「シィ――ゥルルルルル……」
噛み締めた歯の隙間から洩れる、獣じみた唸り声。全身に巻かれた黒革のベルトが、みちり、と音を立てる。クレーエの目には、黒犬の身体が一瞬、僅かに膨らんだように見えた。
「おいおい……いったい何が始まるんだ?」
 リボルバーの弾丸を込め直しつつ、慎重に辺りを窺う。跳び退った黒犬の痩身がテーブルの影に消えた。クレーエは、すかさずリボルバーを胸に、その姿を追い、
「っ!?」
すぐ足元に、四足で蹲る黒犬の痩身を認め、身体を硬直させた。
 薄闇を引き裂き、首元目がけて、伸び上がるように振るわれる、銀のナイフ。上体を逸らし、紙一重にこれを躱すと、クレーエはそのまま身体の捻りを活かして、槍のような鋭い回し蹴りを、黒犬の即頭部へと打ち込んだ。黒犬は、僅かな抵抗も見せず、まともにこれを受ける。
「い、いったい何が……!?」
 テーブルの後ろから様子を窺っていたモレクが、表情を凍りつかせて声を漏らす。
 モレクの目には、黒犬の身体が何の予兆もなく、いきなりクレーエの足元に出現したように見えた。いや、それどころか、モレクはクレーエが自身の足元に視線を落とすまで、黒犬が移動したことに、気付くことさえ出来なかった。
 黒犬は、蹴られた反動でそのまま円形テーブルの上に倒れ込むと、頭の後ろに一度手を突いて、そのまま後方宙返り。肉食獣を思わせる、しなやかな動きでテーブルの上に伏すと、確認するように自身のナイフに視線を移した。
「見た目より頑丈なようだな。加減は必要無かったか」
 銃を構えたクレーエが、挑発するように囁く。黒犬は、ほつれた黒革の隙間から、大型の猫科の動物を思わせる、金の瞳を向け、
「二度目は、無い」
囁くと、再びカウンターの影に姿を消した。
「……さて。どうしたものかな」
 黒犬の姿が見えなくなったのを確認して、クレーエは力なく口元を歪めた。蹴りを打ち込んだ瞬間は、確かに仕留めたと思ったのだが、黒犬の足運びには、不思議と変化が無い。
「だ、旦那!」
 小さく舌打ちしていると、カエルが潰れたような声が、テーブルの影から上がった。
「こ、ここは退きましょう! そいつの動き、と、とても人間とは思えない……!」
 モレクが顔を青褪めさせる。「人間とは思えない」その言葉を、クレーエは噛み締める様に反芻し、
「いや、こいつは人間だ」
酷く断定的な口調で言って、そっと胸元に手を当てた。繕ったばかりのコートは、深々とナイフで切り裂かれ、ぱっくりと口を開けている。
「退きましょう! クレーエさん。い、いくらあなたでも、次はどうなるか解らない!」
 懇願するように、モレク。
 そうかもしれない、とクレーエは思う。
 コートを斬り裂かれたあの瞬間、ナイフはクレーエの身体を射程内に捉えていた。避けることが出来たのは、少しの偶然が重なったからに過ぎない。黒犬だって、勝利を確信していたはずだ。だからこそ、不意を突かれた形になった奴は、回し蹴りに反応することが出来なかった。
 想像以上の難敵だ。だが――。
「モレク。確かにこいつは厄介な相手だ。だがな。ここで退いて、どうする? オスカーは仕留め損なうと厄介なタイプだぞ」
 胸の前にリボルバーを引き寄せ、半身に構える。
 防ぎ得るのは、先ほどの速度が限界。
 もし、さっきより早いタイミングでナイフを振るわれたら、それを防ぐ手立ては無い。
「これで、お終いだ」
 背後で流れる囁きに、首筋がざわりと粟立つ。それは、これまで黒犬が発した無機質で乾いた声とは違う、どこか艶のある、湿った声だった。振り返り様に、ろくに狙いもつけずに引き金を引いた。
 短い、発砲音。
「ま、まただ! また消えた!」
 モレクが驚きに声を張り上げ、細い目を真ん丸に見開いた。銃口の先に、黒犬の姿はない。辺りは、幕を張ったような薄闇に包まれ、テーブルや椅子といった調度品が、そこかしこに色濃い影を落としている。
