24.ワルプルギスの夜 T







 忌まわしき森の最奥、赤黒く鳴動する洞穴の奥にその祭壇はあった。
 巨大な一枚の岩石を縦に打ち抜いた様にして形成された、吹き抜けの大空洞。堅牢な岩石は極地のクレパスのように聳え立ち、細長く刻まれた谷底から見上げた空には、天蓋のような夜闇が薄く広がっていた。
 緩やかに流れる風が頬を撫ぜる。外気が混ざっているというのに、大気は甘く、腐り落ちる果実の匂いがした。
 天蓋の闇に浮かぶ幾つかの星の瞬き――。それらを見上げ、アルクェイド・ブリュンスタッドは涼しげな目元を僅かに細める。
 辺りの地形を考えれば、この場所に巨大な渓谷が存在するのは不自然だ。そもそも、これだけあけっぴろげに外界と繋がっているのなら、執拗にこの祭壇を隠匿した意味がない。
 恐らく、頭上に広がる夜闇は、空間を捻り創出された偽りの天蓋なのだろう。この地に定められた儀式が行われる時、決められた手順を踏んだその一夜に限り、この空間は創出されるのだ。
 鼓動を刻むように定期的に供給されるマナの流れを肌で感じ、アルクェイドはそっと背筋を震わせた。
 やはり、この森は異常だ。魔術が行使された痕跡が無いというのに、空間に大きな歪みが生じている。実態ある蜃気楼とでも呼べばいいだろうか。天蓋の夜闇は、森全体に溢れた濃密なマナが映した幻影だ。濃密なマナに満たされた祭壇は、最早、異界そのものであると言っても良い。
 恐らく遥か古代より、この場所は何らかの特別な意味を持った土地だったのだろう。凛が言っていた。フィンランド神話『カレワラ』の記述によると、この場所は古において“悪霊の棲む森”と呼ばれていたらしい。
 視線を落とす。足元から伸びるように、硬い鉱石で覆われた石床が続いている。半ばには緩やかな階段があり、血文字で描かれた巨大な魔法陣が描かれていた。傍らには五メートルほどの支柱が三本、正三角形を描くように並んでおり、中央には何やら物々しい装置が据えつけられている。
 巨大な砂時計をした装置だ。随分と古いもののようだが、アレが魔術的な意味を持つ装置であることは間違いないだろう。奥を覗き込むと、階段の向こうに円形に縁取られた祭壇が見えた。
 壇上には小さな人影が立っている。
 アルクェイドは遥か壇上を仰ぎ、真紅の瞳を眇めた。
 その瞳に映るのは一輪の花と見まごう程に美しく、儚げな少女の姿。
 憂いを秘めた横顔。唇は血のように鮮やかな紅。王族に相応しい気品を身に纏い、彫象のように少女は立っていた。病的に白い肌とレースの付いた漆黒のドレスが鮮やかなコントラストを描いている。
「アルトルージュ……!」
 低く押し殺した声が空間に木霊する。
 壇上で一人、天上を仰ぎ見ていた少女は、ゆっくりと振り返った。漆黒の黒髪が、墨を流したかのように流れる。少女は訪問者の姿を認めると、今気づいたというように小首を傾げ、
「ようこそ。忌まわしきヒートラ(悪霊の棲む森)へ」
 漆黒のドレスの裾を両手で掴み、片足を斜め後ろの内側に引くと淑女のように膝を曲げた。
「愛しき妹姫、アルクェイド」
 長い睫が揺れ、白い顔が前を向く。その目に浮かぶ怪しげな光を見て取って、アルクェイドは咄嗟に身構える。彼女には、少女が立つ祭壇が死体の溢れた墓地に見えた。
 クスクスと嘲笑めいた少女の声が、三日月のような口元から漏れる。深い渓谷の壁に反響したそれは、どこか無邪気で、人を惑わせる悪魔めいた魅力があった。
「こんな騒ぎを起こしてどういうつもり?」
 アルクェイドが問う。
「どういうつもり?」
 アルトルージュは更に深く首を傾げ、謳うように問い返した。
「惚けたって無駄よ。貴女が聖杯を召還しようとしていることは、もうわかっているのだから」
「別に惚けているわけではないわ。どうしてそんなに怖い顔をしているの? アルクェイド。貴女はこの儀式の何が気に食わないって言うのかしら?」
 微塵も揺らがぬ気配。嘲笑うような口元はそのままに、少女は無邪気に問い返す。アルクェイドはやや殺気を和らげると、静かな足取りで壇上へと歩き出した。
