2.レポート・フロム...



 二人が窓の外の景色を眺め始めてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
 時計の電子音が、午前十時を告げた。
「……遅い」
 長い髪を弄びながら、遠坂凛は不機嫌そうに呟いた。
「待ち合わせは、九時で間違いないんですよね?」
「ええ。あいつから時間と場所を指定してきた癖に……。まったく、ふざけたヤツだわ」
「待ち合わせに遅れるなんて、士郎にしては珍しいですね」
 ライダーは一度凛へ移した視線を、窓の外へと戻した。外はまだしとしとと小雨が降り続いている。穏やかな雨音。苛立った凛が机をコツコツと叩く。
 カラン、コロン、
 慌しい音を立てて、店の扉が開いた。
「すまない、遠坂。遅れてしまった」
 息を切らせながら、雨合羽を羽織った士郎が飛び込んできた。走ってきたのだろう。士郎はずぶ濡れだった。その姿を見て、凛は顔を顰しめた。
「ちょっと、衛宮くん。傘くらい差しなさいよ。風邪引くわよ?」
「いや、あんまり遠坂を待たせるわけには行かないだろ。少しでも早く来れるように、傘は差さなかったんだ」
 傘を差すと走れないからな。と最後に付け足すと、そこで士郎は大きく息をつき、ハァハァ、と浅く呼吸を整える。浅黒く焼けした顎から、雫が一つ落ちた。
「士郎。これを」
 カウンターの奥、住宅部分へと繋がる扉が開き、何時の間に移動したのだろう。ライダーが白い手拭いを持って現れた。長い腕が素早く動き、白いタオルが士郎へと投げ渡される。
「ああ、すまない、ライダー。助かる」
「いえ」
 タオルを受け取った士郎に、ライダーは無骨な表情で応えた。
「遅れて済まない、遠坂。随分待たせてしまったみたいだ」
「……いいわよ。ライダーが話し相手になってくれたし、暇はしなかったから。それより、何かあったの?」
 椅子の上で足を組みなおし、凛は額に手を当てた。怒り半分、諦め半分。ただ、ずぶ濡れで走ってきた士郎を見て怒る気力を無くしただけだ。
「そういってくれると助かる。で、遅れた理由なんだが……」
 一度、何かを考え込むるように視線を宙へ彷徨わせて、
「出掛けに、バチカンの諜報部から連絡が入ってな。面白い映像が手に入ったから、遠坂にも見てもらおうと思って持ってきたんだ」
 士郎は手に持っていた鞄をカウンターの上に置いた。タオルで簡単に顔を拭うと、着ていたビニールの雨合羽をカウンターの椅子に掛け、凛の隣に腰掛ける。
「そうだ、ライダー。ブラックを一つ貰えるか」
「……」
 じろり、と一瞬、士郎を睨みつけるも、ライダーは何も言わずに白いカップを手に取った。
「ちょっと、士郎。あんた今バチカンがどうとか言った? なんであんたが、あんなマフィアみたいな奴等と繋がりがあるのよ?」 
「知り合いがいるんだ。たまにだけど、秘密裏に情報を流してもらっている。……って、なんだよ。そんな難しい顔をして」
 さらり、と士郎は答える。しかし、凛はいかにも嫌そうに顔を顰めた。その機関が関わった事件に対して、彼女には碌な思い出が無い。
「……なんて顔してるんだよ。遠坂は、何かアレに恨みでもあるのか?」
「別に」
 思い出すのも嫌だ、というように首を横に振る。
「利害が一致したときに、少しだけ情報を流してもらっているだけだ。俺だって、別に深い繋がりがあるあけじゃあ無い」
「だけ、ってね……忠告しておくけど、あんな奴等とは関わらない方が身の為よ。本当、気が違ってるとしか思えない奴等ばっかりなんだから!」
 きっ、と士郎を睨みつける。
「む。それは言いすぎだぞ、遠坂。話のわかるヤツだっている。それに、ああいうのと繋がりがあると意外と便利だから……」 
「忠告したからね!」
 憮然とした顔で言い捨てる凛。
 しかし、士郎は至って暢気なもので、涼しい顔で鞄に手を伸ばしている。そんな様子の士郎に更に苛立つ凛だったが、当の本人は至って気付く様子がない。
「全く、二人とも呆れるくらい進歩が無いですね」
 二人を横目で見ていたライダーが口を開く。
「ちょっと、ライダー。このバカと一緒にしないで」
「変わりありませんよ」
 ライダーの冷たい流し目に、凛の背筋が凍りつく。
「これだけの死地を経験しておいて、目の前に空いた穴に気付かないとは、生物としてどこか異常があるとしか思えません。……そんなことばかりしているから犯罪者にまで成り下がるんですよ」
 吐き捨てるように言ったライダーの一言で、
 ぴしり、と。
 空気に亀裂が入った。。
「ラ、ライダー!」
 思わず凛が身を乗り出す。
「おっと。失礼。まだ『容疑者』でしたね」
 ライダーの声は氷のように冷たい。その口元には嗜虐の色さえ浮かんでいる。
 取ってつけたように言い捨てると、いそいそとカウンターに背を向けた。
 ライダーは怒髪天だ。凛は心の中で悲鳴を挙げた。怒ってる! 半端なく怒り心頭ですよ、ライダーさんは……!
