3.四年前。



 ただ何となく、扉を見つめていた。
 士郎の出て行った、樫色の扉を。
「始まりは、本当に馬鹿馬鹿しいって思えるくらいに……くだらないことだったのよね」
 気付けば、そんな言葉が口から出ていた。
「士郎のことですか?」
 カウンターでカップを磨いていたライダーが、怪訝そうに眉を顰め私を見た。
「ええ。あなただって、同じコト考えてたんでしょう?」
 時刻は午後4時を過ぎようとしていた。さっきまで降り続いていた雨は上がり、微かな西日が窓から差し込んでいる。樫色の床が、扉が、壁が、赤く染まる斜光を反射して、店内を切り取るように照らしている。
 ライダーは少しだけ言いよどんだ後、胸につかえていた想いを吐き出すように言った。
「――、わかりますか?」
「なんとなく、ね」
 店の扉には『CLOSE』の札が掛かっている。昼には僅かに賑わいを見せた店内も、今は閑散として久しい。人気の絶えた店内を見渡すと、なんとも言えない寂しい気持ちになる。
 私は言うべきかどうか一瞬だけ迷い、口を開いた。
「ねぇライダー。話は変わるんだけれど……この店、閉めるのがちょっと早いんじゃない? 前はもっと遅くまでやってたわよね。お品書きを見た感じ、夜の方がお客さん入ると思うんだけど」
 私の言葉に、ん?と眉を上げると、ライダーは苦笑交じりに言った。
「ええ。今でも夜までやっていますよ。今日がたまたま早いだけです」
「どうして?」
「今日は定休日なんですよ。店を開けていたのは、単なる私の気紛れなんです」
 そう言って、ライダーは気まずそうに小さく笑った。
 そうか定休日だったのか。今日は私達が来るからと、無理して店を開けてくれていたらしい。
「え、そうなの? んー……悪いことしちゃったかな」
「気にしないでください。貴女達が来るからと言って、何も店を営業しなければならないというわけではありませんから。これは本当に、私のただの気紛れです」
 そう言って、ライダーは手に持っていたカップを棚に仕舞った。
「ふふ。しかし驚きました。凛がこの店の経営を心配してくれるとは。……けれど、心配は要りません。この店、評判は結構いいんですよ?」
 本当に可笑しそうに笑う。こんな表情のライダー、初めて見たかもしれない。
「でしょうね。コーヒーは勿論、料理にしても装飾にしても、文句の付け所が無いもの」
 私の口調も、自然と誇るような口調になっていた。別に私の店でもないというのに。
「経営者としての視点から言わせて貰うなら、あまり効率的な店とは言えないけれど……私は好きよ。こういう店」
 それは私の本心だった。『利益のためじゃなく、好きでやっている』。そんな心意気は心地よい。
「いっそのこと、二号店でも出してみる? 案外面白いかもよ?」
「相変わらずですね。けれど、この店の経営陣には商才のある者はいませんから。もしするとなったら、交渉はリンにお任せします」
 冗談めかして笑う表情も嬉しそうだ。ライダーは、心からこの店を愛しているんだろう。
 それはそうか。細かいことが苦手で、料理や食に興味の無かったあのライダーが、一人で店を任されるまでになったんだ。好きじゃなきゃ、やっていられない。
「ま、考えておくわ。――で、士郎の話なんだけど。ライダーはどんなことを考えていたの?」
「……ころころと話が変わりますね」
「いいじゃない。ライダーだって、こっちの方が興味あるでしょう? 話せば楽になるかもよ?」 
「……」
 逡巡するように、ライダーは視線を店内に彷徨わせた。思えば、今の彼女には有りのままの本音を打ち明けられる相手がいなかったのかもしれない。
「……四年前の、あの事件のことです」
「新都の?」
「ええ」
 どこか遠い、悲しそうな目で。
「あの時のことを……あの事件のことを、考えていました」

