6/金色の光


 扉を開けた途端、漏れ出た凍えるような冷気が、すっと全身を這い上がった。
「なに、これ」
 ドクン、
 大きな鼓動と共に、心臓が縮み上がる。
 扉の向こうに現れたのは、どこまでも冷たい、朽ちた牢獄だった。
 壁一面を形作っているのは、白地の石材ではなく、無機質な色合いの分厚い金属。そして、それらを覆い尽くす、鎖、鎖、鎖。部屋中に、一抱えはあろうかという太さの巨大な鎖がいくつも横たわっている。それらは内壁の四方から伸び、ただ一点に向かって収束していた。
 座るもののいない、その磔台のような小さな椅子に。
 まるで巨大な蛇の死骸が幾匹も横たわり、あるいは吊り下げられているかのような光景。玉座を、鉛色の狂気と絶望が覆い尽くしている。
「――、」
 一歩、前に踏み出す。硬質な靴音が、寒々しく玉座に響いた。息を潜める牢獄の向こう、蟠る闇の中で、無数の瞳が一斉に私の方を向いたような気がした。
 玉座には色濃い闇が蟠っているものの、照明が無い訳ではない。吹き抜けの天蓋はガラス張りになっており、そこからは巨大な満月が臨めた。月光は闇を切り取るように、玉座の周りだけを照らし出している。
 ――これが、王の為に用意された部屋だって? これなら、囚人に宛がわれる牢獄の方が幾らかマシだ。
 月明かりに照らされる、冗談みたいに白い、無垢な玉座。本来なら美しいと感じるのが正しいであろうこの光景を見て、しかし、私はその手の感情を微塵も抱くことは無かった。
 ここに美しさなど皆無。むしろ、醜悪さの方が遥かに勝る。
 悪寒、嫌悪、忌避。ありとあらゆる負の感情が鎖となって、私の身体を締め上げる。
 玉座に満ちているのは、圧倒的な絶望と退廃的な狂気以外の何物でもない。しかし、月はそれらを等しく、優しささえ思わせるような独眼で、ただ静かに見下ろし続ける。月はそれらの全てを受け入れ、認めると言っている。
 月は知っているのだ。ただ見守り続けるだけで間違いなく、自分はこの城へと帰ることが出来るのだということを。
 ――それはなんて陰湿で、残酷な在り方だろう。
「何なのよ、ここは」
「この城の主の寝室だ。ただ一人の欲望を制するためだけに作られた、鋼の牢獄」
 思わず出た愚かな問いに、士郎は律儀にも答えを返してくれた。しかし、私の目に士郎の姿は映っていない。私は惚けたように、ただ鉛色に染め上げられた、寝室だと言うこの空間を見つめていた。目が離せない、といった方が正しいかもしれない。
 視線は、狂気に彩られた牢獄において唯一、冗談みたいに無垢な純白を謡っている玉座へと向けられている。さながら、炎に誘われる羽虫のように。
 そこには、一人佇む殺人貴の姿がある。
 侵入者である私たちに背を向け、空白の椅子を見つめている。その姿は酷く透明だ。
「……っ」
 凍える。先ほど回廊で感じた肌寒さは勘違いではなかった。冷気は、そこにある純白の椅子から漂って来ている。玉座が示すのは、明確な拒絶。それは、この城に他の生物が存在することを拒む意志の顕れに違いない。
「……真祖の姫の姿が無いな」
「ええ」
「逃げられたか? 殺人貴は囮――」
「それは無いでしょう。この先は行き止まりよ」
 巨大な鎖に埋め尽くされたこの部屋ならば、身を隠す場所などいくらでもある。
 私は、真祖の姫がまだこの玉座に居ると、確信に近い予感を抱いていた。
 彼女が本当に手遅れなら――。ここまで切実な限界を迎えているのなら、ここ以外に、彼女を繋ぎ止めて置ける場所なんて、どこにも存在しないだろうから。
「――」
 殺人貴は動かない。何かを祈るように、ただ磔台のような玉座を見下ろしている。何かを思い出すように、弔うように。小さな背中は動かない。
 その時、私は初めて殺人貴という人間の在り方に恐怖した。
 直死の魔眼がどう、ということじゃない。何よりも、この牢獄のただ中ににあってなお、狂気と絶望の中に何年も居続けてなお、ああやって自然に他人に笑いかけられる精神。アルクェイド・ブリュンスタッドを守ると言う意思を持ち続ける、その心の在り方に。狂気と違わない、その穏やかさに、私は心から恐怖したのだ。
 殺人貴は振り返らない。その手に握られたナイフだけが、ぶらり、悲しく月光に濡れている。
「こうしていても埒が明かない。とりあえず、俺が出よう」
 士郎が静かに前に出る。しゃらん、絢爛な音色と共に、両手に陰陽の双剣が現れた。
 半身で構えると、士郎は私だけに聞こえるよう、静かな声で囁く。
「奴らの標的が俺ではなく、遠坂に代わるようだったら、逃げてくれて構わない。遠坂は、あくまでもサポートだ。直接の戦闘は俺がやる」
 いつか見た、その大きな背中で。
「そして、ここでの出来事を外に伝えてくれ。一人でも多く。全てが手遅れになる前に」
「ふざけないで。逃げるにしても、一人で逃げるなんてゴメンよ。もしもの時はあんたの首根っこ掴んででも、連れて帰るから」
 例えその背中が、かつての冬木市の戦争と同じものだったとしても。例え寸分と違わぬものだとしても、同じ結末は辿らせない。少なくとも、今の私はかつての護られるだけの少女じゃないんだから。
「私たちが失敗しても、なんて『もしも』は許さないわ。正義の味方を貫くなら、必ず生き残りなさい。そして、帰って桜にたっぷり絞られるといいんだわ」
