どこで間違ってしまったのだろう。 少なくとも、一度は人並みの幸せの中にいたはずなのに。 「―――と。まぁ、こんな感じ」 そう簡単に締めくくって。 遠坂凛は喋り疲れたのか、大きく伸びをして一息ついた。樫の椅子が、ぎしり、と音を立てる。 午前九時三十二分。冬木市にある小さな喫茶店。 外はしとしとと雨が降り続いている。もう六月も半ば。俗に梅雨と呼ばれるこの季節、外に出れば湿度の高さに気が滅入るが、店内は空調が効いているため比較的過ごしやすい。 「はぁ……」 凛の肩がぐったりと下がる。 30分ほど一人で話し続けたのだ。疲れるのも無理は無い。特に会話の相手が相槌一つ、僅かな表情の変化一つ見せなかったのだから、彼女が気疲れしてしまうのも至極当然と言える。 しかし、私にはどうしても。 今の彼女には相槌一つの気遣いさえ、する気にはなれなかった。 「……」 凛は立てた肘に顎を乗せこちらを伺うように見つめている。あまりにも私の反応が悪いからだからだろうか。珍しく、どこかそわそわとしていて落ち着きがない。 「コーヒー、飲みますか?」 カウンターから、自分でも少し乱暴だと思える手つきで、彼女の前にカップを置く。 ゆらゆらと揺れる漆黒の液面。 一瞬、驚いたような顔で液面を見つめた凛だったが、ちらりと私に視線を寄こすと、少し遠慮気味にカップに手を伸ばした。 凛が話し終えるのを待っていたため、コーヒーは既に温くなってしまっている。冷めたコーヒーは、香りが飛んでしまうから決して美味しいものではない。しかし―――だからといって今の私には、彼女の為にコーヒーを煎れ直してあげる気にはなれなかった。 「……」 カップを引き寄せると、凛は適温と言うには少し温くなっているその液体を一瞬だけ見つめ―――。一気に喉の奥へと流し込んだ。 「ん……ありがと。美味しかったわ」 つらり、と言ってのける。 「……心にも無いことを。相変わらずですね。貴女は」 じろりと凛を睨みつける。彼女はどこかそわそわしているくせに、真っ直ぐに私の目を見つめ返してきた。曇りの無い瞳に、一瞬たじろぐ。彼女は本当に十一年前から変わっていない。その目は真っ直ぐに未来を見つめている。 「本当よ。ライダー。渇いた喉を潤すには適温だったわ」 小さく笑って、空いたコーヒーカップをカウンターに乗せた。 「でも、この店自慢のホットコーヒーも飲みたいわね。もう一杯貰えるかしら?」 「……」 私は心の中で息を吐いた。 そう言われては、こちらも煎れ直すしかない。 凛の言葉には何も返さず、サーバーからビーカーを取り出し、カップにコーヒーを注ぐ。今度はミルクと砂糖もつけて、凛の前に置いた。 「うわぁー……」 コーヒーの香りを嗅いだ凛が歓喜の声を上げる。 「ネルドリップで煎れてる所ってあんまり無いのよね。やっぱり、ここのが一番だな」 そう思ってるのなら、どうしてもっと頻繁に顔を出さないのか。ここの店の主人はいつだって、美味しいコーヒーを出せるよう気を配っているというのに。 肝心の飲ませたい相手が、来ない。 「ねぇ。ライダー……怒ってる?」 「……」 伺うような、彼女の瞳。 ……その瞳に、負けた。 「別に。怒ってませんよ。とりあえず、無事で何よりです。お帰りなさい、リン」 思わず出たねぎらいの言葉。皮肉とはいえ、このような言葉を掛けるなんて私も甘くなったものだ。いやこの場合、情が移ったと言った方が正しいのだろうか。 よほど難しい表情をしていたのだろう。私を見て、凛は困ったように苦笑した。 「……こんなにも言われて心が安らがない『お帰りなさい』は随分久しぶりだわ」 「そうですか。それなら心安らぐ『お帰りなさい』を行ってくれる方を呼んできましょうか?彼女なら、掛け替えのない、唯一の家族である貴女を心から迎えてくれるでしょうね」 「いいえ。遠慮しておくわ」 私が言い切らないうちに早口でそう答えると、凛は気まずそうに視線を外した。左手で肩にかかった髪の毛を弄りながら、バツの悪そうな顔で店の入り口を見つめている。 まったく・・・。 カタ、 磨いていたコーヒーカップをシンクの上に置く。少し考えた後、自分のためにカップにコーヒーを注いだ。 「しかし、本当に良く無事に帰ってきたものですね。正直もう会うことは無いと思っていたのですが・・・」 カップを口に運ぶ。含んだ液体は少し苦みが強かった。 何時も同じ味を出すというのは容易ではない。私自身、このレベルの味をコンスタントに出せるようになるまで八年かかった。 「そうね。……私も途中で何度も、もう駄目だと思ったわ」 その時のことを振り返っているのだろう。凛は目を細めると自嘲混じりに微かに笑った。 「正直、もうここには来れないかも、っていう覚悟くらいはしてたし」 「……死地だとわかっていて、士郎について行ったんですか?」 内心驚く。無駄な重荷を嫌う彼女が、どうして勝算の見込めないとわかっている戦いに赴いたというのだろうか。 いつでも自信に満ち溢れた彼女は一見、何でも苦も無くこなしてしまう、天才であるかのように思われることがある。彼女自身、意識してそのように振舞っているような所もあるのだが、しかし、彼女のその溢れんばかりの才能は、彼女自信の地道な努力と研鑽の元、時間を掛けて磨き上げられたものだ。 