「……話は大体わかりました。引き続き、現場の浄化作業に当たってください」 一通り書類に目を通すと、細かい指示を与えていく。 男は慇懃に姿勢を正し最敬礼すると、踵を返して駆け出した。修道服姿の黒ずくめの男が、消し炭と化した町の中へと消えていく。 「ふう」 その後姿を見送って、法衣姿の女……シエルと呼ばれる代行者はようやく一息吐くことが出来た。 「――日が昇るまでに済ませたかったんですが……。間に合いそうにありませんね」 憂鬱げに、誰ともなく呟く。 惨劇の一夜は既に明けている。空には薄っすらと日の光が見えていた。 北欧フィンランドの片田舎。 小さな町は一夜にして燃え尽きた。その地に住まう住民たちと共に。 それはまさに、地獄と呼ぶに相応しい光景だった。 話は昨夜に遡る。 深夜零時ごろ、政府機関よりとある組織へ、「近隣の住民より『町が燃えている』、という通報を受けた政府機関が救助隊の派遣を検討している」という旨の電信があった。 “今回の件は我々の管轄するモノである可能性が高い。政府機関は指示があるまで待機するべし” 聖堂教会と呼ばれるその組織は、ある事柄に関しては国の指導者よりも強い影響力を持つ。政府機関は住民からの通報を無かったことにして、全権を聖堂教会“埋葬機関”に委任した。 まもなく“教会”から一つの部隊が派遣される。戦闘・秘匿・悪魔払いの専門家たちからなる、死徒と呼ばれる異端の殲滅を生業とする特殊部隊である。 部隊の指揮は急遽、別件の任務でフィンランドの首都ヘルシンキに居合わせたシエルに一任されることとなった。ここまでが午前二時までの出来事。 それから二時間後の午前四時。闇に沈んだ町に部隊は到着した。 しかし。 派遣された部隊は、町に着くとその仕事を事後処理へと変更せざるをえなかった。 本来、隠蔽・事後処理のような雑務は彼らの本業ではない。 だが、駆けつけた戦地には夥しい数の死体と、焼け果てた町並みしか残っておらず、彼らが殲滅するべき敵は既に影も形も無かった。 何もせずに帰還するのも間が悪い。シエルは部隊へ綿密な現場検証と、実行犯と思われる死徒の行方の追跡、そして救助を求める僅かばかりの生存者の保護を命じた。 そして現在、午前六時。 事後処理専門の部隊が到着するまで後数時間。既に事後作業はほぼ終わっている。 後続の部隊を待つまでもなく、そのまま現場をこの国の軍隊に引き渡してしまっても構わないのだが、シエルたちの仕事は後続の部隊に引継ぎを済ませるまでである。 その後の判断は彼らに一任するべきだろう。 「しかし、派手にやってくれましたね」 昇り来る朝日を恨めしげに見つめて、シエルは陰鬱げに、ぽつりと呟いた。 この町の人々がどのような生活を営んでいたかなんて、彼女にはわからない。しかし、少なくとも千を超える人間が生活の寄る辺としていたことは間違い無いだろう。 「住民から通報があったのが今から六時間前。教会からの勅命により燃え尽きた町に私達が到着したのが二時間前……。騒ぎになってから町一つがが全焼するまでにかかった時間が四時間ですか。随分と火の回りが速い」 犯人が故意に町に火をつけたのは明らかである。しかし、何のために火をつけたのだろう。証拠隠滅のため? いや、それではリスクが高すぎる。証拠を一つ残らず燃やしてしまえば確かに犯人の痕跡は消せるが、町に火をつけてしまえば、事件そのものが発見されるまでの時間が大幅に短くなってしまう。 「あなたはどう思います? メレム」 「――あれ? 気付いてたの?」 シエルの背後で、少年の声が笑った。彼女の後ろには誰の姿も見当たらない。あどけない少年の無邪気な声だけが、楽しそうに響いている。 「そうだねぇ。僕は別に不思議には思わないけど」 くすくす、と笑い声を上げ、メレム・ソロモンは軽やかな口調で話し出した。 「本能のままに手当たり次第に食事をしたのはいいものの、隠し切れなくなり、町に火をつけて証拠隠滅。町の人間全てを炙り出して、徹底的に虐殺。目撃者はもちろん残らない。よくあるとは言わないけれど、まぁ無い話じゃない。