虚言の王・虚空月の月



第二部 聖杯戦争



1.契約-2



 闇の中に、黒い少女が立っていた。
 少女……そう。女性というにはそのシルエットは些か幼すぎる。
 黒い、と表現した理由は彼女のその姿にある。
 闇よりもやや薄い漆黒のドレス。そして、腰まで届くほど長く伸びた黒髪。
 少女の華奢な体を包み込むドレスは、闇を縁取るように浮かび、絹のように滑らか黒髪は、逆に墨を流したように闇に溶け込み、その輪郭を曖昧にしている。
 濃淡の違う黒い色彩の中、白磁のような顔が闇の中に、ぼう、と浮かんでいる。唇に引かれた紅がモノトーンの世界の中で一際鮮やかに映える。
 ルージュを引いたような、色鮮やかな紅。
 鮮烈に過ぎるほどに朱い、紅。
 血のように、赤い。
 笑っている。
「どうした?私がわからないか?」
 長い睫を湛えた瞳が細められる。少女特有のあどけなさを残したその貌が、薄い嗜虐の笑みを湛える。子供には不釣合いな表情であるはずなのに、どういうわけか、それが実に彼女に似合って見えた。
 強い意思を秘めたその瞳も。
 ドレスの下から覗く真っ白な素足も。
 それらが一つの芸術を彩る装飾品のよう。
 ―――どこか人を見下したように笑う、その仕草さえも。
「『契約』は成立しているはずだが……おや?お前には刺激が少し強すぎたかな?……どれ」
 瞳の中を覗き込まれるような感覚。少女の双眸が、じぃ、とこちらを見つめている。
 そこで初めて―――俺は少女の瞳が朱色で、薄く燐光を放っていることに気付き、そして、
「お前は……」
 自身が、衛宮士郎であることを認識した。
「お前は、誰だ?」
 思わず呟いた。
 霧が晴れたように、曖昧だった意識が覚醒する。目の前の少女を警戒しつつ、辺りを見回し―――思わず、息を呑んだ。
 見渡す限りの闇。四方は全て闇に包まれていて、この場所がどこにあるのかも確認することが出来ない。そして、
「……なんだ、これは」
 闇に塗りつぶされたように、自分の身体さえも目に映ることは無かった。
 なんだ?俺は、前にも同じような感覚を・・・。
 ギシ、
 と。頭の芯が軋むように痛んだ。
「血の契約は結ばれた。この契約は何者にも犯されること無く、何よりも尊い―――」
 再び少女に視線を向ける。少女は変わらず俺の目を見つめていた。再び、既視感。ギシリ、頭蓋の奥が軋るように悲鳴を上げる。
 続けて、謡うように少女は言った。
「お前は失うはずだった命を取り戻し、その身では得難かいほどに強大な力を得た」
「……何を、言っている」
 少女の異様な雰囲気に、思わず身じろぎをする。と、同時に―――手足に抵抗を感じた。
 ずる、
 何かが。強い粘性を持った何かが、体の回りに纏わりついて動けない。
「そう。契約だ。血液の交換を持って契約は結ばれた。血は魂の対価だ。―――衛宮士郎。お前は、お前が望む姿になると良い」
「何を、言っている。俺に何をした!?」
 力の限り手足を動かす。しかし、コールタールの海を泳ぐように、手足は何かに絡め取られ、自由に動かすことも出来ない。視線を下に降ろすも、そこには色濃い闇が広がるばかり。胸に、冷たいものが広がっていく。
「契約は既に成立している。後は、お前が誓約を果たすのみ」
 俺の問いかけには答えず、少女は一方的に話しを続ける。何かを受け取ろうとするかのように俺に向かって、すぅ、と片手が差し出された。
「魔王を、倒せ」
 漆黒の少女は、厳しい口調で命じた。
「ヨーロッパのある古城で、魔王が産まれようとしている。お前の使命はその魔王を退治することだ」
「……何を、馬鹿な。何故俺にそんなことを頼む」
「お前には既に拒否権は無い。お前は、自ら望んで私の血を受けたのだから」
 少女は陶然と、その美貌に冷笑を湛える。
「そして、私はお前の血を受けた……ふふ」
 その頬に、僅かに赤みが差す。
 恍惚の表情で。白く、体躯の割りに長いその人差し指で、唇に付いた真っ赤な血を拭い―――舐め取る。
「良かったぞ?お前のは。ん、ふ―――身体が燃えるようだ―――」
 妙に艶かしいその仕草に、ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
 自分の立場を認識する。
 ―――この場において、彼女は絶対的な支配者だった。
「魔王の名はアルクェイド・ブリュンスタッド」
 人差し指を唇で弄びながら、少女は言った。
「アレはもう駄目だ。堕ちるのを待つただの屍だ。哀れで見ていられない」
 その表情に陰りが浮かぶ。憂いを秘めた瞳が、俺を見て誘うように笑った。
 泥の沼で、もがく様に四肢を動かす。この四肢を、四肢を、死屍を。
「アレが堕ちる前に、護衛を抹殺し、その首を切り落とし、その身を粉砕する」
 つい、と少女の視線が外される。それだけで、それまで息苦しかった呼吸が楽になった。
「これを持って、契約は果たされる。良い話だろう?成功すればお前は世界を救った正義の味方だ―――喜べ、衛宮士郎。お前の夢は今果たされる―――」
「お前は……何なんだ。何故……、ッ、俺の前に、現れた」
「私の名前はアルトルージュ・ブリュンスタッド。それがお前が契約を結んだ相手の名だ」
 少女が嘲う。圧倒的に支配される側である俺を見下ろし、淑女のように、あるいは無邪気な少女のように。
 もがく。全力の限り。目の前の少女の胸倉を掴み引き倒し―――いや、それでは駄目だ。全力で逃げなければ。一刻も早く彼女から離れて、そして
「では最後に―――この契約は、お前と私の間で交わされた。故に他に知る物は無く、関わることはできない。契約の期限は―――」
 盛大に暴れたせいで、どろり、と口内に粘ついた液体が侵入した。
 全身を絡め取るように、この世界を満たしていた闇の一部が。
「う……ぁ……」
 それは、吐き気を催すほど濃密な、血液の味だった。


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