7.死街 W




 ヴォロゾフは若い吸血鬼である。
 吸血鬼と成って既に半世紀経つが、ある代行者との戦闘以来、表に出ることを嫌い街の片隅で肉体の意地に必要な、最低限の血液のみを摂取して生き長らえてきた。そのため超抜能力に目覚めていないし、魔術師から成ったわけではないから魔術も使えない。
 慎重で頭のキレる男ではあったが、だからこそ、彼は世の中には自分などが足元にも及ばぬ化け物が存在することを識っていた。
 彼はひっそりと街中に溶け込み、少しずつ力を蓄えていった。いつか、大手を振って忌まわしい太陽の下を闊歩できる日を夢見て。
 その野望が費えたのは、つい一年ほど前。
 人間達の前では化け物と恐れられる彼は、さらなる規格外の化け物に捕まり、彼らに忠誠を誓った。
 そして。
 『代償』を引き換えに、能力を得た。
 『束縛の魔眼』。
 目を合わせた対象の行動から、果ては意識の底まで束縛することの出来る能力。
 力を手に入れた彼の世界は変わった。あらゆる脅威が脅威ではなくなった。
 あれほど恐れていた代行者でさえも、この一年で四人も屠っている。彼と彼の弟分は、貪るように血液を吸い尽くした。
 どんな強力な戦士であろうと、彼の魔眼の前では身動き一つ出来ぬ餌となる。彼にとって、その力は誇りであり、絶対の自信の象徴だった。
 しかし。
「――こちらは動けないというのに、何もしないんだな。それは余裕か? 吸血鬼」
 目の前の男――エミヤシロウは、魔眼によって束縛された身であるにも関わらず、平然と口を開いた。
「ふふ。俺が全力の魔力を注いでもなお、喋れるようになるか。恐ろしいヤツだ」
 内心の動揺を露ほども感じさせぬ口調で、ヴォロゾフは不適に唇を歪める。
「だが、まだ動けまい。その澄ました口からどんな断末魔の声が聞こえるのか、俺にも興味があるよ。エミヤ。何せ、いままで殺した連中は、俺の視界の中では口一つ利けなくなってしまったからな。……クク、弟が帰ってくるのが楽しみだ」
 吊り上げられた口元から、鋭利な犬歯が覗く。士郎の表情に変化は無い。
「確かに『まだ』動けないな。だが、それも時間の問題だぞ。魔眼には少し耐性があるんでな。この程度の束縛、あと五分もすれば重圧程度にしか感じなくなる」
 ヴォロゾフの虚勢などお見通しだ、と言わんばかりに冷たい声を返す。
「……チッ」
 背筋の凍るような声色に、ヴォロゾフは頬を引きつらせた。
 士郎の言っていることが決してハッタリではないということを、彼はよく知っていた。現に士郎は常ならば呼吸一つ、十分な思考一つままならないほどの束縛を受けながら、平然と会話をしている。それも、少しずつではあるが、表情に余裕さえ出てきているようにも見える。このままでは束縛を解かれるのも時間の問題だ。
 動けないうちに殺してしまうのが最良だが……。
 ヴォルゾフは内心舌打ちをした。
 近寄れば殺されるのは自分の方であると、彼ははっきりと理解していた。その気になれば、士郎が一時的ではあるが身体を動かすことが出来ることを、ヴォルゾフは見抜いている。
 それは確信に近い。彼我の実力の差を見抜く目があるからこそ、彼は今まで生き長らえてきたのだ。
 ――特にあの剣は危険だ。両断されれば、俺に再生は不可能だろう。
 ヴォロゾフは思う。
 動かずに仕留めようにも、銃の類は持っていない。視線が切れない以上、どこからか得物を持ってくることもできない。つまり、膠着状態は免れないということだ。このままでは、不味い。
 ……遅い。ロブは何をしている。
「そうそう。言い忘れていたが」
 散り散りに思考を巡らせるヴォロゾフに向かって、士郎は今思い出した、というように口を開いた。
「俺には一人、仲間がいてな。もしかしたら、お前の相棒は既にこの世にいないかもしれないぞ?」
「それはない。アイツの戦闘能力は俺よりも上だ。この世から消えた者がいるとすれば、それはお前の仲間の方だろうな」
 ヴォロゾフは、士郎の言葉を真っ向から否定する。そこには一切の動揺も見られない。
「……ふん。随分と自身たっぷりだな。まぁいい」
 揺さぶりをかけるつもりだった士郎は、思惑が外れたことに微かに落胆する。
 しかし、そんなことは些事に過ぎない。精神的な揺さぶりが無理だというなら、正面突破あるのみである。
 士郎の瞳が大きく開く。
「どちらにしろ、そろそろ俺も我慢の限界だ」
 魔術の発動を察知して、ヴォルゾフは僅かに身構えた。
 二人の頭上の大気が僅かに揺らぐ。闇に包まれた虚空を引き裂くように、空中より一振りの剣が現れた。
 向かい合うヴォルゾフと士郎の間にくるくると回転しながら落下してくる。それは、士郎が今握っているのと全く同じ剣、“聖剣デュランダル”に違いない。
 ――これが、話しに聞いていたエミヤシロウの投影魔術!