成り立ての考えなしの雑魚がやりそうなことだよ」 メレムは朗々と語る。しかし、シエルは静かにかぶりを降った。 「そうではないんですよ。メレム。犯人となった死徒は、町の人間を一人一人殺し、血を貪った後に町に火をつけているんです」 犯行は闇に紛れて迅速に行われている。その証拠に、被害者達はどれも家の中から発見されていた。寝室から出ることも無く殺されている者も少なくない。町の人々は、 災いが自身へと至るまで異変に気付くことなく、隣人が惨殺されている間も日常の生活を続けていたということになる。 「成り立ての吸血鬼にこれは、明らかな過剰吸血ですよ」 町一つの人間を一夜にして皆殺しなんて、一介の死徒には相当なオーバーワークだ。 「もしこれが新参者の仕業だとしたら、相当高いポテンシャルを持っていなくちゃ難しいだろうね。少なくとも、かつての君くらいには」 「……」 シエルには昨夜この町で繰り広げられた光景を、ありありと脳裏に思い浮かべることができる。 明かりの灯った町並み。 散歩に出かけるような気軽さで、扉を破り押し入り、出てきた家人を老若男女一切構わずに嬲り殺す。 密やかに。しかし大胆に。 それを夕方から深夜までの間に、一軒一軒、町一つ分の民家で繰り返していく。鼻歌交じりに。ゲーム感覚で。 かつての自分が、そうであったように。 ぎり、 噛み締めた奥歯が軋み、音を立てた。 「……」 心底愉しそうに、少年は苦悩するシエルの様子を観察している。少年の姿が見えないシエルは、その事に気付かない。 「随分と頑張っちゃったみたいだね。それじゃぁ、町に火をつけなかったら夜が明けるまで誰にも気付かれなかった、ってことだ」 苛立たしげに俯くシエルを前にしてなお、少年は涼しげな声で愉しげに語り続ける。 しかし、それも当然。少年はこちら側ではなく、あちら側に属する生き物だ。人間と同じ感情を期待するほうが間違っている。それは、シエルも良く理解していた。 「そうですね。住人が気付くことがなかったのだとしたら、事件が起きたことさえ、朝まで気付かれることは無かったでしょう」 「やっぱり、火をつけるのは巧くないね。証拠を隠すどころか危険性を助長している」 「相手は死徒。ここまで派手にやっておいて、証拠を隠すも何も無いでしょう。 「……目的は、証拠の隠滅じゃない、ってことか。状況はわかったよ。けどさ、それならどうして教会は、この事件を死徒の仕業だって断定できたのさ? 初めから死徒絡みだってわかってないと、ここまで迅速には動けない。シエルまで呼び寄せるなんて、随分な念の入れようじゃないか。初めは軍なり消防団なりを派遣するのが筋ってものでしょ? 僕達だって暇じゃないんだしさ」 「もっともな疑問です。私も大規模な火事があるたびに派遣されていたんでは過労死してしまいますから」 皮肉交じりに言うと、シエルは重苦しいため息を吐いた。 「簡単な話ですよ。この近辺を視察していた代行者が一人、失踪したんです。住民からの通報がある二時間ほど前になります」 「なるほどね。この町に死徒がいるっていうのは、ある程度予測がついたわけだ。それも教会の代行者を退ける程の力も持つ 代行者は死徒殺しのスペシャリスト。いかに高いポテンシャルを持とうとも、成り立ての死徒では彼らに適わない。 少しは楽しめそうだ、とメレム・ソロモンの声に歓びが混じる。 「齢を重ねた死徒が、 くつくつと、暗い笑い声が深夜の町に響く。闇の中響く声は、まさしく悪魔のソレだ。 これに関しては、シエルも彼と同意見だ。領内でここまでされて黙っているほど、聖堂教会は生温い機関ではない。 「メレム。あなたはこの事件の犯人に心当たりがあるんじゃないですか?」 「ん? どうしてそう思うの?」」 ニヤリ、と邪な笑みが口調に混じる。 「言っていませんでしたが。私が受けた勅命は、この町を襲った死徒の討伐ではなく、あなたの仕事を手伝え、というものです」 息を呑む気配。その後、すぐに虚空からメレム・ソロモンの笑い声が響いた。 「ははは! よくナルバレックが許したね。そっかそっか。