 弾けそうなほどの魔力が魔術回路を奔り抜ける。失敗は許されない。敗走はありえない。私は自分自身に言い聞かせる。
 それに――正直なことを言えば。
 今の私には、この二人を相手に逃げ延びるだけの体力は残っていなかった。
 勝利して生き残るか、敗北して死ぬか。元より選び得る答えは、それしかない。
「……何よ」
 士郎の背中が小さく揺れている。何が可笑しいのか。彼は声を殺して笑っていた。
「いや、すまない」
 こほん、咳払いを一つ。
「善処するさ。俺だって、元より失敗する気なんてないからな」
 その背中が、一回り大きく感じた。
 士郎が足をゆっくりと開いていく。獣のように身体を沈めると、迸る殺気に聖堂の空気が帯電したかのように、ぴりぴりと震えた。
 殺人貴は振り返らない。脱力したように伸ばされた両手。左手に握られたナイフが小さく揺れている。
 気付いていないはずがない。それなのに、こちらを見向きもしないというのは、どういうつもりなのだろう。己の死を受け入れたのか、それとも――。
「――……」
 士郎の表情に、戸惑いの色が浮かぶ。――しかし、それも一瞬。弾ける様な初速で駆け出した。
「ここで、斬り伏せる!」
「|Anfang《セット》――!」
 士郎が駆け出すと同時、決まりの言葉を紡ぎ、取り出した宝石を握りこむ。
 さすがに、残りのストックも少なくなってきた。それも魔力の強いものから使っていったから、残り全てを併せても大した魔術を使うことは出来ない。
「さぁ、どっからでもかかって来なさい……!」
 それでも、勝機を見出して見せる。
 狙うはこの聖堂のどこかに潜んでいるであろう、アルクェイド・ブリュンスタッド。直接の攻撃は無理だが、士郎と殺人貴の対決への横槍を防ぐくらいのことは出来るはずだ。
 いや、防ぐ。
 ここに来て足手まといなんて、私のプライドが許さない。
「プライド、か―ー。何を今更、って感じだけど」
 辺りを見渡し、予断無く周囲に意識を向ける。
 相手は空間を移動することが出来る。それはつまり、彼女はどこにも存在せず、どこにでも存在し得るということだ。
 真祖の姫が出現したら間髪居れず、ありったけの魔力弾を叩き込む。それだけが、私に出来ること唯一のこと。
「はぁあああッ」
 士郎の身体が殺人貴へと迫る。
 鋏のように交叉させた、陰陽二振りの双剣――。その無骨な鋼の刃が、胴体を両断せんと闇の中を奔った。
 同時に、殺人貴が動く。
 それまで力なく揺れていた腕が、別の生き物のように素早く跳ね上がった。 
 背を向けていた身体が翻り、その痩身が宙を舞う。身を翻した殺人貴は、襲い来る双剣に向けてナイフを振り上げ、
「!?」
するり、とその身体を刃の中に投げ入れた。
 迎撃も回避も無い。空中を舞うように背中から回転し、士郎の間合いへとその身を投げ出す。双剣が必殺の間合いへと入り、また同時に殺人貴のナイフが士郎の身体を捉えた。
「――まさか。嘘でしょ?」
 それぞれの得物が持つリーチの差ゆえに、殺人貴のナイフが士郎の身体に届くには、双剣の間合いよりも二歩――いや、殺人貴の速さならば一歩、深く踏み込まなければならない。
 その一歩は致命的なまでに大きな一歩だ。逆に言えば、その一歩を制することが出来れば、勝負は決まる。それほどに大事な、|最後の一線《デッドライン》。
 しかしそれを、殺人貴は躊躇いも無く踏み越えた。もちろん、決して得手ではあり得ない。殺人貴の一閃は必殺かもしれないが、これでは士郎の一撃も完全に致命傷。当たれば絶命は免れない。鋏のような二刀で胴体を真っ二つにされるのが明白だ。
 なんて、愚かな選択。
 殺人貴は、士郎との相打ちを選んだのだ。
 ザン、
 士郎の胴をナイフが奔り抜ける。士郎の硬く強張った表情が、驚愕に染まった。
 自身の身を省みない――。否、自らを犠牲にした殺人貴最期の一撃が、士郎の身体を斬り裂いた。
 思わず言葉を失う。成す術もなく立ち尽くす。相打ちとなるはずの交錯――にも関わらず、
「くっ……!」
士郎の双剣は、殺人貴には届かなかった。
 ギシ! ギシ、キ、ギ!
 幾十もの金属の擦れあう、悲鳴にも似た甲高い音色。二振りの双剣に巻き付き、その動きを拘束するのは、真祖の姫が繰る鋼鉄の鎖。刃と鎖が鬩ぎあい、幾つもの火花が飛び散る。
「ブリュン、スタッド――!」
 呪詛の言葉を吐くように、士郎が呻いた。
 振り上げた双剣を振り下ろすことも出来ず、士郎は殺人貴の前に為す術も無く立ち尽くす。
 玉座の左右から伸びた鎖は、絡め取るように双剣の進行を防ぎきり、
「くっ」
殺人貴のナイフは、士郎の身体を一撃の元に『殺し』尽くした。 
 殺人貴は動かない。ナイフを振り切ったままの姿勢で制止している。
 士郎の手から剣が落ちる。拘束された剣が鎖ごと、重たい音を立てて石造りの床を転がる。
「どうして」
 思わず呟く。
 あっけないほどあっさり、勝負はついた。
 ついて、しまった。
「何も、出来なかった」
 強く拳を握りこむ。
「真祖の姫が潜んでいることなんて、初めから解っていたはずなのに……!」
 何も出来なかった。
 何がサポートだ。何が魔術師だ。
 結局、私は何も出来なかった――。一番の間抜けは、この私だ!
