25.ワルプルギスの夜 U




 放った光線の行方を見守る凛が息を呑んだ、まさにその時。白騎士の低く重たい声が森の大気へと流れ出た。
銃士マスケティア、出番だ」
 同時に、響く銃声が続けざまに三度。二つの宝石は撃ち砕かれ、地に落ちる。
 次に白騎士の外套の中から転がり出るように現れたのは、二丁拳銃の男だった。
「っ、次から次へと……!」
 思わず呟き、凛は白騎士の前で急ブレーキを強いられる。ついさっき突き刺したモルヒネが効いているのか、身体の痛みは感じなかった。
「魔術師。お前にはそこで少し遊んでいてもらうぞ」
 目線を向けることなく、白騎士が笑う。
(私は視界に入れる価値もないということか)
 凛は改めて自分がどう認識されているかを確認し、皮肉に顔を歪める。
「また、悪趣味なのが出てきたわね」
 鉛色の鉄仮面、その奥に見える瞳孔の開いた真紅の眼が、食い入るように凛を見つめていた。
 生ける者の纏うそれとは、明らかに違う空気。銃士が放つ気配は、死人のそれに等しい。
 死人が歩きまわる――。生物としての禁忌を前に、身体が後退を命じている。それに関わるな。今すぐここから逃げ出せ、と。それは、生存本能ゆえの衝動なのだろう。それでも、
「……っ」
 凛は精神力でその抗いがたい衝動をねじ伏せ、銃士と向き合う。
「白騎士の威圧感に比べれば……!」
 うめくように呟き、抜き放った銀銃を突きつける。代わりに、代行者……いや、シエルから預かったモノを腰元のホルスターに捻じ込んだ。
 銃士もまた、同じように銃を構える。細い身体の、獣のような男だった。
 防具らしいものは左手の甲についた金属製の篭手だけという軽装。全身くまなく革布に覆われており、それは頭部にまで及んでいる。
 甲冑に身を包んだ先の三騎士と趣を異にしているが、革布の奥、深く窪んだ眼下で煌々と光る赤い瞳は、他の騎士達と全く同質の輝きを宿している。
(さっきの連射を見る限り、早打ち勝負は分が悪いか。いや、ガンドを合わせたダブルハンドなら……)
 凛にぴたりと照準を合わせる拳銃は小型のもので、両手にそれぞれ握り込むように構えている。先ほど宝石を一撃で撃ち落としたところを見ると、小さいながらも威力はありそうだ。
 白騎士と切り結ぶ士郎を横目に、凛は左腕の魔術刻印を静かに励起させる。
 間隔の短くなっていく紅の明滅。淀む空気は禍々しく、質量さえあるよに感じられた。いつ儀式が始まってもおかしくない。
 慎重さと引き換えに、焦りばかりが膨れ上がる。
 自分を鼓舞するように、腰元のホルスターに手を当てる。専用弾は二発分だけ装填してある。残りの弾丸が入ったケースは、宝石と一緒に胸元のポケットの中だ。
(――早く、なんとかしないと……! 今の私には、アレを打倒しうる切り札があるんだから)
  強迫観念にも似た圧力に少しずつ心を押し潰されながら、凛は、シエルからこの切り札を託された時のことを思い出していた。


※   ※   ※



 ロブと呼ばれる死徒が滅びた時、私は自身の胸に何の感情も湧き起こらなかったことに戸惑い、愕然となった。
 すかっとするとか、冷たい気持ちを抱くとか、嬉しくて、思わず笑いだしたくなるとか――。そういった感情が、いっさい湧き上がって来ない。ただ何もかもが空っぽで、落ち着き先を見失った心がふわふわと宙を彷徨っていた。
「……ああ。あいつ、死んだんだ」
 口をついた言葉さえ、どこか他人ごと。遠坂凛は、ゼンマイの切れた人形のように思わぬところで停止してしまった。
 たぶん、これが復讐を果たすということなんだ。
 空っぽの心で、うっすらとそう思った。
 仇打ちなんか遂げても、何も終わらないし、始まりもしない。
 それが虚しいものであると、知識では知っていたし、理解だってしているつもりだった。だけど、実際にその場所に立ってみると、見える景色は思っていたものと全然違った。
 進むべき道を見失う。底なしの穴に落ちてしまったみたいに、光が見えない。
 ――どうしちゃったんだろ、わたし。
 ふと、ずっと昔のことを――。父さんが死んだ時のことを思い出した。
 父さんが命を落としたと聞いた時、私は盲い気持を抱くようなことは無かった。もちろん悲しかったけれど、仇を取ろうなんて考えは無かった。
 ただ立派に、次の聖杯戦争を勝ち抜いて、遠坂の家が愚直に守ってきた教えが間違いでは無かったのだと証明したかった。それが志半ばで倒れた先祖たちに報いることだと思えたから。
 だから、走り続けた。
 暗い気持ちを抱く暇もないほど、ただ全力で。そうして、そのままの気持ちで聖杯戦争に挑んだ。
 そこに暗い気持ちは存在せず、後ろ向きの感情を抱くことも無かったと誇ることができる。
 だからこそ、きっと私はかけがえのない様々なものをあの戦争から得ることが出来たのだ。
 失うものも多かった。けれど、確かに手に出来たものもあった。
 思えば、復讐や悔恨、あるいは欲望、盲執――。そういったものを抱えてあの戦争に挑んだものは、皆とてつもないしっぺ返しを食らうか、あるいは燃え盛る業火の中に消えてしまった。
 胸に灯した業火は、大きな力を与えるのと同時に、自らの心までをも焼き尽くしてしまうのだろう。そうやって全てを飲み込んでしまうほど、人の心が産み出す炎は激しくて、容赦が無い。
 あの男だってそう。士郎を仇と憎んで、戦って……、そうして結局、自分までをも焼き尽くしてしまった。
 身を滅ぼしてなお、怒りの炎は士郎にまで届くことなく――。
 ……いや。
 果たしてそれが真実なのだろうか?
 人の想いは、想像以上に強く激しく、恐ろしい。それは時として、世界を変質させるほどの力さえ持つ。世界は想いによって築き上げられてきたと言ってもよい。
 私には、自身を焼き尽くすほどの怒りを燃え上がらせたあの死徒が、士郎に何の影響も与えることなく滅びていったとは思えなかった。
 士郎は、今も顔色一つ変えずに騎士たちと戦っている。その姿はいつもと変わりない。……だけど。
「―――Satz.告げる。
 胸を締め上げる不吉な予感を振り払うように、私は強く呪文を刻む。けれど胸に空いた喪失感は大きくて、注いだ力がそのままどこかへ流れ出てしまうような気がした。疲労に晒され続けた身体は、今にも壊れてしまいそう。
「情けないな。まだ、何も終わってなんか無いのに……」
 思わず弱音が毀れた。今にも挫けてしまいそうな心。果たせぬ思い。悔しい。どうして、どうしてこんな時に限って――。
 士郎の顔が頭を離れない。
「……止めてよね。まるで、恋する少女見たい」
 皮肉を言う口調さえ弱弱しい。全く、これくらいで屑折れそうになる自分が嫌になる。
 私は、ただただ不安なのだ。
 あの死徒は、士郎への恨みを募らせを燃え上がらせ、終には自分の身さえ焼き尽した。
 では、それだけの想いを向けられた士郎もまた、大切な何かを……。それこそ灰さえ残さず、焼き尽くされてしまったのではないか。そう思えて。


