7/血濡れの刃


 絶叫が、聖堂に響き渡った。
 夜闇の魔王のように恐ろしい、この世界を生きる命あるもの全てを震え上がらせる、断末魔にも似た咆哮――。
「……!」
 恐怖で足がすくむ。
 心臓を鷲掴みにされたよう、という例えは、このようなことを指すのだろう。呼吸さえも侭ならず、喘ぐように酸素を求める。まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったみたい。
 生存本能が警鐘を鳴らす。ニゲロ、コロサレルと絡みつくような悪寒が全身を駆け巡る。
「ああああああ――――!!」
 切り裂かれた横腹を庇うように押さえ、苦しみに顔を歪めながら、真祖の姫は天上の月へと、その白い牙をむき出し咆哮を上げる。
 恐怖と忌避の衝動に支配された私の肉体は、身じろぎ一つ侭ならず――それでも私には、彼女の咆哮が、苦悶と悲壮に満ちた少女の悲鳴に聞こえてならなかった。
「――ああ」
 なんて悲しい、泣き声。
「――――!!」
 崩落した天井の、ぽっかりと空いた穴からは、白い月明かりが降り注いでいる。舞い上がった砂塵に溶けて、大気は白く濁っていた。
 白く靄がかかったような白亜の聖堂。白い月明かりに照らされた白の姫君。白い顔から覗くのは、鋭くとがった白い牙。
「あ……」
 ああ、不味い。呼吸が巧く出来ないから、目の前が白く濁って、
「遠坂!!」
足元から聞こえたその声で、呼吸の仕方を思い出した。
 引きつけを起こしたように一気に空気を吸い込む。鼻腔を満たす錆びた鉄の匂い――そう、鮮やかな血の匂い――そして、どこか荒涼とした聖堂の空気が肺いっぱいに広がった。
 視線を床に落とす。倒れた士郎が悶えながら、私を見上げていた。
「逃げろ、遠坂……!」
 掠れた声で叫ぶ。
「早く、逃げろ! 出来るだけ……、出来るだけ遠くに……!」
 逃げろ? 一体どこへ?
 今の咆哮を聞いただろう。こうなってしまっては、もう手遅れ。手遅れ過ぎるほどに手遅れだ。こうならぬよう、私たちはここまでやってきたって言うのに……。
 もう、どこへも逃げられない。
 空気が変質していくのが分かる。今、この地は朱い月を受け入れる準備に入ったのだ。
 そんなの、士郎だってよくわかっているはずだ。なのに。
「俺が時間を稼ぐ……! 行け! 遠坂!」
 なのに、それでも士郎は私に逃げろと言う。立ち上がることも出来ない体で、時間を稼ぐと言う。
 それは、実に彼らしい台詞だと思った。自分よりも他人の命を重く計る、昔から変わらない彼の性質。
「何をやっている! 早く、行け!」
 時間を稼ぐ、という彼の言葉にはきっと、嘘も偽りも、気休めさえも無いのだろう。彼は本当に、時間を稼ぐことが出来ると信じている。そして、彼なら本当に私が逃げ切るくらいの時間は稼いでくれるのかもしれない。――彼は、そういう男だから。だけど、私には、
「おい、遠坂! いい加減に」
「…っ、うるさい!」
 そこが、気に入らなかった。
「動けないくせに、偉そうに命令してんじゃないわよ! 傷が開くでしょ!?」
 それまで圧し掛かっていた重圧が嘘のように、身体が動いた。
「大体、逃げてどうするのよ? どこに逃げろって言うのよ! あんたが命かけてゴミみたいに短い時間を捻り出したとして、何が変わるっていうのよ!?」
 別に今更、コイツにどうこう言うつもりは無いのだけれど。
 自分を犠牲にして他人が助かるならそれでいいなんて考え、私は認めない。そんなエゴイスト、正義の味方だなんて呼ばせない。
 そりゃ自分は満足でしょう。こんな最強最悪の化け物と戦って、時間を稼いで、私が逃げ切れたと信じて、結末を見届ける間もなく死んでいく……。ええ、そんな自己満足に浸って死んでいけるなら、まぁ悪くない。
 けれど、私はまっぴらゴメンだ。自己犠牲が好きなのは勝手だけど、それは私のいないところでどうぞ好きにやってください。
「あんたは生きて帰るの。それ以外の選択肢は、全部却下よ」
 士郎には待っていてくれる人がいる。必ず生きて、いつか帰ってきてくれると信じている人がいる。
 ただ待つだけの生き方なんて、私には耐えられないし、したくも無いから、あの子の気持ちはよく解らないけど……。それはきっと、想像よりもずっと、辛い生き方なのだろう。
