22.死徒と代行者 U








 石床を突き破り現れた機械人形――その全容が明らかになった時、志貴はまず己の目を疑った。
 高さ三十メートル、幅十メートルはあるだろうか。人型の巨像は城壁のように聳えている。そしてそれはどうやら、一定の高さを保ちながら中空に浮かんでいるようだった。
 蒼く輝く瞳を細め、志貴は軽く頭を振った。
 こんなものを前にすれば誰だって先ずは己の正気を疑うだろう。機械人形の頭部にあたる部分に刻まれたそれを目にしたのなら、尚更だ。
 機械人形は『少女』だった。
 その形状も、どこか無機的な表情の刻まれた頭部も、その機械人形が少女であるということを現している。
「これも魔獣だっていうのか――」
 以前、ブリュンスタッド城で見た魔獣とは全く違う。あえて共通する点を挙げるなら――。その姿が物語の世界からそのまま出てきたように、あまりにも非現実的に過ぎるということくらいだろう。
 少女の身体が軋むように動く。機械人形はどこか物憂げな表情そのままに、動きを確かめるようにその石造りの両腕を数度動かした。白亜の体躯に刻まれた、古代ローマの神殿を思わせる細かな意匠が細かく震える。
 朽ちた神殿を擬人化したかのような機械少女の姿と、墓石立ち並ぶ闘技場は、意外にも一揃えの茶器のように違和感なく、この空間を一枚の――どこか退廃的な――宗教絵画のように演出していた。
 志貴も、この機械人形が恐ろしい怪物の姿を模していたなら、恐怖の一つも感じたのかもしれない。しかし“少女”のフォルムを象ったこの機械人形は、決定的に現実感というものが欠けていた。
 墓標立ち並ぶ円形闘技場コロッセオは、物語の中の世界の如く、現実味を失っていく。
 しかし。
 だからといって、この光景を『空想の具現』であると評することは躊躇われた。
 少女の腕の継ぎ目――。腕の関節の奥に、無機質に光る金属の光沢。
 その輝きが示す意味を、志貴は知っている。
「あれは、人や物を破壊するために作られた存在モノだ」だ」
 そう。目の前に聳え立つ人型は少女であり――そして、兵器だった。
 支柱を象った白亜の腕が動くたびに、関節の隙間に精密に組み上げられた機械仕掛けが垣間見える。科学の進歩というものに飛び切り疎い志貴の目をもってしても、それが高度な現代科学の元に産み出された存在であることは容易に知れた。
 九十度に曲げた肘からは、凶悪なミサイルの弾頭が覗いている。足元に据えつけられたジェットエンジンは、その推進力で少女の身体を易々と空中に留めているようだった。所々デザインのように施された模様――直線と曲線を組み合わせて描かれている――もまた、よく見れば規則正しく並んだ、数十基からなる機銃で構成されている。
 まさしく、機械仕掛けの“機巧令嬢”。
 少女は立像オブジェなどではなく、現代兵器ウェポンだった。
 兵器少女の石造りの顔には、何の感情も浮かんでいない。どこか気だるげにさえ見える冷たいマスクは、眼下の男へとただ静かに向けられている。
「……」

 男の名はリィゾ=バール・シュトラウト。
 同族たちは、畏敬と侮蔑を籠めて彼を『黒騎士』と呼ぶ。

 黒騎士は腰元の鞘に手を添えたまま、微動だにせずに機巧令嬢を見上げている。自分から仕掛ける素振りは見られない。
 メレム・ソロモンは少女の肩の上で挑発するように美しい顔を歪め、ちろりと覗いた真っ赤な舌で唇を舐めた。
「大言壮語を吐いてた割には威勢が悪いね、黒騎士。目に物を見せてくれるんじゃなかったのかい?」
 黒騎士は答えない。黒鞘を握り締め、反対の手を黒革の巻きつけられた剣の柄に置いたまま、機巧令嬢に比するとあまりにも小さな少年を見つめている。

 ――闇色の空には、悠々と舞う怪鳥の姿。黒騎士を牽制するように、巨大な満月の周りで緩やかな旋回を繰り返している。

「……ふん。初手は譲ってあげようって言ってるのに。面白みの無い奴だな」
 メレムは肩をすくめ、微動だにしない黒騎士を見下ろし――。不意に、機械少女の上から飛び降りた。それを合図にしたかのように、地鳴りが響き、地面が揺れ出す。
 地面が割れる音と共に、石床の下から巨大な何か――真っ黒な塊が姿を現す。海の只中に浮かぶ暗礁のようなそれには、どういうわけか、頂上に豪奢な木の椅子が据えつけられていた。
 メレムは小鳥が梢に止まるような身軽さでその上に着地する。
「さて。それじゃあ始めようか」
 メレムは暗礁の上の椅子に腰掛けると、腕を組み眼下の光景を見下ろした。煌々と輝く赤い瞳は、ただ一人、闘技場の向こうの黒騎士に向けられている。
 その光景を見つめ、志貴は、
 ――何て噛み合わない光景だ。
 思わず首を捻った。
 一刀を構え、腰元の剣に手をかけたままの姿勢で微動だにせず標的を見据える黒騎士に対して、メレムはまるでこれからチェスでも始めようかというような姿勢である。
 だが――、当の二人はこの光景に違和感を感じていないのだろう。
 メレムはもちろん、黒騎士もまた理解しているのだ。
 メレム・ソロモンは悪魔『使い』。必ずしも戦闘において、自らが前線に立つ必要は無いのだということを。
 メレムの能力、“デモニッション”は死徒の間でも名の知れた能力である。
 彼が創造した四体の魔獣は、この世界に現れた時点で一個の生物として活動を始める。つまり、四体の魔獣はメレム本人が消滅したとしても、そのまま残り続けるということになる。
 これは年を経た死徒の間では周知の事実であり、黒騎士もまたその程度のことは知っていた。
 そしてここで、黒騎士が主より受けた命は、『これより先に何者をも通すな』という一点のみ。
 故に、黒騎士が主の命を遂げるためには、悪魔使いが誇る四体の魔獣を悉く滅殺しなければならない。彼にとっての『勝利』とは、主の命を遂げ、その汚名を漱ぐことにあり、それはメレム・ソロモンを屠ることと必ずしもイコールではない。
 ただし、聞くところによると四体の魔獣はメレムの手で何度でも蘇ることが出来るという。
 先に魔獣を屠ってしまえば、創造者メレム交霊能力デモニッションで魔獣を再創される恐れがあるが、しかし――。それを易々と許すほど、黒騎士の剣閃は遅く無い。
「また無視? いい加減頭にくるなー」
 問いかけに頷きもしない黒騎士を、メレムはつまらなそうな目で観察する。
「まぁいいや。それじゃあ、こちらから行かせて貰おうか」
 少年の指が、歩兵ポーンを動かすような気軽さで墓石の立ち並ぶ盤面を滑る。
 それを合図にしたかのように、機巧令嬢は黒騎士へと向き直った。黒騎士は半身になっていた身体から更に一歩、後ろ足を下げる。
 闘技場を包む緊張感が高まっていく。悪魔の軍勢を指揮するメレムを、黒騎士はただ一振り、漆黒の剣で迎え撃つ。
 一見、歴然と思われる戦力の差。しかし――。
「リィゾは本気だ。メレム、いくら君でも今のあいつを退けるのは容易じゃないぞ――」
 唯一の観客は、一人小さく呟いた。
 彼らはそれぞれが祖を名乗るほどの正真正銘の化け物。互いの戦力を常識で計ることは不可能である。確かにメレムは強大な魔獣を四体をも従えているが、それが果たして黒騎士相手にアドバンテージとなるかどうか。
 いや、そもそもフェア・アンフェアを論ずるなら、アンフェアなのは黒騎士の方だろう。黒騎士がメレムの能力を知っているのに対して、メレムが知っているのは彼が剣士であること。『ニア・ダーク』と呼ばれる魔剣を有していること。そして、その剣が常識では考えられない射程を誇っているとだけである。この差は戦局において非常に大きく影響してくるに違いない。
 謎に包まれた黒騎士の能力――それを知らぬのは、何もメレム一人だけではない。他の祖の中でも、彼の能力を知るのは一握りの面々である。
 一つは、彼が黒騎士として発生した頃から生き続けている、最古参の祖。
 一つは、彼が仕える主と、その配下。
 そして一つは――彼と闘い、そして生き伸びた存在である。
「相変わらず、涼しい顔して気が短いな」
 僅かに沈んだリィゾの構えを見て、その数少ない生き残り――遠野志貴は歯を鳴らした。半身に構え、腰元に差した剣の柄に手をかけたその体勢。それは紛れもなく日本の武術、居合道の構えである。
 長身のリィゾが居合で構えると、対する相手は剣の間合いや軌道が掴み辛くなる。刀身が使い手の身体に隠れ、刃の長さが見極め辛くなるからだ。
 また、リィゾの魔剣は大気圏の外にある人工衛星を両断する無限の間合いを持つ。
 これに、リィゾの祖としての身体能力と高速を誇る居合いの抜刀速度が加われば、その一閃は避けることの適わぬ一撃となる。これを見極めるのは非常に難しい。
 志貴が知る限り、その構えはリィゾ=バール・シュトラウトが誇る最高の技だ。
「――」
 不吉な気配を感じているのだろうか。身じろぎ一つしない黒騎士に、機巧令嬢もまた見えない鎖に拘束されてしまったかのように動こうとしない。その表情は冷たく凍り付いているようにさえ見える。
「躊躇う事は無い。ただ、いつもの通り蹂躙してやればいいんだ。簡単だろう?」
 甘く、穏やかなボーイソプラノで、メレム・ソロモンは命じる。