「はぁ、はぁ、は――」
 荒く息を吐きながら、凛は吹き飛ばされ、地面に転がる弓兵を見つめていた。
 ガンドの一撃は、寸分たがわず弓兵の胸を撃ち抜いている。早撃ち勝負にもつれ込んだ最終局面、活路を開いたのはダブルハンドを駆使する遠坂凛だった。
 肩を上下させながら、凛は膝を突き、石床の上に座り込んだ。その顔は蒼を通り越して白に近い。
(早く、止めを刺さないと……)
 魔術回路を励起させ続けた代償に、体中の毛細血管が所々破裂し、血が流れ出していた。それでも、凛は立ち上がろうと腕に力を込める。
 弓兵はまだ滅びていない。早く止めを刺さないと、復元呪詛が身体を復元してしまう。
 しかし――。
 ズシャ、
 掌が自身の血液にぬめり、凛は地面に倒れこむ。ふと視界に、脇腹に深々と突き刺さったボーガンの矢が入った。
「なんだ、相打ちだったんだ」
 はは、と笑い、凛は天井を見上げる。
 確実に見切ったはずだった。全く、らしくない。
 リズムが崩れだしたのは、あの植物を寄生させた死徒が消滅してからだ。なんだか身体が急に重くなって、頭が回らなくなって――そして、この様。
「なんだかなぁ、どうして、こうなるかな」
 明滅する洞穴の赤い光を見つめながら、思わず一人呟く。なんだか、もう立てる気がしなかった。
 色濃い疲労の色。凛は喘ぐように天井を見上げる。天蓋に空いた穴からは、夜の空が僅かに見えている。ぱらぱらと落ちてくる砂埃に思わず目を細めた。
「……?」
 不意に、ぽっかりと空いた天蓋の穴に、一点の黒い異物が混ざった。そしてそれは次々と数を増しながら、天蓋から流れ込んでくる。
「何、アレ?」
 地上に向かって降下を始めたそれらを見上げ、凛はゆっくりと立ち上がる。間もなく明らかになった異物の姿に、思わず目を見開いた。
 カラスだ。
 無数のカラスが、天蓋の穴から雪崩れ込んでくる――。
 群れをなす闇夜のカラス。
 それらは瞬く間に地上に降り立つと、その漆黒の両翼で、未だ地面に倒れ伏す弓兵の身体を覆い隠した。
 そうして――。カラスたちは、羽音を響かせながらその腐肉を貪り喰い始める。
 オォ、オォォ、
 倒れ伏した弓兵の、苦悶の声が聞こえてくる。
 凛は言葉も無く、ただその光景を見つめる。気づけば、カラスの群れは凛のすぐ傍にも群がり始めていた。
 思わず身構えた凛の眼前で、カラスたちは漆黒の小山を作り上げていく。やがてそれらは、波が引くように、一斉に空へと飛び立ち――。
 後には、一人の女が残されていた。背中に施された翼のペイントが、蒼い光を放っている。
「凛さん。無事ですか?」
 振り返り、代行者、シエルは涼しい顔でそう語りかけた。
「え、ええ」
 戸惑いながらも凛は小さく頷く。
「それよりも貴方、今のは魔術じゃ……」
「説明は後です。今は時間がない。ここは私が食い止めます。貴方は、エミヤシロウと共に白騎士を討ってください」
 短い言葉で、シエルが言った。カラスに集られ転げまわる弓兵を見つめ、目を細める。
「けれど……。私なんかが行くより、貴方が行った方がいいんじゃ……」
 口ごもりながら凛が言った。
 凛と士郎が束になっても敵わなかった死徒を、シエルは単身で片付けた。それならば、白騎士の相手だって自分よりもずっと――。
「私の姿を見ても、そう言えますか?」
 言われて、改めて凛はシエルの身体を見つめ直した。
「酷い傷じゃない……!」
 羽織っていたカソックは無くなり、その身体は一目見ただけで重傷とわかるほどにボロボロだ。傷からは未だ鮮血が溢れている。