 ……今から四年前。冬木市新都で一つの事件があった。拳銃を所持した男が、人質をとって銀行に立てこもったのだ。銀行に立てこもるというと銀行強盗を想像しがちだが、この事件はそうではなかった。原因は交際関係にあった女性との痴情の縺れ。つまり、立て篭もり犯の交際相手が銀行員であったという、ただそれだけの話。
 そんな馬鹿馬鹿しい事件、三流コメディー映画よりも笑えない。
 男は銀行に押し入るなり、交際相手の女性行員を射殺。それだけで終われば良かったが、犯人はそのまま行内に立て篭り、その女性行員が付き合っていた……その、もっと端的に言えば、その女性と不倫関係にあった支店長を出せと要求してきた。支店長は偶然外出中で難を逃れたらしい。
 ……実にはた迷惑なヤツである。当時の私が抱いた感想も、それだけだった。
 しかし。
 これだけの話なら、よくある夕方のニュースとして私も聞き流していたのだが……。
 そこには偶然、居合わせた人物がいた。
 我らが恩師、藤村大河である。
 学校の用事で普段使わない銀行にたまたまやってきた先生は、たまたま押し入ってきた強盗に捕まって数十人からなる人質の一人となった。剣道有段者、冬木の虎の異名を持つ流石の先生も、子供を人質に獲られては迂闊に動けない。
 これは困った、と。
 テレビの向こうから様子を見守っているうちに、六時間が過ぎていった。
「ちょっと、士郎! どこに行くのよ!」
「決まってる。藤ねぇを助けに行く」
 痺れを切らしたように居間を出て行こうとした士郎の腕を、偶然帰省していた私が掴んだ。
「魔術はダメ! わかってる!?」
「わかってる。安心しろ。こんな公衆の面前で使ったりしない」
 止めに入った私からの忠告も、頭に血が昇った士郎は頑として聞く耳を持たなかった。
「士郎さん、落ち着いてください!」
 それまで皆と一緒にテレビ画面を覗いていた桜が、士郎の行く手を阻むように立った。
「俺は落ち着いてる」
 憮然とした顔で、士郎が答える。
「中には藤村先生がいるんですよ? 事件なんて、すぐに解決しちゃいますよ!」
「……私も、サクラの意見に賛成です。あなたが出て行っても、ただ犯人を刺激するだけでは?」
 おろおろとうろたえる桜に、ライダーが助勢する。
「藤ねぇだから怖いんだろ。下手に犯人を刺激して撃たれでもしたらどうする」
 イラついた様子で、士郎が言った。
 私が掴んでいた腕を振りほどき、玄関に向かって飛び出す。
 その首周りに、桜が飛びついた。
「や、止めてください! 士郎さん! 危ないです! ――きゃっ!」
「!!」
 ガン、と。
 振りほどこうとした士郎に押される形で、桜が頭から壁に激突した。
「あ……」
「いっ、た……」
 桜の怪我は大したものでは無かった。ただ、後頭部を壁に軽く打ち付けただけ。士郎は桜を振りほどいた時のままの姿勢で固まっている。
 気付けば私は、思わず士郎を怒鳴りつけていた。
「……ちょっと、士郎!! あんた、何やって・・・」
「いや……済まない。大丈夫か? 桜」
 頭に昇っていた血が降りたのか、士郎が申し訳なさそうに桜に手を伸ばす。
 そこへ。
 二人の間に立ちふさがるように、ライダーが立った。
「……士郎」
「……」
 ライダーは無表情だった。しかし、彼女が怒っていることは、付き合いの長い人間が見れば火を見るよりも明らかだ。士郎は、バツが悪そうに顔を逸らす
「忘れましたか? あなたは、約束しましたよね。サクラだけの正義の味方でいると」
「……」
「それなら、彼女を心配させるようなことは止めてください」
 静かな怒りを讃えて、ライダーは言った。板張りの廊下を、触れれば砕けてしまいそうな危うい沈黙が覆う。私は士郎を睨みつけたまま、サクラは呆然と。そして少しだけ申し訳なさそうな顔で二人を見つめていた。
 士郎は真っ直ぐにライダーの視線を受け止めていたが、僅かに唇を噛み締めると……力なく目を逸らした。
「そんな言い方、卑怯だ。それじゃぁ、何のために」
 何のために今まで鍛えてきたのか、わからない。
 士郎は、悔しそうに、そう呟いていた。
 その瞬間。
 ライダーと、サクラが浮かべた表情を、私は今でも忘れることが出来ない。
 再び降りる沈黙。
「……タイガならきっと大丈夫です」
 最初に口を開いたのはライダーだった。
「今は見守りましょう。必要とあれば、私も一緒に行きます」
「……」
 士郎は硬く口をつくんだまま、何も話そうはしなかった。
 ――それから30分後。
 テレビから銃声が鳴り響いた。
 痺れを切らした機動隊が、スタングレネード弾を投降し突入。興奮状態にあった犯人はパニック状態に陥り、照準も定めずに引き金を引いた。
 行内には撃たれた女性行員が倒れたままだった。実際、彼女は脳天を撃ち抜かれて即死だったのだが、この時点ではまだ生死はわかっていなかった。人命救助の観点から見ても悠長には待ってはいられない、という警察機関の判断の元の行動だった。
 犯人が人質から手を離した瞬間。一瞬の出来事だった。
 銃声は二発。
 うち一発が、胸を貫き。
 一人の女性が凶弾に倒れた。
 犯人の手から抜け出けだした子供を、その背で庇うように。
 ――その様子を、私達は呆然と。ただただ呆然と、テレビ越しに見つめていた。

