深い森の向こうで、ケミの町並みが篝火のように燃えている。北欧フィンランドの地方都市が死都と化してから、既に六時間。町には生きている人間よりも、死徒と呼ばれる異形の方が圧倒的に多いという有様だ。今まさに、神が定めた唯一絶対の法理が異端の蛮族によって踏みにじられようとしている。 『死人の街』。 それが、今のケミを表すに最も相応しい言葉だった。地獄などという抽象的な言葉では片づけることのできない混沌と暴力と無秩序が、思わず目を逸らしたくなるほどの現実感をもって存在している。 その状況を知りながら――。しかしシエルはそれら有象無象、全てに背を向けて、ただひたすら森の中を走り続ける。豹のようなしなやかさで、夜闇に沈む森をじっと睨みつけて。その瞳に映るのは煉獄の炎。彼女がいつか見た、この地と同じく死都と化した、ある街の景色。自らが犯した、逃れようのない罪の記憶である。 「少しペースが落ちてるよ。呼吸も乱れてる。君らしくないね、何をそんなに動揺してるんだい? シエル」 小柄な体躯の少年が、シエルの目を覗き込むようにして見上げた。少年は涼しげな顔に微かな笑みを浮かべ、小さく首を傾げるようにシエルを見上げる。その姿は、天使のような、と言う比喩が実によく似合う。 だが、シエルはその天使の笑顔を前に怪訝そうに眉を顰め、静かな瞳で少年を見下ろした。無理もない。彼女の反応は至極当然であるとさえ言える。 少年は全力で駆けるシエルと並走し森を駆けているのだ。それも、呼吸一つ乱さずに、身体の重みを感じさせない身軽さで。それはシエルが頼りにする常識を揺るがす事柄だった。 シエルが豹なら、彼は鳥か。囀る余裕さえ見せながら、跳ぶように夜の森を飛翔していく。少年と仕事をするたびに、シエルは地面がぐらりと傾いでいくような感覚に襲われる。 酷く現実味を欠いた光景を前に、シエルは無表情に少年を見つめる。 言うまでもなく、少年の名はメレム・ソロモン。埋葬機関第五位に名を連ねる、全力のシエルと並んで走ることの出来る数少ない機関員の一人である。 「騎士団はもう街の浄化作業に移っているんだ。何も憂う事なんてないでしょ?」 軽やかな声音で、歌うように少年は言った。シエルはその目から逃げるように、じっと、前方に広がる森の奥を睨みつける。 「憂いなどありませんよ。ただ、少し感傷的になっていただけです」 「だったら気持ちを切り替えた方がいい。せっかくの戦争だ。楽しまなきゃ損だよ」 角度を変えて、なお顔を覗き込もうとする少年を、シエルは陰鬱な表情で一瞥する。 「この状況でも、貴方は何も変わらないんですね。メレム。この奥に居並ぶのが何者かなんて、貴方はとっくに気付いているでしょうに」 「そりゃ、もちろん。だから愉しみなんじゃないか。こんなもの、なかなか見れるものじゃないよ? シエル、君は本当に運がいい!」 森の中を軽快に飛び回りながら、少年は歌い上げるように言う。 「――祭りが始まるよ。とびきりの異端者によるパレードだ。誰も彼も参加して、肉の一片さえも残さず殺し合おうじゃないか」 そら恐ろしいほどの笑顔を口元に張り付け、少年は目を細める。そこにはありありと狂気の色が浮かんでいた。ここまで狂気を剥き出し笑う同僚の姿を、シエルは知らない。 「……」 メレムは本気だ。彼は全力で、障害となるモノを皆殺しにしようとしている。 その狂気を、シエルは少しだけ……。本当に僅かだが、羨ましいと思った。 思って、しまった。 「……そんなモノを楽しみにしているのは、貴方ぐらいのものです」 「またまた。嘘ついたって駄目だよ? 僕にはわかるんだから。君が本当はこの戦争を心待ちにしてたんだ、ってことは」 「人をからかうのもいい加減にしてください。人を困らせて喜ぼうという、貴方の魂胆は見え見えです」 「あはは、わかる?」 くすくすと、悪戯がバレた少年のように笑う。その姿を、シエルは難しい顔で見つめていた。 ――まるで、本物の悪魔みたい。 思わず呟く。そもそも、こんなモノを相手にすること事態が酷く馬鹿らしい事のように思えてくる。彼らのようなモノは、真っ当な神経で付き合うべきではない。 しかし――。 (どうして、私は……) 一瞬とはいえ、そんな彼を羨ましいと感じてしまったのか。