4/真祖の姫 「正義の味方に、なってください」 悩み、苦しむ俺を見て、彼女はそう言った。 「正義の味方に、なってください」 色の無い憔悴しきった顔で、彼女はそう言った。 どうして気付かなかったのだろう。 一体いつから、彼女はそんな表情をするようになったのだろう。 一体何が、彼女をこんなにも苦しめていたのだろう。 「疲れたの。あなたと居るのが。もう、耐えられない」 彼女もまた、苦しんでいたのだと。 他でもないこの俺が。彼女を守っていくと誓ったこの俺が、彼女を苦しめていたのだと、そう、理解した時。 俺は、|一度諦めたはずの夢《おとしたつるぎ》を、もう一度拾い上げることにした。 ……その後は、ただただ、無我夢中で走り続けた。 その道が間違っていると知っていても尚。 俺は、走り続けることしか出来なかった。 殴られた頭を抑えると、視界を埋め尽くすようにノイズが走った。頭がくらくらするし、目の焦点が合わない。軽い脳震盪を起こしているみたいだ。 左側頭部の辺りが熱い。 あの馬鹿力、思いっきり殴りやがって……。ああ、目がチカチカする。痛む頭を抑え、手探りで地面をつたいながら立ち上がる。 「あ、」 平衡感覚が掴めない。足がもつれる。地面が遠い。世界がぐるぐると回って。 ああ、駄目だ。不味い、倒れる――。 受身を取ることもできず、身体は吸い込まれるように石造りの床に、 「――え?」 到達する前に、確かな力でしっかりと支えられた。 「うわっ」 突如訪れた浮遊感に顔を上げる。すると、焦点を結び始めた視界の中央に、彼女の顔が映った。 「アルク、ェイド……?」 力の入らない身体を軽々と抱え上げ、アルクェイド・ブリュンスタッドは、いつか見た、あの見惚れるような笑顔で、俺を見下ろした。 「久しぶりね、志貴。元気そうで良かったわ」 出会ったときから変わらぬ、真っ白な太陽のような、その笑顔。 「ん? それともこの場合は『おはよう』の方がいいかしら?」 「こ――」 形容し難い感情に顔が歪む。伺うようにして俺の顔を覗き込んでいたアルクェイドは、「ん?」とわずかに首をかしげた。 「どうかした? 大丈夫?」 「大丈夫、ってお前……!」 震えそうになる声を抑え、俺は昔と変わらず、底抜けに明るく笑う彼女の顔を、思いっきり引き寄せた。 「この馬鹿女! 思いっきり頭を張り飛ばしやがったな! 馬鹿力なんだから、ちょっとは考えろ……。いや、そうじゃなくて! なんで起きてるんだよ!? 早く玉座に戻って寝てないと」 「ええ、そうね」 声を荒げる俺に、アルクェイドは気を悪くした風も無く静かに笑った。不意打ち気味の笑顔に、思わずその顔に見入ってしまう。頭を殴られて幻覚でも見ているのだろうか。俺の目には、その表情がどこか、安心した、と言っている様に見えたから。 「すぐに片付けて戻るから大丈夫。志貴はそこで休んでて。……五分もかからないわ」 そういって、アルクェイドは表情を引き締める。その瞳は薄く、朱色に輝いている。 「待て。俺も行く。一人で行かせられるか……!」 叫んだ瞬間、くらり、再び眩暈。飴玉みたいに視界が溶けて、ぐにゃりと歪む。 その目が再び彼女の顔を捉えたときには、引き締められた彼女の横顔だけはそのままに、背景だけがセル画のように変わっていた。 いつの間にか、俺達は聖堂の隅まで移動している。 「よいしょ」 瓦礫の落ちていない、比較的綺麗な場所へ俺を降ろすと、彼女は呆れたように笑った。 「その身体で何言ってるの。志貴は心配性ね。大丈夫、すぐ終わるわ」 そういって、スタスタと歩き出す。 「ア……アルクェイド!」 その背中に呼びかける。しかし、アルクェイドは振り返りもしなかった。 