「……」
 士郎は鞄を開けようとしたままの姿勢で硬直している。凛は思わず一度立ち上がりかけたが、横目で士郎を見やると、気まずそうに彼から目を逸らした。
 ……あー……どうしよ。
 凛は内心頭を抱える。今の士郎にとって、ライダーの言葉は禁句に近かった。
 ライダーの言葉通り……。
 衛宮士郎は一週間ほど前から、国際的な指名手配を受けていた。
 容疑はフランス軍への不正介入、及び施設へのテロ行為。今の士郎は血統書つきの犯罪者というわけだ。
 凛はつい先日、電話で士郎から詳しい経緯は聞いていたが、ライダーに至ってはつい先ほど凛から話を聞いたばかりだ。案外、士郎が入ってきてからライダーの機嫌がすこぶる悪くなったのは、士郎から彼女に直接連絡が無かったことが原因なのかもしれない。
 けど、士郎から電話なんて出来るわけ無いわよね。
 凛は思う。
 ライダーに言うってことは、桜の耳にも入るわけだし。はぁ。胃が痛い……。
 手が、自然と胃の辺りに添えられる。
 凛が聞いた話しによると、今回指名手配された原因となった事件は、士郎が数年前に起こしたものらしい。フランス軍と縁の深い聖堂教会の実力者に、ある対価を交換条件に事件そのものを揉み消して貰ったとか何とか。つまり、一度は解決した……いや、消失した事件である。
 しかし、どういうわけか三日ほど前、突如それは再燃した。
 イギリスのアパートで荷物の整理をしていた凛は、BGM として流していた夕方のニュース番組に衛宮士郎の名前を聞いて、思わず自分の耳を疑った。テレビに目を移すと、画面に映し出されていたのはローマ字表記された士郎の名前。その上には顔写真まで付いている。
 凛は肝の冷える思いだった。
 『魔術使い』エミヤシロウの名前は、多少なりともその手の世界では周知されて来ている。本来なら彼は、一般放送に登場して良い人物ではない。彼や凛のような類の人間が起こした事件は、秘密裏に起こり、秘密裏に処理されるべき問題である。もし隠匿を旨とする魔術協会の耳に入れば、刺客が送られる可能性も十分考えられた。
 もっとも、一般家庭向けに放送があったのは夕方のニュースのその一回だけ。それもヨーロッパ限定であるから、協会の耳に入ったかは微妙なところだ。もし入っていたとしても、そう大きな問題でもないから荒事になる確率は小さい。
 フランス軍が士郎の名前を流した目的はヨーロッパでの彼の行動をある程度規制することにあり、本気で捕まえる気は無いのだろう、というのが士郎と凛、二人の見解だ。
 現にライダーの話によると、彼の本籍に記されているこの喫茶店には事実関係の照会を求める電話が一本か掛かってきただけで、何の捜査の手も伸びていないという話だ。
 今回の件で士郎が負ったリスクと言えば、ヨーロッパでの行動に制限が掛かったこと、交通機関……特に航空機を使った移動がかなり制限されること。
 それとテロリストとして指名手配されることになったという事実による精神的ダメージの三つくらいだと、凛は考えていた。
 ……この時までは。
「サクラも声を失っていましたよ。まさか貴方が犯罪者になってしまうなんて、思ってもみなかったでしょうね」
「……ちょっと待ってくれ、ライダー」
 士郎の浅黒い顔が蒼く染まっていく。顔には多量の脂汗も浮かんでいた。
「この話は、桜も知ってるのか?」
「ええ。警察からの電話を受けたのはサクラでしたから」
「ぐっ、」
「一番大きなダメージはコレね」
 凛は、盛大に溜息を吐くと、士郎に同情の目を向けた。
「まさか桜の耳にまで入っていたとは誤算だったわ。ご愁傷様、衛宮くん」
「私が電話に出れれば良かったのですが。私とて、このような話題は、サクラの耳に入れる前に処理したかった、というのが本音ですよ」
 桜から電話の内容を告げられたライダーの混迷振りは想像に難しくない。掛ける言葉も無いとは、こういうことを言うんだろう。
「しかし―――どうして今になって何年も前の事件が出てきたのでしょうね。誰に得があるとも思えないのですが」
「それについては、もう見当がついてるの。子供の喧嘩みたいな理由よ」
 何故今になって事件が再燃してきたのか。それは凛にも見当が付いていた。
 凛の脳裏に、つい一週間ほど前に出会った、美しい少年の姿をした吸血鬼の姿が浮かぶ。
「お姫様に手を出した仕返し、ってわけ? 一度事件の揉み消しを頼んだ聖堂教会の実力者って、彼の事だったんでしょう?」
 士郎とて、こんな形で報復が来るとは思っていなかっただろう。
 どこまで計算してやったのかは知れないが、士郎にとっては効果的過ぎる報復だ。――随分と子供じみたやり方ではあるが。