 少しでも手当を、と凛は一歩を踏み出す。しかし、シエルは片手を挙げてそれを制した。
「貴女は、石柱の破壊を」
「でも、」
「自信がありませんか?」
 真っ直ぐなシエルの瞳を前に、視線を落とす。
 常の凛ならば、ここで躊躇うことなど無かっただろう。しかし、身を焦がす程に心に灯していた復讐の炎の消失と、その虚しさを知った後では、思うように力が湧いてこなかった。
 今ここで奮い立たねば、一生後悔する。
 そう解っていても、元の気丈さを保つことが出来ない。
 凛は痛感していた。自身の力不足を。相手にしている化け物の異質さを。
「凛さん。貴女には、これを」
 俯く凛の前へと歩み寄り、シエルは手に持っていたジェラルミンのケースを差し出した。
 これは? と目で尋ねる凛を制し、シエルは鮮血に染まった右手をケースの蓋の上へとかざす。
 刹那、中空に燐光を放つ魔術式が出現した。
 眼前で目まぐるしく展開する魔術式。そこでようやく、凛はケースに厳重な結界が施されていることを知る。空間断絶にも匹敵するほどの厳重な封印。それでいて異質さを感じさせない緻密な結界は、恐らく現代魔術の粋を集めて編まれたものだろう。
 青白い燐光が消え去る。
 最後に短く洗礼詠唱を行うと、シエルはゆっくりとケースを開けた。
「――これが何だかわかりますか?」
「これは……」
 中には、一丁のリボルバー銃が入っていた。
 深い黒色をした銃だ。磨き上げられたクロームモリブデン鋼が鈍い光沢を放っている。持ち手の部分はウッドグリップになっており、銃身が通常のハンドガンに比べると異常に長い。素材の違いから考えて、元は違う形状だった銃をカスタマイズしたのだろう。
 そう特殊な形状をしているわけではないが、どこか他とは違う趣向で造られたものであることが伺える。
 そして――。
 銃身に刻まれた文字を見た、凛の顔色が変わった。
「もしかして、これ……」
「これは本来、貴方のような人が使うべき武器です。専用弾はそうありませんが、必要と感じた時はどうか躊躇わないで下さい」
 弾丸の入ったケースを取り出し、凛へと手渡す。中には六発の銃弾が入っていた。
 渡されるがままに受け取ると、凛は、ぐっとケースを握り締める。
「受け取る、受け取らないは貴女の自由です」
 感情の籠らないシエルの呟きが、氷水のような冷たさで凛の心に流れ込んだ。
 まるで彫像のように、凛はジェラルミンケース内の銃を見つめた。息をしているのさえ怪しいほどに、思いつめた表情で。
 重たい沈黙が流れる。
「……ねぇ。貴女が持っているってことは、これはオリジナルよね?」
「ええ」
 静かな凛の問いに、シエルは頷く。
 凛はその何気ない頷きが、とてもつもなく酷薄なものに思えて、思わず強く唇を噛んだ。
 ――簡単に頷いてくれる。これがどれほど貴重なものかなんて、この女が解らないはずないのに……。
 凛はしばらく黙って銃を見つめていたが――。やがて、おずおずと手を伸ばし、銃を手に取った。
「一つだけ、注意しておくことがあります。その銃を撃つときは、決して魔術回路を励起したまま撃たないでください。可能な限り、魔術の影響を受けないようにして撃つように」
「それが条件ってわけ?」
「そうです。あくまで人の身で、この銃は扱ってください」
「……」
 まだ、自分にも出来ることがある。その思いが、凛の心に再び火種を落とした。
「わかった。少しの間、借りるわね」
「お願いします」
 再び戻った凛の瞳の輝きに、シエルは背中を押すように大きく頷いた。



 石柱に向かって走り出した遠坂凛の背中を見つめ、一息つく。恐らく、彼女なら応えてくれるだろう。
「二人にはああ言いましたが……」
 仕切りなおすように呟き、シエルはにじり寄る二体の甲冑の騎士を見渡した。
「さて――。どうしましょうか」
 それぞれに施した魔術が破られてしまっている。先ほど相手をした死徒とは違い、この吸血騎士たちは魔力に耐性があるようだ。
 ゆっくりと腰を落とす槍兵と、番えた矢を引き絞る弓兵。
 死徒たちの構えは、熟練の騎士のそれである。手強い敵となりそうではあるが、さっきの吸血植物よりはやりやすいだろう。このタイプの敵とは何度も戦闘経験がある。
 ただ……。
「思った以上に傷が深いようですね……。どうりで死徒達が興奮しているわけです」
 身を貫く激痛に、僅かに背を丸める。貫かれた左腿が焼けるように痛んだ。
 ヤドリギの木の魔力が残っているのだろうか。傷が思うように癒えていかない。魔力の流れも淀んでしまっているようだ。これでは得意の速さを活かした戦闘スタイルを取るのは難しいだろう。
 ――いや。
 そこまで考えて、シエルはゆっくりと首を振った。
 そもそも、そんな闘い方を健闘している時点で間違っている。だってもう、四肢の中でまともに動く箇所なんてないのだから。
「……ッ、」
 クラクラ揺れる頭を抑え、シエルは腕に第七聖典を構える。脳に回す血液が足りないのだろう。巧く頭が回らない。
 気ばかりが焦る。儀式が終わるのと、自分が死ぬの、どちらが早いだろうと計算している自分が滑稽で仕方が無かった。死の足音は冗談みたいに現実感が無い。
 ――これは、死ぬかもしれませんね。
 浮かんだ言葉は、他人事のよう。
「ああ、この匂い。本当に頭にくる」
 辺りに漂う獣染みた臭いが不快で、シエルはその匂いをかき消すように、手のひらにこびりついた自身の血液を上唇に塗りつけた。
 鼻腔を満たす血液の香り。それは生在るものの証。芳しい禁忌の果実。それらを実感しながら、シエルは静かに一歩を踏み出す。
「息が荒いですね。私の血に欲情でもしましたか? 浅ましい。そこまでして縋る現世にどんな価値があると?」
 意識して心から熱を奪っていく。最早、理性など邪魔にしかならない。冷徹な埋葬機関の執行者として、正道邪道あらゆる手立てを講じて、この獣たちを打ち滅ぼさなければならない。さもなくば、倒れるのは自分だ。
 仕方が無い。
 シエルは誰にも聞こえない声で呟く。
 今まで一時も手放さなかった理性。それから手を離すのは悔しいけれど、そうしなければこちらが死んでしまうのだから仕方が無い。
 辛くて辛くて仕方が無い。けれど――。
「本当は魔術なんて使いたくないんですけど……。仕方がありません」
 呟く声は、どこか愉しげで。
 シエルは釣りあがっていく唇の端に、気づかない振りをした。

