11.北欧の夜




 雨ばかりの六月が過ぎ、暦は七月になった。
 長く続くアスファルトの上を、ひたすら車で走り続けること十一時間。襲い来る疲労や睡魔と戦いながら、凛と士郎はようやくヘルシンキに到着した。
 時刻は午後八時。だというのに、太陽はまだ沈んでいない。
「明るいわね」
 ぽつり、と凛が呟いた。
「……明るいな」
 目の下の隈を擦りながら、士郎が顔を顰める。
 夏のフィンランドはなかなか夜にならない。ヘルシンキでも暗くなるのが午後十時頃。朝は四時を過ぎた頃、ようやく太陽が顔を出す。
「あー…。沈まない太陽が恨めしいわ」
 初日に買った観光マップと睨めっこをしながら、凛はしょぼつく目を瞬かせた。
 軍事衛星の映像を元に、アルトルージュ一派の痕跡を追い求め、フィンランドに入国して今日で五日目。大きな手がかりはまだ掴めていない。
 しょぼついた目で、沈み行く太陽を睨みつける。日が長い分、探索に回せる時間を多く取れるのはいいのだが、おかげで作業に区切りがつけられなくなってしまった。自然と睡眠時間は短くなり、ただでさえ時差ぼけで狂っていた体内リズムは崩壊寸前だ。
「はぁ。何やってるんだろう……私」
 気だるい身体をシートに預け、凛は思わず頭を抱えた。

 日本よりやや小さな面積と、五百万人ほどの人口。フィンランドは北欧に位置する共和国である。首都はヘルシンキ。公用語はフィンランド語とスウェーデン語。「森と湖の国」と称される、豊かな自然に囲まれた美しい国である。
「ん? 一部屋しか空いていない?」
 ホテルのカウンターで、士郎が困り顔で呟いた。
「困ったな。――遠坂。部屋が一部屋しか空いてないそうだ。別のホテルを探そう」
 士郎が振り返ると、ロビーのソファーにもたれた凛が、胡乱げな顔で士郎を見上げた。
「……疲れたわ。早く休みたい」
「けどな、一部屋じゃ泊まれないだろ」
 早く休みたいのは士郎とて同じだ。しかし、時刻は既に午後八時。チェックインには少々遅い時間だ。早めに次のホテルを捜さなければ最悪、今夜の寝床さえ危なくなってしまう。
「その部屋って、シングル?」
「いや、ツインだ」
「じゃ、いいじゃない。一泊なんだし、ここにしましょ」
 凛は僅かな逡巡も無く即決すると、勢いよく立ち上がり、軽い足取りでカウンターに歩み寄った。
「お、おい! 遠坂。本気か?」
「せっかくなんだし、士郎だっていいホテルに泊まりたいでしょ? これより下のランクのホテルは御免だし、ここ以上は値段がお化けだし。ここら辺が落とし所だと思うけど」
 何時もの調子で言い切る凛に、士郎は言葉に詰る。
「でもな、それじゃ何かと……」
「私と一緒の部屋じゃ、いや?」
 じ、っと猫の様な瞳が、上目遣いに士郎を見上げる。邪気の無い瞳に、士郎は気まずそうに目を逸らした。
「……いや、俺は平気だが」
「それじゃいいじゃない。ここにしましょ」
 満足げに破顔すると、すらすらとレジストレイション・カードにサインしていく。
「う……」
 士郎の背を、嫌な汗が伝っていく。
 凛の言う事も一理ある。しかし、これはさすがに何かと問題があるような気がする。何故だか、これが後に思いもかけず大きな火種となり、最終的には生命の危機にまで及んでしまうような事態に発展するような予感がひしひしと……。
「何やってるのよ、士郎。行くわよ」
「あ、ああ」
 ボーイを引き連れ、凛はすたすたとエレベーターの方へと歩いていってしまう。僅かな思案の後、士郎は一旦この問題を保留しておくことにした。
 別にやましいことがあるわけでもなし、神経質になる必要も無いだろう。
 ……たぶん。
 凛の後を追いかける。ロビーを横切ったところで、駆け寄ってきたホテルのフロント係の女性に呼び止められた。女性は随分と慌てた様子で、口早に一枚の紙片を手渡してきた。
「ん? メッセージ? 俺宛に?」
 尋ねる士郎に、若い女は小さく頷いた。
 士郎は訝しげに眉を顰めた。メッセージカードのようだが、心当たりが無い。
 紙片を裏返し、差出人を確認する。
「……!」
 そこに記されていた名前を見て、士郎は思わず息を呑んだ。

「わぁー……」
 部屋に入るなり、凛が感嘆の声を漏らした。
「うん。いい部屋じゃない」
