5/凍える玉座

 ――突き出したナイフの切っ先が男の喉をわずかに逸れる。
 理想の軌跡を描いた一撃はしかし、視界一面を走る死の線を、掠りもしなかった。
 人を超越する膂力を持つ吸血鬼を、人を凌駕する俊敏さを誇る獣を、容易く解体してきたナイフの軌跡が、陰陽の双剣に阻まれる。
 気配を殺して、呼吸を殺して、死角に潜み、神経を研ぎ澄まし――。駆動し、躍動し、疾走する。
 本来人間には不可能とされる体勢からの方向転換。空中での静止。加速。そして翻る、銀のナイフ――。
 それら全てを、男は弾き、躱す。それどころか反撃にまで転じて見せた。
 当たり前のように繰り出された斬撃。受けた右手に痺れにも似た痛みが駆け抜ける。
 空白になった脳裏に浮かぶのは一つの疑問。
『斬殺されそうになっているのは、果たしてどちらか』
 幾度も繰り返される予定調和の無い|殺陣《たて》。互いに賭けるのは、自身の命と信念。
 ゆえに、一撃一撃が重い。幾度目かの必殺の一撃が、黒塗りの双剣に阻まれた時、戦場を駆ける男の姿が、交えた剣を通して、ありありと脳裏に浮かび上がった。
 それは、この男の戦いの歴史……。いや、『性質』とでも呼ぶべきもの。
 男には過去、戦いにおいて誰かに背中を預ける相手がいなかった。否、預けることが無かった。奇襲を受けて当然。一人を斬り伏せる間に、背中から斬りつけられるなど当たり前の世界。渦巻く戦火の真っ只中で、ただ一人、数多の敵を相手に技を磨いた……。否、磨かざるを得なかった。
 それは確信。防がれるはずの無い一撃が、ただの人間であるはずの男に防がれるという矛盾の証明。
 成程。ならば死角を突こうが、殺気を殺そうが意味が無い。
 雲霞の気配の中、己の経験により鍛えられた勘だけで、男はきっと、幾多の戦場を駆け抜けてきたのだろうから。
 しかし――。
 |遠野志貴《俺》は思う。
 ||真祖の姫の護衛《 殺人貴 》でさえ、考えずにはいられない。
 それは、なんて不器用で、真っ直ぐで。そして悲しく、過酷な戦い方なんだろう、と。



「大丈夫? 志貴」
 かけられた声に顔を上げると、覗き込むアルクェイドの顔が目近にあった。気遣うようにな視線が、じっと俺を見つめている。
「怪我。酷いんでしょう?」
「いや――」
 一瞬、言葉に詰まった。近くに居て当たり前だった彼女が、今目の前に居ることに、心から喜んでいる自分が居た。
「大したものじゃないさ。ほら」
 わざと陽気に、ぐるぐると腕を回してみせる。せっかくの再会だ。心配なんてさせたくない。
「――嘘ね」
 しかし、アルクェイドは鋭い言葉で俺の空元気を斬って捨てた。
「そんな辛そうな|表情《かお》して大したことない訳ないじゃない」
 少し怒ったような、アルクェイドの顔。真剣に心配してくれている。こんな些細な嘘さえ満足につけない、自分の不甲斐なさに情けなさを覚えた。
「む……。そんな顔してたかな? でもこんなの、お前に張り飛ばされるのに比べれば、かすり傷にも入らないさ」
「……馬鹿」
 皮肉を言って見せるも、アルクェイドは更に顔を曇らせるばかりだった。
 暗闇に包まれた回廊が、陰鬱な冷たさを孕んで俺たちの前に続いている。随分な距離を走っているはずだが、まだ先は見えなかった。といっても、俺はアルクェイドに抱えられているわけだから、走っているのは彼女だけなのだが。
 そういえば――。
 この抱えられ方は何といっただろうか。確か、とても男には……。特に自分の好きな女性にされるには、とても不名誉な名前がついていたような気がするのだが。
 回廊は、彼女の脚力でさえも、駆け抜けるのに数分はかかるほどの距離がある。何度も通っているが、未だにどうも距離感が掴めない。
 改めて思うが、無駄に広い城だ。住んでいるのは俺たち二人だけだっていうのに。これだけ広いと、どうしても寂しさを感じてしまう。
「一旦、玉座に戻って体制を立て直しましょう。あそこなら、限界まで力を使える」
「……そうだな」
 頬に冷たい空気が触れる。
 空気の流れて来る先を見つめて見るも、そこにあるのは、やはり深く暗い闇だけだった。
 この先にあるのは、ただ一部屋のみ。侵入者は、間違いなくそこまで俺たちを追ってくるだろう。
 正直、これより先には誰も踏み入らせたくなかった。この先に踏み入ると言うことは、彼女の本質に踏み入るということだ。彼女の寝室を、無粋な侵入者に荒らさせたく無かった。
 玉座へは、護衛である俺でさえ、未だに入ることを躊躇う。
 そこは誰にも穢されてはならない神聖な寝所であり――。