※   ※   ※


「聖杯には、二種類のものがある」
 そう言って、白騎士は指を二本立てた。
「一つは最後の晩餐でキリストが弟子達に飲ませた杯、『カリス』。もう一つは、ゴルゴダの丘でイエスの血を受けたと言う『グレイル』だ。これらは宗教上同一視されることが多いが、聖杯を論ずるにあたっては明確に分けて考えなければならない」
 次々と繰り出される剣撃を舞う様なステップで受け流しながら、白騎士はよく通る声で言った。
 剣を振りかざした士郎の足が止まる。「何の真似だ?」と問うような視線を向ける。白騎士は小さく肩を揺らして笑った。
「講義だよ。無知で矮小なお前たちへの。これから起きる奇跡の場に立ち会いながら、それが何かもわからずにいるのが哀れに思えてな」
「……そんな戯言に、俺が耳を傾けると?」
「聞く聞かないは貴様の自由だ。だが、その温い剣戟を受け流すのは存外に退屈でな。こうして暇つぶしでもしていなければ耐えられそうに無いのだよ」
「ッ、黙れ!」
 振り下ろした剣が空気を切り裂く。白銀の残光は宙に三日月を描いた。
「まぁ、開幕まで今しばらく時間がある。聞け」
 踊るように士郎の剣から逃れた白騎士は、巧みなステップで士郎の左側面に回り込む。
 速い。
 士郎が身を固くした時には、二メートル近い巨体は死角へと消えていた。
「ッ!」
 振り下ろした剣を返し、士郎は消えた白騎士を追うように横凪の斬撃を見舞う。
 しかし、振りぬいた先に白騎士の姿は既に無かった。
「遅い。欠伸が出そうだ」
「!」
 右耳が、ぼそり、と呟く男の声を捕らえた。士郎の背筋を震えが奔る。
 声のした方へと剣を振り上げる。数多の吸血鬼を両断してきた白銀の煌きはしかし、黒地の外套を掠りもしない。気づけば、先ほどまで間近にあったはずの白騎士の身体は、すでに間合いの外にあった。
「くそっ!」
 ――なんて闘い辛い相手だ。
 苛立ちを隠せず、士郎が毒づく。
 この男、身のこなしや足運びが恐ろしく巧い。これだけ間合いの中に踏み込むことを許しておきながら、剣が掠りもしないというのはどういうことだ。
 二メートル近い大男を相手にしているというのに、まるで一匹の蜂を相手にしているかのようだ。
「どうした? もう根を上げたのか?」
「黙れと言っている……!」
 白騎士が持つ剣はフェンシングで用いられる『フルール』によく似ていた。
 長さは一メートル半ほどで、色はくすんだ白。士郎の剣と打ち合えば、たちまち折れてしまいそうな細さだ。持ち手には半球体のナックルガードがついているが、刃が無いので剣というよりは片手で操る短槍という方が相応しいかもしれない。フルールと違う点は、刀身が細くしなやかでありながら、撓んだり曲がったりしない所くらいのものだろう。
 片手でフルールを構え、半身に大きく身体を開くその姿は、フェンシングのスタイルそのままである。踏み込めば、士郎の剣が届く前に針のような剣先が喉元に届くだろう。
 しかし――。
「ッ!」
 士郎はその細剣の切っ先に臆することなく、素早く一歩を踏み込んだ。切っ先を向けたフルールを剣の腹で押さえ込むと、得意の間合いまで距離を詰める。
 白騎士は剣を突き出す素振りも、身体を引く気配も見せない。ただ、回り込むように右足を踏み出す。
 士郎は小さく舌打ちする。
 剣には、得意の間合いというものがある。それから離れすぎては敵を捉えることは出来ないし、逆に近づきすぎれば剣の重心を崩され、鋭い剣戟を繰り出すことが出来ない。白騎士の刺突の間合いが二メートル。士郎の間合いが一メートル半といったところであるが、あまりに近づきすぎると互いに手が出せなくなる。
(何故、そこで一歩を踏み出す!?)
 熱くなっていく思考を抑えながら、士郎はきつく歯を食いしばった。
 通常、フェンシングはお互いの間合いを計り合うことに重点を置く。相手の間合いに入るのは、自分が剣を突き出す一瞬だけだ。その距離感を見誤れば、伸びきった身体に身を引いた相手のフルールが突き刺さる。
 剣の性質上、力で競り合うことがないのだから、素早い身のこなしで如何に間合いを制するかどうかが勝負の全てと言っても過言ではない。
 だというのに、白騎士はその間合いに全く頓着しない。相手が踏み込めば、自らも踏み込み相手の剣戟を封じ込めてしまう。
 そのスタイルは剣道やボクシングの間合いの取り方に似ている。だがもちろん、そんな芸当が簡単に出来るわけが無い。柄に近い部分ほど十全の一撃からはほど遠いものとなってしまうのは否めないが、士郎の剣には刃が付いている。例え触れそうな距離にあっても、斬り付けることが可能だ。
 可能なはずなのだが――。
「では、話の続きに戻るとしよう。聖杯にはカリスとグレイルがあるのは先ほど言った通りだが、では、我が姫君が求めているのは……、つまり、今この地に召還されようとしているのは、そのどちらだろうな?」
 柄の部分から、引くように斬り付けた一刀。白騎士の首を切り裂くはずのそれは、僅かに触れたフルールのナックルガードに弾かれる。
「……ッ!」
 競り合うのではない。導かれるようにあらぬ方向に繰り出した刀身が逃げていく。
「さぁ、答えてみろ。エミヤ。カリスとグレイル、我が姫君はどちらをご所望だ?」
「戯言を……!」
 囀る余裕さえ見せる白騎士に、士郎は苛立ちの籠った視線を向けた。
 ――カリスとグレイル、どちらを所望しているか、だと?
 そんなもの決まっている。教会の所蔵する聖槍が反応したのだ。聖杯は、同じくイエスの血を受けた聖遺物、つまりグレイルに違いあるまい。
「そう。正解だ、エミヤ。答えは聖杯グレイル。少々ヒントを与えすぎたかな?」
 まるで思考を読み取ったように、白騎士は士郎の考えを言い当てる。
「くそっ!」
 振り向き様に斬りつけるも、剣は虚しく空を斬るのみ。あくまで白騎士は人間が再現できる範疇でしか動いていない。何の能力も、いかな神秘を使っているわけでもないというのに、剣は外套の裾さえも捕らえることが出来ない。
彼の伝説の英雄アーサー王でさえ手に入れられなかった杯を、我が姫君が手に入れるわけだ。はは、姫君の偉大さを示すのに、これほど相応しい小道具は他にないと思わないか? 他の祖たちも、否が応にも姫君を認めざるを得なくなるだろう」
 間合いが開いたところで、突き出される槍のような刺突。士郎は一歩下がることで間合いから逃れる。
 しかし、
「!」
 確かに逃れたはずのフルールの切っ先が、喉元に迫る。士郎の目には、ヴラドの腕が獲物を捕える蛇のように伸び上がったように見えた。
「――どうだ? その場に立ち会えて嬉しいだろう? エミヤ」
「くっ!」
 たかだか十数センチ。しかし、それは士郎の首を突き刺すのに十分な誤差だ。
 士郎は体勢が崩れるのにも構わず、可能な限り首を逸らす。喉に走る痛みと全身を駆ける死の恐怖。フルールの切っ先は、辛うじて士郎の喉を突き破るまでには至らない。
 投げ出すように背後に飛んだ士郎は、背中を石床の上にしたたかに打ちつけた。
「……!」
 喉元に走る激痛。蹲り、思わず傷口に手をあてる。
 出血は思ったより少ない。息を吸い込むと、刺すように喉が痛んだ。
 背筋に冷たいものが落ちる。
 ここに至って、ようやく悟る。