 クレーエは、じっと息を殺して、闇の中に目を凝らしていたが、
「同じ速度――これなら、対処できる」
暗い歓びの声を、薄い唇の間から漏らした。
 それからの動きに、迷いはなかった。
 顎を上げると、頭上――屋根の梁からナイフを投げ放とうとしている黒犬へと、リボルバーの照準を合わせる。
「!?」
 黒犬の動きが再び、ぴたりと止まった。
 クレーエは躊躇い無く引き金を引いた。黒革の巻き付いた肩を銃弾が掠め、血飛沫が上がる。黒犬の痩身が翻り、地面に降り立つと、クレーエは自ら鋭く踏み込み、間合いを詰めた。
 突き出されたナイフを躱し、伸びきった身体の外側に向かって、更に一歩、深く踏み込む。
 互いに拳も降り下ろせぬ至近距離で、二人の視線がほんの一時、交錯する。
 近すぎる間合いで威力を発揮できないのは、銃は元よりナイフも同じ。近すぎる間合いを嫌った黒犬が、間合いを離そうと足取りを換えた所で、クレーエはその軸足へと、絡め取るように自らの左足を踏み込ませた。
「そこで足を組み替えたのは、失策だったな」
「……っ!」
 不吉な気配を感じ取った黒犬が、身体を強張らせ、退避体制に入ろうとするのが、肌に感じられる。しかし、クレーエは止まらない。踏み込んだ勢いを殺すことなく、身体の回転を力に転換していく。
 足首から膝へ、膝から腰へ、腰から肩を通して腕へ。
 苦し紛れに振り抜かれたナイフを、テーブルクロスを巻いた叩き落とすと、クレーエは練りに練り上げた肘打ちを、黒犬の鳩尾めがけて打ち入れた。
「ーーがっ!」
 幾重にも巻かれた黒革のベルトの隙間から、くぐもった声が漏れる。顎が下がった所で、突きあげるように掌底。宙を舞う痩せた身体から力が抜け、その手からナイフが放り出される。
 クレーエは確かな手応えと共に、拳の方から順に、身体の力を抜いていき――不意に、死角から伸びた足に、顎を打ち抜かれた。
「っ!? な……?」
 頭蓋を揺らす衝撃に、思わず近くのテーブルに手を突く。くらり。平衡感覚が狂い、足下さえもが怪しくなる。
 二重移しの視界の中で、膝を突いた黒犬が落としたナイフを取り上げるのが見えた。
 肘打ちも、掌底も、確かに入った。なのに、どうして――。
「どうして、動ける……!」
 黒犬の動きに、迷いは無かった。立ち上がると、いっそ無造作とも思える動きで、ナイフを振り上げる。
 有り得ない。
 思わず口をついたのは、そんな無意味な言葉。毒液に濡れる刃先が、薄闇の中で微かに揺れる。苦し紛れと知りつつも、クレーエは、震える手でリボルバーを構え、
「――違う」
 意外にも、無意味な呻きに、黒犬が言葉を返した。緩んだ革布の隙間から覗くのは、狂気に濡れる金色の瞳。
「『有り得ない』。それは、こちらの台詞だ」
不吉なその輝きに、脊椎に氷柱を突きいれられたように怖気が奔る。肉食獣の鋭利な白銀の牙が、喉元にかかる。
「どうして、天井に逃げたと解った?」
 黒犬の口元から、蒸気の様な熱い息が漏れ、首筋にかかる。それはまるで、身体の内側から炎に焼かれ、血肉が沸騰しているのでは無いかと思える程の熱さだった。
 首筋に迫る、冷たいナイフの気配。触れられそうなほど近くに迫った殺意が、ゆっくりと首筋へと迫り、
「そ、そこまでです!」
鋭い声が、迫るナイフの動きを止めた。
 クレーエと黒犬、二人の視線が、同時に奥のテーブルへと移動する。テーブルの上に転がる、中身を零して倒れるワインボトル。そこには、銀に光る長柄の銃を構えたモレクと、
「くっ……!」
先端の銃剣に肩を突き刺され、怒りと屈辱に唇を震わせる、オスカーの姿があった。床には、先ほどオスカーがひけらかせていたナイフと小型拳銃が落ちている。
「う、動かないでください。あなたの雇い主の頭が、たた、卵みたいに吹っ飛びますよ」
 モレクが何度もどもりながら、震える声で告げた。