「ここまで騒ぎが大きくなれば、魔術協会や聖堂教会はもちろん、他の祖だって黙っていない。特に、白翼公はここぞとばかりにあなたを滅ぼしにかかるでしょうね」
「そう。……そういえば、八年前、貴女に混沌ネロ・カオスを差し向けたのもアレだったわね」
 真っ赤な唇に指を当て、アルトルージュは明後日の方向に視線を向けた。近づくアルクェイドに注意を払おうともしない。
 アルクェイドの感情を殺した冷たい声に苛立ちの色が混じる。
「いくらあなたでも、世界の全てを敵に回して無事でいられるわけがない。事態はもう取り返しのないところまで来ているのよ。その自覚があるの?」
「取り返しがつかない?」
 不意に、真紅の瞳が正面からアルクェイドを見据えた。
 壇上に向かっていた足が動きを止める。
「取り返しが付かない、ですって?」
 アルクェイドの射る様な視線をものともせず、少女は嗤う。悪戯を思いついた子供のように唇の端を吊り上げると、
「取り返しなんて、そんなもの必要ないわ。事態は未だ私の手の内から出たことなど無いんですもの。貴女は私が世界の全てを敵にしたというけれど、それは間違いよ」
 真紅の目を細め、誇るように両手を広げた。
「だって、“世界”は常に私に寄り添ってくれているもの」

 オオゥ、

 獣の遠吠えが、さざ波のように大気を揺らす。
 祭壇の最奥に蟠る影が揺れ、眠っていた獣が首を擡げる。少女は手を伸ばし、その巨大な喉元、真白く長い体毛の中に腕を差し入れた。愛おしそうに真白い毛並みを撫でながら、
「ほら、この子は私の味方でいてくれるって、そう言ってる」
陶然とした表情で言った。
 低い唸りを上げ、魔犬が顔を上げる。深い真紅の双眸がアルクェイドを捕らえた。
「……ッ」
 全身を叩く視線の圧力に、アルクェイドの口から呻き声が漏れる。震える身体を押さえつけ、正面から魔犬を見据える。
 ――この獣こそ、異端揃いの死徒二十七祖の中にあって第一位の頂きに君臨する怪物、プライミッツ・マーダー。通称、ガイアの怪物。
 地上で最も優れた個体種であるこの獣は、生物カテゴリーの頂点に君臨する怪物であると同時に、地球という惑星が持つ外部端末の一種でもある。地球が持つ意思の具現と言ってもよい。
 真祖の王族の位を冠する彼女の本能が、霊長類を圧倒的に上回る霊的ポテンシャルに裏打ちされた肉体が、この怪物を前にして訴えたのは、どうしようもなく激しい死の恐怖だった。
「愚かにも“世界”を敵に回そうとしているのは、貴女が“世界中の全て”と言った者たち。そうでしょう?」
「……」
 反論など、出来ようはずも無かった。
 彼女の言うとおり、今正に『世界の敵』となっているのはアルクェイド自身である。
「貴女はどうするのかしら? この完成された世界に寄り添うの? それとも、蔓延る有象無象と共に消えていくの?」
「私は、」
 言いかけて、言葉に詰まった。
 そもそも、真祖とは自然と人間の調停者としてあてがわれた存在である。紅い月の思惑がどうあろうとも、その存在理由に揺るぎは無い。
 ならば、この身はどちらに寄り添うべきだろうか? ガイアか、それとも――。
「ただ在るだけで、世界はこんなにも美しい。どんな芸術作品だって敵いはしない」
謳うように毀れる少女の囁き。強靭なアルクェイドの身体が微かに震えた。
「貴女だってそう思うでしょう? 思わないはずがないわ。だって貴女は真祖の姫ですもの。だから――」
 戯れはもう終わりにしなさい、アルトルージュは静かな声で囁く。
「不確かな物、崩壊の定められたものに手を伸ばすのは美しくないわ。儚いものは時として魅力的に映るけど、結局のところ私たちのような強い生き物に寄り添うことはできない。弱いものは、自身を儚く装飾することで強者に媚を売り、恩恵に預かろうとするものよ――」
 一息にそう言うと、少女は魔犬の純白の体毛に顔を埋めた。ふぅ、と小さく息を吐く音が聞こえる。
「それが持って産まれた本能なの。弱い彼らが生き抜くためのね」
 真白い毛並みに埋もれ殆ど見えない少女の顔の中で、真紅の瞳だけが怪しく光っている。それは何だか、アルクェイドが未だ知らぬ深い闇を秘めているようで――。
「――ねぇ。もういいでしょう? アルクェイド」
