9/蠢く闇


 巨大な鼠が。
 兎ほどの大きさの血塗れの鼠が、主たる少年を追って、瓦礫の山を駆けていく――。



 メレム・ソロモンが聖堂を去って、一時間ほど経過した頃、聖堂の入り口から大師父と殺人貴、そして真祖の姫が現れた。
 どう彼らを迎えればばいいのか、判断に困る。
 こちらに向かって歩いてくる二人には――殺人貴と真祖の姫には、敵意や殺気の類は窺えなかった。拍子抜けするくらい普通に――。そう、あくまでも普通に、歩いてくる。 
 これくらいのこと、予測できたはずなのに。
 私は自分がどんなスタンスで彼女たちに対すればいいのか、判断することができない。
 つい先ほどまで私は彼らを殺そうとしていたのだから、快く迎えるなんてのは無理だとしても、こんな中途半端な気持ちで向かい合おうとするなんて我ながらどうかしてると思う。
 けれど、どうしても私には、彼らを憎むことも、流すことも、無関心でいることも出来そうに無かった。
 つい一時間ほど前に見た、牙を剥き出しに吼えていた真祖の姫の姿が脳裏に浮かぶ。
 結局私は、崩れた天井の石に腰掛けたまま、こちらに歩いてくる三人をただ見つめていた。
「……」
 私たちの前に、真祖の姫と殺人貴が並んで立つ。自然、私たちは向かい合う形となり、その間に大師父が入った。
 立ち上がった士郎は、私の少し前に腕を組んで立っている。そこには、あからさまな敵意こそ窺えないものの、警戒の色は隠せない。いや、隠すつもりなど端からないのだろう。士郎にとって――もちろん、私にとってもそうだけれど――彼らは、打倒すべき敵以外の何者でもないのだから。
 対する真祖の姫は、不機嫌そうな顔で聖堂の隅の方に視線を向けていた。玉座に入ってきたから一度も、彼女は私たちと目を合せようとしていない。
 その隣に立つ殺人貴は、何をするでもなく、真祖の姫の横で静かに立っている。
 その目には初めて出遭った時の様に、白い包帯が幾重にも巻かれていた。殺気も敵対心も感じられない。
 それでさえ、初めて見たときと同じだ。二人とも汚れた服は着替えたらしく、外見上、本当に初めて遭ったときと何も変わっていないように見えた。
「あの、大師父」
 なんとも言えない沈黙に耐え切れず、立ち上がろうとした私に、大師父は、
「いい。傷が辛いなら座っているといい」
制するように、やんわりと手を挙げた。
「他の者にしてもそうだ。辛いなら、座るなりなんなり、楽な姿勢をとるといい」
 そう言う『老魔術師』は、すっくと背筋を伸ばして立ったままで、この中の誰よりも元気そうだ。
「少し長い話になりそうだからな」大師父はそう前置きして、少し面倒そうに一同を見渡した。当然、座り込んだりする者はいない。
「前置きはいいわ。ゼル爺。単刀直入に用件だけ話して」
 どこか不機嫌そうに、真祖の姫が言った。
「そうだな、ではそうすることにしよう」
大師父は頷き返すと、咳払いを一つ。
「さてー―。凛。お前はメレム・ソロモンからどこまで聞いている?」
 まるでその質問をすることが当然のことだと言うように、大師父は尋ねた。
「……気付いていたんですね」
 大師父とメレム・ソロモンの口ぶりから、気付いているんじゃないかと思ってはいたが、こうも当然のことのように尋ねられると、返答に困る。
 だって、私には二人の立ち居地が解らない。大師父とあの少年の姿をした怪物が、どこまで今回の件に関係しているか、私には想像することも出来ないのだから。
「そう。やっぱり来てたのね。アイツ」
 予想はしていたのか、少し考え込むようにして、真祖の姫が呟いた。
「――」
 これに対して、殺人貴はそうではなかったようで、白い眼帯の下で、小さく驚いたような仕草を見せると、複雑そうに眉を顰めた。
「無事で何よりだったな。下手をすれば食われているかもしれないと心配をしていたんだが」
