■エリュシオンの園B
■大罪事変A

「どうして私が選出されなかったのですか。教皇に選ばれたあの子より、私の方が優秀なのに!」
 青年の訴えに、枢機卿たちは何も言葉を返しません。
 次代の教皇を決めるのは枢機卿団の役目。民衆の支持を味方につけた青年でも、決定を覆すことは出来ませんでした。
 民衆の喝采を受け、次代の教皇聖下が『神の門』へと送られていきます。そこにあの青年の姿はありませんでした。
 新しい時代の到来に、人々は口々に喜びの声を上げます。
「管理教会《アパティア》に繁栄あれ! 教皇陛下万歳!」
 空は澄み切って雲一つなく、それは人々の心を映したようでした。
 祝福の鐘が鳴り響く中、就任式は滞りなく執り行われて――。

 そして、事件は起こりました。


   ※   ※   ※

 大地を踏みしめると同時に足元で炎が爆ぜ、ダリウスの巨躯はは紺碧の空高くへと舞い上がった。轟々と耳朶を打つ風の音を聞きながら、眼下でカモメの群れが陣形を崩すのを眺める。
 ばたばたとはためく黒の僧衣。背後から吹き付ける風がダリウスの身体を後押しし、飛ぶが如く真っ青な空を駆け巡らせる。風の奇跡《エレメンタム》を持つ天使の助力により、一度の跳躍で数百メートルもの距離を跳躍すると、追いついてきた審問官の一人が声を張り上げた。
「司祭! もう少しスピードを落としてもらえませんか!? 部隊の中に引き離されている者が居ます!」
 取り成すような訴えに、ダリウスの右頬の古傷が大きく歪む。
「馬鹿野郎! それでも司教か!? 死ぬ気で付いてこい!」
 怒鳴りつけると同時に、山中に僅かに開いた平地へと着地し、再び跳躍。地鳴りを響かせて空高くへと舞い上がると、部隊に所属する審問官のほとんどの気配が後方に遠ざかった。
「ちっ……どいつもこいつも」
 苛立ちも露わに吐き捨て、ダリウスは遠く丘の向こうに見える水平線を睨みつける。
 ――今日はシャロンの門出だっていうのに、どうしてこうもタイミングが悪いんだ。俺も、クロエの奴も。
 部隊の仲間に聞こえないように毒づくと、彼の守護天使イグニスが気遣うように、堅く強張った頬に触れた。穏やかな輝きを発する光体に、わかってるよ、と一瞥をくれて、
「おい! クロエ……いや、シュトラウス総大司教はどうした!?」
「総大司教《パトリアルクス》は、エリュシオンの領地内で山狗たちを狩るため、先行しています!」
 風の奇跡《エレメンタム》の小隊長ヤスミンが後ろで声を張り上げた。
「我々も随行すると申し出たのですが、私たちでは総大司教の飛行速度に追いつけず……」
 尻すぼみになる声に再度舌打ちして、ダリウスは遥か頭上に湧き立つ雲海を見上げる。
「あの野郎……一人で片づける気だな」

   ※

「……どうしてだろうな。心が冷たい石にでも変わってしまったようだよ」
 しん、と静まり返る張りつめた大気の中で、クロエは誰に言うともなしに囁いた。
 聖都エリュシオン上空三万八千フィート。辺りには人の姿はおろか、機械類の類も存在しない。あるのはクロエと彼を守護する天使、ただそれだけ。巨大な青空が描かれたキャンバスの前に彼らだけが立っているかのような、非現実的な光景がそこにはあった。
 成層圏の下層――気温マイナス70℃、酸素濃度が大気圧の十分の一以下という環境は本来、生物が生存することの出来ない死の世界だ。にも関わらず、クロエが地上と全く変わらぬ様子で虚空に佇んでいられるのは、強力な天使の加護があるから。一歩踏み出せば瞬く間に凍り付く死の世界も、クロエにとってはどこか遠い話のようだ。
 誰一人として存在しない寂寞とした空を、クロエは空虚な心持ちで見渡した。射るような陽の光が、見渡す限りに広がる真っ白な雲海へと、槍のように突き刺さっている。
 クロエは、この凍えた空が好きだった。この場所に居る時だけは、地上で感じた痛みも苦しみも、全てを忘れることが出来る。成層圏の下層に到達できる審問官は、今の管理教会《アパティア》にはクロエしか居ない。ここは、クロエと彼の守護天使だけが到達できる、いわば聖域だった。
 いつか神と一体となった時に見渡す世界は、きっとこんな風に見えるんだろう、と想像したこともあったが――今は、全てが遠い。
 腕を伸ばし、太陽を掴むように拳を握りしめるも、鋭い日差しが隠れるだけで世界には何の変化も起こらない。不意に訪れた無力感に、クロエの顔が苦しげに歪んだ。
 ――俺は総大司教になり、シャロンは教皇になった。これ以上の高みは他にない。俺たちは約束通り、世界を変革していける地位にまで上り詰めたんだ。それなのに……。
 吹き付ける偏西風が、轟々と音を立てている。
 頬にそっと触れる暖かな感触に顔を上げると、彼の守護天使が心配そうにクロエの顔を覗きこんでいた。
 いつも彼と共にあり、喜びも悲しみも、全てを共有してきた守護天使――もし自由に言葉を交わすことが出来たなら、彼はどんな言葉をクロエに送るだろう。
 気遣うような気配にクロエはゆるゆると首を振り――、

