虚言の王・虚空の月


第一部 真祖討伐



プロローグ

 降り注ぐ細く冷たい雨に、意識は緩やかに覚醒した。
 雨音だけが耳朶に響く。視界は夜よりも深い闇色に覆われ、僅かな光さえも感じられない。身体は鉛のように重かった。茫洋とした意識。 僅かな身じろぎでさえ適わない。 身体を起こすことも出来ず、仰向けに倒れこんでいる。
 少しでも動く箇所は無いかと、四肢の隅々にまで意識を向ける。いや、向けようとして、男は気づいた。
 男には、そもそも動かすべき身体が見つからなかった。
 体中の感覚が無くなっている。頬に降り注ぐ冷たい雨だけが唯一、男には確かなものに感じられた。
 首から下を切り離されて、それでもなお生きているようだ、と男は思った。視界が闇色ならば、その身を認識することは出来ず。動かす四肢が見つからないなら、その身を確認することも出来ない。ならば、この身がどうして五体満足であると言い切れるだろう。
 男は笑った。首だけの身体で笑った。そんなこともわからない自分があまりにも滑稽だった。
 ただ静かに雨に打たれ続ける。細く、冷たい雨に。
 ……ふと、匂いがした。
 雨の匂いだった。
 ゆっくりと意識を、嗅覚へと集中させる。すると雨の匂いに混じって、いくつもの匂いを感じ取ることができた。
 まず、土の匂いがした。次に、錆びた鉄の匂い。それから木の燃える匂い。鉄が焼ける匂い。そして――。
 死の匂いがした。
 戦場特有の、死と絶望で澱んだ空気。幾度経験しても慣れない、吐き気を催す肉が、体毛が焦げる匂い。失くした身体が寒さで震える。そこでようやく、男は自分の身体が氷のように冷え切っていたことを知り――自分の命が残り僅かしか残されていないということに気が付いた。
 男は嗤った。自らの愚かな人生に。救いの無さに。無意味と判ずる他に無い人生があまりにも情けなくて、男は声を上げて嗤った。
 いや。
 嗤った、つもりだった。しかし実際に喉から漏れたのは、声ともいえぬ僅かな空気だけ。
 ――なんて無様だ。
 男は呟いた。もう自らの皮肉を笑うことも出来ないとは。
 未練は無かった。結局のところ、元からどうしようもなかったという、ただそれだけのことなのだろう。どの道を歩もうと、行き着く先はこの雨に濡れた丘だったのだ。
 気付いていた。気付いていたけれど、立ち止まるわけには行かなかった。
 ――前を。
 この|理想《みち》の先を、歩いていた男が居た。その背中が眩しくて、歯痒くて、悔しくて――。ただ、がむしゃらに追い続けた。反目し、否定し、憧れた。その生き様に。その在り方に。
 背中は語っていた。その|理想《みち》が過ちであると。
 同じ過ちは繰り返すな。それでは未来永劫、誰も救われやしない、と。
 しかし、どうしても諦めることができなかった。男の為にも、この|理想《みち》が決して間違いなどではないと証明したかった。
 その背中を見ていたからこそ。そして、その結末を知っていたからこそ、答えを捜し続けた。時に自分自身さえも誤魔化し、偽り、その背中とは違う結末を求め走り続けた。
 その結果が――これだ。
 男の口元に笑みが浮かぶ。それは諦観の念に似ていた。
 この道が間違いであるなど、そんなことは知っていた。それでも、この道を歩くしかなかったのだ。無様に誰も救えず、何も成しえず、こうして野晒しに果てることが解っていても、なお。
 後悔が無いと言えば嘘になるだろう。むしろ、後悔しかない人生だったのかもしれない。しかし、それでも男にはやはり、その理想が、あるいは決断が間違っているとは、どうしても思えなかった。
 ――ただ一つ、あの背中が犯した、最後にして最大の過ちを除いては。
『世界との契約』。
 例えどれだけの過ちを犯そうとも、この身に後悔が灰のように降り積ろうとも、それだけはしない。しては、いけない。
 追い続けてきた背中に、そう誓った。男が選び取った数多の選択の中で唯一、それだけは間違っていたと言えたから。
 世界と契約すれば、この命を今少し永らえることも可能だろう。救える人々の数も、決して少ないものではないのだろう。
 それでも、決してこれだけはしてはならない。自分自身の為に。そして、もう取り返しのつかない場所にいる、彼のために。
 だから、男はただ静かに心を落ち着かせた。
 消えていく意識。
 消えていく自分。
 何もしようとはせず、何も考えなかった。
 感傷に浸るつもりなど無い。振り返れば、蘇ってくるのは後悔の念だけ。ならば、このまま静かに消えてしまったほうが余程マシだ。
「――ない」
 消えていく意識の中で、微かなノイズが混じった。
 頭の上で、誰かが何か喋っている。
「何故、世界と契約しない?」
 声は言った。契約すればお前は自身が望む姿、英雄になれるというのに。
 男は答えなかった。その声はどう考えても少女のもので、このような戦場にはあまりにも場違いだった。男はそれが幻聴だと思った。
「成る程。同じ蹉跌は踏まぬ、というわけか」
 幻聴は一人、喋り続ける。
「ならば私が世界に変わり、お前と契約してやろう」
 どこか甘く優しく、それでいて温かな少女の声。
「なに。世界に比べれば、その対価など大したものではない」
 それは、凍え、乾ききった心を蝕むように心に染み込んで来る。
「――さぁ」
 ブツリ、と何かが裂ける音がして、鮮烈な錆びた鉄の匂いが鼻腔をついた。
「飲め。この血液を媒体に、私はお前と『血の契約』を結ぼう」
 蕩けるような声で、少女が囁いた。
 男はその声に取り合わなかった。
 幻聴など相手にしても仕方が無い。それどころか、死を前にして、都合の良い幻想を夢見る自分の精神の弱さに憤りさえした。
 そもそも、この世に未練など無いのだ。後悔はある。遣り残したことも無いといえば嘘になる。しかし、それは条理を曲げてまで、この世界にしがみつく理由にはならない。
 覚悟はできている。世界とも、悪魔とも契約など結ぶつもりは、
「そうだ。それでいい」
 思いに反して、男は口を目いっぱい開き、その血を口腔一杯に受けていた。
 最後の力で外れんばかりに顎をこじ開け、朱色の液体を貪る。
 ゴクリ、と。
 男の喉が、大きく鳴った。
「そうだ。エミヤ……。お前は自身が望む姿――。『英雄』となるがいい」
 そう言って、少女の声をした何かは嘲るように優しく微笑んだ。

