「それに触れてはならない!」
 大聖堂(カテドラル)は冷たく、玉座の周りは鉛を流したような重たい空気で満ちていた。巨大な玉座を、一人の男が、足をひきずるようにして這い上がっていく。ずる、ずる、と歩みを進めるたび、赤い滴が流体の滑らかさを持つ玉座を伝って落ち、すぐさま細かい粒子と化して消失していく。
 そこは確かに、聖地と呼ばれるに相応しい場所だった。聖地には、世界軸(アクシズ・ムンディ)が貫通している。
男の身体は、すでに第一可動天球を通過しようとしていた。黒い太陽(ソル・ニゲル)に近づくほどに、人はその存在を溶解させて行く。その先にあるのは、天使が暮らし、神が見守る楽園。居ないのは、人だ。そこへは、人の身では到達できない。
 大聖堂(カテドラル)は、膨大な量の光で満ちていた。
 瞳に映る光景が、水の中から液面を見上げた時のように、屈折して映る。遠近感が掴めなくなり、時間軸さえもが捻れ、狂い始めていた。ついに男の手が『鍵』に触れる。叫ぶ声など、もはや届きはしない。『神の座』では、一人の少女が眠っている。
 一千万倍に引き伸ばされた回廊の向こうから、皺枯れた老人の声が聞こえる。あれは誰だったか。枢機卿(カーディナル)……そう、メリクリウス枢機卿だ。
「解っているのか、大司教! 神に触れることは大罪。お前が堕天すれば、止める者は誰も居なくなるぞ。人の世を終わらせる気か!」
何を馬鹿な、と思った。高位の天使の加護なくして、第一可動天球は通過できない。管理教会(アパテイア)のヒエラルキーにおいて、頂点に君臨するはずのメルクリウスが、『鍵』に――あの偉大なる『ソロモンの鍵』に、指先一つ触れられないでいる様を見れば、それは明白だ。あれらは、堕天など初めから覚悟の上で、『鍵』に触れようとしているのだ。最早、止められる者は誰も居ない。それに、神が消失したくらいで人の世が無くと、そんなことを本気で思っているのか?
 違う。
 人の世は終わらない。どれだけ堕ちて堕ちて腐り果てても、人は生きる。それが解らぬから、管理教会(アパテイア)は道を間違えたのだ。
 溶解し、今や実体を失いつつある頬を、乾いた熱風が殴りつける。
黒い太陽(ソル・ニゲル)は、異物を吐き出そうと出力を高めている。肉体を含めたあらゆる物質が、原子単位で解体され、霊子と化した魂が、剥き出しの自我に絡みつく。世界の果てが、目の前にあった。
 汚れを知らぬゆえに穢れ果てた男の手が、ついに眠り姫の白い頬に触れる。
 細い葦切りのような、枢機卿(カーディナル)の絶叫が遠く聞こえる。

ぴちゃん、

――一滴。
 水面を叩く音がして、神はこの世界に溶けて無くなった。

■第三章 大罪 culpa mortalis, 

「あの女、約束をすっぽかしやがった……!」
 苛立ち交じりに言って、クレーエ・シュトロームは、小さな古物商の前の石階段を、足早に駆け降りた。大通りを外れ、路地裏に飛び込む。
 昨日の言葉を信じて、朝から準備を整えて待っていたものの、女は待てど暮らせどやって来ない。気付けば、別の約束に合わない時間になっていた。
「よりによって、こんな大事な日に!」
 あんな女の言葉に従った、自らへの嫌悪に顔を歪め、クレーエは薄暗い路地裏を駆け抜ける。正午を過ぎて勢いづいた上昇気流が正面から吹き付け、昨夜、仕立て屋に無理をいってあつらえさせた比翼のコートが、ばたばたと煽られる。クレーエは目を細め、左手で前襟を合わせた。
 指に伝わる、つるりとした感触。
「……」
 数カ月ぶりに不精髭を剃ったせいで、顎の辺りに違和感があって落ち着かない。
『明日までに、もう少し身なりをきちんとして置いて下さい』