「……すまない。早く終わらせてしまおう。今からでも、急げばシャロンの任命式に間に合うかもしれない」

冷たい鷹の瞳を、眼下の雲海へと向けた。

「――『開廷』」
 クロエの言葉を受けて、天使が光の翼を広げる。大きく羽ばたくと翼から神の意志の力が溢れ、足元に広がる積乱雲に巨大な穴を開ける。下界が……太平洋に浮かぶ小さな島国の全てが、積乱雲の中にぽっかりと空いた穴の中に収まっている。
 ――こうして見ると、世界を支配する管理教会本部《エリュシオンの園》も小さなものだな。こんな小さな箱庭で、俺たちは真剣に悩んだり、泣いたりしていたのか。
 自嘲気味な笑みを浮かべ、クロエは左腕で黄金の天秤《レリクス》を握り、空いた右腕を空高くへと掲げた。左手の聖遺物《レリクス》を通じて、強大な神の意志の力が溢れ出てくるのを感じる。
 渦巻く力の奔流に、天使が黄金色の輝きを発し、しなやかな身体を限界まで仰け反らせ、唄のようにも聞こえる、高低の複雑に入り乱れた音を発した。
 同心円状に拡がった光の輪が、眼下の島をその中に収める。それは先ほどクロエが太陽を握りつぶそうとした行為に似ていた。しかし、何の変化ももたらさなかった先とは違い、天使が形作った光の輪の中には、神の意志の力を縒り尖らせた、無数の光の矢が浮かんでいる。
「被告人――『山狗の仔』六名。罪状は殺人。拘留中の身にも関わらず管理教会《アパティア》の牢から逃げ出し、審問官二名、市民五名を殺害した。目撃者、証拠多数。疑いの余地は無い。『山狗の仔』に通常の審問執行は通じないため、『管理教会規定十七条、大司教による異教徒への異端審問権』を発動する」
 機械的に呟くクロエの、その黒曜石を思わせる瞳が『神の意志の力』を受けて鈍く輝き、遥か眼下――二万八千フィート先の地上に居る、六人の被告人たちを明瞭に写し出す。
 これこそが審問官クロエ・シュトラウスの『神威《ゲニウス》』。『神の目』と呼ばれる彼の瞳は、あらゆる遮蔽物を透過し、遥か千里までを見通す。
 彼が戦場において常勝無敗の英雄と呼ばれるのは、紅焔《プロミネンス》と称される彼の天使の強大な力よりも、この『神威《ゲニウス》』の能力によるところが大きい。
 クロエの高精度の視力は、天使が撃ち出す高出力のエネルギーを、僅か数ミリの誤差で制御することを可能とする。彼と彼の天使が下す審判の火は、かつて科学が隆盛を極めていた頃に人々から恐れられた、地上攻撃用宇宙兵器『神の杖』に例えられる。
「――執行」
 右腕を降ろした瞬間、光の矢は雨のように地上へと降り注ぎ、孤島『エリュシオンの園』の岸壁に隠れていた山狗の仔たちの身体を、寸分たがわぬ精度で貫き通した。
 第三次異教徒掃討部隊《クルセイダーズ》を勝利に導き、常勝無敗と称えられた総大司教、クロエ・シュトラウス――しかし執行の裁きを下した彼の顔に浮かぶのは、色濃い疲労と苦痛だった。
 どこまでも広がる蒼い空。裁きを下した天使がどこか悲しげに、細く長い咆哮を上げる……。


