8/宝石


 それは、少しだけ昔の話。
 石に躓くようにして、わたしは一人の少年に出会った。それまで機械のように運用されるのみだったわたしは壊れ、本来与えられないはずだった機能を手に入れる。
 少年とわたしは、共に時を過ごすことを選んだ。それは午睡のように本当に短い時間だったけれど、本当に本当に、素晴らしい日々だった。

 ――その日々が、今は遠い。

 その少年が今、わたしを見つめている。彼はかつて出会った少年の姿ではなくなっていた。
 大人びた顔。扱けた頬。老人のように疲れ切った、その視線。そこには、かつて少年が見せた瑞々しいまでの輝きは存在しない。

 ――その日々が、今はこんなにも遠い。

 時の流れとは、こんなにも早いものなのか。物事はこうも早く流れ、移り変わっていくものなのか。少年と出会うまでの長い間、何も変わることの無かったわたしは、心から驚きながらも、自ら進んで彼と共に日々を駆け抜けた。

 ――けれど。

 一瞬の煌めきの後には、必ず終わりがやってくる。それは二人が出会ったときに既に決まっていたことだ。彼はただの人間に過ぎず、わたしはどうしようもない欠落を抱えている。僅かだけれど輝かしかった、あの共に過ごした時間の為にも、終わりは潔く受け入れなければならない。
 
 ――ああ。けれど、少しだけ不思議。
 彼はこんなにも変わってしまったのに、その蒼い瞳だけは、あの時と寸分も変わらず、宝石のように綺麗で――。



「止まれ。そこまでだ」
 重く力強い声が、玉座に響いた。
 ぴたり、
 力の限り振り下ろしたはずの剣はしかし、自分の意思に反して、中空でぴたりと静止した。
 決して、他の力が働いたわけでは無い。私は……確かに私自身の意思で、振り下ろしかけた宝石剣を止めていた。
「え?」
 どうしてそうしたのかは、分からない。
 気付けば、視界に映るあらゆるものが、その動きを止めていた。目の前で立ち尽くすアルクェイド・ブリュンスタッド、それを支える殺人貴。床に跪いた士郎でさえ、動きを止め、ぴくりとも動かない。
 今の声は誰のものだ。重く低い、男性の声。絶対的な力と重圧を伴うその声に、私は抗うことさえ儘ならなかった。
 声のした方向に視線を向けようとして、目の前のアルクェイド・ブリュンスタッドが目に映った。
 ――駄目だ。今、目を逸らすわけにはいかない。この好機を、逃すわけには行かない。
 身体を動かせないわけではなかった。動かそうと思えば、すぐにでも私は宝石剣を彼女に向かって振り下ろすことが出来るだろう。
 しかし、今動けば決定的な何かが壊れてしまうような、そんな予感が確かにあった。
 異変は、突然響いた声だけではなかった。
 辺りが、暗い。
 あれほど大きく天蓋のように城を覆っていた朱い月が翳り、そこかしこに色濃い闇を作り出していた。
「……ッ」
 何かが、可笑しい。
 私は本能的な危機感を覚え、何かに追い立てられるように、再び静止していた剣を振り下ろそうと力を篭め、

「そこまで、と言っている」

 再び、ぴたりと静止した。
 身体から、脂汗が噴出する。どうして止まってしまう? ここで振り下ろさなければ、私たちに勝機は無いというのに。
「――っ!」
 ここで、振り下ろさなければ――!
「止めろ! 遠坂!」
 視線を向けると、士郎が真剣な瞳でこちらを見つめていた。
「……え?」
「止めろ、遠坂」
 ゆっくりと、首を振る。それは、酷く緊張感を伴った、慎重な所作だった。
 くっ、と息を飲み、視線を標的に向ける。
 アルクェイド・ブリュンスタッドは、俯いたまま動かない。後ろの殺人貴はすでに私を見ておらず、聖堂の奥の一点を、ただじっ、と見つめていた。
 二人に、既に敵意は見られない。しかし――。
「……!」
 このまま振り下ろすべきか、それとも止まるべきか。腕が震える。
「遠坂!」
 結局、私は士郎のその必死な剣幕に負けて、ゆっくりと剣を降ろした。指の骨が砕けるんじゃないかって言うくらい、剣を握り締める。同時に、激しい怒りが込み上げてきた。どうして、ここまで来て止めるような真似をするのか。この一振りで、この戦いは終幕を迎えると言うのに……!
「……ッ、どうして止めるのよ。ここまで来て、どうして……!」

「それが、お前たちの身の為だからだ、凛」

 カツ、カツ、と。
 砕け、鎖が散らばった回廊を、一つの足音が近づいてくる。正確なリズムを刻むそれは、傷つき今にも倒れそうな私たち以外の、第三者のものだった。
 暗闇の中では、その姿が確認できない。ただその声には、どこか聞き覚えがあるような気がした。
「もういいだろう。ここは私に預けてくれ」
 ずずず、と翳っていた闇を、光が暴いていく。月明かりが再び、玉座に降り注いだ。そこには、朱色に染まった禍々しい月の姿は無く――。ただ、白く巨大な満月が、私たちを見下ろしていた。
 空気も、幾らか正常さを取り戻したような気がする。そこには、大きな忌避感も禍々しさも存在しなかった。
 思い出したように、傷ついた右肩が痛みを訴える。
「何をしている。遠坂凛」
 ゆっくりと、確かな足取りで、
「そんなものを振り回している時間があるなら、自身の研鑽に宛がうのが魔術師と言うものではないのか?」
 一人の老魔術師が、月明かりの下に現れた。
「大師父!?」
 老人の割には、すっくと伸びた背筋。|矍鑠《かくしゃく》とした、強さを持った声。その瞳は、変わることの無い真っ直ぐな自信の理念を映している。彼こそ、かつて『月落とし』を食い止めた魔法使い、『宝石翁』ゼルレッチである。
 かつ、と漆黒のステッキが地面を打つ。
「ふむ。久しぶりだな。宝石剣なんぞ持ち出して、ここで何をしている?」
「あ――。私たちは、その」
 優しげな、しかし強く私たちを糾弾するように見つめる、強い意思の篭った瞳に見つめられた瞬間、頭の中が真っ白になった。
 ――どうして大師父がここに?
 頭の中がこんがらがり、その辺りの事情を考えることが出来ない。私を見つめる大師父の瞳には、全てを見透かすような、そんな絶対的な力が秘められているような気がした。
「その……。私たちは」
 不味い。なんかよくわからないけれど、凄く不味い。
 ――もしかして、大師父、怒ってる?
 大師父は、しどろもどろになった私を見つめていたが、ふむ、と小さく息をついて、うな垂れたまま動かない真祖の姫に視線を向けた。
「まぁ、いい。それよりも、『それ』だが、私が一時預かるぞ」
「え?」
「君、悪いがそれを連れてきてやってくれ。一番近い客間に連れて行く」
 そう言って、一人聖堂の入り口に向かって歩き出す。
「え……」
 いきなり話しかけられ、殺人貴は一瞬、きょとん、とした顔で大師父を見つめていたが、すぐに真祖の姫へと視線を写した。真祖の姫の傷ついた姿に一瞬、悲しげに顔を歪める。
 後ろから俯き動かない真祖の姫を抱え上げようとして――。
「!?」
 驚きに、目を見開いた。
 驚いたのは、私も同じだった。
「……嘘」
 殺人貴が切り落としたはずの真祖の姫の腕が、元に戻っていた。白い上着も、きちんと袖までついている。わき腹に擦過傷があるものの、身体は五体満足、どこも欠けてなどいなかった。
「な……! 確かに、俺は」
「どうした。早くせんか」
 静かな声で、大師父が殺人貴を促す。一瞬、問うように大師父を見返した殺人貴だが、
「解った。すぐに行く」
 先ずは、真祖の姫を休ませることが先決、と考えたのだろう。しぶしぶと言った様子で大師父の後に続いた。
 真祖の姫を抱えた殺人貴と、大師父が聖堂を出て行く。私たちは、その後姿を呆けたように見つめていた。
 あっという間の出来ごとだった。
 私たちが、ぽかんとしている間に、宝石の翁は全ての事態を収集してしまった。
「……そう。忘れていたな。そこの二人、終わったら話がある。傷を癒して待っていろ」
 振り返ることなく、重たい声で大師父は言った。
「は、はい!」
 背筋が一瞬で伸びる。
「というわけだ。手は出すなよ」
 最後に意味深な言葉を付け足して、混乱と恐怖でガタガタと震える私を見やることもなく、大師父は回廊の奥へと去っていった。
「何だったのかしら」
「さぁな」
 二人の姿が見えなくなったあと、私たちは聖堂の入り口を見つめながら、お互い呟いた。
「ああ、不味いなぁ……」
 頭を抱えて座り込む。
 神出鬼没な、あの大師父が現れたというだけで、自分がとんでもないことをしでかしたのだということが理解出来た。
 あー……。大師父が帰ってきたら殺されちゃうかも。
「そうだ。逃げよう。大師父のいない土地へ、このまま隠遁して――!」
 勢いよく立ち上がる。しかし、すぐに思い直した。一体どこへ逃げればいいのか。
「並列世界まで追ってこれるからなぁ、大師父は」
「いたたたた……」
 跪いていた士郎が、ゆっくりと身体を起こした。並列世界への逃亡を半ば本気で考えていた私は、思考を中断させて士郎の下へと駆け寄る。
「ちょっと、大丈夫? 士郎」
 駆け寄り、肩を貸そうとする私を、士郎は片手で制した。
「遠坂こそ、大丈夫か? 肩の傷が酷そうだが」
 苦痛に顔をゆがめながら、ほとんど肉が削げてしまっている右肩を指差す。
「ああ、大丈夫よ。魔力もまだ残ってるし、私には魔術刻印もあるんだから、すぐに治るわ。右手は暫く動かせないけど……。それより、アンタはどうなの?」
「問題ない。身体よりも魔術回路の損傷が酷いが、静かにしていればすぐに動けるようになるだろ」
 立ち上がれない士郎の襟元を掴み、引きずるようにしてゆっくりと瓦礫の中を歩く。一際大きな岩まで近寄ると、二人並んで腰掛けた。白磁の岩は、元は天蓋の一部を構成していたものだ。
「大師父、怒ってたわよね……」
 はぁ、と大きくため息を一つ。一人言のように呟く。
「あれが、宝石翁ゼルレッチか。これはまた、意外な大物が出てきたものだな。いや、朱い月が降りてくる可能性があったことを考えると、これも当然の結果か」
 ふっ、と小さく士郎が笑った。それは、恐らく自嘲の笑み。あと少しで朱い月が降りてくる、という事態を許してしてしまった、己に対するものだろう。
「そういえば、前に聴いたことがあるな。魔導元帥ゼルレッチは、いたく真祖の姫がお気に入りなんだとか」
「面識がある、とは聞いたことがあったけれど、そこまで親しいとは知らなかったわ……」
 愕然とうなだれる私を、士郎は呆れた、というような顔で見下ろす。
「弟子である遠坂がか? 俺でさえ聞いたことがあるっていうのに」
「無いわよ! 私だって、殆んど会ったことないもの。……ああ、失敗したなぁ。こんな話、乗るんじゃなかった……」
 私だって、ここで真祖の姫と戦えば、宝石の翁がやってくるんじゃないかっていう可能性くらい考えた。他の人間が気付いていない真祖の姫の吸血衝動の限界も、大師父なら気付いていても可笑しくはない。
 けれどここに来て、大師父が真祖の姫の方に付くとは思っていなかった。正義の魔法使いと呼ばれる大師父なら、私たちの味方になってくれると思っていたのに。
「そういえば。ねぇ、士郎」
 私の脳裏に、一つの疑問が浮かぶ。大師父が現れて、全てを綺麗に掃除していったとしても、どうしても腑に落ちないことがあった。
「真祖の姫の腕なんだけれど、確かに一度、切断されたわよね?」
「……ああ。そうだな。確かに、腕は一度切断されていた」
 それは、私たち共通の認識だった。背後から現れた殺人貴は、確かに神速のナイフ裁きで、真祖の姫の両腕を切断した。
「けれど、さっき殺人貴が連れて行ったときは、きちんと腕は付いていた。――これって、どういうことなの?」
 いくらここが最も月の恩恵を受けることが出来る土地だからといって、吸血種特有の復元呪詛もあそこまで早く、完璧に切断された腕を再生させることは不可能だろう。
 それに、切断されたとき、多量の出血こそ無かったものの、ナイフは彼女の衣服までをも切断している。衣服の復元は、空想具現化をもってすれば容易ではあるだろうが、あの状況でわざわざ衣服を復元させる必要性は無い。
「一体、どんな手品を使ったのかしら」
 真祖の姫が立っていた場所に視線を向ける。切断されて落ちた腕は、影も形も見えなかった。
「もしかして、大師父が?」
「さぁな。俺には確かなことはわからないが……一つだけいえることは」
 一瞬、隠し切れない疲労の色を顔に浮かべて、
「どうやら俺たちは、担がれていたらしい、っていうことくらいか」
士郎は何かに挑むように、その顔を引き締めた。
「え?」
 その言葉の意味が、解らない。
 士郎の視線が、崩壊した聖堂の奥へと向けられる。追うようにして視線を辿ると、そこには。
「やぁ。随分と疲れているみたいだね」
「!?」
「お楽しみのところ悪いんだけれど。まさか、これで終わりだとは思ってないよね?」
 そこには、無邪気に微笑む一人の少年が立っていた。



 何時からそこにいたのか。月明かりを受けて、天使のような少年が立っていた。
「そう警戒しないで欲しいかな。君には何もしないよ」
 カチ、カチ、と金属のぶつかる音。指に嵌められた指輪を戯れるように鳴らしながら、少年は私を見て、年齢相応の笑みを浮かべた。
 それが、この場では酷く異質だった。
 意識が弛緩していたとはいえ、私と士郎がこの場で他人の存在に気付かないわけがないし、そもそも、この千年城に一般人が侵入することなどあり得るはずがない。
 間違いなく、まっとうな世界を生きる人間でない……。いや、恐らく人間ですらないだろう。少年は、人間と言うにはあまりにも美しすぎた。
「……」
 かちり、
 静かに懐に手を差し入れ、小さな宝石を二つ、握りこむ。
「ありゃ。信じてないなー。本当なんだけど」
 傷つくなー、なんて、到底傷ついているようには聞こえない口調で言って、
「どうしたのかな? 黙りこくって。エミヤ、君からも何か言ってあげてよ」
 少年は士郎の方へ、ちらりと視線を向けた。
 その視線を受けて、士郎は重々しく口を開く。
「……お前がその姿で人前に出るなんて珍しいな」
「そうだね。僕もこの姿で君たちの前に現れるつもりは無かったんだけれど――。ちょっといろいろあってね。代理の方の都合が立たなかったんだ」
 だから、こうして姿を現したわけ。
 そう言って、少年は左手を軽く掲げてみせる。鉄色の指輪が月光を弾き――。そして、
 その腕が、透けていた。月光は、左腕を透過して地面に落ちる。
「それに、彼女は魔法使いの弟子だろう? 第二魔法もそこそこ扱えるようだし、挨拶代わりに僕が顔を出しておく、っていうのも悪い話じゃないかなと思って」
 無邪気に笑う少年の瞳が、呆然と立ち尽くす私を捉えた。その瞳はとても澄んでいて、その笑顔の裏に何が潜んでいるかなど、窺うことも出来ない。
「ちょっと士郎。知り合い?」
「ああ。まぁ、面識があるという点では肯定だ」
 どこか苦々しそうな顔で、士郎は答える。
「遠坂も聞いたことはあるだろう? 使徒二十七祖の二十位――。メレム・ソロモンの名前くらいは」
 その言葉に、思わず絶句した。
 使徒二十七祖の二十位、メレム・ソロモンだって? なんて化け物に出遭ってしまったのか……!
「何もそっちの所属で言うこと無いんじゃない? エミヤ。彼女、怖がっちゃってるじゃない」
 不満そうに眉を寄せ、少年は言う。
「僕には、埋葬機関の五位っていう肩書きもあるんだから……ん? どちらもあんまり変わらないのかな。まぁ、やってることは似たようなものだし」
 聞くものによっては命取りになるだろう、そんな問題発言を、さらりと言ってのける。そんな台詞が吐けるのは、世界中探しても彼くらいのものだろう。
 何せ、彼は真っ向から対立する両方の機関に属すると言う、異端中の異端なのだから。
「どうした遠坂。聞いたことくらいはあると思うんだが」
「知ってるに決まってるでしょう! 何なのよ、これ……! こんなの、御伽噺の領域じゃない」
「御伽噺、ね」
 くすくす、と無邪気に少年は――いや、メレム・ソロモンは笑う。
 この物語には魔法使いも出てきているんだよ? 『御伽噺』なんて今更じゃないか、と。
「それにしても、これ呼ばわりとは随分だね。トオサカ」
 瞳を細めて意地の悪い笑みを浮かべる。
「う」
 ああ、何やってるんだろう。あの死徒二十七祖を『これ』呼ばわりなんて……。喧嘩でも売るつもりか。
「それで、君の名前は?」
「凛……です」
 外見が自分より一回りも小さい少年に敬語を使うのは違和感があったけれど、この場合は致し方ない。相手は齢数百年クラスの化け物だ。こちらは二人ともすでに満身創痍。宝石翁も戻ってこないし、機嫌を損ねでもしたらと思うと、考えるだけで恐ろしい。
「そう。凛か。いい響きだね」
 ニコリ、と少年は無邪気に笑い、
「それじゃ、凛。ちょっと退いててもらえるかな。邪魔さえしなければ何もしないから。僕はそこの――エミヤと話しがあるんだ」
 そう言って。
 メレム・ソロモンは、その天使のような顔を歪めて、悪魔のように笑った。
 ゆっくりと二人から離れると、懐から何も握られていない左手を取り出す。抵抗する意思が無い、ということを彼に示すためだ。この少年相手に抵抗など、何の意味も持たない。
 あるとすれば、宝石剣だけだが――。メレム・ソロモンは邪魔さえしなければ何もしないといっているんだ。ここは、大人しく従うのが利口だろう。
「さて、エミヤ。僕が何をしに来たのか、それくらいはわかるよね?」
「……」
 問いかけるメレム・ソロモンに、士郎は視線を合せようともせずに、静かに目を伏せた。
「ちゃんと答えてくれないかな。正直、すぐにでも殺してやりたくて仕方が無いのを、我慢してるんだ。質問にはきちんと答えてよ」
 ここに来て初めて、メレム・ソロモンは負の感情を露に、不愉快そうに眉を歪めた。
「……!」
 ぞくり、背筋を冷たいものが落ちる。少年の冷たい殺気が、横で見ているだけの私さえも凍らせる。
 彼が怒りを覚えている理由は、私にも推察できる。
「俺を、殺しに来たのか」
 瞑っていた目を開き、士郎が言った。
「――うん。正解」
 聞いたことがあった。
 メレム・ソロモンは真祖の姫に心酔している。それも、異常なほどに。
「君は、姫君を傷つけた」
 その瞳に一瞬、強い怒りの色が浮かぶ。しかしそれも一瞬で、メレム・ソロモンは士郎に注いでいた視線を静かに逸らした。
「まぁ、僕にも責任はあるかな。君に千年城の場所を教えたのは僕だし。だから、責任は取らせてもらうよ。君の事は気に入っていたけれど、お姫様に手を出したとなっちゃ、話は別だ」
 ゆっくりと、その右足が透けていく。
「さぁ、贖罪の時間だ」
 メレム・ソロモンは、口元だけで悪魔のように優しく笑った。

 ゴッ、

 凄まじい重圧が、この地を支配した。
「……!」
 メレム・ソロモンは士郎を殺す気だ。
 事を起こすには、それだけで十分だった。私は反射的に左腕を懐に入れると、宝石剣を取り出す――。
 躊躇いは無かった。静かに起動していた魔術刻印に魔力を注ぎ込み、間髪入れずに剣を振り上げる。ここまで来たらこれしかない。僅か足止めす
ることが出来れば、あるいは――!
「Es last frei……――!」
「止めろ! 遠坂!」
 しかし、剣を振り下ろそうとする私を、士郎はその手で制した。同時に、目の前に力を持った何かが現れる。これは――。
「潔いね。彼女だけでも助けようって?」
「……彼女には、関係の無い話だ」
「ちょっと、士郎! アンタ……!」
 目の前に展開された|熾天覆う七つの円冠《ロー・アイアス》は、私を囲むように展開されている。それは、士郎が自分を守るために投影したものではない。私の魔法から、メレム・ソロモンを守るために展開したものだ。
「馬鹿ッ、死ぬ気!?」
 駄目だ……! 宝石剣をもってしても、一撃で破壊できるようなものじゃない……!
 ずずず、と。月が、陰る。
 その光景を見るのは、二度目だった。一度目は確か、宝石翁が現れたときに――。
「もともと、リンは見逃してあげるつもりだったんだよ。彼女は、君に唆されて来ただけみたいだから」
「よく言う。さっきは俺と遠坂どころか、殺人貴さえも一緒に食おうとしていたくせに」
「……ああ、あれは思わず、だよ。幾ら温厚な僕でも、アレはちょっと我慢できなかった。腕を切断されたのが本物の姫君じゃないって、頭では分かっててもつい、ね」
 渋面を作っていた士郎の頬が、ぴくり、と動いた。
「本物の姫君じゃなかった……?」
「へぇ。そこまでは気付いてなかったんだ? まぁ、あの殺人貴でさえ気づかなかったんだ。無理もないけど」
 少しずつ月光が遮られ、闇が濃くなっていく。
 ――いや、これは月が雲に遮られているんじゃない。ここにきて、私はメレム・ソロモンの能力を思い出す。
 彼は『悪魔使い』。使役するのは、四大の魔獣――!
「そうだったんだ。今頃、気付いた」
 見あげると、そこには天蓋の月をも覆いつくす深い闇。巨大な獣が、その口腔に私たちを捕らえている……!
「最後に一つだけ聞きたいんだけれど」
 暗闇の中、メレム・ソロモンが歌うように語りかける。
「『姫君の吸血衝動が、限界に来ている』なんて情報を、君に教えたのは誰なのかな? そんなデマを流した諸悪の根源は。少なくとも、僕はそんなこと言った覚えが無いんだけれど」
「ふん」
 士郎は、僅かな沈黙の末、
「悪いが、言うわけには行かないな。俺がその名を言ったら、お前はそいつを殺しに行くんだろう?」
 難しい顔で言った。その答えにメレム・ソロモンは、口の端を吊り上げるようにして笑った。
「勿論。責任は取ってもらわないとね。それにしても――。ふぅん。随分と庇うんだね。君が、あのアルトルージュ≠ノそこまでする義理なんてあるの? それとも、それも契約の一部なのかな?」
「っ! どうしてそれを」
「やっぱりね。結局、君もアレに唆されていた、ってわけだ」
 ムカつくなぁ、と小さく呟いて、メレム・ソロモンはくるりと踵を返した。
「それだけ聞ければいいや」
 軽い口調で言って、もう用は無いと言わんばかりに、そのまま聖堂の奥へと歩き出す。
 ずずず。
 ずずず、と少しずつ、天蓋を覆っていた闇――巨大な生物の上顎――が、波のように引いて行く。
 私はただ呆然と、その光景を見つめていた。メレム・ソロモンは、一度も後ろを振り返ることは無かった。
「……俺を、殺すんじゃなかったのか?」
 去っていく少年の背中に、士郎が問う。
「君も不器用なヤツだね。そういう時は、無駄なことは喋らなければいいのに。まぁ、そういうところ、僕は嫌いじゃないけど」
 小さく笑う気配。
「ゼルレッチが『後で話がある』って言ってるんだ。僕が殺してしまうのも問題でしょ? 釘も刺されたし」
 どこか残念そうな、けれど少しだけ楽しそうな口調。
「それに、今回の件はあの|アルトルージュ《 紛い物 》≠ェ絡んでるんだ。少しは君に同情してあげるよ。ただ」
 最後に、
「今度姫君に手を出したら、誰が邪魔しようと容赦しないよ」
冷たくそう言って、メレム・ソロモンは静かに闇の中へと消えていった。




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