シャワー上がりに暗い廊下を歩いていると、廊下の奥に暖かな光が漏れている部屋があるのに気付き、フレデリカは足を止めた。風呂から上がったら教えてほしい、とリオが言っていたのを思い出す。
「リオー? 居るの?」
 扉は開け放たれ、楽しげな話し声が聞こえてくる。リオとジブリールだ。近づくと、ジブリールのほっそりとした背中が見えた。
「リオ、シャワー……」
「ジブリールさんは、この部屋を使って下さい」
 振り返ったリオが、綺麗に装飾された大きめの部屋を示し言った。
「っ!」
 思わず、ドアの後ろに隠れる。
 そっと覗きこむと、ジブリールの肩越しに部屋の様子が見えた。巧みなレースのあしらわれた、柔らかそうなベッド。様々な色形をした帽子が、ブドウの房のように連なるコートハンガー。新雪のように真っ白な鏡台に、宝飾品のように並べられた化粧道具。部屋は一目で女性ものと解る、可愛らしい家具で彩られている。
「母さんが使っていた部屋なんです。今日はここに泊まって下さい」
 ベッドの前に立つリオが、にこやかに笑って言った。フレデリカの存在には気づいていないらしい。
「お母様のお部屋、ですか」
 そっと足を踏み入れたジブリールが、躊躇いがちに部屋の中を見渡す。
 綺麗に片づけられ、飾られた一室。そこには華やかさはあっても、温かさ――生活感というものが欠けている。ジブリールは、躊躇うような間を置いて、
「あの……リオさんのお母様は」
「三年前に、流行病(はやりやまい)で亡くなりました。大丈夫ですよ。掃除は小まめにしてますから、清潔です」
 変いながら言うリオに、ジブリールは悲しそうな、困ったような、何とも言えない表情で、柔らかく微笑み返した。もちろん、ジブリールは清潔かどうかを確かめたかった訳ではないだろう。リオだって、それくらいのことは解っていたはずだ。
「お嫌でしたら、別の部屋にしますけど……。あとは屋根裏部屋が一つあるくらいで」
「いえ……ありがとうございます。使わせて戴きますわ」
 ジブリールが丁寧な口調で言って、胸元に手を当てる。その答えに、嬉しそうに笑ったリオの姿に、フレデリカは胸の奥に、鈍い痛みが走るのを感じた。