 ギ、
 ギギ、ギ…。
 創造主の言葉を受け、少女を縛り付けていた鎖が消失する。駆動系の動きを確かめるような、緩やかな動作。足の推進装置が火を噴いた。
 唸るような轟音を上げ、機巧令嬢の身体が空高くへと舞い上がる。
「……」
 黒騎士の顔が、それを追うように空を向く。
 円形にくり抜かれた空に大きな弧を描きながら、少女の躯体はロケットのように空高くへと上昇していく。細い煙を尾のように引き、少女の巨体はやがて巨大な月を覆い隠すにまで至り――。
「!」
 そこから一気に、降下を始めた。
「ねぇ、殺人貴」
 空を見上げていた志貴は不意に声をかけられ、メレム・ソロモンへと視線を移した。巨大な暗礁、その上に据えつけられた椅子に腰掛けた少年は、不思議そうな顔で志貴を見下ろしていた。
 小さく首を傾げ、
「逃げないの? そこにいるとハンバーグみたいなミンチになるよ?」
「!」
 その言葉が意味することは一つだった。
 どんなに鈍い奴とて、この先何が起こるのかくらいは容易に想像がつく。ただ、現実離れした光景の連続に、志貴の危機感は多少ながら麻痺しており、テレビの中の映像を観るように現実感というものが追いついてなかった。
 少年の忠告に素直に従い、志貴は急いで退避を始めた。
 上空では今まさに、細かに身体の構造を変えながら落下する兵器少女が、腕部に接続された巨大な鉄槌を振り上げたところだった。
 ――やはり、このまま突貫するつもりか!
 志貴の背中を冷たいものが落ちる。
 あの巨体と、この落下速度である。地面へ衝突したときの衝撃は巨大な弾道ミサイルが炸裂するのにも比肩するだろう。
 全力で駆ける志貴でさえ、影響範囲から逃れられるかどうか。志貴は駆ける足に力を篭める。
 しかし――。
 闘技場の中央に佇むリィゾは、身じろぎ一つしなかった。
「あいつ……!」
 少女の身体に無数に設けられた発射口から、数多のミサイルが噴出する。
 緩やかな曲線で細い白煙を上げながら、それらは少女の巨体よりも速く標的――リィゾ=バール・シュトラウトへと噴出した。
「――」
 ここでようやく、黒騎士が動いた。
 小さな歩幅で回り込むように墓石建ち並ぶ闘技場を駆けながら、ミサイルの軌道から予測される着弾地点と距離を取っていく。
 その速度は、さすが祖の一つ。瞬く間にミサイルの軌道から外れていく
 だが……。
 志貴は心の中で首を傾げる。この程度の速度ならば、人間である志貴でも到達できるのではないだろうか。
 黒騎士の足が、円形闘技場の直壁を踏んだ。そのまま飛ぶように石壁を駆け上っていく。彼の身体は既にミサイルの影響範囲の外の外にあった。このままでは、突貫をかけた機巧令嬢とて、黒騎士を捕らえきれるかどうか……。
 そう志貴が憂いたその時、真っ直ぐに飛んでいたミサイルの軌道に僅かな変化が生じた。
 メレムの口元が僅かに歪む。
 AGM-119MヘルファイアVと呼ばれるこのミサイルは、誘導方式にセミアクティブ・レーザーと呼ばれる誘導方式を採用しており――標的をロックオンすることが出来れば発射するだけでミサイル自体が能動的に標的を追尾する――ファイア・アンド・フォーゲットと呼ばれる能力を有している。
 メレムとて、この追跡能力で黒騎士を退けることが出来るとは露ほども思ってはいない。目標はあまりにも小さく、現代技術を持ってしても、目標を捕えるのは不可能に近いからだ。
 これは、あくまでも撹乱。
 本命は兵器少女による突貫である。
「ミサイルは直撃する必要はない。取りあえず、黒騎士に威力が及ぶ範囲に落ちてくればそれでいいんだ」
 メレムの口元から鋭利に尖った犬歯が覗いた。
 まずは、小手試し。
 少年と同格の存在として、時に同胞として数えられるこの祖の正体を、今この場で、白日の下に晒してやるのだ。
 細い煙を尾のように後ろに引いたミサイルが、駆けるリィゾの背中へと迫る。
 ――さぁ、どうやってこの攻撃を凌ぐ?
 チェックの盤面を前に腰掛けたメレムが、ぐっと身を乗り出す。
 しかし。
 メレムの思惑に反して、リィゾは何もしようとはしなかった。腰元の長剣を抜くこともなければ、駆ける足を早めるわけでもない。漆黒の篭手は剣の柄に置かれたままである。
 僅かに逸れて石床に着地したミサイルの爆発が、漆黒の甲冑を包む。
 当てが外れたのはメレムだ。少年は黒騎士が『速さ』を強みにする祖であると踏んでいた。
 黒騎士がメレムのような圧倒的な物量で押すタイプの祖ではないということは、これまでの情報から明らかである。となれば、技巧や奇抜さを強みとする祖であると考えるのは当然のことだろう。
 黒騎士は、剣技の巧みさ、あるいは神秘を体現するほどの固有能力――。または、それに類するものを保有しているものと、メレムは考えていた。騎士道を奉ずるスタイルからいっても、物量に物を言わせるよりも技能を強みとする祖であるだろう、というメレムの推論は理に適っている。
 だから、その俊足の一端か、自慢の剣技――。まではいかずとも、取りあえずは噂に名高いあの魔剣を抜かせることが出来ればそれでいい。
 そう踏んでいたのだが――。
 ミサイルは微妙に軌道を変化させながら、次々と黒騎士の周囲に風雨のように落下する。爆風が起こり、地盤が震え、生じた風圧が円形の闘技場を暴れ周り、獣の唸り声のような反響音が響いた。黒騎士は抗いようも無く、衝撃と爆風の只中に飲み込まれる。
 そして。
 爆風の中に身をさらすリィゾの上へと、兵器少女が突き刺さった。右手に握られた、いや、接合された、巨大な破城槌が無表情に叩きつけられる。
 その時起こった衝撃波は、志貴がこれまで経験したどれよりも強烈だった。舞い上がっていた砂煙が風圧で消し飛び、いくつもの墓石が砕け、宙を舞った。
 墓石の影に隠れていた志貴の身体が、木の葉のように吹き飛ばされる。
「――っ!」
 想像を遥かに上回る衝撃。
 ――これが、二十七祖!
 身体を叩く風圧の中、志貴は思わず声を漏らした。恐ろしいまでの純粋な暴力。志貴の身体は、闘技場の最上段にまで舞い上がる。
 間一髪、ナイフを取り出し、落下の衝撃を『殺す』。無事、着地は成功したが、咄嗟の能力行使が祟ったか。頭蓋に軋むような痛みが走った。
 志貴が吹き飛ばされた場所と反対側の位置――黒騎士を最後に見た石壁の辺りに目を移す。
 そこには、石床に突き刺さった巨大な鉄槌へと無表情な視線を向ける機巧令嬢の姿があった。
 果たして、標的を捕らえた手ごたえがあったのかどうか。表情からは何も読み取ることは出来ない。
 そして、兵器少女はここで止まらなかった。瞬き一つすることもなく、更に苛烈な攻撃を加えていく。
 少女の左肩口から腰にかけてのハッチが金属音と共に開き、雨のような焼夷弾が零れ落ちた。
 瞬く間に着弾した弾頭が辺り一面を舐めるように焼き尽くしていく。それは離れていた志貴でさえ、熱風と息苦しさに思わず顔を顰めるほどだった。
 轟々と唸りを上げる炎の中で、少女が破城槌を引き上げる。
「なぁんだ。とんだ期待外れ」
 頬杖を付いていたメレムは、不満そうに呟いた。
 ミサイルは確かに命中していた。リィゾ=バール・シュトラウトは、一撃さえも満足にかわすことが出来なかったのだ。
 メレムとて、この程度で滅することが出来たなどとは思っていない。いないが、この程度の武力を無力化できないようでは祖としての底が知れるというものである。
 決着もそう遠くないだろう。そう、メレム・ソロモンは些かの落胆に肩をすくめ――。