 大師父は、私をからかうように、口の端を歪めるようにして笑う。
 その言い方から私は、大師父とメレム・ソロモンが通じているという線は薄そうだ、と予測を立てた。
 二人とも嘘みたいに長生きだから、面識くらいはあるだろうけれど、手を組んだりすることは無いだろう。大師父とメレム・ソロモンでは、そのスタンスが違いすぎる。
「あの、その……。どこまで聞いている、と言われてもですね、大師父。私たちはたぶん、ほとんど何も聞かされていません」
「ほぅ。何も、か?」
 大師父は、少し意外そうに目を細めた。
「はい。――いえ、一つ。一つだけ、気になることは言ってました。けど」
 ここで大師父に嘘や誤魔化しを言っても意味は無い。私は、正直に自分の考えていることを話すことにした。
 どうしても聞かなくてはいけないのは、メレム・ソロモンの言っていた、今回の件に深くかかっているであろう、あの人物の名前――。
「悪いが。二人とも、少し待ってもらえないか」
 私の言葉を遮るように、士郎が声を上げた。
「こちらとしては、その前に幾つか聞きたいことがあるんだが。それを聞かないことには、のんびりと世間話などする気はない。二つほど聞いても構わないか? 魔導元帥」
「……ふむ」
 大師父は考え込むように、軽く顎を引いた。
「な……! 士郎、アンタ大師父になんて口の聞き方してんのよ!」
「構わんよ、凛。そこのは魔術師ではないのだろう? 別に私の弟子というわけでもないんだ。細かな礼節には目を瞑ろう。――で、なんだ。エミヤシロウ。言ってみろ」
「理解が早くて助かる。俺が聞きたいのは、そこの真祖の姫についてだ」
 士郎は品定めをするような目で、真祖の姫に目をやった。
「俺たちは、真祖の姫の咎落ちを防ぐためにここに来たんだ。咎落ちの心配はもう無いのか? それを聞かないことには、俺はゆっくりと話しなんぞするつもりは無い」
 士郎の鋭い眼光が真祖の姫に向けられる。しかし、真祖の姫はそれを気にした風も無く、明後日の方向を向いたまま、こちらに目を向けようともしない。
 僅かな沈黙が流れ――。結局、口を開いたのは大師父だった。
「答えは否、だ。アルクェイド・ブリュンスタッドは今でも強い吸血衝動に晒されている。『咎落ち』に至る可能性は、彼女が存在し続ける限り無くなりはしない」
「……なんだと?」
 場の空気が、氷ついたようにピンと張り詰める。
「では、何故放っておく?」
 今にも剣を投影し、襲い掛かりそうな様子の士郎が言った。
「それがまだ、抑制の範囲内にあるからだ。先ほど暴走しかけたのも、お前たちを倒すにはある程度、衝動の抑制に回していた力を使う必要があったというだけのことだろう。衝動に屈したと言うわけではない」
 射抜くような士郎の視線を微塵も介さず、大師父は士郎の糾弾を真っ向から斬り捨てる。
「咎落ちとは吸血行為があって初めて定義されるもの。そういう意味では、アルクェイド・ブリュンスタッドはその境界を越えてはいない」
「境界を超えていない? そんなあやふやで不確かな基準に、世界の存続を賭けるのか」
「ふん。お前が考えているほど、コレは脆弱ではない。自身の衝動を御するだけの力は残っている」
「それでも、抑えがたいほどの吸血衝動に晒されているのは事実だ!」
 弾けるような音と共に、衝撃が私の座っている巨石を振るわせた。士郎が、すぐ横にあった瓦礫の塊を殴り飛ばしたのだ。彫刻の施された、数十キロはありそうな柱が二つに折れ、一部が粉微塵に吹き飛ぶ。
「ちょっと、士郎……!」
 緊張が走る。一触即発か、と思われたものの、当の大師父も真祖の姫も、さして気にした様子は見られなかった。ただ一人、殺人貴の手には、先ほどまで無かったはずのナイフがいつの間にか握られていた。
 声を荒げ睨みつける士郎から、大師父は少しも目線を逸らさない。驕らず、かといってあしらう風でもなく、その視線に真っ向から応える。