 旅行鞄を無造作にベットの上に放り投げると、上機嫌な様子でくるくると部屋の間取りを見て回る。
「やっぱり、このホテルで正解ね」
 一通り確認すると、凛は満足げに頷いた。
 セウラフオネは老舗ながらも、リーズナブルな値段が売りのホテルである。宮殿風の外観、天井の高い回廊はフィンランド内でも定評がある。部屋はヨーロピアンタイプで、窓が大きく、ゆったりと余裕を持った造りとなっている。色調は暖色と白を貴重としており、どこか優しげな、暖かな雰囲気を醸し出している。
「ちょっと、士郎。入り口で何突っ立ってるのよ?」
「……いや、すまん。ちょっと考え事をしてた」
 難しげに眉を顰めながら、恐る恐る、といった様子で部屋に入ってくる。
「……どうしたの?」
「いや、別に」
 落ち着かない様子で、部屋全体を見渡す。どこか挙動不審な士郎の様子に、凛は首を傾げた。
「――まぁ、いいけど。それじゃ、私寝るから。士郎も寝てないんだし、休んだほうがいいわよ」
 そう言うなり、てきぱきと持っていた荷物を纏め出す。バスルームで寝巻きに着替えると、さっさとベットの中に潜り込んでしまった。
「……はぁ」
 布団の中にもぐりこんだ凛を見て、士郎は思わず胸を撫で下ろした。
 妙に意識してしまった自分が何だか馬鹿らしい。一息ついて、隣のベットに腰掛ける。
 ――そもそも、凛に他意など有りはしないことなど、最初から解っていたではないか。確かに凛は綺麗になった。士郎と居るときはどうしても学生時代の空気に戻ってしまうが、その振る舞いは大人の女性そのものだ。
 どぎまぎしてしまうのは、実に当たり前の反応だと、士郎は思う。
 ――いや、そもそも大人の女性だからこそ、ここは慎みを持つべきではないのか? 変なところでガサツだから、未だに嫁の貰い手も、
「……ねぇ、士郎」
 沸々と一人、思考の海に沈んでいた士郎を、凛が呼んだ。
 顔を上げると、そこには、掛け布団から覗くように顔を出し、恥らうような瞳を士郎に向ける凛の姿があった。
「な、なんだ、遠坂」
 思わずどもってしまった士郎は、軽く咳払いをしてして凛を見つめ返した。
「私たちって、ホテルの人にどんな風に見られてたのかな?」
 熱い視線が、士郎の目を捉えて話さない。あどけないその瞳に、士郎の心臓が一際大きく高鳴った。
「いや、どんな、って、何が」
「どんな、ってわかってる癖に――やっぱり、恋人同士、とかに……見えるのかな?」
「――!!」
 士郎の身体が一瞬で硬直する。
 おろおろとうろたえる士郎の姿に、凛は貞淑な表情を一転、にやり、と意地の悪い笑みをその顔に浮かべた。
「なーに赤くなってんのよ」
「な、」
 からかわれたのだ、と気付いた士郎の顔が、赤く染まる。
「あははは。冗談よ。ドキドキした? 男って、本当にこういうの好きよね。――それじゃ、お休み。士郎」
 そう言って、腹を抱え一通り笑うと、布団を被って寝てしまった。
「……」
 士郎はしばらくの間、呆然と布団を被った凛を見つめていたが、
「……くそ、本当に変わらないな。遠坂は」
 悔しげに毒づいて、ベットから立ち上がった。
 軽くシャワーを浴びて、ベットの上に横になる。
 ……睡魔はすぐに訪れた。
 士郎の意識は引き込まれるように、深い眠りの底へと落ちていった。


 それは、二週間ほど前に交わされた、一つの約束。

「……」
 聖杯を求めてフィンランドへ行く、と言う士郎に納得の行かないライダーは、カウンターに背を向け無言の抗議を行っていた。
「今回は真祖の姫の協力を取り付けた。宝石翁も、手は出せないといっていたがこちらに協力的だ」
 士郎は独り滔々と話し続ける。
「聖堂教会も魔術教会も相当力を入れてくる。俺達の使命は真祖の姫が咎落ちしないように見張りながら、彼女達と共闘してアルトルージュ・ブリュンスタッドの企みを止めることなんだ」
 ライダーは振り返りもしない。黙々とコーヒーカップを磨いていく。
「別に、アルトルージュ一派と戦いに行くんじゃない。出来れば平和的に解決したいと思っている。今度の目的は、聖杯があいつらに渡らないようにすることなんだからな。俺としても、直接の衝突無く帰って来れればと思って……」
「そんなこと……!」
 それまでの沈黙を破るような怒声が、店内に響いた。