大きな声を出したせいだろう。頭が割れるように痛む。平衡感覚も不確かで、しばらくまともに動けそうにも無かった。 「うっ」 ザザ、 再び視界に、ノイズが走る。少し長く死を見すぎたか。脳の神経が悲鳴を上げている。 「くそ。アイツ、わざと……」 一人、平然と歩いていく彼女を見送る。蜘蛛の巣のように張り巡らされた、死の線だらけの視界の中、半年振りに見たその背中は、やっぱりどこか、か細く見えた。 「ふん」 引き結んだ口元を、忌々しそうに開き、 「納得がいかないな。世界の危機を未然に防ぐために戦う俺より、魔王の護衛である殺人貴の方が運が良いというのはどういうことなんだ? まったく、神様ってヤツがいるとしたら、相当捻くれたヤツに違いない」 士郎は「ふん」と不機嫌そうに鼻を鳴らした。 皮肉を言う声にも力が無い。あの一撃で殺人貴を仕留められなかったことが、相当堪えているようだ。さっきからずっと、ぶつぶつ文句ばかり言っている。 「別に、あんたの運が悪いことと、殺人貴は関係ないでしょう……。それより、どうするのよ! とうとう出てきちゃったじゃない!」 「……ふむ。さて、どうしたもんかな」 犬みたいに情けない顔で眉尻を下げると、士郎は瞑目するように瞳を閉じた。 「考えてどうにかなるものなの? ああ、頭痛い」 この城に進入してから、どれだけの時間が流れただろう。空には巨大な満月が浮かび、遥か高みから私たちに光を投げかけている。時刻を測るものは持ってきていないから、時間の感覚がいまいち掴めない。随分長い時間いるような気もするし、まだ一時間ほども経っていないような気もする。 崩れた大聖堂の屋根から星空を見ることができれば、在る程度時刻を予想することが出来るかもしれない。 そう思って見上げた空にはしかし、星は殆ど臨めなかった。雲が掛かっているんじゃない。月明かりが眩しすぎるため、星明りが弱いのだ。 それにしても、大きな満月だ。 月。 地球という惑星に最も近く、最も受ける影響の大きな天体。片時も離れることなく、地球の周りを回り続ける添え星。まるで監視するかのように、この地球を見下ろしている。 遥か昔から、遠い未来まで。 気の遠くなるような長い時間を、ただ見つめ続けている。一体、何の為に? 「来たな」 士郎が組んでいた腕を解き、ゆっくりと目蓋を開ける。 明る過ぎる月明かりに照らされて、純白の姫君が歩いてくる。その歩みは酷くゆったりとしたもので、気負いや緊張と言うものは一切感じられない。優雅ささえ漂っている。 その歩みが止まる。私たちを一瞥すると、真祖の姫は恭しく顎を引き、 「ようこそ、我が城へ。客人……歓迎するわ」 純白のドレスの裾を掴み、淑女のように一礼した。 いや、実際に淑女なんだろう。なにせ真祖のお姫様だ。まあ、彼女の王国はすでに死に絶えて久しいが。 スタイルが良い分、その仕草は昔見た常冬の国のお嬢様のものよりも様になっていた。 私たちは八メートルほどの距離を挟んで向かい合う。 八メートルというこの距離。士郎の間合いまでは少し足りない。しかし、彼女にとってはどうだろうか。先ほど殺人貴を聖堂の隅に移動させた時のスピードを見る限り、これくらい距離、彼女にしてみれば無いのも同然のように思える。 「私の名はアルクェイド・ブリュンスタッド。この城の主にして、真祖の姫」 堂々と、威厳に満ちたその姿。高く響く、澄んだ声音。その顔には静かな微笑さえ浮かんでいる。 「それで? そんな私に用のある、貴方たちは何物?」 その笑顔とは裏腹に、私たちを見つめる視線は氷のように冷たい。まるで無機物でも見るような、そんな冷たさが、その朱い瞳には宿っている。