 アルトルージュの甘い囁きが、確かな粘性を持って耳朶へ入り込んでくる。
「いつまでも夢を見ていたら、目覚められなくなってしまうわよ」
 ざわり、胸の奥で何かが震える。突如、得体の知れない焦燥感がアルクェイドを満たした。
「たくさんの害虫に寄生され、完成された美しい世界は醜く腐り落ちていく。私はそれが許せない。美しいものは、美しいままであるべきよ。私たちの隣りで永遠に」
「……黙りなさい」
「例え赤い月にだって、この世界を汚す権利は無いわ。だから私が」
「五月蝿い……! 黙りなさい、アルトルージュ!」
 激しいアルクェイドの怒鳴り声が、膨大な魔力で満ちた大気をびりびりと揺さぶった。
 胸に蟠る迷いを一瞬で断ち切り、殺気の籠った瞳に赤い光を宿らせる。
「だからといって、人間を滅ぼして良い理由にはならない。貴方は完成された世界と寄り添うのは私たちが相応しいというけれど、欠陥だらけの私たちがそれを言うのは滑稽よ」
 真祖自らの手で造られた真祖の姫と、真祖が戯れに愛した死徒から産まれた月蝕の姫。
 致命的な欠陥(吸血衝動)を抱えた、人間に寄生しなければ生きていけない、不出来な生き物。完璧と呼ぶなどおこがましい。
「世界に寄生しているというなら、私たちだって同じ」
 それこそ、この身とてアルトルージュが言う有象無象と変わりない。そう言い切るアルクェイドに、アルトルージュの細眉がぴくり、と動いた。
「寄生? それは違う。私たちは共生しているもの」
「変わらないわ。同じことよ」
 互いに睨みあう。見つめあうこと数秒、先に目を逸らしたのはアルトルージュだった。
「……そう。以前の貴女なら、そんな当たり前のことに疑念を抱いたりしなかったのに」
 本当に変わってしまったのね、と静かな声で呟く。
「そうね。私が変わったのは確か」
 そう言って、アルクェイドは誇らしげに小さく笑った。その姿を見て、アルトルージュは美しい顔を歪める。
「なんて、愚かな選択」
「何とでも言いなさい。私は迷わない」
「私たちに欠落があるのは認めるわ。私だって今のままで完成しているとは思わない。欠落はいつか私たちを死に至らしめるでしょう。だけど、いえ、だからこそ――」
 口の端を釣り上げるようにして、アルトルージュは絡みつくような声で言う。
「だからこそ、今日は記念日になる」
「させないわ」
 間髪入れずに即答する。アルクェイドの心は決まっていた。今さら、甘言に惑わされたりはしない。
「可哀そうな子。下等な生き物に惑わされ、利用されているのに気づかないなんて。――そうして、美しいモノは腐り落ちていく」
 真白い腕に嵌められたグローブを口元に寄せると、アルトルージュは指を噛むようにしてそれを外した。そして、無造作に腕を振り上げた。アルクェイドの足元に、レースのグローブが落ちる。
「そのブロンドの髪を切り取った時、一度教えてあげたつもりだったのだけれど」
 アルトルージュの顔から、終始纏わり付いていた笑みが消失する。冷たい瞳で階下のアルクェイドを見下ろすと、刃のような爪を尖らせた。星明かりを受けて、それらは白く輝く。
「そう。やろうっていうのね。いいわ」
 応じるように、アルクェイドの瞳が金色に染まる。同じく鋭利な白銀の爪が伸びた。
「アルトルージュ。貴女の願いはここで潰させてもらう」
「――その粗野な言葉遣い、気に入らないわ。貴女のお目付け役に宛がわれたあの魔法使いは、どんな教育をしていたのかしら?」
 二人の姫君の殺気が高まりあう。それに呼応するように森全体が軋み、気流の流れる音が洞穴を細かく震わせた。

※   ※   ※


 祭壇の陰で、ヴァルナはじっと二人の姫君の再会を見つめていた。
 歯の間からギリギリと車輪が軋むような音が漏れる。血走った目には冷たくとも灼熱を孕んだ地獄のような感情が逆巻いていた。
「……ぬぅっ」
 全てを塗りつぶす色濃い感情は、狂気にさえ等しい。ヴァルナは屈辱と侮蔑に気が可笑しくなってしまいそうなほど激しく怒り狂っていた。
(――真祖の姫め、この祭壇に入ってから一度もこの私を見ようとしない。気づいていないはずがない。気づいていないはずが無いというのに……!)