「出来るわけが無いでしょう!?」
 流し台に両手を叩きつけ、ライダーは怒りの篭った瞳で士郎を睨みつけた。
「あなたは八年前の聖杯戦争を忘れたのですか!? あの時だって、あなたは同じコトを言っていたではありませんか!」
「ライダー……」
 僅かな驚きと共に、士郎がライダーを見上げた。私は激昂するライダーの姿が痛ましくて見ていられず、僅かに目を逸らした。
「その結果がどうですか!? 貴方は戦いを止められましたか!? 早々に自身のサーヴァントさえ失ってしまった貴方が、聖杯を求めて戦うサーヴァントたちに、何が出来たというんですか……!」
 搾り出すように叫ぶ。荒く息をつくライダーの姿に、
「……」
 士郎は何も言わずに静かに俯いた。
 しかし、ライダーの怒声を持ってしても、士郎が自身の決断を翻すことは無かった。
 かち、かち、と時計の音が時間を刻む。
 永遠とも思える空白の後、ライダーは静かに口を開いた。
「一つ、約束してください」
 背を向けたまま、ライダーは言った。
「サクラの代わりに、私と。――戦うな、とはいいません。ただ、」
 搾り出すように、心からの願いを口にする。
「生きて帰ってください。あなたが死ねば、悲しむ人がいることを、絶対に忘れないで」
 最後の方は小さく消えて、ほとんど聞こえなかった。


きぃ、
「う、ん……?」
 扉の軋む音で、目が覚めた。
「……士郎?」
 呼びかけてみるが、返事が無い。
 闇の中、目を凝らして覗き見た隣のベットに、士郎の姿は無かった。ベットサイドに飾られた時計に目をやる。
 時刻は、午前一時を少し回ったところだった。
「……何よ。こんな時間に」
 呟いた声は皺枯れていた。そういえば、喉がカラカラだ。
 寝起きで気だるい身体に鞭打って、備え付けの冷蔵庫まで歩いていく。
 がちゃ、
 冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを手に取る。カップに冷たい水を注ぎ口に含む。喉から伝い落ちていく、冷ややかな感触。緩慢だった思考が回転を始める。
 ほっ、と一息吐くと、誰も居ない部屋をゆっくりと見渡した。
「あ。……何やってるのよ、あいつ」
 ベットサイドに無造作に置かれたルームキーが目に留まる。このホテルは全室オートロックだ。もちろん、鍵は一つしか無い。
「鍵を持って出ないと、部屋に入って来れないじゃない。今時、お年寄りだってこんなヘマしないわよ……」
 備え付けのソファーに腰掛ける。
 一眠りしたおかげで、身体は随分と楽になった。鎮痛剤を打たなければ眠れなかった肩の痛みも、今は引いている。
 ……士郎は何処に行ったんだろう。
 何か食べるものでも探しにいったんだろうか? そういえば、私も昼から何も口にしていない。鍵のこともあるし、いっそのこと士郎を追いかけて一緒に何か……。
「――ん?」
 何気なく眺めた室内。胸に湧いた、小さな違和感。
 なんだろう? 何か引っ掛かるものがある。
「……」
 ホテルの部屋に異常は見当たらない。大気中のマナの組成は、寝る前に確認した通りだ。荷物に誰かが触れた形跡も見当たらない。
 乱れた髪を掻き揚げ、思考の海に沈み込む。些細な違和感でも、解決しなければどうにも落ち着かない。
「あ」
 閃いた。
 床に置かれた鞄を跨いで、クローゼットに駆け寄る。木目調の観音開きの扉に手を掛け、一息に開ける。重厚な扉は、大した力を掛けずとも簡単に開いた。
 クローゼットに仕舞いこまれていた闇が、室内に零れる。
「……やっぱり」
 見当たらないものが、一つだけあった。本来あるべきものが、この部屋には欠けている。
「士郎の外套が、無い」
 車の中で毛布代わりに使っていた、士郎の赤い外套。それが、部屋のどこにも見当たらない。
 几帳面な士郎の性格からして、吊るす場所の無い車内ならともかく、クローゼットの付いているホテルで、脱いだ服を掛けて置かないなんてことはありえない。その証拠に、ベットサイドに丸めておいた私の外套は、士郎の手によって皺を伸ばした状態でハンガーに掛けられている。
 北欧の夜は寒い。七月といえども、外に出るなら薄い羽織物くらいは必要だ。しかし、たかが小用でわざわざ外套を着ていくだろうか?