「それは、殊更重要な問題ではない。そもそもだ、エミヤ。お前にとって、吸血衝動が在ればそれだけで悪なのか? ならば、それは私をも敵に回すということになるが」
「……ッ!」
 激しく大師父を糾弾していた士郎が、言葉に詰まる。宝石翁ゼルレッチ――。彼は、正義の魔法使いであると同時に、二十七祖に名前を連ねる吸血鬼でもある。
 大師父は言っているのだ。剣を抜けば、この私をも敵に回すことになるぞ、と。
 かみ締めた士郎の歯が、ギリ、と音を立てる。
「それにだ、エミヤ。私に言わせてみれば、『世界の危機』などというものは塵芥、意外とその辺に転がっているものなのだよ。コレの咎落ちなど、気にならなくなるくらいにな」
 睨みつける士郎を見て、大師父はどこか楽しそうに笑った。
 だから世界は面白い、そう続けるように。
「……世界の、危機」
 どちらが正しいのだろう。私は判断に迷う。
 士郎の問いは、至極同然のものだと思う。私たちは、真祖の姫の『咎落ち』がもたらす危機が、世界を左右してしまうほどの危機があると判じたからこそ、命をかけてまで、この場にやってきたのだ。根拠の無い気休めなどで納得するほど、その決意は安くない。
 ただ、大師父の言うこともまた、間違っていないように思える。大師父は、私なんかじゃ比べ物にならない遥かに長い年月を、『正義の魔法使い』として生きてきたのだ。その言葉に間違いなど無いのではないかとさえ思える。
 しかし――。
 しかし、朱い月だけは別なのだ。
 他の塵芥の世界の危機と、朱い月を一緒にしてしはいけない。
 この星には、世界の危機を防ごうとする巨大な力――抑止力と呼ばれる意思が存在する。抑止力が働いている限り、世界の破滅は回避される。
 だが、朱い月だけは別なのだ。自然の触覚として生み出された真祖に、抑止力は働かない。
 これは、宝石翁ゼルレッチの名を以ってしても、そう簡単に譲ることはできない問題なのだ。
「なんだ、凛。お前も私の言うことが信じられないか?」
 私の葛藤を読んだかのように、大師父が不適に笑った。
「それは……」
「私がいる。抑止力なんぞに頼らなくてもな。それだけでは不満か?」
 そう言って、この老人は、少年のような快活な笑みを浮かべてみせた。
 それだけで、私にはもう、何も言うことが無かった。
「いえ――。大師父がそう言うのでしたら」
 自然と、そんな言葉が出ていた。
「エミヤ、お前はどうだ」
「……好きにしてくれ」
 もう知らん、と言うように士郎は視線を逸らした。なんだかその姿は、拗ねているようにも見えなくもない。まぁ、無理も無いか。こんなの半分脅迫みたいなものだし、士郎だって納得がいかない部分も多くあるのは私にも解る。しかし、
「何にしても、大事にならなくて良かったわ」
 ほっと胸を撫で下ろす。この状況で、再び戦いになるのはどうやら避けられたようだ。正直、私にはもう戦う気力は残っていない。
 このまま何事も無く終わってくれればいいとさえ、私は思っていた。大師父が任せろと言っているんだ。ここは取り合えず、様子を見るなり何なり、一旦手を引くべきだろう。
「では、二つ目だ。真祖の姫の両腕、確かに殺人貴に切断されたように見えたんだが――。どうして、何事も無かったかのように腕がついている?」
 士郎の視線が、今度は真祖の姫――。アルクェイド・ブリュンスタッドに向けられた。
「――」
 士郎の視線を受けても、やはりというか、真祖の姫はこちらに顔を向けようともしなかった。
 再び、降りる沈黙。
 どうやら、真祖の姫は完全無視を決め込んでいるらしい。
「それくらい説明したらどうだ?」
 数十秒の時間が経った頃、少し呆れたように大師父が言った。
「――解ったわよ」
 小さくため息をつくと、いかにも気が進まないと言う様子で、真祖の姫はこちらに向き直った。