 昨日の女――ジブリールの姿が頭に浮かんで、クレーエは暗い瞳を薄らと燃え上がらせた。
「……面白くねぇ」
 まるで道化だ。
 毒づきながら、顔を上げる。遥か遠くには、一際目立つ中央管理塔が、墜落し地面に突き刺さった戦闘機のようにそびえていた。


 長大な石階段を昇り降りするより、プレートの縁から下層のビルの屋上へと飛び移り、密集するビルを低い方へと渡り歩いた方が、移動時間を短縮できることに気づいたのは、つい最近のことだった。
 手近な高さの倉庫まで移動すると、一息に人気のない路地に降り立つ。そのまま何食わぬ顔で大通りを横切って、更に細い路地に入った。
「ようやく第一階層か。これでも、少し遅れそうだな」
 中央管理棟に設置された大時計で時間を確認しながら、駆ける足を速める。
 ――我ながら、この半年で随分と都市について詳しくなったものだ。もっとも、今日で仕事が片付けば、もうこの都市に戻って来ることも無いのだろうが。
 石造りのアーチ橋を潜って、特徴のない建物ばかりが立ち並ぶ街路を急いでいると、一瞬、薄暗い路地に青白い光が差し込んだ。
 視線を奥へと向ける。
 都市の基盤と同じ曲線半径を描いて伸びる石畳の先には、背の高いガス灯があり、じじ、じじじ、と唸るような音を発し、細かな明滅を繰り返していた。故障だろうか――ぼんやりと考えていると、その下に、一人の少女が佇んでいることに気付いた。
 知らず、駆ける足が緩む。
 目に映る景色に、強い違和感を覚えた。
 何かが違う。それだけは解るのだが、その何かが一体なんなのか、上手く形にすることが出来ない。
 ガス灯が瞬き、少女の肌理の細かい褐色の肌が、青白い光に照らされて、ぼぅ、と薄闇の中に浮かび上がる。少女は、真っ直ぐにこちらを見ていた。
 齢の頃は十歳程度といった所だろうか。気が強そうな切れ長の瞳が、整った顔に険を与えている。瞳の色は、夕焼け空を映したような、紅に近い赤茶色。年齢の割に、理知的な輝きを宿している。

 どこかで見た顔だろうか――?

 クレーエは、改めて少女を見詰めた。しかし、答えは出ない。もしかしたら、どこぞの商人が出した使いかもしれない。主人に命じられてクレーエを待っていたが、聞いていた特徴と違って、戸惑っている、というのは有りそうな話だ。ボロボロだったコートは綺麗に繕われ、伸び放題だった髭は綺麗に剃り取られている。少なくとも、今日のクレーエは、昨日女が言っていた『浮浪者のような』風貌はしていないのだから。
 ガーネットの瞳が動き、足早に歩いて来るクレーエを正面から見上げた。烏の羽のように濡れたような少女の黒髪が、馬の尾のように、大きく開いた褐色の背中で微かに揺れた。
 二人の距離が間近まで迫った頃合いに、少女の唇が動く。
「今すぐ、この都市から出て行け」
「は?」
 思わず足を止めた。少女は鬱陶しそうに目を細め、
「都市から出ていけ、と言ったんだ。浮浪者」
「……なんだ? 聞き間違いか? よく聞こえなかったんだが」
 クレーエは頭痛を堪える様に額に手を当て、少女を見下ろした。少女は全くの無表情。真っ直ぐにクレーエを見つめ、目を逸らそうともしない。少女の形の良い眉が、不機嫌そうにひそめられる。たん、と細い足で一つ足踏みすると、細かな刺繍の施された黒のワンピースが、微かに揺れた。
「聞こえなかったのか? うすのろ。都市から出て行け、と言ったんだ」
「なぜ俺が出て行かなければならない」
「理由を説明してやるつもりはない。言う通りにしろ」
「……」
 思わず、盛大なため息が出る。
 都市の人間に歓迎されていないのは解っていたが、まさか、こんな子供にまで嫌われているとは思わなかった。