 雨が降っていた。
 男の体を、冷たい雨が打ちつける。
 口内を、錆びた鉄の香りが犯す。それは、甘く痺れるような禁断の蜜の味。麻薬めいた、蕩けるような死の快楽――。
 胃の辺りが熱く熱を持ち、ドクンドクン、と確かな鼓動が胸に刻まれていく。その度に、滾るような熱量を持った血液が、冷え切った身体を駆け巡った。失くした筈の四肢が感覚を取り戻し、男は首だけの存在から蘇生する。やがて、その瞳にもゆっくりと光が戻り――。
「――、」
 微睡みから覚めるように、男はゆっくりと瞼を持ち上げる。
 ドクン、
 激しく地面を打ちつける雨、見上げた空は朱く、朱く。
 男は、自身を見下ろすモノの姿に目を奪われた。
 それは、戦場にはあまりにも場違いな、漆黒のドレスを身に纏った、一人の可憐な少女の姿――。
「……」
 どこか冷たい印象を与える白磁の貌。冴え凍るほどに可憐な顔立ち。深遠を湛えたその瞳は……朱色。口元には嘲るような、しかし見惚れてしまうほどに蠱惑的な微笑を浮かべている。
 男は少女の朱い瞳を見上げる。少女もまた男の瞳を見つめている。
 君は、誰だ? そう、口にしたつもりだった。しかし、それが言葉となって少女に届いたかどうかは、定かではない。
 ゆっくりと意識が遠のいていく。視界は再び闇色に犯され、世界の色も、匂いも、音もすべてが消え去った。ただ、己の心臓だけが力強く鼓動を刻んでいる。
 薄れていく意識の中で、男が考えていたことはただ一つ。
 こんなにも激しく雨が降っているのに、どうして。
 どうして少女は、傘もささずに居るのに、雨に濡れていなかったのだろう――。
 夢か幻か。それを判別することも出来ないまま。
 男の意識は、ゆっくりと泥のような深い眠りの底に沈んでいった。





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