駄目元で言ってみたんだけど、やっぱり性格悪いね。アイツ」 「……」 本当に愉快そうに笑う同僚に、シエルは不服そうに眉を顰めた。 “メレム・ソロモンと共に、アルトルージュ・ブリュスタッドの聖杯入手を阻止せよ” 中東での異端審問を終えたシエルがバチカンに戻ってきてすぐに、“埋葬機関”の局長、ナルバレックより受けた勅命がそれだ。 シエルは休む暇もなくその足でフィンランドへと向かい、ストックホルムに着いたのが昨晩。そこから事件の連絡を受け、部隊を率いてこうして夜通し事後処理に当たっているというわけだ。 「何を知っているのか、教えていただけますか?」 つまり、メレム・ソロモンがこの場にいること自体が不自然なのだ。彼は、既に聖杯探索の任に移ってはずである。 それでもなお、メレムがこの場に居ることに理由があるとすれば。それは、この事件そのものが、聖杯を巡る騒動に関わっているからだろう。 「君の考えている通りだよ。この事件の後ろに居るのは、 「……はぁ。やはりそうですか」 連日に続く激務に、シエルといえど、さすがに疲労感は隠せない。 それも、よりにもよって課せられた任務が“聖杯”などという伝説上の聖遺物の探索とは。砂漠で一本の針を探すようなものだ。これなら死徒狩りの方が数段楽だろう。 おまけに、あのアルトルージュ一派が密接に関わっているという。あの心の狭いナルバレックが埋葬機関の五位と七位の導入をあっさりと決めている時点で、過酷な任務となるのは目に見えていたが……。 「やはりそうでしたか。聖杯の観測は東欧でされたという話でしたが……。あなたがここにいる時点で、舞台は北欧へ遷ったと見て間違いないようですね」 「うん。東欧の方は巧く行かなかったんだろうね。あいつらは今、この国で何かをしようとしている」 大仰な調子で、だけれど軽やかにメレム・ソロモンが答える。どうやら彼は既にかなり深い核心まで辿り着いているようだ。 「どうりで道中穏やかなわけです。東欧の件は良い目くらましになるでしょう。この国に他の勢力が集まるまでの時間稼ぎになります。……メレム。私も今日からあなたと一緒に聖杯探索の任に就きます。局長からも詳しい話はあなたに聞くよう言われているんですが……」 「うーん。そうだなぁ。とりあえずさ、会って話そうか。僕、今ストックホルムにいるんだよね」 彼自身がこの場にいないということを既に看破していたシエルに、驚きは無かった。 異論も無く首肯する。 「この処理が終わったら向かいます。少し待っていてもらえますか?」 「いや、まだ僕一人でいいよ。シエルは少し休んでからきたら? まだ時間は十分あるし」 「? それは助かりますが……時間が十分にあるとは」 シエルが裡に沸いた疑問を口にしようとしたその時、家々の影から音もなく、黒い修道服姿の男が表れた。同時に、メレムの気配が掻き消える。 黒服の男はシエルへと歩み寄ると、手に持っていた書類を差し出した。 「ご苦労様です。報告を」 彼はこの部隊の隊員であり、教会の中でも指折りの代行者でもある。 シエルは手馴れた様子で部隊を指揮していく。報告を受け、的確な指示を与える。 黒服の男は萎縮した様子で従順に命令に首肯した。前線で戦う代行者をも萎縮させてしまうシエルの立場とはどれほどのものだろうか。 町中へと消えて行く黒服を見送ると、シエルは新しく届いた報告書を手に思案げに眉を顰めた。 「何か新しいことは解った?」 消失していたメレムの気配が、再び闇の中から浮かび上がる。 「二点ほど。生存者からの証言から犯人と、彼らと敵対していた者たちの特徴がわかりました」 「敵対していた者?」 「はい。どうやら私たちより先に、この事態に気づいて駆けつけた者がいたようですね」 「ははぁ。なるほど。悪を懲らしめる正義の味方ってわけ?」 くすくすと、冗談めかすようにメレムが笑う。子供染みたその言葉に、シエルは冷笑を返した。 「どうでしょう? ただ単に勢力が違う組織が克ち合っただけなのかもしれませんが。保護された子供たちの証言によると、町を襲ったのは、乞食の様な格好をした、髪の長い、若い白人の男だそうです。