 尊大な物言いにしかし、腹は立たなかった。なにせ、視線の鋭さや尊大な言動に対して、声や口調が、まるで子供そのものなのだ。まともに相手をする気力も湧いてこない。
 少女は、むしろその態度が気に食わないようで、目を吊り上げてクレーエを睨み上げている。
「私の言っている意味が解るなら、すぐに都市から離れろ。あいつに見つかる前に。少しでも遠くに」
「意味は通じてるぞ。あいつってのは、誰なんだ?」
「……『大禍』だ」
 少女は、神妙な顔を寄せ、それがまるで重大な言葉であるかのように、重々しい口調で囁いた。クレーエは苦笑交じりに、
「それなら心配いらない」
「……どうしてだ?」
 少女が不思議そうに首を傾げる。
「そう遠くないうちに、俺がこの都市から出て行くからだ。『大禍』は怖いからな。出くわす前に出ていくことにする」
「だ、ダメだ!」
 歩き出したクレーエのコートを、少女が小さな手が掴む。
「何だよ。離れろと言ったりダメだと言ったり。どうしろってんだ」
「そう遠くないうちじゃダメだ! 今すぐどっかいけ! 今すぐ!」
「無茶いうな。俺だって遊んでるわけじゃ……ん?」
 ガーネットの瞳を見開き、声を張り上げる少女に、クレーエは訝しむように目を細めた。コートの裾を掴む、細い腕に嵌められた金の腕輪。中央に嵌められた、少女の瞳と同じ血のように赤いガーネットの輝きに、胸の奥がざらりとした。
「その腕輪、どこかで」
 思わず、疑問を口にしたまさにその時……薄暗い路地の向こうから、気の抜けた破裂音が響いた。
 ――銃声だ。
 僅かな迷いも無く、そう確信した。距離と方向からして間違いない。商談は、もう始まっているのだ。
「……チッ、俺はもう行くぞ。言われずとも、やることをやったら出て行く」
 少女の手を振り切って、擦り減った石畳の上を駆け出す。駆ける背中に、「私は忠告したぞ!」と叫ぶ少女の声を聴きながら、クレーエの手は、自然と懐のリボルバーへと伸びていた。

   ※   ※   ※

 猥雑な繁華街の片隅にある、小さなビルディング。地下にある酒場は薄暗く湿っていて、店内は腐った水とアルコールの匂いで満ちている。年季の入ったカウンターテーブルの前には、二つの円形テーブル。入り口に近い方の下に、蹲るようにして男が倒れていた。
 百九十は超えそうな、顔に傷がある大柄な男。上体を起こすと、弛緩した腕が、薄汚れた床にだらりと落ちた。
「クレーエさん……! お、遅かったではないですか!」
 円形テーブルの一席で、大量の汗を顔に浮かべた商人が声を上げて立ち上がった。でっぷりと肥った腹をテーブルに擦りながら、先ほどまで同じテーブルについていたであろう男を、恐る恐る見下ろす。
「し、死んでいるのですか?」
「いや、脈はある」
 短く言って、クレーエは倒れた男の服を捲った。注意深く銃創の位置を探しながら、
「遅れたことは謝る。だが、モレク。お前、どうして先に話を進めた? 俺が来るまで交渉は行わない算段だったろう」
「よ、様子見のつもりだったんですよ。まさか、いきなりナイフが飛んでくるなんて……。くそっ、どうしてこんな」
「ナイフ?」
 撃たれたんじゃないのか――?
クレーエは服を下ろし、改めて男の身体を見下ろした。肩の辺りに微かな出血の跡があるものの、目立った外傷は見られない。
「ナイフは避けたように見えたんです。なのにダリアンの奴、き、急に倒れて……」
「大丈夫だ。傷は深くない。恐らく気絶しているだけだろう」
 クレーエの言葉に、モレクが大げさに胸を撫で下ろした。クレーエは立ちあがると、険しい表情で横たわるダリアンを見下ろす。
 目立った外傷が無いのは事実だが、脈が弱まっているのが気にかかる。それに、ダリアンほどの男が、ナイフが掠ったくらいで気を失うだろうか?