 食事の片づけを手伝うと言うリオと別れ、自分の部屋へと向かう。一度二階まで上り、そこから更に木製の階段梯子を上って屋根裏部屋へ。ドアを開けると、大きなベッドと洋服棚があるだけの、小さな部屋が現れた。
 スリッパを履いたまま、よく日干しされた、ふかふかのベッドに倒れ込む。仰向けになると、天上に嵌められた窓の向こうに、墨を流したような、真っ暗な夜の景色が見えた。
「……何よ。リオの奴。私には一度も、お母さんの部屋を使わせてくれなかったくせに」
 ピンク色のフリルがついた枕を抱き寄せ、呟く。
 フレデリカだって年頃の女の子。女性らしさを詰め込んだ、宝石箱のようなあの部屋で眠れたら、と憧れることくらいある。しかし、フレデリカがいくら頼み込んでも、リオはいつだって、この味気ない屋根裏部屋をあてがうのだった。
 窓の向こうの闇を見つめていると、リオの母――リーゼロッテの優しげな笑顔が浮かんだ。
 リオと同じ、美しいブロンドの髪と、青い瞳を持った優しい女性。いつも日向のように暖かく笑っていた。
 そんな彼女が流行病で亡くなったのは、今から四年前――よく晴れた初夏の朝だった。十を過ぎたばかりのリオは、今よりもまだずっと子供で、遺体が火葬される時も、見慣れぬ周囲の大人達から隠れる様にして、フレデリカの喪服にしがみつき、はらはらと涙を零していた。
 リオがフレデリカをリーゼロッテの部屋に泊めたがらないのは、母との思い出を守るためだと思っていた。少しでも長く、母の気配をこの世界に残しておくためだと。しかし、リオはジブリールに、母の部屋をあてがった。
「……リオのバカ」
 フレデリカは、自分の母に関する記憶をほとんど持っていない。フレデリカの母であり、研究者だったヘンリエッテが亡くなったのは、フレデリカがまだほんの六歳の時。それに、ヘンリエッテは研究所に籠ることが多かったから、一緒に過ごした記憶はほとんど無い。
 だからフレデリカにとって、リーゼロッテは、二人目の母のような存在だった。いつも優しい母が傍に居るリオのことが、羨ましくて堪らなかった。
 それだけじゃない。
 リオは、フレデリカには手に入らないものを、たくさん持っている。
 綺麗なブロンドの髪。空のような澄んだ青い瞳。いつも傍に居て、案じてくれる優しい父。そして、天使マグノーリエ。
 あの日――リーゼロッテが葬られたあの初夏の朝も、マグノーリエは薄らと顕現し、大粒の涙を流すリオを、案ずるように見守っていた。
 リーゼロッテの身体を焼く、轟々と燃え盛る紅色の炎を前にしている時、心の奥底で誰かが囁いた。
(――良かったね。お母さんが居ないのが、自分だけじゃなくなって)
違う。
(リオは、いろいろと恵まれ過ぎているのよ。お母さんを亡くしたくらいじゃ、まだ釣り合いが取れないくらいに)
 私はそんなこと、思ってない――!
 骨と灰と化した母を見下ろし、はらはらと涙を流すリオの手を強く握り、フレデリカは死にたくなるほどの強い嫌悪を感じていた。
 冷たい枕に、強く顔を押し付ける。
「……私って最低だ」
 四年前のあの日から、何も変わっていない。
 胸の中には、今でも疼き続ける苦い思いがあるというのに、今度はジブリールを羨んで、暗い嫉妬の炎に胸を焦がしている。
 恵まれた容姿、綺麗なブロンドの髪、大振りの宝石の様な翠緑色の瞳。当たり前のように、お母さんの部屋を使うことが許されるジブリール。
 対するフレデリカは、癖の強い金褐色の髪に、砕けた硝子のようなヘイゼルの瞳――そして、あてがわれるのは、いつも冷たい屋根裏部屋だった。
何度も繰り返し比べては、呆れるほどに惨めな気持ちを味わう。頭では意味の無いことと解っているのに、何もかもを比較して、無意識の内に勝ち負けを付けずにはいられない愚かしさ。

 ――そんな醜い心を持っているから、あなたには天使がやって来なかったのよ。
 
 心のどこかで、誰かが嗤った。
 枕に顔を押し付け、きつく目を閉じる。
 物心ついた時から、繰り返し心の隅で囁かれ続けて来た言葉。それを聞くたび、あまりの情けなさにどこかへと消えてしまいたくなる。
 都市教会の神父を務める、父ヴィクトールは、天使ケントニスの加護を受けた審問官。幼馴染のリオもまた、そう。けれど、フレデリカの元に天使は降りて来なかった。
 ――私は心の醜い子なんだ。
 子供ながらに、そう思わずにはいられなかった。父があまり相手をしてくれないのも、母が研究に明け暮れて家に帰って来ないのも、自分が天使に愛されていない、悪い子だからなんだと。

 ――この都市の食糧を、オスティナトゥーアに分けることは出来ないのですか?