 士郎の外套は聖遺物の編みこまれた礼装だ。それを着ていくということは、魔術師として日常と一線を画した状況に赴くということに他ならない。
「それに、あんな派手な赤色、ジーンズに羽織っていくには趣味が悪すぎる」
 ベットの足元に置かれた士郎のバックを開く。
 ――やっぱり。士郎の礼装が一式、無くなっている。
「パートナーに断りも無く一人で勝手に行動するところも、あの頃と変わらないのね」
 急いで自分のベットに戻ると、鞄の中から、魔術礼装を引きずり出す。
 宝石を幾つか見繕って、私は部屋を飛び出した。




「それじゃあ、そろそろ行こうかな」
 そう言った私を、ライダーは名残惜しそうに見つめた。
「今日は自宅の方へ?」
「ええ」
 もう少し話していたい気もするが、タイムリミットだ。続きは次のお楽しみ、ということで。むしろ、今日は少し長居しすぎたくらいなんだから。
 椅子から立ち上がった私は会計を済ませようとして、
「……」
「リン?」
 一つだけ、聞き忘れていたことがあったことを思い出した。聞くべきかどうか一瞬考えたが、これが最期になるかもしれないと思ったら迷わなかった。後顧の憂いは断っておくのが私の信条だ。
「ねぇ、ライダー。最後に一つだけ聞いてもいいかしら?」
「? ……ええ、どうぞ」
 ライダーは訝しげに、眼鏡の奥の目を細めた。
「ライダーは、今の士郎を許せる?」
 店内の空気が、少し下がったような気がした。
 ライダーは真剣な瞳で私を見下ろし、
「……どういうことですか?」
 硬い声で、静かに尋ね返した。
「今の士郎は、『桜の為』ではなく、『大勢の他人の為』に生きている」
「……」
「八年前、あなたと士郎の間で交わされた約束は、私も知ってるわ。あなたには、士郎を断罪する権利がある。それなのに―――」
「他人を断罪する権利なんて、誰にもありませんよ」
 目を逸らし、ライダーは苦笑交じりに言った。壁際まで歩いていき、掛けてあった私のコートを手に取る。
「……情でも湧いたのかしら?」
 ぴたり、
 ライダーの身体が硬直する。
 蛍光灯の白い明かりだけが、薄暗い店内を照らしている。かち、かち、と壁時計の秒針が時を刻んでいく。
 長い沈黙を破るようにして、ライダーは厳しい視線で私を見つめた。
「……凛は、士郎に死んで欲しいのですか?」
「誤魔化さないで、ライダー。これが最期かもしれないの。正直に答えて」
 ぶつかり合う視線。
 私の真剣な視線にたじろぐ様に、ライダーは僅かに目を逸らした。
「そんな目で、私を見ないで下さい。凛」
「図星、ってわけ?」
「……確かに、出来るなら私は、士郎を殺したく無いと思っています。しかし、私が桜のサーヴァントである以上、あの日交わした決意に迷いはありません」
「それじゃぁ、どうして」
「わからないのです」
 揺れる瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「士郎が誰の為に戦ってるのか。何のために戦っているのか。私にはわからない」
 そう言って、ライダーは私に背を向けた。
「士郎がこの街を出て行くと告げた日――。私は、士郎を殺すつもりで彼に対峙しました」
 士郎が出て行った日、私は冬木に居なかった。その時の出来事は、桜とライダー……そして、士郎しか知らない。
「――けれど、サクラは私を止めました。『士郎さんは、今でも私だけの味方でいてくれている』。だから、約束を違えてなどいない、と」
「……士郎とあなたを戦わせたくなかっただけじゃないの?」
「始めは、私もそう思いました。サクラが何と言おうと、この裏切りだけは許せない。……しかし、違うのです。うまく言えませんが……」
