4.死街 T



「……」
 自分の顔が強張っているのが判る。噛み締めた奥歯が、音を立てて軋む。強く鼓動を刻む心臓。怒りで白く眩む視界。銃のグリップを握り締めた右手は、白く血の気を失っていく。
「遠坂、大丈夫か?」
「……ええ」
 返事をする声は他人のように冷たい。
 町が一つ、燃えていた。
 石造りの古い町並みを、紅蓮の炎が舐めるように蹂躙していく。質の悪い夢を見ているようだ。
 チロチロと、目の前で篝火が燃えている。
 私はそれを静かに見つめていた。熱風はじりじりと私の顔を焦がし、足元では圧倒的な熱量に石畳が音を立てて爆ぜた。けれど私は、目の前で燃え続ける篝火から目をそらすことが出来ない。
「遅かったようだな。気配が無い」
 昏い声で、士郎が言った。
「――ええ。でも、誰か生き残りがいるかもしれないわ。行ってみましょう」
 ああ、と赤い外套は短く答えると、町の奥へと駆け出した。
「……」
 目の前で揺れる篝火。その炎と同色の外套を纏った背中が、夜の街へと消えていく。それを見送って、私は確認するように手の中にある凶器を覗き込んだ。
 女の細腕には些か荷の重い、大きな銀の銃身。鏡面のように磨き上げられたそこには、炎に照らされた私の顔が映っている。
 冷たい双眸が、静かに私を見つめている。――ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
「……行かなくちゃ。ゴメンね。何も出来なくて」
 呟いて、駆け出す。後ろは振り返らなかった。
 折り重なるようにして倒れた母子を、炎は篝火のように燃やしていく。


「――、絶対、許せない」
 魔術で強化された脚に力を篭める。加速していく視界。呟いた声は、風音に消されて誰の耳にも届かなかった。
 街路には車はおろか、動く人影一つ見あたらない。ただ、炎だけが至るところで篝火のように燃えている。時折、既に事切れた骸が恨めしそうな貌を私に向けていた。
 町は既に廃墟だ。山間に在る小さな町は、僅か数時間で住む者のいないゴーストタウンと化していた。数時間前まで町で生活してた人々は、今では何者かによって街道の至るところにばら撒かれている。
 そう、ばら撒かれている。
 形を保っていればマシなほう。殆どが燃えているか、あるいは原形も留めぬ肉片となって散乱している。
 それを踏み越え、ただ走る。粘着質な空気が身体に纏わり付く。人体に含まれる脂分が蒸発しているためだ。肉の、髪の焦げる匂いが鼻に纏わり付く。不快だ。たまらなく不快だ。そして悔しい。この怒りをぶつけるべき相手が、もう既にこの場にいないなんて……!
 二つ目の路地を曲がる。街路の中ほどに、見慣れた赤い外套が見えた。士郎は町を右回りに、私は左回りに走っていたはずだから、二人で合わせて町は一通り回ったことになる。
 要した時間は正味10分ほど。山間に在る小さな町は、それほどに小さかった。
 士郎へと近づくと、すぐに私は尋ねた。
「生存者は?」
 はやる気持ちとは対照的に、口から出た言葉は驚くほど事務的だった。それは、士郎の回答を半ば予想できていたからかもしれない。
「……絶望的だ。人の声一つしない。ただ、」
 背後に迫った私を振り返りもせずに、彼は応えた。士郎はその鷹のような鋭い瞳で、道路の向こう、ただ一点のみを睨みつけている。
「何かいる。一、二……五体といったところか。この惨状を作り出したのはそれらだろう」
 士郎が見つめる先にあるのは小さな教会だった。重厚な木製の扉はすでに破られており、中からは死臭が漂っている。
「最後まで抵抗したのが教会なんだろう。町中の死徒は今、そこにすべて集まっているようだな」
「そう」
 聞くと同時に、教会へと駆け出す。
「待て、どうする気だ、遠坂!?」
 どうする?そんなの決まっている。