 彼女の罪と咎を体現する牢獄でもあった。
 冷たく永遠を思わせる、白い回廊。それは、玉座へと至る唯一の道だ。月光さえも僅かしか届かない、『千年城』ブリュンスタッドと呼ばれる廃城の最奥。彼女と同じ名を冠する――。いや、彼女そのものを象徴する、この城のいわば心臓部ともいえる場所。
 ――何よりもこの俺が、守らなければならなかった場所。
 強くナイフを握り締める。
「無理はしないで。その腕じゃ、あの双剣は受けきれないわよ」
「だろうな。けどさ、右手はひびが入ってるから駄目だろうけど、ほら。左手はまだ使える」
 ナイフを持ち替えた左手を握り締める。
「まだ闘える」
 瞳に覚悟を込めて、正面からアルクェイドを見返した。
「無茶なんてもう慣れっこだ。今回だって切り抜けてみせるさ」
 左手を彼女の顔に突き出してみせる。
 ――俺は、巧く笑えているだろうか。
 しばらくアルクェイドは俺の顔を見つめていたが、やがて、はぁ、とため息を一つ吐くと、
「全く。あなたらしいわね。志貴」
 心底呆れた、というような顔をして、小さく肩を落とした。言っても聞かないんだから。そう言って小さく笑う。
「けれど、無理はしないで。私が怪我をするのと、あなたが怪我をするのじゃ話が違うんだからね」
 アルクェイドは、どこか自嘲気味に笑う。俺はそんな彼女の姿に、嬉しいような、悲しいような複雑な感情を覚えた。
「ああ。……解ってる」
 彼女とこの城で暮らすようになって、どれくらいの年月が流れただろう。数えることも止めてしまったから、正確な年数なんて覚えていない。
 けれど、彼女も随分人間らしい表情をするようになったものだと思う。少なくとも、かつての彼女は、そんな自虐的な表情をすることは無かった。
「ん?」
 と、俺の顔を覗き込んでいたアルクェイドが、不意にその顔を近づけてきた。
「ど、どうしたんだよ」
白い顔が目の前にある。何度も見ているはずなのに、何故か動揺してしまった。
「ねぇ、志貴――。わたし、さっきから不思議に思っていたんだけれど」
 朱い瞳が細く眇められる。
「あいつ、人間なの?」
「……なんだって?」
 質問の意図が掴めず、思わず彼女の顔を見返した。
「意味がよくわからないぞ。あの二人のことだよな?」
 アルクェイドは険しい表情そのままに、ええ、と小さく首肯した。
「少なくとも俺には、人間にしか見えなかったけど」
「……そう」
 アルクェイドは小さく眉根を寄せたまま、困ったような顔で俺の顔をまじまじと見つめた。彼女がどうしてそんな表情をしているのか、さっぱり解らない。表情を伺っていると、不意にアルクェイドは俺の顔から視線を外した。
「――まぁ、いいわ。とにかく」
 回廊を駆け抜けていたアルクェイドが、小さくステップを変える。今までただ真っ直ぐ走っていただけに、急に変わったステップに首を傾げる。
「ん?」
 しかし、その疑問もすぐに晴れることになる。直後、すぐ近くに一本の矢が突き刺さった。
「化け物じみたヤツであることには、変わりなさそうだから」
 突き刺さった矢を流し見て、アルクェイドは冷たい声で言った。
 一瞬、瞳が捉える、カーボン製の黒い矢――。しかし、それもすぐに後ろに流れていく。
 間違いない。この矢は……。
「化け物、か」
 視線を後ろへ向ける。
 駆け抜けてきた回廊は、後ろへと長く長く、どこまでも続いていた。瞳を眇めて見るも、照明代わりの月光が殆ど届かない暗闇の中では、射者の姿を確認することは出来ない。それでも、彼我の距離は有に百メートルを越えているだろうことは、俺にも予測できる。
 ――確かに、化け物だ。明かりの無い中、これだけの距離を見通すなんて、普通の人間に出来ることではない。非常識なまでの視力と、正確無比な弓の技術。恐らく射者は、赤い外套を纏った、あの男だろう。
「そんなに心配しなくても平気よ、志貴」
 不意に、アルクェイドが言った。
「大丈夫、ここは私の城だもの。万に一つも遅れは取らないわ」
「アルクェイド……?」
 アルクェイドは走る。ぽっかりと口を空けた暗闇が、俺たちをゆっくりと飲み込んでいく。
「うん、大丈夫よ。志貴は本当、心配性ね」
 大丈夫。
 そう繰り返す彼女の身体にはしかし、薄くだが、黒くのたうつ死の線が、幾つも浮かんで見えていた。



「どう? 士郎」
「避けられた。……困ったな。どこに射ても、当たる気がしない」
 眼を眇めたまま、士郎はゆっくりと構えていた弓を降ろした。
「なんだか、城全体に監視でもされている気分だ」