優しさや喜びといった色はもちろん、殺意も敵意も憎しみも――興味でさえも、その瞳には移っていなかった。 だというのに。 その瞳に見つめられるだけで、それだけで。 「……っ」 私は、種としての優劣を理解する。 人智を超えた美貌を湛える冷たい横顔。隙の無い身のこなし。圧倒的な存在感。そして、人を超えた証である、その朱い瞳。 「まさか、あなたから歓迎の言葉をもらえるとは思わなかった。はじめまして、真祖の姫君。俺の名前は衛宮士郎。……『魔術使い』だ」 そう言って、士郎は胸に片手を置き恭しく頭を下げた。恐ろしいまでに似合っていない。 「貴女は?」 真祖の姫の視線が私に向けられる。敵にいちいち名乗るような趣味は持ち合わせていないが、向こうが名乗った以上、こちらも応えるのが礼儀だろう。 「……遠坂凛。魔術師よ。所属は無いわ」 私が名乗ると、真祖の姫は微かに首をかしげた。無理も無い。私たちの名前に心当たりが無いのだろう。まして、所属も無いとなれば尚更だ。 「ふぅん。ま、いいわ。それで、私になんの用?」 真祖の姫の問いに、私たちの間に沈黙が降りた。士郎の方へ視線を向けると、彼はまだ胸に手を当て、頭を垂れたままだった。 「では、単刀直入に」 そして、そのままの姿勢で彼は言った。 「――あなたの首をもらいたい」 そう言い終えた刹那、士郎の姿が掻き消えた。 突如轟く破壊音。地面が割れ石片が飛び散る。一瞬で駆け出した士郎は、真祖の姫が立っていた場所に深々と――いつの間に投影したのだろう。左手に握った短刀、莫耶を突き刺していた。 「チッ、」 しかし、そこにはすでに真祖の姫の姿は見当たらない。どこに逃げた、と辺りを見渡したその時、 「せっかちね」 遥か頭上から、声が投げかけられた。 「!」 声がした方へ目をやると、真祖の姫は遥か上空、崩れ落ちた天井に腰掛け、こちらを見下ろしていた。 「誰の差し金? トラフィム? 聖堂教会? それとも魔術協会かしら?」 静かな朱い瞳が、私たちを見下ろしている。 「いずれでも無い。俺達は、」 「じゃあ、誰?」 「ッ!?」 士郎の身体が強張る。その目の前で、真祖の姫君が妖艶に微笑む。 さっきまで天井近くに座っていた真祖の姫。その白磁のように白い手が、ゆっくりと士郎の首から顎までを艶かしく撫で上げる。 莫耶を振り下ろしたままの姿勢から、士郎は一歩も動けない。鋭い爪がつっ、目を見開く士郎の首を浅く切り裂く。赤い、玉のような雫が零れ落ちた。 「今ここで正直に話してくれたら、見逃がしてあげてもいいわよ」 そういって、真祖の姫の瞳が士郎の瞳を覗き込む。 朱い、朱い双眸が、士郎の瞳を捕らえる。 不味い。その瞳を見つめては……! 「士郎、離れて!!」 「くっ、」 私が叫ぶのと同時に、金縛りが解けたかのように、士郎の身体が動いた。凪ぐようにして、干将を一閃させる。しかし、剣は空を斬り裂くのみ。 士郎の剣は、真祖の姫にかすり傷を負わせるどころか、触れることすら適わない。 「――まさか」 まさか、ここまでとは。 戦慄でもない。恐怖でもない。この感覚はなんだろう――。そう、諦観だ。半ば諦めに近い気持ちで、私はその様子を呆然と眺めていた。ぶわ、と背中から冷や汗が吹き出る。 一歩も動けなかった。何も出来なかった。 圧倒的過ぎる。魔術回路を起動させることも、この手に宝石を握ることも出来やしなかった。 「さぁ、どうするの?」 「……ッ、誰の差し金でもないといっているだろう。俺は、俺たちは、自分たちの意思でここにやってきた!」 動揺に震える声を抑え、挑むように双剣を真祖の姫に向ける。そんな士郎に、彼女は「そう」と呟くと、あっさりと背を向けた。 「!?」 士郎の顔に迷いの色が浮かぶ。隙だらけの背中。そこに斬り込むべきかどうか。