 ヴォロゾフは、視界の隅に剣を捉えることしか出来ない。くるくると落下する剣は、刹那、二人の視線を遮り、士郎とヴォロゾフの間に突き刺さった。
 その瞬間、士郎は顔を背け魔眼の支配から抜け出す。身体を縛り付けていた強制力が消失すると、士郎はそのまま弾丸のように駆け出した。
「オォッ!」
 下段に構えた聖剣の銀の刃が、民家を焼く炎に照らし出され鋭く光る。駆ける足を緩めずに、地面に突き刺さった剣を抜き取ると、士郎は両手にデュランダルを構えてヴォロゾフへと肉薄する。
「エミヤ――!」」
「――さぁ、続きと行こうか。同じ手は通じないぞ! 吸血鬼!」
 不意打ちでなければ、魔眼は士郎に通じない。重圧は感じるが、彼が以前に体験した最高レベルの魔眼に比べれば、大した重荷ではなかった。
「チィッ!」
 ヴォロゾフは後ろに退がるしかない。背中を見せれば斬殺されるのは日を見るよりも明らか。かといって彼には、士郎の斬撃を正面から防ぎきる手立ては無い。
 吸血鬼の俊敏さを発揮して、フェイント交じりにステップを踏み、後方に逃れていく。
 しかし。
 そんな小手先の手段は士郎の前では何の意味もなさなかった。
 彼我の実力差は歴然だった。神速の足裁きで追いついた士郎が、鋭い殺気と共に剣を突きつける。
「終わりだ。悔いて消えろ!」
 ヴォロゾフは顔を引きつらせると、緊張で身体を硬直させ、
「! ……!?」
 かさり、と微かに枯葉の擦れる音を聞いた。
 紙一重に刃を突きつけられたヴォロゾフの顔が、邪悪な歓びに染まる。
「天は俺に味方しているようだ。エミヤ」
「……なに?」
 意味深な言葉に、士郎の思考が僅かに曇る。その瞬間、ヴォロゾフの身体は一気に跳び上がった。
 全力で斜め後方へと跳び上がると、躊躇いも無く、民家の柱の影に手を突っ込んだ。探るような仕草の後、何か大きなものを強引に引きずり出す。
「!!」
 士郎の顔に驚きに染まる。ヴォロゾフが引き釣り出したもの――それは、柱の陰に隠れ様子を伺っていた、若い女だった。
「ヒィッ!?」
「はは! この女の命が惜しければ動くなよ? エミヤシロウ。少しでも動けば……わかってるだろう?」
 腕を掴まれた若い女は恐怖で顔を歪ませ、視線で士郎に助けを請うた。
「……生存者が居たのか」
 士郎の足が止まる。
 六メートルの距離を残して、二人は睨み合う。人質を取られてしまっては追撃することが出来ない。
「チッ」
「そうだ。動くなよ。――おい、女。こっちを向け」
「あ、は、離して! イヤァ!」
 震える女が、ヴォロゾフを見上げる。女の瞳が、ヴォロゾフの赤い眼を映し出す。
「――え?」
 途端、女の震えはぴたりと止まった。
「俺の身を守る盾になれ」
 男は、静かに命じる。
「――!」
 自由意志の束縛!
 士郎は内心臍を噛む。
 束縛の魔眼が魔力の持たない者、意志の弱い者、混乱状態にある者に向けて使用されたとき、束縛の対象は肉体だけではなく、その者の意思にまで及ぶ。
 女の瞳が色を失っていく。
 混乱状態にあった女はヴォロゾフの命令に抗えず、忠実な男の盾と化した。
 ゆらり、
 女はヴォロゾフを背中に庇うように、士郎の前に立ちふさがる。
「――愚劣な。どこまでも弱い者に寄生する害虫め……!」
 嫌悪感を露に、士郎はスーツ姿の吸血鬼を睨みつける。
「ふん。貴様とて似たようなものだろうが。自分可愛さに契約を結んだ人間が高説たれるな」
「なん、だと?」
 殺気を帯びた鷹の目が、吸血鬼を射抜く。
「貴様、何故その事を知っている」
「ハハハ! いい目だ。では、私はそろそろ失礼するよ。また合おう。我が同志」
 大仰に頭を垂れると、ヴォルゾフは女を従えたまま、ゆっくりと森の奥へと向かって後退していった。女の腕を掴むと、不敵な笑みを貼り付けながら、少しずつ藪の中へと入っていく。
 ヴォロゾフの顔が安堵に緩む。
 彼の使命は弟分であるロブの仕事の邪魔にならぬよう、衛宮士郎を足止めすること。
 ――勝負は俺の勝ちだ。俺が手に入れた能力は、この先も俺の……!
「ん?」
 と。
 胸に熱い、灼けるような温度を感じて、ヴォロゾフは思わずスーツ地の胸元へと手を当てた。
「……?」
 濡れているような感触。視線を落とす。青白い手のひらについていたのは、真っ赤な鮮血だった。自身の胸から血が滴り落ち、ドレスシャツを鮮血に染め上げている。
 ヴォロゾフは呆然とその光景を眺めた。どういうわけか震える指を動かして、胸を焼く痛みの下へと持っていく。
 胸の中央に、何か遺物が埋まっている。血が滴り落ちて来ているのもその場所だった。
 ヴォロゾフはその遺物をゆっくりと抉り出す。
「な、に?」
 それは、銀の弾丸だった。吸血鬼であるヴォロゾフの身体を焦がし、ゆるく白煙を挙げている。
 ヴォロゾフは困惑の表情で辺りを見渡す。
 ――バカな。銃声も、弾丸が空を斬る音も全く聞こえなかったというのに。一体、どこから――。
「おい、吸血鬼」
 すぐ近くで響く冷たい声音。背筋を凍らせる予感と共に、ゆっくりと視線を戻した彼の目の前には、
「こんな時に余所見か? ――何度も言うが、随分と余裕だな。吸血鬼?」
 悪鬼の如く殺気を放つ衛宮士郎が、二本の長剣を携えて立っていた。
「なっ!?」
 言葉を発することも許さず、奔る剣閃。ただの一振りで、男の両腕は地に落ちる。
 ヴォルゾフに掴まれていた人質の女性が崩れ落ちた。術者が混乱状態に陥ったため、束縛が解けたのだ。
「ッ……くそっ!! 屑がッ! 悪魔に魂を売っておきながら人間ぶりやがって……!!」
 後ろへと跳躍しながら、ヴォルゾフはその顔を憤怒に歪ませ、自らの失態を嘆くように大声で喚き散らした。撫で付けた髪がほつれて乱れる。
 士郎は気を失った人質を抱えると、ヴォルゾフを射るように睨み付けた。
「――!」
 びくり、とヴォルゾフが怯えたような目で士郎を見る。
 士郎の身体がゆらり、と揺れる。射抜くような殺気をその身に纏わせ、後ろに大きく長剣を振りかぶると、弓のようにその腕をしならせ、
「……ふん」
 ゆっくりと、剣を下ろした。
「なに?」
 衛宮士郎の次の手を剣の投擲と確信していたヴォロゾフは、不可解そうに首を傾げた。
 剣の投擲ならば、ヴォロゾフには避け切る自信が在った。彼の身体は既に森の中へ踏み込んでいる。林立する木々を盾にすれば、身軽な自分の方に分があったはずだった。
 かつて闘った代行者を思い出す。
 無数の投擲剣を使う、圧倒的な力を持った死神の様な女のことを。
 ――あの時だって逃げ切ったんだ。今度こそ、
 そこまで考えた刹那。
「――あ?」
 音も無く、脳天に1発、心臓に1発の銃弾が突き刺さり、
「なんだ、こりゃ……」
 “束縛の魔眼使い”吸血鬼ヴォロゾフは、この世から永遠に姿を消した。
「ふん」
 口元を歪め、士郎が小さく笑う。
「どうやら、神が味方したのはこちらだったようだな。吸血鬼」
 鷹の目が、遥か向こう、100m先の山中で狙撃銃を構えた遠坂凛を捕らえる。
 軽く手を挙げると、凛は笑ってゆらゆらと手を振り返した。
 白銀の剣についた血液を振り払う。
「そもそも、何が“神が味方した”、だ。おこがましい。神に逆らって摂理の輪から外れたお前が、どうしてその恩恵に与れるというんだ」
 積もった塵は、風に吹かれて舞っていく。燃える町並みは送り火のようだ。化け物の葬送としては上等すぎる。この送り火は、町の人たちの為にこそ捧げられるべきだろう。
 抱えた女性を外套でくるむ。ところどころ火傷はしているが、大きな外傷は見当たらない。魔眼のおかげで、うまい具合に記憶も消えているだろう。
 凛の足音が近づいてくる。
 士郎は、白煙と共に粒子と化して消滅していく二本の剣を、ただ静かに見つめていた。




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