「志貴だって聞きたいでしょうし……。それくらいなら話してもいいわ」
 真祖の姫が一瞬、窺うように殺人貴を見た。視線を感じたのか、殺人貴は小さく頷き返す。
「あなたは腕が『切断された』と言ったけれど、志貴が私の腕を切断したのなら、『殺した』と言ったほうが正しいでしょうね。志貴は『直死の魔眼』を使わなければ、私の身体を深く傷つけることさえできない。この千年城でなら、尚更ね」
「それは理解しているつもりだ。君の肉体の強度は切り結んだ俺がよく知っている」
 ――吸血鬼は、満月の夜に最も力を発揮する。
 月の恩恵を、常に最大限に受けることが出来るこの場所なら、吸血種は『復元呪詛』という彼ら特有の能力で、大抵の傷は復元出来てしまう。
 そして、その例外となるのが『直死の魔眼』だ。『直死の魔眼』が話しに聞く通りのものならば――彼との戦いで、私は確信に近いものを持っているが――彼によって『殺された』モノを復元するには、死者を生き返らせるほどの奇跡をもって挑まなければならない。
 『死者の蘇生』は魔法の領域。魔法使いではない、いや、魔術師でさえない真祖の姫には、『殺された』腕を復元するのは不可能だ。
「だからこそ、聞きたい『殺された』腕がどうして付いている?」
 士郎の問いに、真祖の姫は気だるそうに腕を組んだ。あるはずのない、その両腕を。
「あなたたちは考え違いをしているわ。そもそも、あの時、私の腕が切断されていたとしたら、どんな方法を使っても今の私に腕は付いていないでしょう? それは、変わらない事実」
 言葉を切り、真祖の姫は周囲を見渡す。
「『直死の魔眼』はそんなに生易しいモノじゃない。いくら満月といっても、一度切断されてしまえば修復は不可能よ。だから、答えは簡単。私の腕は『殺されていなかった』」
 遠回しな真祖の姫の言い方に、私と殺人貴の表情はいまいち晴れなかった。ただ、士郎だけが、
「なるほど。……そういうことか」
 真相に辿り着いたのだろう。はっと目を開いたものの、次の瞬間には、
「……くそっ! してやられた!」
苦虫を噛み潰したような表情で、不機嫌そうに舌打ちをした。
「ちょっと、士郎? 話が見えないんだけれど。……どういうことなの? 殺人貴のナイフは、腕を切断していなかったっていうこと?」
「それはない。俺のナイフは、確かにアルクェイドの腕を」
 静かに真祖の姫の言葉を聴いていた殺人貴が、口を開いた。
「……ならば、答えは一つ。お前が『殺した』のは、アルクェイド・ブリュンスタッドではない、ということだろう」
「!」
 その言葉には、聞き覚えがある。
 『殺人貴が殺したのは、アルクェイド・ブリュンスタッドではない』
「確かそれは」
 メレム・ソロモンが言ったのと、同じ。
「そうか――。いや、そんなまさか」
 殺人貴の顔に驚きと、僅かな安堵の表情が浮かぶ。眼帯の下の瞳を押さえるようにして、呻くように呟く。
「そうか。あれはアルクェイドの『線』じゃ無かったのか」
 殺人貴もまた、真相に辿り着いたようだ。
「そうね。それが最も正解に近いわ。そもそも、志貴の魔眼でも満月の夜に――それもこの城で、私を『殺す』なんて、容易なことじゃない」
 殺人貴が、はっとしたように真祖の姫のほうを見る。真祖の姫は小さく肩をすくめると、
「私は別に、死にやすくなっていたんじゃない。その逆でしょう?」
 死ぬ、という要素から、限りなく外れようとしてたんじゃない。
 何かを悔いるように、小さな声で言った。
 殺人貴は一瞬、泣き出しそうな顔になって――真祖の姫から目を逸らした。
 一方、私はといえば……。
 『ちょっと、どういうことだか説明しなさいよ』なんて、大師父の手前言うわけにも行かず、解ってもいないのに、解ったような顔で、うんうんと頷いていた。それしか選択肢が無いのだから、しょうがない。