「まぁ、一度殺されかけたわけだし……。これくらいで済んでよかったわよ。ね、士郎?」
「そういう問題じゃない。これではただの嫌がらせだ」
 拗ねたように士郎が呟く。彼の脳裏には、『これで帳消しにしてあげるよ』と、天使の様な顔に悪魔の笑みを浮かべた少年の姿が、ありありと映し出されているのだろう。
 事情を知らぬライダーだけが、カウンターの奥で首をかしげていた。
「ふん。……まぁいい。今更、名声や他人の評価なんぞに興味はない」
 自嘲気味に笑って、吐き捨てるように士郎は言う。それを聞いて、凛は眉を顰めた。
 それは、どこかで聞いたような台詞ではなかったか。
「ねぇ。士郎? 前から聞きたかったんだけれど……っていうか何度も聞いたような気がするんだけれど……あんたはなんで『正義の味方』なんてしてるの?」
「――む」
 途端、士郎の顔が渋面を作った。その顰め面も、以前どこかで見た顔に良く似ている。
 凛の問いは、彼に関わる誰もが抱いている疑問であるといっても過言ではない。そして、士郎が頑なに回答を拒んでいる問いでも在る。
 凛はその答えを知りたかった。それは、ライダーも・・・そして、桜も同じ気持ちだろう。
 士郎は何故、今でも正義の味方となることを望んでいるのか。
 彼が何の対価も求めていないということを、凛は理解している。他人のために命を賭して、世界中を駆け回ることに、彼は見返りなど求めていない。それは偽らざる本心だろう。
 金が欲しいのなら、投影魔術を使って稼げばいい。今の彼ならば、その気になればそう労せずに億単位で稼ぐことが出来る。
 名声が欲しいのなら一つの国、一つの組織の為だけに注力すればいい。今の彼の実力ならばすぐに働きに見合うだけの名声を得ることが出来るだろう。
 彼には、それを手に入れるに足るだけの能力がある。
 それなのに、士郎は何故、身を削り、命を賭して戦っているのか?
 もし尋ねたなら、かつての士郎はおそらく、こう答えるだろう。『ただ人々を、助けたかったからだ』と。
 しかし、凛にはそれが理解はできても、納得が出来ない。
 今の士郎が、ただそれだけの理由で、この道を選んだなどとは思えない。
「あなたには『正義の味方』にはなれない理由があったと思うんだけれど」
 彼には誓いが在った。八年前に交わされた、一つの約束が。
 それなのに。今の彼はどうだ。守るべき人を蔑ろにして、名も知らぬ誰かの為に戦っている。
 凛には今の状況が理解できない。この、誰も救われていない、今の状況が。
「忘れた、なんて言わせないわよ」
 士郎は答えない。
「あんただってわかってるでしょう?なんでこんなことを続けているのか、説明する責任くらいあると思うんだけど」
 士郎が約束を反故にしたとは、凛には思えない。そもそも、もしそのようなことがあれば、そこにいる騎英が黙っていないだろう。
 彼女はそういう意味では寒気を覚えるほどの冷徹さを持ち合わせている。
 カウンターの奥で、ライダーが身動き一つせず、耳を欹てて聞いている。
 その気配に気付いているのかいないのか。士郎は眉根を寄せて黙り込んでしまった。しかし、これで許してくれる凛ではない。じ、っとその猫のような大きな瞳で、士郎の顔を見つめ続ける。
 僅かな沈黙。
 やがて、耐え切れなくなったように、士郎が呻いた。
「……俺は別に、何かが欲しくてこんなことをやっているわけじゃない。それに――俺は正義の味方なんてものを、やっているつもりなんてない」
 どこか自棄になったような、そんな口調だった。
「なによそれ。あんたは正義のヒーローに憧れて、困っている人を助けたくて、日本を飛び出したんでしょう?」
 凛は呆れ顔だ。しかし士郎はそれ以上何も話すつもりが無い、というようにコーヒーに口をつけた。
 こうなっては、士郎は意地でも答えないだろう。
「……はぁ」
 答えを得られたとしても、真実を話してくれなくては意味が無い。
 凛は諦め半分で、本日何度目になるかわからない溜息を吐いた。
 もっとも、今までいくら問い詰めても口を割らなかったのだ。そう簡単にいかないことは、彼女も解っている。
「――まぁいいわ。それはいつかきちんと説明してもらうとして。話を戻しましょうか。さっき言っていた、バチカンからの情報っていうのは何だったの?」
「ん?……ああ」
 口をへの字に引き結び、憮然とした顔でコーヒーを啜っていた士郎が、怪訝そうに顔を上げる。もっと追求されると思っていたのだろう。 凛があっさりと引き下がったことで些か拍子抜けしたようだ。
「そうだな。話を進めるのが先決だ。……とりあえず、これを見てくれ」