 この男に、間合いの取り合いで勝負をしてはいけない――。

「よく避けたな。串刺しにしてやろうと思ったんだが、なぁ!」
 畳み掛けるように、白騎士は刺突を繰り出した。
 咄嗟に立ちあがるが、一度崩れた体勢からでは裁ききることが出来なかった。
 フルールの切っ先を間一髪、剣の柄で受け止める。鋭い刺突の一撃に、聖異物の埋め込まれた宝玉が音を立てて削れる。擦れた剣から火花が散り、
(……ッ。受けきれない!)
 キィン、
 高い金属音を立てて、輝煌の刀身は空高く舞い上がった。
「……っ!」
「なんだ。剣士が剣から手を放すとは。騎士道に反する振る舞いだな」
 挑発するように笑う白騎士を、士郎は苦しげな表情で見上げた。流れた汗が顎から滴り落ちる。冷や汗が止まらない。
 膝を突いた士郎の喉元には、鋭い切っ先が突きつけられていた。
「さて。講義の再開と行こう。エミヤ。そもそも聖杯とは、どこに存在すると思う?」
 付きつけた切っ先そのままに、白騎士は微かに首をかしげ、愉しそうに目を細めた。
「召喚すると簡単に魔術師共は言うが、我々は一体どこから聖杯を喚びだそうとしているのだろうな?」
「……ッ」
 また下らない謎掛けか。
 怒りに声を荒げようにも、突きつけられたフルールの切っ先がそれを許さない。士郎は怒りに燃える視線そのままに、悔しげに言葉を飲み込んだ。
 ――聖杯をどこから喚びだすか、だと? そんなもの、魔道に通じるものならば誰だって知っている。魔術師達の到達点。全ての始まりの場所といわれる……。
「根源の渦? それはどうだろうな。アーサー王の円卓の騎士は、聖杯を喚び出すのではなく、探索によって手に入れようと試み、一度はそれを掴みかけた」
 またしても、言葉を待たずして白騎士は士郎の心を読み取った。
「至極真っ当な考え方だろう? 聖杯は元来、彼の聖人の血を受けた杯――ただの物質であるはずだ。それを手に入れようと求める行為は、『探索する』という表現こそが相応しい。この世界にある物質を『召還する』などという発想が可笑しいのだよ。だが貴様は、あるいは他の魔術師共は『聖杯を召還する』という発想に何の疑問も抱いていない。それは何故だ?」
 にやにやと厭らしい笑みを浮かべながら、白騎士は士郎を見下ろす。その問いを士郎は、
「戯言は止めろ」
戯言と斬って捨てた。
「そんなもの、数百年前に答えは出ている。聖杯は人々に祀り上げられることにより、物質的にも概念的にも完全無欠の存在となった。どの場所、どの時代であっても輝きが損なわれることは無い完全な物質。それはもう同次元で語れる存在ではなくなっている」
「そう。聖杯とは高次元に祭り上げられた一つの概念だ。アーサー王が生きていた時代ならいざ知らず、少なくとも現代においては、聖杯は私たちの手の届く存在ではなくなっている」
 ゆえに、聖杯は召喚される。
 遥か高次元、神の座から。
「しかしなぁ。考えても見ろ、エミヤ。そこまで万能の力を持った聖杯とは、いったい何なんだ? あらゆる望みを叶えるほどの力を内包し、あらゆる時代において等しく普遍的に存在している。しかし、人には触れることも、その姿を覗き見ることも敵わない。……ん? どこかで聞いたことがあるなぁ?」
 微笑を浮かべた唇の端が、邪悪に吊りあがる。
「そう。聖杯とは、根源の渦と同位の存在であるというわけだ。そして、あらゆる望みを叶え得るという共通の機能を有している」
「……」
 それがどうした、と士郎の喉から低い声が漏れる。驚嘆の声を期待していた白騎士は、怪訝そうに片眉を吊り上げた。
「――そう言えば、お前達もかつて、聖杯召還の真似事をしていたんだったな。聖杯が何たるかについて知っていても可笑しくないか」
 なんだ、つまらん。
 そう零すと白騎士は眉を顰める。
(なんだ、この男は。本当にただ遊んでいるだけなのか?)
 士郎の胸を、激しい怒りの感情が駆け巡る。しかし、剣を突きつけられた状態では動くことも出来ない。煮え湯を呑むような心地で、士郎はただ白騎士が隙を見せる、その機会を待つ。
「七体の英霊の魂が『座』に帰ろうとする時に生じる孔を固定化することで『門』とし、根源の渦に至るという魔術儀式だったか」
 顎鬚をさすり、白騎士は目を細める。
「根源の渦に至る手段足りうるという点で言えば、フユキの魔術儀式もまた聖杯の在り方の一つというわけだ」
「……よく知ってるじゃないか」
 内心の焦りを悟られないよう、士郎は不敵な笑みを浮かべる。
 冬木の聖杯戦争には二つの顔があった。
 六体分の英霊の魂を器に満たし、「おおよそあらゆる願いを叶えられるほどの魔力」を得られると謳った表向きの顔。そしてもう一つが白騎士の語った、抑止力と同等の力、七体の英霊の魂が座に戻る時に出来る孔を利用し、根源の渦に至る『門』を開こうとした真実の顔である。
 どちらも願望機足りうる機能を有した『聖杯』であると称されたが、その目的が根源の渦が持つ力にあったことに変わり無い。
 聖杯と称されるに必要な資格とは、聖人の血を受けたか否かという問題ではない。根源の渦に至る『門』足りえるか、その一点である。