「……馬鹿みたい」
 士郎の仇を討つだけの魔力も、それどころか、この場所から逃げる力さえも、今の私には残っていない。
 何も無い。
 もう何も、残っていない。
 魔術回路だけが、行き場を無くした魔力を持て余している。
 なんて無様な私。滑稽な私。恥辱の極みだ。私は戦わずして敗北する。産まれてから今まで培ってきたもの、犠牲にしてきたもの全てを、私は無駄にしてしまった。
 ――悔しい。ここで終わることが。全て無駄にしてしまうことが。そして、何よりも悔しいのが、
「……!?」 
 呆然と思考の海に沈もうとしていた私の意識を、現実が引き戻す。それまで微動だにしなかった殺人貴に、変化が起きた。
 何かに反応するかのように跳び上がると、士郎から大きく距離を取る。倒れそうになる身体を押し止め俯く士郎を、遠巻きに観察している。
 やがて、
「ちっ」
殺人貴は、苛立つように唇を噛み締めた。
「――え? どうして」
 どうして、殺人貴がそんな表情をするのだろう。勝ったのは彼の方のはずなのに――。
 そう思った刹那、
 ぐらり、
 士郎の屈強な身体がゆっくりと前へ倒れ、
「くっ、」
前に出した足が辛うじて、倒れていく身体を押し止めた。
「士郎!?」
「まったく……。生きた心地がしないとはこのことだな」
 忌々しそうに言葉を紡ぐ。殺人貴に切りつけられた場所を庇うように、片手で脇腹の辺りを押さえながら、
「まさか、相打ちを狙ってくるとは思わなかったぞ。殺人貴……!」
呻くように士郎は言った。鮮やかに引き裂かれた上着からは、浅黒い地肌が覗き、じわり、と鮮やかな血が滲んでいる。
「……驚かせないでよ」
 思わず、足から力が抜けて座り込みそうになる。
 士郎は生きている。まだ殺されてなんかいない!
「ロー・アイアスとかいったか、それ」
 立ち上がった殺人貴の無機質な目が、観察するように士郎を映した。
「――ふん」
 士郎は不機嫌そうに殺人貴へと一瞥をくれると、再びその両手に陰陽の双剣を投影した。
「その名前を簡単に言ってくれるな。これでも俺の唯一にして最大の護りだ。……お前にとっては紙切れ同然かもしれないがな」
「そこまでは言わないさ。少なくとも、お前はその紙切れに救われた訳だしな」
 殺人貴もまた、眉を顰め不愉快そうに言い捨てる。
「そうか、士郎を救ったのは――」
 |熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》!
 斬りかかる前に投影の準備をしておき、殺人貴が飛び込んできた瞬間に展開したのだろう。
「何よ。寿命が縮まるかと思ったじゃない……」
 しかし――。殺人貴の能力には驚かされる。士郎が持つ最も信頼の厚い守りを、まるで紙切れのように『殺し』、浅くとはいえ、士郎の身体を斬り裂くまで至った。『直死の魔眼』もそうだが、その卓越したナイフ捌きは驚愕に値する。
 そういえば、士郎の傷は大丈夫なのだろうか。殺人貴のナイフは、僅かに触れただけでも致命傷になりかねない一撃だったはず――。
「平気だ。問題ない」
  視線に気づいた士郎が、ちらりとこちらを見て言葉を返した。その顔には冷笑が浮かんでいる。
「それよりも遠坂。面白い事が解ったぞ。どうやら、『直死の魔眼』というのは、傷つけた存在を殺すという能力ではないらしい」
「どういうこと?」
「その能力で『殺す』には『視えた』特定の場所を正確に斬り裂かなくてはならないということだ。この傷にしてもそう」
 傷口をなぞる様にして、指を這わす。
「それって――」
「狙いさえ外すことが出来れば、ナイフそのものに神経を尖らせることはない。そうだろう? 殺人貴」
「さぁな」
 殺人貴は苛立たしげに眼を細めた。
「『傷つけた存在を殺す』能力ではない――?」
 |『熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》』を一撃の元に『殺した』殺人貴は、士郎の身体を浅く斬り裂いた。しかし、そこは『直死の魔眼』が捉えた『死』では無かったがゆえに、士郎そのものを『殺す』ことが出来なかった――。そういうことか。
 成程。それなら、今の交錯にも納得がいく。
 もしそれが事実なのだとしたら――。あるいはそこに、殺人貴を破る手がかりがあるのかもしれない。
「いつまで隠れているつもりだ、真祖の姫!」
 私の思考を遮るように、士郎が声を張り上げた。小さな聖堂に、よく通る声が響き渡る。
 僅かな静寂。
「ふん。来ないなら、炙り出してやる」
 士郎は流れるような速さで、玉座の直上に向かって弓を構えた。
「――|偽・螺旋剣《カラド・ボルグ》」
 半拍の間も置かず、士郎の手から放たれる螺旋の剣。
 ――と、同時に、

 ジャラジャラジャラジャラ……、

重く低い金属の擦れる音を伴って、無数の鎖が投影宝貝の進行を阻んだ。
 瞬間、閃光。
 螺旋剣と鎖が衝突し、貫くような衝撃が玉座を駆け抜ける。
 一瞬の浮遊感。拡散していく光――。
「……!」
 頭上からジャラジャラと、金属のぶつかり合う音が断続的に響いている。ぐらぐらと揺れる頭を振り、眩い光に眩んだ目を天蓋へ向けると、そこには、
「覚悟は決まったか。真祖の姫」
宙を奔る幾百もの鎖を眼下に従え、底冷えするような朱い瞳でこちらを見下ろす、真祖の姫の姿があった。
「――覚悟? 何の覚悟かしら?」
「この世に別れを告げる覚悟だ。不意打ちなどという卑怯な真似をしてまで現世に固執するなど、腐っても王族ともあろう者が生き汚い。……ここで俺が引導を渡してやる」
 挑むように士郎が言った。弓を双剣に持ち替え、その剣先を突きつける。
「へぇ――口先だけは立派なのね」
 真祖の姫が薄く微笑んだ。
 白磁のような美しい顔は、どこまでも冷たく、見るものを凍りつかせる程に鋭利だ。剣先を向け、揺ぎ無い意思で対峙する士郎を、冷ややかな眼差しで見つめている。
「けど、無駄口もそこまでよ。私は持てる全ての力を賭けて、貴方たちを破壊する」
 重く静かな宣言と共に、朱色の瞳に力が宿った。

 ――……!!