 気を取り直すように言うと、士郎は鞄の中から手早く一台のポータブルプレイヤーを取り出した。
 ノート大の、薄型サイズ。銀色の流線型フォルムが、室内灯を反射して鈍く光る。続いて、鞄のポケットから取り出したのは、何のラベルも貼られていない一枚のディスク。
「口で説明するより実際に見てもらった方が早い。話は見終わってからにしよう」
 話しながら、士郎は器用に片手でプレイヤーを起動させるとディスクを挿入した。
 プレイヤー本体に飲み込まれて行くディスク。ドライブが唸るような回転音を上げる。
「短い映像だ。大した時間は取らせない」
 ほどなく、液晶画面に映像が映し出される。


※     ※     ※


 桜が力の制御の為に魔術の鍛錬を続けるのなら、士郎も魔術の鍛錬を続けてみてはどうか。
 そう提案したのは凛だった。
 固有結界を作れるまで、とは言わない。しかし、新しい身体を使いこなすと言う意味で、魔術の鍛錬はリハビリには最適だ。
 異を唱える者は居なかった。それは、、この騎兵の英霊わたしとて例外ではない。
 士郎自身も特に抵抗は感じなかったようだ。彼にとって魔術の鍛錬は、今まで習慣に近いものだったからだろう。
 サクラの魔術の師には私が付いていたので、士郎の師には凛が付くことになった。
 忙しく世界中を飛び回る凛は、付きっ切りで士郎に魔術を教えるわけには行かない。しかし、数ヶ月に一度必ず帰ってきて、的確なアドバイスを与えていった。
 サクラは当初は僅かな戸惑いを見せていたものの、小まめに姉が帰って来てくれることを素直に喜んでいるようだった。
 しかし――凛のアドバイスは的確すぎた。
 凛は士郎の魔術特性を実によく理解しており、士郎もまた、当初は新しい身体に多少の戸惑いを見せていたものの、もともと聖杯戦争時にある程度、自身の魔術特性の概形は見えていたのだろう。着実に実力を上げ、二年を過ぎる頃にはほぼ完璧に投影魔術を使いこなすようになっていた。
 ただ、固有結界の習得に関しては、凛は強く勧めたものの、士郎自身がそこまでは必要なし、と試すことは無かった。もっとも、当時の士郎でも魔力の供給さえあれば、使うことは出来ただろうが。
 この頃、士郎はサクラの卒業を待って籍を入れた。その一年後には、誰も住む者のいなかった間桐邸を売り払い、そのお金で小さな喫茶店を開いた。
 そうして三年が過ぎ、サクラの魔力は安定化の兆しを見せる。この頃には、師たる私に教えることは、殆どなくなっていた。もちろん、魔術師としてはまだまだ未熟だ。しかし、彼女にとって魔術とは自身の魔力を安定させる為の手段であって、目的ではない。後は日ごろの鍛錬を怠らなければ問題無いだろう。
 しかし。
 士郎の鍛錬はそのまま続けられた。――いや、むしろより過酷に、熾烈に、激しさを増していった。
 凛は着々と力を着けていく愛弟子を面白がり課題を与え続け、士郎はそれに嬉々として応えていった。
 私は、一度、彼に聞いてみたことがある。
「何故、そこまでして自己を鍛え上げる必要があるのですか?」
 士郎は答えた。
「いざと言うとき、桜を……近くにいる人達を守るためだ」
 照れたように笑いながら、真っ直ぐな瞳で。
 そこに嘘は無かった。
 本心からの言葉だった……のだろう。私も、心の奥底では何か予感めいたものは感じていたものの――咎めるような事はしなかった。
 今思えばこの時既に、歪みは出来ていたのかもしれない。根深く、そして決定的に。
 
 それから二年――聖杯戦争から五年後。
 衛宮士郎は一人、衛宮邸を後にする。


※     ※     ※


「な、」
 引きつったような声が、喉から漏れた。
「何なのよ、今の」
 ディスプレイを掴んだまま、凛は絞るように声を出した。
 ディスクは再生を終え、液晶画面はベリノイズを映したまま静止している。時間にして5分ほどの短い映像。それは、凛から言葉を奪うには十分な衝撃があった。
「今のは……」
 仕事を一時中断し、カウンターの外から画面を覗いていたライダーが、強張った表情で士郎を見下ろした。
「ああ」
 神妙な面持ちで、士郎が頷く。
「士郎。もう一回お願い」
 画面から目を離さないまま、凛が早口に呟く。
「わかった」
 士郎が手元のリモコンを操作すると、映像はすぐに始めの画面に戻る。
 今度は初めから、凛は画面の前で食い入るように映像を見つめている。その姿勢は、まるでテレビ越しに手品のトリックを暴こうとしている子供のようだ。ライダーも、先ほどよりも険しい顔で画面を睨みつけている。
 14インチのポータブルプレイヤーには、遥か上空から山脈を見下ろした映像が映し出されていた。衛星写真のようなそれは、まさしく大気圏の外、人口衛星から撮影した映像である。