奔り出しそうになる身体を抑え付けながら、苦虫を噛み潰したような表情で、その背中を睨みつけている。 「……っく」 双剣の切っ先が、僅かに下がる。 士郎は、斬り込むことが出来なかった。多分、私が同じ立場だったとしても、同じ選択をしていただろう。なんという重圧だ。 殺人貴とあれだけ渡り合っても息一つ乱さなかった士郎が、立っているだけなのに肩を浅く上下させている。その額には、玉のような汗が浮かんでいた。 「士郎」 立ち尽くす士郎の元に歩み寄る。真祖の姫はこちらに背を向けたまま、少女のような足取りでゆっくりと私たちから離れていく。 その背中を見つめながら、今度こそ私は懐から宝石を――。持ちうる限り最高のものを選び出し、握りこんだ。 「……流石に場所が悪かったわね」 「気付いたか」 「まぁね。ここは彼女の城ですもの。空間移動ぐらい、お手の物でしょう」 真祖の姫の、あの移動速度。あれはもう早さがどうという次元の問題ではない。その動きを追うことが出来ないのも当然。彼女は『空間そのもの』を移動しているのだから。 この城の名前は『千年城』ブリュンスタッド。真祖の王族の証である、ブリュンスタッドの名を継ぐ者にのみ再現できる、唯一無二の月の城である。いわば、ここは彼女の体内。文字通り、ここは『彼女の城』なのである。 この城で、彼女の思い通りにならぬ場所は無く、またその身に出来ぬことも在りはしない。 「まぁ、いいわ」 コツ、真祖の姫の足が石造りの床を叩く。くるり、と振り返るようにして、彼女の朱い瞳が再び、私たちを捉えた。 「で、どうするの? 退くの? それとも死ぬ?」 まるで夕食のメニューを尋ねるような気軽さ。その表情には特別な|感情《モノ》など何も無い。もしかしたら、彼女にとって私たちの命は、 「早く答えて頂戴。五分経っちゃうじゃない」 それこそ、夕食のメニュー程度の意味しか持たないのかもしれない。 圧倒的な力の差を、まざまざと見せ付けられる。しかし、それでも、 「どちらでもないさ。アルクェイド・ブリュンスタッド」 衛宮士郎は、 「どちらでもない。俺は、ここでお前の首を戴く」 彼我の実力の差が明らかであると、理解し過ぎるほどに理解していてもなお、その鋼のような信念で|真祖の姫に相対する。その瞳には、一片の迷いもありはしない。 アルクェイド・ブリュンスタッドの瞳が、問うように私を見た。その無言の問いかけに、私はゆっくりと首を振ることで答える。 「そう」 真祖の姫はつまらなそうに目を細めると、無造作にその右腕を振り上げ、 「残念。それじゃあ、さよならね」 引き裂くように、地面に向かって腕を振り抜いた。 「っ!」 それは反射に近かった。 地面を全力で蹴って駆け出す。真祖の姫を中心に円を描くように、少しずつ彼女から距離を取る。 私は時計回りに。士郎は反時計回りに。打ち合わせたように息は合っている。 すぐに風を切るような音が鳴り響き、直後に空気の収束する気配。キイィン、という甲高い高周波が鼓膜を振るわせる。 「……!?」 次の瞬間、私たちが立っていた地面が石床ごと消失する。そう、それはまさに消え去った、と表現するしか無かった。細かな塵が、月光を受け、空気中でキラキラと光を反射している。 「空間の断層……!!」 空気中に真空状態の断層を幾重にも作り出し、それに触れた石床を塵レベルまで切り刻んだのだ。空気中でキラキラと光を反射しているのはその欠片。そうか、あれが、 「あれが真祖の固有能力――」 「……空想具現化か!」 空想具現化。自身の意思を世界に直結させることによって、これを思い描いた通りに変貌させる世界への干渉能力。 「脆弱ね。あなたたちは」 「!?」 