自分もまた、狂気の中に居られれば、苦しまずに済むとでも思ったのか? (いや、違う。そうではない) 老獪さと単純さ、子供のような笑顔と逸脱者の狂気。この同僚は、それらが矛盾せずに同居している。そこに、偽りという色は存在しない。彼は自然体としてそのようにある。きっとシエルは、そこを羨ましいと感じてしまったのだ。他者を偽り、自分さえも偽り続ける自分とは違い、それはとても奇麗なもののように思えたから。 「偽りのない本心なんて、もう私の中には見つからないから」 「ん? 何か言った?」 「いえ……。そうですね」 だから少し、自分に対して素直でありたい。そう思った。 「不謹慎ではありますが。あなたの言うとおり、今回の出来事を心待ちにしていたと言う気持ちも、確かに私の中にあります」 さらり、と言ってのける。思いもしなかった言葉に、メレムは目を丸くしてシエルの顔を見つめた。 「はは、本気で言ってる?」 「もちろんです。……今回は、面白いように第八秘蹟会から聖遺物の持ち出し許可がおりましたからね。不謹慎ではありますが、これらを惜しみなく使えるというのは正直、楽しみと言えない事もない」 強張っていたシエルの顔に、薄い笑みが浮かぶ。メレムはその表情を見て、手を叩いて子供のように喜んだ。 「そうかい、そうかい! それは君もすっかり機関(僕ら)の色に染まって……。ん? 」 蒼い瞳の中を覗き込んだメレムだったが、その笑顔に影が差す。 「いや、そういう様子でもないか。君の瞳には濁りが足りない」 残念そうに言った。 「もちろんです。どんなことがあろうとも、アレに馴染むことは未来永劫有りません」 そこだけは元の不機嫌さでぴしゃりと言い捨てて、シエルは再び前方を注視する。メレムは小さく肩を竦めると、歪な笑顔を浮かべた。 「まぁ、シエルはそれでいいのかもしれないね。見てる分には楽しいし。僕は聖杯が他の誰かの手に渡るのを阻止してくれれば、どういう風に君があろうとも、何も文句は言わないよ」 「ほう。随分弱気ですね。てっきり敵とみなしたものは全て排除するぐらいの気概でいるものと思っていたんですが」 シエルの言葉に、メレムは肩をすくめる。 「別に。僕はそこまで仕事熱心じゃないよ」 「そうですか。敵の戦力を考えると妥当な判断だとは思いますが……」 「そういうわけじゃないんだけどね。とにかく、この戦いに負けるようなことはあっちゃいけないんだ。――何せ、もし僕たちがしくじったりしたら、ナルバレックは自らが前線に立つ、と言っているんだからね」 その言葉に、シエルは前方を注視することも忘れ、じっと少年の顔を見つめた。 「局長が、ですか?」 「あの女は法王庁に拘束しておかなくちゃいけない。もし、プロテスタントの領土まで出張ってくるようなことがあれば――」 そう言って、少年――メレム・ソロモンは忌々しげに顔を歪めた。その声は、いつも気楽な調子を崩さない彼らしくも無く、陰鬱な色を含んでいる。 「そうなったら一大事だ。それこそ、みんなみんな滅茶苦茶になる」 老獪な魔術師のように神経質そうに眉根を寄せ、呟く。 その様子に、シエルは微かな違和感を抱いた。どうして局長が出てくるくらいで、そこまで神経質になる必要があるのだろうか。 「……随分、局長が出てくるのを嫌がりますね。気持ちはわかりますし、私も出来ることならそうならないことを願いますが、今回のようなケースはある意味、彼女が適任でしょう? 何せ目標は"聖杯"です。真偽にかかわらず、 「まあ、そうだけどさ」 気の無い返事。その何気ない一言が、シエルの脳裏に長い事わだかまっていた靄を払い、その奥に隠された像を浮き彫りにした。 「メレム、一つ確認しておきたいことがあります」 「なに?」 ゆっくりと息を吐き、尋ねる。吐いた息の熱さに反して、その声はどこか冷めた響きを持っていた。 「この先で死徒と戦っているのは、真祖の姫――アルクェイド・ブリュンスタッドですね?」 否定を許さない強さで、メレムを見下ろす。 二人の間に、冷たい沈黙が降りる。メレムはどこか落ち着かない様子で、 「へぇ、そうなの? 知らなかったなぁ」 「恍けないでください」 「どうしてさ? 