 だから――。
 そんな思いまでして待ち続けている人がいるなら、最後には見合っただけの幸せをあげなくちゃ。待ち続けて、最後に訪れたのが取り返しのつかない悲しみだなんて、あまりにも報われない。
 それに、私一人が生き残ったとして、どんな顔をしてあの子に会えっていうのだろう。
「そんな貧乏くじ、引きたくなんか無いわ」
 私は彼のパートナーだ。庇護されるような存在じゃない。逃げろだなんて、最大の侮辱だ。時間稼ぎする力が残っているなら、することがあるだろう。
 ザ、
「遠坂……?」
 真祖の姫と士郎の間を隔てるように――。動けない士郎を護るように、私は一歩、前に出る。
「無謀だ! 勝ち目は――グ……ッ、無い!」
「そんなの、初めから在ってないようなものだったでしょう。いいから黙ってなさいよ。そんな今にも死んじゃいそうな身体で叫ばれても、困るのよね」
 汚れた外套を払い、ほつれた髪を背中に流す。ちらりと見下ろすと、士郎が凄い形相で私を睨みつけていた。なんか傷つく。私ってそんなに頼り甲斐無いかな。
「黙って見てなさい。すぐに終わるから――。ここからは、私の仕事よ」
 ゆっくりと、外套の中へと手を入れる。やがて、右手に硬い柄が触れた。
 思えば、これを本格的に使うのは、竜洞寺の大聖杯以来だ。八年振り、一発勝負。今までどんな苦難が訪れても、もう駄目だと思うようなことがあっても、決して使わなかった取って置き。
「さぁ、行くわよ。お姫様。怖い王様が来る前に、あなたを壊してあげる」
 取り出したるは、虹色の刀身を持つ一振りの小さな魔法剣。
 魔法使いの礼装。
 第二魔法の応用。
『宝石剣ゼルレッチ』……!
「はぁ、はぁ、はぁ、あ――」
 仰け反り、辛そうに荒い息をついていた真祖の姫の動きが、ぴたりと止まった。
 禍々しく金色に光る双眸が、私を捉える。同時に、私は逃げるようにしてその瞳から視線を逸らした。
 目を逸らしたのは、決して、恐怖からではない。
 それは、魔術師にとっての|禁忌《タブー》。
『その瞳を、決して見てはいけない』。
 彼女の瞳は、魔眼だ。それも最高レベルの『金色』。直視すれば、正気でいられる保障は無い。
 それにしても、なんて|重圧《プレッシャー》だろう。瞳を直接見ていないのに、重圧で身体が押し潰されそうだ。自分の意思とは無関係に膝を折り、跪いてしまいそうになる。
 ――ああ、それも仕方が無いか。
 彼女は正真正銘の王族で、今迎え入れようとしているのは、かの星の王様なんだから。
 手鏡を取り出し、真祖の姫の様子を伺う。
 小さな鏡の中で、真祖の姫の首が動き、その瞳が初めて私を捉えた。
「その剣……」
 一瞬、誰の声か解らなかった。
「その剣、どこかで……」
 老婆のようにしゃがれた声だった。
 その身体は凍りついたようにピクリとも動かないのに、白磁のような喉からは、囁くような声だけが漏れている。生物らしさを欠いたその姿に、私は本能的な嫌悪感を覚えた。
「見たことが、ある」
「あら、そう――。それは偶然ね」
 右手を広げ、鋭利さには程遠い刀身を掲げる。月明かりを弾き、七色に光る魔法剣。
 真紅の外套を翻し、揺ぎ無い意思を持って目の前の敵を見据えた。浅い呼吸を一つ。
「悪いけれど、欲しくてもあげないわよ。二度目の『月落とし』。魔法使いの弟子、遠坂凛が防いでみせる」
 こうして私は改めて、『魔法使い』として真祖の姫に相対した。
「……あ、あは……はははハハハハハ!」
 それまで苦しそうにしていた素振りから一転、唐突に真祖の姫は――。否、『最凶にして最後の魔王』は、高々と哄笑を上げた。
「まさか、魔法使いだったなんて! 面白い! いいわ、殺してあげる!」
 止っていた時が動き出すように、禍々しい風が聖堂に吹き荒れた。天蓋から降り注ぐ金色の月明かりに、僅かに陰りが生じる。
「バカな……」
 呆けたような、士郎の声。無理も無い。こんな可笑しなこと、そう簡単に信じられるものじゃない。
「ええ、全く。ここまで出鱈目だといっそ、気持ちがいいわ」
 天を仰げば、そこには朱い月。
 それも、少しずつその大きさを増している。