 あまりの衝撃に、意識が僅かに断線した。
 荒れ狂う暴風が、玉座を――視界にあるもの全てを、容赦なく蹂躙する。
「……っ!?」
 途切れかかる意識を、すんでの所で繋ぎ止める。なんとか顔を上げた私は、思わず目を見開いた。
「――嘘」
 目の前には、想像を絶する光景が広がっていた。
 玉座に繋がる全ての鎖が――否、鉄の塊が、聖堂内に存在する全てを叩き潰し、磨り潰さんと宙を飛び回っている。
 言葉を亡くす。
 数トンにも及ぶ質量をもった金属の塊が、目の前を高速で駆け回るという現実に、頭がついていかない。
「何よコレ……! これじゃ、巻き添えを食うだけで死んじゃうじゃない!」
 フリーズしそうになる意識を無理やり働かせて、最短時間で魔術を練り上げる。
「||Es ist gros《 軽量、  》, |Es ist klein《 重圧 》……!!」
 混乱なんてしていられない。戸惑ってなんかいられない。躊躇っている時間なんてありはしない…!
「|vox Gott《戒律引用、》 |Es Atlas《重葬は地に還る》……!」
 高速詠唱を使い、一秒で魔術を組み上げ行使する。僅かな助走の後、跳躍。私の身体は重力をリフティングし、軽々と宙を舞う。
 眼下を見下ろす。すると、さっきまで立っていた場所を鋼鉄の塊が駆け抜けるのが見えた。
「間一髪――。なんて、滅茶苦茶な攻撃」
 小細工なしの圧倒的な暴力。質量にモノを言わせた絶対的な蹂躙。あらゆるものを轢き潰し、粉砕する――これほど単純で効果的な方法が他にあるだろうか。
 威力、効果ならば、他にも優れたものは幾らでも在るだろう。しかし、いかなる神秘、魔法を持ってしても、それを行使する生物が肉体を持つ限り――人間に準ずる肉体強度を持ち、物理法則の支配下に置かれている限り――このような抗いようの無い圧倒的な暴力の前では、人間という存在は、あまりにも脆弱だ。
 さながら、巨象が蟻を踏み潰すようなもの。ここまでスケールが大きくなると、いかな小細工も通用しない。
「――っく、こんな死に方、まっぴら御免よ……!」
 不規則に暴れまわる鎖の群れを全力で回避する。蟻に出来るのは精々、巨象に踏み潰されないよう逃げ惑うことくらい。
 怯みそうになる自分を叱咤して前を見る。
 士郎の姿は、宙を駆ける鎖に阻まれ確認できない。
 恐らく、一番初めに彼が狙われたのだろう。鎖が部屋中を狂ったように暴れだした時には、すでに士郎の姿は視界になかった。回避行動に入ったか、あるいは鎖の蹂躙に巻き込まれたのか。真祖の姫や、殺人貴のいる位置も掴めない。
「不味いわね。このままじゃ」
 捕まるのも時間の問題だ、そう呟いた瞬間、再び異変は起こった。
「!?」
 ―――――ィイィィン、
 金属と金属が擦れ合う、夥しいまでの音の奔流。その間隙に混じって、私の耳は確かに、突如響いた低周波音を聞き取った。
 そして――。
 直後に聞こえたキシ、という、鎖が軋むそれとは異質の音。背筋を冷たいものが落ちる。純粋な恐怖で身体が震えた。
「――なるほど。本気、ってわけ」
 何が起こったか、その気配だけで気付くには十分だった。

 今――。どこかで一つ、空間が握りつぶされた。

「私たちを空間ごと押し潰すつもりか……」
 戦慄に身が凍る。鎖だけでも先が見えないというのに、空間の圧縮まで。空想具現化。噂以上の出鱈目さだ。
「圧縮範囲は半径一メートルの球状ってところか。巻き込まれたら、それこそ一溜まりも無いわ」
 鎖の蹂躙と違い、接近を予見することが出来ない空間の圧縮は、受ける|重圧《プレッシャー》が格段に大きい。
 脳裏を横切った最悪の想像に、足が竦む。だがそれでも、立ち止まる訳にはいかなかった。
 暴れまわる巨大な鎖の群れ。その間隙を縫うように、私は慎重な足取りで跳び回る。下手に空中を『飛ぶ』より、『跳んで』逃げたほうが、小回りが利く分、回避行動を取りやすい。
「まるで綱渡りね。……命綱は無いけれど」
 重力軽減の魔術によって軽くなった体は、辛うじて鎖の猛襲をやり過ごす。
 これだけの鎖の群れだ。鎖そのものが目隠しになって、真祖の姫とて私の姿を捉えることは困難なはず。彼女は手当たりしだいに空間を潰して回っているに違いない。でなければ、少なくとも二撃目で私の身体は消滅しているはずだ。
 ――さぁ、どうする。真祖の姫に宝石魔術は通用しない。士郎の『|無限の剣製《アンリミテッド・ブレイド・ワークス》』も『|壊れた幻想《ブロークン・ファンタズム》』も、鎖で埋め尽くされた空間では、真祖の姫まで届きはしまい。広くない聖堂だ。捉えられるのは時間の問題だろう。