大体、そんなこと聞かれても、僕にわかるわけ……」 「……」 「わ、わかったよ、そんな顔で見ないでよ。――本当、彼らのこととなると、君は途端に大人気なくなる」 忍耐強い同僚が不意に覗かせた黒い感情に、メレムは悪戯がバレた子供の様な、邪気の無い笑顔を浮かべた。どうにも憎めないその笑顔に、シエルの発する剣呑な空気が僅かに和らぐ。 「それでは、やはり」 「そうだよ。君の考えている通り。ゴメンね、折角正解したのに、商品の一つも用意できなくて」 どこか自棄になったような口調で、メレムが口を尖らせる。 その返答に、シエルは、やはり、と小さく呟いた。 (それなら納得がいく。確かにここで局長が出てくれば、アルクェイド・ブリュンスタッドは不利な状況になる) 下手をすれば、死徒側と教会側の挟み撃ちにもなりかねない。だから、メレムは局長が出てくるのを何としても阻止したかったのだ。 「……いつから気付いてたのさ?」 「貴方がこの戦いに積極的に関わっていると聞いたときから、うすうす想像はしていましたよ。ただ、その段階ではただの妄想でしか無かった。一つの可能性として考えるようになったのは、広場にあった黄金のピラミッドを見たときですね」 シエルはケミの町の真ん中に造られた町の景観に合わない、あの悪趣味な建造物を思い浮かべた。 口元に、微かな笑みが浮かぶ。そこには何かを懐かしむような、そんな色さえ見て取れる。 アルクェイド・ブリュンスタッド。 シエルは、彼女のことが決して好きではなかった。だがこれまでに直接的であれ間接的であれ、多くの人々の命が彼女の手によって救われていることは、紛れもない事実だ。その点に関しては、シエルは彼女のことを評価している。 それに。 彼女が来ているという事は、もしかしたら、その護衛である彼も――。 「あんな大雑把で悪趣味なものを作るのは、あの吸血姫しかいませんから」 自然と口元が緩んでいく。その表情を見られたくなくて、シエルはそっとメレムから目を逸らした。 「悪趣味? どこがさ。綺麗だったじゃない、キラキラしてさ」 どこか不貞腐れたような声。思わず振り返ると、そこには口を尖らせ、不満げな瞳を向ける少年の姿がある。 「メレム……」 「なに?」 「顔が真っ赤ですよ」 「……」 朱に染まった顔を前に向けたままの同僚の姿に、シエルは呆れた、というように苦笑した。 恋は盲目と言うが、彼は重症だ。いくら心酔しているからとはいえ、黄金のピラミッドなんて悪趣味なモノに心から賞賛を送れるのは、彼くらいのものではないだろうか? これでは秘法コレクターの異名も型なしである。 「な、何笑ってるのさ。感じ悪いな!」 「いえ、すいません。何だか微笑ましくて」 思わず噴出したシエルの歩調が乱れる。 そうしてシエルが数時間ぶりに張っていた緊張の糸を緩め、少年が不貞腐れたようにシエルを見上げた、その時――。異変は起こった。 「!」 突如大地が震え、森の中を引き裂くような轟音が駆け抜ける。隕石が降ってきたのではないかというような、重たい衝撃。 黒々と茂った木々が細波のように揺れる。地響きは数秒間鳴り続け、やがて波が引くように消えていった。 シエルの顔から緩やかな感情の色が消え去る。 「……急ぎましょう」 「そうだね。祭りに出遅れたとあっちゃコトだ」 少年は愉しげな笑みを浮かべる。 互いに頷き合うと、二人は駆ける足に力を篭めた。 二つの影は、あっという間に色濃い闇の中に飲み込まれていく。 無数の梢が奏でる音が、寄せては返す波のような清かな音色を奏でる。それは深い海原の底へ引きづり込もうと企む悪魔の囁きとなって、シエルの耳朶に重く液体のように流れ込んだ。 未だ見ぬ戦場から響く地鳴りが、森の中を木霊となって反響している。 カチャリ、 硬質な金属音を響かせ、突然の闖入者は背後の士郎を庇うように前へと進み出た。 「何故、お前が――」 横たわる士郎の口から疑問の声が漏れる。呆けたように、ただ目の前の女を見上げる。 「――いや」 しかし、それも一瞬。すぐに我に返ると、緩やかにその逞しい首を振り嘆息した。 「そうだったな。この件を追っているのは、埋葬機関も同じ」 「無駄口を叩いている時間はありませんよ。