 祭壇に立つアルクェイドは、ただアルトルージュにのみ注意を向けている。
(くそ! この私など、視界に入れる価値も無いというのか!)
 強く噛みしめた口元から、つぅ、と一筋の血が滴り落ちた。
「見ておれ……。見ておれよ……。絶対にこの私が……」
 吐き出される言葉は呪詛に近い。
 この妄執こそが、ヴァルナの最期を、あるいは運命を予期せぬ方向に狂わせる。

※   ※   ※


 斬りかかった士郎は裂帛の気合とともに、細身の剣、“聖剣デュランダル”を槍の穂先に叩き付けた。肩当ての下、右脇の当りを狙って繰り出された刺突は士郎の身体を逸れ、虚空を突く。
 槍兵が僅かに退いたのを見て士郎は更に一歩、深く踏み込んだ。
「オオォ!」
 躊躇い無く繰り出される斬撃は、吸血鬼のそれよりも苛烈だ。槍兵は一歩一歩と後退を強いられる。間合いを詰められるほど、槍の刺突は威力を半減し、槍兵は劣勢から逃れることが出来なくなっていた。
 士郎はここぞとばかりに細剣の手数を増やし、追撃をかける。槍兵はついに刺突の構えを解き、長い柄を使っての防戦に転じた。
 こうなればもう、勝負は決したも同然である。
 槍兵の兜――バシネットのスリットから、低いうめき声が蒸気のような吐息と共に漏れる。
 宙を斬り裂く無数の軌跡は茨の庵。退がることしか出来ない槍兵は、もはや籠の中の鳥である。
「ッ!」
 大きく一歩を踏み込み、士郎は片手で剣を横凪に振り切った。銀の軌跡は半月を描き、槍兵の鎧に触れて真っ赤な火花を散らす。
「どうした吸血鬼! 脇腹ががら空きだぞ!」
「……!」
 士郎の怒声に、槍兵が怯むような気配を見せる。士郎は更に追撃を試む。斬り上げるように振り抜いた剣が、槍の柄を弾き上げる。太い足を捻じ込み、がら空きになった槍兵の胸元に鋭い蹴りを放った。槍兵は派手な音を立て石床の上に倒れる。すかさず、士郎はその首元へと、白銀の剣を振り下ろし――、
「っ、」
 左肩の向こう、死角となった場所から振り下ろされた鋼の気配に、咄嗟に大きく身を捻った。
 風を斬る音が耳朶に流れ込み、風圧が士郎の頬を撫でる。目と鼻の先を長大な剣が通り過ぎた。
 叩きつけられた鋼の衝撃に地面が爆ぜる。
 膝を突きつつも、士郎は奇襲をかけてきた相手から距離を取る。間合いの外まで逃れたことを確認すると、改めて敵を確認した。
 ゆらり、と大剣の騎士が顔を上げる。荒い呼気と共に、生臭い匂いが士郎の鼻を突いた。
 小さく舌打ちする。先ほど、戦闘不能に陥るほどの一撃を頭部に見舞ったはずだが、まだ動けるらしい。デュランダルの斬撃を受けたアーメットヘルムは呼吸用のスリットの辺りで引き裂かれ、聖人の加護を受けた剣は、騎士の鼻梁を削ぎ落とすにまで至っていた。復元呪詛が働かないのだろう。今もなお、切り裂かれた部位からは白煙が上がっている。
 幾ら吸血鬼といえど、致命傷となりうる傷である。
 しかし――。大剣の騎士は、地面へと突き刺さった大剣をゆっくりと引き抜いた。
「――」
 目の前で騎士が見せる決定的な隙を前にしてしかし、士郎は動くことが出来ない。身体の前で細剣を両手で構え、目の前の騎士に注意を傾ける。
「……ようやく本気になったようだな」
 大剣の騎士が放つ気配が一変していていることに、士郎は気づいていた。
 呟く声が理解できたのだろうか。剥き出しになった腐肉が揺れ、騎士は口元に笑みを形作る。異様に白い歯を剥き出しにして死者は嗤った。
 騎士が初めて見せた、人間染みた仕草。