「恐らく、そこから全てが狂って行ったんだと思います。サクラだって……ああなるとわかっていたら、士郎を止めたりせずに自分も一緒に現場に向かっていた」
「士郎は助けに行かなかった自分が許せなかった。自分を責めて……」
 彼は、ただの一度もあの事件を誰かのせいにすることは無かった。
 ただ、自分を責め続けた。近くで見ていた私達にしてみれば、当り散らしてくれた方がマシだと思えるほどに。
 それから、士郎は冬木の街に起こる事件に、積極的に関わるようになっていく。
 そして、そんな士郎をサクラはいつだって、『いってらっしゃい』と笑顔で送り出した。
 ……いや。送り出すしかなかった。
「士郎も随分と葛藤があったようです。ただサクラを守って生きて行くと決めたのに、事件に関わらずにはいられず――事件に関われば、彼女に余計な心配をかけてしまう」
 だからこそ、士郎は必死だった
 彼はよくやっていたと思う。それは、留守にしがちだった私の目にも明らかなくらい。
 桜と、今まさに死に逝くはずの誰か。
 そのどちらをも、彼は守ろうとしたのだ。
 どちらかを切り捨てるなんて彼には出来なかった。
 士郎が関わるのは危険性の少ない小さな事件ばかり。いつでもサクラを気遣い、冬木の街を駆け回った。
 ……けれど、関わる事件が大きくなればなるほど、彼に助けられる命はその数を増していくのは事実で。
 彼もまた、助けられるはずの命を見捨てることなど出来なかった。
 士郎の行動範囲は少しずつ、だけど確実に広がっていった。
 町、地方、国、地域。
 天秤の一方に錘を載せていけば、もう一方は宙に浮いてしまう。
 士郎の行動範囲が広がっていくのに比例するように、彼と桜との溝は深まっていった。
「私には、彼をどこで止めるべきか……わからなかった」
 士郎のしていることは間違いなく『正義の味方』そのもので、賞賛はされこそすれ、決して非難されるようなものではなかったから。
「サクラは、いつだって笑顔で士郎を送り出していました。そんな彼を誇らしく思う、と。そう笑っていた。だから……!」
 ライダーの言葉に熱が篭る。
 士郎は助けに行かないということに。
 そして、サクラはそんな彼を止めることに、強迫観念にも似た罪の意識を感じていたのだ。そういう意味で、二人は間違いなく事件の被害者だった。
「……あなたは間違ってなんかいなかったわ。ライダー」
 私が帰省すると、桜は自慢げに士郎の話をした。
 士郎がどこで何をした。
 誰を助けた。
 何時だって、そんな話ばかり。
 夫婦の日常が、そこには抜け落ちていた。破綻の時を、誰もが予感してた。それでも、桜は誇ったのだ。自分の夫の行動を。
『いってきます』
『いってらっしゃい』
 繰り返される、贖罪の儀式。
「間違ったのは、きっと私」
 そう。士郎を止めるのは、私の仕事だったんだろう。けれど、止められなかった。
「あなたは士郎とあの子の為に、精一杯のことをやっていたじゃない。それは、私が保証してあげるわ」
 ライダーの瞳が縋る様に私に向けられ――戸惑うように揺れた。その肩が、がっくりと落ちる。
「ありがとう。凛。」
「桜の良き理解者にして相談者。士郎に付き合って一緒に事件を解決したり、身体を張って守ったり。そんなコト、世界中捜したってあなたにしか出来っこないわよ」
「……士郎は、サクラを一緒に連れて行くことは一度もありませんでしたが」
 苦笑交じりにライダーは呟いた。
「あいつなりの気遣いだったんでしょう。まったく、的外れにも程があるけれど」
 西日は沈み、夕闇が店内をも飲み込んでいく。
 私はただ、その光景を胡乱な目で見つめていた。
「……しかし、サクラが一緒に来るのを止めたのは私も同じです。彼女を危険な目にあわせるわけには、いなかった」
 力なく呟くライダーの声は、告解のようだった。


 そして誰もが予見していたように、彼らの生活は長く続かなかった。
 ……決定打となったのは、それから一年後。
 衛宮士郎が遠坂凛の要請を受け、南ヨーロッパの田舎町へと出向いた際に起こった、ある一つの事件。
 そのときの話を、彼は一切しようとはしない。
 私にはその時体験した僅かな記憶と、彼から聞いた断片的な情報から、彼の身に何が起こったのか推測することしか出来ない。
 ただ一つ。確かに言えることは。
 その時起こった出来事は士郎にとって、一度誓ったはずの決意を鈍らせるのに十分なほど――厳しいものだった、と言うことだけだ。

 ――そうして、私は今も戦場にいる。



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