 思わず絶望的な状況に歯噛みした、その時、
「――……!」
 空間が圧壊される低周波音に混じって、誰かの雄叫びが聞こえたような気がした。
「……士郎?」
 確信は持てなかった。
 辺りは金属の擦れる音、鎖が聖堂の壁を砕き、床を跳ね回る音、膨大な音量で満ち溢れている。そんな荒れ狂う音の海の中で、一人の人間の声を聞き取るのは、砂漠の真ん中で宝石を探すのに等しい行為だ。
「――向こう、ね」
 それでも、聞こえた場所に当たりをつけて駆け出す。急激な運動に肺が悲鳴を上げるが仕方が無い。グズグズしてたら、ミンチになってお終いだ。
 聞こえて来た雄叫びは、決して悲鳴だとか断末魔の叫びだとか、そういったものではなかった。
 きっとこの先に、士郎と一緒に真祖の姫や殺人貴がいる。
「……!」
 空間の圧縮に巻き込まれないよう、慎重にコースを取る。鎖が横を通り過ぎるだけで、空気を切り裂く重い音が身体を揺さぶり、一瞬遅れで、風圧が身体を叩いた。肺が圧迫されて、鋭い痛みが胸を奔り抜ける。
「ッ、なんて、衝撃」
 巧く息を吸えない。まるで、すぐ横を特急電車が通り過ぎているみたいだ。
 どこかで空間が握りつぶされているのが気配で解る。まったく生きた心地がしない。それでも、少しずつ前に進んでいく。
 対して広くない聖堂の中だ。士郎たちが、移動していることを考えても、そう距離は離れてはいないはず――。
 ズキリ、
 胸を、内側から斬り裂かれるような痛みが走る。内臓の痛み特有の、あの切ない痛み。患部が見えないだけ、どうなっているか自分でもわからない。自分が後どれくらい動けるのか、どれくらい生きていられるのか、それを冷静に予測して、秤にかける。リスクとリターンを正確に測り読み取る。
「はぁ――ぁッ」
 負けるものか。負けるものか。まだ動ける。まだ走れる。
 今、身体を動かしているのが気力だけであることを、私は知っている。身体はとっくの昔に参ってしまって、まともな生命活動をしているのかどうかさえ疑わしい。それでも、私の身体は軽々と跳躍と疾走を繰り返す。
「は、は――」
 自分でも不思議だ。
 本当に、私はまだ生きているのだろうか? 本当はとっくの昔に鎖に轢き潰されてミンチになっていて、今の私はただの執念が形となった魂の残骸なのではないだろうか。
 そう思えるほどに身体は軽く、限界なんて無視して跳び超えていく。当然、そんなのはただの妄想で、身体が軽いのは魔術によるフォローがあるからだし、限界を超えているように感じるのは、思っていたよりも|限界値《ボーダーライン》が少しだけ、上だったというだけの話。
 ――ッ、ギィン、――キン……。
 無数の鎖が奏でる不協和音。その中で、確かに剣戟の音色が聞こえてきた。
「あと、少し!」
 一際大きな鎖が迫り、それを紙一重で躱すと、私は一気に前へと踏み出した。幸い、その先に迫る鎖は無い。視界が開け、目の前の光景が明らかになる――。
「……はは、何なのよ。アイツ」
 そこには、目を疑うような光景が繰り広げられていた。
 三つの影が、躍るようにして聖堂を駆け回っている。
 一つは、陰陽の双剣を掲げ、鎖の合間を縫うように真祖の姫へと迫る士郎。
 もう一つは、暴走特急のように駆け巡る鎖をも足場にして、ナイフ片手に士郎の首を狙う殺人貴。
 そして最後の一つは、士郎の追撃を避けながら幾百もの鎖を操り、同時に空間の圧縮を続ける真祖の姫君。
 とんだ化け物揃いだ。誰も彼もが常軌を逸している。おまけに、そのうちの一人は、その化け物二人を相手に大立ち周りを繰り広げているっていうんだから、驚きを通り越して溜息さえ漏れる。
「ああ――そうか」
 ようやく、理解する。
 空間の圧縮に巻き込まれなかったのは、運が良かったからでも、ましてやただの偶然でもない。
 真祖の姫に、圧縮する空間の座標を定める余裕なんてあるわけが無い。だって彼女は、目の前の士郎を相手にするだけで手一杯だったんだから。
「オオォォ!」
 雄叫びを上げる士郎の膝元で、半径一メートルほどの空間が圧縮され、消失する。それを読んでいたかのように、士郎は直前で身を翻し、右手に構えた白塗りの剣、干将を真祖の姫に向かって投げつけた。
 くるくると孤を描きながら、剣は真祖の姫に向かって飛んでいき、それを阻むように伸びた幾つもの鎖に弾かれる。高い鋼のぶつかる音が響いて、白塗りの剣は鎖の海に飲み込まれる。