 真剣な表情で問いかけるジブリールの顔が、瞼の裏に浮かぶ。まるで我がことのように、悲痛に顔を歪める彼女は、恐らく自分なんかよりも、ずっと清い心を持っているのだろう。リオがフレデリカを母の部屋に泊めたがらないのは、リオはもう気付いているからなのかもしれない。フレデリカの心が、醜く穢れていることに。
「ああーっ! もう、なに考えてるんだろ私。いくらなんでも悲観的過ぎ……」
 ベッドから跳ね起き、あまりのいたたまれなさに、思わず両手で顔を覆う。妄想ばかりが肥大し、どこまでも勝手に落ちていく。
「……都市の食糧を、オスティナトゥーアに、か。どうにかできないのかな」
 ジブリールが言ったそれは、フレデリカもずっと考えていたことだった。かつては姉妹都市とも呼ばれ、交流が活発だったオスティナトゥーアを心配する人は、都市の中にも決して少なくない。
「せめて、伝染病さえ無くなれば、どうにか出来るかもしれないのに」
 二つの都市を隔てている最も大きな要因――それが、伝染病の問題だ。
 九年前の事件――『大罪事変』以来、世界には新種の伝染病が多く蔓延ることとなった。世界の人口が半分に激減したのは、流行病のせいと言っても過言ではない。科学技術が大幅に後退したことから、抗生物質を生産可能な都市自体が少なく、薬自体が手に入りにくい高価なものとなっていることや、新薬の開発自体がストップしているという実情もあって、都市は流行病に対して非常に脆弱だ。
 最近は、ようやく抗生物質も多く出回るようになって来たものの、
人々は変わらず、都市の中に病原菌が入り込むことに神経質になっている。その怖れ方はある意味病的であると言っても良い。
 どんなに交易があっても、病気が流行れば交流を断つし、都市内で病人が出れば隔離。遺体は、この地方では一般的な土葬ではなく、火葬を義務付けるほどの徹底ぶりだ。しかし、これほど気をつけていても、伝染病による死者は毎年、必ず何人か出る。都市の人たちが、様々な流行病が蔓延するオスティナトゥーアを避ける気持ちも、解らないでもない。
「でも、それじゃダメなのよね」
 ベッドの上で、膝を抱えて丸くなる。
「……私なんかに出来ることは、何も無いのかな」
 フレデリカは前に父に、オスティナトゥーアのために自分が出来ることは無いか相談してみたことがある。しかし、父ヴィクトールは「オスカー商会が支援を行っているのだから、心配はいらない」と不機嫌そうに答えるばかりで、相手をしようとさえしなかった。
 そう言われると、フレデリカは何も言えなくなってしまう。審問官である父がそう言うのなら、恐らくそうなのだろう、と納得する以外に無くなってしまう。フレデリカの考えには何の裏付けも無いが、ヴィクトールには、神様が認めた「正しさ」の証である、天使がついているのだから。
「……リオなら、なんて答えるかな」
 ふと、リオの意見が聞きたくなった。同じ審問官であるリオなら、あるいは父とは違う『正しい答え』を見つけ出せるかもしれない。
 リオは、産まれた時から天使に愛された子供。
 『特別』なのだ。
 平凡な私などとは違って。
 屋根裏部屋を出ると、階段の下に薄らと、明りが漏れているのに気付いた。
 リオかもしれない。
 蜀台を手に、足音を忍ばせて階段を降りていくと、リオとアーダルベルトの声が聞こえて来る。
「彼女は、いったい何者なんだ?」
「何って、父さんも聞いたでしょう。巡礼の旅をしている修道女さんだって」
 声をひそめて尋ねるアーダルベルトに、リオが答える。険しいアーダルベルトの声に、フレデリカは思わず足を止めた。影からそっと廊下を窺うと、燭台の灯りの下で向かい合う親子の姿が見える。
「巡礼の旅? 修道女? はっ、お前は本当に、彼女が一人で外の世界を旅して来たと信じているのか?」
「……そうだよ。父さんは、ジブリールさんを疑ってるの?」
「少なくとも、手放しで信用することは出来んな」
アーダルベルトが難しい顔で腕を組み、押し殺した声で言う。
「私はこれまで、何人かの修道女を見て来たが、あんな薄着で歩き、肉を頬張る者など見たことが無い。巡礼の旅にしたってそうだ。街の外は、お前が考えているより、ずっと危険に溢れているんだぞ。女性一人で続けられるものか」
「それは……!」
 反論しかけ、言葉を詰めらせたリオに、アーダルベルトは厳しい声を和らげる。
「断っておくが、私は別に彼女を否定するつもりはないのだよ。彼女は、アルトマン家が迎えた客人だ。可能な限りのもてなしをしよう。……しかし、私は心配なのだ。お前は人を疑わなさ過ぎる」
 言って、アーダルベルトはリオの頭に手を置いた。リオが居心地悪そうに身を捩る。
「私は常々気になっていたのだ。何故都市が、これほど噂されている『大禍』の侵入をやすやすと許しているのか。黒目黒髪の男だということは解っているのだ。未然に防ぐことは出来なかったのか?」
 自ら問いを口にし、アーダルベルトは険しく眉をひそめる。
「あるいは――『大禍』には、協力者が居るのかもしれん。若い女子供連れなら、都市に入る際に行う審査の目眩ましになる」
「ジブリールさんが『大禍』の仲間だって言うの?」
 リオが硬い声で尋ねる。アーダルベルトは、思案気に口元に手をやって、
「あくまで可能性の話しだ。巡礼者の装いをしていれば、あらゆる物事が寛大に許される風潮がある。……聞けば、巡礼の旅をする者の中には、逃亡者や犯罪者も多いと聞く。そもそも、考えてもみろ。本当に巡礼者だと言うなら、彼女はどうやって、五年間もの旅を続けるだけの金銭を工面していたのだ? 巡礼者を装う者の中には、娼婦も居るというが」
「――父さん!」
 鋭い声に、アーダルベルトがはっと顔を上げる。目の前には顔を真っ赤にして震える、リオの姿があった。頭上では、薄らと顕現した光り輝く〈守護天使〉マグノーリエが、アーダルベルトに色の無い瞳を向けている。
「……済まない。失言だった。リオ、今の発言は取り消させてくれ」
 額に手を当てゆっくりと首を振る父の仕草に、リオはぐっと言葉を呑み、拳を握りしめた。
「私はもう寝るよ。眠る時は、必ず鍵を閉めて。フレデリカにもしっかり言って聞かせるんだ。お前は管理教会(アパテイア)の執行審問官になるんだろう? もっと周囲の人間がどんな思惑を持って動いているのか、よく考えて行動しなさい」
 自室へと戻って行く父の背中に、俯いたリオは「はい」と消え入りそうな声で答えた。


