23.死徒と代行者V







 迫りくる代行者に向かって、ロブは獣のような咆哮を挙げた。
 一本一本の枝木に複雑な軌道を描かせ、四方八方より吸血樹の蔓を差し向ける。蔦は逃げ惑う標的を籠のように取り囲み、鋭い刺突の一撃を持って餌食とする――はずだった。しかし、
「――」
 回避不可能なはずの槍の嵐の間隙を、代行者はすり抜けるようにして駆け抜ける。何の冗談か、ありとあらゆる方向から伸ばした蔦は、代行者の身体に触れることさえ敵わない。それどころか、じりじりと追い詰められているのは何倍も大きな身体を持つロブの方である。
「なんだ、なんだなんだ!! 滅茶苦茶じゃねぇか!」
 頭を抱えて、ロブが吠える。
 身体を這う吸血樹の蔦は、既に首筋の辺りまで延びている。このまま力を使い続ければ、いずれ蔓は脳にまで達するだろう。そうなれば、ロブはただ血液を求めて彷徨う一個の植物となる。
 徐々に自分の身体を乗っ取られていく。それはとても恐ろしい感覚だった。今すぐ戦闘を止めて、逃げてしまいたいという衝動に駆られる。
「……クソ」
 しかし、ロブはここで引く訳には行かない。引き出せるだけの力を使って、全力でこの女と闘わなくてはならない。今ここで迂闊に気を抜けば、あるいは背を向け無様に逃げ出せば、すぐさま節理の鍵がロブの魂を一片の塵さえ残さず燃やしつくすだろう。
 文字通り、命を削る戦い。それは、金やすりで脳髄を削り取られるような熾烈さだった。
「もう諦めたらどうです? これ以上やっても意味がないでしょう」
「うるせぇ! そんなの、やってみなくちゃわかんねぇだろ!」
 壁や床を足場として、縦横無尽に走り回る女へと、こよりのように束ねた蔓を突き出す。
 しかし、女は空中で僅かに姿勢を変える、それだけの動作で蔦の軌道の外へと避けてしまう。背後から迫らせていた別の蔦は、気づけば浄化の炎に包まれていた。
「ぎぃ、ぃぃぃい!」
 ジジ、
 痛みで視界にノイズが走る。歯を食いしばり、見失った女の姿を求めて視線を彷徨わせていると、ふわり、と頭上を何か柔らかいものが通り過ぎるのを感じた。
「命を失うのも厭わぬ覚悟で挑む者は、生き延びることを前提としている者を一時的に上回ることはできるでしょう」
「!?」
 すり抜けざまに、片腕を持っていかれる。腕は蔦が拾い上げる前に、灰になって燃え尽きた。
「しかし、それでは生き残ることは出来ない。最後まで生き残ることが勝利ならば、あなたの選んだカードは随分と分が悪い」
 ロブの目には、刃を構えた女の後ろ姿しか見えなかった。
 反射的に、二の腕からすっぱりと消失した右腕を見つめた。以前、エミヤシロウに斬り落とされたときにはすぐに繋げられたというのに、拾い上げることすら適わない。
 これは――祝福儀礼済み概念武装!
「クソォ!」
 本体を斬られたというのに、痛みは感じなかった。自分は既に人間ではなく、植物に近い存在に変貌しつつあるらしい。
「難しいこと言ってるんじゃねぇよ! 分が悪い? 生き抜く? そんな利口な戦い方ができるほど、俺は強くねぇ。俺にできるのは、ぶん殴りたい野郎を、わき目も振らずにぶん殴ることだけだ!」
「――愚かな選択ですね」
 静かな言葉と共に、代行者は両手に三本ずつ黒鍵を構えた。あれに貫かれれば、不死身の力を持つはずの触手は、鮮やかな炎を上げて燃え落ちる。
 ――どうする?
 そう考えたときには、無数の腕が動いていた。
「……!」
 地面深くに突き立てた蔦を、奥へ奥へと進ませる。割れた石畳の間を縫うように、地面に根を張る植物のように。
「無駄な足掻きを」
 その姿を見て、代行者は呆れたように目を細めた。ロブの企みなど看過している、そう言うかのように。
 女の身体が沈む。カソックが舞い、白い足が露になると、撃ち出すようにして六本の黒鍵が射出された。それとほぼ同時に、
「これで、どうだァ!」
 ロブが叫んだ。
 瞬間、地鳴りが響き、地面が揺れた。音をたてて地盤が陥没し、ロブの身体が地中深くに沈み込んでいく。迫る黒鍵は寸分の狂いもなく蠢く触手に突き刺さった。
 ロブはすぐに迫りくるであろう身を焼く痛みに歯を食いしばるが――。それでもなお、地面を掘り進む手を緩めない。
 地中に潜ってさえしまえば、自身の身体を安全な場所へと隠すことが出来る。
 それが、今まさに閃いた女への対抗策だった。今のロブには、それが果たして自分が考え出した策なのか、それとも自分に寄生しているヤドリギの木が本能のままに動いた結果なのかは解らない。
 しかし、この痛みにさえ耐えきれば、ロブは地中へと逃げる幾らかの時間を得ることができる。それを思えば、六本の触手を焼き尽くされる程度の犠牲、大したものではない。
 覚悟をきめ、目をつむり、歯を固く食いしばる。
 しかし――。
 身を焼く痛みは、いつまで経ってもやってこなった。
「……?」
 不審に思ったロブは目を開き、
「な、なんだ、こりゃぁ……!」
 思わず小さな悲鳴を漏らした。
「貴方の考えなどお見通しです」
 刃の突き刺さった触手が、その場所を基点として別の物質へと変わっていく。
「石化、していく」
 呆然と、呟いた。
 徐々に先端の感覚が無くなっていく。
「“土葬式典”。これ以上、貴方に時間は掛けられません」
 無数の蔦は瞬く間に冷たく重たい石塊と化して行く。地中を削り取る触手は徐々に動きを鈍くした。しかし――。
「くそ、くそ、くそ!!」
 土中に潜るという策は破られた。
 破られたというのに、ロブは地面を掘り進む行為を止めようとはしなかった。
 頭ではなく、感覚的に理解する。
 代行者は、地面に潜ろうとするロブを止めようと、この術を使った。つまりそれは、土中に潜られると厄介だと判断したということだ。
 ならば、ロブにはそれをやり通すしか方法は無い。他に策などありはしないのだから。
「無駄な足掻きを。流石に本体まで石化させることは出来ないでしょうが、それを待つまでもない」
 代行者――シエルの動きに淀みは無い。地中へ潜る速度が僅かに速まるのを見て取り、すかさず黒鍵を打ち出そうと身体を捻り、
「――!?」
 僅かに目を眇めた。
 ロブの身体が、猛烈な速さで地面へと沈んでいく。
 シエルの顔に戸惑いの色が差す。
 ――どうして? 石化の魔術は今もなお働いているというのに。
 通常、人体にかける魔術は、魔力の流れている部位には利き難く、そうでないところは利き易い。
 その理で行けば、元々魔道に精通していないロブのことだ。末端の触手には魔力抵抗など無いに等しいのだから、石化は易々と進んでいくはずだった。
「なのに、どうして」
 ……いや、石化は進んでいる。使える触手は着実に封じられている。だというのに何故、地面を掘り進む仕事量が増えている? もしや、これは――。
「そうか! なんて愚かなことを――!」
 シエルはきつく唇をかみ締める。地中へと沈み行くロブへと全力で駆け出す。
 しかし、間に合わない。ロブの身体は、猛烈な速さで地中深くへと消えてしまった。
 ロブの居た場所には、ぽっかりと穴が口を開けるのみ。底には土が堆積するばかりで、ロブの姿は既に見えない。
 深い闇が蟠る地の底へと向けて、黒鍵を撃ち出す。しかし――。
「チッ」
 地の底からは、黒鍵が柔らかな地面に突き刺さる感触だけが返ってくるだけだった。
「……こんなことをしている時間は無いって言うのに」
 苛立ちと共に呟く。広場の奥では、士郎と凛があの白騎士を相手に熱戦を繰り広げている。二人とも、良い連携だ。白騎士に反撃の暇を与えさせていない。しかし――。
「これではいつまでもつか」
 思わず呟いた。才能と力に溢れる彼らだが、彼らは二十七祖という化け物を未だ理解していない。
 これらの化け物を屠るには、単純な力や普遍的な強さでは駄目なのだ。彼らを打ち破る方法には、大きく分けて二つの方法しか存在しない。
 一つは、純粋な力。
 世界を破壊するほどの圧倒的な質量で、二十七祖という一つの“法則”を打消すという方法。
 一つは、飛び切りの異能。
 秩序を崩壊させるほどの、闇を生きる彼らを嘲笑うほどの邪道をもって、二十七祖という“法則”を欺く方法だ。
 彼らには、その決定打が圧倒的に不足している。これでは巧く立ち回ろうとも、白騎士を退けることは不可能だ。
 ――だからこそ、これが必要なのだ。