目を離したわけではない。それは本当に、一瞬の出来事だった。掲げた腕を振りぬき、空間の断層によって、私たちが居た場所を切り刻んだ真祖の姫……。その白く美しい顔が、今、私の目の前にある。 「まずは、あなたから」 そういいながら、持ち上げた手には禍々しく月光を弾く、長く鋭く伸びた爪。その顔には冷酷な薄い笑みが浮かんでいる。 「―――|Acht《八番》……!」 ブローチとして身につけていた宝石の魔力を開放する。 躊躇いも無く振るわれる五本の爪。それは、宝石に込められた魔力によって眼前に展開された防御陣に防がれる。……はずだった。 彼女の爪は、防御陣をもやすやすと突破する。 「ふぅん。がんばるのね」 「……っ!!」 右腕が一瞬、熱を帯びる。続いて鋭い痛みが二の腕に走った。なんて凄まじい、魔力の凝縮。一度ならば宝具でさえも無効化できるはずの防御陣を、ただの爪の一振りで……! 「ッ……|Anfang《セット》! |Drei《三番》,|Vier《四番》!」 傷の程度を確認する間もなく、握っていた宝石を真祖の姫に向かって突き出す。痛みに歯を食いしばり、魔術刻印を限界まで疾駆させる。 「||Ein KOrper ist《灰は灰に》……」 回せ、回せ、回せ。高速で詠唱を続ける魔術回路にありったけの魔力を注ぎ込む。それに応えるように、周囲の大気が吹き荒れるように収束を始める。 「なにを」 呟く真祖の姫の目の前に、小さなバレーボール大の火球が現れる。吹き荒れる風は吸い込まれるようにして、その小さな太陽に収束していく。 「―――!!」 風と一緒に吸い込まれそうになる身体を、何とか地面に抑え付ける。 まだ足りない。あと少し……! 自分の身体までフォローしている余裕は無い。切り札として用意した護りはさっきの一撃で塵と化している。 覚悟を決めろ、魔力を流せ――。 「|ein KOrper《塵は塵に》――!」 唱えると同時に、手の中にあった宝石が二つ、一斉に粉塵と化した。 「よし、成功……!」 凝縮された空気の中に封じ込められた灼熱の火球が一瞬、縮んだように見えた。 真祖の姫の瞳が大きく見開かれる。 くらえ、|瞬間契約《テン・カウント》の大魔術――! ――――ッ! ミサイルが落ちたような爆発が聖堂に巻き起こる。凄まじい熱量の奔流。外套として着込んでいた対魔術礼装が、ズタズタに引き裂かれる。 外套は炎と熱は防いでくれたが、衝撃波までは防いでくれなかった。 「――ッ!?」 浮遊感も何もあったもんじゃない。車に撥ねられたような暴力的な衝撃に、身体中の骨が軋む。あまりの圧力に、意識が飛びかけ、 「グッ!? あ――……っ」 胸部に走った、突き刺すような痛みで覚醒した。気付いた時には、身体は聖堂の壁に叩きつけられていた。 「ハァ、ハァ、……」 頭と胸が割れるように痛い。腕の傷は――良かった。骨までは達していないみたいだ。出血は酷いが、命に関わるほどのものではない。 「ッ……肋骨は、いったか」 少なくとも、二本。脳に送られる痛みの情報が多すぎてマトモに自分の状態を判断できない。あれだけの衝撃だ。肋骨の三、四本、折れていても可笑しくはない。 聖堂のあちこちで、炎が静かに燃えている。これは爆発の二次的なものに過ぎないけれど、それでも相当な範囲に及んでいる。 「それにしても、はは……。なんて、威力」 予想以上の破壊力に、自分でも驚いてしまった。何せ、とっておき中のとっておき。一人前の魔術師でも一分、高速詠唱を用いる魔術師でも三十秒はかかるとされる大魔術を、一瞬で起動させたのだ。これだけ気前よく宝石をぶっ放したのは、過去に一度だけ。あの時も、私たちと敵には残酷なまでの力の差があったっけ。 