「ふぅん。どこを射ても当たる気がしない、か。あなたがそう思うのならそうなんでしょうね。やるだけ無駄か」
 傍に置いていた外套を掴み立ち上がる。
「真祖の姫に矢は当たらない、そういうことね。残念ね、士郎」
 士郎の方へ人差し指を突きつけ、ばん、ガントを撃つように人差し指を振ると、士郎は顰めていた顔を更に顰めた。
「あはは、なんて顔してんのよ」
「別に。これが地顔だ」
 呆れたような、怒ったような顔が私を恨めしそうに見返す。
「ふん。まぁ、当てる手が無いでもないんだんだが……」
 ぼやくように呻くと、士郎は右手に視線を移した。その右手が、小さく光っている。魔術の起動する気配。
「止めて置きなさい。この距離じゃ致命傷は無理なんだから、魔力の無駄でしょう」
 ぴしゃり、と忠告すると、士郎は大人しく腕を下ろした。
「弓の試合じゃないのよ? そんなとこで拘ってどうするの」
 まさか、『|赤原猟犬《フルンディング》』なんて燃費の悪いモノまで取り出そうとするなんて、よっぽど『矢が当たらない』と言われたのが気に食わなかったのだろう。
 尊厳だとか矜持だとか、そういった余分なモノは持たない男だけれど、弓だけは特別らしい。士郎はどこか納得の行かない顔で私を見返すと、
「別に『手がある』と言っただけだ。使うとは言ってない」
口篭るように呟いた。私の視線から逃げるように顔を背けると、人差し指を顔の前に立てて、回廊の奥へと向き直る。
 標的との距離を測っているらしい。目を眇めて人差し指を前後に動かしている。
「別に、アンタの弓の技術をどうこう言ってる訳じゃないわよ。ここはいわば彼女の体内だもの。『城全体に監視されている』っていうアンタの感想も、あながち間違いじゃないかもね、って言ってるの」
「ふん」
 顔の前に立てていた指を止め、
「『|胎内《タイナイ》』か」
士郎は唇の端を歪め、冷たく笑った。
「確かに、化け物が産まれるに、この城はおあつらえ向きだ」
 薄い笑みを貼り付けた顔に、鋭利な瞳だけが別の感情を浮かべている。
「……っ」
 歪に笑うその顔を見ていると、どうしてだか、私は罪悪感にも似た痛みを胸の奥に感じてしまう。
 ――どうも調子が狂う。噛み合っているはずの歯車が、少しずれてしまっているような、そんな感じ。
 それでも変わらず、歯車は回転を続ける。これから加速していくならば、破綻はいつか必ず――。
「ああ、もう。本当、調子狂うわ」
 何を考えているんだろう、私は。
 そんな感傷に付き合っている時間は無いっていうのに。今は、真祖の姫を倒すことに集中しないと。
「準備は出来たか? 遠坂。このままでは標的との距離は開くばかりだ」
「ええ。行きましょう。時間は無限にあるわけじゃない」
 重たい体に鞭打って、景気よく赤い外套を翻す。目の前に広がるのは重厚な常闇。回廊は永遠を思わせるほどに、長く長く続いている。
 思わず、足を踏み出すのを躊躇う。
「……っ。どうしたのよ、凛」
 萎えてしまいそうになる心を鼓舞し、何度も自分に言い聞かす。ここまで来たらやるしかない。追い詰めているのは、私たちだ。 
 辺りを重たい静寂が包み込む。
 闇に包まれた回廊を見渡すも、私の目には、逃げる真祖の姫の姿を確認することは出来ない。対する士郎は、それが見えているようで、今も睨むように闇の一点を静かに見据えている。
 これだけ音の反響のする回廊で、耳を澄ましても足音を聞き取れないのだから、標的との間にはかなりの距離があるはずだ。昔から目だけは良いヤツだったが、ここまで来ると一つの特技と言えるだろう。
「私も、いいところ見せないとね」
 士郎の視線の先にある闇を、同じように見据えて、私は大きく一歩、回廊の奥へと進み出した。
「傷は大丈夫なのか?」
「ええ、後一時間くらいなら問題なく動けるわ。どちらにしろ、それまでには決着が着くでしょう」
「そうだな」
 士郎は押し黙ると、私の少し前を先導するようにして歩き出した。その背中を、息を整えながら付いて行く。
 かつては純白を誇っていたであろう寂れた回廊は、今ではその栄華の名残を僅かに残すのみで、私には却ってそれが、この城の雰囲気を頑なな物にしているように思えた。
 うらびれた廃城。それはまさしく、魔王の根城と呼ぶに相応しい。
「ハ――……ハァ」
 深海のような静けさが質量を持って圧し掛かって来る。息苦しささえ感じ、私は喘ぐように息を吸い込んだ。
「……本当、嫌な感じ」
 建造物には、人を好むものと拒むものが在ると言うが、この城は間違いなく後者に該当するだろう。