 ……まぁ、大体の真相は私にも予想はついている。
 ここに居る全員が犯人ではないと言うのなら、そんなことが出来る存在は、今回の舞台に一人しか登場していない。
 よく解らないけれど。どうやら、私たちは踊らされていたらしい。
「疑問は晴れたか? エミヤ」
 私たちを眺めていた大師父が言った。
「ああ。すまない。話を進めてくれ」
 士郎は一歩後退すると、私が腰掛ける巨石のすぐ横に寄りかかった。
「では、そろそろこちらの話に移らせてもらおうか」
 皆の視線を集めるように、大師父が言った。
「その前に、凛。お前はこの闘争の本質をどこまで捉えている?」
 大師父は弟子である私を試すように、その力強い瞳を向けた。
「……」
 突然の問いに驚きはしたものの、すぐに思考を集中させて、自分なりの答えを探し出す。
「何も知らないに等しいでしょう、大師父。私はきっと、話の本質に触れてさえもいない」
 それは、答えにさえもなっていない、情けないほどに稚拙な答え。しかし、それが今私が答えることができる中で、一番相応しい答えのように思えた。
「彼は、何も話してくれる気は無いようですから」
 士郎が、避けるように私から視線を逸らす。
 話の本質に触れていない――それが、今の私の正直な気持ちだ。真祖の姫と殺人貴、死徒二十七祖にして埋葬機関第五位に、第二魔法の使い手。これだけの大物たちを巻き込んだ今回の騒動――そこに背景が、無いわけがない。
 何か私たちの与り知らぬところで、何者かの意思が働いているのではないかと考えることは、至極自然なことだった。
 そして、メレム・ソロモンと士郎の繋がり。
 士郎は恐らく、真相の一端に関わっている。メレム・ソロモンが去った後、私は彼が言っていたいくつかの言葉の意味を問い質そうとしたが、士郎は言葉を濁すばかりで、まともに答えようとはしなかった。
 何故、話してくれないのか。正直、今の私には士郎に対する不信感が少なからず、ある。
「いい認識だ」
 満足だというように、大師父が頷いた。
 小さく胸を撫で下ろす。なんだか、試験を受けているような気分だ。
「本質に触れていないというなら」
 それまで黙していた殺人貴が、静かに口を開いた。
「きっと、俺たちもそうなんでしょうね。俺はもちろん、アルクェイドでさえも、核心にはまだ触れていない。今回の件が、ただの『襲撃』でないことは、メレムが絡んでいることからも間違いないだろうから」
 大師父は、殺人貴の言葉に大仰に頷いた。
「そうだな。その通りだ。お前たちは、まだ核心に触れてもいないだろう。だが――、お前たちが物語の中心に居るということは恐らく、間違いない」
「!」
 殺人貴が、息を呑む気配が伝わってきた。
「意外か? お前たちは、望もうとも望まなくとも『世界の危機』とやらに、密接に関わっているというのに」
 愉しむように、そしてどこか哀れむように、大師父は真祖の姫と殺人貴を見つめる。
『望もうとも、望まなくとも』
 まさしく、そうなのだろう。彼らは自身の意思とは関係なく、自ずと物事の中心に立つことになるのだ。
 なんだろう。この感覚――。前にも、感じたことがあるような気がする。やるせないような、悲しいような、そんな、憐みにも似た感情。
「ああ、そうか」
 そうだ。これはきっと――。
 八年前の戦争において、自身の意思とは関係なく事態の中心に立たされざるを得なかった、あの子に対して抱いたのと同じ感情――。
「比べて、お前たちはこの出来事の本質には触れていても、中心には居ない、といったところか。どちらが良いかは、私には解らないがな」
 私と士郎を交互に見つめながら、大師父は言った。一瞬、耳を疑った。事態の中心にいない、というのはわかる。だけど、本質に触れているというのはどういう意味だろう。
「それはどういうことでしょう? 私は何も」
