僅かに振り仰いだ空には分厚い雲がかかっていた。 何処か遠くで、獣の遠吠えを聞いた。背後の森が怪しくさざめく。闇に包まれた森は、一つの巨大な生物のよう。 闇を切り裂くように、一人の男が荒涼とした砂地を駆けて行く。 「――ぁ、ァ、」 茶褐色の長髪を振り乱しながら、ただただ必死に、一心不乱に。その表情には焦燥の色が強い。怯えたように、何かから逃げ惑うように、男はどこかへと一直線に駆けて行く。 その先には、暗く生い茂る森が広がっていた。向かう場所が定まっていることだけが、男の行動を逃走と定義することを辛うじて躊躇わせている。 顔にかかった長髪を払う仕草さえ見せず、男はただひた走る。擦り切れ、ぼろきれと化した服が、風にはためく。 その速さは獣のソレだ。時折、両手を地面に突き、駆けるスピードに加速をつける。四足で駆ける事が出来ないことがもどかしい、とでも言うかのように。 「――、ぃ――ぁ」 駆ける足を緩めぬまま、喘ぐように息を吸う。男の顎が上がる。苦しげに歪められた顔。男は足を止めると、何かに怯えるように、神経質そうに注意深く辺りを見渡した。 すぐ横で小さな民家が一つ、燃えていた。 燃え盛る鮮やかな炎が、男の泣き出しそうな顔を照らし出す。男は首を巡らせ、後ろに広がる夜の市街を振り返る。そこには燃え上がり黒煙に包まれた町並みがあった。 「は―――ひ」 反り返った喉から、甲高い音が漏れる。男は拳を硬く握り締めると、くしゃくしゃに歪められた顔で青い唇を震わせ、 「ひ・・・ははは―――ははは!」 裂けるように限界まで口を開き、腹を抱えて笑い出した。 「なぁんだ! ざまぁねぇ!! やっぱりだ。やっぱり俺一人で十分だった!」 面白くてたまらないというように、ぱん、ぱん、と膝を叩いて笑い出す。狂気染みた哄笑。 右手の親指で、口元に付着した液体を乱暴に拭う。 びちゃり、 毒々しい朱色の粘液が、路傍の石に付着した。 「ひ……ははは。ちまちまやる必要なんて、もうねぇ」 ニヤリ、と口元を歪め、闇夜に獰猛な赤い瞳を爛々と輝かせる。 「これからは好きな時に、好きなだけ、たらふく喰える。何が代行者だ! 人間風情に、この俺が捕まえられるわけがねぇ・・・」 燃え盛る町並みを眺めながら、男は獣のような笑みを浮かべる。町には生き物の影一つ見当たらない。 男は自分の仕事に満足がいった様子で、すこぶる上機嫌だ。 ――教会からここまで走ってきても、生き残った人間は一人もいなかった……! 完璧だ。教会では思わぬ抵抗に逢ったおかげで、想像以上に早く外部の人間に見つかってしまったが、仕事に支障は――。 「なんだ、もう逃げないのか?」 一歩を踏み出したとき、背後に広がる森の中から、何者かの声が響いた。 「!!」 男は数瞬で背後の町から視線を戻すと、低く上体を屈め、森の奥を睨みつけた。 「教会の中に居たのはお前だな? 中にいた子供達を一人で食ったな? 間抜けめ。――そんな滴るほどに血液を付けたまま走って、後を辿られるとは思わなかったのか?」 声の暗い森の奥から聞こえていた。静かなようで、だけど地獄の底から響くような不吉さを孕んだ、その声。 「なんだ。貴様」 男は言い知れない忌避感を感じ、刹那の判断で横の林に飛び込もうと身体を屈めて、 しゅっ、 その足元に、白塗りの短剣が突き刺さった。 「!?」 「逃げられると、本気で考えているわけではないだろうな」 声に、濃い不の感情が混じる。 森の中から姿を現した男は、闇夜の中でなお鮮やかに映える赤色に身を鎧っていた。 「――なんだ、貴様! 代行者か!?」 ざんばらな長髪を振り乱して、男が怒鳴った。 「さぁな」 赤い外套姿の男――衛宮士郎は、黒白の双剣を緩く構えると、吐き捨てるように言った。 「これから消えるお前には関係のないことだ」 鷹の瞳が、男を射抜く。 「へ……。そうかよ」 男の瞳が赤く光る。腕の筋肉が、びきびきと音を立てて硬化していく。白く霞んだ爪が伸び、開いた手の平は杭のように鋭利に尖り凶器と化した。 それは人の道を外れた化け物である証。 「――じゃぁ、いいや。死ねよ」 男が駆け出す。士郎はゆっくりと足を開くと、両手とも下げて逆手に双剣を構えた。 