エミヤシロウ」 指の間に挟んだ、黒鍵と呼ばれる細剣を携え、代行者は士郎を冷たい瞳で見下ろした。 「時は一刻を争います。早く白騎士を倒さなければ、地上の人々があの化け物の生贄に捧げられてしまう」 淡々と女が言う。士郎は思わず目を見開き、冷たい女の顔を見つめた。 この領域に足を踏み入れてから、時間にして僅か数十秒。だというのに、女は既にこの召還陣の仕組みを見抜いている。それも、士郎のような半端者などよりも、ずっと核心に近いところまで、深く。 士郎は思い出す。彼女が教会の中でも稀有な、魔術に精通した代行者であるということを。 「……さすがだな。しかし、どういうことだ? 止めるのは白騎士ではなく、この森だろう。あの男を倒しても儀式は止められないぞ」 「そんなことはありませんよ。この森に棲む神を繋ぎとめている基点は、あの白騎士の横にある石柱です。あれさえ破壊すれば、儀式そのものは、一先ず止めることが出来る」 「なんだと? 話が違うぞ……!」 思わず唸る。 殺人貴は確かに、森そのものを止めなければ儀式は止められない、と断言していた。しかし、目の前の女はヴラドの背後に立つ石柱を破壊すれば儀式は止められると言う。 (ヤツの見立てが間違っていたということか? 「死の線」を辿っただけでは、あの魔術の仕組みを見抜けなかったと? そんなことがあるものか。あの男の眼の精度は俺もよく知っている) そんなはずはない、と女の言葉を否定する。 しかし――。 士郎は考え直す。今、目の前に居るこの女は魔術のエキスパートだ。代行者ながら、士郎の様な魔術使いとは比較にならないほどの知識と実績を有している。 そして短い付き合いながら……。士郎は、彼女が信用に足る人物であると確信に近い思いを抱いていた。 「……石柱を破壊すれば、儀式は止められんだな?」 「ええ。貴方の能力が必要です。――立てますね?」 頷き、ゆっくりと立ち上がる。 身体に巻きついていた蔦は、投影した短剣で既に切り払ってある。 ――今は、この女の言うことを信じよう。先ずは、この儀式を止めなければ。 「まったく。何が後方支援だ。ここが 愚痴るように呟く。その声は、暗い喜びに濡れていた。 鷹の瞳が、真っすぐに空間の奥へと向けられる。空間の一番手前、士郎からそう遠くない場所では、炎に包まれたロブが未だに獣のような叫び声は上げて、のたうち回っている。 ――あれは浄化の炎。ただの炎とはわけが違う。今のロブにはそう簡単に消すことはできまい。 士郎はそこから更に奥へと視線を巡らせる。鷹の瞳は、儀式の基盤となる石柱を通り越し……、それを守るようにして立つ男の姿を捉えた。 フィナ=ヴラド・スヴェルテン。 獰猛に眇められた双眸が、士郎の視線と交錯する。圧倒的な存在感を周囲に撒き散らして、男は冷たく士郎を見下ろした。その足元には、血文字で描かれた巨大な魔方陣が広がっている。 この儀式の基点があの石柱だというのなら、あの魔方陣が儀式を起動させる演算装置だろう。そう士郎は推測する。女の言葉が正しいのだとしたら、あの魔法陣を殺人貴が『殺し』さえしていれば、この儀式を止めることが出来たことになるが、今はもう後の祭りだ。 「手痛いミスだな」 今になって、ヴラドが大人しく殺人貴を先に行かせた理由に思い至る。儀式の成功を優先させるなら、殺人貴はこの場に留めておくべきではない。 「俺は……、いや俺達は、あの『眼』を過信し過ぎていたのかもしれないな」 「無理もありません。このような邪法、私達の様な仕事をしていない限り、見ることはありませんから。あの魔術師が儀式の仕組みを見抜けなかったのも仕方の無いことでしょう」 慰めるように、だが淡々とした口調で女が言った。 あの魔術師、とは凛のことを言っているのだろう。女は殺人貴がここに居ることを知らない。士郎は女の誤りに気づいていたが、何も言おうとはしなかった。 「それに、実際に儀式を行うのはこの森そのものだという推論は当たっています。ただ、その森の魂とでも言うべきものを繋ぎとめているのが、あの石柱と魔方陣なのですが……。それより、」 一度言葉を切ると、シエルはロブへと凍えるような視線を向けた。あれほど激しくのた打ち回っていたというのに、今はもう動きを止めている。 