「飽きれたな。どこにそんなアンティーク、隠してたんだ?」
 クレーエが苦笑交じりに言うと、モレクは銃を構えたまま、贅肉でだぶついた口元を微かに笑みの形に歪めて見せた。
「む、昔のように身体が動くか、不安でしたがね。危ない所でしたよ」
 モレクが手にしている長柄の銃――単発式のマスケット銃――は、全長一メートル長もある古式銃である。中折れ式になっているので、モレクの巨漢なら、折りたためば身体のどこかに隠すことも可能だろう。
「どう、して」
 オスカーは、まだ自分の身に何が起こったのか理解できていないようで、顔を強張らせたまま、ぱくぱくと口を動かしている。
「どうして貴様が……!」
「む、昔取った杵柄という奴ですよ。商人が金勘定しか出来ないと思ったら大間違いだ。そう言ったのは、オ、オスカーさん。あなたでしょう」
 大量の汗を顔に浮かべ、モレクが、それより、と顎で黒犬を指す。
「は、早く、あの狂犬に退けと命じて下さい。私、犬が怖いんですよ。手が震えて、今にも引き金を引いてしまいそうだ」
 銃剣の先端が捻じ込まれると、オスカーの顔が一層、苦痛に歪んだ。
「ッ……退け。レオパルト」
「――……」
 退くように言った主人の命令にしかし、黒犬――レオパルトは反応を示さない。ナイフは今も、クレーエの首筋にぴたりと添えらえている。刃は、今にも喉に触れそうだ。
 剣先から粘性の強い毒液が滴り、足元に落ちる。
「は、早くやめさせてください」
「解っている! ナイフを下ろせ、レオパルト。仲間の犬共がどうなっても良いのか……!?」
 続けて言ったオスカーの言葉に、レオパルトは、ぎり、と砕けん程に黒皮に隠された歯を食いしばり、
「……好きにしろ」
あっさりとナイフを下ろすと、出入り口の方へと足を向けた。
「お、おい! 誰が出て行っていいと……!」
「いい。あいつはそのまま行かせろ」
 追い縋るように腕を伸ばしたオスカーの視界を、クレーエが遮る。
 レオパルト無しでは勝ち目無し、と悟ったのか、オスカーは渋々ながらも指示に従った。



 〈黒犬〉――レオパルトが酒場を後にすると、波が引くように、店内から不吉な気配が消え去った。後に残されたのは、腐った水と、微かな血の臭い。
「さて。商談を再開しようか、オスカーさん。といっても、あんたにして貰うのは、この誓約書に署名をしてもらうことだけなんだがね」
 テーブルの上に寄りかかったクレーエが、咥えた煙草に火を付けながら言う。オスカーは、肩から深々と突き刺さった剣先を引き抜くと、血の滲むスーツの肩口を押さえて、力なく椅子に座り込んだ。
「……力で人の財産を奪うのか。ゴミ虫共め」
「どうやら、あんたは自分の立場が解っていないようだな」
 煙草を燻らせながら近づいたクレーエが、無造作にオスカーの左腕を捻り上げる。
「き、きさ、ま……ッ!」
「力で人の財産を奪う? それをして来たのはあんただろう。今回は、たまたま自分が奪われる側に居るだけ――それがそんなに不満か?」
 冷たい声で囁き、ゆっくりと捻り上げた腕に力を込めて行く。
「ぃぎ!? や、やめ」
「常にワンサイドゲームなんて有り得ないんだよ。因果は巡り巡って、自身に返って来る。あんたは、金儲けの為にオスティナトゥーアの人間を食い物にして来た。これは、その報いがやって来たっていう、ただそれだけの話しだろ? 腕の一本くらい、利子代わりに貰っても」
「や、やめッ! 言う通りにする! だから!」
 オスカーが小さく悲鳴を上げ、身体を仰け反らせる。捻り上げた腕が、みしりと音を発した所で、クレーエの眼前に、銀の銃身が突き出された。
「クレーエさん。ら、乱暴は……」
 首を振るモレクに、クレーエが罰が悪そうに目を細める。
「悪かった。後は、あんたに任せるよ、モレク」
 仰け反ったまま硬直したオスカーの身体を、テーブルの上に押し付けると、クレーエは顔をしかめ、顎の辺りを押さえた。