 だが、その不吉で汚らわしく獰猛な気配は、これまで以上に吸血鬼そのもの。先ほどの斬撃を取って見ても、これまでとは違う狂気染みた迫力があった。
 オォ、
 獣のようなうめき声と共に、大剣の騎士が再び剣を振り上げる。その瞬間を狙って、士郎は懐に飛び込んだ。
 大剣が振り下ろされ、剣先に加速がついてしまえば、騎士の剣撃を受け切ることは出来ない。しかし、剣が振り下ろされる前の一瞬ならば士郎の膂力でも受けきれると踏んだのだ。
 デュランダルの剣先を大剣の柄にあてがい、動きを封じる。両手で支えているというのに、ぎしり、と身体が軋んだ。
 双方からかけられる渾身の力に、二本の剣が凌ぎを削る。剣は均衡を保って、二人の間で真っ赤な火花を散らした。鉄の焼けた匂いが鼻腔をつく。
 しかし、先の先を取ったと思われた士郎の戦法は、予期せぬところで思惑を外れる。
「……っ」
 食いしばった口から掠れた声が漏れる。
 ――なんという力だ。この距離で競っても押し負けるなど……!
 当初、楽に捌けると踏んでいた打ち降ろしを、捌き切ることが出来ない。仮にこの一撃をやり過ごせたとしても、返す刃は防げまい。
 計算外の事態に、士郎の顔が苦悩に歪む。
 受けるだけで精一杯で、大剣の下から抜け出すことが出来ない。このままの状態を保つことは可能だが――。
「!」
 士郎の右肩の向こう、辛うじて視界に入る一点で、閃くものがあった。空を切り裂き、光のごとき刺突が伸びる。
 士郎の顔が焦燥に染まる。それが一体何なのかなど、考えを巡らせるまでもなかった。
 相手は二人。騎士が動きを封じたならば、槍兵は必殺の刺突を持って獲物を狩りに来るのが必然である。
 槍の狙いは眉間。
 動けぬ今の状況では、避けようも無い必死の一撃。止む無く叫ぶ。
熾天覆う七つの円環ロー・アイアス!」
士郎の背中を覆うように四枚羽の花びらが出現し、閃いた槍の刺突を阻んだ。
 ――オォ!
 槍兵が獣のような雄たけびを上げ、現れた花弁へと満身の力を篭めていく。士郎は気配でそれを感じ取った。
 槍兵の獣じみた咆哮が響く。しかし、花弁の盾は微塵も揺らがない。
「断言してやる。お前にこの盾を突破することは出来ない」
 目線を向けることもなく、小さく士郎が呟いた。
 事前に投影準備をしていなかった為、多くの魔力を消費してしまった。おまけに構成の組み立てが不十分で、本来なら七枚あるはずの花弁も四枚までしか再現できていない。それでも槍兵の刺突を受け止める程度ならば造作もないが――。
 思わず、舌打ちを一つ。
 この後の展開を考えれば、魔力の消費が激しい剣以外の投影は出来るだけ避けたい所だったが……。しかし、ここは止むを得ない。迂闊に懐に飛び込み、失策を踏んだ自分の失態だ。
「それより、今はこの状況だな……」
 苦々しく呟き、士郎は今なお唾競り合う、大剣の騎士を見上げた。
 黒々とした甲冑の奥で、煌々と光る双眸が、怒りと殺意に燃えていた。
「――化け物め」
 吐き捨てるように呟く。
 よく見れば、壊れた兜の隙間からは、蛆の涌いた赤黒い腐肉が覗いている。蛆に集られるなど、これでは真っ当な吸血鬼などとは言えない。
「何てザマだ」
 恐らく、存在しているだけで気の狂うような痛みが伴うだろう。
 やはり、この吸血鬼たちはどこか可笑しい。
 士郎の瞳に怒りの炎が宿る。それは憎悪の感情に似ていた。
「くっ」
 大剣にかかる圧力が増し、支える身体が震えた。危うく膝を突いてしまいそうになるのを堪え、砕けんばかりに歯を食いしばる。
 ここで膝を屈するわけには行かない。吸血鬼に身を落とした騎士になど……!