 躊躇うように視線を泳がせ、ライダーは言葉を選ぶように続ける。
「リンは知らないかもしれませんが、あの頃のサクラは精神的に随分と追い詰められていました。まともな話し合いも出来ないほどに。しかし――あの時だけは違いました。言葉に、明確な意思を感じたんです」
「――……」
「私の与り知らぬ、夫婦の間でしか理解できない思いがあったのかもしれません。私は決断を一度、保留することにしました。私が士郎を殺してしまえば、きっと全ては取り返しのつかない闇の中に消えていってしまう。……間違いなく、彼らは道を誤りました。それは間違いない。しかし――まだ、答えは出ていないと思うのです」
「――その答えは、何時出るの?」
「それは……」
 ライダーは言葉を詰まらせた。その先は、彼女自身もまだ答えが見つかっていないようだった。
 時計の針は、あの子が帰ってくると言っていた時刻に差し掛かろうとしていた。中身の少なくなったコーヒーカップを手に取る。
「夫婦、ね―――」
 力なく、呟く。
 液面に写った私の顔は、何故か悲しそうに歪んでいた。


 ―――見上げた空に月は無かった。そういえば、今日は新月だったか。
 雲ひとつ無い空を見上げて、士郎は静かに息を吐いた。ホテルから歩くこと十五分。ここまで来ると、高層ビルも疎らになる。
 地上から見上げた星空だけは、世界のどこにいても変わらない。それは彼にとって唯一の慰めであり、また悲しみだった。
「人の後を尾けるなんて趣味が悪いぞ。遠坂」
「―――あは、バレた?」
 少し棘を含んだ士郎の声に、背後のビルの陰から、悪びれる風も無く凛が顔を出した。
「……そりゃ解るさ。遠坂に本気で隠れる気があれば別だけどな」
「そこまでお見通しか。師匠としては嬉しい限りだわ。士郎」
 芝居がかった調子で、うんうん、と満足げに頷く。
「どうして使い魔を飛ばさなかったんだ? 遠坂の造ったやつなら、俺に気取られるなんてことなかっただろ?」
「そんなの決まってるじゃない。必要が無かったからよ。こんなコトに使い魔をやること自体無意味だし――。そもそも、どうして仲間相手に気取られないように尾行する必要があるわけ?」
「――む」
 凛の言いたいことを気取った士郎が、気まずそうに目を逸らす。それでも、じとっ、とした重たい視線を送り続ける凛に、士郎は小さく頭を下げた。
「いや、わかった。俺が悪かった。だから、そんな目で俺を見るのは止めてくれ。遠坂にそんな目で見られると、生きた心地がしない」
「私を謀ろうとした罰よ。大体ね、士郎は中途半端すぎるのよ。どうせやるなら、絶対に感づかれない方法でやりなさい」
 不機嫌そうに腕を組んだまま、凛が士郎の隣に並んだ。
 二人して、深夜のヘルシンキ市街を歩き出す。僅かな沈黙が、二人の間に降りる。
「どこに向かってるの?」
 最初に口を開いたのは、凛だった。
「郊外の美術館だ。そこで待ち合わせることになっている」
「待ち合わせ?誰と?」
「それは、行ってのお楽しみということで。恐らく向こうに危害を加える気は無いと思うが、念のため用心はしておいてくれよ」
 士郎は、にやり、と唇を吊り上げると、僅かに歩調を速めた。
「何よ、それ。もったいぶらずに言いなさいよ」
「勝手に付いて来たのは遠坂だろ。何も言わずに出てきたのは謝るが、個人的な待ち合わせまで付いてくるのはどうかと思うぞ」
 そう言って、さっさと歩いていってしまう。
「……む」
 凛は嘆息する。
 さっきの仕返しだろうか? それにしても、綺麗に捻じ曲がったものだ。
「……前から思ってたんだけど。なんか士郎、雰囲気変わったわよね」
「そうか?」
 何気なく呟いた一言に、士郎は立ち止まると、律儀に眉を顰めた。