 魔術師の工房に雰囲気は近いが、それでもここは特別だ。建物自体が、侵入者である私たちに明確な殺意を向けて居るなんて、常軌を逸しているにも程が在る。
「ライダーには悪いけど……。きっと、『鮮血神殿』っていうのは、こんな感じだったんでしょうね」
 誰にでもなく呟く。
「そうだな。主の意思が城そのものを変質させているという点では、近いものがある」
 答えなんて期待していなかった私の独り言に、士郎は真面目な顔で肯いた。
 強烈な敵意が、奥へと進もうとする私たちを容赦なく突き刺す。
 それはこの城の中心、玉座へ近づくにつれて、段々と強くなっているように感じられた。
「――っ」
 体が小さく震える。
 それに、寒い。回廊の向こうから冷気が漂ってきているような気がする。
「どうした、寒いのか?」
「……ええ。少し。ちょっと血を流しすぎたかしら」
 外套の前を合せる。
 赤い外套は先の戦闘でぼろぼろに薄汚れていたが、それでも無いよりは随分マシだった。
「もう少し休むか? 万全の体制で挑まなければ、勝てるものも勝てなくなる」
「いいえ」
 ゆっくりと首を振る。
「それより士郎。私はあなたに聞かなくちゃならないことがある」
 ぴたり、先を歩いていた士郎が歩みを止めた。首だけを動かして、私を見つめる。重たそうに閉じられた唇が動き、低い言葉を紡ぐ。
「何だ」
「覚えてる? 士郎。アンタが最初、この話を持ちかけたとき、私に何て言ったのか」
「何て言ったか、だって?」
 言いたいことがわからない、というように、士郎は眼を眇めた。
 困っているような、考え込んでいるような、僅かな沈黙――。士郎は振り返ったままの姿勢で、伺うような視線で私を見つめた。
「悪いが、数日前にした会話を一言一句たがわず覚えていられるほど、俺の記憶力は良くないぞ」
 士郎は顰めていた顔を更に顰め、ゆっくりと腕を組んだ。
「解ってるわ」
 士郎に薄く笑みを返す。
 全ての会話を記憶しているなんてことは期待していない。肝心なのは士郎が言った、あの一言。
「覚えてるかしら? どうやって真祖の姫を倒すのか……。そう聞いた私に、アンタがなんて答えたのか」
 士郎の顔から悩むような表情が消えた。
「さぁ? なんて言ったかな」
 表情とは裏腹な、その台詞。
 思わず溜息が出る。いいだろう。覚えていないって言うんなら、思い出させてやる。
 私はそのまま歩みを進め、立ち止まった士郎を追い越した。士郎は腕を組んだまま、無表情に私を視線で追って来る。
「いい? アンタは私にこう言ったのよ、士郎。真祖の姫を倒す手が在る、ってね」
 ぴたり、
 立ち止まって私は言った。士郎は変わらず静かな視線を私に送っている。
「このままじゃ、本当に魔王が産まれかねない。『手は在る』んでしょう? 肝心なそれを、私はまだ聞いていない」
 再び、沈黙が流れる。
 先に口を開いたのは、士郎だった。
「そういえば、そうだったな。しかし、どうして今更そんなことを聞く? 今まで聞こうともしなかったのに、どうして」
 そう。それは普通なら、手を組むと決まったときに、聞いておくべき疑問だ。だけど、私は敢えてそれを聞こうとはしなかった。理由は簡単。
「アンタが話さないってことは、私は聞く必要が無いっていうことでしょう? 私は後方支援だもの。だから、別に聞く必要を感じなかった」
 化け物を倒すのは、正義の味方でなくてはならない。私はあくまでも助っ人だ。『手がある』というなら士郎を信じ、自らのベストを尽くすだけ。
「でも、あんただってここまで苦戦するとは思ってなかったんじゃない? 少なくとも、殺人貴と真祖の姫を同時に相手することになるとは思っていなかった」
 真祖の姫が眠っているということは、予め解っていたことだ。士郎は何としてでも、彼女が目覚める前に、護衛である殺人貴を倒したかったはずだ。
 だから、魔術師のサポートを求めた。自分の能力と、殺人貴の能力との相性が悪いということを、誰よりも解っていたから。
 そこで雇われたのが私だ。私は、あくまでも対殺人貴要因として連れてこられたに過ぎない。大抵の魔術はアルクェイド・ブリュンスタッドの前には無効化されてしまうのだから、士郎だって、私に彼女の相手をさせようなんて考えていなかっただろう。
 魔術師はあくまでもサポート。真祖の姫を相手にするのは士郎の役割だ。
 だから私は、敢えてそれを聞かなかった。
「そうだな。出来れば、二人を同時に相手にするのは避けたかったところだ」