 士郎が燃え上がる炎で自らを鼓舞したその時、
「っ!」
 両手にかかる大剣の圧力が、不意に消失した。
「……!?」
 士郎はこの好機を逃さず大きく飛び退く。予期せぬ事に戸惑いながら、慎重に周囲を見渡した。
 何かが起こった。それだけは間違いがない。
 見れば、大剣の騎士は剣を振り下ろしたままの姿勢で静止し、槍兵は大きく後退している。
 ――何が起こった?
 戦況は明らかに士郎が劣勢だった。ここで騎士たちが退く理由など有る筈もない。しかし、それなら――。
 乱れた呼吸を整えながら注意を巡らす。その時、
「!」
 糸の切れた人形のように、大剣の騎士が石床の上に屑折れた。腐乱した吸血鬼の死体が地面に転がる。巨大な剣が地面に落下し、石床を僅かに抉った。
 士郎は呆然とその光景を見つめていた。
 倒れ伏した吸血鬼の背中には――数十にも及ぶ黒鍵が突き刺さっている。甲冑を突き破って突き刺さったそれらは、死徒の呪われた身体に突き刺さり、ぶすぶすと白煙を上げ続けていた。
 続いて、あらぬ方向から炎が上がる。振り返ると、そこには悶え苦しむ槍兵の姿があり――。
 コツ、
 石床を叩く軍靴の音。それが誰かなど、問うまでもなかった。
 黒の編み上げブーツが石床を叩き、倒れ伏した大剣の騎士を踏みつけた。未だ白煙燻ぶるその背中に、凶悪なフォルムの銃器が押し付けられる。
「かくあれ、かくあれかし」
 鈍い光沢を放つ銀の甲冑に切っ先を当て、女は静かにトリガーを引いた。幾枚もの紙片が空中を舞い、雪のように塵が舞い上がる。
「……流石だ。代行者」
 低い声で士郎が笑う。素っ気ないが、それは彼なりの最大の讃辞だった。
 改めて理解する。
 ――吸血鬼殺しに関しては、どう足掻いてもこの女に勝つことは出来ない。
「怪我はありませんか」
 身体のあちこちに傷を作ったシエルは厳しい顔を士郎へと向けた。
「ああ。また助けられたな、代行者。といっても、いつもこのパターンだが」
 士郎が唇を吊り上げる。しかし、代行者は強張った顔を崩そうとはしなかった。
「……先ほどの吸血鬼に、何を言ったのですか?」
 険しい表情でシエルは訪ねた。
「別に何も言っていないさ。いや、それにしても無様な最期だったな」
「……何ですって?」
「吸血鬼にまで身を堕として力を手に入れた結末があれとは。滑稽すぎて笑い話にも――」
「エミヤ、貴方は……!」
 シエルの手が士郎の胸倉を掴み上げる。滅多に感情を表に出すことのない代行者が発した厳しい声に、士郎は怪訝そうに目を細めた。
「どうした。――何をそんなに憤っている?」
「!」
 言われて初めて、シエルは自分が抱いていた感情が怒りであると気付いた。「――すみません」と小さく呟いて、士郎の胸倉から手を離す。
「……失礼しました。今はそんな時ではありませんね」
 自分に言い聞かせるように呟いた。士郎が憮然とした表情で腕を組む。
「何だ。言いたいことがあるなら言ったらどうだ」
「いいえ、何でも」
「何もないということは無いだろう。それだけ取り乱しておいて――」
「いいんです。ただ――。どうか。どうか、一つだけ覚えておいてください」
 すっと息を吸い込み、シエルはどこか色を欠いた表情で士郎に背を向けた。
「吸血鬼と成り、罪を犯した者は裁かれるべきですが……。そこに至るまでの過程には、同情の余地もあるのだということを。彼らはどうしようもなく加害者であり、同時に被害者だった」
「……何が言いたい?」
「さぁ? 私自身も解りません。だけど、その悲哀は吸血鬼に堕ちた者にしか解らない。それだけは貴方に言っておきたかった」
 自嘲るように、シエルは口の端を歪ませた。それは、どこか寂しい笑みだった。
 士郎は頷きもせず、かといって反論することもせず、僅かに眉をひそめたいつもの難しい顔で、静かにシエルを見つめている。その真意は誰にも知れない。
「とにかく。ここは私が預かります。貴方は、凛さんと一緒に白騎士を」
 シエルは未だ炎の呪縛から抜けきれない槍兵に向きなおると、仕切り直すように言った。