「お願いします。憐れな私めに、どうか神の御恵みを……!」
 薄汚れたボロ布を被った少女が上げる細い声に、大通りを歩く人々が奇異の眼差しを向ける。
 こんな所で物乞いとは珍しい、と歩調を緩めたのは、仕入れに来た商人。街路の隅に目をやると、雷に打たれたように、はっと目を見開いた。
「どうか、お願いします……。どうか」
 薄汚れた布地の下に垣間見える美しい少女――祈るように手を組んだジブリールの潤んだ翆緑色の瞳が、商人を真っ直ぐに見つめていた。


「また一人、落ちたわね」
「……」
 すぐ後ろの喫茶店の中から様子を窺っていたフレデリカが、掠れた声で囁いた。隣に座るリオは、石のように固まり動かない。
 どうしてこんなことになったのか――? 
 重たい溜息を吐き、考える。
 始まりは、朝の散歩時にフレデリカがした、一つの質問だった。
「巡礼中の五年間、どうやって路銀を稼いでいたんですか?」
 ジブリールが微かに目を見開き、リオが表情を強張らせた。もちろん、その質問は昨晩うっかり聞いてしまった、アーダルベルトの言葉があったからこそ出たものなのだが、リオがそれを知るはずもない。
 一晩いろいろと考えたものの、フレデリカは結局、本人に直接聞くのが一番だと結論付けた。勝手に妄想を膨らませて疑うことが、一番失礼なことだと思ったのだ。
 どこか気負った様子のフレデリカの問いに、ジブリールは気を悪くした様子も無く、「皆さんの御慈悲です」と微笑み答えた。フレデリカが、ぐっと身体を寄せる。
「それって、寄付をしてもらってたってことですか? えっと……パトロン? っていうんですか? そう言う人が居るとか」
「いえ。お金に困った時は、いつも路上で物乞いをしていました」
 さらり、と答えるジブリールに、フレデリカが思わず声を詰まらせる。辛うじて、「物乞いなんて。そんなに集まる訳ないでしょう」と絞り出すように言うと、ジブリールは微かに笑みを深め、
「それなら、実際にやってみましょうか」
どこかのんびりとした口調で言うと、道端に落ちていた汚いボロ布を躊躇いも無く身にまとったのだった。