 士郎の口に薄い笑みが浮かぶ。何が可笑しいのか、士郎は唇を吊り上げ、静かに私を見つめている。
「このままじゃ、真祖の姫は倒せない。さっきの状況を見ても解るとおり、彼女に魔術は通用しないし、アンタにしても、殺人貴と真祖の姫を相手にするには荷が重過ぎる」
僅かな間を置いて、
「だから、私も前線で戦うわ」
「……」
「聞いてあげる。アンタの考えていた方法、ってやつを」
 鳶色の瞳が私を見つめている。その瞳からは、彼が何を考えているのかは解らない。
「私のサポートが必要でしょう?」
「……ああ。すまないが、そうしてくれると、助かる」
「それなら教えて頂戴。アンタはどうやって、真祖の姫を倒すつもりだったの?」
 ふむ、と僅かに頷いて、士郎は考え込むように瞑目した。そのまま数歩、回廊を奥へと歩き出す。
 私たちの間には、どこか張り詰めた空気が流れていた。冷たい回廊と重たい空気は、私たちの感覚を不必要なまでに鋭敏にさせる。
 血液不足で動きの悪い頭がしん、と冴え凍る。やがて、士郎は唸るように言った。
「真祖の姫を倒す方法、か。……難しい問題だな」
「何を今更。こんなデタラメ、簡単にいく訳がないじゃない」
 そう、難しくて当然。
 アルクェイド・ブリュンスタッド――。真祖の姫君を、討つ。
 何故それが困難な問題なのか。何故それが不可能に近いと言われているのか。何故人々は、彼女の存在をそこまで強大なものとして認識しているのか。
「相手は、吸血鬼……。それも、正真正銘のお姫様よ?」
 それは彼女が吸血鬼だからだ。そして、真祖である彼女は、他の生命体とは比べ物にならないほど強い不死性を持っている。
 アルクェイド・ブリュンスタッドは……いや、真祖そのものは精霊に近い存在である。霊的にここまで高次な存在となると、肉体は器に過ぎず、霊体だけの活動が可能になる。
 八年前の聖杯戦争におけるサーヴァントが良い例だろう。彼らは聖杯戦争のルール上、肉体を失えば戦線を離脱するが、その霊体は聖杯の核となる『杯』へと戻るだけだ。英霊という性質上の問題もあるが、彼らには基本的に死という概念が存在しない。
 そして、真祖は英霊よりもよりさらに高位の精霊。物理的に肉体を破壊しただけでは、その存在を消し去ることは出来ない。
「いや、難しいというのはそういうことじゃ無い。俺はてっきり、遠坂は俺の考えなんてお見通しで、敢えて聞く必要が無いと思っていたから、聞いて来ないんだと思ってたんだ。悪いが、俺には遠坂を唸らせるような特別な手段は持ってないぞ」
「ええ。それで結構よ。私が聞きたいのは、その有り触れた手段だもの。私たちはここではっきりと、真祖の姫に対する認識を統一しておく必要があるのよ。お互いのためにもね」
 起死回生の裏技なんて望んじゃいない。そんなの、都合よく用意されているはずなんてないんだから。
 必要なのは、共通認識。
 果たしてどれが真祖の姫に通じる方法で、何が駄目なのか。前提条件さえ整っていれば、取れる手段は限られてくる。
 作戦会議というには即興に過ぎる、お粗末な話し合い。けれど、これくらいが私たちにはちょうどいい。例え事前に話し合う機会があったとしても、きっと士郎は何も話してくれなかっただろう、そんな気がするから。
「さぁ、士郎。話して頂戴」
「……」
 士郎はゆっくりと踵を返す。首だけでなく、体ごと私に向き直ると、腕を組んだまま、考え込むように口元へと手を添えた。
「解った。遠坂が話せって言うなら話そう。俺が思いつく方法は、二つ」
 言って、士郎は指を二本、目の前に掲げた。
 ――これはいわば確認作業。
 果たして、私たちは真祖の姫に対する事象を、討ち取る手段を、正しく捉えることが出来ているのだろうか。
「まず一つ目は、何らかの方法で封じ込める方法。二つ目は、圧倒的な暴力で魂ごとその存在を消滅させる方法。これは、遠坂も予想がついていただろう?」
 封じ込めるか、消滅させるか……。荒っぽいけれど、確かにこれが朱い月を封じる最も有効な方法だ。逆に言えば、他に方法は無いということにもなる。
「そうね。けれど、そのうちの一つ、封じ込める方法は、私たちが有している技術・能力では絶望的よ」
 真祖の姫クラスの精霊を封印するには、優れた霊脈を有する土地と、幾人もの優れた魔術師が必要になる。とてもじゃないが、私や士郎には揃えられるものではない。
 それに、もし仮に成功したとしても、
「それに――。向こうには、殺人貴が居る」
彼なら封印を『殺す』ことなど容易いだろう。
「だから、私たちに残された方法は唯一つ」