「凛はともかく――。今回の真相に最も近いところにいるのはエミヤ、駒として使われたお前だろうな」
「……」
 士郎は寄りかかっていた身体を起こすと、汚れた外套を翻し、私たちに背を向けた。
 大師父は、そんな士郎に鋭い視線を向ける。
 私は大師父の言う言葉の意味が解らず、二人を交互に見つめることしかできなかった。
「あの、大師父。士郎が駒として使われた、っていうのは」
「そのままの意味だ。そこの男がこの城へやってきたのは、自分の意思では無い。お前たちは駒としていいように使われたのだよ。そもそも、凛。お前は何故エミヤに協力し、ここまでやってきた?」
「それは……」
『どうやら、真祖の姫の吸血衝動は限界らしい。あの朱い月が現れることになったら、大変なことになる 』
 そう、士郎が言ったから。
 他の誰でもなく、この私をパートナーとして――。
「では、それは誰がもたらした情報だ? 真祖の姫が吸血衝動を抱えているということを知っている者は多くいるだろう。だが、その吸血衝動が限界を迎えているなどということを、誰が知り得るというのだ? 魔術教会や聖堂教会でさえも知りえぬ情報を、どうしてエミヤは知っていた」
 それは、恐らく……。
 メレム・ソロモン。
 士郎にこの城への入り方を教えたのも、彼だ。それは、彼自身が言っていたから間違いない。
「いえ、そうじゃない」
 そうだ。彼は言っていたじゃないか。真祖の姫が吸血衝動を迎えているという情報だけは、そんなデマだけは、決して自分は教えていない、と。
「それじゃあ、誰が。誰が、その情報を?」
 士郎へと視線を向ける。しかし、士郎は背を向けたまま、何も答えようともしない。
「そんなことを知り得る奴はいないよ」
 殺人貴は不快感を露に、言い捨てた。
「そもそも、アルクェイドの吸血衝動は限界までは来ていない。そこまで切羽詰った状態って言うわけじゃないんだ。……大体、これで限界だって言うなら、もう二、三年前から同じような状態が続いている」
「――なんだって?」
 背を向けていた士郎が、振り返る。その顔には、戸惑いと驚きの色が見て取れた。
「それは、本当か。殺人貴」
「当然だ。こんなことで嘘はつかない」
 真祖の姫の吸血衝動は、限界を迎えていなかった。
 何かが。
 何かが、決定的に食い違っている。
「つまり、エミヤ。お前は唆されたのだよ。お前に真祖の姫の吸血衝動について話した者に、な」
「……」
 士郎は目を閉じ、考え込むように口元に手を添えた。
「どういうことなの? 士郎。説明して」
 尋ねるも、士郎は私の言葉を聞いていないかのように、表情一つ動かさない。
 話が見えない。
 士郎は真祖の姫の吸血衝動が限界を迎えたから、それを防ぐために手を貸してほしい、と言って私を誘った。
 俺と昔のように手を組まないか、と。
 しかし、それは事実ではなかった。真祖の姫の吸血衝動は、限界を迎えてなどいなかった。では、唆されていたとはどういうことだ? 士郎はどこまで知っていた?
「なんとか言いなさいよ――! 士郎!」
 背を向けた士郎は、こちらを振り返りもしない。
「ちょっと、何とか答えなさい……!」
「答える気がないのではなく」
 詰問するように詰め寄る私を遮る形で、
「答えることができないのではないかね? エミヤ。『契約』しているのだろう?」
どこか冷たい声で、大師父が言った。 
「――『契約』? それ、どこかで」
 ついさっき、そんな単語を聞いたような気がする。
『やっぱりね。結局、君もアレに唆されていた、ってわけだ』
 そうだ。メレム・ソロモン。彼は、唆されたと言っていた。
 一体、誰に?
『これは他のどの組織も知らぬ、信頼の置ける筋からの情報だ』そう、士郎は言っていた。
『どの組織も知らない』
 それはつまり、情報が個人からもたらされた情報だということを意味しているのではないだろうか?