 ダリアンの巨躯を仰向けに寝かせ、改めて店の奥を見渡す。
 店内には、クレーエたち三人の他に、二人の男が居る。中でも異彩を放っているのは、奥のテーブルの脇に控える様に立つ黒づくめの男。黒いトレンチコートをまとった細い身体に、無数の黒革のベルトを巻き付けるという、異様な恰好をしている。左手には、銀に光る細身のナイフが三本。おそらく、ダリアンをやったのはこの男だ。
(……厄介そうな相手だな)
 クレーエは、男をそう評した。巻き付いた革のベルトは頭部にまで及んでいるためその表情は伺えないが、痩せギスの身体から、尋常ではない剥き出しの敵意を放っている。その姿は、痩せた野犬を思わせる。
 壁に灯された蜀台が、じじ、と鈍く音を立てた。
「飼い犬の躾がなっていないな。あんたの役目は、この都市で起こるゴタゴタを抑え込むことだろう? オスカーさん」
 非難めいた口調で言って、クレーエは奥のテーブルに座る、もう一人の男――オスカー・グートルン・ペーツに視線を移した。オスカーは、トレードマークの紫色のスーツ姿で、暑苦しい顔を不機嫌そうに歪ませながら、ボトルからグラスにワインを注いでいる。
「誰かと思えば、都市に住み着いた浮浪者か」
 ふん、と小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、幾つもの金の指輪が嵌められた手を、ボトルから離した。
「これはお前の差し金か?」
 煩わしそうに顔を歪め、手元にあった紙片を爪弾く。テーブルの上にはクリーム色の上等紙が数枚、バラバラに広げられていた。
「差し金か、とは人聞きが悪い。俺は商談に来たつもりなんだがね。まさか、店に着く前に銃声を聞くことになるとは思わなかったが」
「勘違いするなよ。銃を撃ったのは、倒れているそちらの男の方だ。いきなり銃口を向けるものだから、私の番犬が思わず反応してしまったのだ」
 確認するように視線を向けると、モレクが罰が悪そうな顔で、小さく頷いた。
「……それは失礼。こいつらの非礼は、俺からも謝らせてもらおう。ところで、そろそろ座っても?」
「構わんよ。……レオパルト」
オスカーが腕を上げると、傍に控えていた番犬――さしずめ『黒犬』といった所だろうか――は、ナイフを仕舞い、音もなく後ろに退がった。一瞬、顔中に幾重にも巻かれた革のベルトの下から、銀色に光る異形の瞳が見えた気がして、クレーエはそっと背筋を震わせた。
「どうやら、恐ろしい番犬を飼われているようだ」
「商売柄、恨みを持つことも少なくないものでね。まったく、身の程知らずが多くて困る」
 脂ぎった顔を歪めて、オスカーは凄味のある顔で笑った。
「そ、それでは私も席に。……失礼」
 モレクは額に浮かんだ汗をハンカチで拭うと、改めて円形テーブルに座り直した。クレーエは、ダリアンが座っていた椅子を起こし、黒犬とダリアンを結んだ射線上に腰を下ろす。
 三人が一つのテーブルに着くと、モレクが巨体をずらして、顔を寄せて来た。声を潜め、
「た、助かりました。もうダメかと思いましたよ。思わず神に祈りを」
「あんたがそんな殊勝な玉かよ……。それより、頼んだぜ。ダリアンの分も、あんたには働いて貰わなきゃならなくなった」
 視線も向けずに、クレーエがぶっきらぼうに囁くと、モレクは気弱な顔を歪め、微かに笑みを浮かべた。
 モレクは、見た目は肥り過ぎの中年男だが、商人としての腕は一流だ。十年近い間、複数の都市を股にかけ、表に出せない厄介な商品を取り仕切って来た実績がある。大量の汗を流し、きょときょとと落ち着きなく辺りを見渡している姿からは想像も出来ないが、クレーエは、贅肉の下に埋もれる瞳が金の臭いを嗅ぎつけ、爛々と輝いていることに気づいていた。
「お任せください。何より、これは私共の悲願。手を抜くつもりなどございませんよ」
モレクはだぶついた頬を更に歪めて、ニヤリと笑った。
「クレーエ……といったな」
勿体ぶった調子でオスカーが口を開く。不機嫌そうな顔で、トントンと小刻みに机を爪弾きながら、
「どこぞの酒場で、何度か言葉を交わしたことがあったか」
「光栄ですね。覚えていただいていましたか」