 右から左へと、画面は一定のスピードでスクロールしていく。
 どこの地域だろう。天馬で世界中の俯瞰風景を見てきたライダーは、眼鏡の奥で目を細めた。
 一定のスピードで流れていく地表の映像。程なく、ライダーは見慣れた形の湾が映っていることに気付いた。
「ここは――」
 先ほどはわからなかった。しかし、よく見ればそれは、彼女には馴染み深い地形だった。
「北ヨーロッパ……ですね」
「そうだ。この辺りがバルト海になる」
 画面を指差して、士郎が言った。
 移動していた画面が動きを止める。そこから映像は倍率を変え、より地表に近づく。詳細な風景が次々と鮮明になっていき―――画面は、一つの地域を映し出した。
「ここは……」
「フィンランドね。何度か行ったことがあるわ」
 呟くライダーの言葉を受けて、凛が答えた。
 航空写真ほどの高度になった所で、再び映像は動きを止める。画面中央には小さくも慎ましやかな町並み。そして、淡いオレンジ色に照らされる、険しく連なる山脈が見えている。雲はまばら。地上からは綺麗に赤く染まった夕日を見ることが出来るだろう。
 時刻は夕方・・・午後四時から六時、といったところだろうか。
 軽い電子音と同時に、画面左上に四角い窓枠が映し出された。市街地から程遠い、山脈の麓に当たる部分。画面はそこを切り取るように拡大し、一気に地表へと近づく。 
 地上にいる人々の顔の皺の数まで数えることが出来る、それほどの距離。
 凛は二度目だというのに嘆息してしまう。遥か上空、大気圏の外にある衛星から、ここまで詳細な映像を映すことが出来るなんて……。科学技術の発達の目覚ましさにはいつも驚かされる。魔術ではこれほど詳細な、また鮮明な情報を得ることは出来ないだろう。
「……」
 画面には、一人の少女のバストアップが映っている。うら寂しい針葉樹林に覆われた山間部を背景に、貴族がどこかの舞踏会で着るような、豪奢な漆黒のドレスがふわり、と浮いている。流れるような黒髪。映像からでも、その腰まで伸びた黒髪の、絹のような光沢を確認することが出来る。
 少女の長い黒髪が柔らかな赤い日差しに揺れ、淡く光る。
 背中を向けているため、表情を窺うことは出来ない。ただ、風になびく黒髪の隙間から鶴の様な首筋が見え隠れしていた。
 ぴ、
 電子音が鳴り、カメラが少しだけ倍率を下げた。僅かに後ろに引く映像。少女の全身が画面中央に収まる。
 そこでようやく凛は画面の端に、少女のすぐ傍に控えるように立つ、黒い外套姿の男の存在に気付く。この映像を見るのは二回目だというのに、先ほど見た一回目と同様、凛は男の存在に気付かなかった。
 映っているのに、気付かない。
 それは、見る者の目を奪うほどの圧倒的な存在感を持つ少女に対して、男の存在ががあまりにも希薄に過ぎるためだろう。
 背の高い、線の細い男だ。……いや、そうじゃない。体つきは良いほうだ。だが、その幽鬼のような雰囲気が男をどこか頼りない、希薄な存在にしている。全身を夜よりも深い闇色の外套で覆っており、同色のフードを目深に被っている。白い貌だけが、フードの下から僅かに覗いていた。
 そして。男の反対側には付き従うように――。
「これが」
 少女から僅かに距離を置いて蹲る、真っ白な毛並み。
 象ほどの大きさもある巨大な獣が、赤土の地面に寝そべっていた。
「“ガイアの、怪物”」
 僅かに口に出すのを躊躇った後――凛は、その名を呼ぶのも恐れ多い、というように静かに呟いた。
 それは不思議な獣だった。像の様に巨大な体躯や、犬や狐のような外見は問題ではない。一言で言うなら、その獣は美しすぎた。白く長い体毛は僅かに発光しているようにも見え、神々しささえ感じてしまう。それはあまりにも特殊で、異形の存在であるはずなのに……。
 しかしそれはどういうわけか、とても自然に風景に溶け込んでいるのだ。そんなわけあるはずが無いのに、なんだか見慣れた動物を見ているような、そんな錯覚を抱いてしまう。
 沈黙が流れる。誰一人として、画面から視線を外すことが出来ない。
「この生き物があの魔犬ということは、この二人は」
「ドレスを着た少女の姿をしているのが、死徒二十七祖、第九位“月蝕姫”アルトルージュ・ブリュンスタッド。傍に控えている長身の男がその護衛、恐らく、第六位“黒騎士”リィゾ=バール・シュトラウトだ」
 凛の言葉を先回りするようにして、士郎が答える。その声は平静そのものだったが、言葉の端には隠しきれない忌避、そして畏怖の念が込められている。
「月蝕姫の護衛だという二人の祖の姿は俺も見た事は無い。が―――こいつが黒騎士と見て、まぁ間違い無いだろう」