「大丈夫ですか? か、顔色が悪いですよ」
「問題ない。それより、早く済ませてしまってくれ。誰かに見られると上手くない」
 すれ違い様に言葉を交わしていると、オスカーが、低く押し殺した笑い声を上げた。
「くくく……誰かに見られると、か」
「な、何が可笑しいんです?」
 モレクが低い声で尋ねると、オスカーは、突きつけられたマスケット銃を見上げ、小さく鼻を鳴らした。
「これくらいで勝ったつもりか? この脳無し共が」
 かちゃり、と金属が触れ合う微かな音が響き、リボルバーの銃口が、オスカーの額にぴたりと突きつけられる。
「もう一回言ってみろ、オスカー」
 低く冷たい声で言う。オスカーは、クレーエを見上げると、またしても人を小馬鹿にしたように口元を歪め、くくく、と低い声で笑って、
「貴様らは脳無しだ、と言っているんだ。力で捩じ伏せた所で、オスティナトゥーアの貿易権が手に入るとでも思っているのか? 私は絶対に署名などせんぞ! 力づくでさせられた所で、暴力で脅されたものは無効だと、すぐに教会に駆け込んでやるわ!」
 吠え立てる野獣のように怒鳴り散らす。クレーエは僅かに目を見開くと、「へぇ」と愉しげに口の端を吊り上げ、ぞっとするほど冷たい声で笑った。
「審問官の前に出るだって? それは面白い見ものだ。俺の目には、あんたが天使に両手足を斬り落とされて、達磨みたいに転がっている姿が目に浮かぶがな」
「違うな。私に貿易圏を与えたのは教会の神父であり、オスティナトゥーアと交わした契約書は――例えそれが、どれだけ手数料が高く設定されていたとしても――不備の無い正当なものだ。私はあくまでも、都市が定めたルールに従って商いをしていたに過ぎない」
 淡々と告げるオスカーの声に、クレーエの顔色が微かに変わる。
「ク、クレーエさん。今の話は」
「本当だな。少なくとも、こいつは嘘は吐いていない」
 オスカーの顔に、不敵な笑みが浮かぶ。微かに泳いだクレーエの視線に、気づかないオスカーでは無かった。
「ふん、そんなことにも気づかなかったのか。ゴミ虫共め」
 嗜虐に頬を歪め、二人の顔を太い指で、順繰りに指差す。
「審問官の前に出たら、すぐにでもお前らを訴えてやるぞ。恐喝、暴行、殺人未遂! 楽な刑になると思うなよ。身ぐるみ剥がして、都市の外に放り出してやる!」
 粘つく声で言って、リボルバーの銃口に額を近づける。
 クレーエは、酷く醒めた目でオスカーの顔を見つめていた。長く紫煙を吐き出すと、乾いた声で尋ねる。
「オスカーさん。一つだけ聞きたい。……あんた、罪悪感をないのか?」
「罪悪感?」
 オスカーは馬鹿にしたように鼻で笑うと、拳を床に叩きつけ、
「笑わせるな! 虫けら共がどれだけ死のうと、私の知ったことか! そんな下らんことより、さっさと銃を下ろせ! ゴミ虫めが!」
唾を撒き散らせ、喚き散らすように言う。次の瞬間、
 タ――ン……、
 気の抜けたような音が響いて、オスカーの即頭部から、真っ赤な肉片が飛び散った。
「ひ、ひいいいぃっ」
 甲高い悲鳴が上がり、オスカーがテーブルを引き倒して、床に転がる。真っ赤に染まった頭を押さえ、驚愕に真ん丸に目を見開き、クレーエを見上げた。
 モレクは、あまりの出来ごとに、呆けた顔で床に転がるオスカーを見下ろしていたが、すぐにクレーエのリボルバーへと手を伸ばし、
「だ、旦那!」
 短い声で叫んだ。
「どうして撃ったんです……!」
「耳だけだ。大した傷じゃない」
「だ、だからって、撃つことは――」
 モレクが強引に、握ったままのリボルバーの先を床に向けさせると、入り口の方から甲高い悲鳴が上がった。
 酒場の入り口には、真っ青な顔をした少女が、口元を押せえて立ちつくしている。
「何ですか……! 貴方たちは!」
 少女は驚きに固まっていた顔を、一瞬で怒りで燃え上がらせると、躊躇い無く薄暗い酒場へと足を踏み入れた。