「ふん。都市で起こるゴタゴタを抑え込むのが、私の仕事なものでね。不穏分子には、自然に目が行く。……で、この都市へやってきた目的は何だ?」
 短く言って、オスカーは食い入るようにクレーエの顔を覗き込んだ。僅かの表情の変化も見逃さない、というように、粘つく視線を送りながら、
「……商人では無いな。見れば解る。かといって、ここに居るレオパルトのような、裏稼業の人間という感じでもない。どうにも背景が見えて来ない。金儲けが目的の、ただの身の程知らずという訳でも無いのだろう?」
「さぁね。俺の素性なんかどうでもいいでしょう」
 クレーエは、皮のブーツで床を踏み叩くと、唇の端を笑みに歪めて口を開いた。
「それより、今日はあんたに話があって来たんだ。オスカーさん。これを見てくれるか」
 クレーエが合図すると、緩慢な動きで立ち上がったモレクが、机の上に散らばっていた紙の一枚を、オスカーの前に差し出した。
「ふん。……これは?」
「は、はい」
 モレクが、どもりながら答える。
「これは先月、ヴェストリクヴェレとオスティナトゥーアの間で行われた取引の、き、記録です。都市間の金品のやり取りは、台帳として記録し、管理する決まりになっていることは、オスカーさん相手に、い、今更、言うまでもないでしょう。これはオスカー商会の、先月の収支をまとめたものなんですが……少し、不思議な所がありまして」
 勿体ぶった調子で言って、モレクが上目遣いにアスカ―を見上げる。口元には、粘着質な、嫌味な笑みが浮かんでいる。
「オスカーさん。あ、あなたには、ヴェストリクヴェレとオスティナトゥーアとの間で行われる取引の、一切を管理する権限が都市から与えられていますね?」
「そうだ。オスティナトゥーアには流行病が蔓延している。誰かが物流を管理しなければ、都市内に伝染病が入り込む恐れがある」
「ええ、ええ、存じております」
小さく何度も頬を揺らしながら、モレク。
「あ、あなた様の商会は、オスティナトゥーアで採掘されるレアメタルの輸出を、都市としての機能を失っているオスティナトゥーアに代わり、一手に引き受けていらっしゃるのでしたね。ヴェストリクヴェレからの寄付金の取りまとめをしているのも、あ、あなたの商会だ」
「……だから何だというんだね」
オスカーが不機嫌そうに顔をしかめる。モレクは太い指で、テーブルの上の紙片を一枚、つまみ上げた。
「記録がですね、お、可笑しいんですよ。何度計算しても、収支の釣り合いが取れない。ぐ、具体的には、オスティナトゥーアで採掘された鉱石を売ることで得られた利益と、対価としてオスティナトゥーアに支払われた金額。この間に、驚くほどの開きがある」
ぎょろり、と目を見ひらき、二枚の記録紙を見せるモレクを、オスカーが鬱陶しそうに手で払う。
「別に可笑しなことではない。その差額分は来月、オスティナトゥーアに支払われる予定になっている。収入があり、それに応じた配当が支払われるまでの間には、いくらかの時間が空くものだ。君も商人なら、それくらい理解出来るだろう?」
「ええ、ええ。そ、それはもちろん、心得ております」
モレクは、コクコクと小刻みに何度も頷いた。
「し、しかしですね、オスカーさん。私はどうにも納得いかないのですよ。何せ、この収支のズレは、先月分だけじゃない。す、少なくとも、かれこれ五年以上もの間、続いているのですから!」
 話すにつれ声を大きくするモレクに、薄暗い酒場の空気が張り詰めて行く。
「こ、これは、どういうことなんでしょうかね。も、もしかして、来月の予定には、五年間の未払い分、全てを、利子をつけて支払う予定がおありで?」
「それだけじゃない」
 クレーエが低い声で言って、懐から出した紙束をテーブルに叩きつけた。
「ヴェストリクヴェレの住民がしている寄付金についても、集まった金と、オスティナトゥーアに支払われている金額には、倍近い差がある。寄付は一端、あんたの商会に集められ、そこからオスティナトゥーアに送られることになっているはずだ。この差額はどこに消えてるんだ?」
「……」
オスカーの顔から、人をバカにするようなニヤニヤとした笑みが消えた。ぎらぎらと輝く濁った琥珀色の瞳で、睨むようにクレーエを見つめる。