「広義に言えば、聖杯とは根源の渦に至る『門』の機能を有するものに与えられる称号とも言えるだろう。あるいは根源の渦に至るプロセス。あるいはそれと同等の機能を有する魔術礼装。真なる聖杯……つまり、聖杯グレイルと同等の機能を持つものは、等しく聖杯と呼ばれる資格を有する」
 そう。
 かつて器として利用された衛宮士郎の姉が、あるいは妻がそう呼ばれたように。
「フユキの聖杯降霊は失敗に終わったが、『門』は現れたと聞く。これから我々が喚び出す聖杯グレイルが、どんな機能を有するかは、お前にも想像がつくだろう」
「冬木と同じことを、貴様らはやろうとしていると?」
「そうだ。フユキとの違いは貴賤くらいのものだ。唯一無二のオリジナルに拘ったのは、我が姫君に贋作は相応しくないからという理由に過ぎん。聖杯グレイルは、真の王たる姫君にこそ相応しい。そう思うだろう?」
 誇るように白騎士は答える。
「……本気で言っているのか? このような方法で本当に聖杯が手に入ると?」
「勿論。勝ち得る算段が無ければ、ここまで面倒なことに手を回すものか」
 白騎士は挑発するように突きつけたフルールの先端を揺らす。士郎は怒りに顔を歪ませ、唸るように言葉を吐きだした。
「不可能だ……! このような儀式で聖杯が手に入るわけが」
「手に入るわけがない、と? それはどうかなぁ」
 獲物を狙う猛禽類の視線そのままに、白騎士は笑みを深め、フルールの切っ先を士郎の喉元に押し付ける。
「……ッ」
「無力だな。エミヤ。目的の石柱は目の前だというのに」
 石柱は、今や満ち足りた魔力により異界の空気を孕んでいた。際限なく禍々しさを増していく空気は、最早呼吸を妨げるほどに濃密に熟れている。
 この石柱には、この森に棲むモノの魂を繋ぎとめる楔の役割があるという。石柱が禍々しさを増していくということは、この森に召喚された悪霊とやらが、徐々に力を増している証拠だろう。
 石柱を見上げ、白騎士は僅かに目を細める。
「無様なものよ。遥か古には崇め畏れられていた原始の神が、今では姫君の力無くしてはこの世に干渉することも出来ないのだからな。時が過ぎれば、教会の連中が崇める磔のペテン師でさえ、いつかこうして姫君に忠誠を誓う日が来るのかも知れん」
「かつて崇められていた古の神、だと? この森に棲むモノは悪霊と呼ばれていたんじゃないのか?」
 叙事詩カレワラによれば、古代フィン人たちはこの森を悪霊の棲む森ヒートラと呼んでいたという。神として崇められることとそれは、対照的であるとも言えるだろう。
「その通りだ。しかし、それは結果そうなってしまったということに過ぎん」
「……どういうことだ?」
 士郎の問いに、白騎士は肩を揺らして小さく笑った。
「神も縄張りを巡って戦争をするのだよ。そうして負けた方は悪魔と名を変え、歴史の蔭に葬り去られる。基督教は唯一神だ。他に神はいらない。かつて私が信仰した勇猛果敢な神々も、黄昏の中で消えていった」
 遠い目をして、大空洞の天蓋を仰ぎ見る。
「まさか、貴様らが召喚した神とは」
「そう。叙事詩カレワラが信仰されていた時代よりなお昔。原始の時代にこの地を治めていた古い神だ。もっとも、生贄などと言う解り易い対価が受け入れられなかったのか、今では悪霊呼ばわりだがね」
 幾つかの欠片が、音を立てて一つになる。この森の正体が見えてきた。
 あの石柱が繋ぎとめているのは、古代フィン人が悪霊として薄暗い森の奥へと追いやった古い神。原始の頃、生贄を対価に人々の望みを具現化した、最も原始的でシンプルな願望機の在り方だ。
 古代フィン人が、この森の存在を隠したのも道理だ。彼らはこの森に棲むモノが持つ力をよく知っていた。だからこそ、この森に棲む神が他国の者たちに利用されることを恐れたのだ。
 古の神に供物として人間を捧げることによって、純粋なエネルギーを生み出す。つまり、冬木の聖杯戦争で言うならば、英霊の魂が地上の生贄、ユスティーツァの大聖杯がこの悪霊の棲む森ヒートラの役割を担っているということだろう。アルトルージュが労力を割いてこの森を探させたのも納得が行く。魔術儀式の中でもこれほど単純明快なものはあるまい。
「だが――。それでは」
 士郎は呻く。
 それでは、異界の神を召喚する邪法と変わりないではないか。
「どうだ? エミヤ」
「とてもじゃないが正気とは思えないな」
 士郎がきつく歯を食いしばる。
 確かに、この方法ならば魂を運用する第三法など知らずとも、多くの人の魂を引き換えに膨大な魔力を生み出すことができる。だが――。
「その程度の魔力で世界に穴を空けることが出来るわけがない。ましてそこから聖杯を喚び出すなど――」
 冬木の聖杯が『門』足りえたのは、英霊の魂が座に戻る時の『孔』を利用したからである。普通の人間の魂を用いても、『孔』は開かない。ましてや、数千人分とはいえ普通の人間の魂では、英霊七体分の魂の比重になど遠く及ぶまい。
「そう。だから蒸留されたエネルギーを増幅し、『孔』を開く装置が必要だったのだ」
「装置、だと?」