「おお、フィーネ! 強盗だ。すぐに人を呼んで来ておくれ!」
 オスカーが少女へと、哀願するような声を出す。その顔には、安堵と勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
 形の良い眉を吊り上げ、銃を持つクレーエと、床に転がる血まみれのオスカーとを見比べる。
 少女は肩を怒らせ、ゆったりと波打つ琥珀色の髪を猫の尻尾のように揺らし、奥のテーブルまで歩いてくると、オスカーには見向きもせず、クレーエとモレクの二人を正面から睨み据えた。
「銃を下ろしなさい、犯罪者! さっきの銃声を聞いて、すぐに人が来ます。逃げられはしませんよ!」
 テーブルに突き刺さっていたナイフを引き抜き、真っ直ぐに刃先を突き付ける。
「む、娘……!?」
 モレクが思わずオスカーの脂ぎった顔を見つめると。オスカーが血まみれの耳を押さえたまま、低い声で「何か文句あるのかね」と囁き返す。
「はっ、元気なお嬢さんだ。せっかくのドレス姿が台無しだな」
 露骨に顔をしかめながら、クレーエがからかうように言った。
 少女は、一目で上流階級の娘と解る様な派手な格好をしている。凝った刺繍の施された民族衣装――大きく胸の空いた、女性給仕を思わせる、ディアンドルと呼ばれる服を着ている。
「私の恰好がなんだというのです。話を逸らさないで。こんな非道、神がお許しになりません!」
「非道、ねぇ」
 クレーエの濁った瞳が微かに細まり、口元に皮肉めいた笑みを形作る。モレクの腕を解き、リボルバーを胸に仕舞うと、
「なら、何か? あんたの父親がこれまでやってきたことは、非道じゃないっていうのか?」
「……どういうことです?」
 少女の形の良い眉が、ぴくりと反応した。怪訝そうに眉をひそめ、少女が尋ねる。
「フィ、フィーネ! こいつらの言うことなど、聞くんじゃない。全てデタラメ」
「お父様は黙っていて下さい。私は、この人と話をしているんです」
 ぴしゃり、と言って、勝気なブラウンの瞳で、父親を睨みつける。オスカーは口元をぱくぱくと動かすも、何も言うことが出来ない。
「俺と話す? 何だ。あんた、自分の父親がやってきた事を聞きたいのか?」
「今朝、学校の友人にも似たようなことを言われました。父が悪事を働いていると言うのなら、明確な証拠を出しなさい」
「ふぅん……」
 クレーエはしばし、深い沼の様な濁った瞳で、少女を見下ろしていたが、
「モレク。この何も知らないお嬢さんに、事情を説明してやってくれ」
「……構いませんが、もう銃は撃たないでくださいよ」
 モレクが、非難めいた返事を返しつつも、渋々了承の意思を示す。マスケット銃を下ろすと、モレクは、テーブルの上に広げられた資料を使って、オスカー商会が行ってきた悪事について説明し始めた。
 話が進むにつれ、怒りに赤く染まっていた少女の顔が、青褪めたものへと変わっていく。
「――これは、本当なのですか?」
 少女――フィーネ・グートルン・ベーツは、父親であるオスカーの脂ぎった顔を見下ろすと、怪訝そうに尋ねた。
「何かの間違いではないのですか? 私には、信仰深い父に、そのような酷いことが出来るとは思えません」
「だったら、自分の目でよく見てみるんだな」
 クレーエは冷たい声で囁くと、薄暗いカウンターの影に歩み寄った。身を屈め、ひと際年季の入ったダークブラウンのキャビネットを抱え上げると、頑丈な鍵の掛かったそれを、一息に汚れた床へと叩きつける。
「なにをする――っ!?」
 不意に、衣を引き裂いたような鋭い絶叫が轟いた。悲鳴を上げたオスカーが、床に這いつくばり、キャビネットに手を伸ばす。
 衝撃で歪んだキャビネットが床で跳ね、扉の中で金属や陶器が盛大にぶつかり合う音が響く。衝撃で鍵が外れ――中から溢れ出したのは、色取り取りの鉱石が散りばめられた、宝飾品の数々。
