰かを傷つけることしか出来ない俺の方さ」 「そんなことない!」 思いがけずに発せられた鋭い声に、驚き顔を向ける。 「そんなこと、ない。そんなことはないわ、クロエ。貴方の力は、今の管理教会になくてはならないもの。世界を変革していける力よ」 思いがけない強い声に、クロエはじっとシャロンの顔を見つめた。彼女がここまで大きな声を出すのは、随分と久しぶりのことのように思えた。驚くクロエを見つめるシャロンの表情は張り詰めていて、自分の胸の裡にある言葉を、必死に俺へと届けようとしてくれているように感じる。 その表情を見て、はっとした。 ――そうだ。 もう、時間が無いのだ。 「……すまない。やはり、少し酔ってるみたいだ」 額を抑えて、息を吐く。 もう時間が無いのに、本当に明日で最後なのに、俺は一体何をしているのか。 「教皇選出会議《コンクラーベ》のこと、ダリウスは何か言ってた?」 「ああ、そうだった。おめでとうと伝えてくれと言われたよ。自分が見つけて来た審問官が教皇になるなんて、鼻が高いって」 「貴方のことでは何か?」 「随分と気を使われた。逆にそれが堪えたけど」 「ダリウスは、貴方を買ってたものね。貴方が総大司教になった時も、一番喜んでたのはダリウスだった」 遠くを見るように微かに顎を上げて、シャロンは大事なものを慈しむように囁いた。クロエは苦笑して、 「あんなに気を使われるくらいなら、いっそ怒鳴りつけて殴り飛ばしてくれた方がすっきりしたよ。……アイーシャさんにも、悪いことをしたな」 話しているうちに、自然と肩が落ちる。 いけないと解っているのに、どうしても話しが愚痴っぽくなってしまう。らしくない行動は酒のせいか。それとも……。 自己嫌悪の中、クロエはシャロンが黙り込んでしまっていることに気付いた。慌てて顔を上げ――目を見張る。 シャロンは、小さく笑っていた。 「……なんだよ、その笑みは」 「ごめんなさい」 滲むように笑って、姿勢を正す。透き通るように白い瞼がうっすらと開き、宝石のように蒼い瞳が垣間見える。 珍しいこともあるものだ。 彼女の瞳を見るのは、実に数年ぶりのことだった。 「貴方の弱音が聞けて、嬉しかったの。いつからか、聞かせてくれなくなったから」 シャロンは何故か、ここ何年か見たことも無いような穏やかな表情をしていた。その顔には心からの安堵が広がっている。 その表情を見て、もっと早くこうすれば良かったのだ、とクロエは思った。 大人の振りをして、慣れない上辺だけの言葉を交わすのではなく、ただ昔のように言葉を交わせばそれで良かったのだ。ただ昔のように……。 「クロエ」 「ん?」 「髪を梳かしてくれない?」 上質のシーツが衣擦れを起こす音がして、シャロンがベットの上で背を向けた。 クロエは金の刺繍の施された僧衣を脱ぐと、シャロンのベットの淵に腰かける。 自分の手に視線を落とすと、視界がちらついて真っ赤な血で染まった手がフラッシュバックした。 「クロエ?」 「あ、ああ」 過った想像を振り払うように首を振ると、シャロンから櫛を受け取る。片足だけ胡坐のようにして座り直すと、恐る恐る金砂を流したような髪に触れた。 長い髪の束を掬い上げて、梳を通し――小さく噴き出す。シャロンが不機嫌そうに唇を尖らせた。 「何が可笑しいのよ」 「いや、髪の手触りが、子供の頃と同じだなって思ってさ」 ふわふわと柔らかな長い髪に指を通す。柔らかくて、暖かくて、どこかほっとする感触。何年ぶりだろう。こうして彼女の髪に触れるのは。 士官学校卒業と同時に司教となり、修道院を出て、それぞれの枢機卿の家に養子として引き取られ――それからは、文字通り息をつく暇も無かった。 自由に会える時間はなくなり、お互いの体裁もあって、本音で話をすることは出来なくなって――それでも、お互いが頑張る姿を見ていたからこそ、ここまで上り詰めることが出来た。逆に言えばそれだけ……それだけが二人の道しるべだった。 「貴方は変な所で思い切りがいいから心配だわ。即位式が終わったら、全てを捨ててどこかに行ってしまいそうで」 前を向いたままシャロンが口を開く。 「そんなことはしないよ」 「そうかしら? 司教に就任した時は、すぐに修道院の部屋の荷物を引き払ってしまったじゃない。