「――」
 ……まったく。素直なのか、捻くれているのか。こういう所は変わっていないのだから、今一憎めない。
「そうよ。闘うときのスタイルとか全然違うわよね。なんか、荒々しくなったって言うか。力で押し切ることが多くなった、というか……私の場合、どうしてもアーチャーと比較しちゃうんだけどさ」
「……」
 士郎は難しい顔で腕を組むと、考え込むように首を傾げた。何か心当たりがあるのかもしれない。
「まぁ、相手が吸血鬼だからっていうのもあるのかもしれないけれど。……士郎は、吸血鬼に何か恨みでもあるの?」
「どうしてそう思うんだ?」
「なんか、あいつらを見る時の士郎の目、戦意の他に憎しみが篭ってるような気がして。あんな目、滅多にしないじゃない。だから、個人的な恨みでもあるのかな、って思って」
 凛の言葉に、士郎は顔を顰めると、
「――吸血鬼は嫌いだ。他人から搾取することでしか生きられないなんて、俺はとてもじゃないが容認できない」
 不機嫌そうな声で、きっぱりと言い切った。
「士郎らしいわね。けど、どんな動物だって同じよ? 他人から搾取することで私たちは生きているし、快楽を感じている」
「……それを言ったらお仕舞いだろ。じゃ、遠坂はどうなんだ? あいつらを許せるって言うのか?」
 糾弾するような口調の士郎に、凛は肩をすくめた。
「そりゃ許せないわよ。人間にとって、吸血鬼はいわば天敵だもの」
「なんだよ、それ。言ってることが無茶苦茶だぞ。遠坂」
 少し拗ねたように、士郎が言った。
「そんなことないわよ。士郎は吸血鬼の存在そのものが許せないんでしょう? けど、私は違う」
「違う?」
「ええ。――あ、ここじゃないの?美術館って」
 路地の突き当たり。小高い丘の上に、石造りの大きな建造物が現れる。
 『Turun taidemuseo』。入り口の石柱にはそう記されていた。
「トゥルク美術館。ここね」
 車の中で読んだパンフレットに載っていたのを覚えている。十九世紀から今日に至るフィンランド美術が収蔵されているという、フィンランドで二番目に大きな美術館だ。
「ちょっと待て。話を逸してないか? 遠坂」
「そうかしら?」
 士郎の問いには答えず、凛はすたすたと美術館の敷地内を歩いていく。左手に小さな噴水があり、その周りにはたくさんの彫刻が飾られていた。
「うわぁー、綺麗な建物ねー」
 美術館は、城か教会のようだった。土色のレンガを無数に積み上げで造られた、一つの芸術品のような佇まいに、凛は目を奪われた。
「……遠坂。途中で勝手に話を終わらせるのは止めてくれ。気になってしょうがないだろ」
 真剣な顔で抗議してくる士郎に、凛は小さく肩をすくませた。
「糞真面目な所は相変わらずなのね。……私は、目の前で誰かが理不尽な目に逢ってるのが許せないの。ただそれだけよ」
 小さく胸を張って、凛は答える。しかし、士郎は明らかに不満そうな顔で、眉根を寄せた。
「なんだよ、それ。そんなの同じじゃないか。吸血鬼が生きるってことは、つまり人を殺す、ってことだろ」
「そうかしら? ……それより、士郎。これ開かないんだけど」
 美術館の入り口に立った凛が、虎を象ったブロンズの取っ手を引っ張る。
 しかし、重厚な木の扉はぴくりとも動かなかった。それも当然だ。深夜の二時に公共施設が開いているわけが無い。
「裏口へ回るんだ。非常扉が開いているはずだ」
 そういうことは早くいいなさいよ、と愚痴る凛を尻目に、士郎はさっさと裏口へと回りこむ。士郎の言葉通り、裏口には鍵が掛かっていなかった。
 扉を開け、中に入る。
 美術館の照明は全て消えていた。人気の無いロビーは、無音の静寂と深い闇の中に深く沈み、侵入者を拒むような冷たい空気を生み出している。