 クロエが執行を下してから三十分後――教皇宮殿から火急の速さで駆け付けたダリウスたち武装審問官の部隊は、海岸べりの岩場で六名の『山狗の仔』を発見した。
 掠め取った船に積荷を載せていたのだろう。それぞれが荷物を抱えた姿勢のまま、四肢を光の矢に貫かれて、岸壁に、あるいは船の縁に縫いとめられている。それはさながら、標本となった昆虫の姿を思わせた。
 山狗の仔たちの生死を確認しに降りていたヤスミンが、驚きの声を上げる。山狗の仔たちを縫いとめた光の矢は、その全てが急所を外し、かつ身動きの取れない位置を正確に貫いていた。駆け付けた十数人の審問官の間から、感嘆にも似た声が上がる。
「『神の杖』……手加減なしか。クロエの奴も余裕が無かったらしい」
 ダリウスはぼりぼりと頭を掻くと、手際よく仲間の審問官たちに指示を送って、脱走犯たちを回収していった。部隊員である司教たちよりも階級が下のダリウスの指示にしかし、不平を漏らす者は一人としていない。彼らは、かつてはダリウスの部下として、共に戦場を駆け抜けた審問官ばかり。その信頼は厚い。
 脱走犯たちを撃ち抜き、岸壁へと深く突き刺さった光の矢は、審問官たちが触れると、光の粒子となって大気へと溶けるように消えた。
「ヤスミン、戦果を報告しろ」
「はっ。捕縛したのは『山狗の仔』六名。どれもが郊外の牢獄に囚われていた者たちです。牢を今朝方脱走し、逃走途中に審問官二名、民間人五名を殺害しています」
 事務的に読み上げるヤスミンの報告に、ダリウスは微かに顔をしかめた。やはり引っかかる。何故、管理教会の牢獄に厳重に繋がれていた『山狗の仔』たちが、示し合わせたように牢を抜け出したのか。
 ――妙な匂いがするな。
 戦に慣れたダリウスの鼻は、微かな悪意の匂いを嗅ぎ取った。おもむろに脱走犯たちへと近づくと、縛り上げられ、うめき声を漏らす『山狗の仔』の一人の頭を掴み上げ、
「貴様たちの審問は、帰ったらこの俺が手ずから行ってやる――隠し事が出来ると思うなよ。覚悟しておけ」
 鬼と恐れられる相貌を近づけると、二十代半ばと思われる山狗の仔は、苦悶の表情に微かな笑みを浮かべた。思わぬ反応に、ダリウスが眉間に深い皺を寄せる。
「妙ですね……」
「どうした?」
 資料と捕縛した脱走犯たちの照合を行っていたヤスミンが、難しい顔をして口元に手をやった。戻って来たダリウスを戸惑うように見上げ、
「その、数が合わないんです。あの牢に居た『山狗の仔』は全部で九名だったはず。しかし、脱走したと伝えられたのは六名……同族意識の強いこいつらが、仲間を置いて逃げ出すとは思えないんですが」
「ちょっと待て。……おい! 執行部からの報告では、脱走した山狗の仔は六名で間違いなかったな?」
 ダリウスの問いに、近くの審問官たちが揃って顔を見合わせる。勘違いではないようだが――念のため、ヤスミンに本部への確認を指示し、ダリウスはふと引っ掛かるものを感じて近くの審問官へと声をかけた。
「本部から指示を送ってきたのは誰だ?」
「えっと、確か執行部の――」
 司教たちが次々と告げる名前に、ダリウスの顔が徐々に強張っていく。同時に本部に打電するヤスミンの顔が青褪め、キーを叩く指先の動きが早くなる。
 ダリウスは審問官たちを押しのけ、今まさに連行されていこうとしている脱走犯の一人を引き止めた。特殊な繊維で編まれた拘束具で自由を奪われた男の口枷を外し、胸倉を引きよせ――目を見開く。
 捕縛された山狗の仔は、ニヤニヤと薄笑いを浮かべていた。顔を歪めたダリウスが低く唸る。
「……なにが可笑しい」
「こんなところで遊んでていいのかい? 最強の執行者、ダリウス・ロンブル司祭様?」
 悪意と嘲笑に満ちた瞳――その人間性の希薄な、獣のような瞳を見て、ダリウスの顔がくしゃりと潰れる。
 まさか――。
 ダリウスは男を乱暴に地面に叩きつけると、獣のような唸り声を発し、周囲の空気を震わす怒声を張り上げる。
「ヤスミン! すぐにクロエと連絡を取れ!」
「……駄目です! 先ほどからやっていますが、応答ありません! 電源を切っているか、もうかなり離れた場所に居るのかと」
「それなら、すぐに本部に連絡を取れ! 原理主義派閥以外の審問官に、牢に残った山狗の仔の数を確認させろ! 聖都全域に厳戒態勢を敷け! ――急げ!」
 命じるなり、自らもすぐさま火車の如く駆け出す。天使イグニスが鋭い咆哮を上げて、淡く発光する光体が噴き出すように炎を打ち放つと、海面が一瞬で沸き立ち、水蒸気爆発が起こる。跳躍したダリウスは、その爆発さえも推進力として、空高くへと舞い上がった。
(どこだ……どこに居る、クロエ!)
 ぽつぽつと積乱雲が浮かぶ、青く寒々しい空にクロエの姿を探しながら、ダリウスは胸の裡から湧いてくる不吉な予感に戸惑っていた。