「は、ぁ――っ。――うぅ」 肺に空気を送り込むと、胸が焼けるように痛んだ。痛みに小さく呻き、地面を転がる。 しかし、これくらい覚悟の上。こうしなければ、きっと私の首は地面を転がっていたに違いない。 「――へぇ、結構やるんだ」 未だ燃え盛る炎の中から、涼しげな女性の声が響く。 「ちょっと見直したわ。あなたはオマケ程度にしか思ってなかったから」 それは、聞き間違えるはずも無い、真祖の姫の声だった。 「――化け物。……本当、ツイてない」 炎の中から現れた真祖の姫は、傷どころか、そのドレスに僅かな乱れさえも見出すことは出来なかった。相も変わらず、涼しい美貌を称え涼やかに笑っている。 呼吸といえるかどうかも怪しい、浅い息を吐きながら、いっそ清々しささえ感じつつ、私は真祖の姫を見上げた。 「ご愁傷様。私に魔術は効かないの。傷つけるつもりなら、せめて魔法の一つくらいは持って来なさい」 あちこちで、ぱちぱちという炎の爆ぜる音が響いている。どこか遠くで聖堂の壁が崩れる。空には一つきりの巨大な満月。 真祖の姫は、動けない私にゆっくりと近づく。その鋼よりも硬い、どんな名刀よりも鋭く剛い、透けるような爪が、白い月明りを照り返して怪しく光る。 ゼー、ゼー、肺から息が漏れる。 ゼー、ゼー、ゼー、ゼー……。 駄目だ。痛い。痛くて寝ちゃいそう。考えないと。どうしよう。動かない右腕。だくだくと流れ続ける血液。麻痺して感覚の無くなった両の足――。 ああ、やっぱり駄目だ。勝ち目なんて、そんなの初めから無かったんだ。きっと初めから――。この城に来ると決めたときから、私たちは、 「……本当、無茶、言うんだから……」 眠い……。もういいや。どうせ、この怪物からは逃げれらないんだし。 薄れていく意識の中、ぼんやりと、どこか他人事のようにそんなことを考えていた。その時、 「――?」 ふと、どこか遠くで。 どこか遠くで、歌声のような旋律を聴いたような気がした。 「……――I have no regrets.This is the only path」 「!?」 真祖の姫が、弾かれるように背後を振り返る。 ああ、あの馬鹿……。今まで助けにも来ないで何をやっていたのかと思えば。そうか。アイツには、まだ奥の手が――。 「My whole life was――“|unlimited blade works《無 限 の 剣 製》”」 右肩の傷を抑え、見上げたその先には、アイツが。 幾十もの剣を携えた、剣の丘の担い手が立っていた。 「――!?」 振り返った真祖の姫の顔が、驚きに染まる。 アルクェイド・ブリュンスタッドの眼前には、異様な光景が繰り広げられていた。否、それは異界の光景と言ったほうが正しい。 空中に浮かぶ、担い手のいない数十を超える剣の切っ先。その全てが、彼女ただ一人へと向けられている。 「受け取れ、真祖の姫!」 士郎の腕が突き出される。それを合図に、一斉に、剣の群れは矢のように撃ち出された。 「……!」 それは、流星のようだった。 尾を引いて降り注ぐ数多の剣。真祖の姫を貫かんと撃ち出されるそれらは、どれも特級と言うに相応しい、誉れ高い宝具ばかり。 「ッ……!」 真祖の姫が顔を庇うように出したその腕に、深々と剣が突き刺さる。その真紅の瞳に、ありありと驚愕の色が浮かんだ。 いかに最上級の精霊である真祖の姫とて、これだけの幻想を受けて無事に済むわけが無い。 「……ッ」 腕に突き刺さった剣を、自身の手で引き抜くと、剣の雨を避け、捌き、あるいは爪で弾き返し――彼女は右腕を高く掲げた。 真祖の姫の眼前にある空間が、大きく歪む。肉眼でもわかるほどの空間の断絶。 