「ッ! 往生際が悪い……!」
 士郎は吼え、斜め下から迫る人間大ほどもある太い鎖を、新たに投影した刃で弾くことでやり過ごす。鎖はあまりに巨大で、刀身で弾いて軌道を逸らすことは出来ない。故に、士郎は巨大な鎖の軌道を逸らすのではなく、自身の身体の方をずらすことで直撃を免れた。
 そして、
「――それはお互い様だろう。贋作屋」
鎖の影から現れる、ナイフを構えた殺人貴。蜘蛛のような動きで士郎へと肉薄すると、その首目掛けて、煌くような一閃を放つ。軌跡は半円を描き、士郎が掲げたもう一刀の双剣が、それを受ける。
「止まりなさい!」
 横合いから奔る真祖の姫の爪。鉄をも斬り裂くその一閃を、士郎は鋼の刃で受け流す。降り注ぐ月光さえ削り取る一撃に、構えが崩れる。同時に、背後から殺人貴のナイフが突き出される。
「……!」
 しかし、刃は士郎の身体に届かない。士郎は迫り来る鎖を引き千切り、鎖の塊を|壊れた幻想《ブロークン・ファンタズム》で吹き飛ばした。砕けた鎖の欠片がその身体に降り注ぎ、体中に夥しいほどの擦過傷ができ、鮮血が滴り落ちる。それでも士郎は、
「オォォ!」
あらゆる剣をその手に携えて、ただ真祖の姫を追う。それは、神話に謡われる英雄の雄姿――。
「アンタも十分に化け物じゃない」
 援護するまでも無く、士郎は、殺人貴と真祖の姫を相手に全く引けを取っていない。殺人貴のスピードに、吸血鬼の並外れた腕力に拮抗している。
「悔しいけど、今のあなたなら、本当に英雄になれるだけの力がある」
 いくら私が魔術で肉体強度、速度をサポートしているからとはいえ、吸血鬼とまともに力で押し合えば、士郎に勝てる道理など無いはずだ。しかし、士郎は自身の研ぎ澄まされた剣技で力を受け流し、力の差を零にまで縮めている。
「っと!」
 鋭く重たい音を立てて迫る鎖を、ワンステップで避ける。風圧が後ろに流した黒髪を巻き上げた。
「だいぶ、避けやすくなってきたわね」
 真祖の姫とて、士郎と戦いながら、これだけの鎖を完全にコントロールすることは出来ない。
 よくよく観察してみれば、鎖は単調な動きしかしていなかった。少しずつだが、聖堂の壁に激突する鎖の数も増えてきている。これなら、鎖の軌道を見誤らなければ、致命的な傷を負うことは無いだろう。
 衝撃を限界まで殺して着地。私はボロボロの外套に腕を差し入れた。
「そろそろ決めないと。いい加減、私も辛くなってきたし」
 そうだ。私は、私の役目を果たそう。
「|Anfang《セット》……!」
 掲げたのは二つの宝石――。トパーズとエメラルド。親指の先ほどの大きさの原石は、どちらも大魔術を成すほどの魔力は篭められていない。
 だからきっと、この一撃は決め手にはなり得ない。私のする行為は、湖面に石を投げ入れ、水鳥を飛び立たせるような――。そんな、何かのきっかけに過ぎない。
「||Drei《三番》,|Vier《四番》……!」
 それでも、きっと士郎には十分。彼なら必ず、確実な勝機へと繋げてくれるはずだ。
 何度も頭の中で、巧くいった時の光景を|想像《イメージ》し、肉体の動きを細かく修正していく。
 失敗は許されない。敗北は死と直結する。
 大気が唸りを上げる。篭められていた魔力が開放され、その余波が辺りの大気を細かく震わせる。
 どこかで髪留めを落としたのか。長い黒髪が風に巻き上げられた。風が気持ちいい。身体が軽い。成功しか考えられない――!
「|Fixierung《 狙え、 》, |EileSalve《一斉射撃》――!」
 両手の人差し指を突き出す。放つは、真紅と閃緑、二色の光弾。私のもっとも得意とする、ガンドの両手打ち――!
「!?」
「――!」
 殺人貴が、そして真祖の姫が、迫り来る魔力弾の存在に気付き、顔を上げた。
 彼らの取った行動はそれぞれだった。
 真祖の姫は構わず士郎へと爪を振り上げ、殺人貴は素早い身のこなしで回避行動に入る。
「――、」
 殺人貴を狙った真紅の光弾は、理想の軌跡を描くも、後方に跳躍した殺人貴に難なく回避された。
 対する閃緑の光弾は、真祖の姫へと向かって一直線に放たれたが、真祖の姫は、それに視線さえ向けることはなかった。
 それも当然。彼女に魔術は効かない。上手く着弾しても、無効化されるのがオチだ。
「よし、計算通り……!」
 ――だから、狙いは彼女ではない。閃緑の弾丸が向かっているのは、彼女の足元!
 っ!!