「……、」
 奥へと進むのを躊躇う凛を置いて、士郎は奥へと歩き出した。辺りへ注意を払いながら、凛もそれに続く。
 すぐに、凛の視界が天井に設置された数台の監視カメラを捉えた。士郎は、気にした風も無く、真っ暗な廊下を躊躇いも無く歩いていく。
 ――不味い。凛は思った。
 このままでは、私まで指名手配犯になってしまう。
「士郎、そこ! 上に」
「監視カメラなら気にするな。早く行くぞ」
「――え?」
 振り返りもせず、士郎が言った。凛は、監視カメラに目を凝らす。
「あ、電源が落ちてる」
 カメラは作動していなかった。何十台とあるカメラは、悉く撮影中を示す赤いランプが消えている。随分とずさんな美術館だ。
 ボーン、ボーン、とホールに置かれた巨大な柱時計が午前二時を告げる。その音に急かされるように、士郎の歩調が早まった。
「何時に待ち合わせ?」
「二時だ」
「あ、やっぱり」
 なるほど。だから急いでいたのか。
 廊下は、大きな扉に突き当たった。
 扉を開く。そこからは先には、順路に添って赤い絨毯が伸びていた。暗くて良く見えないが、横には美術品と思しき物が並んでいる。
 彫刻、絵画、壺、民族楽器。夥しい量の美術品が、或る程度の間隔で並んでいる。天井の窓に嵌めこまれたステンドグラスから、僅かに薄い星明かりが降りている。
 凛と士郎は、居並ぶ美術品の列を、奥へ奥へと歩いていった。やがて、レッドカーペットは美術館の一番奥、折り返し地点に差し掛かる。
「? 誰も居ないじゃ……――ッ!」
 凛が口を開いたその時、突然、天井に吊るされたライトが一つ、眩い光を放った。
 あまりの眩しさに、思わず凛は腕で光を遮り、
「!?」
 突然、視界一面に飛び込んできた巨大な怪鳥の姿に、握りこんだ宝石を突き出した。
 詠唱を始めた所で気付く。目の前の怪鳥は、ぴくりとも動こうとしなかった。
「違う。……絵画?」
「――アクセリ・ガッレン=カッレラ作、『サンポの防衛』」
 背後の闇の中から、澄んだ声音が響いた。
「!!」
 現れた気配に、凛が、士郎が、それぞれの得物を構えて振り返る。銀の銃身が、抜き身の刀身が、ぴたり、と背後の闇に向けられた。
「あれ? どうしたのさ。今日は二人と戦り合う気は無いんだけど」
 揶揄するような声が、斜め向かいに置かれた大理石の彫像から響く。スポットライトの強烈な光が強いコントラストを作り出し、闇は一層、その深みを増していた。
 じっ、と凝らした凛の目に、彫像に腰掛けるようにして座る、小さな人影が映った。
「Valo loistaa pimeydessa, pimeys ei ole saanut sita valtaansa」.
 謳い上げるようなボーイソプラノが、館内に響く。
「……!」
 聞き覚えのあるその声音に、凛は身を強張らせた。
「……光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。――うん。神様ってのも、偶には洒落たコトを言う」
 感嘆するように呟いて、人影はその手に持っていた黒い装丁の本を、ぱたり、と閉じた。
 ゆっくりと顔を上げていく。
 天井のステンドグラスから、薄い星明りが降り注ぐ。柔らかな青い光が、大理石の彫刻に反射して、キラキラと光る。それは、この世の物とは思えない程に美しい、一つの芸術品とも言うべき光景―――。
「久しぶりだね、リン。来てくれて嬉しいよ」
 天使の様な微笑みをその顔に浮かべて。
 メレム・ソロモンは硬直する二人に親しげに視線を投げかけた。

<戻る  表紙へ トップへ  次へ>














!試験測定中!携帯アフィリエイト
今日:
昨日: