8.ある一つの道。


 遥か頭上より差し込む光が、淡く足元を照らし出す。
 玉座の間は、今日も変わらぬ静謐さの中にあった。
 遠野志貴は硬く閉じられた木枠の窓に歩み寄ると、一息に窓を開け放った。玉座に差し込む鮮やかな光。吹き込んだ風が停滞していた時間を動かした。
 外は快晴。日差しは柔らかく、暖かい。
 しかし、志貴の顔は今一晴れない。
「良い天気だ。それなのに」
 唸るように呟くと、踵を返して玉座の下へと向かう。
 見下ろすと、そこにはこの城――千年城の主たる一人の姫君が安らかな寝顔で眠っていた。
 さて、どうやって起こそうか――。
 志貴は眉を顰めると、僅かに口元を綻ばせた。



 玉座の前で右往左往し始めてから、既に4時間。窓から差し込む日光は段々とその光量を増していく。太陽はそろそろ中天に差し掛かろうとしていた。
 手を伸ばせば触れられる距離にいる眠り姫を前に、もう何度も手を伸ばそうとしては、引っ込めるという動作を志貴は繰り返している。
「―――」
 朝日を浴びて眠る彼女の姿は、とても綺麗だ。勿論、冴え渡る月光の下にいる彼女も悪くない。しかし、やはり日光の下で元気良く笑ってる姿が、彼女には一番似合っていると、志貴は思う。
 安らかで、深い眠り。その端正な顔は微塵の歪みも無く、静謐さを湛えてそこに横たわっている。
 日の光を受け、金砂をこぼしたように輝く絹髪。仰向けに横たわる肢体。臍の辺りで組み合わされた白磁の様な手は細く長く、それはまるで一つの芸術品のようだった。
「そんな顔して眠られると、起こせるものも起こせないよな・・・」
 散々迷った挙句、志貴は困りきった様子で呟いた。
 情けない。どうも俺は、目覚まし時計の役割さえもこなせないらしい。
 志貴は思う。
 そういえば前にも、似たようなことがあった気がする。
 そう。それは随分と昔の話。
 ――志貴には昔、専属のメイドさんなんていうとんでもないものが付いていたことがある。学生時代の話だ。志貴自身、今でも夢だったのではないかと疑ってしまうよう程だが、本当のことなのだから仕方が無い。
 彼女の仕事はいつも完璧で、文句の言いようも無かった。
 ただ、どういうわけか、彼女はいつも登校時間ギリギリまで起こしてくれない。学校の始業に間に合わない時間というわけではないが、それではいろいろと……そう、いろいろと困ることがあったので、志貴は一度、意を決して彼女にもう少し早く起こしてくれないか、というようなことを頼んでみたことがある。
 彼女は困ったように一度俯くと、『起こさなければと思うものの、寝顔を見ているとなかなか起こせないんです』と、朱に染まった、怒ったような、恥らうような顔でそう告白した。
 当時は寝顔を観察されていたことが恥ずかしいやら、彼女を困らせてしまう自分が情けないやらで頭が一杯で、よく意味がわからなかったが、今なら彼女の気持ちもわかる気がする。
 困った。しかし、ここで起こさなければメイドならぬ、護衛失格である。志貴は顔を引き締めると、よし、と気合を入れなおした。
「おーい、アルクェイド〜」
 呼びかけてみる。しかし、何の変化も見られない。
「……仕方が無いか」
 彼女の細い肩に手を伸ばす。その双肩は、普段の馬鹿力からは想像もできないほどに細い。
 ごくり、と一度つばを飲む。
 覚悟を決めると、肩を掴んで優しく揺さぶった。
 しかし、アルクェイドには何の変化もみられない。
「頼むから、そろそろ起きてくれ……」
 途方にくれてしまう志貴だった。
 つい四日ほど前、アルクェイドは次の闘争に備えて充電期間に入ることになった。要するに、長期間にわたる玉座での睡眠である。
 今までのものに比べると、穏やかな眠りだった。全身を縛る千の鎖も存在しない。
 なんでも、ゼルレッチが地脈を弄ってくれたおかげで、世界から効率の良いサポートを受けられるようになったということらしいのだが……詳しいことは志貴にはわからない。
 しかし、彼女が以前よりも安らかに、穏やかに眠っていてくれる。それだけで彼には十分だ。
 アルクェイドは眠る際、志貴にこう言った。
『今から100時間後に起こしてね』。
 と、いうわけで。
 志貴は今ここでこうして立ち尽くしている。
「よし、次こそ……!」
 再び、意を決すると、今度は頬の辺りに手を沿え、ぺしぺし、と叩いてみる。
「お〜い! 朝だぞーそろそろ起きろー」
 空いている方の手で、体を優しく揺さぶってみる。寝起きは誰だって健やかなほうが良い。あまり荒々しくは起こしたくなかった。
「うー、う〜ん……」
 もぞもぞと、アルクェイドが小さく身じろぎする。
「朝だぞ、アルクェイド。この寝坊助。もう100時間を過ぎてるぞ」
「……うん。わかった。起きる」
 今度は返事が返ってきた。
 四日ぶりに聞いた、彼女の声。志貴の顔は自然と笑顔になっていた。
 ぱちり、と朱色の瞳が開かれる。
「んー……おはよう。志貴。いい天気ね」
 ゆっくりと伸びをしながら上半身を起こし。
 アルクェイド・ブリュンスタッドは眠たげに瞼を擦りながら、志貴と四日ぶりになる朝の挨拶を交わした。


※     ※     ※


 テーブルと椅子を玉座に置き、軽い朝食となった。どこの家庭にもあるような家具を、豪奢で荘厳な聖堂に据えつける。それはお世辞にもセンスの良い組み合わせとはいえなかったが、志貴はそれなりに気に入っていた。この城には食堂もあるにはあるが、二人で使うには広すぎるし、何より無駄に豪奢な、まるで宮廷のような雰囲気は、どうしても落ち着かない。朝食を聖堂で済ませることは、二人の習慣となっていた。
「ところで、準備は出来てるの?志貴」
 朝食を食べ終わった頃、アルクェイドが尋ねた。
「大体は。準備って言っても、着替えくらいしかないし」
「でしょうね。私も似たようなものかな」
 椅子から立ち上がると、アルクェイドは明るい調子で言った。
「それじゃあ、早速行きましょう? 待ち合わせ場所はフィンランドでいいのよね?」
 彼女はどういうわけか上機嫌で、ニコニコと笑みを絶やすことが無い。遠足に行く子供の様な調子で、足元においてあった白のスポルティングバックを手に取った。二泊三日の旅行に持っていくほどの大きさのバックだ。
「それは? 荷物なんて珍しいな」
「ちょっとね。必要最低限のものだけ。――それより、志貴。フィンランドまでどうやって行くつもりなの?」
 アルクェイドの問いに、志貴は世界地図を頭に描いて道程を確認する。
「とりあえず、最寄の街まで裏に止めてあるジープで移動して……。その後は、電車と飛行機を使っての移動になるかな?」
 空港の在る最寄の街まで車で三十分ほど。チケットは取っていないが、細かな日程があるわけではないし、現地調達で十分事足りるだろう。乗り継ぎは二回といったところだろうか。
「ふーん。……なんか面倒ね。こんなことなら、セスナ機の一機でも買って置けばよかったかしら」
 涼しい顔で、アルクェイドはとんでもない事をさらり、といってのける。
「……誰が操縦するんだよ」
「私、出来るわよ。実際に運転したことは無いけれど」
 知識だけは在る、というわけか。彼女なら本当に操縦くらい難なくこなしてしまいそうだが、飛行機の操縦を運転と言っているようなやつの機体には乗りたくないというのが正直なところだ。
「とにかく! 早速いきましょう? たくさんの時間寝てたから、無駄にしちゃった分も取り戻さなきゃ!」
 拳を掲げて、ぐっ、握り締める。随分と気合が入っている。
「おーい、遊びに行くんじゃないんだぞ? 身体の調子は大丈夫なのか?」
「うん。すこぶる元気よ。ゼル爺のおかげで、前より調子がいいかも」
「……この間みたいになることは無い、ってこと?」
「もちろん。この間だって、メレムが邪魔しなければ、あんな奴等に負けてないわよ」
 晴れやかに笑うその顔はとても嘘を言っているようには見えない。あまりに元気なその姿に、志貴は思わず苦笑してしまった。
「この間だって、宝石剣が共有した魔力にちょっと当てられちゃったけど……あれくらいで私は暴走したりはしないわ」
「それじゃ、何も心配は無いんだな?」
 少し思うところがあるようで、アルクェイドは笑顔から一転、考え込むように眉を寄せた。
「うーん。どうだろう」
「……なんだよ、それ」
 確認のつもりで聞いたというのに、返ってきたのは曖昧な返事。
「何か不安なことでもあるのか?」
 アルクェイドは、僅かに逡巡した後、言うべきかどうかを確かめるかのように、じっ、志貴の目を見つめ直した。
「正直に言ってくれ。護衛するほうだって、予め知らせておいてくれれば、少しは対処できるだろ?」
 しっかりと、その目を見つめ返して言う。
 志貴にはどうしようも無い問題なのかもしれない。けれど、知っていると知らないのではいざと言う時差が出てくる。
 それに――そんな中途半端な言い方をされると気になってしょうがない。
「うーん……」
 アルクェイドは少しだけ不安そうな面持ちで俺を見つめ、
「それじゃぁ、言うけれど」
 僅かに言いよどんでから、
「今度何かあったら、志貴は本気で闘ってくれるの?」
 そう、アルクェイドは尋ねた。
「……え?」
 思わず固まる。
「この間の戦い……志貴は全力を出してなかったでしょう? 志貴の考えていることはわかるけど、私はあなたに本気で闘って欲しいのよ。そうすれば、この間だって、あんなことにはならなかったわけだし」
 アルクェイドは視線を逸らすと、言いずらそうに言った。
「……」
「あ、別に責めてるわけじゃないよ? 凄く志貴らしくないっていうか、むしろ志貴らしいっていうか。なんていうか、とにかく私も、あの時はああするのが良かったって思うけど」
「――いや、アルクェイドの言うとおりだ。始めにはっきりさせておくべきだった」
 気遣うように言い募るアルクェイドを制して、志貴は重苦しく口を開く。
  そして、きっぱりと、何の迷いも無く、
「……ゴメン。アルクェイド。俺は、確かにあの二人を殺すことを躊躇っていた」
 遠野志貴は、自分が先の戦いで全力を尽くさなかったことを謝った。
「――。一応、理由を教えてもらっても良い?」
 沈黙が落ちる。日差しの差し込む聖堂は時が止まったかのように静かだった。
「……ああ。少し長くなるけど……」
 アルクェイドは、何も言わずに頷いた。
「ずっと、考えていたんだ。俺達は倒されて当然の存在なんじゃないか、って」
 そうして、志貴は吐き出すように、静かに言葉を紡ぎ出した。
「自分達の日常を壊してしまうかも知れないっていう存在があれば、誰だって不安になるし、どうにかしようって思う。人にはきっと、そうやって日常生活を護る権利があるはずなんだ。――街中に殺人鬼が居れば、人は不用意に外を歩くのを止める。警察はそいつを捕まえる」
 それは至極陶然の社会の摂理。そうやって、不安分子を弾き出して、人間社会は見かけ上は平和な顔をして回っている。
「俺達は、いわば世界の不安分子だ。それも、とびっきり大きな。だからそんな立場に居る俺が、たくさんの人を救うためって命を掛けて挑んできたあの二人を殺してしまうのは、何か違うって……そう思ったんだ。悪いのは、たぶん俺だから」
 朱い月が降りてくるという可能性を持ったアルクェイド。勿論それはまだ可能性に過ぎないし、彼女自身には何の咎も無い。むしろ被害者であるとさえ言える。だから、彼女自身を責め立てるのは間違っている。彼女に罪など存在しない。だから彼女には生きる権利も、幸せになる権利も在るべきだ。そう、志貴は考えている。
 だから、悪いのはきっと、彼女を今の状態にまで追い詰めてしまった、この俺なのだ。
 ふとした弾みで、彼女を殺してしまった。そして、傷の癒えない彼女の代わりに、今まで彼女を守って闘ってきた。そこに後悔は無い。世界中の全ての存在が責め立てようとも、アルクェイドが許してくれたなら、その過ちはもう償われたはずだから。
 だから、責められるべきは、今の状況。
 彼女が眠りに就こうとするのを留め、滅亡までの猶予を惰性に過ごそうとしている、今この瞬間。どっちつかずの選択を彼女に強いている、俺の欺瞞。
 これが、俺が背負うべき罪だ。
「だから、死んでもいいと思った。死ぬのは怖いし……嫌だ。もっと生きていたかったし、アルクェイドともっと生きていたかった。けれど――仕方ないかな、とも思ったんだ。あいつらが俺達を殺そうとすることには、納得のいく理由があったから」
 他でもないこの俺自身が、納得してしまった。
「だから、俺はあの二人を憎みきることが出来なかった。罰を受けるべきなのは、俺だ。どちらかが殺されなきゃならないというんなら、それは――」
「それは違うわ。志貴」
 そう吐露する志貴に、アルクェイドは厳しい表情で断言した。そんなことは無い、真摯な瞳が志貴に向けられている。
「あなたが背負うべき罪なんて無い。今の状況は、あなただけで決めたものじゃないでしょう? 初めから否応無く宿命付けられていたものも在るわ。けど、私が自分の意思で決めたことだって、たくさんある。そして、こうして決めることが出来たのは志貴のおかげよ。……私が今こうしているのは、あなたの欺瞞なんかじゃない」
 厳しい口調でそう言って、アルクェイドは、優しく微笑んだ。志貴の胸の裡を見透かしているかのように。
「それに――。志貴は、私に聖杯をプレゼントしてくれるんでしょう? そうすれば、きっとすべてうまく行くわ。誰も悲しまないし、誰もあなたを恨んだりはしない。だから、悩まないで。志貴。罪があるというなら、あなたは十分に罰を受けた。例え眠っていても、私は今までずっとあなたの傍にいたのよ? 罰を受けるべきだって言うなら、それは私のはずでしょう?」
 そう言って、彼女は悲しそうな顔で笑った。
「!」
「だから――私は志貴に全力で戦ってほしい。私を護る為だとか、自分の罪を償うためとか、そういうんじゃなくて―――あなたの選択が、間違いじゃなかったと証明するために」
 なんだ、彼女は全て知っていたのか。志貴は気付く。抱えた不安を隠しきれているものと信じて疑わなかった自分が情けなかった。
「ああ、」
 深い闇に包まれた聖堂で過ごした、幾つもの夜。永遠と思える時間を独りきりで過ごしてきた。抱えた心の闇。後悔。不安。戸惑い。罪悪感。それらは明確な質量を持ってl心を苛んだ。
 闇の中、独りきりでいることは途方も無く辛かた。少しずつ蝕まれていく精神に、為す術など無かった。こうしているのが正しいことなのか、こうして選んできた道が本当に正しかったのか。自問自答する毎日。辛かった。苦しかった。
「そっか、気付いてたのか……」
「もちろん。いつだって私はあなたの傍に居たのよ」
 深い眠りについた永い時間。アルクェイドは志貴の独り言をただ聞いていた。どうすることもできない。話を聞いてやることすら出来ない。それでも、彼女は彼に傍に居てほしいと願った。
「だから、罪があるとすれば私の方よ。志貴。あなたには、たくさんの選択肢があった。こんなところまで私に付合わせてしまったのは……。そして、あなたの苦悩を知りながら傍に居てほしいと願ったのは、私の欺瞞。だけどね、志貴」
 例え短い時間でも、あなたと居られて、私は楽しかった。
「……!」
 眼鏡を外す。代わりに、白い包帯を眼に巻きつけた。泣いている自分は、彼女に見られたくなかったから。
「ああ、もう……っ、どうしてそんな話になるんだよ。本当はそんな話するつもりじゃなったんだ……!くそ、――ッ。最後まで聞けよ。バカ女……」
 誤魔化すように、大きな声でそう言って。
「俺が言いたかったのは、そういうことじゃなくて」
 思い出す。それは最後の瞬間。
「あの時、お前は知らないだろうけど、俺はお前の……お前だと思ってたヤツの両腕を躊躇い無く切断した」
 そして、そうすることしか出来ない自身を呪った。
「俺があの二人を殺すことを躊躇ったせいで、お前はあんなにも苦しんでいた」
 震えそうになる声を、押し殺す。
「俺、すごく後悔したんだ。どうして、もっと全力で戦わなかったんだろう、って。俺が躊躇ったせいで、誰もが不幸になるところだった。お前を護るって決めたはずなのに。そうやって今までやってきたはずなのに。俺が迷ったせいで、全てがあの時消えようとしていた。だから――」
 そうして、俺は一つの決意を彼女に誓う。
「俺は死んでも、納得できているからいい。けど、ここでお前を放って、最後まで見届けないで死んでしまうのは嫌なんだ。だから、俺は全力で闘うことにするよ。約束する。あんな後悔はしたくない。ここまできたら、何が何でも生き抜いてやる。この先、誰が相手だろうと絶対に手を抜いたりしない。――俺が言いたかったのは、そういうコト!」
 もう終わり!と志貴はすたすたと玉座へと繋がる扉へと歩いていく。そこには、彼の荷物の入った小さなバックパックが置かれていた。
 アルクェイドは少しの間、呆けたように志貴を見つめていたが――やがて、滲むように笑った。
「わかったわ。志貴。けど、志貴も一つだけ約束して」
「……なんだよ」 
「私は聖剣を受けた後のことはよく知らないけれど……志貴は私が咎落ちしそうになって、あの凛って人間を殺そうとしてたのを止めてくれたのよね?」
 志貴は答えない。彼女が何を言おうとしているか、わかっていたから。
「もし、私が本当に堕ちてしまいそうになったら―――志貴が私を殺して。志貴になら、もう一回くらい殺されたっていいから。――本当なら、もっと早く言っておくべきだったんだと思うけれど……。ほら、志貴はイフって嫌いでしょう? 言ったら、怒ると思って。……志貴はきっと私の気持ち、知ってたよね」
 だから、あそこで私を止めようとしたんでしょう?
「バカ。知ってても――解っていても、出来ないことだって、あるだろ」
「そうね。けど、それが志貴らしいわ」
 アルクェイドは、満足げに頷く。
 志貴は、朝から話すには随分と重たい話だ、と言って笑った。
「私はロアを殺すために生きてきて……志貴のおかげで、その目的は為された。それからは、志貴と一緒にいるのが楽しくて、今まで生きてきた……。けど、死ぬのが怖いわけじゃない。この先ずっと眠っているくらいなら、今消えちゃた方がずっと良いって思うわ。あ、志貴の夢を見ながら眠るのは少し楽しそうだけど」
 だから、躊躇わず殺してね、とアルクェイドは言った。
 志貴は、何も答えなかった。
「――はい!折角の旅行なんだし、真面目な話はこれで終わり! 楽しんでいこう? 志貴は、フィンランドに行くのは初めて?」
「ああ」
「それじゃぁ、いろいろと教えてあげる。私は一度行ったことがあるから。目一杯、旅行を楽しんで――それで、ついでに聖杯も手に入れちゃいましょ!」
 彼女にそんな励まし方をされたのは初めてで、志貴はしばらく、―――いつでも他人に対して真っ直ぐな彼には珍しく―――彼女とまともに目を合わせることが出来なかった。