身体を舐めるように走っていた炎はほぼ消えている。今は、身体と蔓の修復に力を使っているようだ。動けるようになるまで、そう時間はかからないだろう。 「この場は私に。あなたはあの召還陣を破壊してください」 「……ちょっと待って。代行者さん」 横合いから投げかけられた声に振り返ると、そこには苛立ちの混じった視線で代行者を睨む凛が、厳しい表情で立っていた。 「助けてくれたことはお礼を言うけれど、これは私達の敵よ。手を出さないで」 勝気な瞳が、真っ向から女の蒼い瞳を捉える。燃え盛る炎のような不吉な煌きを宿らせ、凛はシエルを睨みつける。 「私たちの敵、ですか?」 「そうよ。なにか文句ある?」 吊り上った凛の目が、女を射抜く。しかし、女は凛の瞳を真っ直ぐに見返した。 「ええ、ありますよ。お嬢さん」 そう言って、凛の眼前に顔を突き出した。 「"私達の敵"というなら、 「そんなの、私達には……!」 「それに、」 言い返そうと口を開いた凛を強い言葉で遮り、女は侮蔑の篭った笑みをその顔に浮かべた。その瞳は氷のように冷たい――。 「それに、魔術師のお嬢さん。息巻くのは結構ですがアレを倒す術が貴方達にあるのですか? 時は一刻を争うのですよ?」 いつの間に取り出したのか。鋭い黒鍵の切っ先が凛の鼻先に突きつけられる。 「……!」 女から発せられる威圧感に、思わず怯む。同時に、女の流れるような動作に全く反応できなかった自らの未熟さに、薄い唇を強く噛んだ。 「あの死徒を退け、白騎士が守る石柱を破壊するだけの算段は? それを可能にするだけの能力が、貴方にあるのですか?」 「そ、それは」 言いよどむ凛。それを横目で見つめながら、士郎は小さく嘆息する。 女の言う通りだ。凛と士郎では、勝算の見えない戦いとなることは明らか。それは、あまりにも確実性を欠いている。 「……でも、」 理論的には、女の言うことが正しい。それは凛自身、よく解っているはずだ。 しかし――。凛にはどうしても、あの死徒を倒さなければならない理由があった。 「それでも、私は……!」 大きく見開いた瞳が、戸惑うように揺れる。 女は呆れた、と言うように何度か首を振り、大きく息を吐き出した。ゆっくりと口を開くと、 「お嬢さん」 小さな子供に言い聞かせるように、言った。 「一つ忠告してあげましょう。つまらない感情で動いても、最終的には何も為せはしません。――何を優先するべきか見誤れば、全てを亡くすことになりますよ」 「な……!」 凛の顔が真っ赤に染まる。一線級の魔術師である凛にとって、戦場でまるで子供を躾けるような扱いを受けることは恥辱の極みだった。 「な、何よ! お嬢さん、お嬢さんって。馬鹿にしないで頂戴。あなただって、私と似たようなものじゃない……!」 拳を握り締めた凛が、思わず一歩を踏み出す。今にも飛び掛りそうな凛の様子に、士郎もまた身を乗り出し――。 「あら? 嬉しいことを言ってくれますねぇ。そんな風に見えますか?」 それまで厳しい表情を浮かべていた女の顔に、気の抜けたような笑顔が浮かんだ。 「へ?」 肩透かしを食らった凛の口から、間抜けな声が漏れる。 「それと、『あなた』ではありません。シエルと呼んでください。魔術師のお嬢さん」 「ば、馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!」 湯気が出そうなほどに顔を真っ赤に染めて、凛は悔しげに拳を握り締める。 「……やれやれ」 士郎は嘆息する。なんという手管だ。まるで凛が子ども扱いじゃないか。 「止めておけ、遠坂。言い争っても無意味だ。ムキになればなるほどその女の思う壺だぞ?」 「……っ! ああもう、わかったわよ!」 悔しそうに唇を歪めるも、女の言葉に従うように、凛はロブから視線を切り、背を向けた。 「……その代わり、あいつを逃がしたら承知しないわよ」 「それは任せてください。私も、アレを見逃す気はありませんから」 そう言って、代行者の女――シエルは、作ったような笑みを浮かべた。 その様子に、士郎は苦笑する。凛の気持ちはよく理解できる。しかし、今はシエルの言葉が正論だ。 最も優先するべきは人命なのだ。