「それで、このでっかい犬みたいなのが―――死徒二十七祖第一位、“ガイアの怪物”プライミッツ・マーダーってわけね」
 ガイアの怪物。霊長の殺戮者。アルトルージュ・ブリュンスタッドのみに従う白い魔犬。最強の一つに数えられる、文字通り”怪物”である。
「なんて揃い踏みかしら。話しには聞いていたけれど、豪華な顔ぶれね」
 凛が不適な笑みを零す。しかし、その瞳は笑ってなどいない。凛は戦慄している。御伽噺の存在と変わらぬ怪物たちの、その姿に。
 と。
 画面の中の黒髪がさらりと揺れ―――少女が、くるり、とその身体ごと振り返った。
「あ、――」
 凛は身を貫く戦慄をも忘れ――再び、言葉を失った。
 そこに映っているのは、色の白い、可憐な、という表現の相応しい美少女だった。人形のように小さな顔に、団栗のような眼が埋め込まれている。それはさながら――西洋人そのものの風貌とは些か趣を異にするものの――精巧な日本人形のようだ。
 紅色の小さな口が動く。何事か喋ったのだろう。横に立つ黒衣の男がそれに応える。黒騎士の表情は、画面からは窺うことは出来ない。
 画面を食い入るように見つめていた凛は、少女を見て思わず呟いた。
「――なんて、美少女」
「……凛。言うことがそれですか」
 見入られたように呟いた凛に、ライダーが呆れたような視線を向けた。じとっ、という重たい視線を受けて凛は、ううっ、と再び短く唸ると、不貞腐れたように唇を尖らせる。
「ああ、もう! 他になんて言えばいいのよ。なんかもう、いろいろぐちゃぐちゃ・・・頭の中、真っ白」
「無理もない。俺もこれを見たとき、しばらく何から考えればいいのかわからなかった」
 凛と士郎は顔を見合わせて嘆息すると、揃って頭を抱える。
 そうしているうちに、少女達を捉えている映像に変化が現れた。再び、画面上に四角いフレームが浮かぶ。無機質な電子音と共に、画面が更に少し引いて、画面後方から歩いてきた人物を捉えた。
 派手な外套に身を包んだ、体格の良い中年の男。腰元には豪奢な装飾のサーベルを差しており、口元には綺麗に刈り揃えられた髭が顎まで伸びていた。位の高い貴族のような、そんな重厚な風格を漂わせている。彼もまた少女と同様、肌が抜けるように白い。朱色の外套を翻し、黒騎士と少女の元へと歩いてくる。
「そして、これが第八位”白騎士”フィナ=ヴラド・スヴェルテン」
「凄い面子。こんなのが普通に歩いてるなんて。なんだか、眩暈がしてきた」
 立ち止まると、白騎士は大振りなジェスチャー混じりに少女たちに何かを話し出した。やがて、少女がぽつり、と一言だけ返す。そのまま身体の向きを変えると、ゆっくりと画面の向こうへ向かって歩き出す。
 少女の背中がゆっくりと遠ざかっていく。それに付き従うように、のそり、と白い獣が身体を起こした。少女の隣に並ぶと、獣はその鼻先を、主たる少女の元へと摺り寄せる。
 少女はその巨大な鼻先を、獣と比べあまりにも小さなその手で撫で上げ―――その歩みをと止めた。
 くるり、とドレスを翻し、舞い踊るように少女が振り返る。
「・・・!」
 凛は一度見た映像だというのに思わず、びくり、と身体を硬直させた。
 少女は、一直線にこちらを見つめていた。
 有り得ない。重ねて言うが、これは遥か上空、大気圏の外から捉えた映像である。
 だというのに。
 じっ、と黒色の瞳が凛を捉えて離さない。
『     』
 口元が、柔らかく形を変える。それはほんの一瞬。刹那にも満たない蜃気楼の中の出来事。微かに一言だけ、少女は確かに何かを呟いた。
 そして、ゆっくりと。
 少女は真っ赤な唇に舌を這わせ――目元を細めると、悪戯を企む少女のように、あるいは男を誘う娼婦のように、怪しく嗤う。
 ――ゾクリ。
 その場に居た全員が、肌が粟立つような悪寒を感じていた。
「なんて言ったのかしら?」
 凛が素早く隣にいたライダーに視線を向ける。しかし、
「……」
 ライダーは凛の問いには答えることは無かった。画面から、片時も目を離そうともしない。
 数瞬の間を置いて。
 少女との間を遮るように、漆黒の外套が一歩、前へ進み出た。ぱさり、被っていたフードが落ちる。
 黒騎士の素顔が夕日の下に晒される。髪は少女と同じ、黒色。線の細い顔立ちに肌の色は白く――いや、その顔色はむしろ蒼に近いだろう。整った顔立ちをしているが、美しさよりも、冷たさや不気味さの方が先行する――そんな美丈夫だ。橙色の夕日に照らされているというのに、この蒼白さ。それは生者のものでは有り得なかった。
 ”黒騎士”リィゾ=バール・シュトラウト。
 曖昧に照らす夕日の中、黒騎士は滲むように立っている。