 圧倒的な暴力で完膚なきまでにアルクェイド・ブリュンスタッドをこの世界から消し去る。蘇生も許さないほどに。
「……だが、遠坂。これには大きな問題がある」
 士郎が難しい顔で口を開いた。
 ――そう。問題はここから。ここまでは前提条件に過ぎない。
「朱い月の降臨、ね」
「そうだ。これが一番の問題だ。真祖の姫を追い詰めれば追い詰めるほど、朱い月の降臨が早まるっていうんだからな。俺たちは、迂闊に真祖の姫の肉体を破壊することが出来ない」
 彼女がまだ朱い月へと至っていないのは、単に彼女が自身の吸血衝動に負けていないからに過ぎない。そして、その吸血衝動を抑えているのは、他でもない彼女自身。
 聞くところによると真祖の姫は、その力の大半を自身の吸血衝動を抑えるのに使っているらしい。彼女を追い詰めることによって、それらを私たちが浪費させてしまえば、逃れようも無く朱い月の降臨が現実となる。
「そんなことになったら終わりよ。私たちは朱い月の降臨を早めるために来たんじゃない。阻止するために来たんでしょう?」
「当然だ。朱い月は俺たちで食い止める」
 士郎の瞳が真っ直ぐに私を見つめる。そこには一切の迷いも感じられなかった。
「で、その具体的な方策は?」
「魂を消滅させるには、強力な概念をぶつけて魂を霧散させればいい。――強力な宝具を打ち込み続ける方法が、最も有効だろう」
「宝具――。そうね」
 肉体的に彼女を追い詰めるのではなく、魂を圧倒的な質量の概念によって霧散させる。果たして真祖の姫の魂を霧散させるほどの概念というものが、どれほどのものかは解らないが、手段としては妥当といえるだろう。
 つまるところ、私たちに残された手段は『無限の剣製』による宝具の一斉掃射しかないという結論に至る訳だ。
「まぁ、予想通りといえば予想通り過ぎてつまらないけれど。真祖の姫にアンタの投影した宝具が有効なのは、さっきので解ってるし。殺人貴さえどうにかできれば、勝機はあるわ」
「魂を失えば肉体は空くが、真祖の姫は咎落ちには至っていないがゆえに、まだ朱い月を受け入れるのは難しい。そうなれば、朱い月が降臨する前に肉体を破壊することは、そう難しいことじゃない」
 士郎は空いた肉体に朱い月が降りるのを警戒しているようだけど、その心配はいらないだろう。魂が霧散するほどに無限の剣製を受ければ、必然的に肉体も無事ではいられないのだから。
「朱い月は、肉体のポテンシャルを期待して降りてくるわけだから、肉体の破壊だけでも成功と言えなくもないが……」
「魂が残っていれば、肉体は再生できる。それじゃあ根本的な解決にはならないわ」
「ああ。だから、一つはそれで決まりだ」
「一つ?」
「そうだ。手段はもう一つ考えられる」
 それは私も想定していなかった言葉だった。『無限の剣製』以外に、真祖の姫を打ち破るに足るほどの概念を持った武装なんてそんなもの、どこに――。
「朱い月の撃退には前例がある。もう一つは、かつて朱い月を退けたのと同じ方法を取ることだ」
「――」
 空気が、凍りついたような気がした。
 僅かな沈黙。そして、絶対的な隔絶。
「士郎。 それがどういう方法か解って言ってるの?」
「当然だ。これは、他でもない遠坂にしか出来ない方法だ」
「……っ! アンタ、どうしてそれを?」
 かつて朱い月を追い返したという方法を、士郎が知っているというのは解る。それは有名といえばあまりに有名な話であるから……。だけど、その方法を『私が使える』、ということを、どうして彼が知っているのか。
 ここで、私が抱いた感情は正しく、殺意以外の何物でもない。
 魔術師とは隠匿と隠蔽の上に成り立つもの。身につけた能力、研究過程といった成果を知ることができるのは、自身の後継者ぐらいのものだ。少なくとも、数年ぶりに再会した士郎が私の研究の進捗状況を知っているのは可笑しい。
 魔術師・遠坂凛の名に誓って言うが。
 私は、自分が『どこまで辿り着いたか』などということを、他人に漏らしたことなど一度もない。
「どうしてあんたは、私にその方法が使えると思うの?」
 研究の成果を盗み見るということは、命を取ることよりも罪深い。何代にも及ぶ先人たちの努力や夢、そして誇りを、踏みにじる行為だから。
「答えなさい、士郎!」
 もし仮に。士郎がそれをしたというなら、私は――。
「……何を怒っているんだ? 遠坂。八年前の段階で実用段階まで行ってたんだ。遠坂ならそこまで辿り着いても可笑しくないだろう?」
「な……!」
 その言葉に、思わず絶句する。
 私だったら、辿りついていても可笑しくない?