「月が、堕ちてくる」

 曰く、世界の終わりである。
「ああ! 面白い! 最高の気分だわ」
 こうして、アルクェイド・ブリュンスタッドは……。
「さぁ、早く! 早く! 魔法使いのミンチ、前菜にしては悪く無い!」
 否、かつてアルクェイド・ブリュンスタッドと呼ばれていたモノは、金色の瞳を限界まで開き、静かに堕ちて行った。



「……月が、堕ちてくる」
 衛宮士郎は、呆然とその様子を眺め呟いた。真祖の魔王は、本当に嬉しそうに顔を歪める。そして、
「――」
 遠坂凛は、牙を剥き出しにする真祖の姫を前にして……『最凶最悪の魔王』を前にして、極めて冷静に瞳を眇めた。
 身動き一つせず、じっと真祖の姫の様子を伺う。実力差は歴然。下手に動いても利になることは一つもありはしないということを、彼女はその身を持って理解している。
「初撃はあげようっていうのに。どうしたのかしら? 来ないなら、こちらから行くわよ」
 たおやかな所作で、真祖の姫は口元に手を添え微笑んだ。
 凛は動かない。そして彼女もまた、
「ええ、どうぞ。お好きなように」
 優雅ささえ伴うようにして、微笑んで見せた。
 彼女は知っているのだ。一度攻撃を仕損じれば、敗北は必定であると。
 ゆえに、動かない。恐怖のあまり動き出しそうになる身体を押さえ込んで、千載一遇、一撃必殺の機会を待つ。
「……そう、残念」
 カツ、
 真祖の姫は、心底残念そうに呟くと、くるりと背を向けた。
「!?」
 それまで冷静に真祖の姫の所作を、観察していた凛の顔に、戸惑いの色が浮かぶ。振り上げられた宝石剣が、僅かに震えた。
「・・……ッ」
 好機は恐らく一度。それを逸しては、彼女に勝ち目は無い。
「本当に残念だわ――。少しぐらい抵抗してくれないと、魔法使いを倒したのか、ただの肉袋を潰したのか、わからなくなってしまうというのに」
 ふぅ、と落胆したように頭を垂れる。芝居がかった、真祖の姫のその振る舞い。
 罠だと解っていても、宝石剣を携えた腕が震える。凛の逡巡は僅か。ただ一度、瞬きをした刹那、
「なぁんて。アハハハ」
 耳元で、怖気の走るような声がした。
「……ぃッ!!」
 引き結んでいた口元から、小さく悲鳴が漏れた。反射的に振り返り、宝石剣を振り下ろす。
「|Es last frei.《解 放、》 |Werkzug《斬 撃》――!」

 ――――!!