状況から見て、そいつがこの町の人間を惨殺した死徒でしょうね」 はらり、と報告書を捲る。 「そして、もう一人。オールバックにスーツ姿の男の目撃証言があります。これも先ほどの死徒と同じく白人で……」 「うん。二人ともアルトルージュ派の死徒だろうね」 やけにあっさりと、メレムは言い切る。 「根拠はあるんですか?」 「ん? まぁ、いろいろと」 「……」 じと、っとした重苦しい沈黙。しかし、それも一瞬。 「詳しいことはストックホルムで」 とシエルはあっさりと話を変えてしまった。この少年相手では、剥きになっても面白がられるだけだということを、彼女は身を持ってよく知っていた。 「それと、これらの死徒と敵対していた者として、赤い外套姿の二組の男女が目撃されています。こちらは二人とも東洋人のようですね。女は銃、男は剣で武装していたようです。町の礼拝堂で――といっても、これは異教徒のものですが――死徒と戦闘になっています。そこから少し離れた町の外れでも、同様に戦闘の痕跡が」 「異教の礼拝堂? この町にはカトリックの教会があるみたいだけれど。わざわざ別々に作って、何を奉ってたの?」 「この地の古い神々のようですね。基督教が入る前の古代フィン人の原宗教だそうですが……。すいませんが、これ以上は調書にはありません」 ぱらぱらと捲っていた紙束を戻すと、シエルは再び調書の読み上げに移った。 「弾痕から法儀礼済の銀製の銃弾が発見されています。素性はわかりませんが、この二人は人間のようですね。教会関係者の線で聖堂教会の方にも問い合わせてみましたが、心当たりは無いそうです。どこかの組織でしょうか? 基督系で赤い外套をシンボルとする組織なんてありましたか?」 「さぁ? どうかな」 姿は見えなくても、メレムがにやにやと笑っているのが気配で伝わってくる。 やはり、メレム・ソロモンは何か知っている……。 シエルの中で疑惑が確信に変わる。 「続けてよ。詳しい状況が聞きたい」 「……わかりました」 シエルは淡々と報告書を読み上げていく。保護された生存者の証言に基づく戦闘の様子がそこには書かれていた。 メレムを問い詰めようとは思わなかった。今回の件では魔術教会も動いていると聞いている。目的が聖杯となれば、手に入れようと画策する組織も多い。その男女にしても、どこの誰かなどと、いちいち気にしていてはしょうがない。 敵ならば倒すだけだし、害にならないなら、放っておいても構わない。 「それと、森の中から男物の衣類が見つかりました。衣類がほぼ燃えていたので、恐らく教会で火達磨にされた方の吸血鬼でしょう」 そう言って、シエルは読み上げていた調書を閉じた。 「で。結局、どっちが勝ったの?」 「状況から見て、赤い外套の男女の方でしょうね」 「そう。ご苦労様、シエル。ご褒美に、聖杯が手に入った暁には、願いを叶える権利は君に譲ってあげるよ」 「ありがとうございます。精々、何を願うか考えておくことにしますよ」 「あー! 本気にしてないね。傷つくなぁ」 あしらうように流すシエルに、メレムが非難の声を挙げる。軽薄な口調にはまったくと言っていいほど説得力が無かった。 「僕が取ってきて、君にプレゼントしてあげよう。僕も一度見てみたいしね」 「ふぅ。……期待してますよ」 気の無い返事を返す。シエルは実のところ、今回観測された聖杯の真偽さえ怪しいと考えていた。今まで数多くの偉人達が資材を投げ打って探索しても見つからなかったものが、そう簡単に見つかるとは思えない。 「どちらにしろ、これからどうしようか? 何かあてはあるの?」 「この二人がアルトルージュの命で動いていたのだとしたら、彼女達が次に狙いそうな場所は目星がつきます」 「へ?? どこ?」 「“ヒーシ”と呼ばれる森です。この町を襲った死徒は、その場所を探っていたようですから、恐らく次に狙うのはそこでしょう。礼拝堂で村の司祭が喋っていたのを、子供達が聞いていたようです」 「お、」 息を呑む気配。響く声の気配の変化に気付いたシエルが不審そうに首を傾げる。 