 無表情を貫いていた兵器少女の顔に生じた僅かな戸惑いの色に、その猫のような目を細めた。

「?」
 バキリ、
 硬質な金属音が、やけに大きく響いた。
「な……!」
 驚きの声は、誰から発せられたものか。
 僅かな沈黙の後、兵器少女の上半身が地面に吸い込まれるように、ゆっくりと仰向けに堕ちていく。その顔は、驚きと戸惑いに満ちていた。
 巨大な手が、何かを求めるように中空へと差し出される。しかし、彼女のその手を取るものは存在しない。
 為すすべもなく、兵器少女は腰元から横一文字に真っ二つに切断され、スクラップと化して石床の上へと崩れ落ちた。
 闘技場に轟音が響く。金属同士がぶつかり摺れる音は、さながら少女の悲鳴のようだった。
 メレム・ソロモンの目が驚きと怒りに見開かれる。
「魔剣か! やってくれる……!」
 まずは小手調べ、と相手の能力を見極めようというメレムの企みを、黒騎士はまさに一刀の元に斬り捨てた。
 何という切れ味。メレムが誇る四大の魔獣、その一体が、まさか一撃で地に沈むとは……!
「どうした。メレム・ソロモン。何をそんなに驚いている」
 抉り取られ、今もなお炎に包まれる石床の下から、ゆっくりとリィゾが姿を表す。
 漆黒の甲冑に包まれた痩身が、ふわりと中空へ舞い上がった。
 多少の砂埃はかぶっているものの、その立ち姿には大きな損耗は感じられない。手にしている剣は、あらゆる光を飲み込んでなお黒光る、今や二メートルにも及ぼうと言う、伸縮自在の“魔剣”である。
 どうやら黒騎士は、地面に突きたてた刀身を肥大化させることにより、自身の身体を中空へと持ち上げているようだった。
「それがお前の魔剣か。黒騎士」
「お望み通り、抜刀してやったぞ。悪魔使いよ。もっとも、その代償は大きかったようだが」
 石床の上に降り立ち、黒騎士が低く冷たい声で言った。
「……ッ!」
 メレムが噛み砕かんばかりに口元を噛み締める。
 相手の実力を測ろうと手を抜いたのが不味かったか。機巧令嬢が黒騎士を捕らえた時点で、空に控えさせていた怪鳥を落下させるべきだった。
 殺意を撒き散らせるメレムに、黒騎士は嘲るような冷笑を浮かべる。
 しかし、
「ははっ、代償、ね」
 これを失策と呼ぶのは、時期尚早というものだろう。怒りの表情を一転、メレムの口元に浮かんだのは、黒騎士が浮かべるのと同じ冷笑だった。
 相手の実力を計るという意味では、寧ろメレムの企みは成功している。誤算は、彼の魔獣の一体が一撃で地に沈んだという一点だが……。
「君が言う“代償”が何を指しているのか、僕には見当も付かないんだけれど。教えてくれないかな? 一体僕が、どんな代償を払ったって?」
「――何だと?」
「他人の心配もいいけどさ。あんまりよそ見しないほうが良いんじゃないかな? 黒騎士。お前は今、誰と戦争しているのかよく理解した方がいい」
 リィゾの動きが停止する。彼の本能は、少年の言葉が秘めた、決して空言ではない確かな意味を機敏に察知していた。
「!」
 背後から迫る気配に、すぐさま振り返る。そして――驚きに目を見開いた。背後の空には、数百に及ぶミサイルと、
「ははっ、化け物を人間の規格内で計ろうだなんて。なんて君は人間染みた死徒なんだ」
 上半身だけで浮かぶ、兵器少女の無表情なマスクがあった
「!?」
「身体を両断されたくらいで屠った気でいるだって? まったく、僕には理解に苦しむ感覚だよ。生粋の化け物の僕には、ね」
 兵器少女の両腕に施されたハッチが開き、中から巨大な金属の砲身が顔を覗かせる。
「機械人形が、小賢しい――!」
 静かに燃える闘志を陽炎のように立ち昇らせ、黒騎士は魔剣を上段に構える。
 中空にピタリと静止した黒光る漆黒の刀身を見つめ、メレムはくつくつと陰鬱に嗤った。
「それが噂に名高い、黒騎士自慢の“魔剣”ニア・ダーク。あの人工衛星を斬りおとしたのもそれだね。さっきの一閃も凄かったけど、射程はまだまだ延びそうだ」
 兵器少女の上半身と下半身が接合する。それを横目に確認して、メレムは邪悪に目を細めた。
「それよりも、気になるのは、あれほどの火力を防いだとこか。恐らく、そこに深い謎に包まれた君の秘密も隠されているんだろうねぇ」
 くつくつと低い声で笑いながら、クイーン女王を動かすような容赦の無さで盤面へと指を滑らせる。
 かちり、と五本の指に嵌められた指輪が触れ合い、音を立てた。
「さて。それじゃあ、君の正体を見せてもらおうか」
 つい、と差し出したメレムの指が動く。それを合図にしたように、ミサイルが次々と黒騎士の周りの地表に降り注ぎ、少女の腕から膨大な火力の炎が噴出した。火量は先ほどの焼夷弾の数倍。これでは、いかな黒騎士とて先のようにはいかない。
 風が、吹いていた。
 迫り来る暴力を前にして、リィゾは盲い瞳で夜空を見上げた。
 空には弧を描きながら迫るミサイルの雲霞。赤熱の一線が地表を焦がしながら地面を走る。
 剣の柄を握り締める。これだけの数の標的を斬り捨て、あるいは避けきることはリィゾには不可能だ。幾ら生粋の化け物とて、彼の腕は未だ二本しかなく、剣はただの一本しか持ち合わせてはいない。
 しかし――。リィゾは眉一つ動かさず、ただ魔剣を握る手に力を込める。彼は騎士。ならば剣一本で身命を誓った主の望みを叶えるのみ。
「この身は、貴女と共に」
 空には唯一つの月。それさえあれば、万事足りた。月の周りには、悠々と旋回する怪鳥の姿がある。
 目障りだ。
 苛立ちも露に、しかし消え去るように黒騎士は呟いた。
 アレは美観を損ねる異物でしかない。
「そう」
 ならば。
 