部屋を訪ねたら何もなくなっていて、びっくりしたわ」 「俺は、捨てたはずの司祭服を拾ってお前がシュトラウス家に押しかけて来たのに驚いたよ」 ため息交じりに言うと、「だって、もったいないじゃない」とシャロンが頬を膨らませる。子供っぽい仕草にクロエは苦笑して、 「修道院の荷物を引き払ったのは、シュトラウス家の養子に入って、個人の部屋が与えられるって聞いたからだよ。備え付けの家具以外は、もともと私物なんて数えるほどしかなかったし……野暮ったい司祭服だって、司教になったら着ることなんてないだろう」 「大切な思い出じゃない。信じられない。どうしてそう未練なく進めるのかしら」 「思い出って、お前な。あの後すぐ、拾ってきた俺の司祭服を孤児院に寄付するって言って持ってっちまったじゃないか。同じことだろ」 「司祭服って、凄くいい生地使ってるのよ。長持ちするんだから」 「答えになってない」 責めるように見つめると、シャロンは惚けたようにそっぽを向いた。しばらくそうしていたが、すぐにどちらからともなく笑い出す。 「――私ね、自分が選ばれてほっとしているの」 ひとしきり肩を震わせて笑い合った後、シャロンが穏やかな声で言った。 「ずっと昔から思っていたの。待つのは嫌だって」 思わず髪を梳く手が止まる。責められると感じたのだろう。クロエが口を開くより先に、 「だって、そうでしょう? 貴方が教皇に選ばれたら、目覚めた時、私はお婆さんなんだよ。そんなの見られたくないじゃない」 「俺が待つのはいいのかよ」 小さく笑って、からかうように尋ねる。髪を梳く手を再開させると、シャロンは気持ちよさそうに肩の力を抜いて、澄まし顔で囁く。 「私はクロエがお爺さんになっていたって、気にしないわ」 「俺が嫌だよ」 零れるような声に、シャロンが微かに身を固くする。 驚いたのはクロエも同じだった。 そんな言い方をするつもりなんて無かったのに。内心の戸惑いは静寂に変わり、二人の間に重たく圧し掛かる。ただ、髪を梳く静かな音だけが静かに流れていく。 (……あれ?) 不意に目の前が曇り、クロエは思わず髪を梳く手を止めた。 自分の意志に反して、髪を支える指が震え、ぽたぽたと熱い滴が頬を伝って流れ落ちていく。 ――泣くつもりなんて無かったのに。 どうして俺は、いつも肝心な時に上手く振る舞えないのだろう。 「ごめんなさい」 シャロンの静かな声が、優しく耳朶に流れ込む。 クロエは無意識に握り締めていた手から力を抜いた。櫛を握った手に、いつの間にかシャロンの手が添えられていた。 大事な話をする時、彼女は必ず相手に顔を向けて話をした。例え目に見えなくても、お互い通じるものがあるから、と。それなのに、シャロンは背を向けたまま振り返らずに口を開いた。優しい声で、 「長い間、ありがとう。クロエ。きっと幸せになってね。目覚めた時、貴方のひ孫や玄孫に会えるのを、楽しみにしてるわ」 「……ひ孫や玄孫って、何年教皇やるつもりだよ」 「百年は続けるつもりよ。少なくとも、お爺さんになった貴方を見なくて済むくらいには頑張らないと」 「……そりゃ良かった。目覚めたお前が、老けた俺の顔を見て笑い出しやしないかって、気が気じゃなかったんだ」 「笑ったりしないわよ」 お互いに、引き攣った声で笑い合う。 何だかバカみたいだ、と思いながら、ただひたすら彼女の柔らかい髪を指に絡めた。 「これで、最後なんだな」 「いいえ」 絞り出すように言ったクロエに、シャロンは真っ直ぐに前を向いたまま言った。 「私はいつでも貴方の側にいるわ。クロエ」 ※ 雲一つない、まるで神の祝福を受けた様に晴れ渡った空。 詰めかけた市民で賑わうラダマンテュス広場で、式典は始まった。 「教皇聖下、お願い致します」 「……わかりました」 恭しく頭を下げた枢機卿に見送られ、教皇を表す純白の僧服に着替えたシャロンが玉座に登る。傍らに寄り添っていた天使が顕現し、水のように透明な翼を広げると、万雷の喝采が巻き起こり、人々の明るい感情が潮騒のように揺れた。 「シャロン・ウイルスティーズ教皇聖下、万歳! シャロン・ウイルスティーズ教皇聖下、万歳!」 民衆に微笑み手を振りながら、シャロンの意識は広場中を彷徨い――不意に、その表情が曇る。 たくさんの民衆で湧く、ラダマンテュス広場。 いくら探しても、そこにクロエの姿は見つからなかった。 |