それは、一見いつでも華やかな光を放つも、育むまでに気の遠くなるような時間を要する、色鮮やかな宝石のように。 だから彼女は無駄なことに時間を割いたりしないし、無理だと判断したことはすっぱりと未練無く諦める。 今回の件に関しても当然、彼女なりに見込んだ勝算があったからこそ、あのような戦地に赴いたのだと思っていたのだが・・・。 「何言ってるのよ。絶対助からないっていってたのは、ライダー。あなたでしょう?」」 「……確かに言いましたが。しかし、それならどうしてそんな無謀な真似を?貴女らしくもない」 「……」 「リン?」 「さぁね。私にもよくわからないわ。行くだけのメリットがあったような気もするし……。案外、あの馬鹿が放っておけなかっただけなのかもしれないわね」 どこか遠い、冷めた目で内省する凛。魔術師としての彼女は、その行動を軽蔑している。 その気持ちは、少しだけ……私にもわかる。 「まったく、リンの悪運の強さには驚かされます。折角、サクラに貴女が亡くなったということをどう説明するか考えていたのですが……。無駄になってしまいましたね」 「ちょっと、悪運とは何よ。それに、あなたがあの子にどんな説明するつもりだったのか、凄く興味があるんだけれど」 「いいえ、この場合は悪運が正しい表現です。それもいい加減尽きてしまって欲しい所ですが」 容赦なく言って捨てる。二つ目の問いに関しては、答える気にがなれなかった。ここ最近の、最も大きな悩みがそれだったのだが……。 どうやら、それも杞憂に終わったようだ。ここまで悩ませておいてこの仕打ちはどうか、と思わなくもないが、心のどこかでほっとしている自分がいるというのも事実だ。 「それで……結局、貴女はどうするんですか?」 仕切りなおすように、真っ直ぐな視線を凛に向ける。 彼女は眉根を寄せると、自分の不幸を嘆くように頭を抱えた。 「そうねぇ……どうしようかしら。といっても、大師父が行け、って言ってる以上、行かないわけにはいかないわよね……」 「そうですか。それでは、さようなら。リン。短い付き合いでしたね」 うぅー、と凛が唸り声を上げる。 「……やっぱり怒ってるじゃない。ライダー」 「怒ってませんよ」 カウンターに静寂が満ちる。朝も早いためか、店にお客の姿は見られない。私達のコーヒーを啜る音だけが、時折店内に響いている。外は今も雨。微かに雨音が聞こえる。 雨の日はどうしても客足が遠のく。加えて今日は平日である。まだしばらくは暇を持て余しそうだ。 なかなか明けてくれない梅雨。今年は入りが早かったというのに、明けるのはまだ先になりそうだった。 「……士郎は、どうするのでしょうね」 取り留めの無いことを考えていると、そんな言葉が出た。 「決まってるじゃない。あいつは行くわよ、絶対」 当然、というように凛が答える。 確かに今のは愚問だった。 士郎は行くだろう。何があろうと。何が待ち受けていようと。 彼の決意は揺るがない。 その道を選択するに当たって彼が犠牲にしたモノが、掛け替えのないものであればあるほど、頑なに自分を貫くだろう。 「あいつ、本当に馬鹿だから」 「……そうですね」 凛は、気だるそうに窓の外に視線を向けた。 昨夜から降り続いている雨は、少しずつ雨脚を強めている。 「……私は今でも時々、あなたを恨みますよ。・・・リン」 思わず漏れた本音に、凛が言葉を返すことは無かった。 士郎とサクラ。あの二人が今のような関係になってしまったきっかけ。それはどこにあったのだろう。 私は今でもよくその発端を、無駄と知りつつも考えてしまうことがある。 何が決定的な原因だったのか。 責任は誰にあるのか。 選択し得る未来は他に無かったのか。 ……考えても、答えは出ない。 そもそも、考えること事態が無意味だ。そんなこと最初から解っている。零れたミルクは戻らない。仮にそれがわかったとしても、私にはどうすることも出来ない。 今の私にわかることがあるとすれば。 ここまで私達が辿ってきた道のりが、今現在こうしてある私達の状況が、決して一つの事象のみに起因して出来たものでは無いと言うことだけだ。 私達は日々の生活の中で、最良と思える判断を、正答と考える選択を繰り返してきた。 その結果、今という光景が描き出されている。 しかし、未来とは決して一人の意思のみで決まるものでは無い。 周りにいる多くの人や、物、あるいは事象。そして、それらが複雑に関係して、無数の可能性を紡ぎだしている。 多様な種類の、様々な色をした糸が、複雑に絡まり、縺れ、あるいは途切れて、今という状況を作り出している。 だからこそ、未来を正確に読み取ることは出来ない。その中で明確なターニングポイント、全ての過ちの元凶を示すことなど不可能だ。そんなもの、全知全能の存在でもなければ出来はしない。 しかし。それでも私が無駄と知りながらも思考の海に沈んでしまうのは、始末に終えないことに、この未来が私には十分に予想出来ていたからだ。 予測できていたのに、回避できなかった。 となれば、私が選んだ選択は最良ではなかったということではないだろうか。 全知全能である必要など無い。駒は揃っていた。しかし、それでも見誤った。 ……それは過失であり、罪と同義であると、私は思う。 |