 低く重たい音が立て続けに響き、衝撃が石造りの床を捲り上げた。粉塵が巻き起こり、一時的に真祖の姫の視界が奪われる。
 千載一遇のチャンス。しかし、視界を奪われたのは、士郎もまた同じ。
「……!」
 振り下された双剣が、ぴたりと止まる
士郎は様子を伺うように一歩、砂塵から後退を試みた。しかし――。
「――捕まえた」
 それが失策だった。砂塵の中から、白い腕が突き出される。細く繊細な指が花のように開き、手のひらが、士郎の顔の前に掲げられた。
「ッ!?」
 士郎の顔に緊張と後悔の色が浮かぶ。ここは退く所ではなかった。真祖の姫に反撃の隙を与えてはならなかった。
 何故なら。
 二人の間合いは今、真祖の姫が空間を圧縮するのに、最も適した距離まで詰まっていた。士郎の剣は届かず、真祖の姫にとっては必殺となる、|致命的な死線《デッドライン》。
「終わりよ。消えて無くなりなさい」
 砂塵の中から真紅の双眸が覗く。
 巻き上がった砂塵の中でも、真祖の姫には僅かな動揺も見られない。その細く白い腕で、鋼鉄をも切り裂く、そのたおやかな指先で、ゆっくりと目の前の空間を握り締めていく。
 空間が歪み、士郎の身体が完全に捕捉され、
「!?」
真祖の姫は、誰よりも早く、殺人貴へと迫る光弾に起こった変化に気付いた。
「……ッ! 逃げて! 志貴!」
「――Sieben……!」
 私はすかさず、予め準備していた通り一節、詠唱を加える。それは、完全なる予定調和。詠唱に呼応するように、真紅の光弾に変化が起こる。
 それまで直進していた無数の弾丸の軌道が、かくん、と急な角度を描いて折れ曲がる。それは、回避したものと確信していた、殺人貴へと向かっていた。
 この光弾は、今まで使ってきた宝石魔術より威力は数段劣る。けれど、それでも私のとっておきの宝石の一つ。対魔術用の礼装を身につけていない殺人貴には、致命傷となるのに十分な威力を持っている。
 私の意図に気付いた殺人貴が、数歩後退する。しかし、その時には真紅の弾丸は彼の目の前にまで迫っていた。
「――っ!」
 全ての弾丸の回避は不可能と判断し、ナイフを構えた殺人貴は、挑むようにして数十の弾丸へと一歩を踏み出した。
 真祖の姫の瞳が、大きく見開かれる。
「駄目! 志貴!」
 真紅の瞳に戦慄が走る。士郎を捉え、今まさに空間を圧縮しようとしていた真祖の姫の左腕が、殺人貴へと突き出される。
「……ッ、潰れなさい!」
 何かを握りつぶす動作。次の瞬間、殺人貴へと迫っていた光弾が、その空間ごと圧壊され消え去った。
「がッ!?」
 それでも、全ての弾丸を防ぎきることは出来ない。二つの弾丸が、赤い光の尾を引いて、殺人貴へと炸裂する。
 殺人貴の痩身が一瞬、宙に浮き――。そして、ゆっくりと後ろへと倒れこむ。
 着弾点は右肩と太腿に一つずつ。大火傷ではあるだろうが、致命傷には至らない。
「そう」
 思わず息が漏れる。
「真祖の姫は、士郎の命を奪うことではなく、殺人貴の命を護ることを選んだのね」
 理想どおりの結末を引き出した一手。しかし、手を叩いて喜べるような気持ちにはなれなかった。
「けれど、これで――」
 目標を変えたことにより、真祖の姫の身体はがら空きだ。思わぬ所から産まれた、一瞬の隙。そして、
「チェックメイト、ね」
全ては、その一瞬で事足りる。
 士郎が奔る。加速していく中で陰陽の双剣を手放すと、代わりに両手を併せ、構えるように拳を握り込んだ。
 その手には何も握られていない。それでも、士郎は渾身の力で両手を、地面と水平に振りかぶる。その手から、火の粉のように金色の煌きが溢れ出す。
「真祖オォッ!!」
 士郎の足が大きく石床を踏み込み、その身体が真祖の姫に肉薄する。その両手にはいつの間にか、一振りの剣が携えられている。干将莫耶よりも長く、細身の刀身――。
 舞い上がる砂塵。目の前には、左腕を突き出したまま倒れた殺人貴を見つめる、真祖の姫。
 ――――ッ!!」
 雷鳴のような音を響かせ、剣が振りぬかれる。眩いほどの金色の閃光が玉座を照らし、けぶる聖堂を包み込む。
 立ち込める砂塵を引き裂き、横薙ぎに振るわれたそれは、確かな手ごたえを私たちに伝えていた。
「アルクェイド――!」
 殺人貴の悲痛な叫びが、玉座に響く。
 ザッ、
 砂塵を突き破り、奔り抜けた士郎が飛び出した。片膝をつき、剣を振りぬいたままの姿勢で静止する。
 その手に握られているのは、眩く光る黄金の剣――。
「『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』……!?」
 ――いや、違う。
 凄く似ている。姿形だけじゃなく、発せられる魔力の波動さえも。その装飾は、かつてどこかで見たような気がしないでもない。
 背後で、真祖の姫が崩れ落ちる。
「や、った」
 そうだ、あれは彼の騎士王の剣『|勝利すべき黄金の剣《カリバーン》』。士郎が知る『|最高の幻想《ラスト・ファンタズム》』の一つ。『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』に比べると豪奢さには欠けるが、紛れもない彼女の聖剣だ。
「士郎!」
 残った力を振り絞って、士郎の下へと駆け寄る。
「……士郎?」
 目の前まで来るも、士郎は剣を振り抜いたそのままの姿勢から動かない。
 微かな違和感を覚えた。その時――。