 それから、およそ十五分――。

「聖地エリュシオンを目指し、故郷を出て早五年……。路銀は底をつき、身も心も疲れ果ててしまいました。このまま果てては、送り出してくれた故郷(くに)の仲間たちに申し訳が立ちません」
 時折思い出したようにコホコホと咳き込みながら、ジブリールが薄汚れたボロ布の下から、潤んだ翠緑色の瞳を向ける。その弱弱しい、小動物を連想させる仕草に、道行を急いでいたはずの人々は、魔法にかかったように足を止め、彼女が話す身の上話しに熱心に耳を傾けた。
「辛くても頑張るんだよ」
「どうか、神のご加護を」
 そっと声をかけながら、老若男女を問わず、石畳の上に置いたブリキ缶の中に、次々とコインを投げ込んでいく。滅多に自分の財布を開かない外来の商人までもが、目元に涙を浮かべて、紙幣をそっと空き缶に差し入れた。
「……ありがとうございます。コホコホ、これで巡礼の旅を続けることが出来ます」
 瞳に涙を湛えながらジブリール。中には貰い泣きをしたのか、同じように目元に涙を浮かべる人も居る。
 喉を押さえ、弱弱しく身体を折ったジブリールの肩に、若い男が手を置いた。
「大丈夫ですか?」
 優しげな声で言って、そっと顔を覗きこむ。横でアップルジュースを飲んでいたリオの顔が、微かに歪んだ。
「無理はいけません。行く所がないなら、どうぞ、うちに来て下さい。修道女さん」
 身を着飾った男は、羽を広げた雄鶏のように近づき、ジブリールの手を取る。ジブリールは微かに微笑み、そっと手を握り返した。
「ありがとうございます。親切なお方……。ちょっと立ち眩みが」
「当然のことをしたまでです。私も敬虔な神の信徒ですから。ささ、どうぞご遠慮なく。こちらです」
 気を良くした男が相好を崩し、ジブリールの手を引く。気遣う振りをして、そっと細い肩に手を回し――ジブリールの身体が、ふらりと揺れた。弱弱しい動きながらも、するり、と男の手を擦り抜ける。手応えの無さに、男の顔に一瞬、動揺が走った。
「……ん? どうしたのかしら」
 紅茶に口をつけたフレデリカが、違和感に眉をひそめる。
「ど、どうしました? こちらですよ」
 内心の驚きを隠し、男が尋ねる。ジブリールは柔らかく笑って、
「優しいお言葉、ありがたく思いますわ……。ですが、私には神の家がありますので」
口元に手を当て、恥じらうように男を見上げる。周囲から賑やかな歓声が上がった。
「ここいらで教会ていったら、ハイゼ神父の所だな。それなら安心だ」
「当てが外れたな、若いの。気を付けるんだよ、お嬢ちゃん! 都市には悪いオオカミがたくさん居るからねぇ」
「まぁ、オオカミ! こんな街中にオオカミが出るんですか?」
 口元に手を当て、目を丸くするジブリールに、どっと笑いが起こる。若い男は顔を赤くして、逃げる様に去って行った。
「皆さんの暖かいお心使い、感謝いたしますわ。辛い空腹も、一時ながら忘れることが出来ました。この苦しみも、神のお与えになった試練と思えば耐えることも出来ましょう」
 貞淑な面持ちで、祈るように手を合わせるジブリールの姿に、通行人たちが悲痛に顔を歪める。ブリキ缶に、次々とコインが投げ入れられた。
「ありがとうございます……」
 ジブリールがやじ馬たちに見えないように、薄汚れた布で、そっと口元の笑みを隠す。それも一瞬、すぐに儚げな笑みを浮かべ、
「あぁ、この都市の方々は、なんと心の暖かい人たちが多いことでしょう。私、泣いてしまいそう。聖地に至ったときは、皆様の幸福も一緒に祈らせていただきますわ」
はにかみ、ボロ布から頭を出した。神々しささえ漂う流れる様な金色の髪に、一際大きな歓声が上がった。
「男たちって、ホント馬鹿よね」
 遠巻きに見ていたフレデリカは、あまりの盛り上がりように呆れて、肩を落とした。
「それにしても、あれじゃ教会(うち)が何も食べさせてないみたいじゃない。そこまで貧乏じゃないわよ。……そりゃお金は無いけど」
 不貞腐れたように唇を尖らせ、不機嫌そうに呟く。
 今や噴水広場の前はお祭り騒ぎで、どこからかやってきた屋台が、商売を始める始末だ。向かいに座るリオは、物憂げにテーブルの上に肘を突いて、
「……はぁ」
「何落ち込んでるのよ。現実ってものが解ったでしょ? ほら、言うじゃない。綺麗なバラには棘が」
「ジブリールさん、昨日のスープ、まだ足りなかったのかな……。言ってくれれば良かったのに」
悲しげに言って、物憂げな溜息を吐く。フレデリカは思わず自分の耳を疑った。
「……ねぇ、リオ。あんた、あれが演技だって気付いている?」
「え? 何?」
 きょとん、とした顔を向けるリオに、フレデリカは思わず頭を抱えた。
 ジブリールが祈るように手を合わせ、天を仰ぐと、広場の方からどっと歓声が上がった。