 問答無用で教会の中へと踏み込む。
 素早く屋内を見渡す。動く人影は見当たらない。
 扉の前に三人分の死体。比較的、外形はまともに残っている。食い散らかすより奥の獲物を狩ることを優先したか。
 縦長の建物の中には赤い絨毯が敷き詰められている。内部を切り分けるように、通路が玄関から突き当たりに置かれている祭壇まで延びている。俗に言うヴァージン・ロードだ。その通路と直行して、左右の壁へと伸びるように十列ほどの横椅子が据えられていた。祭壇の右横には、簡素な造りの扉が据えつけられている。
 スタンダードな造りの教会だ。祭壇の右横に設けられた扉は、奥の部屋……恐らく、懺悔室や談話室といった、一種の居住スペースへ繋がっているのだろう。
 天井にあるステンドグラスから、蒼い月明かりが降りている。視界は悪いが、灯りを必要とするほどでは無い。
 奇襲を警戒し、状態を低く下げたまま奥へと進んでいく。慣れない銃が邪魔臭い。ずっしりと重い金属の塊は手首に余計な負担を強いる。
 一瞬、捨ててしまおうかとも考えたが、すんでのところで留まった。不味い。ちょっと頭に血が昇りすぎているのかもしれない。
 ィ――おぉ……。
「!?」
 声とも付かない呻き声が、奥から聞こえた。
 転がった椅子の陰から、若い男が顔を出す。何か納得がいかないことがあったとでも言うように、不思議そうに首を傾げている。ただし、角度が90度以上。人間の限界を優に超えている。一目見ただけで、ソレがまともな状態にないことがわかった。
「ア、ア、」
 膝を突いていた男の細い体が、何かに吊られるように突然立ち上がった。人間的な所作とはかけ離れたその動き。あまりの嫌悪感に背筋が震える。
 本来なら有り得ない方向に折れ曲がった右腕。太腿から先の足はどこかに忘れてきたのだろうか、紛失している。
 男は操り人形のように立ち上がると、焦点の合っていない目でこちらを見た。ぎこちない、緩慢な動作で体ごと向き直る。
 ドサリ、
 男の手から何かが滑り落ちる。
「……」
 それは、人間の上半身だった。
 真っ赤に染まったカソックは、雑巾のように荒々しく引き裂かれていた。恐らく、この教会を任されていた神父だろう。
「ア、あァァァァァ―――!」
 男の口腔から、迸るような奇声が上がった。それまでの動きでは考えられないような機敏な動きで、こちらに向かって跳躍する。右足だけの無様な跳躍であるにも関わらず、男は一気に私の目の前にまで接近する。
 肉が剥がれ落ち、剥き出しになった肩骨を揺らしながら、私に向かって赤黒く変色した腕を伸ばす。 
「あんたが、この町をこんな風にしたのね」
 銃の照準を合わせるのも忘れ、目の前で揺れる生ける死体に、私は尋ねる。
 男はただ苦しそうに唸るだけだった。
 変色した血液と冷たい腐肉の匂いに吐き気を覚える。これが人間の慣れの果てだというのか。私達と同じものだったというのか。それは冒涜だった。あまりにも滑稽で、恐ろしくおぞましい。
「――それに答える知能などないぞ。親玉は一体だ」
 サク、
 子気味良い音を立てて、白塗りの短剣が男の頭を横からスライス状に刈り取った。スイカを出刃包丁で切ったら、きっとこんな断面になるだろう。
「……ィ……ヒァ」
 灰色の脳漿を飛び散らせ、僅かに揺れた後、男は倒れるように崩れ落ちた。
「……わかってるわよ。ただ、恨み言の一つでも言ってやりたくなったの。ただそれだけ」
屍鬼グールとはいえ、力は強力だぞ。不用意に近づくもんじゃない。……それに、そいつだって被害者なんだ。早く楽にしてやるのが慈悲ってもんだろう」
 背後からやってきた士郎が横に並ぶ。視界の隅に映った彼は悼むように目を細めていた。目の前には、いつの間にか灰の小山が出来ている。
 数瞬、二人でその小山を眺める。意味は無い。黙祷のようなものだったのかもしれない。
「まずは、一体だな」
 仕切りなおすように、士郎が言った。
「ちょうどいい機会だ。遠坂、射撃訓練といこうか。一応、銃器のライセンスは取得しているという話だったが、君は吸血鬼との戦闘経験が少ない。ここで慣れておくといいだろう」
 士郎は祭壇の右横、居住区へと続く扉に視線を向けた。扉は硬く閉ざされ、奥の様子は伺えない。
「扉が閉じられているのが見えるだろう? しかし、あの奥には四体の死徒がいる。この教会の敷地には簡易ながらも聖別による結界が敷かれていたから、成り立ての屍鬼グール共は、唯一の出入り口である、そこの扉を使うしかない。だが――」
「成り立てのグールに閉じられた扉を開け、閉めるなんてマナーがあるとは思えない。――つまり、あの奥にはある程度、知性を持った吸血鬼がいる」
「ご名答。余計なお世話だったか。なんにしても、そいつがこの町の災厄の元凶という訳だ。良かったな」
「……何がよ?いいことなんて一つも無いじゃない」
「そうか?」
 ニヤリ、と士郎の口の端が吊り上がる。
「今の君は、怒りをぶつける相手がいるコトを歓んでいるように見えるんだが」
 居住区へと通じる扉が内側から吹き飛ぶ。木片と化し飛び散った扉の影から、三体の屍鬼が飛び出した。
「ふん。親玉はまだ奥か。遠坂、奥にいる吸血鬼は俺が倒す。その三体は任せていいか?」
「――冗談。こいつらも奥にいる吸血鬼も、一つ残らず私が塵に返すわ。あんたは黙ってみてなさい。それと、」
 がちゃり、
 凶悪なフォルムを纏った銀の銃口が、蒼い月明かりに濡れる。
「私のことを『君』って言うのは止めなさい。寒気がする」