「一ヶ月当たりに差し引かれた金額は、それほどでもない。だが、それが五年間ともなると、かなりの額だ。あんたの商会に、これだけの金額を補填する能力があるとは思えないんだがね」
 分厚い紙束を一瞥し、オスカーがぎりぎりと歯噛みをする。一瞬身を乗り出し――しかし、次の瞬間には、勢いよく背もたれに寄りかかった。
「クハハハハ! よくこれだけ集めたものだな! ボロは出ないよう、うまく処理させて来たつもりだったんだが」
 「だ、だろうね」とモレクが呟く。これらの記録は、公にされていない、いわゆる裏帳簿に当たる。都市として満足に機能していないオスティナトゥーアに突け込み、商会が行ってきた不正……。隠蔽工作は末端まで徹底しており、モレク達はこれだけの証拠を揃えるのに、三年もの月日を要したと言う。
「それで? いくら欲しいんだ? 言ってみろ。恵んでやる」
投げやりに言って、オスカーは大げさな仕草で、両腕を広げて見せた。
 想像よりも遥かにあっさりと罪を認めたオスカーに、モレクが戸惑った顔をクレーエに向ける。クレーエは、しばらくオスカーの顔を暗い瞳で見つめていたが、小さく頷き返した。
「……で、では、具体的な話しに入りましょう。単刀直入に言いまして、私たちは金は要りません。その代わり、あ、あなたが都市から与えられている、オスティナトゥーアとの取引の一切を取り仕切る権利を、私どもに譲っていただきたい」
「取引の権利を?」
オスカーの顔が目に見えて雲った。レアメタルの取引がもたらす利益は膨大なもの。オスカーが渋るのも当然と言える。
「馬鹿を言うな。そんな要求が呑めるものか」
「あんたに断る権利はないと思うがね」
 すかさず、クレーエが低い声で釘を指す。
「ヴェストリクヴェレには、オスティナトゥーアに親類縁者が残っている者も多い。この事実を知れば、少なくない数の市民が、怒り狂って、あんたの商会に押しかけるだろう。連中に叩き殺される前に、この事業から手を引くのが身の為だと思うが」
 薄暗い酒場に、重たい沈黙が降りる。オスカーはグラスに手を伸ばすと、一口ワインを口にし、
「……ふむ。考えられない話では無いな」
 ぎしり、と、身体を反らして、椅子を軋ませた。ゆっくりと瞑目すると、天を仰ぎ、
「手を引く、か。まぁ、それもいいかもしれん。商会が取り仕切っているのは、オスティナトゥーアとの取引だけでは無い。商会はこれからも商売を続けられるだろう。……だが」
 オスカーがさりげない動きで右手を上げた瞬間、背後の空気が、微かに震えた。クレーエが、咄嗟に銃を抜き放つ。激しい火花が散って、彼方の方で、カラン、と軽い金属音がした。
ナイフだ。
瞬時にクレーエは判断した。
 オスカーの背後に控えていた黒犬が、ナイフを投げ放ったのだ。
「退がれ、モレク!」
 肘に伝わる微かなテーブルの振動から、次の手を読んだクレーエが、鋭い声で叫んだ。直後に、高い風斬り音を伴って、薄闇の中に刃が閃く。リボルバーの銃把を突き出したクレーエは、辛くもこれを受け流した。
 鋭く散る火花。触れ合ったのは、ほんの一瞬。
 素早く跳び退った黒犬を追うと、視界の隅に、走り抜ける影がちらりと映った。
(……早い!)
 思わず苦悶の声を漏らした。
 銃身を引き寄せ、慎重に様子を窺う。黒犬がテーブルを蹴って飛びかかって来てから、およそ三秒。間合いを詰められたこの状況では、迂闊に銃を乱射する訳にもいかない。
 黒犬は、クレーエを中心として、円を描くように走りながら、慎重に喉元に食らいつくタイミングを見計らっている。その間合いは、少しずつ……だが着実に、詰められているように思えた。
「旦那!」
 鋭いモレクの声と同時に、目の前に椅子が投げ込まれ、そこでようやく、クレーエは黒犬の姿を捉えることが出来た。駆ける足が緩んだ黒犬めがけて、二発続けて銃を打ち放つが、ほんの僅か遅い。
 銃弾が床板を貫き、薄い煙を上げる。黒犬はくるりと身を翻すと、腕を巻きつける様にして、クレーエの首元目がけて、鋭く伸び上がる様に右手のナイフを振り上げた。
「……ッ!」
 迫るナイフを銃身で打ち払い、間合いを開く。黒犬は、死角から腹部めがけて、左手のナイフを突き上げる。クレーエはこれを、不安定な体制から放った威嚇射撃で封じた。たまらず重心を移動させた黒犬目掛けて、鋭い足払いを放つ。手応えは無い。