 魔法を扱うということが、どれほど難しい事なのか、理解しているのか、コイツは……!
「か、鎌を掛けたってわけ? 何の確証も無い、推測で言ったの?」
 私に背を向けたまま、士郎は小さく頷いた。その背中を強く睨みつける。しかし、彼の態度は微塵も揺るがない。
「……まったく、どこから来るのよ、その自信は」
 昂ぶっていた感情が収まっていく。よく考えてみれば、士郎に私の工房を覗き見るような高度な技術があるはずも無い。むしろ、悪いのはこんな単純な鎌にあっさりと引っかかった私のほうだ。これじゃあ、自分からその方法が使えると言ったようなものじゃないか。
「騙すような形になったことは謝る。しかし、遠坂なら必ず辿り着いていると思っていた」
「そう。……そういうこと」
 搾り出すように呟く。
「だから、私をパートナーに選んだってわけ」
 士郎が私をパートナーに選んだ、本当の理由。それは共に戦争を戦い抜いた、信頼できる相棒、としてではなくて。
「結局、魔法使いとしての能力が必要だったのね」
 士郎が用意しておいたという『奥の手』。それは、彼自身の力だけではなく、この私の存在も含まれていたのだ。
 何がもう一度手を組まないか、だ。要するに、『私』じゃなくて『その方法が使える魔術師』が欲しかっただけということか。
「……っ」
 なんだろう。この感情は。
 私たちは魔術に組する者。手を組むときはお互いの利益が一致したときのみ。それが当たり前のはずだ。そこに余計な感情を挟むほうが間違っている。魔術師ならば、自身が持つ魔術を期待されるということは名誉でさえあれ、怒る理由になりはしない。現に、聖杯戦争において、私は打算で衛宮士郎と手を組んだ。そうだ。可笑しい。どうして私はこんなにも怒っていて、どうして。
 士郎は、あんなに申し訳なさそうな背中をしているのか。
 やがて、士郎が静かに口を開いた。
「初めは、俺の投影魔術でコトを済ませるつもりだったんだ。遠坂には後方支援を期待していたのは真実だ」
 言い訳をするように、士郎が言った。
 それを聞いて、再び私の胸の奥に焦がれるような怒りが込み上げて来る。
「……どうして、そんなこと言うのよ」
「しかし、それは難しかった。殺人貴の能力と、目覚めた真祖の姫の圧倒的な力の差――」
 そんなこと、私だって解っている。
 大きな声を出しそうになった身体を、理性で押し留める。士郎の、その申し訳なさそうな態度が癇に障る。
 頭にくる。
 頭にくる。
 私は一体、彼に何を期待していたのか。
「今回ばかりは、失敗は許されない。結果的に、このような形になってしまったが、俺には遠坂の力がどうしても必要だったんだ」
「私は『もしも』の時の保険、ってわけ?」
 知らず、声に棘が入る。
 何を怒っているんだろう、私は。彼が私の何に期待していたのかなんて、そんなこと、初めから解っていたはずなのに。そうだ。半ば予想はしていた。どうして真祖の姫の討伐に、そんな危険で勝算の薄い戦いに、士郎が私を巻き込んだのか。
 心のどこかでは解っていた。士郎は私の能力に僅かな望みを掛けたのだ。
 そこに、間違いなんてない。
 無いはずなのに。
「……行こう」
 私の問いには答えず、士郎は回廊を奥へ向かって歩き出す。
 私の胸の焦げ付きは治まることは無かった。ふつふつと、胸の奥で炎が燃えている。
 手負いで早く歩けない私を置いて、士郎はどんどん前を歩いていく。その背中を、ゆっくりと追う。
 違うのに。
 きっと、彼は解っていない。
 私が怒っているのは、別に私を保険扱いしたことなんかじゃなくて。
 仲間だと思っているのなら。
 騙すような真似をして申し訳ない、と思うほどの信頼関係があると思ってくれているのなら。
 ただ、初めにそのことを話して欲しかっただけなのに。