ガキィ、キ、キ、キ、キィ――。 鋭利な凶器と化した爪と鋼の双剣がぶつかり、火花を散らす。それからさらに三度、続けて爪が叩きつけられた。 「……!」 真正面から叩きつけられた衝撃に、士郎の身体が数歩下がる。 「そら……よ!」 下がったところで、抉るように繰り出される突き――それはさながら短槍の穂先のようだ。士郎は思わず舌打ちをする。 この膂力……こいつ、成り立ての吸血鬼などではない……! 「ちぃッ!」 士郎が渾身の力で男を弾く。 二人の身体が離れ、四メートルほどの距離を挟んで向かい合った。 「あ?」 吸血鬼は拍子抜けした、と言うように目を丸くした。 「お前、本当に代行者か? ……へへ。話しに聞いてたほどじゃぁねぇな」 その姿を見て、士郎は厳しい表情で鷹の目を眇める。 「貴様。何も知らぬ成り立てというわけでは無いようだな。これほど生きながらえた吸血鬼が、何故こんな真似をした? こんなことをすれば、すぐに代行者が差し向けられるのは明白だろう」 「きゃははは、関係ねぇな!」 裂けるほどに口を開き、吸血鬼は鮮血に染まる乱杭歯を剥き出しにして笑う。 「代行者? 来るなら来いよ! こそこそ逃げ回って、ろくに食事も出来ない生活なんて、もう真っ平だからな!」 中指を突きたて、吼えるように男は叫ぶ。 「見たところ、二百年は生きているようだが……自棄でも起こしたか?」 「俺は正気さ。これだって、頼まれたからやっただけだしな」 「頼まれた? だと?」 「おっと、喋りすぎた。これ以上は契約違反だぁな。さて……」 話を切り上げると、コキ、コキ、と気だるそうに首を鳴らして、 「あまり美味そうじゃァねぇが。味見してやんよ。魔術師はな、脳が美味いんだ」 男は、矢のように飛び出した。 「……そうか。では」 静かに呟き、 「その肢体に聞くとしよう」 士郎は構えていた二刀の短剣を、上から振り下ろすように男に向かって投擲した。 男の爪がそれを弾く。吸血鬼は下卑た笑いを浮かべ、 「ひゃははは! なんだ、それは!」 必勝を確信して、士郎の腹に向かって右腕の爪を伸ばした。 「―――投影、開始」 剣を投げ出したままの姿勢から、士郎の身体が反転する。徒手空拳で巻き込むように男の手の内に潜り込むと、爪の軌道をずらし―――肉薄した男の腕を、躊躇無く斬り落とした。 「な―――に!?」 吸血鬼は驚愕の声を上げる。 ぼとり、と切断された腕が落ちる。 持っていた双剣を投擲し、空になったはずの士郎の手には、黄金の柄を持つ、白銀に輝く一振りの長剣が握られていた。 「剣、だと、どこからそんなものを……!」 思わず驚きに声を張り上げる。しかし、男は冷静だった。傷の確認もすることなく、畳み掛けられる前にそのまま前に走り抜ける。 「ちぃ……! なんだ、なんだ。こりゃ!」 間合いを十分に話したところで、男は腕を押さえて激昂した。 「腕が、再生しねぇ!」 「当然だろう。この剣はデュランダル。幾人もの聖人の聖遺物を宿した英雄の剣だ。この剣の前では、吸血鬼の復元呪詛は通じない」 冷たい瞳で、士郎は吸血鬼を見下ろす。 「……なん、だと?」 「対吸血鬼に適した剣の一つだ。これを受けて無事でいられたのは今のところ、あの吸血姫を置いて他にはいない」 豪奢な装飾を施された白銀の剣が燦然と光る。柄に施されているのは黄金の装飾。この柄には、数多くの聖人の聖遺物が内包されている。 士郎がゆっくりと男に歩み寄る。男はただ呆然と、士郎の姿を見つめていた。 「そうか」 男が呟く。 「そうか、貴様……エミヤだな――!?」 睨みつけるように眦を吊り上げると、怨嗟の篭った目をギラつかせる。 「なんだと……?」 その言葉で、士郎の目つきが変わった。 「何故、俺の名を知っている」 両手で長剣を下段で構え、今にも首を刎ねる、と言わんばかりに鋭い殺気を放つ。 「いてぇ……いてぇよ! くそぉ……聞いてねぇぞ。聞いてねぇ! こいつと闘るのはもっと先のはずだろう……!」 腕を押さえたまま膝を突くと、男は錯乱したように髪を振り乱し、天を仰いだ。 「話せ。誰の差し金だ。貴様に指示を出しているのは誰だ」 「いてぇ、いてぇ。くそ、なんだ……なんでだよぉ!! 