 魔術協会でも、聖堂教会でも知りえぬ情報。それでいて、士郎が信頼を置けるほどに、真祖の姫に近いところに居る存在――。
「……アルトルージュ=v
 思わず呟いたその言葉に、その場にいる者の視線が、一斉に私に向けられた。
「メレム・ソロモンが言っていたわ。アルトルージュ≠ニ」
 そうだ。どうしてすぐに気がつかなかったんだろう。メレム・ソロモンは言っていたじゃないか。
『随分と庇うんだね。君があのアルトルージュ≠ノそこまでする義理なんてあるの? それとも、それも契約の一部なのかな?』
『それに、今回の件はあの|アルトルージュ《 紛い物 》≠ェ絡んでるんだ。少しは君に同情してあげるよ』
 つまりは、それが真相。
「そう。彼女が絡んでいるの」
 顔半分を覆うように手を翳して、真祖の姫が小さく呟いた。
 これで、繋がった。
 アルトルージュ・ブリュンスタッド。
 祖の一角として名を連ねる『死徒の姫君』にして『血と契約の支配者』。
 真祖の姫であるアルクェイド・ブリュンスタッドにとって、姉とも言える存在。
「……契約って。士郎、アンタまさか……」
 私の視線から逃げるように、士郎は視線を逸らす。弁解をするでも、謝るでも、喚くでも、開き直るでもなく。ただ表情一つ変えずに、視線を逸らす。
「私がここに来たのには、二つの理由がある」
 大師父が、口を開いた。
「一つは魔法剣を振り回している弟子を止めるため、そしてもう一つが」
 強い意思をその声に秘めて、
「アルトルージュ・ブリュンスタッドを止めるためだ」
 大師父は、その名前を言った。
 そして次の瞬間、大師父が言った言葉は、とても意外なものだった。
「聖杯を――」
 大師父の重たい言葉が、静謐さを孕んだ聖堂の空気を震わせる。
「魔術教会が、第七百二十九聖杯を、東ヨーロッパで観測した。事態の中心にいるのはアルトルージュ・ブリュンスタッドと、その一味だ」
「!!」
 全員の顔に、驚きと緊張が走る。
「それが長らく捜し求められてきた、かの『聖人の血を受けた杯』なのかどうか。それはまだ解っていない。しかし、この聖杯が少なくとも、限りなく本物に近い強力な力を持っていることは確かだ。例え紛い物だとしても、『冬木の聖杯』規模の願望機としての力は有していると見て間違いないだろう」
 聖杯。
 その響きは酷く懐かしく――聖なる杯というその名に反して、忌まわしい言葉として私の耳に纏わりついた。
「魔術教会は既に動いている。八年前のように、根源の渦に至る『穴』くらいは発生しても可笑しくはないからな。いずれ、各部門から腕の立つものが選出されるだろう。教会の方の動きについては正確に把握していないが、埋葬機関が動き出すのも、時間の問題と見て間違いない」
「埋葬機関? 聖堂教会はもう、聖杯の出現に気付いているんですか?」
「わからん。だが、観測されたのは魔術協会の管轄内だ。そう簡単に教会が察することが出来るとは思えないのだが――。まぁ、どちらにしろ」
 大師父は小さく息を吐くと、
「もう手遅れだ」
そう言って、ちらりと大聖堂の奥へと視線を移した。
「使い魔を、残して言ったようだ。会話は筒抜けと考えていいただろう。間もなく、教会にも話は伝わる」
「メレム・ソロモンか――!」
殺人貴が拳を握り締め、呻いた。
「どうして、そんなことを――」
 困惑したように呟いた真祖の姫は、どこか不安そうに自身の親指を噛んみ締める。
 ギリ、
 親指から、真っ赤な血液が一筋、流れ出す。
「アルトルージュがエミヤをこの城へ寄越したのは、恐らくお前たちの介入を防ぐためだろう。最も、真意の程はわからないが――」
「アルクェイド」
 殺人貴が、気遣うような視線を真祖の姫へと向ける。白い包帯に隠され、その瞳がどんな色を宿しているのか、私にはわからない。
「どんな目的――。いや、願望を持って、あやつらが聖杯を欲しているのかは解らん。だが、この私が、この『宝石翁』が忠告するということが、どういうことかは解るだろう?」
 いくつもの異世界を飛び回る大師父が、世界の危機さえ笑い飛ばす正義の魔法使いが、警告を出す理由――。
 世界が、動き出した。
 私たちは今確かに、その渦中に居る。
「私の話は以上だ。この話を聞いて、どうするかは各々で決めるがいい」
 暗く沈んだ聖堂の中、声を発するものは一人として無く。
 ただ、白く巨大な満月だけが、変わらぬ姿で地上を照らしていた。



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