 闇を切り裂くように、銃口から三度目の火花が散った。
「人体の急所を狙っても駄目だ。狙うなら心臓か頭がいい」
「―――試し撃ちよ。次はきちんと狙うわ」
 44マグナム・セルフローディング式・ロングバレル。装弾数は8発。実際に撃ったのはこれが初めてだが、射撃姿勢さえきちんと取れば扱いはそう難しくない。反動は確かに大きいが、魔術で強化された腕ならば片手での連射も可能である。それよりも、10インチもある銃身の長さの方が扱いづらい。
 さらに二度、引き金を引く。
 法儀礼済の銀弾は蒼い空気を切り裂いて、屍鬼二体の頭をスイカのように吹き飛ばした。
「へぇ。得意じゃない、って言っていた割りには巧いじゃないか」
「ありがと。でもこれ」
 飛び掛ってきた最後の一体へと、容赦なく弾丸を打ち込む。
「左手で扱うのはちょっと難しそう。なんでこんな無意味にデカイのよ」
 三体の屍鬼が塵と化した。
 いくら膂力が大きく動きが素早いからと言って、あれだけ動きが単調だと狙うのは簡単だ。そもそも銃を避ける、という思考が無いのだ。野生動物の方がまだ狙いづらい。
「それぐらいじゃないと吸血鬼には効かないんだよ。これに法儀礼済の銀弾を使ってようやく何とかなるかも、ってところだな」
 ガシャン、
 奥の部屋で、窓の割れる音が響いた。
「逃げたか。――先に行かせて貰う」
 士郎は愛用の双剣、干将獏耶を携えると、教会の奥、扉の奥の居住部へと駆けて行った。
「ふざけないで。逃がすわけがないでしょう」
 踵を返す。翻る赤いコート。銃のマガジンを取り替える。グリップの確かな重みを感じながら、私は炎に揺れる夜の死街へと駆け出した。




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