 空間が、爆ぜる。
 凄まじいまでの力の奔流が、聖堂を満たした。
「……遠坂!」
 想像以上の火力に、衛宮士郎は立ち上がることも出来ない自身のもどかしさをも忘れて、呆然とその圧倒的な力の奔流を見つめていた。
「これは……」
 どういうことだ。
 士郎は混乱の中、考えを巡らす。
 凛が使う宝石剣を使った第二魔法は、並列世界と魔力を共有し、際限なく魔力の供給を受けることが出来るというものだったはず。
 しかし、いくら並列世界とはいえ、これほどの魔力が存在する可能性が、ここではないどこかが、そう簡単に存在するものだろうか。
「へぇ――」
 しかし、予想を遥かに上回る火力をもってしても、
「驚いた。成程ね。やっぱり魔法使いは侮れないか」
 真祖の姫の着衣に、僅かな乱れさえ生じさせることも出来なかった。
「……!」
 空間移動――。速さを超越した、真祖の姫の移動方法である。
「しっかり狙わないと。次は首が落ちるわよ?」
 あははは、愉快そうに笑って、真祖の姫は凛を観察している。その距離、およそ十メートル。
「不味い」
 士郎は小さく舌打ちをした。
 堕ちた真祖というものは、もっと残忍で自己の抑制の効かないものだと思っていた。それならば、あるいは付け入る隙が在るかもしれないと。しかし……。思った以上に冷静だ。これでは、隙を見出すのも容易ではない。
「それにしても、凄い魔力量……。どこからそんなにかき集めてきたのかしら?」
「まだまだこんなの序の口よ。だって、この場所なら魔力の供給には困らないもの。『千年城』なら……。この『月から一番近い場所』なら、平行世界に、月の王様が降りたばかりの場所だって存在するだろうから」
 凛はニヤリ、と不適に笑う。額に浮かぶ冷や汗を悟られないようにと気を使いながら。
「朱い月の力……、そうか」
 士郎は囁くように言った。
 凛は、朱い月が降りるという結末を辿った異世界から、その際に千年城を満たすであろう魔力を、根こそぎ掻っ攫って来たのだ。物理的な攻撃も、魔術も彼女に通じないと言うなら、他でもない彼女自身の力……朱い月の力を持って倒そうというわけだ。
「どうりで。なんだか懐かしい魔力なわけね」
 半壊し、ほとんど崩れかけた玉座を見渡しながら、真祖の姫はどこか感心したように小さく頷いた。
「流石の貴女でも、朱い月が降りる前にこれだけの魔力を受ければ、無事には済まないでしょう」
「……そうね。少なくとも無事では済まない。でも」
 そう言って、再び真剣な顔で頷き――、その金色の瞳を、眼窩から零れ落ちるのではないかと思わせるほどに大きく、ぎょろり、と見開かせた。
「全然足りないわ! つまらない! なんて、なんてつまらない生き物!」
 敵意を剥き出しにして、吼える。大気が、電気が走ったように震えた。
 何が起こったのか、凛はすぐに理解する。これまでに何度か、同じような現象に遭遇している。その経験が、目の前で起きた現象に対して即座に行動を起こさせた。
「……!!」
 しかし、間に合わない。
 シングルアクションで魔術を行使することの出来る宝石魔術とは違い、宝石剣による魔法は剣を振り上げ、振り下ろすと言う一組、二つの動作を必要とする。
 油断していた。
 剣は振り下ろしたままの姿勢で止まっている。今から振り上げていては、間に合わない。
「遠坂!」
 その様子を見ていた士郎は、横になっていた身体を瞬時に立て直し、強く右手を突き出した。
 ――……!
 巨大な斥力場が、崩壊しかけていた聖堂を……否、千年城全体を震わせる。空間の断裂――それが届く前に、凛の目の前に巨大な六枚の花びらが現れた。しかし、
「ッ、不味い!」
 何かが弾けるような音が、した。彼が誇る最硬の盾は、一瞬で光の塵と化す。
 凛は、凍り付いた。
 六枚の花びらは一瞬で四散し、空間の断裂は一瞬で凛の下へと走る。ただ幸いなことに、六枚の花びらの防壁により力のベクトルは僅かに上方にずれ、断裂による衝撃は凛の顔のすぐ横を通り過ぎるに留まった。
「……ッ! い、た……!」
 凛の右の肩口から、派手に血液が飛び散る。思わず取り落としそうになった宝石剣を、必死で握り締める。
 庇うように左手で右肩を押さえながら、凛はただ呆然と、真祖の姫を見つめることしか出来ず、
「――くっ」
士郎は立ち上がり、右手を突き出したままの姿勢で、砕けんばかりに歯を食い縛った。
「あははは」
 それは、圧倒的な光景だった。
 悠然と、真祖の姫は二人を見下ろす。その顔には冷笑さえ浮かんでいる。
 右手は、もう振り上げることさえ適わない。凛は肩口から左手を引き剥がすと、すぐにその血まみれの左手で、宝石剣を握りなおした。
「っ!」
 その瞳は、今もなお冷静に眇められている。痛みに顔を歪めながら、自身の命があることを喜ぶこともなく、圧倒的な力の差に絶望することもなく、真祖の姫を真っ直ぐに睨みつけている。
 ゆっくりと、左腕を振り上げる。震える手で、乱れる呼吸を抑えながら、真祖の姫に宝石剣の一撃を叩き込むことだけを考える。
「……グッ」
 ごぼ、
 士郎の口腔から、どす黒い血液が溢れる。立ち上がりかけていた身体は再び、膝を折るようにして聖堂に跪いた。
「さぁ、次に行きましょうか」
 真祖の姫の腕が、ゆっくりと振り上げられる。
「あははは! いつまで持つかしら! 精々、虫ケラのように這いずり回って頂戴!」
「はぁ、ぁ」
 凛は宝石剣を握り締め、
「―――||投影、開始《トレース オ ン》」
 士郎は、俯いたまま、いつもの呪文を呟いた。
 一秒が、何倍にも感じられる。しかし、いつまでたっても真祖の姫の腕が振り下ろされることは無かった。
「……?」
 最初に気付いたのは、凛だった。笑っていた真祖の姫の動きが、手を振り上げたまま、ぴたりと止まっている。真祖の姫は、まるで動きを止めた機械のように、表情一つさえも凍りついたように動かない。
「あ」
 その口から、小さな音が漏れた。次の瞬間、彼女は身体を仰け反らせるようにして、
「うぅぅッあああ!!」
絶叫した。
「!?」
 凛は、何が起こったのか解らなかった。
「アァァ――ッ!!」
 先ほどまで優雅に笑っていた真祖の姫が、突然悶えるようにして苦しみだす。
「様子が可笑しいわね」
「なんなんだ、一体……」
 宝石剣の一撃を、真祖の姫は完全に避けていたのは確かだ。掠りもしていない。だというのに、真祖の姫があそこまで苦しんでいる理由が、二人には解らない。
「くっ、」
 振り上げていた宝石剣を降ろし、凛はそこで動きを止めた。
 真祖の姫の身に何があったのか。
 突然の狂態は、凛に言い知れない不安を与え、次の行動を起こすのを躊躇わせ。
「……ッ遠坂!」
 傍らで膝を突き、天を見上げていた士郎が、血液交じりの擦れた声で叫んだ。
「朱い月が、すぐそこまで来ている!!」
 頭上を見上げる。
 そこには、天蓋に開いた穴を覆い尽くす朱色の満月が、その独眼で凛たちを見下ろしていた。
「殺す……。殺す殺す殺すころス、コロス、コロスコロスコロス!!」
 体内で弾ける何かを押さえ込むように、真祖の姫は自身の喉を掻き毟り暴れ回る。生命的な嫌悪感を覚えるほどの禍々しい魔力が、凛の身体からあらゆる気力を奪っていく。
「あれは……」
 真祖の姫の身体から浮かび上がる、紅い蜃気楼。その感覚に、士郎は覚えがあった。
「固有結界!!」
「あはハハハッあハハハハハハハははは!!」
 崩れた聖堂を包むように、ゆっくりと固有結界が形成されようとしている。術者はおそらく真祖の姫ではなく、頭上に浮かぶ、
「朱い月か!」
「ッ……もう一度、宝石剣を……!」
 凛は降ろしていた腕をもう一度、掲げなおした。宝石剣は、使用するたびに術者の腕の筋肉繊維を切断するというリスクがあったが、二、三度使用したとしても戦闘に支障は無い。しかしここで、
「――あ」
 凛は致命的なミスを犯した。
 敵に狙いを合せようとして――真祖の姫と、目を合せてしまったのだ。
「……っ!」
 身体が動かない。
 腕どころか、瞬き一つ、呼吸一つ出来やしない……!
「あ、うぅ。……血、を」
 ゆっくりと、真祖の姫が近づいてくる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 一瞬たりとも目を逸らせない。その恐ろしい瞳から、逃れられない。真祖の口が小さく開き、白い牙が除いた。禍々しい、金色の瞳が凛を捉えて離さない。
「……!」
 あまりの恐怖に、声にならない声で、凛は叫び声を上げた。
「真祖ぉ!!」
 渾身の力を振り絞って上体を起こした士郎が、投影した陰陽の双剣を投擲する。
 しかし、弧を描いた飛来した双剣は、真祖の姫の手前まで来ると、何かに絡められるかのように、ぴたりとその動きを止めてしまう。
「うぅ、はぁ、は――」
 ゆっくりと、本当にゆっくりと、真祖の姫の白くたおやかな指先が、凛の肩にかかる。
「!?」
「ハァ、ハァ……」
 灼熱の吐息が、首筋にかかる。凛は、あまりの恐怖に気を失いかけそうになり――。頭の中に霞がかかったように、何も考えられなくなった。
「止めろ――!!」
 士郎が叫ぶ。
 がばぁ、と。
 真祖の姫の口が、裂けるように開かれ、