 その口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「やはり、そうか」
 ツー、と一筋。鮮血が、士郎の口元を伝った。
「これを扱えるのは、騎士王ただ一人。俺には、扱いきれないか」
 どこか悟ったように呟き、小さくむせる。夥しい量の血液が、石造りの床に広がった。
 両手に握られた黄金の剣が、静かに砕け散り――。士郎は力尽きたように、血塗れの床に倒れこんだ。
「ちょっと、士郎!?」
 一緒に倒れそうになりつつも、士郎の身体を抱きとめる。
「し、しっかりしなさい!」
 士郎は苦しそうに喘ぎ、荒い息を吐く。
 一体、どうしてこんなことになってしまったのか。真祖の姫を斬り裂いたのは、士郎なのに。どうして、
「遠、さか」
 口元の血液を拭い取ろうとした私の手を、士郎が掴む。焦点の定まらぬ瞳が私を捉えた。
「だい、じょう、ぶだ」
「いいから! 喋らないで!」
 傷の程度がわからない以上、うかつな判断は下せない。そしてそれ以上に、士郎の様子はただごとではなかった。身体が氷のように冷たい。
 声を荒げる私に、士郎は苦しそうに首を振る。それより、と搾り出すように囁くと、ゆっくりと震える腕を挙げ、
「それより、真祖の姫を……!」
喉に張り付いた血液で擦れた声で、叫んだ。
「!?」
 士郎の指が示す方向へと、視線を向ける。
「……」
 そこには、体中を重度の火傷に覆われながら、真祖の姫の傍らで立ち尽くす、殺人貴の姿があった。
「アルク……ェイド?」
 戸惑ったような、殺人貴の声。巧く動かない身体で、石床に倒れた真祖の姫を抱き起こす。呼びかけにも、真祖の姫は応えない。
「アルクェイド! おい、返事をしろ!」
 取り乱したように、真祖の姫を揺さぶる殺人貴。今にも泣き出しそうな表情で、必死に真祖の姫の身体に縋るその姿は、これまで見た中で、一番人間らしかった。
 微かに胸が痛む。一体誰が悪者で、誰が正しかったのだろうか?
 強く拳を握り締める。
 私は正しいと思ったことを貫き通した。そこに後悔は無い。でなければ、こんな結末など――。
「そうね。何が正しいのかなんて、誰にも解らない」
 知らず、そんな言葉を呟いていた。
 朱い月などという、訳の分からない化け物のせいで、彼はこうして私たちと戦わなければならなくなってしまったけれど。けれど殺人貴には……いえ、結局のところ真祖の姫にさえ、こんな責めを受けなければならないような罪は無かったはずなのだ。
 彼女は吸血鬼であるのに血さえ吸わず、一人の護衛だけを連れ、自らを縛し、こんな牢獄みたいな城で静かに暮らしていた。
 正義の味方気取りの闖入者に城を荒らされ、玉座にまで踏み入られ、命までをも奪われる――。それほどの責め苦を受ける謂れが、彼らのどこにあったというのだろう。すべては、大昔に振ってきた、月の王様なんて訳の分からないモノのせいなのに……。
 そして、彼女のとった最後の行動が――自らの敗北と引き換えに、殺人貴を救った時の、彼女のどこか、ほっとしたような表情が、目に焼きついて離れない。
 一体、彼らが何をしたというのか。血も涙も無い、|略奪者《吸血鬼》は一体、どちらだったのだろう。
 ピクリ、真祖の姫の身体が、殺人貴の声に応えて微かに震える。
「……て、志貴」
 身体を横たえたままどこか苦しげに、言葉を紡ぐ。殺人貴の顔に、安堵の色が広がった。
「良かった。無事だっ」
「離れて、志貴」
 どこか抑揚の無い声で、口早に真祖の姫は言った。
「おい、何言ってるんだ、そんな体で」
 殺人貴の表情に、戸惑いの色が浮かぶ。しかし、真祖の姫は殺人貴に抱きかかえられたまま、苦しそうに身悶えし、
「離れて!」
 叫ぶと同時に、殺人貴をその腕で突き飛ばした。殺人貴の体が嘘みたいに軽々と飛んでいき――分厚い鉄の壁にぶつかり、ずり落ちる。殺人貴はそのまま、動かなくなった。
「――どうして」
 戸惑う私の声を他所に、真祖の姫は、ゆっくりと立ち上がる。
「あ、ああ、あああ」
 苦しそうに、上体を屈める。両手で顔全体を覆うようにして、悶えるように何度も頭を振っている。
「アルク、ェイド……?」
 囁くように、鉄の壁に叩きつけられた殺人貴が口を開いた。叩きつけられたままの不自然な姿勢で、瞳を見開いたまま、彼は悶える真祖の姫を呆けた表情で見つめている。
「遠坂!」
「!?」
 真っ白になった私の思考を、士郎の血濡れの手が現実に引き戻した。士郎は痛いほどに私の手を握り締め、
「不味い……! 早く! 早く真祖の姫を」
 がは、
 再び吐血。血走った目で叫ぶ。
「……殺せ!」
 気付けば、士郎に掴まれた腕が細かく震えていた。これは、なんだ。私たちは、正しい事をしたはずなのに、どうして……!
「――どうして、こんなことに……?」
 今にも力尽きそうな身体で、真祖の姫を殺せ、と訴える士郎の血濡れの手。
 額を押さえ、瘧のように震える真祖の姫アルクェイド・ブリュンスタッドの肢体。
 そして、それらを呆然と見つめる、絶望に彩られた、殺人貴の蒼い瞳――。

「は、あ……アァ――――!」

 身体を仰け反らせるようにして、真祖の姫は咆哮を上げる。遥か天空に浮かぶ、巨大な望月を仰ぐようにして――。
 その瞳は月と同じ、眩い金色に染まっていた。






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