 確証はないが、何か……何か、とてつもなく嫌な予感がする――。

   ※

 大聖堂内陣は暗く冷たく、天蓋《クーポラ》から降り注ぐ光が大理石の床へと格子状の影を投げかけていた。
 世紀の一大式典を終えたラダマンテュス大聖堂は、数時間前までの熱気を忘れたかのように、重たい静寂の中に沈んでいる。
「シュトラウス総大司教」
 背後の扉が開く気配がして、生成色の司教服が慌ただしく駆けこんでくる。
 細い弦の銀色の眼鏡をかけた、クロエよりいくらか年上かと思われる、真面目そうな青年だった。
「こちらにいらっしゃいましたか。明日からの遠征について、急ぎご相談したいことがあるのですが……」
 手元のクリップボードに挟んだ書類に目を落としながら、立ち尽くすクロエへと歩み寄り、返って来ない反応に訝しげに顔を上げると、僅かな間があって、
「すまない、一人にしてくれないか」
振り返ららないまま、クロエが絞り出すように囁いた。
 青年は一瞬だけ怪訝そうな顔になり、微かに口を開いたものの、しかしすぐに同情めいた表情になって口を噤み、
「失礼しました。……では、後ほど」
恭しく頭を下げ、静かな足取りで聖堂を出て行った。
 足音が遠ざかり扉が閉じると、クロエは内陣に置かれた祭壇へと顔を向けた。
 式典が無事に執り行われたことは、顔見知りの審問官に聞いて知っている。シャロンは終始、民衆へと穏やかな微笑を浮かべながら、祭壇の向こうにある大聖堂後陣――『神の門』へと入っていったらしい。『神の間』は、教皇となる審問官と、随伴する一部の枢機卿だけに入室を許された、聖都エリュシオン随一の聖域。そこに至ることはつまり、管理教会の頂点へと上り詰めたことを意味している。
「おめでとう、シャロン」
 人気の途絶えた祭壇を見詰め、クロエは消え入りそうな声で囁いた。不意に天蓋《クーポラ》から差し込む光に陰が指し、聖堂内の明度が落ちる。
 次に彼女が『神の間』を潜ることが出来るのは、彼女が教皇職を勤め上げる、今日kから半世紀は後……いや、彼女ならば一世紀は超えるかもしれない――。
 そう思った途端、クロエは言いようのない不安に襲われた。世界は光を失い、モノクロに見えた。視界が傾ぎ、足元が揺らいで、自分がどこに立っているのかも解らなくなる。
 ――どうしたんだ。いったい。
 知らず、呻いていた。
 俺は正しいことをしたはずだ。親友であるシャロンを『神の門』へと送り出し、彼女の就任式においては私事よりも任務を優先させた。彼女の門出を見送ることは出来なかったが、元より別れは昨日のうちに済ませている。大司教として相応しい、何一つとして恥じることの無い判断だったはずだ。
 なのに――この胸の裡に訪れた、後悔にも似た息苦しいようなもどかしさ、寒々しい空虚感は何なのだ。
 よろめく身体を意志で支えて、睨むように祭壇を見つめる。自問しつつも、クロエは自分の本心に気付いていた。
 クロエが感じる苦しさの正体――それは、この先も変わらず続いていく人生への不安だった。クロエ・シュトラウスが教皇となることはもうない。ならば、俺はこれから何を目標に生きて行けばいい?
 息苦しさが増して、目の前が霞み始め、アジア有数の大都市の路地裏から、教皇庁最奥ラダマンテュス大聖堂に至る今日までの記憶が、走馬灯のように目の前を流れる。
 ――俺は、この先もこれまでと同じことを続けていくのか? 民衆を裁き、異教徒たちを殺し続けていくのか? 明日も、明後日も、その先も――いったい何のために? 世界の平和? それは大勢の人を殺して手に入れなければならないものなのか? そもそも世界とは、どこからどこまでを差す。山狗の死体に縋って無くあの少女は、管理教会のやり方では救えないと解っているはずなのに……。
 俺は、そんな曖昧で先の見えないものの為に、これからも人を罰し殺し続けていかなければならないのか?
 平衡感覚が失われ、足元の感覚が無くなった。バランスを崩し、ぽっかりと空いた暗闇に吸い込まれそうになったその時――近くに人の気配を感じた。
 扉を開き、何者かが近づいてくる。軽い足音は、クロエの背後でぴたりと止まり、
「行ってしまったね」
 囁くような声に振り返ると、そこには聖堂色の蛇の巻き付いた長大な杖を手にした少年の姿があった。顔を蒼白にし、小刻みに震えるクロエを見上げ、少女のような褐色の顔に穏やかな笑みを浮かべている。
「シャロンは神の依り代となり、この世界を見守り導いていってくれる。心優しい彼女なら、きっとこの世界は今よりも優しいものにしてくれるだろう。全てはこれからだ。そう思わないかい?」
 深い焦げ茶色の瞳を細めると、記録審問官エンメルカルは内陣を支える巨大な四つの支柱と、その上部にある天蓋《クーポラ》に施された壮麗なステンドグラスを見上げた。
 クロエもまた、視線を追って天井を見上げる。雲に切れ間から光が差し、どこまでも優しく透明な光が、大理石のタイルの上に降り注いだ。
 ――教皇となった審問官は神と一体となって、この星の運行までをも操る、泣く子供があれば風をそよがせて慰め、飢餓や貧困、争いに苦しむ人々があれば、それをもたらす悪魔たちを追い払う。
 ――そうだ。
 シャロンは、これから自らの人生を引き換えに、世界を変えていくのだ。
 その事実が、クロエの眩む意識を正す。
 そう、約束したんだ。今の立場を投げ出したりしないと。
 不意に泣き出したい衝動に駆られ、クロエは縋るように降り注ぐ光に手を伸ばした。差し込む光の中に、シャロンの気配を求め、
「君たちは似ているね」
ため息交じりに吐きだされた声に、ぴたりと動きを止めた。
「……似ている?」
 誰に? と視線で問うクロエに、エンメルカルは僅かに顎を上げ、
「アナスタシアと、メリクリウスに」
 ――似ている? 俺と、彼らが?
 静寂が落ちると同時に、昨日この場所で見た光景が蘇った。
 アナスタシア前教皇が覚醒し、メリクリウス枢機卿と再会する姿を。まるで何十年も時が巻き戻ったように互いに見つめ合うその眼差しを。
 じっと暗闇を見つめるクロエを、エンメルカルは優しげな目で見つめた。悲しみに暮れて無く子供を見るような、大人びた視線――澄んだ湖面を思わせる瞳でクロエを見つめ、
「アナスタシアが呼んでいる。そっと礼拝堂にお行き。通路は通れるようにしてある」
「アナスタシア様が?」
 問い返した時には、エンメルカルは背を向けていた。
 クロエは戸惑い顔で遠ざかる背中を見送る。
 神と一体となってその役目を果たした審問官の命は、全ての生命力を世界を調律することに捧げた代償に、一両日中には尽きる。残された時間は、ほんの僅か。会うことが出来るのは、彼女が会いたいと願う限られた人間だけのはずだ。
「俺なんかが、いいのか?」
 クロエには、アナスタシア前教皇との面識はない。彼女が眠りについたのは、クロエが産まれる半世紀以上前だ。
 戸惑うクロエに、エンメルカルは背を向けたまま、蛇の巻き付いた青銅色の杖の頭を持ち上げた。それは彼が『神の間』に纏わるいっさいの祭事を取り仕切る門番、『記録審問官』であることを示している。
「僕は記録審問官。ただ有りの儘を記録することしか出来ない名ばかりの審問官。……これらは全て、彼女が望んだこと。僕は友人として、彼女の期待に応えるだけさ」