 騒ぎを聞きつけた警備兵から逃げる様に、大通りを走ること数分。第五階層から第四階層までを一気に駆け降りると、フレデリカはようやく、握ったままだったジブリールの手から力を抜いた。
「信じていただけましたか? フレデリカさん」
「……ええ、まぁ」
 膝に手を突いたフレデリカが、肩を上下させながら切れ切れに答える。結果は、ジブリールが抱えるブリキ缶を見れば、火を見るより明らか。
「凄い額ですね。これ、大人が一日に稼ぐ金額よりずっと多いですよ」
 動きにくいカソックで走った割に、疲れた様子の無いリオが、溢れんばかりにコインと紙幣が詰まったブリキ缶を覗いて目を見開く。
「たった一時間で、私の日当の三倍も……頭が痛くなってきた」
 フレデリカが頭痛を堪えるように額を抑えて呻いた。
「どうです? この道では、カリスマって呼ばれてるんですよ、私」
「この道って、どんな道ですか……」
 豊かな胸を張って得意気に笑うジブリールに、青い顔をしたフレデリカが突っ込む。
 しかし――確かに凄い。
 物乞いは縄張り争いが激しく、余所者が入って来ても、すぐに本職の人たちに囲まれてしまうのが普通だ。だというのに、ジブリールの周りには物乞いの子供たちが集まり、どこからかお立ち台を持って来る者まで現れる人気ぶり。警備兵たちだって、あれだけの人気を集めるジブリールを捕まえることは出来なかったはずだ。カリスマと呼ばれるのも無理からぬことかもしれない。
「ふふっ、これだけあれば、またお肉が食べられますね。羊もいいけど、牛もいいわね〜。うふふふ」
 ブリキ缶に入った紙幣を数え、口元を緩ませている姿からは、神聖さはこれっぽっちも感じない。胸の前で手を組み天を見上げている姿は、敬虔な聖女そのものなのに……。リオなんて、口を半開きにし、間の抜けた顔をしている。
「さて。本日の労働も終わったことですし、行きましょうか」
「労働って、物乞いをしただけじゃ……」
 ようやく息を整え、顔を上げたアデーレに、ジブリールは薄くたゆたう絹布を風に遊ばせて、石造りの階段から下の階層を見下ろした。視線を追ったフレデリカは、段の中ほどに小さな人影が立っていることに気づく。
「準備は出来ましたか?」
 ジブリールが優しげな声で尋ねる。階汚れた服を身にまとった少年は、しきりに目深に被ったハンチング帽をいじりながら、
「……みんな待ってるから」
顔を赤らめ、ぼそり、と微かな声で囁くように言った。
「ん? 待ってるって誰が」
「では、行きましょうか」
「……え? え?」
 困惑気味のフレデリカに柔らかく微笑み返すと、ジブリールはリオとフレデリカ、二人の手を引いて、階段をゆっくりと下り始めた。