「くそっ……!」 苛立った士郎が、黄金の柄を握りなおす。男の脚を斬り飛ばそうと剣を構えた、その時、 「そこまでにしてもらおうか。エミヤシロウ」 背後から、目の前で跪く男とは別の、低く太い声が響いた。 「!」 士郎は弾かれるように降り返る。 そこには長身の男が立っていた。身長は二メートル近くはあるだろう。紺のスーツに赤の開襟シャツ。細身のスーツに華奢な身体が包まれている。 「ヴォロドフ!」 片腕を押さえたまま、吸血鬼が長身の男の名前を叫んだ。 「勝手に動きやがって。仕事は済んだのか?」 涼しい声で、ヴォロドフと呼ばれた男が応える。 「……!」 ギリ、 奥歯が、音を立てて軋む。士郎は、睨みつけるようにして男を見つめている。 振り返った姿勢のまま、微動だにすることなく。 「……、魔眼、だと!?」 呻くように、士郎が言った。その先には、紅色に輝く瞳を士郎に合わせたまま動かない、スーツ姿の吸血鬼が立っている。 交わった視線を逸らせない。自分の意思で身体が動かせない。 整えられたオールバックを撫で付けながら、男は禍々しく光る紅色の瞳を興味深そうに細めた。 「ほう。やはり動けるか。私ごときの魔眼では束縛しきれないようだな……どれ」 長身の男の瞳に力が篭る。士郎は声を発するのも許されず、喘ぐように息を吐いた。 束縛の魔眼。 年経た吸血鬼が得意とする、相手の精神、肉体を術者の意のままに束縛することの出来る異能の力である。 「へ、へ……さすがヴォロドフの兄貴!」 「ふぅ。派手にやったな。ロブ。別に構わないが、可笑しなヤツに捕まるんじゃない。楽しむのは勝手だが、仕事はきちんとこなさないとな」 視線を微塵も動かさず、ヴォロドフはため息混じりに言う。 「わかってるって! それより……てめぇ。俺に何をしたか、わかってんだろうなぁ!?」 腕を落とされた男が、士郎の襟首を掴もうと手を伸ばす。 「止めろ。ロブ。そいつに近づくな」 それを、スーツ姿の男は鋭い声で制した。 「ああ?」 「そいつはまだ動けるぞ。お前の首を刎ねるくらい造作も無いだろう」 淡々と、事実だけを口にする。 「!! ……マジかよ。ヴォロドフの兄貴が全力で束縛してるってのにか!?」 「……」 士郎は、内心舌打ちをした。あの吸血鬼、よく見ている。一太刀くらいなら浴びせられるだろうと構えていたが、予想が外れた。……少々分が悪い。魔眼持ちの吸血鬼とは、油断した。 「それより、目的のものを探して来い。俺がこいつを足止めしておく」 「ああ。わかった。……ただし、そいつは殺さないでおいてくれよ。俺からきっちりお礼しないとな、ひひ!」 「……いいから、さっさと腕を戻せ」 「はいよ」 仲間の吸血鬼に促され、片腕の吸血鬼は落とされた腕を拾って、断面に当てた。 何をするつもりだ……? 士郎は内心眉を顰める。聖人の加護を受けた剣で切り落とした傷だ。この吸血鬼が、そう簡単に復元できるはずが……。 「くそ。こんなことだったら、もっと血を吸っとくんだったぜ」 「!」 男が腕から手を放すと、それは接着剤でくっつけたように、肩に綺麗に接続された。その指が、滑らかに動き出す。 士郎は己の目を疑った。デュランダルで切り落とした腕を短時間で復元しただと? 二十七祖程の力がない限り不可能だ。 「調子に乗って使うなよ。ミイラ取りがミイラになるぞ」 「大丈夫だ。ひはははは! 流石は『吸血鬼の木』よく馴染むぜ」 不可解な出来事に士郎は首を傾げながらも、魔眼によって奪われそうになる意識にしっかりと鎖をかけ、限られた視界の中、二人を観察する。 ――この吸血鬼共、普通じゃないな。この魔眼といい、何かされている。 男は何度か腕の動きを確かめるように動かすと、 「後は頼むぜ!兄貴! ――ッ」 身体を大きく沈め、一気に跳躍した。 声は、あっという間に森の中へと消えていく。それを、士郎は視界の端に辛うじて捉えていた。 「……ッ!」 「さて。あの馬鹿が戻ってくるまで、少し待ってもらおうか。――何、五分もかからんよ」 どこかのんびりとした口調で、男は首元のネクタイを締めなおした。 視線を微塵も揺らがせることなく、男は瞳に篭める力を強める。 |