   ※

 礼拝堂の奥にある小さな部屋に入ると、茉莉花《ジャスミン》の仄かな香りが鼻を掠めた。
 開け放たれた窓からゆるゆると流れてくる、夕暮れの気配をはらんだ少し冷たい風。部屋の大部分を占める、白いベットにかかった薄いヴェールには、身体を起こした女性の細いシルエットが映っている。 
 肌寒さを感じたクロエは窓際に歩み寄ると、開け放たれた窓を閉めようと手を伸ばし……穏やかな声に呼び止められた。
「クロエ・シュトラウス大司教ですね?」
 はい、と返事をして、ベットの傍に歩み寄る。立ち止まると「中へ」と細い声。促されるままにヴェールの切れ間に身体を潜らせると、ベットの脇には僅かなスペースが出来ていて、椅子やテーブル等の調度品が並べられていた。
「失礼いたします」
 クロエは顔を伏せたまま目礼。ゆっくりと視線を上げ――思わず、息を呑んだ。
 白いベットに上体を起こして座っているのは、昨日見たアナスタシア前教皇とは丸っきりの別人の、細くやせ衰えた老女だった。
「そんな、露骨に驚いた顔をしなくても良いんではなくて?」
 硬直するクロエに、老女は微かに顔をしかめる。
「し、失礼しました」
 クロエは慌てて頭を下げながら、脳裏に豊かな銀色の髪を持つ美しい女性の姿を思い浮かべていた。髪の色こそ、銀から白髪に代わっただけだが、ベットの上の女性は明らかな老人であり、昨日見た十代と見紛うような若々しい女性の面影はどこにもない。動揺のあまり、クロエは次ぐ言葉を忘れてしまった。
 しばらく無言の間が空く。
 身を固くしていると、小さく嘆息する音がして、
「失礼な人ね」
老女の呆れた様な声が響いた。
「まぁ、驚くのも無理はないわ。教皇は神を宿している間は不老でも、その後は時の時間の揺り戻しを受けて老化していくことは、秘密にされているんだものね」
 もういいわ、という声に恐る恐る顔を上げると、老女ーー前教皇アナスタシアの大きな瞳と目があった。
 ――間違いない。
 その水銀を溶かし込んだような瞳を見た瞬間、クロエは認めぬ訳には行かなかった。冬の湖面を映したような透明な瞳。その中で抑えきれない好奇心にきらきらと輝く虹彩は、かつて写真などで見た姿そのものだった。
「こうして話をするのは初めてですね。クロエ大司教。以前教皇をしていた、アナスタシア・セレーネです」
「お初にお目にかかります。アナスタシア様。大司教クロエ・シュトラウスです」
 恭しく頭を下げ……そのまま硬直する。どうしてか、顔を上げられない。
 アナスタシアは、動かないクロエをその湖面のような瞳で静かに見詰めていたが、諦めたように小さく乾いた息を漏らした。
「……そんなにショックだったかしら。でも、これが現実よ。役目を終えた教皇は、こうして最期に大切な人に別れを告げながら、明け方には息を引き取るの」
「そんなに貴重なお時間を私などに……よろしいのですか?」
「主だった者への別れは済ませました。最期はエンメルカルに謁見するのが決まりなのだけれど、無理を言って、代わりに貴方を呼んで貰ったの。……さぁ、どうぞそちらに座って」
「その前に。どうして私を呼んだのか、その理由を教えていただけませんか?」
 おずおずと顔を上げたクロエに、老女はどこか寂しそうに微笑んで、開け放たれた窓の外へと視線を移した。
 枯葉が擦れるような、小さな声でそっと囁く。
「貴方は、似ているから」
「似ている?」
「枢機卿のメルクリウスは、貴方も知ってるわよね? 彼、士官学校時代の私の同期だったの」
 直立したまま微動だにしないクロエに目をやって、アナスタシアは遠く記憶をなぞるように、窓の外へと視線を戻した。
「彼とは士官学校主席の座を巡って、何度も衝突したわ。過去の審問記録を見て、その判断は正しかったのかどうか議論を戦わせたり、統治機構である管理教会《アパティア》がどういう姿であるべきか、喧嘩同然の言い争いをしたことも一度や二度じゃなかった」
「メルクリウス枢機卿が?」
「意外?」
 覗き込むように見つめるアナスタシアに、クロエは素直に頷いた。
 あの年百年もかけて凝り固まった岩のような、冷たい目をした老人が、声を荒げてこの穏やかな女性と言い争っている姿など、想像することも出来なかった。
「私たちはお互いにライバル同士で……そして、二人と居ない友人でもあった。これは私だけの思い違いじゃないはずよ? 司教になりたての頃、私が対抗していた派閥の策略によって蹴落とされそうになった時、彼は聖都中を駆けずり回って証拠を集めて、私の無罪を証明してくれたの。そのせいで、彼ったら対抗勢力の人たちに目をつけられて、随分に酷い目にあったみたいだけれど……もし本当に相手を苦々しく思っていたら、そんなことしないでしょ?」
 はしゃいだように話すと、ふっと疲れたように息を吐き、ゆっくりと呼吸を整える。顔色の悪さに気付いたクロエが手を伸ばそうとすると、アナスタシアはそれを片手で制した。
「だから大司教になって……私が教皇に選出された時も、彼は快く私を見送ってくれたわ。最後の夜、大司教の癖に私の部屋にまでやって来て、励ましの言葉をかけてくれたの。君と俺とはこれからもずっと、互いを高め合う良い友人だって」
 大切なものに触れるように目を細めると、アナスタシアは「私たちが規則を破ったことは時効だと思うけど、秘密にしておいてね」と悪戯っぽく笑った。その姿に昨夜別れを告げたシャロンの姿が重なって、クロエは逃げるように目を逸らす。
 唇を噛み締めるクロエに、アナスタシアは気にした風も無く話を続けた。
「その時の私は、一人玉座に向かう寂しさと不安で押しつぶされそうだった。だから彼が『頑張れ。お前が目覚める時まで俺が管理教会《アパティア》を支えて見せる』って、そう言ってくれた時、どれほど救われたことか」
 噛み締めるように囁いて、アナスタシアは表情を曇らせる。寂しそうに視線を落とし、
「けれど、メルクリウスは目覚めた私に会いに来てはくれなかったわ。新しい教皇が無事に玉座につけるよう、装置の調整をしなければならないからって……。顔を合わせたのは、目覚めた時の一度だけ。いろいろな話をしたいと思っていたのに」
 もう時間がないのに、と囁いて、アナスタシアは窓の外から降り注ぐ夕暮れの光に目を細めた。ちらりと壁の柱時計に目をやり、
「シャロンさんとメルクリウスが玉座に向かってから、六時間――そろそろ同期作業が終わった頃かしらね」
「同期作業?」
「そうよ」
 問い返したクロエに、アナスタシアはぞっとするほど真剣な顔を向けた。どこまでも透明な銀の瞳は無機物のようで、夕暮れの光を浴びて燃えているようにも見えた。
 息を殺すクロエを見詰めたまま、アナスタシアは感情の消えた声で告げる。
「教皇になるっていうのはね。『神の門』の向こうにある量子コンピューター……その生体オペレーターになるっていうことなのよ」