 闇色の外套を切り裂くように、漆黒の甲冑に身を包んだ腕がするり、と伸びた。
 その手には、いつの間に抜いたのだろう。漆黒の刀身を持つ、一振りの長剣が握られている。
 細身、両刃の長剣。――長い。刀身だけでも、後ろに立つ少女の背丈ほどはあるだろう。
 しかし。
 ライダーは首をかしげた。
 何故だ?刀身が滲んで……いや、歪んで見える。
 彼女の瞳には、その漆黒の刀身が呼吸するかのように、膨張と収縮を繰り返しているように見えた。まるで、闇が呼吸をしているような。
「    」
 黒騎士が流れるような動作で、漆黒の長剣を振り上げる。その切っ先が、真っ直ぐにカメラの画面へと向けられた。
 そして。
 ぶつっ、
 短い音を残して、映像はそこで途切れた。
「……」
 沈黙が降りる。店内には雨音だけが微かに響いている。
 凛とライダーは、深刻な表情でベリノイズで埋め尽くされた液晶画面を見つめていた。
「以上がバチカンの諜報部が捉えた映像だ。――もっとも、話にはまだ続きがある」
 画面を睨みつけるように、腕を組んだまま士郎が口を開いた。
「懇意にしている諜報員の話によると、映像が途切れた直後、これを撮影していたフランス軍所有の探索衛星が消息を絶ったそうだ。今から八時間ほど前の話だ」
「探索衛星? あの男がやったっていうの?」
「さぁな。ただ、近くを飛んでいた別の衛星は、破壊された探索衛星に向かって地上から黒い光が伸びていくのを観測している」
 凛は思わず息を呑む。
「そんな、こと」
「……”魔剣”ですね」
 ライダーが、重い口を開いた。口元に手を当て、考え込むように目を閉じている。
「正直、想像以上です。私の『騎英の手綱ベルレ・フォーン』・・・いえ、あの騎士王の聖剣でさえ、大気圏の外にある衛星を打ち落とすのは不可能でしょう」
 神話の時代でさえ、そのような射程を持つ武具は数えるほどしか存在しなかった。それも、地上にいながら空をも切り裂く剣となれば皆無といってもいい。
「大気圏の厚さがおよそ百キロ。破壊された衛星の高度は聞いていないが、低軌道上だったとして最大高度千五百キロ」
 剣を振り上げるような仕草。
 士郎は一度、額の前で拳を止めると、スッ、と袈裟懸けに振り下ろした。
「千五百キロといえば、札幌・福岡間の直線距離に匹敵する。射程だけで考えれば、あの剣は日本列島を真っ二つに出来てしまうということになるな」
「……まぁ、いいわ。―――とにかく。そんなの誰にだって不可能よ。普通ならね」
 人差し指を立て、凛はキッと士郎を睨みつける。
「どんな剣だとしても、何かトリックがあるはず! ……と思いたいところね。どちらにしろ、あんなに簡単に衛星を打ち落とすなんて、どうりで化け物なんて呼ばれるはずだわ」
 凛の言葉から萎むように段々と力が抜けていく。始めの勢いはどこへやら、最後は消え入るように頭を抱え込んでしまった。
 黒騎士一人でこの戦力。少なくとも同等、又はそれ以上の戦力を持つ化け物が、残り三体もいるのだ。頭の一つも抱えたくなるというものだ。
「うぅ……。本当に胃が痛いわ。逃げちゃおうかな」
「案外、ゼルレッチ翁から逃げ切るほうが楽かもしれないな」
 力なく士郎が呟いた。
「本気でそんな気がしてきたわ。大師父なら死ぬ気でお願いすれば命くらいは助けてくれそうな気もするし……。ああ、駄目だわ。そんなの魅力的過ぎて思わず本当に選んじゃそうじゃない私……!」
「士郎。リンのストレスが大変なことに」
 きっ、と真剣な瞳でライダーが士郎に訴える。
「いや、巻き込んでしまっておいて悪いが、今の俺にはどうしようも……」
「いいわよ。今更恨み言は言わないわ。責任は後でしっかり取ってもらうし」
 言葉とは裏腹に、恨みがましい視線を士郎へと向けると、
「そういえば、士郎。あいつら、あんなところで何をしていたのかしら?」
 浮かんだ疑問に思わず首を傾げた。
「そうだ。問題はそこだ。俺も色々考えては見たが、どうも目的がはっきりしない」
 アルトルージュ・ブリュンスタッドと、その護衛である黒騎士、白騎士。そして、プライミッツ・マーダー。
 これだけの異形が、一体何の目的で北欧へ赴いたと言うのだろうか。
「軍の衛星がアルトルージュ一味を捉えたのは、これが初めてだそうだ。北欧での目撃情報もこれまでは皆無といっていいほど無い。どうも今回は随分と特殊なケースのようだな」
「特殊なケース、ね……」
 うーん。
 唸りながら、凛は眉根をよせ、傾げていた首を更に傾げた。
 北ヨーロッパ・・・か。何かアルトルージュ・ブリュンスタッドの企みに使われそうなモノがあっただろうか?