「メレム?」 「お手柄だよ、シエル!僕もそこまでは掴めてなかった!」 弾けるように発せられる陽気な声。珍しく、裏表の無い陽気な声でシエルを滅多やたらに褒めちぎる。実体があったら、握手でも求めてきそうな勢いだ。 「な、なんですか。その陽気さは。気持ちが悪いですね」 「あははは! なにさ、そんな顔して。ようやく、あの紛い物たちの目的が判ったんだ。少しは喜んだらどう?」 「アルトルージュの目的が、ですか?……私にも判るように説明してください」 「そうだね。ストックホルムについたら教えてあげるよ」 「……」 爽やかに返された。シエルの脳裏に、にっこりと満面の笑みを浮かべている少年の姿が浮かぶ。 「……ハァ」 本日何度目になるかわからないため息を吐く。シエルはどうも、この吸血鬼が苦手だ。 「それと、この町を襲った死徒についてですが……。幾つか興味深い報告が」 「うん、続けて」 再び調書を捲る。そこには村の司祭の孫娘という少女の話が一字一句漏らさず書き留められていた。 「礼拝堂に隠れていた子供たちの証言によると、殺された司祭は男と目を合わせた瞬間、誰かに操られるかのように、村の禁忌とされることをスラスラと喋り出したんだそうです。それは村では司祭しか知りえない話であり、同時に命に代えても外部に漏らしてはならない禁忌だった」 「魅了の魔術? 犯人は魔術士あがりの死徒ってこと? けど、おかしいなぁ。アルトルージュ一派に身を連ねるのは、いつも純正の吸血鬼ばかりだ。あの紛い物が魔術師上がりを歓迎するとは思えないけれど」 「赤い外套姿の男に助けられたという女性も、吸血鬼と目を合わせた瞬間、記憶が曖昧になったと証言しています。これは憶測ですが、」 「――目を合わせると? ははあ。なるほど。ということは、犯人は」 にやり、とメレムが嘲う気配。 「この町を襲った死徒は二体とも、“魔眼使い”だった可能性が高い。それも、少なくとも一体は“魅了”の魔眼持ちですね」 そこまで言うと、シエルは会話をぴたり、と中断させた。森の方へと一度視線を向ける。 「――やれやれ、またお客さんだよ。忙しいね。シエル」 辟易したように、メレムがぼやく。 「そう言わないでください。彼らもよくやってくれているんですから」 食べちゃダメですよ、と付け足すシエル。メレムは何も返さなかった。 まもなく、先ほどとは別の黒服の男が、森の中から現れた。メレムの気配は既に無い。 「―――ご苦労様です」 今度の報告はすぐに終わった。三枚ほどの調書とポリエチレンの袋に入れられた薄汚れたの布切れを手渡し、男は再び森の中へと消えていく。 「……」 「で、次は何?」 耳元で囁かれる、メレムの声。 報告を受けたときから、シエルの表情は硬く強張ったままだ。 「……村のすぐ近くで事切れた代行者が見つかりました。戦闘の形跡はほとんどなかったようです。しかし……拷問された形跡がありました。おそらく、聖杯の情報を引き出すためでしょう。そして、これ」 シエルが、慎重な手つきでポリエチレンの袋の中から、ボロボロの布切れを取り出す。 薄汚れた白地の布には、血文字で小さくこう書かれていた。 “Evil eye” 「ははは、ビンゴだね。やっぱり、犯人は魔眼持ちで間違いなさそうだ。拷問された痕があるっていうなら、もう一方の……この代行者と戦った方の死徒は“束縛の魔眼”持ちで決まりだ」 暗く揶揄を含まぬ声で、メレムが呟いた。シエルの勝手な想像ではあるが、それは恐らく、身動き一つ出来ぬ魔眼の支配下にあってなお、仲間に情報を知らせるために任務を全うした代行者への、彼なりの敬意なのだろう。 「ねぇ、シエル。そいつ、どんな拷問受けたの?」 「……そんな事を聞いて、どうするつもりですか?」 「いいから話して」 「……。死体には両手の指の骨折、両耳を引きちぎった跡、鼻骨を粉砕された跡がありました。最後は身動きできない状態で、心臓に杭を打ち込まれたようですね」 「なるほど。目を合わせたままでも、それくらいのことは出来る。レアスキル持ちが二人か。