 邪魔な異物は、月の姫の護衛たる我が名の下に、ただ斬り捨てるのみ。

 黒騎士の右腕が奔る。腰元から巻き付けるように、そして地面から掬い上げるように、下段から逆袈裟に一刀を振り抜いた。

“似て非なる常闇”ニア・ダーク

 ドクン、
 裂帛の気合と共に、硬質な剣が黒色に鳴動する。
 夜空を引き裂くように、漆黒の刀身が迸る。
「!」
 志貴の眼には、漆黒の刀身が輪郭を無くし、無限に膨張していく姿が映っていた。否、事実、刀身は一瞬のうちに数十倍の体積に膨張していた。
 迫り来る標的が無数ならば、それを迎え撃たんと奔る刃もまた無数。
 刀身は立ち上る陽炎のように虚ろに、しかし際限無くその質量を肥大させ、あるいは枝分かれし、四方八方から迫るミサイルへと奔った。太さや長さ、どれ一つとして同じではない刀身が、まるで立ち上る煙のように闇色の空に解放される。
 志貴が予期していたよりも数秒早く、漆黒の刃とミサイルが衝突し、爆風が周囲を震わせた。
 夜空に咲く大輪の華。
 漆黒の刃は迫りくる標的をことごとく撃墜していく。しかし、黒騎士に迫るのはミサイルだけではない。
 夜闇に架かる橋のように、一条の紅蓮が迸る。機巧令嬢の両腕から放射された火炎は、圧倒的な火力で黒騎士へと降り注いだ。
 そして。
 メレム・ソロモンは己の目を疑うことになる。
 火炎噴き出す機巧令嬢の両腕に向かって、黒騎士の剣から他に数多伸びる刃とは異質な――闇色の……そう、木の幹のようなシルエットが伸びていた。太く、大きな黒色の柱。
 柱は中ほどで折れ曲がり、先端が花開くように割れていた。割れた先は鳥の足先のようなフォルムをしている。
 ガタン、
 音を立てて、メレムは椅子から立ち上がった。忌避するように目を細め、暗い声で呟く。
「あれは――。腕、か」
 枝分かれして伸びる刀身とは別に、巨大な何かが小さな剣の柄から伸びている。それは、腕に似ていた。人間のものと比すると、腕周りが異常に細く、指が長い。
 そう、あれはまるで――。
「まるで、人間の骨みたいだ」
 メレムの目には、それが白骨化した人間の腕を模しているように見えた。
 兵器少女の腕から迸った炎が、黒騎士を飲み込む――。

 オオォォォ、

 黒色の魔手――その五指がリィゾを守るように広がる。炎は遮られ、リィゾにまで届かない。地面を焦がす熱風だけが、轟々と周囲を吹き荒れた。
 それは、実に奇怪な光景だった。無限に広がり続ける漆黒の刀身と、巨大な魔手。それらが元は一振りの剣だと、誰が信じよう。

 まさしく魔剣。人知を超える、魔を宿した剣――。

 漆黒の手から伸びた五本の黒光は、やがて複雑な軌跡を描きながら紅蓮の炎を突き進み、ついに機巧令嬢の元まで達し、その腕を斬り裂いた。黒光が兵器少女の右腕を、そして残りの四肢を次々とバターのように切断していく。
 その光景を、メレムは忌々しげに、煮えたぎる窯のような瞳で見つめていた。
 辺りの標的を根こそぎ斬り落とすと、黒光はゆっくりと一本の腕に向かって収束を始める。まるで、獲物を狩り尽くして満足したとでもいうかのように。
 跡には、手の甲を向けるように広がる漆黒の魔手だけが残された。
 破れて骨組の覗く蝙蝠傘のようなシルエット――。その表面に、ぎょろり、と巨大な瞳が浮かびあがる。
 これには、志貴も思わず背筋を寒くさせた。
「――それが魔剣の正体か」
 メレムの顔に鮮やかな激情の色が浮かぶ。隠しようもない殺意。辛うじて取り繕った平静な顔を引き吊らせ、左手の指をパチリ、と打ち鳴らす。
 ウオォォ……。
 背後に伸びる影が揺らめき、メレムが腰掛けていた椅子が揺れた。足元の暗礁がせり上がり、巨大な鯨のフォルムを纏った獣が姿を現す。
「あれは、千年城で見た魔獣だったのか」
 眼下で繰り広げられる異端たちの争いを見つめ、志貴は喉を鳴らした。
「これが、二十七祖同士の争い」
 地面に伏していた機巧令嬢が切断された四肢をつなぎ、操り人形のようにゆらり、と静かに立ち上がる。
 青白い月光を受け、メレムの四肢が悉く透けていた。
「とんでもないものを飼っているな。リィゾ=バール・シュトラウト」
 低い声で呟く。
 そう。厳密に言うならば、あれに魔剣という呼称は相応しくない。何故なら――あの剣は、ソレそのものが、意思を持った一個の存在であるのだから。
「飼う? 違うぞ。悪魔使い」
 メレムの言葉を受け、奇怪な剣を手にリィゾは白い唇を歪に吊り上げた。
「飼われている。貴様の魔獣とは違い、コレを飼いならすことは誰にも出来ぬ」
 漆黒の刀身は畏怖を誘うようなおぞましさで蠢動し、その独つきりの眼球をぬめり、と一度動かした。