 第三階層と第四階層の間にある運動公園の前にはテントが張られ、ぐつぐつと煮えたぎる大きな鍋が、幾つも並べられていた。鍋をかき混ぜていた肉屋の主人が、熱い胸板を張って豪快な声を張り上げる。
「よう、お譲ちゃん! 注文通り、羊肉の特製スープ百人分、用意したぜ! 野菜もたっぷり入って栄養満点だ!」
「ありがとうございます」
 公園内に入ったジブリールが微笑み返す。
「ひゃ、百人分って、そんなにどうして」
「私がお願いしたんです」
「……え? お願い、した?」
 反射的に頭の中で計算を始めたフレデリカの顔が、さっと青ざめる。
「一人分のスープ代がこれくらいだとすると、百人分だと……嘘でしょ……。どうするのよコレ」
 さっきの物乞いで得たお金なんかでは、まったく足りない。
 集まった子供たちは、何かを期待する様な、あるいはどこか不安げな顔で、テントを遠巻きに見つめている。食べれないの? と小さな女の子が尋ねる声が聞こえた。
「大丈夫ですよ。もうちょっと待って下さいね」
「ジブリールさん! ど、どどどどどうするんですか!? うちには逆立ちしたって、そんなお金……!」
 青褪めた顔でぶるぶると震え始めたフレデリカの肩に、ジブリールがそっと手を置く。
「心配いりませんよ、フレデリカさん。スープの材料は全て、昨日のうちに購入しておいたものですから」
「昨日? あ。それって、もしかして」
「はーい! みんな、ここに並んで下さいね。スープはたくさんありますから、仲良くね!」
 ジブリールが明るい声で言うと、どこか余所余所しかった子供たちが顔を輝かせる。すぐに長い列がテントの前に出来た。一人ひとりにスープをよそって渡しながら、ジブリールが良く通る声で言う。
「これは、オスカー商会のご主人、オスカー・グートルン・ペーツさんからのご寄進によって実現した炊き出しです。今度会ったら、みんなお礼を言うんですよ!」
 ジブリールの声に、ざわりと子供たちの波が揺れる。
「オスカー?」
「あの禿げた、趣味の悪いスーツ着たおっさんだろ。ほら、紫の」
「げぇ! 俺、あいつに邪魔だって怒鳴られたことあるぜ」
 子供たちが口々にオスカーの不満を噴出させる。ジブリールは微笑を浮かべたまま、祈るように手を組み、
「オスカーさんは、心を入れ替えたのです。皆さん、オスカーさんと神様にお礼を言ってから戴きましょうね!」
「「はーい!」」
 揃って返事をする子供たちに、ジブリールは満足げに頷く。フレデリカはオスカーが支払う事になる出費を考えて額を抑え、リオは胸の前で静かに十字を切った。
長蛇の列はあっという間に短くなり、集まった子供たち全員に、たくさんのスープが振る舞われた。
「これで終わりですね。皆さん、ご協力ありがとうございました」
 最後尾の小さな女の子にスープをよそうと、ジブリールが晴れやかな顔で息を吐き、炊き出しに参加していた商店街の人たちを見渡した。
「調理や準備、それに後片付けまで手伝っていただくなんて」
「いやいや、お礼を言うのはこっちの方よ! 儲けさせて貰ったぜ。店は空っぽになっちまったがな」
「おうとも。執行の代償ってんなら、踏み倒される心配も無いしな。……ひひ、オスカーの奴、請求書見たら目ん玉飛び出すぜ」
 肉店と青果店の主人が顔を見合わせて笑う。
「さすが子供たち。良い食べっぷりだった。徹夜で仕込んだ買いがあったというものだ」
 テントの奥から出て来た、コック帽を被った男が疲れた顔で言う。彼は確か、近くの大衆レストランの料理長だったはずだ。
「皆さんの善意に感謝いたしますわ」
 ジブリールが晴れやかに笑うと、高らかに正午を告げる鐘の音が響いた。問うような視線を向けて来たリオに、フレデリカは小さく頷き返す。
「あの、ジブリールさん。いいんですか?」
「はい?」
 余り物のスープを自分の皿によそっていたジブリールが、笑顔のまま振り返った。
「クレーエさんとの約束の時間、とっくに過ぎてますけど」
「約束……?」
 おずおずと言ったリオに、お玉を振り上げたジブリールは、不思議そうに首を傾げ、
「あ」
ぴしり、とその笑顔が音を立てて凍りついた。




(>∀<)ノぉねがいします!



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