 どうにも、調子が狂う。けれど、そんな彼女だからこそ、彼は全てを遠くに置き去りにしてまで、彼女と一緒にいたいと願ったのだ。
 ――だから、どんな結末だろうと、きっと後悔しない。


※     ※     ※


 荒れ果てた荒野に、砂塵が舞い上がる。
「ちょっと、待て――! なんなんだよ、これ!」
 けぶる砂塵の発生源で、志貴が叫んだ。
 抜けるような青空の下、信じられないほどの速さで駆けて行く人影が在った。だだっ広い荒野を一直線に切り取って行くその姿は、獲物を追う猫科の肉食獣のよう。通った後には、冗談のように人間大の足跡がはっきりと刻み込まれていた。
「え? なにー? 全然聞こえなーい」
 駆ける足を微塵も緩めず、アルクェイドは信じられないほど緩い声で応えた。
「ちょ……待ってって! 降ろせー!」
 小脇に抱えられた志貴が抗議の声を上げる。
「人に見られたらどうするんだよ!」
「大丈夫よ。普通の人間に捉えられるようなスピードじゃないから」
「しっかり聞こえてるじゃないか! 早く降ろせ!」
「えー?」
 蒼くなりながら、志貴が叫ぶ。しかし、アルクェイドは聞く気がないようだ。
 ……ああ、もう! なんなんだよ、これは!
 志貴は毒づくが、どうしようもない。
 街まで後五分。絶叫系のアトラクションにでも乗っていると思えば何とか耐えられる距離ではあるが……。
「五分? もっとかかるわよ?」
「――は? どこに行く気なんだよ、お前」
 叫ぶ気力も費えたのか、志貴が暗い声で尋ねる。
「とりあえず、エジプト」
 アルクェイドは、涼しい顔で答えた。
「え、えじぷとぉ!?」
「志貴は意外と魔術に弱いってことが判ったから、あんな軽装備じゃなくて、もっときちんとした武装をしないと。アトラスの錬金術師に話をつけておいたから、心配はいらないわよ」
「……」
 言葉を失った。このまま失神すれば楽かも、と思う志貴である。
「あ〜、楽しみねー。志貴はどんなのがいい?」
「……任せる。よくわからないし」
「そう? う〜ん。とりあえず、あの白髪頭レベルのモノは欲しいわよねー」
 空いたほうの手の人差し指を唇に手を当てると、アルクェイドは考え込むように言った。白髪頭とは、衛宮士郎のことだろう。派手な赤い外套が頭に浮かぶ。
「あれって、結構凄かったのか?」
「まぁね。概念武装の中でも相当優秀なものよ。あれなら、簡易な魔力なら無条件にカットできるでしょうね。といっても、志貴の魔眼から見れば、あんなのただの布切れと変わりないんでしょうけど」
「……ふぅん」
 アルクェイドも、いろいろ考えてくれているようだ。前回の戦いの決定打が、自分が魔術による攻撃を受け切れなかったことにあるだけあって、志貴はアルクェイドの行動に強く抗議することは出来なかった。
「うーん。それにしても良い天気ねぇ。風が気持ちいいわ」
「……」
 あまりの風圧に唇が高速で乾いていく。息を吸うのも一苦労だ。それに、高速で動く物体が感じる風圧を風というのか、志貴には甚だ疑問だった。
「ねぇねぇ、志貴」
「何だよ、バカ」
 何だかもうどうでもよくなって、志貴は自棄気味に応えた。
「こういう時って、なんていうんだっけ?」
「?」
「えーっと、確か――ああ、そうそう!」
 アルクェイドは、一人でいきなり納得すると突然、空いているほうの手を横に突き出し、腕を水平に開いた。
「ちょ……なにするん」
「そーれっ!! き―――――ん!」
 舞い上がった砂塵が入道雲のように荒地を覆う。砂粒が盛大に志貴の顔に降りかかる。
「―――ッ、このばかおんなー!!」
 叫びは、風に乗って、雲ひとつ無い青空の向こうに消えていった。




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