※   ※   ※



 くちゃくちゃと暗がりの中から聞こえてくる湿った音に、男はゆっくりと首を巡らせた。
 奥まった路地を見つめ、不機嫌そうに咥えた煙草を噛む。不満そうな顔で僅かに口を開いたが、結局、何も言わずにコンクリートの壁へと視線を戻した。
 気だるげな声で、独り言のように呟く。
「……ロブ。お前はいつも、調子に乗ると回りが見えなくなるよなぁ。そういうとこ、直さないといつか命取りになるぜ」
 ドブ川のように淀んだ空気を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくりと紫煙と共に吐き出す。スーツが汚れるのを気にする風もなく、男は、冷たいコンクリートの上に座り込み、ぼぅっとくちゃくちゃと断続的に響く音を聞いていた。さながら麻薬中毒者のように、だらりと四肢を投げ出し、林立するビルを胡乱な瞳で見上げている。
 空には薄氷のような白い三日月。夜明けが近いのだろう。藍色の空は今まさに、ゆっくりと白み始めている。
「チッ。おい、ロブ」
 コンクリートの壁に預けていた身体を起こすと、男は苛立たしげに咥えていたいた煙草のフィルターを吐き捨て、奥の暗がりを睨みつけた。
 路地の向こうからは、何の言葉も返ってこない。
「ロブ、聞いてんのか? オイ!」
 男が苛立ったように声を荒げる。すると、くちゃくちゃと路地裏から断続的に響いていた音が、止んだ。
「ちょっと待ってくれよ、兄貴ぃ。まだ残ってんだよ。これ食いきらねぇとよぉ」
 情けない声が返ってくる。続いて、
 ずるずる。
 ずるずると、柔らかいものを引きずるような音が近づいてきた――。
「だから言ったじゃねぇか。二人で止めとけって。お前はホント、人の話を聞いてねぇよなぁ。そう言うところ、結構イラつくぜ」
「聞いてる、聞いてるよ、兄貴。わかってるって。けど、しゃぁねぇじゃん」
 締りの無い声が響き、暗がりの中から若い男が現れる。ぼろぼろの服に、艶のない肌。明るい色の長髪を掻きあげながら、緩んだ白い顔を男に向ける。
「こんな上玉、そうお目にかかれるもんじゃないんだからよ」
 悪びれる様子もなくそう言って、無造作に掴んでいた肉片を放り投げる。鳥の手羽先のように折れ曲がった、若い女の下半身が男の目の前に力なく横たわった。
 その猟奇的というのはあまりにもおぞましい光景を前にして、しかし、男の顔に一切の動揺は見られない。それどころか男は、そんなものいい加減見飽きたというように瞳を細め、つまらなそうな顔で呟いた。
「何だ? ロブ。お前の食べ残しを俺に食えって言うのか?」
「だってよぉ。証拠が残るから全部食えって言ったのは兄貴だろ?
 ロブと呼ばれた若者が、恨めしげな顔をする。男は力なく肩を落とし、
「……まったく。お前は何百年経とうと、頭の方だけは良くならんな。こんだけ派手にやらかしておいて、今さら証拠も何もねぇだろうよ」
 心底呆れた、というようにロブの情けない顔を見つめた。
 どうやら、今日はここで一日を過ごすことになりそうだ。男は陰鬱気味に呟く。彼らは吸血鬼。太陽の下を自由に歩くことは出来ない。
「まぁ、それもいいか。いずれにせよ、俺たちにとって都会の死角だけが唯一の住み家なんだからな」
「なんか言ったか? 兄貴」
「なんでもねぇよ。――それより、ロブ。お前には一度忠告しておかないとな。人の話を聞かない馬鹿なお前でも、これだけはしっかりと脳みそに刻み付けておけ」
 男は、持っていた使い捨てライターで再び煙草に火をつける。ロブはバツの悪そうな顔で男を見つめた。
「なんだよ、兄貴。急にマジ顔になって。そんなことより早く」
「いいから聞け」
 男の苛立たしげな声に、ロブはしぶしぶといった様子で腰を下ろす。
 どこか落ち着かない様子で、近くに横たわる死体の足を掴むと、くいくいと動かしてみたりしている。
 そんなロブの様子に眉をしかめながらも、男はゆっくりと口を開いた。
「お前が誰を襲おうと、一向に構わん。阻むものがあれば全力で蹴散らせ。俺たちには、それだけの力があるんだからな。……だが」
 一度考え込むように言葉を切ると、深く紫煙を吸い込み、
「代行者にだけは気をつけろ。奴らに出遭ったら、作戦を無視して逃げてしまって構わない」
 そう一言、触れれば壊れてしまいそうな慎重さで言った。
「へ?」
 ロブは目を丸くする。男の言っている意味を計りかねているようだ。
「ちょっと待ってくれ。それは、兄貴の計画を無視していいってことか? それじゃ、残された兄貴はどうなるんだよ?」
「そこはお互い様だ。逆の状況なら、俺がそうさせてもらう。下手な連携など意味がないからな」
 どこか冷たい口調で男は言った。
 沈黙が下りる。やがて、
「……ふぅん。ま、いいけどよ」
 と、ロブが呟いた。しかし言葉とは裏腹に、その顔はどうにも納得がいっていない様子である。
 落ち着きのない所作で立ち上がると、爪を立て、ぼさぼさの髪をぐしゃぐしゃと掻きまわした。
「なぁ、兄貴はことあるごとに代行者、代行者っていうけどよ。そいつって本当に強いの? 吸血鬼殺しのエキスパートだって話だけど、実際のところ前評判だけで、大したこと無いんじゃねぇの?」
 疑わしげな目を向けてくる弟分に、男は力なく笑う。
「お前は何も知らないから、そんな言葉が吐けるんだ」
 実際、ロブは未だ代行者というものに遭った事が無かった。
「じゃあ、兄貴は知ってるのかよ?」
 拗ねるたようにロブが尋ねる。男は固い表情のままゆっくりと口を開いた。
「昔、戦ったことがある。女の代行者だ」
 ひゅぅ、と細い口笛が響いた。
「すげぇじゃん! さすがヴォロゾフの兄貴! で、どうだったんだよ? 殺したのか?」
 期待を含んだ歓声に、男は軽く両手を挙げると、まさか、とゆっくりと首を振ってみせた。
「逃げるので精一杯だったよ。それも、いくつもの幸運が重なって掴めた、みっともない逃走だった。だが」
 それでも、あの女から逃げ切れたことは、信じてもいない神様なんてものに感謝したくなるくらい嬉しかった。そう、男は呟いた。
 ごくり、とロブの喉が鳴る。僅かな沈黙の後、はははは、と乾いた声が路地裏に響き渡った。
「ビビらせないでくれよ。どんだけ化け物なんだよ、その女」
「見た目は普通の女さ。蒼い眼をした、そこいらのパン屋で働いてそうな、どこにでもいる娘だよ。だがな、あれは出鱈目だ。百回やったって勝てる気がしねぇ」
 男は指を組み、その手を口元に寄せると、じっと暗がりを見つめた。
「何百という剣を、矢のように打ち出してくる女だ。恐ろしく素早い身のこなしと、化け物のようなスタミナを持っている。俺たちにとっては死神みたいなもんだよ。いいか、覚えておけよ。身体に紋様が入っていてな。それが青白くぼうっと闇の中に浮かぶんだ」
 男は地面に広がる血溜まりに指先を浸した。
『今思い出しても身震いがする』
 そう言いいながら、コンクリートの壁に幾何学的な模様といくつかの記号を書き連ねる。
「それが、その紋様か?」
「そうだ。天使の羽と、真ん中に数字の『七』が描かれている。いいか、ロブ。これだけは覚えておけ。もし。もし万が一、背中にこの紋様が刻印された女に出くわすようなことがあったら――」