 直死の魔眼トオノシキに匹敵する、最後の切り札ジョーカーが。

「早く行かないと。全てが手遅れになる前に」
 くっと歯を食いしばり、辺りの気配を探る。
 赤い光に包まれた空間は、ところどころ地盤が崩れ、石床の下からは赤黒い土が見えている。辺りに動くものは存在しない。
 あの死徒は今頃、地中に蔦を張り巡らせているのだろう。地中からの振動に目立った動きが無いのがその証拠だ。あれだけの巨体、動いていれば振動で居場所が判ってしまう。
 だから、あの吸血鬼は蔦による奇襲で決着をつけにくるはずだ。幾重にも張り巡らせた蔓の籠で、飛ぶ鳥を捕えるように――。
 シエルは飛び回るのを止め、周囲の気配に気を配る。一撃目が防げれば、ロブの位置は掴める。後は蔦が通ってきた所を使って必殺の一撃を打ち込めば良い。
 ――どこだ。どこにいる。
 トクン、
 懐から、剣の柄ほどの太さを持つ一本の白杭を取り出した。
 トクン、
 自身の心臓の鼓動が聞こえる――。
 呼吸を制御し、聴覚と触覚を鋭敏にする。視覚には頼らない。最も欺くのが容易いのが視覚であるし、狙われる可能性の高い背後に視覚は通じない。あえて目を瞑る必要こそ無いが、視覚野の情報は意識の外に置いておく。
 ――微かにだが、地面が震えている。蔦が地上を駆け回っているためだろう。凄い数だ。十や二十では利かない。
 やはり、とシエルは自身の推論を確信する。どうしてあの時、ロブは身体が石化していっているのにも関わらず、地中へと潜ることが出来たのか。
 答えは至ってシンプル。
 ロブは土を掘削する蔦の量を増やしたのだ。それも、瞬時に倍近い蔓を生み出し、動力とした。
 ――もう、いくらももたないでしょうね。アレでは。
 冷めた心で思う。あれだけの力を引き出したのだ。もう彼には真っ当な思考さえ残ってはいまい。この戦法が何よりの証拠だ。この戦い方は、実にあの死徒らしくないように思える。
「そう。だからこそ、見破るのは容易い」
 相手は魔性とはいえ植物。それほどの知性は無い。
 ならば、次にどこから狙うのか、想像するのは人の動きを読むよりも容易いはずだ。
「……っ!」
 背後より蠢く気配を感じ取って、シエルは最小のモーションで鋭く杭を打ち出した。黒鍵と同じ、鉄甲作用という特殊な体術で投げ出されたそれは、スピンしながら、凄まじい速度で標的に迫る。
「biblos genesews ihsou cristou――……」
 低く、口の中で聖言を紡ぐ。すると、白い杭は瞬時に長大な銀の槍へと姿を変え、一条の光と化して奔り――。
 地中から現れたロブの肉体を、一撃のもとに貫いた。しかし――。
「!!」
 シエルは思わず目を見開く。銀の槍が突き刺さった標的を見て僅かに一瞬、身体を硬直させる。
 銀の槍が突き刺さった、ロブの身体――蔓の先にぶら下がった、引きちぎられた両足を見て。
 ――まさか、自分で引きちぎったのか!?
 シエルの背中を冷たいものが伝う。とても正気とは思えない。いくら復元呪詛があるからといって、自分の体の一部を何のためらいもなく引き千切り、囮にするなんて。
 しかし、これで解ったことがある。

 あの死徒は、まだ人としての意思を亡くしてはいない。

 地面から伸びた蔦が、体勢の崩れたシエルの足を掴む。
「しまっ――」
 続いて、背後から身を貫く鋭い痛み。振り向くと、カソックを突き破って細いヤドリギの枝が白い肌に食い込んでいた。僅かに蠢動を繰り返している。
「なんて、」
 おぞましい。シエルは呟く。ついに、蔦が寄生主以外の血液を吸いだした。
「!」
 蔓は凄まじい速さでカソックの下を奔り、シエルの身体を瞬時に縛りあげた。そして、その上へ上へと新たな蔦が絡まっていき、どこまでも際限なく巻き付いて行く。
 瞬く間に、シエルの体は無数の蔦より成る巨大な球体の中へと消え去った。
「へ、へへへ」
 奥の地面からロブがゆっくりと現れる。蔓は既に彼の顔面を犯し、目元の辺りにまで及んでいた。血走った眼で、無数の触手で球体状に覆われた代行者の姿を見つめている。
 ひび割れた声が、口の端から漏れた。
「おまえはもうお仕舞いだ。このまま力を強めれば、お前の身体はひしゃげるだろう。そうじゃなくても、ヤドリギに血を吸われてミイラになるだろうな。だがな」
 ひひ、とロブはひき付けを起こすように愉しげな声を挙げる。
「俺はお前とはこれ以上戦わない。お前なんかに構ってられるかよ」
 ロブにはもう、時間がなかった。ほんの僅か、女の死を見届ける時間さえ、彼には残されていなかった。
 だがしかし、ロブの顔に浮かぶのは紛れもない歓喜。
 ――ああ、これで道を阻むものはなくなった。ようやく戦える! 兄貴の仇、あのエミヤシロウと!
 ロブは蔦を動かし、滑るように白騎士と対峙する仇敵の元へと奔り――。