 ただ一言、私の能力が必要だ、そう言って欲しかっただけなのに。
「……ッ」
 刺すような鋭い痛みが、胸に走った。思わず大理石の回廊に膝をつく。庇うようにして胸の辺りを腕で押さえた。
 折れた肋骨が痛む。さっき痛み止めを打っただばかりなのに。思っていたより、状態は悪いのかもしれない。
「大丈夫か? 少し休もう」
 掛けられた声に顔を上げると、士郎の顔が目の前にあった。
「すまない。手負いの遠坂のコト、忘れてた」
 躊躇いがちに、私へと手を差し出す。
 その手を、私は胸を庇う腕とは反対の手で制した。
「平気よ。それより、急がないと逃げられちゃうじゃない」
 袖を捲くり上げ、外套の中から痛み止めを取り出す。
「遠坂? 何を……」
 士郎の問には答えず、懐からハンカチを取り出し、口に含む。そのまま、腕に針を突き刺した。
「……ッ」
 はぁ――、ゆっくりと息を整える。大丈夫。まだ歩ける。
 顔を上げると、士郎がうわ、と爬虫類でも見るような目で私を見ていた。これでもかというほどに、顔が引きつっている。
「……なによ」
「いや。相変わらず、思いきりがいいな、と」
「馬鹿。剣持ってドンパチやる方が危ないでしょう。注射器は医療器具なんだから、あんな殺人道具よりも断然マシじゃない」
「自分の腕に突き刺すとなると話は別だろ。それに、どうも俺にはその注射針がな…… 」
 引きつった顔で、注射針の突き刺さった腕を見ている。
「はぁ――。だから、アンタはいつまで経っても『魔術使い』止まりなのよ。まったく、何時まで経っても半人前ね」
 注射針を引き抜くと、簡易な魔術で注射器を燃やす。
「さ、早く行きましょう」
 立ち上がる。全身を蝕んでいた痛みは既に消えていた。魔術刻印に肉体の制御を任せて、ゆっくりと歩き出す。しかし、士郎は歩き出そうとしなかった。じっと私の顔を見つめている。
「……何よ。行かないの? あいつら、逃げちゃうわよ」
「なぁ、遠坂」
「なによ」
「負ぶってやろうか」
「……ッ! 馬鹿、何言ってるのよ!」
 怒鳴りつけると、士郎は一瞬、驚いたような、困ったような顔で私を見た。そして、ふっと小さく唇を歪める。
「そうか――。それは残念だ」
「……ッ!! 」
 そこで、からかわれたのだと気付いた。顔が一気に熱くなる。くそぅ、怪我なんてしてなかったら一発殴ってやったのに……!
「なに笑ってるのよ!」
「いや、遠坂はやっぱり遠坂だな、って思ってな」
「当たり前じゃない。何よ、その話し方。止めなさいよ。何かの冗談のつもり? 全然笑えないわ」
「なんのことだ?」
「うるさい、馬鹿」
 そうして、私たちは再び、回廊の向こうへと向かって歩き出した。 
 ゆっくりとした足取りで、漆黒の暗闇を敷き詰めたような、長い長い回廊を歩いていく。
 私も士郎も、何も話さなかった。ただこれから待ち受けるであろう戦いを思って身を引き締める。
 やがて回廊は終わりを告げ、玉座へと続く吹き抜けの聖堂が姿を現した。先ほどの大聖堂と比べると酷く小さな聖堂。石造りの階段の上には窓があり、そこから玉座が見下ろせる造りになっている。
 私たちは構わず奥へと進む。玉座を覗こうとは思わなかった。
 やがて、目の前に観音開きの扉が現れる。
 大聖堂の扉が城門なら、これは玉座へと至る王の扉だ。今まで通ってきたどれよりも頑丈な鉄の門。どこまでも続く静謐を体現するかのように、重く閉ざされている。まるで巨大な猛獣でも捕らえているかような重厚さだった。
「行くぞ」
 士郎が短く言った。私は頷く。
 士郎の太い腕が扉に掛かる。城中に張り巡らされた鎖が、大きく軋んだ。ゆっくりと、扉が開いていく。

「さぁ――。ここが、最奥だ」






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