 刃向うことなど考えず、迷わず逃げろ――。


「ヒヒ。なんだよ、こりゃぁ。兄貴、こりゃなんの冗談だ?」
 引きつったような声が喉から漏れた。
 ロブの視線はただ一点、代行者の破れたカソックに注がれている。

 ――最初に仕掛けたのはロブだった。
 無数の蔦を総動員させ、立ちはだかる代行者を串刺しに貫かんと挑んだ。何者の追随をも許さず、またどれほど強固な武装であろうと容易く貫いてきた魔の蔦。しかし、女はそれらを紙一重で交わしていく。
 ロブはただ歯を食いしばり、蔦を奔らせることしか出来ない。
 彼が頼りにしていた自信という名の妄信が、音を立てて崩れていく。
 ちくしょう、
 乾いた唇から白い息が漏れた。
 ちくしょう、ちくしょう、エミヤはもう目の前だっていうのに……!
「畜生ッ!」
 ロブの臓腑が大きく脈打ち、蔦に流れる魔力が一瞬だけ増す。
 その瞬間、這うように奔っていた蔦に変化が起きた。一本の触手が奇跡的に代行者の細い肩を掠める。回り込むように駆けていた代行者は体勢を崩し、もんどりを打って倒れた。
「……っ」
 それは、代行者からしてみれば何てことのない傷だった。急所はもちろん外れていたし、それどころかその傷は擦過傷といっても良いような浅い傷だった。ロブも一目でそれが解った。
 しかし――。
「もらった――!」
 ロブの顔が喜悦に染まる。チャンスは一度で十分。これぞ好機、とばかりに奔らせた触手が、赤く染まった光の中を走り――。
 突如、ロブは放心状態に陥った。
 走らせた蔦が、代行者の足元の石床に突き刺さる。
「あ、あれは、あの時の……!」
 掠れたような声が夜気に溶ける。震える指が、一点を指した――。
 背中を向け、立ち上がる代行者。蔦が肩を掠めた際に破れたカソック……その下に覗くのは、いつかドブ臭い路地裏で見た、青白い紋様パターン
「ほう?」
ロブの視線が意味するものを悟って、振り返ったシエルは驚いた、と眉尻を上げた。
「このペイントに見覚えがあるのですか? 可笑しいですね。取り逃がした死徒の顔は忘れるはずがないんですが」
「――ヒッ」
 我を取り戻したロブが蔦を走らせる――が、既に遅い。
 黒鍵を構え、一息に跳び上がった代行者は、易々とその蔦を交わした。代行者が一瞬前まで居た位置に、鋼鉄の硬度を持った幾本もの蔓が突き刺さる。
「それとも、仲間の死徒から聞きましたか。埋葬期間第七位、弓のシエルの名を」
 ふわりと空中に舞い上がった女の肢体が、弓のように撓む。蒼い瞳が、眼下のロブを捕らえた。
 矢のように打ち出される刃の雨。それらは無数の蔦に突き刺さると、鮮やかな色彩の炎を散らして煌々と燃え上がる。
 耳を劈く金切り声。慟哭の叫びを上げる化け物を、地面に降り立った神の使徒は昏い眼差しで見つめる。
「すぐに済みます。心配はいりません。今さら貴方に懺悔をさせようとは思いませんから」
 黒鍵を爪のように構え、硬質なブーツの音を響かせながら、淀みの無い歩調で近づく。その姿は、どちらが獲物でどちらが狩人でなのかを何よりも雄弁に語っていた。
「――、クソ」
 迫り来る狩人代行者獲物ロブはただ目で追うことしか出来ない。蒼くなった唇から、細い声が漏れる。
「何だよ。何なんだよ……」

 何だよ、これ。これだけの対価に払っても、まだ敵わないのかよ。
 もう俺には差し出すものなんて残ってねぇのに。

 ――なぁ、兄貴。俺はどうすりゃいい?





「諸君!」
 薄暗い大広前の壇上で、男はさながら民衆に演説する革命家のように、高々と拳を振り上げた。
「姫君との契約の儀式は滞りなく完了した。これで諸君らは身に余る強大な力を手に入れたわけだ。次は、諸君らが責務を――」
 神妙な面持ちの五人の男女は跪き、男の言葉を身じろぎ一つせずに聞いている。男の機嫌を損ねてはならない、と誰もが一様に息を殺していた。
 壇上で演説している男は、彼らのような若輩者には会話をすることも恐れ多い大吸血鬼。その強大な力は、こうしている間にもぴりぴりと重圧とした重圧となって伝わってくる。
 短くない時が過ぎ、ひとしきり思いの丈を語りつくすと、男は満足げに大きく一つ頷いた。そして、
「――さて。話は以上だが、諸君。最後に一つ、提案がある。これは私個人からのものなのだが……」
 目の前で跪く配下たちを傲岸な態度で見下ろしたまま、囁くような声で言う。
 その呟きには、それまでの嵐のような演説とはうって変わり、どこか甘い響きが溶け込んでいた。
 跪く者たちは、その不吉な響きに一様に身を固くする。
 階級意識の強いこの男が自分たちのような下の者に媚びるような声色を使うことなど、通常ならあり得ないことだった。彼らには豹変した男の声が、恐ろしい何かが起こる前触れであるように思えた。
 男の白手袋が揺れ、大きな両手から乾いた音が響く。すると、部屋の隅の暗がりから、花瓶のようなものを抱えた数人の若い女が恭しい態度で進み出た。
 頭を垂れていた者たちが一斉に顔を上げる。
 それは、小さな花瓶のようなものだった。
 人間の頭部ほどの大きさの陶器には、樹木の代わりに金属の黒い十字架が刺さっており、その表面には頼りない細い蔓が巻き付いている。
 跪いた男たちは互いに目配せを交わすも、それが何を意味しているのか解らない。
 壇上の男は女たちから花瓶を受け取ると、跪く五人へと、ずい、と両手を突き出した。
「この苗木は、とある神樹から接木して私が育てているもので、『吸血鬼の木』という」
「――吸血鬼の木、ですか?」
 跪く男の一人が、繰り返して言った。
「そうだ。この苗木には変わった特性があってな。そう、端的に言ってしまえば――これを身体に植えつけた者は、他者を圧倒する強大な力を手にすることが出来る」
 強大な力、という言葉に、いくつかの者が反応した。壇上の男が持つ、ある種のカリスマ性は、それらの言葉に異常なまでの説得力を与え、跪く者たちの心に楔のように深く突き刺さった。
「これを植え付ければ、教会の代行者を退けるなど容易いことだろう。……どうだ。試してみたい者はいないか?」
 男の眼が怪しく光る。
 我こそが! と俯く男女のうち数人が名乗りを上げようと口を開き――それらを遮るように、一人の男が声を上げた。
「白騎士様。何故、私たちに同意を求めるのですか? 私たちはそもそも、強大な力を求めてこの場に集ったのです。力を得ることが出来るのであれば是非はありません。ただ『受け入れろ』と命じてくださればよろしいでしょう」
 黒の姫君より『束縛の魔眼』と呼ばれる能力を与えられたその男は、僅かに頭を上げて、壇上の男を見上げた。
「そうだな。ヴォロゾフ。お前の疑問はもっともだ。私がお前たちにこれを植え付けろと命じるのは容易い。しかし、この苗木の力を得るか否かは、自ら選択し、決断しなければ意味がないのだ」
 壇上の男――死徒二十七祖上位に名を連ねる大吸血鬼、フィナ=ヴラド・スヴェルテンは忌々しげに顔を顰めた。
「何らかの、リスクがあるのですね?」
「無論だ。この世界に対価を必要としない恩恵などありはしない。君たちも、つい先ほど身をもって体験したばかりだろう?」
 にやり、と粗野な笑みを浮かべると、一同を見回すように首を巡らせる。配下の者たちは皆一様に顔を伏せた。
「これを植えつけるということは、この木に寄生されるということだ。大樹に巻きつくヤドリギの木を想像してくれればいい。枝木は、寄生主の養分……血液を必要とし、時間とともに、全身にその蔓を伸ばしていく」
 白い手袋を嵌めた男の指先が、漆黒の十字架に巻き付いた蔦に撫でるように触れた。根元から先端へとゆっくりと指を這わせていく。
「初めに、手。次に、足、内臓、心臓。この辺りで、寄生されている者は通常の生き物ではなくなる。『吸血鬼の木』そのものになる、と言ってもいい」
 ゆっくりと舐めるように伝っていく指先。それはやがて、絡まる蔓の先端へと辿り着く。
「で、最後が頭だ。そうなると、宿主の方はもう何も考えられなくなる。ただの樹木と化すのだ。強大な力を与える代わりに寄生主の養分を吸い尽くし、自らの眷族に引き入れる。それが、この『吸血鬼の木』の特性だ」
 その言葉が意味するところを想像し、跪く者たちは身を固くする。誰もが先ほどまで進んで名乗りを上げようとしていた自分の迂闊さを悔いた。
「ふむ」
 ヴラドの眉が怪訝そうに寄る。
 配下たちの反応の悪さを見て取ると、ヴラドは口調を一転、穏やかなものへと切り替えた。
「だが、心配は要らない。要するに、普段はこの木の力を使わなければ良いのだ。身の危険が迫ったとき、ほんの一瞬だけ力を使えばいい」
 その言葉も、膝まづく者たちには今はどこか寒々しく聞こえる。
「この苗木を宿らせれば、凄まじい力を得ることが出来る。長い生の中で生命の危機を感じる場面に遭遇するのは、そうあることではない。長い時を生き延びるには、その場面をいかにして乗り越えるかが重要であると言ってもいいだろう……。これは極めて破格な好条件だぞ。どうだ。試してみたい者はいないか?」
 ヴラドが語りかけるも、跪く者たちは誰一人として顔を上げようとはしない。
「どうだ、ヴォロゾフ。貴様、試してみないか?」
「は……、申し訳ありませんが、遠慮させていただきたく思います。そのような力、私などには過ぎたもの。扱いきる自信がありませぬゆえ」
 ヴォロゾフは、慎重に言葉を選びながら答えた。自分の身体にそんな訳の解らないものを植えつけられるなど、まっぴら御免だった。
「……ふん。なんだ、腰抜けめ」
「申し訳ありません」
 沈黙が降りる。しかし、それも当然のことだろう、とヴォロゾフは思う。彼らは、既に力を得た。これ以上のものを、自分の命というリスクを負ってまで手に入れようなどと、誰が思うだろう。
 このまま自ら名乗り出る者はいないだろう――。
 跪く誰もがそう思ったその時、
「俺が、やります。やらせてください」
 一人の男が、すっくと手を挙げた。
「ほう。思い切りがいいな。……ロブ」
 顔を上げた配下の男を見下ろし、ヴラドは顔いっぱいに含みのある笑みを浮かべた。



 黒い森の奥に佇むその古城には、漆黒の名を冠する死者の姫が棲むという。

 城は沈黙こそ美徳というように闇に沈み、近くの森からは獣の雄叫びが細く長く響いていた。中世の趣を持つその古城は、まるで歴史の中に取り残されてしまったかのように静寂の中に聳えている。うらびれた古城には王国が歩んだ繁栄と衰退の歴史が色濃く残されていた。
 その古城の二階、バルコニーに沿って伸びる回廊を、四人の男と一人の女が歩いていく。
 どこか落ち着きが無い若者たちだった。きょろきょろと辺りを見渡しながら、しかし迷いのない足取りで暗闇の中を進んでいく。
 明かりの付かないシャンデリアは豪華ではあるが、どこか物悲しい。
 幾らうらびれているといっても、そこは王族の住む城。豪奢な装飾の施された回廊は長く、真紅の絨毯には汚れ一つ見出せなかった。
 彼らに与えられた部屋は、玉座から一番離れた何もない空間だ。窓もなく、湿った空気がいつも滞っている路地裏のようなその部屋は、この城に仕えている給仕達のそれよりも劣悪だった。
「調子はどうなんだ? ロブ」
 不意に、一人の男が口を開いた。
「何か身体に違和感は無いのか?」
 別の男がそれに加わる。彼らは今まさに姫君との契約を終え、玉座から出てきたばかりである。
 皆の視線が集まる。しかし、ロブは何も応えない。その表情はどこか虚ろだ。“白騎士”フィナ=ヴラド・スヴェルテンの申し出を受けてから、どうにも様子がおかしい。
「これが力を得た奴の姿かねぇ……」
 白痴のように呆けるロブを見て、最初に口を開いた男――目つきがやけに鋭い少年は、見た目に似合わぬ大人びた仕草で首をかしげた。
「……あの旦那に担がれたんじゃねぇのか?」
 ぼそり、と後から口を開いた男が、ナイフを弄びながら呟く。
 その言葉に、周りの者たちの顔に僅かに緊張が走った。彼らは、自分たちが使い捨ての駒に過ぎないということを理解している。モルモットのような扱いをされたとしても、文句は言えないのだと。
「おい、ロブ。どうした? 何かおかしなところでもあるのか?」
 足取りも定まらぬただならぬロブの様子に、横を歩いていた男――ヴォロゾフが口を開いた。そこでようやくロブは、はっとしたように顔を上げた。
「『吸血鬼の木』とやらの力を感じるか? それとも、白騎士の言葉は嘘だったのか?」
 ニヤニヤという含み笑いを浮かべた少年が、覗き込むようにロブの瞳を見つめた。
「ああ、いや、別に……」
 ロブは曖昧に返事を返し、自身の両掌へと視線を落とした。そして、虚ろな声でぼそぼそと何やら呟き始めた。
「なんつーか、その……違和感は無ぇよ。おかしな所は一つもない。一つも無いが……。だが、こいつは本物だ。ペテンなんかじゃねぇ。何かが俺の身体に棲んでいる」
 自身の体に埋め込まれた苗木の存在を感じているのだろうか。ロブは手の平をじっと見つめている。吸血鬼たちは怪訝そうに目を細め、虚ろなロブの表情を伺った。
(嘘、っていうわけじゃなさそうだな)
 見慣れたはずの目に浮かんだ、底知れぬ気配を感じ取ってヴォロドフは一人、ロブからそっと目をそらした。
(長くこいつと一緒に居た俺だから、判る。今、ロブの身体に潜んでいるのは、正真正銘の化け物だ。理性の無い、冷酷な生物)
「ひひ。そうかねえ? 気配とかは全然変わりないんだがなぁ」
 ナイフを弄ぶ男が首を傾げる、当のロブは自分のその感覚を巧く説明出来ないのか、どこか呆っとした顔で、何度も手のひらを開いたり閉じたりしている。
 僅かな沈黙が下りる。すると、それまで黙っていた女がぽつり、と呟いた。
「――そういえば、聞きたかったんだけど」
 煙草をくゆらせながら、囁くような声で言う。
「あんた、どうしてあんな胡散臭い申し出を受けたのよ? 力を使ったら、死んじゃうのかもしれないのよ? それじゃあ、わざわざ黒の姫君と契約した意味がないじゃない」
 これまで多くの人間を殺してきた女の声には、同情や憐憫などという感情は浮かんでいない。ただ不思議そうに尋ねてくる。
 ロブは思案気に首を傾げ、
「ヴォロドフの兄貴は頭がいいけどよ、俺は馬鹿だから。力も弱い俺には、これくらいしか出来ないし」
 難しい顔で、しかし淀みなく答えた。話をしているうちに元の調子を取り戻したのだろうか。ロブの顔に生気が戻っていく。
「使わなければ問題は無いって言うんだ。どのみち、死んじまったらそこでお仕舞いなんだし、切り札を用意しておくに越したことは無いだろ」
 正直、あの決断には理由らしい理由が無かった。
 ただ、強くなれる力をくれるといったから、それを頂戴したまで。ロブには、女が何を恐れているのかよく解らない。
「まぁ、そうかもしれないけどさ。あんた、怖くないのかい? 死ぬことが」
「怖ぇですよ、そりゃ! 死んだら楽しいこと何にも出来ないし! だからこうしてここまで来たんじゃねぇか」
「そうかねぇ。そうは思えないけれど。私なんて、もともと死ぬのが嫌であのお姫様と契約した口だし。リスクは最小限に留めたいわ」
 女がどこか不機嫌そうに呟く。その言葉に、ナイフを弄んでいた男が僅かに反応した。
「はは。死にたくない、か」
「何よ、文句あるの?」
 ぎろり、と女の目が男の背中を貫く。男は気にした風もなく、手の中のナイフを弄びながら陰鬱気味に嗤った。
「ひひひ。いや、俺も同じだよ。死んだら人殺せないし。人を殺すたびに教会の奴を相手にしてたら身が持たない」
「お前は快楽殺人者だったな」
 ぽつり、とヴォロドフが呟いた。
 喉の渇きを癒すために人を殺すという行為は彼には判るのだが、彼には『人を殺すために殺す』というその思考が、いまいち理解できなかった。
「実際、吸血鬼にはそう珍しくない趣向らしいが……」
「止めてよ、そういうの。安っぽくて仕方が無いわ。そういう下らないのはB級映画の中だけでたくさん」
 女が吐き捨てるように言う。それに対して、男はヒヒヒ、と高い笑い声を挙げた。女が嫌がるのを見て愉しんでいるのかもしれない。
「あんたは? ヴォロゾフ。あんたはどうして黒の姫君に契約を願ったのさ」
「俺か? 俺は力を得る為だよ。吸血種の領主として堂々と夜の街を歩けるようになるには、力が必要だからな」
 躊躇う様子もなく、言い切る。女は、頭がキレると評価していた男が発した子供のような夢に、思わず苦笑を漏らした。
「それはまた、気の遠くなる話ね」
「そのために永遠の命を得たんだ。この願いが叶うのなら、姫君の靴だって舐めてみせるさ」
 ギラギラと目を光らせて笑う。
 珍しい男だ、と女は思った。吸血鬼になったものは、こんなにも強い野望を持って生きたりはしない。特に自分たちのような才能に恵まれない下っ端は、いつも自分の命を繋ぐ方法だけを、鬱々と考えているものなのに。どこまで本気なのかは解らないが、吸血鬼らしくない、どこか人間くさい男である。
「そういうお前こそ、そんなに永い時を生きてどうする」
 今度はヴォロドフが女に訪ねた。
「そうねぇ。私は裏の世界になんて興味ないし、経済界のトップにでもなろうかしら。ヴァン=フェムみたいに! んで、男侍らして毎日豪遊三昧とか悪くないわねぇ」
 うっとりとした様子で言う。
「悪趣味だな」
「というより、低俗だ」
「ヒヒヒ」
「煩いわね。あんた達の方がよっぽど悪趣味よ。それで、あんたは? ロブ」
 女の細い指が、ニヤニヤと笑みを浮かべて様子を見ていたロブを指差す。常なら真っ先に頭の悪い夢を語りだしそうなものなのに、今日はやけに大人しいのが気になったのだ。もしかしたら、とんでもない野望を胸のうちに秘めているのかもしれない。
「あん? 俺か?」
 話を向けられると、ロブは表情を一転、戸惑ったように唇を尖らせた。
「お、俺は兄貴がそれがいいっていうんだから、それを信じるだけよ」
 沈黙が下りる。
 心底呆れた、というように女が顔を顰めた。
「……なんだよ? 何か文句あんのかよ」
「そうよね。それが無難だわ。あんた馬鹿っぽいし」
「なんだと、てめぇ!!」
 真紅の絨毯を力いっぱい踏みつけると、ロブは拳を握り締め、誇らしげに自分の胸元を差した。
「兄貴は、俺たちを虐げていた馬鹿な主人をぶっ殺して、自由をくれた! その時に、俺は命を兄貴に預けることを決めた」
「主人? あんたたち、もともと誰かの子飼いだったわけ?」
「おうよ。けど、あいつは腰抜けだった。ただひっそりと、ケチ臭く不味い血を啜って生きていく程度の器しかなかった。だから、兄貴が取って代わったのさ。お前は主の器じゃない、ってな」
「ヒヒヒ、ロブに器が小さい、なんて言われたその主人に同情するね」
「なんだと、どういう意味だテメェ! 何か悪口言ってるのはわかるんだぞコラァ!」
 ロブの手がナイフを弄ぶ男の襟首をつかみ、喉元を強引に締め上げた。男は愉しげにヒヒヒ、と不気味な声を挙げた。
「まぁ、境遇は私も似たようなものだけど。で、あんた自身はどうなのよ?」
 あ? とロブはナイフ男の襟首を締め上げたまま、不思議そうに女を見下ろした。女は相も変わらず不機嫌そうに、
「あんたの願いはなんなの、って聞いてるの」
 再度、尋ねた。
「あ? えーと、なんだ」
 ロブは、どこかぎくしゃくとした様子で、
「俺だけの、願い?」
 確認するように呟いた。
「俺だけの願い、ねぇ。 そうだなぁ。俺は好きなことをやっていてーな。自由に楽しく生きれりゃそれでいい」
「何いってんのよ。そんな願い、アルトルージュ・ブリュンスタッドじゃなくても叶えられるじゃない」
「ん? そうか?」
「自由を求めているのに、誰かの子飼いになるなんて矛盾してるわ」
 女は眼を吊り上げてロブを睨みつける。しかしロブは女が何にそんなに苛立っているのか、いまいちよく分からない。
「……チッ、理屈っぽい女だな。お前、男にもてなかったろ?」
 そんな憎まれ口を叩くのが精一杯だった。しかし、女はロブの言葉に逆上する様子も無く、淡々とした様子で続ける。
「それに、そこの男は吸血鬼の頂点に上り詰めるって言ってるのよ? それって適当で楽しいあんたが望む生き方とは、真逆にあると思うんだけれど」
「ああ、もう! いいんだよ! 俺は今までそうやって楽しく生きてきたんだ。これからも変わらねぇよ。なぁ、兄貴!」
 あー、もう止め止め! とロブは女から逃げるように顔を背け、後ろを歩くヴォロゾフを振り返った。
 女もまた、ロブの視線を追って首を巡らす。そこには苦笑を浮かべるヴォロゾフの姿があった。
「ふふふ。楽しく生きてきた、か」
 男を見つめる女の目が細まる。
 苦笑するヴォロゾフ。その口の端には、愉しくてたまらない、というような笑みが張り付いている。
 女は理解した。
(この二人、性格は間逆なようだけど、根本的なところでは同じなんだ)
「そうだろ? 兄貴」
「ふん。そうだな。ロブ。一緒に面白おかしく、頂点まで上り詰めようぜ。なぁ、」


 兄弟――。


 だけど、兄貴。あんたは死んじまった。エミヤシロウっつー糞野郎に殺されちまった。
 ……なぁ、俺はどうすりゃいいんだ? どうすりゃまた、面白楽しく生きられるんだ? 








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