 突然、壁に阻まれるように、それ以上前へと進めなくなった。
 
 何も触れていない。だというのに、これ以上前へと進むことはおろか、蔦を伸ばすことも敵わない。
「これは……!」
「結界ですよ」
 くぐもった声が、どこか遠くで響いた。
 ガシャン、
 轟く金属音。続いて、ロブの身体を衝撃が走る。
 シエルを取り巻いていた蔓が一瞬で吹き飛ぶ。それは、まるで爆発が起こったかのような激しさだった。蔓を伝って、衝撃がロブの身体をびりびりと震わせた。
「テメェ……」
 低い声で呟き、振り返る。
 そこには、巨大な重機を構えた代行者が立っていた。
 引き裂かれたカソックの欠片がひらひらと舞い落ちる。黒と白のそれは、まるで雪のように女の身体へと降り注ぐ。
「この私に主装を出させるとは。誇りに思いなさい。死徒」
 女の呟きに答えるように、粉々に吹き飛ばされ、飛び散っていた蔦の欠片が炎に包まれた。雨のように降り注ぐ火の粉が、彼女の身体を明るく照らし出す。鈍く光る銃器の表面に、無数の火の粉が映り込んだ。
「予め、吸血鬼では越えられない境界線を作っておきました。それも、飛び切り堅牢なものを」
「なんだとぉ――?」
 ロブは見えない壁へと蔦を這わす。突こうが縛りあげようが、壁は僅かな変化も見せない。表面を這いまわる蔓は、結界を覆い隠すほどに広がった。
「クソ、クソ、クソッタレ!」
「無駄です」
 あがくロブへと、シエルは冷たい声で告げる。
「あなた如きでは、そこには針の穴一つ空けることは適わない」
 ジャキ、
 構え直した手元の重機から金属音が響く。第七聖典を両手に携えると、シエルはじりじりとロブへと詰め寄った。
「今度こそ終わりです。貴方は惨めに磔にされて死ぬのがお似合いだ」
「女ぁ! てめぇ!!」
 追い詰められた吸血鬼は、憎悪の炎だけを活力としたその死徒は、迫る代行者の青い瞳を睨み返し――。