 半身に構えた時には、黒犬は既に間合いの外に居た。
と、っと動物のような身軽な動きでテーブルの上に着地すると、黒犬は僅かに首を巡らせた。幾重にも巻きつけた革のベルトの下の顔が、微か歪む。それが笑みだと気付いた時、クレーエは咄嗟に口を開いていた。
「モレク!」
 避けろ、と叫んだ時には、既に黒犬は駆け出していた。猛然と迫りナイフを振るう黒犬に、手に持った椅子を突きだすように構えていたモレクは、思わず身を屈める。
「ひいいいぃぃぃ!?」
 しかし、それが効を奏した。思わぬ動きに狙いを外した黒犬のナイフは宙を斬り、不規則な軌道から無理に繰り出した、次ぐ二撃目も、見かけによらぬ軽快な動きでテーブルの下に転がり込んだモレクを、捉えることは出来なかった。バランスを崩した黒犬の動きが、僅かに鈍る。クレーエはリボルバーの照準を絞り、
「横だ! 旦那!」
モレクの鋭い声に、反射的に身を引いた。
 すぐ後ろの棚に置いてあった酒瓶が砕け散る。
 銃を放ったのは、テーブルに座ったままのオスカー。
驚きが思考に、僅かな空白を生む。
 その隙を、黒犬が逃すはずが無かった。
 鋭く眉間へと放たれた投げナイフ。クレーエはそれを、左手で鷲掴む。
「ほう……驚くべき反応の良さだ」
 感嘆の声を漏らしたのは、黒犬。クレーエはこの時、黒犬の声を初めて聞いた。思っていたよりも若く、中性的な響き。くつくつと革ベルトの下で笑う声が聞こえて、
「しかし、残念だ。ようやくナイフに触れたかと思ったんだがな」
「……やはり、細工がしてあったか」
 ナイフの表面に濡れた様な跡を見つけたクレーエが、口元を引き攣らせて囁く。ナイフを握るその手には、カウンターから咄嗟に剥ぎ取った、汚れたテーブルクロスが巻きつけられていた。
「ダリアンの状態を見る限り、何らかの毒が塗ってあるんだろうとは思っていたが……。まさか、触れただけで効くほど即効性のあるものだとは」
 ナイフを放り捨て、入り口のテーブルの影に横たわる仲間に視線を向ける。ナイフを掴んだ時の黒犬の反応から見て、もう息はないと考えた方が良いだろう。
「咄嗟の判断にしては上出来だ。そういった勘の良さは一つの才能。思ったよりも楽しい仕事になりそうだ」
険しくなったクレーエの視線に気付いているのか居ないのか。黒犬は透明な声でくつくつと笑うと、新たなナイフを取り出し、左右の手にそれぞれ構えた。
「気をつけろ、モレク。こいつら、俺たちを皆殺しにするつもりだぞ……」
「なんだ。これがただの遊びだと思っていたのか?」
 オスカーが笑って、手元の蜀台の明りを静かに吹き消した。背後の扉が、風も無いのに音を立てて閉まり、店内が一段階、暗さを増す。
「諸君。商談はこれで終わりだ」
 薄闇の中で、オスカーがナイフを開刃し、慣れた手つきでテーブルに突き立てた。反対の手には、掌サイズの小型小銃が握られている。
「残念だが、この話は無かったことにさせてもらう」
「……驚いた。オスカーさん。あんた、裏稼業の人間だったのか」
 クレーエが硬い笑みを作る。
「ふん。元、と言った方が正しいがな。商人が金勘定しか能が無いと思ったら、大間違いだぞ」
「へぇ。これはこれは。正直、驚いたよ」
「ちょっと脅せば、泣いて赦しを請うとでも思っていたかね?」
 オスカーが不敵に笑うと、「は、話が違う!」テーブルの影に隠れて様子を窺っていたモレクが、悲鳴に近い声を上げた。
「旦那! こ、この商会、思った以上にヤバい……!」
「解っている。お前は離れていろ。こいつらの相手は俺がする。予定に変更は無しだ」
「ふん。見上げた心掛けだ。……手加減はもういいぞ、レオパルト。〈狂骨〉の使用を許可する。一刻も早く、コイツらを始末しろ」
「有難い」
 オスカーの指示に、黒犬はぼそりと呟くと、神に祈りを捧げる様に、ナイフを握った腕を胸に当てた。
「この闘争の巡り合わせに、我らが神へ、感謝と祈りを」
 囁き、ゆっくりと腰を落とす。前屈みに両手をテーブルに突いた瞬間、びくり、と、その痩躯が、痙攣したように細かく震えた。




(>∀<)ノぉねがいします!



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