「なぁエミヤ。カレワラの叙事詩に伝わる願望機の名前を、お前は知っているか?」

「――!」

 カレワラに唯一伝わる、願望機。
 光り輝く人工物”サンポ”。
あの紛い物アルトルージュ・ブリュンスタッドの目的はソレだ』
 メレム・ソロモンの言葉が頭を過る。

「生贄を捧げるのは、願望機を動かすエネルギーを得る手段にすぎん。神の座から聖杯グレイルを喚び出すのは“サンポ”の役割だ」
「貴様……! 人の命を炉に願望機を回し、聖杯を召喚するつもりか!」
 噴き出した怒りの炎。それらは士郎の瞳を赤く染め上げる
「そんな下らない儀式の為に……! そんな破綻した儀式など成功するものか! 現れた守護者に滅ぼされるのが落ちだ!」
 噛みつかんばかりに士郎が吠える。白騎士は喉元に付きつけた剣に力を込めた。ほんの僅か、士郎の喉に剣が突き刺さる。
「ッ!」
 士郎は口を噤まざるを得ない。その瞳だけが、爛々と殺意に燃えていた。白騎士は士郎を見下ろし小さく鼻を鳴らし、
「目だけは一丁前の光を宿している。濁りが足りないがな。……今しばらく時間もある。いいだろう」
講義の続きと行こう、謳うように言った。
「お前は数ヶ月前に東欧で聖杯が観測されたことを知っているか?」
「……それが、どうした」
 士郎が呻く。
 ――教会が保有する聖槍が反応したというあの事件を指しているのだろう。確か聖杯は僅か一時のみ存在を確認されただけで、すぐに反応は途絶えたと聞くが……。
「あの時、東欧で今ここで行われようとしている儀式と同じものが行われたのだ」
「同じもの、だと?」
 士郎は目を思わず見開く。
「聖杯は一度、召喚されていたのか!?」
「そうだ。失敗に終わったがな。聖杯召喚の途中で媒体となる器が壊れたのが原因だ。そうして――。貴様の言うとおり、付近の街全てが現れた守護者によって焼き尽くされた」
「当然だ……! 貴様はそれをまた繰り返そうと言うのか!?」
「繰り返しなどせぬ。今度は成功するに決まっているだろう。それに、言っておくが前回儀式を執り行ったのは我々ではない。――協会の魔術師共だ」
「……なに?」
「愚かな奴らだよ。たかだか四人でそこまで辿り着いたのだから、魔術師としては優れていたのかもしれないがな」
「待て。召喚の媒体となる器、と言っていたな。それはつまり、聖遺物を用いたということか?」
 その問いに、白騎士はニヤリと笑みを浮かべた。
 そうか、そういうことか――。
 士郎は凛が先日の昼間、ヘルシンキで言っていたことを思い出していた。
『協会の魔術師が何人か、相次いで失踪しているそうよ。教授クラスでは降霊科、霊媒科、神代言語科、それから魔術工芸科の、聖遺物再現の研究に携わっていた魔術師の四人――』