 その言葉に、士郎は難しい顔をより険しく顰め、腕を組んだ。
「遠坂も? 俺は構わないが――」
 その身体で残りの騎士の相手をするのか? とは聞くことが出来なかった。
 シエルの怪我は、明らかに重症の粋を超えていた。士郎の目には立っているのもやっとのように見える。
 炎に包まれているとはいえ、あの槍兵がこれで終わるとも思えぬし、凛が相手をしている弓兵のこともある。今の彼女が、それらを一人で相手をすることは、あまりに無謀と言える。しかし――。
「構いません。早く行きなさい」
 シエルの目には有無を言わさぬ迫力があった。出来る出来ないじゃない、やらなくてはならないのだ。彼女の目はそう言っているように士郎には感じられた。
「時間がありません。早く……!」
 カソックは破れ白い肌が露出し、擦過傷は幾重にも重なり未だに鮮血を滴らせている。
 優れた魔術師であるシエルは、自己の肉体修復が可能である。彼女のタフさは協会の魔術師も舌を巻くほどだという。その彼女が、出血を抑えることも出来ぬほどに疲弊している。
 いくつかの戦場を共にした士郎とて、ここまで疲弊したシエルを見たことは無かった。
 とても大丈夫だとは思えない。しかし――。
「――すまない」
 小さく呟き、士郎は駆け出す。
 もう時間が無い。洞窟内部を満たす紅の明滅は、次第に間隔を早めている。大気中に満ちるマナもまた然り。間もなく儀式が始まるのだろう。
 儀式を止められなければ、敗北となるのはシエルも同じ。代行者シエルが白騎士の相手は士郎と凛が相応しい、と判断したのだ。今は彼女のその判断を信じよう。
 優先すべきは、白騎士が守る“石柱”の破壊。
 魔術式の核となっているそれを破壊すれば、儀式を止められるはずだ。
「……ッ」
 大空洞を奥へと進む。目標はずっと前から見えていた。石柱までは数十メートルと離れていない。僅かそれだけの距離がどれほど長く感じられたことか。
 石柱まで数メートル。己の間合いまで僅かに届かない位置で士郎は静止した。近づかないのではない。近づけない。
 そこには、最後にして最大の障害が待ち受けている。
「ふん」
 尊大に腕を組み、支柱の前に立ちはだかるように立った男は息を吐いた。
 士郎は支柱を仇のように睨みつける。白騎士フィナ=ヴラド・スヴェルテンは不機嫌そうに顔を顰めた。
「ロブが破れたか。所詮は小物と割り切ってはいたが、走狗一匹屠れないとは」
 顎を突き出し、見下すように士郎へと暗い瞳を向ける。
「いくら力を与えても、所詮、屑は屑。戦力に数えること自体が間違っていたようだな」
「……言いたいことはそれだけか」
 恫喝するように言い、士郎は輝煌の剣を下段に構えた。しかし、白騎士は一向に構う仕草を見せない。いや、それどころか士郎を見てさえも居ない。
「貴様――!」
 士郎が両の腕に力を込める。
「いや。流石にアレも相手が悪かったか。吸血鬼としての特性を強め過ぎるのも考え物だな。しかし――」
 白騎士の盲い瞳が動き、憤る士郎を取り越して、背後で戦うシエルを見つめた。
「……忌々しい女だ」
 その瞳の奥には、ぞっとするような暗い炎が燃えている。士郎では灯すことの出来ない、深く陰湿に燃える群青の炎が――。
「ふん、まぁいい。このままでは結果が見えすぎて面白みに欠ける。これくらいは余興の範囲だな。ゴミ屑にしては、よくやったほうだと言えるか」
 ふっ、と口元に笑みを浮かべると、ヴラドはようやく両の瞳で士郎を見下ろした。そこには溢れる余裕は見えても、先ほどの深遠を覗き込むような不吉な色は浮かんでいない。
「貴様もゴミはゴミらしく、塵に帰ったらどうだ?」
 嘲るように士郎が笑う。ヴラドの刺すような視線が士郎を貫いた。
「囀るな。半端者」
「下らない遊戯は終わりだ、白騎士。すぐにあの愚かな男のように葬り去ってやる」
 士郎がゆっくりと構え、僅かに足を開いた。ヴラドは、不適な笑みを一層深める。