 ガーネットの指環に、エメラルドのペンダント……。
「き、きききき貴様っ! これらがいったい、どれほどの価値があるか、解っているのか!?」
 宝飾品の小山に覆いかぶさり、オスカーが憤怒の形相で叫ぶ。
「やっぱりここか。どうりで、さっきからちらちらと視線を送っている訳だ」
 クレーエは、肺に溜まった煙を吐き出すと、冷たい瞳でオスカーを見下ろした。
「どうして、こんなにたくさんの宝石が」
「しょ、商品の一部を、くすねていたんでしょう。オスカーさんは、オスティナトゥーアで採れた鉱物を、代わりに売り捌いて報酬を得ています。つまり、いくらで売ったか、いくらの利益が出たか、というのは、オスカーさんの申告が全てとなる。『この時勢では、宝飾品は需要が無いから低い値段しか付かなかった』とか何とか適当な理由を付けて、商品の一部を自分の懐に入れる。よ、よくある手口ですよ」
 モレクが呆れ顔で言う。
「申告よりも、財産が増えていることが都市に知られれば、不正が疑われる心配があるが、その点、商品の一部を溜めこんでおくだけなら、見つかり難い。他にも、絵画や彫刻を秘密裏に買い入れていたという情報もある。商品の利益を頼みの綱にしていたオスティナトゥーアは、予想よりも儲けが少なくて、さぞかしがっかりしたことだろうな。オスティナトゥーアには、その日食うものにも困っている人間が大勢いる。餓死者だって珍しくない。こいつが利益を自分の懐に入れていなければ、助かった命だってあっただろう」
「そんな」
「これでもあんたの目には、こいつが敬虔な神の信徒に見えるのか?」
 クレーエは濁った瞳を侮蔑に細め、這いつくばるオスカーを見下ろした。
「ぬぬぬ……」
 オスカーは憤怒と屈辱に顔を歪ませながら、拳を握り立ち上がる。血走った目で、ぎょろりと周りを見渡し、
「か、金儲けの何が悪い! 神がそれを禁じているのか? 天使が罰を下すのか? そうではないだろう! 現に、私はこれまで、審問官共に商売のやり方を咎められたことは、一度も無かった!」
 興奮のあまり過呼吸を起こし、肩を繰り返し上下させるオスカーに、顔を蒼白にしたフィーネが、「お父様」と掠れた声で囁く。
 クレーエとモレクの二人は、顔を見合わせて、揃って口を噤んだ
 オスカーの言う事は、一部では正しくもある。他者の生活を犠牲にして利益を生み出す行為は、それが経済の仕組みの中で行われる限り、決して罪には問われない。それが、少なくともこの都市での認識だ。
 審問官の居る都市が、公正で平等であるなどというのは幻想だ。
 もし全ての者が平等で、等しく施しを受けることが出来るのなら、都市に奴隷と呼ばれる人々が、存在し得るはずがないのだ。
「確かに、そんな決まりは無いな」
 苦虫を噛み潰したような顔で、クレーエが口を開いた。
「だが、それは都市経済のシステムにおいてのみ通じる論理だ。人間の感情は、そんな簡単に割り切れるものじゃない。お前は、オスティナトゥーアの連中の前で、今と同じ申し開きが出来るのか?」
 射抜くような鋭い視線に、オスカーが言葉を詰まらせる。オスカー協会がやってきたことは、オスティナトゥーアの人々にしてみれば、裏切りに近い。決して穏やかな話にはならないだろう。
 しばらく睨み合った後、クレーエは咥えていた煙草を放り捨てた。革のブーツで捻り潰し、
「オスティナトゥーアとの貿易権を全て放棄しろ。オスカー。それで全て無かったことにしてやる」
低い声で命じる。底の見えない濁った瞳に見下ろされ、オスカーの唇が、ぶるり、と震えた。
「こ、断る……! いくら脅そうと、私は署名などしないぞ! そもそも、貴様らのような怪しい者の言う事を、オスティナトゥーアの連中が信じるものか!」
「まだ、そんなことを言ってるのか?」
 クレーエが静かにリボルバーの撃鉄を上げた。