そこに到達した刹那、流星の剣の郡は時が止まったかのように、その動きを停止した。 まるでその空間に絡め取られるように、剣は停止し――そして、先の方から塵と化していく。 「これは、宝具!? あなた何物……!?」 驚愕に見開かれた真祖の姫の瞳が、空中で動きを止める、一つ一つの武具を確認していく。 それが如何なる時代、如何なる英雄によって使われた武装であるのか、それを彼女が知っているのかどうかは定かではない。 しかし、それで十分。 それが『|貴い幻想《ノゥブル・ファンタズム》』と呼ばれる物であると理解しているのなら、全ては事足りる。それらがいかなる名前を持っていたとしても、重要なのは、それら武装が、彼女にとって脅威と成り得る、数少ない武装であるという事実のみなのだから。 「……っく!」 剣の一斉掃射はなお、勢いを弱めることなく真祖の姫へと降り注ぐ。 「いつまで耐え切れる、真祖の姫――!」 降り注ぐ剣の雨の向こうから響く、士郎の裂帛の叫び。決して引かぬ、とその声は語っていた。 「ふ――。無駄よ。どうせ長く続きはしない……!」 真祖の姫の瞳が朱く光る。空間に向けて突き出された腕に力が篭る。 尽きることなく剣の雨は降り注ぐが、それらは余すことなく空間の断絶に囚われ、瞬く間に消えていく。真祖の姫の元へは、ただの一振りも到達することはない。それは一見、士郎の手詰まりのようにも思えた。 しかし、これで終わるはずが無かった。 何の前触れも無く、降り注ぐ数多の幻想の、そのうちの一つが、真祖の姫の守りを通り抜けた。 何事にも、例外は存在する。 それが何という名の剣で、どんな英霊が所持していたのか。それは解らない。 だが、忘れてはならない。 これらの刀剣は全て、それぞれが伝説となる逸話を持った、稀代の名刀であるということを。 ならば、この結果は必然。 数多語り継がれる伝説の中に、空間の断裂を越えるという逸話を持ったものが無いと、どうして言い切れるだろうか。 「!?」 空間の断層を抜け出した剣は、易々と真祖の守りを突破し――。腕を突き出した真祖の姫へと、吸い込まれるようにして疾駆する。 真祖の姫は動けない。動けば、塞き止めている無数の剣を止めることが出来なくなってしまう。 剣は狙い済ましたように、一直線に真祖の姫の胸へと吸い込まれていく。そして――。 その剣は、突如振るわれた一振りのナイフによって、完膚なきまでに『殺害』された。 「――五分。時間切れだ、アルクェイド」 どこか不機嫌そうな声色。 真祖の姫が瞳を丸くして、驚きの言葉を発する。大きく息をつくと、殺人貴は真祖の姫へと小さく笑いかけた。 「待たせたな。随分苦戦してるみたいじゃないか」 片方の唇を吊り上げ、からかうように殺人貴が笑う。 「まぁ、無理も無いか。あいつは贋作使い。あらゆる武装を創造できる」 キィン、 「……といっても、まさかここまでやるとは、俺も思って無かったけどな」 ナイフに弾かれ宙を舞う剣――。中華風の短剣、干将。 それは空間の断層を越えてではなく、降り注ぐ剣の雨とは全く別の方向から投げ込まれたものだった。 いつの間にか剣の雨は止み、担い手もその姿を消していた。 「あれ、投影魔術なの? へー……等価交換の原則を無視。まるで志貴とは正反対なのね」 どこか感心したように呟きながら、真祖の姫の視線が何かを追うように動く。 「危なっかしくて見てられないな。五分経ったし、頭の痛みも治まった。俺も一緒に戦う。……文句は言わせないからな」 殺人貴は笑う。それは、私が今まで見た彼のどの表情とも違う――どこにも落とす影の無い、少年のような無邪気な笑顔だった。 「真祖おおおぉぉぉ!!」 そして、咆哮が上がった。 