魔眼を身につけるほどに長生きしておいてなお、 くつくつと、盲い笑い声を響かせる。地獄の釜のように煮えたぎる殺気を感じ取って、幾多の死線を渡ってきたシエルの背中にも冷たいものが落ちた。 「……」 実体を遥かヘルシンキに置いてもなお、この殺気。痛感する。少年は紛れも無い正真正銘の化け物であると。 「それでは、一刻も早く合流し、この場所へ向かいましょう。後手に回っては優位に立てない」 「ん? 随分急ぐじゃない。もし赤い外套の二人組みっていうのが、死徒を二体とも消滅させていたら、 「いえ。アルトルージュ・ブリュンスタッドは必ずこの場所へ現れます。これを見て下さい」 そう言って、シエルは声の響くほうに一枚の紙片を突きつけた。 「ついさっき、下流の町で食べ残しが見つかったそうです。分量にして、人間三人分の肉片です。おそらく、血液の補給をしていたのでしょう。つまり――」 山間から太陽が顔を出し、深い闇に沈んでいた町並みを、少しずつ照らし出していく。焼け落ちた家屋。倒れ付す教会。平伏す死体。焦げた大地。それらを見渡すと、シエルは刺すように眩しい朝日に目を細め、 「少なくとも死徒はまだ一体、生き残っているということですよ」 まだ見ぬ敵への報復を、胸に誓った。 僅かながら生き伸びた人々が保護されるのを見届け、私達は岐路についた。 吸血鬼たちの遺留品からアルトルージュ・ブリュンスタッドの手がかりを捜したものの、詳しいことはわからずじまい。結局、大きな収穫は得られなかった。 ……そろそろ待ち合わせの日が近づいている。ヘルシンキまで一度戻った方が何かと都合が良いだろう。 「遠坂、肩は大丈夫なのか?」 適当に見繕った乗用車を運転しながら、士郎が訊ねる。 「え?」 ぼぅ、と窓の外に流れる風景を眺めていた凛は、少し間を置いて顔を上げた。 「ごめん、何?」 「肩の怪我。痛むか?」 「……気付いてたの?」 麻酔で上手く働かない頭を動かして、シートにもたれていた身体を起こす。 「当たり前だろ。そんなに辛そうにしてればな。医者に診てもらうか?」 右肩に手をやる。吸血鬼に掴まれたそこは、青く腫れ上がっていた。 「平気よ。痛み止め打ってるから今は痛くないし。一眠りすれば魔術回路がある程度修復してくれるわ」 もちろん本当のことだ。これから戦争しに行こうというのに、ここで変に無理をする必要も無い。辛かったら辛いと素直に言っている。 「そうか」 士郎は短く言った。 「あんたは? 怪我は無いの?」 「ああ。……遠坂のおかげで楽させてもらったからな」 そう言って、士郎は少し笑った。その顔には、疲労の色が色濃く浮かんでいる。 目的地であるヘルシンキまであと六時間ほど。ロードマップを見つめたまま、凛は小さくため息を吐いた。長い道のりに憂鬱になる。早く、ふかふかのベッドで休みたい。 後部座席で横になったらどうだ、という士郎の申し出を断って、助手席に深く腰掛けた。車外に目を向けると、山間から朝日が昇ってきている。 オレンジ色の光が網膜を照らし出す。その温かな光を見つめ、車に揺れながら、取り留めの無いことを考える。 アルトルージュ一派の死徒たちのこと。聖杯のこと。真祖の姫のこと。殺人貴のこと。士郎のこと。桜のこと。それから、 「ところで、遠坂。少し気になることがあったんだが……」 「……なに?」 思考の海に沈んでいた私を、士郎が引き上げた。 「最後、遠坂が撃った銃弾なんだけどな。何か細工でもしてたのか? あの死徒、自分が撃たれたのが信じられない、って顔してたぞ」 「ああ、あれね」 心当たりがあった。ゆっくりと身体を起こす。隠しておくような話でもない。丁度いいから、タネ明かしとしようか。 「さっき話したもう一匹の方の吸血鬼……。そいつが言っていたのよ。吸血鬼は弾丸の発砲音と風切り音から、弾丸の軌道を推測することが出来る、って」 「まぁ、出来るだろうな。心臓の音から人間の心理を読むような連中だ。反射速度の追いつく距離なら避けることもできる」 だから通常、吸血鬼に通常の武装は通用しない。