 そして、用意された聖遺物は叙事詩カレワラに登場する願望機、“サンポ”。

 なるほど、と士郎は得心する。
 失踪者は、どれも古代の願望機を用いた召喚儀式には欠かせぬ分野の者ばかりだ。
 つまりは、こういうことだろう。
 まず、聖遺物の再現に関わっていた魔術師が願望機サンポを復元する。伝承によれば、願望機サンポは最後は砕け海に沈んだという。魔術師は神代言語科の魔術師の力を得て、それの復元に成功した。
 召喚に必要なプロセスは、交霊科と霊媒科の魔術師が行う。願望機サンポを霊媒とし、「聖杯グレイル」を降霊させる――。
「そうか。それで、そいつらは守護者に……」
 そこまで呟いて、士郎は、はっと顔を上げた。
「――待て。同じ儀式が行われたということは、協会の魔術師の手によって前回も同じ規模の生贄が奉げられたということか?」
「いや。前回の召喚時には願望機は完全な状態にまで復元されていたし、必要な炉心も揃っていた。生贄は必要無かったようだな」
 前回の儀式では完璧な状態まで復元されていた願望機。
 そして、儀式によって媒体となる器……。願望機は破壊した。
「そうか、つまり」
 ――その儀式が全ての始まりだったのか。
 そうして今度は、儀式の媒体となる願望機――。サンポの復元を、この森に召喚した神に行わせようとしている。
「全体像が見えてきた。だが、貴様らはどうやって抑止の目を掻い潜る。魔術師共は誤魔化し切れなかったのだろう?」
 聖杯の召喚が根源の渦への到達であるなら、抑止の守護者(カウンター・ガーディアン)がそれを防ぎに現れるはずだ。いかに手を尽くそうとも、奴らを欺くことなど出来はしない。
「貴様は、抑止力の影響から逃れられると本気で思っているのか? 奴らの干渉を掻い潜れなかったからこそ、今日まで聖杯は誰にも手にすることが出来なかったというのに」
 士郎の言葉に、白騎士は突如、声を挙げて笑いだした。何が可笑しい、と鋭い眼光を向ける士郎と目が合うと、肩をすくめて見せる。
「抑止の守護者。そうだな。それは強敵だ。だがな、この儀式の場合、それは問題にならないのだよ」
「何だと?」
 そこまで言って、士郎ははっと口を噤んだ。
「……いや、そうだったな。月蝕姫には、ガイアの怪物がついている」
 アルトルージュ・ブリュンスタッドならば、二つの障害の内、一つは機能しない。
「しかし、アラヤの目はどうやって掻い潜る。魔術師共は、守護者によって滅ぼされたのだろう?」
「だから言っているだろう。この儀式に抑止力は干渉しないと。それはアラヤとて同じだ」
 うんざりとした口調で、白騎士が言った。
「アラヤの干渉が問題となるのは聖杯を模した魔術儀式である場合だ。真実の聖杯……。すなわち、彼の聖人の血を受けた聖杯グレイルを用いる場合、世界に穴を穿とうとも抑止の守護者は現れない。聖杯が神の元へ至るのは人々の願い。ゆえに、アラヤは聖杯を手に入れたものを見逃さざるを得ないのだ」
「……どういうことだ?」
「真なる聖杯には、人々の祈りが込められている。あらゆる願いを叶える万能の釜であれ、と。アラヤの怪物も聖杯グレイルも、どちらも人の造り出した願望の具現だ。人類の集合無意識であるアラヤの怪物は、人々が無意識化で望み、認めている聖杯(グレイル)に干渉することは出来ない」
 言葉を切ると、白騎士は反応を伺うように士郎を見た。
「つまり、聖杯(グレイル)は大手を振って根源の渦へと至れる、いわば正門というわけだ」
 言葉を失った士郎を見て、嗜虐に口元を歪める。
「……ッ。では何故、前回の儀式にアラヤが現れた!? いくら聖杯が人々の理想の具現であろうと、世界を滅ぼすほどの厄災を前にすれば抑止力は黙っていないということだろう?」
「それは順序が違うぞ、エミヤ。アラヤの怪物――すなわち、守護者共は、儀式の最中に現れたのではない。儀式が失敗したから現れたのだ」
 子供に教え諭すように、白騎士は言う。
「聖杯の召喚には、願望機を最大限の出力で運用する必要があった。そこに余裕などありはしない。“聖杯を召喚し、根源に至る”。その願いだけならば、辛うじて手が届くはずだった。しかし、いざ聖杯を目にしたその時、魔術師たちの心に雑念が生じ、願望機はそちらの願いも叶えようと力を裂いた。魔女ロウヒの石臼(願望機・サンポ)は、叶えられるならどんな願いでも叶える。結果、臨界だった願望機は破綻し、儀式は途中で失敗。聖杯グレイルは再び根源の渦に消えた」
 魔術師たちは、根源の渦にその手をかけ、そして、自らが描いた欲望にその身を滅ぼした。――まるで、聖杯探求の伝説をなぞるように。
聖杯グレイルが消えても、世界に穿かれた穴は消えはしない。世界からの修正がかかるまでには僅かに余裕があるからだ。すぐ傍には、根源の渦への到達を願う魔術師たちがいる。――となれば、もう判るだろう?」
聖杯グレイルを用いるなら、守護者たちは手を出さない。しかし、それが消えてしまった後ならば話は別、という訳か」
 ――そうして、開いた穴の周りには次々と守護者が現れ、その場に居合わせた全てを滅ぼした。
「……ガイアの怪物は最後まで動かなかったのか?」
「魔術師たちは儀式場を一時、世界から切り離すことでガイアからの修正を免れていた。……もっとも、危機を察知したガイアの怪物はその場に駆けつけてたんだがね。ただし主が聖杯召喚を見守るため、怪物に干渉を許さなかった」
「なるほど。アルトルージュ・ブリュンスタッドが術者というならともかく、協会の魔術師共が執り行った儀式にガイアの怪物が干渉しないのはどういう訳かと思っていたが……。黒の姫君はハイエナのように横取りを狙っていたという訳か」
 さらに深く、白騎士のフルールが突き刺さる。
「ッ……」
 嘲るようだった白騎士の顔には、明確な殺意が浮かんでいた。
「死にたいか? エミヤ」
「ふん。好きにしろ。しかし――聞けば聞くほど、今までアレが根源に至らなかったのが不思議に思えてくるな」
「残念ながら、我が姫君には神秘に至るまでの手段が無いのでな。また、望むべき願いも無かった。これまでは」
「これまでは?」
「む。お喋りが過ぎ、」
 白騎士の顔に産まれた僅かな動揺の間隙をつき、士郎は投影した干将で白騎士のフルールを打ちおろした。
 喉を庇い、苦痛に顔を歪めながらも立ち上がる。
「……ッ。させない。お前たちの思い通りにはさせない……!」
 叫ぶ声は、掠れて痛々しい。
 殺されないために話し続けていたが、実際は声を出すのにも激痛を伴っていたのだ。
「ふん」
 窮地を脱した士郎を、白騎士は僅かな動揺も無く見下ろす。決定的なチャンスを失ったはずなのに、その顔には『興を削がれた』程度の感慨しか浮かんでいない。それどころか、白騎士は愉しげに、ニヤリと笑ってみせたのだった。
「傷の直りが遅いな。エミヤ。もう成っていてもおかしくないころだと思っていたんだが」
「……黙れ!」
 痛む喉を押さえ、士郎が叫ぶ。
「―――同調、開始トレース・オン
 両手に、陰陽対極の双剣を携える。
 白騎士はその姿を見て、声を出して笑った。
「ははは! 武器を換えたか。なるほどなぁ。聖剣を使っていては、肉体の復元が遅くなるものなぁ。だが、その武装では私に致命傷は与えられないぞ?」
「――わかっている。だがら最優、必殺の構えで貴様を討つ」
 士郎は静かな声でそう言うと、強く双剣、干将莫耶を握り締めた。そうして、使える限りの魔術回路を疾駆させ、魔力を生産する。
「オォッ!」
 鷹の目が大きく見開き、回路を奔る魔力が紫電を産んだ。頭蓋に響く撃鉄を下ろす衝撃音を噛み締めながら、士郎は小さく詠唱を始める。
「いいだろう。……来い。エミヤシロウ」
 白騎士は声を挙げて笑うと半身にフルールを構え、誘うように掌を動かした。








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