   ※

 沈みかけていた太陽は水平線の向こうに没し、辺りはヴェールのような薄闇に包まれていた。
 柱時計の音がやけに大きく聞こえる。
 アナスタシアは長い話を語り終えると、疲れの滲む顔でそっと息を吐いた。
「これが、管理教会《アパティア》の……いえ、審問官制度の正体よ」
 静かな声に、彫像のように身じろぎ一つせずにいたクロエは、魔法を解かれたかのように、ふらふらと白一色の壁へもたれかかった。膝が当たって、ベットの横に置かれた応接机が、がたん、と大きな音を立てる。
 ――シャロンが、量子コンピューターを動かすのに必要な生体オペレーター? 管理教会《アパティア》が掲げる『神』とは、あらゆる事象、因果律を読み取る演算装置のことを指すだと?
 足下から奈落の底へと吸い込まれていくようだった。これまでの価値観が、信じていたものが、音を立てて崩れていく。
 恐る恐る肩の上を振り返ると、薄らと顕現した彼の守護天使が、気遣うように手を伸ばしていた。
 クロエは笑った。今にも泣き出しそうな声だった。
 身体を折ってひとしきり笑うと、目の前の老女をぎらつく瞳で睨みつける。
「どうして、そんなことを俺に?」
 引き攣った顔で問うクロエに、アナスタシアは真っ直ぐな視線を向けたまま頷いて、
「貴方が感じている精神的ストレスの大きさは、『神』と分離した今の私にも推測することが出来ます。メルクリウスが変わってしまったのも、枢機卿となり、システムの運用を任される立場になって、審問官制度の真実を知ってからでした。このままでは、きっと貴方は彼と同じ道を歩むことになる。そう思ったから、こうしてお話しさせていただいたのです」
「俺が、メルクリウス枢機卿と同じ?」
 クロエは目を吊り上げて、静かな視線を向けるアナスタシアを睨み据えた。黒く輝く瞳の奥で燃える、狂気を孕んだ殺意の輝きに、アナスタシアの守護天使が、オォ、と低い唸り声を発する。
 不穏な空気を放つクロエにしかし、アナスタシアは真っ直ぐな、どこまでも透明な瞳を向けて、
「そうです。彼と貴方は似ている。あの時、貴方だってそう感じたんじゃないですか?」
クロエの心の奥に、鋭く楔を打ち立てた。
 ――瞬間、脳裏に昨日見た光景が蘇る。
 覚醒した教皇アナスタシアを出迎える、枢機卿団の長メルクリウス。
 穏やかな午後の日差しの中で彼らが再会する姿……まるで六十七年の時を巻き戻すように、互いに見つめ合うその眼差しを。
 その夜、ダリウスは見つめ合う二人の姿を美しいと称した。
 だが、クロエは違ったのだ。
 クロエはその姿を見て、ぞっとしたのだ。
 二人の間に流れる諦観の眼差し。噛み合うことのない間。決して越えることの出来ない隔絶……それらを諦観の思いで受け入れる二人はどこまでも透明で、空虚で、そして深い絶望に包まれていた。
 それはクロエの目には、一つの終焉として映った。
 ――俺たちも、あれと同じことを繰り返すのか?
 ズキズキと痛み出した眉間を抑え、クロエは真っ直ぐに見つめる水銀の眼差しから目を逸らした。
 過去に思いを馳せ、絶対に手に入らないそれを、優しさにも似た諦観の眼差しで受け入れる……その光景を繰り返し想像し恐怖しながら、これから続く何十年という人生を、あの結末へ向かって走り続けていくのか? 
 ……冗談じゃない。
 そんなの、まっぴらゴメンだ。
『幸せになってね、クロエ』
 そう言って笑ったシャロン。量子コンピューターの生体オペレーターとして、一生を世界に捧げた、ただ一人の幼馴染。
 その彼女を置いて、俺だけが幸せになる?
 そんなこと、出来るものか。
 真実を知って、どうして俺だけがのうのうと生きることが出来る!?
 気づくと、激しく呼吸を乱している自分が居た。あまりの息苦しさに、胸を掻き毟り喘ぐように喉を逸らす。多量の脂汗が頬を伝って降りてくる。
 クロエは力の限りに背後の壁に身体を押し付けると、ずるずると崩れそうになる身体を傍らのテーブルに手を突き辛うじて支えた。
 これ以上は考えてはいけない、と脳が警告を発していた。
 このままでは、シャロンが目覚める前に、俺は壊れてしまう。
「式典が始まる前に、シャロン・ウイルスティーズに会いました」
 心を擦り切らせていくような激痛に耐えていると、ベッドの上のアナスタシアが独り言のように囁いた。
「世界を守る神の憑代となる代わりに、自分の人生を捧げることに躊躇いは無いの? と訪ねた私に、彼女は言いました。『私は、世界の為に身を捧げるなんて、高尚な気持ちはありません。だからこそ、私の適正率は他の大司教よりも低いままだったのでしょう。ただ、私は大切な友人の為に――彼が傷つき、その手を血に染め、世界の犠牲となることに耐えられないから、玉座へと向かうのです』」
 知らず、喘いでいた呼吸が止まった。
 犠牲? 俺が、世界の?
 見上げると、薄闇に包まれたベッドの上から、アナスタシアが真剣な瞳を向けていた。
「気付いていましたか? 貴方が異教徒殲滅作戦から帰還するたびに、彼女が心を痛めていたことを。彼女は恐ろしかったのです。戦場に出るたび、夥しい量の人々の痛みや苦しみ、恨みといった感情の残滓を背負ってくる貴方のことが」
「……シャロンが、そんなことを?」
 呆然と掠れた声で呟くクロエに、アナスタシアは痛ましいものを見るような目を向けた。
 ……思い出す。
 今から一年ほど前、髪についたゴミを取ろうと伸ばしたクロエの手を、シャロンが鋭く払い除けたことを。彼女はほんの一瞬、恐ろしそうな顔をし、けれどすぐに泣き出しそうな顔になって、驚き固まるクロエに何度も謝っていた。
 その時は、何とか笑って済ませたけれど、俺は何だか彼女に拒絶されたような気がして――それからは声をかけるのが躊躇われて、結局、昨日の夜まできちんと話をすることが出来なかった。
 ――そういうことだったのか。
 クロエの顔に苦い笑みが浮かぶ。
 シャロンは目が見えない代わりに、視覚以外の感覚器で他の者には解らない何かを感じ取ることが出来る。彼女は華々しく凱旋するクロエの向こうに、無数に圧し掛かる、クロエを恨み呪う人々の姿を見ていたのだ。
 玄翁で頭を殴りつけられたように視界が霞む。
 そんなこと、今まで考えても見なかった。
「彼女は恐ろしかったのです。管理教会の尖兵としてその手を血に染め、最期には世界の犠牲となって、教皇の座へと赴く貴方を見送ることが。貴方は純粋で、自ら進んで教皇となることに疑いさえ抱かない。自ら進み喜んで、管理教会《アパティア》が言う『世界』を支える人柱となる。それは、彼女にとって何より恐ろしいことだったのです。だから、自分が教皇に選ばれた時、彼女は心から安堵したのです。貴方が世界の犠牲になることは許せなくとも、自分が貴方の犠牲になるのなら、彼女は構わなかったのです」
 すとん、と足から力が抜けて、クロエはリノリウムの床に崩れ落ちた。涙が一筋、頬を伝って落ちる。
「後悔しているのですね?」
 クロエは震える身体を丸めて頷いた。
 ――俺はいったい、何をしていたんだろう。
 世界とか管理教会《アパティア》とか、いつからそんなものが重要になったんだ。そんなもの、かつての俺は持っていなかったし、必要としていなかった。誰かに「それは大切だ」と押し付けられて、言われるがままに背負っていただけだった。
 だから見てみろ。
 その怠慢の果てに、俺はかけがえのない大切なものを失った。
 今、俺の頭上には、北極星《ポーラスター》は輝いていない。
 俺だけの道しるべは、星の海に紛れて見えなくなってしまった。
 初めから、教皇になりたかった訳じゃない。俺は、あの風が吹きすさぶ夕暮れの丘で、悲しむ彼女を勇気づけたくて、一緒に教皇を目指そうと言ったのだ。
 そうだ。
 俺は――いや、僕は、薄汚い路地裏から見上げた冬の空を。ただ彼女をこの手で守りたくて。それだけの想いで、この島へとやって来たのに。
「もう一度だけ、チャンスを上げましょう」
 力強い声に、クロエは涙で濡れる顔を上げた。ベットに座るアナスタシアの手には、いつの間にか、一抱えほどもある鏡が握られていた。
 細かなレリーフの施された、黄金色の縁を持つ大鏡――クロエは思い出す。これが、話に聞く前教皇アナスタシア・セレーネの『聖遺物《レリクス》』。過去に起こった出来事を余すことなく映し出すと言う、真実の鏡。
「……チャンスを? どういう、ことですか」
 呆然と見上げるクロエに、アナスタシアは優しげな目を向け、曇り一つない鏡面をそっと撫でた。
「言葉通りの意味よ。今の私の力では、ほんの少しの時間を巻き戻すのが精一杯だけれど……。貴方が望むのなら、もう一度やり直すといいわ」
 アナスタシアの頭上で、一際強い輝きを放つ天使が、純白の羽を大きく広げる。大鏡が眩いほどの光を発し、湖面のように澄んだ鏡面に、跪くクロエの姿を映し出す。やがて鏡の中の姿が、熱に溶かされたように、ぐにゃりと歪んで、それは次第に周囲の景色にまで広がり、部屋全体を飴細工のように溶かされていった。
「アナスタシア様……これは」
「これは本来、過去を映すだけの鏡に過ぎない――けれど、私とこの鏡は教皇としてある間、この世界とは違う場所にありました。今もまだ、肉体の半分は幽世にあると言っても良い。その距離感を利用して、今の貴方という存在をこの鏡で屈折させて、過去の時間軸に投影します。未来を変えることが出来たなら、貴方は今とは違う未来に辿り着ける、はず……」
 話し終わらないうちに、アナスタシアの身体がぐらりと揺らぎ、クロエは反射的に立ち上がり、手を差し伸べようとして……強い視線に、射とめられたように足を止めた。
 睨むようにクロエを見つめる白い顔には、激しい疲弊と燃え上がるような強い意志の色が浮かんでいる。
「メルクリウスを、止めて下さい」
 老女は吐き出すような声で言った。
「多くの犠牲の上を歩いてきた彼には、もう止まれない。私の声はもう、あの人には届かない。目覚めて彼を見た時、確信しました。彼は不条理に抗う心を忘れてしまった。彼の頭にあるのは、如何にして教会分裂《シスマ》を防ぎ、制度を保持していくか。ただそれだけです。自分たちと同じ苦しみを後世の者たちに未来永劫背負わせ続けていくことに、躊躇いを感じていない! それは決して、正しい選択ではないのです!」
 嵐のような激情を孕んだ瞳が、クロエを見つめる。そのあまりの意志の強さに、クロエは一度瞑目し、姿勢を正した。
「了解しました。教皇聖下。……必ずや、メルクリウス枢機卿を止めて見せます」
 お伽噺に出てくる騎士のように跪き頭を垂れるクロエに、アナスタシアは強ばった顔に、無理やり笑みを浮かべた。
「アナスタシアでいいわ。私はもう、教皇ではないのだし……それに、年齢だって、ずっと眠っていた私からしてみれば、貴方とそんなに変わりないのよ?」
 少女のような口調で言って、悪戯っぽく片目を瞑る。クロエは微笑み立ち上がると、静かに背を向けた。
 歪み溶けていく周囲の景色の中で、唯一影響の及んでいない小さな木製扉。空間が歪むほどの凄まじい神の意志の力が渦巻くその扉へと、クロエは一歩を踏み出す。流れ込んで来る力の気配が告げていた。扉の向こうに続いているのは、条理の外にある世界であると。
 小さな部屋に溢れる眩い白い光の中、扉に手をかけたクロエは、振り返り再度、アナスタシアへと頭を下げた。扉が開け放たれた途端、光が弾けて四散し――。

 ……大鏡が輝きを失った時には、小さな部屋にクロエの姿は無かった。

 窓から僅かな夕暮れの日差しが差し込み、吹き込む風が白いカーテンをゆらゆらと揺らしている。
 アナスタシアは微笑を湛えたまま、手を振ってクロエを見送っていたが――不意に、その枯れ枝のように細い腕を、ぽとり、と布団の上に横たえた。
 長い長い息を吐いて、消え入るように囁く。
「より良い未来を。あの日の私たち。……私は、もう一度夢の続きを見ることにするわ」
 ――霞んでいく意識。
 深い沼の底へと引きずり込まれていくような感覚に、僅かな恐怖を感じる。彼女には、その感覚に覚えがあった。それは、今から六十三年前、彼女が『神の門』を潜り、玉座へと送り出されたあの日。量子コンピューターの一部品として、眠りつつく瞬間に似ていた。
 と、不意に頬に当たる風の流れに変化を感じて、アナスタシアは残る力を振り絞って、ゆっくりと意識の焦点を合わせた。ベッドのすぐ傍に、いつの間に入ってきたのだろう。小さな少年が立っている。
「最期の別れは済ませたかい?」
 泣いているような、笑っているような、酷く透明な笑みを浮かべ、少年は囁いた。
 ええ、と頷き、アナスタシアは乾いた頬に微笑を浮かべる。
 どうして、とは思わなかった。この謁見は、彼女が教皇となった日から決まっていたこと。
 小さな少年の姿をした審問官は、自分の背丈よりも大きな青銅色の蛇が巻き付いた白い杖を手に、穏やかな表情でアナスタシアを見つめている。
「……ねぇ、エンメルカル」
「なんだい?」
「私がした選択は、間違っているのかしら。私は自分の未練の為に、彼らに残酷な運命を背負わせようとしているのかもしれない」
 細々と囁く声に、少年が微かに首を傾げた。少し考えるような間をおくと、寂しそうに笑って、
「後悔してるのかい?」
「いいえ。ちょっと聞いてみたくなっただけよ。……彼らの未来には、辛く苦しいことが多く待ち受けているでしょう。それを乗り越えても、その果てにあるのは幸福な結末ではないかもしれない。……それでも、進んだ先に僅かでも希望があるのなら……私たちが掴めなかったものを、掴んでくれるなら、私は……」
 ……瞼を開いていられない。
 ゆっくりと深い闇の底に吸い込まれていく。
 ふぅ、ふぅ、と苦しげな自分の声を、どこか他人事のように聞いていた。深く暗い闇が、触れそうなほど近くに、ぽっかりと口を空けて待っている。
「そろそろ時間のようだね」
 耳元で穏やかに響くボーイソプラノ。アナスタシアは、その声に応えようと口を開いて、
「おやすみ。優しい優しい、アナスタシア」
 最期に、そっと頭を撫でられる感触がして――教皇アナスタシアの意識は、深い闇の中に吸い込まれ、見えなくなった。







(>∀<)ノぉねがいします!



<前へ   表紙へ   トップへ    次へ>