脳髄か心臓を破壊すれば殺すことも出来るが、それ以外の部分は幾ら破壊しても彼らの持つ“復元呪詛”によって修復されてしまう。祝福儀礼された銀弾ならば復元を大幅に遅らせることも出来るが、致命傷にはならない。 それ故に、吸血鬼側も頭と心臓への損傷には神経を使っている。時には、それ以外の部位を犠牲にしてまでそこを守らなくてはいけない時も或る。だから、狙撃にしろ斬撃にしろ、頭部と心臓への攻撃は当てるのが難しいのだ。 特に狙撃は難しい。一番の要因は発砲音。それだけで相手を警戒させてしまう。自分が撃たれたと気つけば、発砲音の方向から大体の位置を。風切り音で細かな軌道を読まれてしまう。 「だから、発砲音だけでも消そうとしたのよ。具体的には、魔術で周囲に薄い空気の断層を作って、音の伝播を遮断する。媒介が無ければ音も衝撃も伝わらないでしょう?これを使って、吸血鬼に気付かれるずに狙撃することが出来たってわけ」 鞄の中から暗視スコープと射撃用のカスタマイズパーツを取り出す。 サイレンサーを付ければ発砲音をある程度消すことが出来るが、皆無とはいかない。しかし、この方法ならば、確実に発砲音を消すことが出来る。 「弾丸の風切り音は完全には無くすことが出来なかったから、成功するかはちょっと微妙だったんだけれどね。あの吸血鬼が気付かなかったのはたぶん、あんたとの戦いに集中してて、他に気が回らなかったからでしょう。一応、空気の断層の範囲は広くとっていたから、気付いたとしても避けるのは難しかったと思うけど」 「さすがだ。遠坂。やはり、君は生粋の“魔術師”なんだな」 銀色の銃身を撫でる凛を見て、士郎が感嘆の声を上げる。 「それに、あの吸血鬼……たぶん、百メートルも離れた遠距離から狙撃されたことなんて無かったんじゃないかしら? 間に森を挟めば雑音も増える。心音も呼吸音も聞き取れない中で発砲されたんだから、気付かないのも無理ないかもね」 「しかし、大した腕だ。頭と心臓に一発ずつ。寸分違わず撃ち込むとは」 「十分狙ったから。暗視スコープも無しに弓矢で同じコトをやるあんたに褒められても嬉しくないわよ」 軍用の最新装備を使う私と、市販の弓と矢で拳銃並みの威力と射程を再現する士郎では次元が違いすぎる。 「本当言うとね、あいつが人質を取ったときには、もう銃を構えてたのよ。けど、森の木が邪魔で巧く狙えなくて。巧い具合に射程範囲まで入ってくるかは、正直賭けだった」 あのような状況で狙撃するのは初めて。引き金に掛けた指が震えた。銃身を固定している肩が、割れるように痛んだ。スコープから覗いた景色の視野の狭さに、心臓が張り裂けそうだった。 「士郎がプレッシャーを掛けてくれたおかげで、吸血鬼はゆっくりとしか後ろに移動できなかった。狙いをつけること事態はそう難しくなかったわ。だから、身体の中心を狙って心臓にまず一発。その後、誤差を修正して頭に一発。空気の断層を抜けるときに弾丸の軌道がどう変化するのか不安だったんだけれど、まぁ予想通りにいってくれたって感じかな……」 人の形をした者を狙撃する瞬間は、身体を冷たいものが走り抜けた。もし、対象が動いて人質に当たったら?こうして狙いをつけている間に、背後の森の中から化け物が現れたら……? そんなことは無いと、冷静な私は告げていた。けど、怖かった。今回の出来事でわかった。死徒の怖いところはその力なんかじゃなくて、ヒトの姿をしているということなのだ。 あんなおぞましい生き物が、ヒトと同じ顔をして、ヒトに紛れているということ。そして、そんな生き物を屠らなければならないこと。それが本当の恐怖なのだ。 聖杯戦争の時のような高揚感は無い。標的には英霊の様な高潔さも無い。ただただ冷たくおぞましいヒトの血を吸う化け物。引き金を引くと、撃鉄が起き、弾丸が打つ出され、化け物は灰に帰る。後に残るのは硝煙の匂い。なんて、冷たい戦いだろう。 「正直、驚いたよ。まさか本当に一人で全部片付けてしまうとは思わなかった」 「あれくらい当然よ。じゃなきゃ、これから挑むヤツ等になんて、勝てっこないじゃない」 引き金を引く感触を振り払うように、無理にでも笑ってみせる。