「言うじゃないか。では、ここまで辿りついた褒美だ。この私自らお前を縊り殺してやろう」
 しゃらん、と清かな鋼の響きと共に、白騎士は腰元からサーベルを抜き放った。腰を落とし、半身で構えると、サーベルを握った右手を突き出すように構える。
 士郎は下段に構えた両手剣の切っ先をゆっくりと持ち上げた。互いの切っ先が、相手を威圧するように向き合う。
「士郎!」
 横合いから不意に、高い声が響いた。凛の声だ。
 相手をしていた弓兵は代行者が引き受けたのだろう。硬質な靴音を響かせて士郎の元へ駆けてくる。
「――」
 しかし、二人の騎士は凛の方を見向きもしない。張り詰めた糸のような緊迫感。
 凛は躊躇いなく、二人が向き合うその空間に踏み込んだ。
「――Anfang……!」
 掲げた宝石は二つ。それらを宙へと放り投げる。目標は当然、白騎士ではない。その背後に聳える石柱ただ一つである。
 凛の腕に刻まれた魔術刻印が熱を帯び、魔力がガソリンとなり回路を駆け巡る。
「Fixierung,EileSalve―――!」
 高く上がった二つの宝石へと、凛は可能な限りの魔力を込めて呪文を紡いだ。瞬間、無数の境界面でカットされた二つの宝石――。ゆっくりと放物線を描いて落下していたそれらから、溢れんばかりの光が吹き出した。
 乱反射する二色の光線は互いにぶつかり合い、無数の軌跡を描きながら石柱へと迸る。
 白騎士といえど、全ての光線を防ぐことなど出来まい。凛は強く拳を握り締める。千載一遇のこのチャンス。逃すわけにはいかない――!
「お願い……!」
 凛は激しく脈打つ心臓を抑え、光線の行き先を見守る。
 白騎士と向かい合っていた士郎は、凛が使った宝石魔術を横目に捕えながらも、目の前の騎士が隙を見せる一瞬を待っていた。
 凛の宝石魔術は、瞬間契約テンカウントにも匹敵する。僅か一条の光でも、直撃すれば石柱は粉々に吹き飛ぶ。そんな状況下で、白騎士はどんな行動に出るだろうか?
 士郎との決闘を放りだし、石柱を死守しようとするだろうか。
 それとも、それすら間に合わず石柱の破壊を許すだろうか。
 どちらにしても、その瞬間に白騎士が隙を見せるのは間違いない。士郎は、その一瞬を獲物を狙う猛禽類のような鋭さで待つ。
 士郎の目にも、凛の宝石魔術が、無数の光線となって奔るのが見えた。
 その時。
 士郎の鷹の眼は、白騎士の外套が風もないのに僅かに揺れるのを、確かに見た。
「マスケティア、出番だ」
 口髭も疎らな白騎士の口が動き、低く重たい言葉が汚染された大気に流れ出る。
 バサリ、
 闇色の外套が揺れ、真紅の裏地が捲れ上がる。
 コートの裏地から這い出た何かが、跳ねるように飛び上がった。同時に破裂音が三度響く。
 それが銃声だということに気付いたのは、二つの宝石が砕け、地に落ちた後だった。石柱へと迫っていた光線は、目標から僅か数歩手前で消失する。
 士郎は思わず唇を噛んだ。なんという早撃ちだ。
「っ、次から次へと……!」
 呼吸も荒く息を付く凛が、新たに現れた黒衣の男を睨みつける。
 二丁の短銃を握った両手を力無く下げ、その男――銃士は、凛を牽制するように立ちはだかった。
「魔術師。お前には我が騎士団と遊んでいてもらうぞ」
 目線を向けることなく、白騎士が笑う。立ち止まった凛は忌々しげに白騎士の横顔を睨みつけることしか出来ない。
「さて。どうした? エミヤ。仕掛けてこないのか?」
 挑発するように剣先を揺らし、白騎士が更に深く腰を落とす。
 士郎もまた両手で細剣を構え、僅かに腰を落とした。
「……!」
 日に焼けた顎から大粒の汗が滴り落ちる。これまでの敵とは比べ物にならないプレッシャーに、きつく歯を食いしばる。
「――では、始めるとしよう。私たちの、私たちだけの決闘を」
 開戦の声は低く重く。
 赤黒く鼓動を刻む森だけが、ゆっくりとその鼓動を早めている。







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