「駄目だ。アルクェィド……。それだけは、しちゃいけない」

 真祖の姫のすぐ後ろから、いつか聞いた青年の声がした。
「え――?」
 ザン、
 軌跡は鮮やか。
 視認さえ出来ぬ速度でナイフが振るわれた。
 空気を切り裂く音は一つ。
 しかし気付けば、凛の肩を掴んでいた、真祖の姫のたおやかな白い両腕は切断され、地に落ちていた。
「が、ぁ――!?」
 首だけで振り返った真祖の姫の顔が、驚きに染まる。
 そこには、青い瞳をした殺人貴が立っていた。
「遠坂、今だ――!」
 士郎が叫ぶ。その言葉で、凛は我に返った。凛を捉えていた視線は、既に殺人貴へと逸れている。振り上げたままの宝石剣に、篭められるだけの力と魔力を注ぎ込む。
「真祖」
 風を切る音が奔り、回避行動に移ろうとした真祖の姫の足に、士郎の双剣が楔のように打ち込まれる。
「――これで、終わりだ」
 逃げ道を探すように、真祖の瞳が泳ぎ、背後に立つ殺人貴を映した。
「……」
 ただ無表情に、殺人貴は真祖の姫を見つめていた。色の無い瞳。彼は、ただ静かに彼女を見つめ返す。
 金色の瞳を見開いたまま、助けを求めるように、真祖の姫の口元が、ゆっくりと動く。

 し、き

 それまで無表情だった殺人貴は……、只一人、全てを投げ打って彼女の護衛となった青年は、このとき初めて、後悔に顔を歪ませた。
 倒れてくる身体を、抱きとめる。凛の魔法剣が振り下ろされる。魔術的な礼装を帯びていない殺人貴に、凛の魔法を防ぐ術は無い。
 しかし、真祖の姫を抱きとめる彼の表情は、酷く穏やかだった。その口元が、微かに動く。

「|Eine,Zwei,《接 続、解 放、》」

 ナイフが、からんと乾いた音を立てて、鎖だらけの床に落ちた。

「|RandVerschwinden《大 斬 撃》―――!」

 凛は渾身の魔力を篭めて、宝石剣を振り下ろす。その瞳は、僅かに涙で濡れていた。





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