※   ※   ※


「―――Der Sturmzorn!」
 右手に隠していた宝石を高々と掲げ、魔力を開放する。緩やかに流れていた魔力が体中を駆け巡り、血液が沸騰するように熱を帯びた。
 空気の流れが変わり、足元の砂礫が流れるように舞い上がる。一瞬のうちに、凛の身体を中心として突風が噴出し、赤い光で溢れかえった祭壇が風の嘶きにびりびりと細かく震えた。細い幾条もの風の奔流が、石柱を守るようにして立つ白騎士を飲み込む。
「……ふん」
 しかし、白騎士が浮かべる不適な笑みは揺るがない。
 風の奔流は強大な竜巻となって分厚い石板を捲り挙げながら、白騎士の身体を細切れの肉片にせんと暴れまわる。
「他愛もない」
 呟きとともに白騎士の右腕がゆっくりと動いた。
 右手で分厚い外套の裾を掴みあげ――勢い良く振り下ろす。
 瞬間、渦巻く風の向こう側――白騎士の立つ地点から一陣の突風が巻き起こった。
「――っ!」
 突風は膨大な風の奔流にぶつかり、そこに空気の壁が出来上がった。凛は口元を押さえ、呼吸を止める。
 そうして、凛が放った風の奔流は白騎士を、そして魔術の基点となってい背後の石柱を粉砕せんと唸りを上げて迫り――白騎士と石柱を避けるようにして真っ二つに引き裂かれた。周辺の石床が捲れ上がり、粉々に砕ける。
「!?」
 ――嘘でしょ!?
「温いな。魔術師。欠伸が出そうだ」
 凛の背中を冷たいものが滴り落ちる。質の悪い夢を見ているようだった。大魔術に匹敵するといわれる凛の宝石魔術を、外套の一振りで無効化するなんて、なんという出鱈目……!
「騙されるな、遠坂!」
 白騎士の背後から、甲高い金属音が上がる。背後から回り込んでいた士郎が、袈裟懸けに白騎士の背中を狙ったのだ。
「難除けのルーンだ! よく見ろ!」
 振り下ろした剣に力を篭めたまま、士郎が叫ぶ。その顔に走っているのは動揺だ。
 輝煌の剣は、無防備な白騎士の背中へと大振りに振り下ろされたにも関わらず、その刃は白騎士の身体には届いていなかった。外套を通り抜けたところで何かがそれ以上進むことを邪魔する。硬い、金属製の武具のような手応えが剣を握る右腕に伝わってくる。
「チッ!」
 士郎が舌打ちする。はためく外套の向こうには、堅牢な甲冑に守れらた白騎士の両腕が見えている。もちろん、その手には何の武具も握られていない。腰元のサーベルは、未だ抜かれてもいない。
 では、この剣閃を受けたのは、一体なんだというのか。間合いと感触からいって、防具ではありえない。剣は確かに、剣士同士が切り結んだときのあの手応えを手元に伝えている。
 両手を使わないで振るう剣?
 そんなものが、この世にあるというのか?
 士郎の眉根が怪訝そうに顰められる。目的の石柱を前にしてしかし、士郎は白騎士と打ち合うこともままならずに居た。
 そして、戸惑いの中にいるのは、新たな宝石を掲げる凛もまた同じだった。
「――Der ghoul kommt zu Asche zuruck……」
 士郎の方へ体の向きを変えた白騎士の背後に回り込むように駆けながら、凛は複雑な魔術式を緻密に組み上げ、また頭の隅で複雑な思考を展開していく。
(難除けのルーン、ですって?)
 白騎士の甲冑に刻まれたルーン。それは確かに、強力に定着したエイワズのルーン文字だった。
(どうして、白騎士がルーン魔術を?)
 この広場に描かれた魔法陣を見た時、白騎士は自分には魔術の知識が無い、と公言していたはずだ。本当に白騎士に魔術の知識が無いというのなら、どうして凛の宝石魔術を退けるほどの強力なルーンを刻めるというのか。
 もちろん、白騎士の言葉がブラフであるという可能性もあるだろう。もしかしたら、白騎士は魔術の心得があるのかもしれない。あるのかもしれないが――。しかし、白騎士がそんな嘘を付かなければならなかった理由があるだろうか?
(それとも、この男は言葉が力を持ち、ルーンが本来の強大な意味を持っていた、遥か神話の時代より生き続けているとでも言うのかしら?)
 その可能性もあるのだろう。そっと凛は冷笑を浮かべる。
 相手は不老不死を誇る吸血鬼を束ねる領主、二十七祖だ。それも上位に名を連ねる者とくれば、神話の時代から生きていたとして、何の不思議もない。
「……ッ! 正真正銘の化け物、か」
 きつく唇を噛み締める。
 凛は、この男が心から恐ろしい。
「Das Schwert der Flamme geht durch einen Narren!」
 宝石を掲げた凛の言葉に呼応するように、周囲に鮮緑に発行する魔法陣が現れる。
「Eine! Eintracht! beeinflust es――!」
 凛が紡ぐ言葉に応じて、白騎士の足元に転がっていた小さな紅色の石が細かく震えた。瞬く間に現れた巨大な炎の剣が白騎士の身体を串刺しにする。士郎は大きく後ろに下がり、その渦巻く熱風から身を隠した。
「よし……!」
 轟々と燃え盛る炎と、その中に飲み込まれた白騎士の姿を確認し、凛は拳を握り締める。
 ――二つに割れた宝石を利用した応用魔術。
 先ほどの突風に割れた宝石の欠片をいくつか混ぜておき、手元にある片割れの宝石の魔術起動に合わせて、予め表面に刻んでおいた魔術式を起動させた。炎の勢いは魔術の中でも最高レベルを誇る。
 炎に包まれた白騎士の身体が揺れる。燃え盛る炎は渦を巻きながら火柱を上げて燃え上がる。一度目の宝石魔術が起こした風の余韻も相まって、炎はどんどん勢いを増していく。
 凛と士郎は固唾を飲んで炎に包まれる白騎士を見守る。しかし――。
 炎の下の、粗野な口元が僅かに震える。渦を巻いて燃え盛る輝きの中に微かに見える白騎士のシルエットが、大きく口腔を開けた。
「無駄だといっている。魔術師メイガス!」
 微塵も揺らがぬ、傲岸な声。びくり、と凛の心臓が大きく跳ね上がった。
 炎の中の白騎士が再び外套をはためかせる。すると、魔術の炎はゆるゆると消失を始めた。一体、どのような業によるものか。確かにヴラドを貫いたはずの魔術の剣は、根元からその炎の刃先を喪失していく。
「ククク、ハハハハハ!」
 炎の中から現れた白騎士の体には、何の変化も見られない。その分厚い外套にさえ、綻び一つ見出すことさえ適わない。
「どうして……」
 悔しげに噛みしめた凛の口から、細いつぶやきが漏れた。
「なかなかの火力だ。私とて、これほどの炎に包まれたのは長い生の中でいくらかも無いだろう。だが……。それだけだな」
 がしゃり、と重たい甲冑の音を立てて、白騎士は凛の方へと一歩を踏み出した。
「!」
「その程度で私を突破しようなどとは考えるなよ、魔術師。吸血鬼を相手にするのだ。浄化の炎くらい用意するのが礼儀というものだろう!?」
 外套を蝙蝠のように前で合わせ、ヴラドは哄笑を上げる。その姿はまさしく、伝説に語られる吸血鬼そのものだ。
 シュ、
 刃が風を切り裂く音が響き、それに白騎士が素早く反応した。背後から頭部を狙って投げられた刃を、外套から伸びた右腕で掴み取る。
 なんという反応速度だろう。凛は小さく呻く。
 視線を向けることさえない。まさか、背後から士郎が投擲した剣を素手のまま掴み取るなんて。
「む?」
 つまらなそうな顔で士郎の方へと身体を向けた白騎士は、僅かに顔を曇らせた。
 シュウシュウと白煙を上げる自身の手を、不思議そうに見つめる。
 士郎が投擲した剣は、四人の聖人の加護を受けたとされる聖剣である。輝煌の剣は吸血鬼であるヴラドの手の平を白い手袋ごと焼き爛らせた。
 カラン、
 乾いた音を立てて、輝煌の剣が地に落ちる。
「だから、無駄だといっている」
 じゅうじゅうと爛れる右の手の平を見つめながら、ヴラドが呟く。その顔は、どこか気だるそうにさえ見えた。
「無駄? どうかしらね」
 凛は、自分を鼓舞するように強気な瞳をヴラドに向ける。上がる息を抑えながら、士郎のサポートが出来そうな宝石をいくつか手探りで掴み取った。
「どういう意味だ? 魔術師」
「その手を見てみなさいよ。十分効いてるじゃない。さっき斬りつけられた背中だって痛むでしょう?」
「斬りつけられた? はは、成程」
 さするように爛れた右腕を撫でていた白騎士が、ニヤリと獣のような笑みを浮かべる。
 凛は知らない。ヴラドを背から確かに斬りつけたはずの士郎の剣が、何かに弾かれ、白騎士まで届かなかったことを。
「士郎、行くわよ! あんたの聖剣なら、コイツに傷を……!」
 凛は新たな宝石を取り出すと、魔術回路に魔力を注ぎ込み、
「いや、違う。遠坂」
 士郎の小さな呟きに、鋭く首を巡らせた。
「何が違うって言うのよ!」
「……」
 士郎の鷹の眼が、じっとヴラドを睨みつける。両手に双剣を構えながら、不可解そうに眉根を寄せた。
「どうした? エミヤシロウ」
 愉しそうに口元を緩め、白騎士は士郎に尋ねる。
「白騎士。一つ聞きたい」
「なんだ。言ってみろ」
「――その腕は、誰のものだ?」
 士郎が発したその問いに、凛は思わず外套から見えている白騎士の腕を見つめた。
 そして、僅かに眉を顰める。士郎が発した問いはあまりにも不可解で……、しかしそれでいて、隠された核心に触れたような、そんな感触があったからだ。
 何か――、何かとてもおぞましい気配を感じる。
「誰の? 何を聞くかと思えば。そんなもの、私のに決まっているだろう」
 白騎士が、呆れたように嗤う。両手を外套の中から伸ばし、何度か軽く動かしてみせた。
「……違うな。その右腕は、さっきお前を背後から切りつけたときに、俺の剣を受け止めた腕だ」
「ははは! おかしな奴だ。何故そう思う?」
「俺は、今まで数え切れないほどの剣士と剣を交えてきた。それは、吸血鬼のような化け物たちも例外ではない」
 双剣の片割れ、黒塗りの刃をじっと見つめる。黒曜石のような輝きの刀身に、士郎の浅黒い顔が映り込む。
「剣を交えただけで、判ることがある。そいつの筋力、剣の腕。今までどんな戦法で、どんな奴と戦ってきたか。そういうことは、理屈じゃなく剣を通して自然と伝わってくるものだ」
 腕を伸ばし、剣の先端をヴラドへと突き出す。
「だから、わかる。今見えているその右腕は、お前のものじゃない」
 凛はそこで初めて、じっとブラドの焼け爛れた右手をじっくりと観察した。その腕の根元は、分厚い外套に隠れてよく見えない。しかし――。
「……! 太さが、違う」
 悲鳴のような声で呟く。それは何とも奇怪で、どこか猟奇的な光景だった。
「思ったよりも気づくのが早かったな」
 微笑もそのままに、白騎士は外套の中から更にもう一本の腕を出現させる。士郎の大きく見開いた目が白騎士を睨みつけた。
「遠坂の魔術を防いだルーンも、お前のものではないな?」
「ご名答。さすが、私たちのことをこそこそ調べ回っていただけのことはあるな。エミヤ。その無駄な努力、心から感服するよ」
 そう言って、白騎士は三本の腕で外套の裾を掴むと、羽ばたく蝙蝠のようにそれを広げた。
「改めて、自己紹介といこう。『私たち』の名は、白騎士フィナ=ヴラド・スヴェルテン。姫君、アルトルージュ・ブリュンスタッドを守護する、統率された一個の群体だ」

 ――焼け爛れた白手袋が微かに揺れ、血のように赤い真紅の裏地から、ぞろり、と何者かの頭部が顔を出す。


※   ※   ※



『代行者には手を出すな。中でも身体に翼の刺青が刻まれている、「七」のナンバーが入った代行者に出くわしたら、逃げることだけを考えろ。お前では、絶対に勝てない。いいか。倒そうなどと考えるな。逃げる算段だけを考えた戦いをするんだ――』

 なぁ、兄貴。
 俺はさ、兄貴の言う事には従うよ。今までだってそうしてきて、間違ったことなんて一つも無かった。俺は兄貴を信じてるし、その言葉には報いたい。けれど――。

 腕を這うように描かれた蒼く輝く天使の羽。胸元には教会において絶対数を意味する『七』の紋様パターン
 冷たい瞳の代行者は、目の前にさながら死神のように立っている。
 頭の中のヴォロゾフが言う。いつも難しいことを考えている、あの渋い顔で言う。
 ロブ、そいつは不味い。逃げろ――。
「はは、」
 引きつった顔から、乾いた笑みがもれた。
「どこに逃げろってんだよ。兄貴。もうどこにも逃げる場所なんてありゃしないぜ」
 ――それに、俺は誰からも逃げたくなんかねぇよ。あのエミヤや魔術師の女はもちろん、白騎士や黒の姫君、そしてこの恐ろしい、異端狩りからも。
 理屈じゃなくてさ、逃げられない時があんだよ。
 譲れねぇもんが、あるんだよ。兄貴。
「女ぁ――!!」
 掠れた雄叫びを上げ、千切れ、数を減らした蔦を代行者へ向けて疾駆させる。
 しかし、通じない。軽々と全ていなされる。予想はしていた。数を減らし、統率さえ失った蔓で、どうしてこの死神を追い払うことができるだろう。
 歯を食いしばり、脳髄に突き刺さる痛みに耐える。蔓はもう脳のすぐそこまで来ている。身を貫く痛みが――そしてどこか甘く茫洋とした感覚が――徐々に思考を削っていく。
 吐き気がする。笑いたくもないのに口元が引きつり、記号のような声が漏れ出た。
「ひ、ひ、は」
 ――エミヤの言うとおり、兄貴にはこの感覚に耐えることは出来なかっただろう。兄貴はこんな頭の悪い戦い方しねぇもんな。割の合わない賭けにはベットしない。眉一つ動かさず、ダウンだ、ってそれだけ言って、すぐに離れちまう。
 けれど、俺は――。
「ひ、ひひ、逃げねぇからこそ、諦めないからこそ、一瞬でも、手に届く瞬間があるはずだ……!」
「ありませんよ。そんなもの」
 代行者の冷たい顔から、刃物のような言葉が漏れた。
「この戦いに、貴方の勝利は有り得ません。例え貴方が衛宮士郎を倒しても、それは決して勝利ではない。自滅が必定ならば、その先にあるのは敗北か、良くて相打ちか。あなたはこの戦いに挑んだときから、既に負けていたんですよ」
「そんなことは無い! ひひ、俺は、エミヤを殺して、は、この戦いに勝つんだよ!」
 地面に残っていた蔦を一気に成長させ、代行者へと伸ばす。女は回避することも出来ず、凄まじい力を持つ蔦に突き飛ばされた。
「……!」
 空中に舞いあげられた身体は、背後に聳えている隆起した石壁にぶつかり、そこで止まった。しかし、ロブの奇襲はそこで終わらなかった。野太い蔦で代行者の身体を石壁に押し付けると、更に力を篭めていく。代行者の身体は壁へ壁へと猛烈な力で押し付けられる。だらり、と重機を掴んでいた手から力が抜け、鋼の先端が地面に触れた。
「くっ」
 女の薄い唇から、一筋の血が流れた。
「ひ、ひ、はは! 捕まえたぜ! ついに捕まえた!」
「……アマチュアの幻想など、戦場では一発の銀弾ほどの価値もありはしない」
 歓喜に顔を歪ませるロブを静かに見据え、顔を蒼白にした女が言葉を漏らす。その声はあまりに小さく、近くまで来たロブでさえ、何を言っているのかいまいち判然としなかった。
「ひひ、なん、だって?」
「結局、生き残った者が勝利者なのですよ。信義も、信念も、正義も、勝利者にだけ語る資格がある」
 代行者はとつとつと、無表情に語る。その様子に、ロブは小さく眉を寄せた。
 何言ってやがる? 気味が悪い。早く、このまま壁に押し付けて、ぐしゃぐしゃに潰して……。
「あ?」
 なんだ? 吸血鬼の枝木が、気の幹ほどもある俺の触手が、少しづつ押し返されている――?
「だから、私に敗北は許されない。負けるわけにはいかない」
 代行者の腕に活力が戻り、右手に掴んでいた巨大な重機の先が枝木の表面へと押し付けられる。
 がしゃん、
「ひひ、お、おい! ひひ、何やってやがる、吸血鬼の木! あの腕を早く――」
「生き残って、無様でも生き残って、全てを見届けるまでは……! それが!」

 ロブは代行者へと駆け寄り、野太い触手に当てられた重機を止めようと腕を伸ばす。それとほぼ時を同じくして、轟音が響き、女を押さえつけていた蔓が吹き飛んだ。
 ――不味い!
 末端を破壊され、痛みで真っ白に霞む意識。手探りで女の身体を探す。こうなったら、首筋に噛みついて直接血を――!
 しかし。
 次に視界が戻った時には、すぐ近くにロブを見上げる女の怜悧な顔があった。白く、美しい、綺麗な顔だった。青い瞳が薄く輝いている。視線を落とすと、腰元には巨大な金属の塊が、
「それが、私の――!」
 そして、再び身を貫く衝撃。
 第七聖典が咆哮を上げる。ロブの身体は腰元から二つに引き裂かれ、蔦の塊である下半身は塵となって霧散し、上半身は高々と宙に舞い上がった。

※   ※   ※


 ぞろり、
 フィナの真紅の外套の中から、鈍い金属の光沢を持つ塊が突き出た。初めは兜、次に篭手。ゆっくりと西洋の甲冑に身を包んだ騎士が姿を現す。
 ガシン、
 重たげな剣を支えとして、鋼の騎士はゆっくりと真紅の外套からまろび出た。続いて今度は別の兜が外套より突き出る。
 ぞろり、ぞろり、
 二度ほど同じ光景が続き、白騎士を、あるいは石柱を守るように剣士、槍兵、弓兵の三人の騎士が戦場へと現れる。
 その光景を、凛と士郎は何もできずただ見守っていた。
 言葉が浮かばなかった。ただ、ややあって、
「三騎士揃い踏みか。あんなものが外套の下に居たとはな。どうりで刃が通らないはずだ」
 凛の元へと戻ってきた士郎は、それぞれの主装を構える三人の騎士を見つめ、皮肉げな笑みを口元に浮かべた。
「いや、気づかずに槍で貫かれなかっただけマシか」
 そんな士郎を横目に凛はぽつりと、驚かないのね、と呟いた。
「二十七祖を相手にしているんだ。これくらいで驚いているようでは身が持たない」
 何てことのないように士郎は答える。その口元が僅かに引き攣っていることに、凛は気付かない。
「ああ、そう。それは悪かったわね。それで? あの手品は何なのよ?」
「……黒騎士や彼の姫君に比べ、白騎士フィナ=ヴラド・スヴェルテンの目撃事例は決して少なくない。中でも、奴が幽霊船団を率いて海上を滑走する姿は教会にも何度か報告されている」
 凛はゆっくりと頷く。その程度の話ならば、こちらに来る前に調べが済んでいた。同じ二十七祖であるヴァン=フェムのゴーレム、第五城マトリを巡る戦争はその筋では有名な話だ。『吸血伯爵』、『ストラトバリスの悪魔』といった二つ名が多いことからも、この男が頻繁に俗世に関わっていたことが伺える。
「白騎士は自分のことを、『群体』だと言ったわ。つまり、兵を率いて戦うのが白騎士のスタイルなのね?」
 そうかもしれないな、と士郎は目を細める。
「しかし、先入観を持つのは……」
「わかってるわよ。どんなトリックで外套の中から人が出てくるのか知らないけど、そこに白騎士の能力の本質がありそうね」
 凛が難しい顔で白騎士と、その前に居並ぶ騎士たちを眺める。
「別に不思議は無いさ。俺だって古今東西の剣を出せる」
 士郎は肩を竦め、冗談めかした様子で言うと、シニカルに笑った。
 凛の口元に笑みは浮かんでいなかったが、なるほど、と小さく頷いた。
「それだけの奇術が使えるなら、一流の魔術師(マジシャン)は難しくとも、一流の手品師(マジシャン)になら成れるかもね。あんたって意外と手先は器用だし」
「ほう。魔術師。面白い戯言だ。我が騎士団を手品と同列に数えるか」
 さも愉しげに白騎士が笑う。
 凛はその言葉に答える代わりに、ゆっくりと魔術詠唱に入った。
「―――Anfang……!」
 音も無く三騎士が構える。剣士は腰を落とし、槍兵はじりじりとにじり寄り、弓兵は矢を取り、弦に番え、ぎりぎりと弓を引いた。
 さっ、と凛は立ち並ぶ三人の騎士に目を向ける。
 剣士は小柄な体躯に似合わぬ大剣を正眼に構えている。タイプは判らないが、あんな重そうな得物を主装に選んでいるということは、力に自信があるのだろう。パワーファイターと言うのが相応しいか。先ほどまで白騎士の腕を擬態していたのもコイツだ。右手の白手袋が焼け爛れている。
 槍兵は長身で、腰の辺りで2m程の槍を水平に構え、半身のままじりじりとにじり寄ってくる。鋼の槍には小さな鋭い穂が一つ。細い槍だ。こちらは随分と身軽そうだ。
 そして、弓兵は伸ばした左手に握った小さめの洋弓を水平に構え、矢を引いた手を口元まで引き寄せている。早射ちが得意そうなスタイルだ。大きな洋弓を縦に構える士郎と比べると、スタイルの違いがよく分かる。腰元には短剣。距離を詰めたときは用心が必要だ。
 不気味な三人の騎士は、幽鬼のように並んで立っている。その顔は、銀の兜の影になっていて伺い知ることは出来ない。
 ただ、目元のスリットからは真紅に光る眼が覗いている。
「それじゃあ、私は弓兵を相手にしましょうか。士郎は残りをお願い」
 手早く支持を出す。
「……いろいろと不満はあるが、いいだろう。槍兵と弓兵を同時に相手をするよりはマシだ。――だが、あの白騎士の注意は遠坂が惹きつけてくれよ。斬り結んでいる所に、あのレイピアの刺突が来ては敵わない」
 白騎士の腰元に刺さったままのサーベルを見つめ、士郎が言う。
「作戦は決まったかね?」
 そこでようやく、静観を決め込んでいた白騎士が口を開いた。彼にしてみれば、凛たちが幾ら時間をかけて作戦を立てようと一向に問題なかった。時間が経てば経つほど、儀式が始まるまでの時間を稼ぐことになるからだ。
 黒の姫君が儀式を始めるまで、あと数分といったところだろう。天上の月はまもなく中天にさしかかろうとしている。
「ではそろそろ始めようか。時間もない」
 パチン、
 白手袋を嵌めた指が、乾いた音を鳴らした。弾かれたように、騎士たちは三方向に分かれて動き出す。
「――いいでしょう。士郎はなるべく白騎士から距離を取って。―――Acht……」
 凛は右へ――。弓兵の動きに合わせて駆け出す。
「了解」
 士郎はそのまま正面へ。先ずは大勢低く飛び込んできた槍兵と打ち合った。
 高い音が響く。士郎が構えるのは双剣、干将獏夜。烈火のごとく突き出される槍を悉くいなす。槍のスピードには目を見張るものがあるが、威力はそれほどでもない。士郎の双剣を警戒して思い切りが足りなくなっている分、体重が穂先に乗っていないのだろう。
 打ち合う刃先から火花が飛び散る。その時、突如横から音も無く巨大な剣が振り下ろされた。
「!」
 槍の柄を剣の腹で弾き、士郎は紙一重で斜め上から振り下ろされた一閃を避けた。
「――思ったよりも速いな」
 小さく呟く。先ほどまで口元に浮かんでいた笑みは消失していた。
 槍兵の刺突を受けているときは、どうしても視界が狭くなる。死角へ潜り込み、一撃の下に振り下ろされる大剣は想像以上に厄介だ。
 見えない以上、避けるときは視覚以外の感覚に頼るしかないが、剣士には不気味なくらい気配が希薄だった。となれば、第六感、直感に頼らざるを得ないのだが……。
 流石の士郎も、直観だけを頼りに戦い抜くのは些か心もとない。結果的にそれしかないならば腹をくくるしかないが、初手からいきなり勘頼みでは、相手が何か奇策を隠していたときに対処が難しくなる。
「さて。厳しくなってきたな。――くそ、白騎士の前で手の内を晒すことになるとは――!」
 鋼がぶつかり合う音が高く響く。凪ぐように振りぬかれた大剣を辛くも剣で弾き、軌道をずらして避けた士郎は、二人の騎士の位置取りに細心の注意を払いつつ、石柱を中心に円を描くように駆け出した。




 身体を甲冑ごと高々と空中へ吹き飛ばすほどの威力を持った突風を、弓兵は身を低くすることでやり過ごした。
 もちろん、凛の魔術はそう容易に避けられるものではない。凛は弓兵の篭手に刻まれた鮮やかなルーンの輝きを見て目を細める。
 ――なるほど、白騎士にルーンの加護を与えていたのはこの弓兵か。
「Es ist gros,  Es ist klein stark……」
 想像以上に、矢を射るのが速い。これもルーンによる加護だろうか。
 矢は見極められないほどの速さではないが、精度が良い。連射で体勢を崩されると不味いことになりそうだ。
「Versta"rken Sie den Ko"rper……!」
 魔術を行使し、一時的に身体能力を向上させる。
 軽くなった身体で、壁を蹴って一気に跳躍した。上空に向かって人差し指を向ける。
「Fixierung,EileSalve――――!」
 指先の周囲から放たれた光弾が天蓋を打ち砕き、凛と弓兵の間を遮るように、大量の土砂が降り注いだ。この天蓋の上には森が広がっているのは既に知っている。
 ぱらぱらと細かな土埃が、煙るように舞い落ちる。
 続いて、宝石魔術で目の前に渦巻く風の壁を構築する。魔術特性は持続性の高いものを選んだ。
「――Sieben, Ein Herbststurm……!」
 風は舞い落ちる砂埃を攪拌し、凛と弓兵の間を遮るように吹き荒れる。土を含んで黒色となった竜巻が、凛を中心として現れた。
 竜巻の外で、弓兵が弓を射るのが判る。矢は土砂の間隙を抜けて凛の近くまで届くことには届いたが、風の抵抗により完全に精度を失っていた。
 矢による襲撃が止み、繰り出される弓の手管に一瞬の間隙が生まれる。
 凛は思わず胸を撫で下ろした。
 これだけの風を起こしておけば、白騎士が士郎へ干渉することも防ぐことが出来るだろう。
 士郎は今、凛の遥か後方で戦闘を繰り広げている。この竜巻の影響は受けないはずだ。
「けど、あの弓兵……」
 まさか視界が利かない中でも射って来るとは思わなかった。展開しておいた風に防壁の役割をさせたのが良かったか。しかし、これだけ無鉄砲に連射すれば矢が無くなってしまうだろうに。弓兵は矢のストックが有限であるが故に慎重に動くものと思っていたが、どうやら例外も――。
「!」
 そこまで考えたとき、風の壁が割れ、嵐の中から銀に鈍く光る兜銀が顔を出した。短剣を握った弓兵が、凛の懐に飛び込んでくる。
 凛は反射的に、腰元のアゾット剣を抜き放った。突き出された短剣に合わせ、短剣を振りぬく。
 高い音が上がり、剣が振るえる。手元に重たい感触が返って来た。
 風の壁を通って来た!?
 驚きと同時に、素早く理解する。
 そうだ。ルーン! 難避けの守護か!
 凛は己の思索の甘さに唇を噛む。そうだ。相手を騎士と扱ってはいけない。この弓兵は、魔術師として認識しなくては――!
 弓兵の姿は既に見えない。再び砂塵の中に飛び込んだのだろう。今は気配さえ感じられない。
 立ち止まっていては不味い。相手は凛の位置を把握している。早く距離を取らねば――。
 じりじりと後退するように、凛は移動を始める。いつどこから弓兵が斬りこんでくるかと思うと、跳ねるように鼓動を刻む心臓が痛んだ。
 腕がじんじんと痛む。なんという馬鹿力だ。予想はしていたが、どうやらあの騎士は吸血鬼であるらしい。ということは、他の二人の騎士も死徒ということになるだろうか。
 話では白騎士が率いるのは『幽霊船団』だということだったが、それがこの騎士たちを指しているのならば、『吸血鬼船団』と呼んだ方が正しいだろう。
「どこが幽霊なのよ。こっちの方が数倍性質が悪いじゃない……!」
 一人毒づく。
 凛は魔術で肉体の強度を高めているが、それでも死徒とまともに打ち合うのは分が悪い。
 密度の濃い砂嵐をじっと見つめ、凛は目を細める。
 砂塵を巻き上げたのが不味かったか。相手はこちらが――微かにだろうが――見えているようだが、こちらからは弓兵の姿が見えない。
 これでは、こちらから仕掛けるのは難しい。かといて、ここで風の壁を解けば、この砂塵が消え去る前に弓で狙い撃ちに合う。魔術が自分の首を絞める結果となってしまった。
「さぁ、どうしたものかしらね――」
 硬く宝石を握り締めながら、凛は乱れる髪にも構わず、嵐の中を駆け出した。



 それは、失策と呼ぶにはあまりにも辛い一撃だった。
 巨大な剣の横薙ぎの一閃を、一振りの短剣でまともに受ける。さすがの士郎も、腕に走った痛みに思わず顔を顰めた。
 槍兵と剣士の卓越した連携攻撃に、士郎は為すすべもなく体勢を崩される。
「っ!」
 音も無く繰り出される連撃を辛くも凌ぐ。穂先が走る度に、太ももの辺りに熱が奔り、肩口の防具ががりがりと音を立てた。
 思わず、舌打ちを一つ。
 個々で切り結べば、そう大きな障害でもなかっただろう。いや、これが単純に戦力が一足す一になっただけならば、ここまで苦境に立たされることも無かったはずだ。
 騎士達の腕前は相当のものだが、投影魔術により複製された宝具を、そして士郎が磨き上げた烈火の剣戟を受け切れるほどには達していない。
 しかし、彼らの戦力は単純な足し算で計れなかった。隙の無い連携は、彼らの実力をそれぞれ倍化させる。
「くっ」
 一歩、士郎が後ろへと退がると、槍兵の背後から上段に剣を構えた剣兵が斬り込むのが視界の隅に映った。
 不味い!
 そう思ったときには、雷のような衝撃が腕を走っていた。
 一瞬の浮遊感。そして、数瞬の間をおいて背中に走る衝撃。
 何が起きたのかわからない。重たい剣の一撃で吹き飛ばされたのだということはわかった。しかし、最後の衝撃が理解できない。まるで、見えない壁にぶつかってしまったような――。
 いや、先ずは体勢を立て直さなければ。
 ふらつく頭で立ち上がる。顔を上げると、二人の騎士は士郎を取り巻くように距離をとったまま、ただ立ち尽くしていた。まるで、そこに見えない壁があるとでもいうかのように。
「?」
 思わず、辺りを見渡す。すると、
「エミヤ……! ついに辿り着いたッ!」
 すぐ後ろで、地獄の底から響く獣の唸り声にも似た声が響いた。