目を移せばそこには、二人へと憤怒の形相で迫る――衛宮士郎の姿があった。 陰陽二振りの双剣が、剥き出しの殺意を纏って真祖の姫に迫る。させぬと間に入った殺人貴が、すかさずナイフを合わせた。 双剣とナイフが衝突した瞬間、衝撃が波紋のように周囲に広がった。 「オオォォ!」 士郎の踏み出した地面がひび割れ、石片が弾け跳ぶ。 繰り出される連撃。受けるたびに、殺人貴の表情が苦痛に歪む。やがて、押し負けた殺人貴は大きく弾き飛ばされると、苦しげな表情で、ナイフを持った右腕を庇うように押さえた。 「死ねッ! 殺人貴!」 士郎は止まらない。呻く殺人貴へと飛び掛ると、再び双剣を振り上げる。 「……っ!」 鋼と鋼がぶつかり合い、盛大に火花が迸った。 「――な」 なんだ、アレは。 知らず、私は呟いていた。 そこには、今まで見たことの無い士郎の姿があった。表情は憤怒に染まり、まさに悪鬼の形相。抑えきれない殺意は世界を侵食し、石床に突き刺さった数多の剣が震えている。 「どうしたのよ、士郎……。そんなの、らしくないじゃない」 背筋を冷たいものが落ちる。殺人貴や真祖の姫を相手にしたときとは違う冷たさだった。それは、本能的な恐怖ではなく、心理的な惧れ。共に歩んで来たと思っていた友人の、今までに見たことの無い姿に、心が震える。 「オォッ!」 悪鬼のような膂力と速度で四度、士郎は双剣を振るう。剣技などではない。力任せに、相手を破壊するためだけに振るわれる、裂帛の斬撃。それらを受ける度に、殺人貴の表情が苦痛に歪む。 「――っ!?」 あまりの威力に腕が耐え切れなかったのだろう。殺人貴の守りが崩れる。その手は力が入らず、ナイフを落とさないようにするので精一杯だ。 「ハ――ハハッ!」 士郎の顔が喜びに歪む。今が好機と、陰陽の双剣を振り上げた。 「――終わりだッ!」 その瞬間、 「!?」 足元の石床が震え、さながら塔のように隆起した。 「なに!? なんだって言うのよ……!」 周囲の光景が豹変する。突然の出来事に意識が追いつかず、私は不覚にも殺人貴の姿を見失ってしまった。 「っ、駄目。ここで見逃すわけにはいかない……」 どこまでも高く隆起する石塔の群れの中に目を凝らす。すると一瞬だけ、殺人貴を抱え、石塔の上を跳躍する真祖の姫の背中が見えた。 「まさか」 ――逃げた、のか? 「っ、奴ら、どこへ――!」 両手に剣を構えた士郎が、横たわる私のすぐ近くへと着地する。怒りと憎しみの篭った視線で、ただ二人が逃げた方向を睨みつけている。 「士郎?」 「!?」 名前を呼ぶと、士郎は視線から逃れるように、くるり、と背中を向けた。 「……どうしたの?」 言い知れない不安が、胸を締め付ける。まるで、士郎が私の知らない、別の存在になってしまったようで。 「大丈夫か? 遠坂。戦えそうか?」 いつもの声で、士郎が言った。その声には、いつもの穏やかささえ篭っている。 「え、ええ。私なら平気。少し休んだから。……ごめんなさい、援護できなくて」 「いや、いい。二人は玉座か。離れると面倒だ、追おう。――立てるか?」 地面に手を突き、ゆっくりと身体を起こす。身体を休めたおかげで、簡単な応急処置を施すことが出来た。あちこち痛むけれど、まだなんとか闘える。 「大丈夫よ。それより、士郎」 「では、行こう」 私の言葉を遮って。士郎は逃げるように顔を背けると、ゆっくりと聖堂の奥へと歩き出した。 「あ」 思わず伸ばした手は、宙を彷徨うだけで、その背中に触れることはない。 「士郎……」 行き場をなくした子供のような声が、知らず喉から漏れた。胸を締め付ける、纏わりつくような嫌な予感。 士郎は一人、玉座へと歩き始める。 どうしてだろう。今はその背中が、酷く遠い。 |