何時もは気にならないことが、今は途方も無く不安になる。 「まぁ、おかげで結局、誰が黒幕か吐かせることは出来なくなったけどな」 「う……何よ。士郎だって、十分殺す気だったじゃない。離れてたって解るんだから」 身体が弱っていると、心まで弱くなる。 思っていたよりも疲れているらしい。意識が朦朧として、まるで雲の上を歩いているよう。麻酔の量を間違えたのだろうか。それなら洒落になっていない。 「……遠坂、辛いなら眠っても良いぞ。着いたら起こす」 「いいの。もう少し話していたいから、話し、続けて」 「ん?そう言われてもな……。もう続きなんて……」 困ったような士郎の声。少し寒い。体温が下がってきているようだ。後部座席へと手を伸ばす。毛布代わりになるものは無いか。 左手に滑らかな生地が触れた。ビロードの様な手触り。引き寄せてみると、それは士郎の外套だった。無造作に後部座席に置かれていた、マルティーンの聖骸布を織り込んだ、彼の概念武装。 ふと、脳裏にあの日の戦いが浮かぶ。 「……士郎は、この戦いが終わったらどうするの?」 「――さあ?どうだろうな」 僅かな沈黙の後、士郎は小さく呟いた。士郎の外套を引き寄せ、羽織る。思ったより暖かい。冷たい身体を、柔らかな温もりが包み込む。 後部座席へ差し込む朝日を、黒い裏地が熱として蓄えていたのだろう。 「桜の所に戻るの? それとも……またどこかで人助け?」 「さあな」 今度は間を置かず、士郎は答えた。見上げるも、士郎の顔は朝日の膨大な光の中に呑まれて、その表情は伺えない。 「何よ、それ。そもそもさ、あんた桜のこと、今でも愛してるの?」 士郎は答えない。沈黙が続く。 「……何とか言いなさいよ」 エンジンの駆動音が、少しだけ大きさを増した。 「どうしたらいいんだろうな。遠坂」 「……知らないわよ。自分で考えなさいよ」 再び、沈黙が流れる。ああ、瞼が重い。気を抜いたら、そのまま落ちていってしまいそう。 「もし……もしも、だけれど。行くところが無いんだったら、私のところへ来ない? 時計塔の中に、ようやく研究室を持てたの。きっと暇しないわよ」 現実と夢の狭間さえも曖昧。もしかしたら、私はもう夢の中にいるのかもしれない。 「そうだな。それも悪くないかもな」 驚くほど柔らかな声で、士郎は言った。笑っているのかもしれない。そんな声、久しぶりに聞いた。 朗らかで真っ直ぐな、士郎の声。 聞くだけで暖かく成る、私の好きな声。 「けど、俺なんかで大丈夫なのか?」 「いい。ぜんぜんいい。私が士郎がいいって言ってるんだから、それでいいでしょ」 ああ、不味い。とうとう呂律が回らなくなってきた。 「遠坂?」 「……ゴメン。忘れて。なんだか私、もう、眠くて」 「――いいから寝てろ。気を使ってるんだったら気にしなくていいぞ。らしくもない」 「うん。ごめん。そうする――おやすみ、士郎」 瞼を閉じる。途端、意識は強烈な眠りの奔流に飲まれていった。瞼越しに感じる朝日が赤い。朝日が心地いい。 「――……」 眠りに落ちる一瞬、脳裏に今日あった出来事が走馬灯のように流れた。 心のどこかが、ちくりと痛む。 思い出すのは司祭の亡骸に縋って泣く少女。 彼女はきっと、祖父の断末魔の声さえも、その幼い耳で聞いてしまったのだろう。 あと少し。あと少し、私が到着するのが早ければ、あんなことにならなかったかもしれないのに。 だから、次はきっと。 きっと、誰も悲しまない方法で決着をつけて見せる――。 「おやすみ。……凛」 穏やかな顔で眠る凛を見て、士郎は小さく呟いた。それきり何も言わず、窓の向こうの景色へと視線を移す。 乗用車はひたすらアスファルトで舗装された道路を走り続ける。日暮れまでには、ヘルシンキに着くだろう。 夜は明けた。しかし、多くの人々があの夜に色々なものを忘れてきてしまった。 救われなかった命。抗えぬ運命。 殺した心の奥が疼く。鈍い痛みを伴って、その罪を糾弾し続ける。 終わりの無い贖罪。誰も罰を与えてくれない。 士郎はそれが、堪らなく悲しい。 |