※   ※   ※


 下半身を吹き飛ばされ、ぼろ屑のように倒れ伏してもなお、ロブは生きていた。
「あ、ああ、ぁぁあぁああああ!!」
 もう機能なんて停止しているはずなのに、形だけ直したって動きはしないのに、ヤドリギの蔓は宿主を生かそうと、寄生主の意志などおかまいなしに養分を吸い上げ、肉体の補修を行っていく。
 そのあまりにも凄惨な光景に、数々の地獄をその身をもって体験してきたシエルの目にさえ、僅かな憐憫の色が混じる。
 せめて、早く楽に――。
 そう思い、シエルが一歩を踏みこむ。すると、
「ぁぁぁ!、うううぅぅ……」
 びくり、とロブの身体が跳ね上がった。壊れた操り人形のように、ぎくしゃくと上半身だけの身体を起こす。その顔は、完全に死人のそれだった。
「……! それが貴方が選んだ結末ですか」
 低く呟いたシエルの声には幾らかの憤りが込められていた。同時に、人形を支える糸の役割を果たしている蔓に微かな恐怖を覚える。
 このヤドリギの木は、悪魔の木だ。いや、人の感情を介さぬ、冷たい機械のような生存本能は人を惑わす悪魔のやり口よりも怜悧でさえある。
 ききき、とロブの顔が笑みに歪む。かと思うと、引きつったように痙攣を起こし、地面へと仰向けに倒れこんだ。
 オォ、オォ、
 ロブの身体に寄生した悪魔が悲しげな声を上げる。
 このままでは、宿主が死んでしまう。早く新たな宿主を見つけなくては――。
 悪魔はよく理解していた。今まさに寄生主を葬ろうとしているこの人間は、自分という種にとって天敵となるモノだと。
 ヤドリギの枝木達は、少しずつロブの身体から撤退を始める。それは、シエルでさえ予想していなかった行動だった。まさか、彼らに意思とも言うべきものが宿っているなどと、一体誰が想像できただろう。
 代行者が見せたその隙に、触手たちは自身の幸運に顔を綻ばせた――かどうかはわからない。しかし、シエルの位置からは見えないようにひっそりと、地面へと潜り込もうと、枝木たちはするすると触手を伸ばし――。
 強く渦巻く別の意思に、足をつかまれた。
「!」
 横たわったロブの瞳が、大きく見開かれていた。ただ茫然と、瞬き一つせず、自身の頭上にある一点を見つめている。
「み、つけ……た」
 もう二度と音を発することがないと思われた口が、意味ある言葉を刻む。
 目の前で蟠る真紅の外套。
 結界の向こう、すぐ目と鼻の先で額を押さえながら、ゆっくりと立ち上がったあの男は――!
「ああ、あ――」
 この命を引き換えにしても、この手で殺したかった我が仇敵!!
「エミヤ……! ついに辿り着いたッ!」
「!」
 びくり、と士郎の肩が跳ね上がる。地面に上半身だけを生やしたように直立し、腕を伸ばしたロブが、地獄の底から彼を迎えにきた亡者のように見えたからだ。
「クソゥ、エミヤァ、テメェ、見つけたぜ、この……、裏切り者がァ」
 ゴボゴボと口から血液を溢れさせ、ロブが呪いの言葉を紡ぐ。ヤドリギの木は、それさえも養分として吸い取ろうと蔓を延ばす。もったいない、早く吸わせろ――。
「エ、ミヤァ!」
 上半身だけで這うように腕を動かし、ロブは仇敵へと少しでも近付こうとにじり寄る。しかし、二人の間を隔てる結界は、ロブにそれ以上前に進むことを許さなかった。
 びたり、と結界に張り付き、少しでも近くに、と顔を寄せる。その顔は狂喜に歪んでいた。
 士郎はそんなロブの姿をしばらく驚愕と嫌悪の混ざった、微妙な表情で見下ろしていたが、
「おい、死徒」
 不意に、ふっ、と口の端だけを吊り上げるようにして笑った。
「一つ良いことを教えてやろう」
「……?」
 ロブは頭蓋の奥に響いたその言葉を、何とか理解した。引きつった笑顔で首を傾げ、小刻みに震える指で結界の表面を掻き毟るように動かした。
「しっかり聞け。一度しか言わないぞ」
「ァ――」
 白痴のように顔を上げたまま、ロブはその言葉を聞く。
 光を失くしていく瞳。エミヤが何を言っているのか、上手く理解でいない。
「あの魔眼使い……。ヴォロドフとか言ったか? あの吸血鬼だけどな」
 もったいぶった口調で言って、士郎はそこで一度言葉を切ると、にやり、と口元を歪め、
「あれを屠ったのは俺じゃない。あそこに魔術師……。遠坂凛だ」
 背後を指差し、侮蔑と嘲笑の混じった瞳でロブを見下ろした。
 ――な、に……?
「馬鹿なやつだ。お前は、自分が復讐する相手さえも間違った。命までかけたのにな」
 可笑しくて堪らない、と士郎は嗤う。
「エミ、ヤァ……!」
「塵屑め。お前はここで消滅しろ。無意味に、無価値に、塵さえ残さずな」
 そう言い捨て、士郎はロブへ背を向けた。
「エ――……!!」

 何かが、音を立てた砕けた。

「エミヤ――――!!」

 脳髄が沸騰したかと思うと視界いっぱいに光が溢れ、ロブはそこに至ってようやく自分の意思を取り戻した。肉体の支配権が変わり、ヤドリギの蔓がびりびりと痙攣するように震える。何か得体の知れない黒く大きなうねりが、ロブの身体を駆け抜け、満たした。
 殺す、殺す。殺す。殺す!!
 コロス!!
 揺れ、霞む視界。エミヤが二人に見える。全ての力を込めて、殺意をこめて、ロブは獣の咆哮を上げた。
 それは、鋼鉄さえも貫く漆黒の閃光。形をもったそれは、一条の黒光となって厳重な結界を突き破り――。

 ――そこで、彼の意識は黒い色で塗りつぶされたようにして、欠片も残さず消失した。



 一滴の雫が、石畳に落ちる。
 結界を突き破り伸びた蔦は士郎の顔を僅か紙一重逸れ、まるで時が止まったかのように、そこで動きを止めた。頬に奔った一筋の傷から、真紅の滴が溢れる。
 振り返り、視線を落とす。そこには既に、たくさんの人々の命を吸い上げてきた死徒の姿は見当たらない。
 ただ、枯れ木が転がっている。
 士郎は無表情にそれを見下ろした。枯れ木の表面には、この世の全ての憎しみを煮詰めたように歪んだ“顔”が刻まれている。
「ふん」
 踵を返し、ソレに背を向ける。
「悪魔に魂を売ったものの末路、か。惨めなものだな」
 精一杯の皮肉を込めて嘲笑った。
 静かに呪文を紡ぐと、士郎は再び双剣を構える。何事もなかったかのように真紅の外套を翻し、混沌渦巻く戦地へと身を躍らせた。

 ばさり、枯れ木が崩れ、ゆっくりと灰と化していく。数瞬の後、跡には灰しか残らなかった。








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