「現時点ではちょっと推測は難しそうね。で、黒騎士の魔剣の方はどうなの? 何か詳しいことはわかりそう?」
 気を取り直して、凛はポータブルプレイヤーを片付ける士郎に視線を向けた。
「そうだな。以前、メレム・ソロモンに聞いたことがある。黒騎士の剣は”魔剣ニア・ダーク”と呼ばれるモノらしい。詳しいことまでは聞くことが出来なかったが、通常の概念武装とはワケが違う、と言っていたな」
「ワケが違う?」
「ああ。剣というよりは概念に近いとか……何とか」
 眉間に人差し指を当てながら、士郎が目を細める。
「それだけ? もっと何かわからないの?」
「無茶言うな。そんなに簡単に情報が手に入るなら苦労はしない。只でさえ俺は今、指名手配中の身だ。使えるルートにも限りが出てくる」
 言って、士郎は肩をすくめた。
 いつもならこのような場面はシニカルに笑って嫌味の一つでも言いそうなものだが、今回は流石に落胆の色を隠せない。いつもの調子がすっかりなりを潜めている。
「いえ、そうではありませんよ、士郎。凛が聞きたいのはそういうことでは無い。凛は外部からの情報ではなく、貴方の見解を聞きたいのでは?」
「俺の?」
「そう。いくら常識はずれな”魔剣”でも、”剣”は剣でしょう?贋作者フェイカーとしての、あなたの意見が聞きたいの」
「……ふむ」
 凛の言葉に、士郎は先ほどの映像を吟味するように振り返った。
「正直、映像だけではなんとも言えないな。ただ……、普通の剣では無いというのは確実だ。何の材質で作られたのかも、どんな概念で編まれたモノなのかも、俺には想像も出来なかった」
 創造なんてもっての他だな。
 そう言って、苦笑する。
「全く。この間の指名手配といい……巧く行かないな」
 歪に笑う士郎に、ライダーは怒るような、哀れむような視線を向けた。
「……この間来た時よりも、状況が悪化していませんか?」
「そうかもな。実際、まだ何も問題は解決はしていない。聖杯どころか、真祖の姫だって、まだ暴走の危険を孕んでいるという意味では変わってない。だから」
 行かないと。そう言って、士郎はライダーを見つめ返した。
「あちらにはガイアの怪物が控えているのですよ?」
 顔を顰め、どこか悲痛ささえ漂うような視線でライダーは士郎を睨みつける。
「八年前、聖杯を求めて集まった全てのサーヴァント達が束になったとしても、あの怪物には勝てない。それでも、あなたはあの怪物たちと戦いというんですか?」」
「・・・!?」
 聖杯戦争の時のサーヴァント全てでも……アレは倒すことが出来ない。
 その言葉に、凛は心の底から戦慄した。
「そんなの」
 そんなの、あまりにも理解の範疇を超え過ぎている。
「結果は明らかです。ある意味、真祖の姫を相手にするより質が悪い。貴方は自分が何をしようとしているのか、分かってているんですか……!?」
 ライダーが思わず声を荒げたその時、場の空気を切り裂くように、甲高い電子音が鳴り響いた。
 顰められていたライダーの眉が、更に寄せられる。
 彼女にしては珍しい乱暴な手つきで、給仕服の中からスカイブルーの細長い携帯電話を取り出した。
「ちょっと待っててください」
 そう言って士郎をぎろり、と睨みつけると、ライダーは慣れた手つきで通話ボタンを押した。
「はい、私です。どうかしましたか、サクラ」
 そう言って電話に出たライダーは、いつもと同じ感情の篭らない、どこか淡々とした口調で応えた。
 桜の名前を聞いた瞬間、ぴくり、と僅かに士郎と凛の肩が跳ね上がる。
「はい、はい……。そうですか。わかりました。準備は私がやっておきます。……ええ。――いえ、サクラが帰ってくるまで待ちます」
 電話の内容に耳を欹てながら、士郎は一息つくと、温くなったコーヒーに口をつけた。
「……わかりました。え? 何か変わりは無いか、ですか?」
 ライダーの細められた視線が、士郎に向けられる。視線を感じた士郎は、カップに口をつけたまま動きを止めた。
「お、おい。ライダー何を考えてる」
「……」
 不穏な雰囲気に、息を潜め電話の内容に耳を欹てていた士郎が思わず囁いた。ライダーは軽蔑の篭った視線で士郎を流し見る。
「――いえ、特に何も。どうしたんです? 何時もはそんな事聞かないでしょう。何か心配事でも? ――そうですか。それならいいです。……そういえば」
「ゴホッ」
「――そうそう。ホイップクリームが少なくなっていました。買ってきてもらえますか?――はい。では、気をつけて。サクラ」
 相手が電話を切り終わるのを待って、ライダーはゆっくりと通話を停止した。
「ふぅ。どうしたのです? 士郎。そんな今にも首を吊りに行きそうな顔をして」
「……いや、何でもない」
 拗ねたような仕草でいじける士郎を見て、ライダーは、ふふん、と意地悪く唇を吊り上げる。
「安心してください。サクラは帰りが遅れるそうです」
「そっか」
 短く呟いて、再びカップに口をつける。
「ん? どうした、遠坂。偉くおとなしいな」
 いつものようにからかわれると思っていたのだろう。士郎が怪訝そうに顔を上げる。
 そこには、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、口を半開きにしたまま呆然としている凛の姿があった。
「ライダー……。あなた、携帯電話なんて持ってるの?」
「? はい。七年ほど前から。これは最新機種で、四ヶ国語の言語を翻訳出来るモデルです」
「……そう」
「最近は冬木も海外からのお客が増えてきましたからね。非常に重宝していますよ」
 呆然とした、しかしどこか鬼気迫る表情で見つめる凛に、ライダーは誰も求めていないのに、思わず機能の説明までしてしまう。
「七年前、ですって? しかも最新機種!? 英霊であるあなたが……?」
「ええ。サクラの様子もすぐにわかりますし、とても重宝していますが……?」
「もしかして。もしかしてだけど、メールやインターネットなんかも?」
 ギギギ、と凛の首がぜんまい仕掛けの人形のように動く。ライダーは、戸惑いを隠せない表情で答えた。
「はい。よく利用しますが。この店のHPも、私が管理をしていますし」
「嘘でしょ!?」
「……いや、遠坂。それ普通だから」
 遠坂凛の携帯の機種は四年前から変わっていない。因みに、メモリー数は現在12件。
 登録は、三年ほど前に、滅多に連絡を寄越さない凛を按じた彼女の妹がしてくれたものである。






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