「じゅ、銃の脅しなど無駄だ……! 都市には審問官が居る。私を殺せば、この都市から生きて出ることは出来ないぞ!」
「そうか」
 平坦な声で呟くと、クレーエは這いつくばるオスカーに歩み寄り、その弛んだ腹を蹴り飛ばした。
「……っぐ、うぅ」
「モレク。こいつを都市の外に連れ出す準備を頼む。実際にオスティナトゥーアの奴らと話せば、こいつの気も変わるだろう」
「や、止めてください!」
 オスカーを背に庇うように、フィーネが前に出た。両手を広げ、
「どうか、父をお赦し下さい。このままオスティナトゥーアに連れていかれては、父は殺されてしまいます。父が騙し取ったお金は、全てお返しいたします。だから、どうか」
屈辱に顔を曇らせながらも、その場に膝を突き、祈るように手を組む。クレーエは、濁った冷たい瞳で、しばらくフィーネを見ろしていたが、
「……私は関係ありません、って顔してるんじゃねぇよ」
「え?」
「っ――!」
 クレーエの冷たい顔が、炎に触れたように歪む。乱暴にフィーネの手を掴み立たせると、襟元を掴み上げ、怒りに引き攣った顔を寄せた。
「お前が食べた物も、着ている物も! 全てはオステイナトゥーアの犠牲の上で成り立っているものだ。連中を犠牲にして生きているのは、お前だって同じなんだよ。なのにお前は、暴力はいけないと、金を返すから許してくれなどと、お綺麗な言葉ばかり並べ立てる。飢えで子供を亡くした親の前で、同じことが言えるのか!?」
「そんな。……私は何も」
 知らなかったんです、とフィーネが怯えた声で言って目を伏せた。
「知らなければ許されると?」
「そんなことは言っていません!」
 声を張り上げ、襟元を掴む手を荒々しく振り解く。ぎゅっとディアンドルの裾を握り締めると、フィーネは険しい目でクレーエを睨み据えた。
「……解りました。私も罪人だと言うのなら、罪は償いましょう。審問官の前に、私たちを連れて行きなさい。私たちは逃げも隠れもせず、神の裁きを受けましょう」
「神なんてものは、どこにも存在しない」
「いいえ。神様は居られます。きっと、今でも全てを見守っていらっしゃるはずです」
 フィーナの迷いの無い瞳が、クレーエの濁った瞳を真っ直ぐに見詰める。
 少女の迷いを知らない真っ直ぐな瞳に、クレーエの顔に激しい嫌悪と憎悪が浮かんだ。溢れ出した黒い感情を振り切るように、オスカーの頭にリボルバーを突きつける。
「……ッ! 何を」
「ク、クレーエさん!?」
 悲鳴に近い声を上げるオスカーとモレクを、黒く燃え上がる瞳が抑え込む。
「こうするのが一番早い。そうだろ」
「止めてください! どうして」
「気にくわないんだよ。全ては神様のお気に召すまま? お前らは、いつだってそうだ。自分では何も考えようとしない。オスカーが利権を握っている限り、オスティナトゥーアに復興は有り得ない! 物事は、そんな悠長に構えてられないんだよ。今だって、オスティナトゥーアでは誰かが死んでいるんだ!」
 表情を固まらせるフィーネへと激情のままに叫ぶと、引き金にかかった指に力を込める。
「……カミサマなんてものは、もうどこにも居やしない。いや、そんなものは初めから、どこにも居やしなかったんだ! そんなものに縋っていたから、俺たちは――!」

『そんなことはありません!』

突如、短く強い女性の声が、空気の澱んだ酒場を突き抜ける。
 ……キーン、と店内に反響する、甲高いハウリング音。開け放たれた扉から真っ白な光が差し、薄暗い酒場を照らし出す。
『神は、常に共に居られ、私たちを導いて下さっているのです。今も昔も変わらず、常しえに』
 扉の前には、瞳を伏せたジブリールが、薄汚れた拡声器を手に、祈りを捧げる修道女のような佇まいで立っていた。




(>∀<)ノぉねがいします!



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