同じような犠牲者を出さないことが、救えなかった人たちへの償いともなる。もちろん、凛自身そんなことは百も承知だろうが、感情とはそれほど単純なものではない。彼女の戸惑いも、士郎にはよく理解できる。 誰にも聞こえない小さな声で呟く。 「いずれにせよ、そろそろ時間切れなようだ」 「エ、エミヤァ……!」 妄執に捕らわれた、擦れた声が聞こえる。 「さて、」 凛から視線を移すと、士郎はロブの身体を眺め見た。身体の修復は既に終えたようだ。手足のような触手が怪しく蠢き、血走った赤い瞳は、狂気を映して士郎を見つめている。しかし、士郎は身の毛もよだつようなおぞましい視線を受けてなお、表情一つ動かさない。そっとシエルへ近付くと、小さく耳打ちする。 「一つだけ聞かせてくれ。メレム・ソロモンはどうした?」 「彼なら先を急ぎましたよ。彼に興味があるのは、神の教えでも、まして人の命でもなく真祖の姫ただ一人ですからね」 なるほど、と士郎が頷く。あちらはあちらで絶望的な戦力差だと思っていたが、あの少年が加われば戦況もまた違ってくるに違いない。 悪くない。なんとしてもここは、このままの勢いで押し切る……! 「なにヒトを無視して暢気に話し込んでやがる……! くそっ! 女ァ、テメェ絶対にただじゃ殺さねぇ!!」 身体の修復を終えたロブが、ゆっくりと立ち上がる。火傷で爛れた腕を震わせ、シエルを指差す。その表情は、あまりに凄惨である。肌は焼け爛れ、真っ赤で痛々しい。顔色はもはや、土色に近かった。 確実に、死相の色が現れている。その顔をちらり、と見やり、士郎はシエルと目配せを交わす。 「では貴方達は早く、あの基点の破壊を」 「すまない」 踵を返して駆け出す。シエルは単身、怒りに顔を真っ赤に染め、キリのように結い合わされた蔦の穂先を向けるロブへと挑みかかった。 「!? エミヤ、貴様ァ! 逃げるのか!? どこまでも卑劣な奴め……!」 背後から、ロブの怒声が響く。しかし、士郎はまったく取り合おうとはしなかった。躊躇いのない足取りで、空間の中央部へと走り寄る。途中、瓦礫の山を通る。ロブが落下してきたときに天井から落下してきた、いくつもの巨岩。その横には、ロブの方を見つめ佇む凛が、泣き出しそうな顔で立ち尽くしていた。 「遠坂。奴は代行者に任せろ。あの女は、ああ見えて埋葬機関の人間。実力は確かだ」 士郎が声を掛ける。しかし、凛は動こうとしない。彼女の心には今、複雑な思いが錯綜しているのだろう。自身を今まで突き動かしていた動力が切れてしまったとでも言うかのように、ぼんやりと立ち尽くしている。 「ごめんね、何も出来なくて」 引き結ばれたその口元から、擦れたような声が漏れる。 「――遠坂?」 「いいえ。……行きましょう。余計な感傷を差し入れる時じゃないわよね」 一度大きくかぶりを振ると、凛は士郎と共に白騎士の下へと駆け出した。胸がざわめく。脳裏では、あの代行者に言われた言葉が繰り返し響いていた。 『つまらない感情で動いても、最終的には何も為せはしません』 「……そんなの、わかってるわよ」 ――魔術師である私が、教会の代行者にあのような忠告を受けるなんて。 薄い唇を噛み締める。なんという屈辱だろう。そして、何より悔しいのは、魔術師としての凛は彼女の言葉が正しいということを、認めてしまっていることだ。 「けど、大丈夫。悔しいけど、あの女なら、みんなの仇を取ってくれるから」 言い聞かせるように呟く。 あの代行者の実力は、本物だ。相手が死徒である以上、それを滅するノウハウで『埋葬機関』(彼ら)に敵う組織は存在しない。ロブの相手は、彼女に任せておけば安心だ。 それに――。 凛は思う。 士郎や凛の魔術特性は、広域の攻撃に向いている。ヴラドという最大の障壁はあるが、如何に白騎士といえど、巨大な石柱を一人で守りきるとなれば話は変わってくるに違いない。 千年城の状況の焼き直しだ。 口元が歪む。 またしても戦力差は歴然。しかし、あの代行者の闖入により、状況は大きく変わった。今回も、オフェンスはこちらで、ディフェンスはあちら。地上に人質があることを考えれば、本来ならば状況は遥かに向こうが有利なはずだが、巧い図式に持ち込めた。 凛のブーツが、血文字で描かれた召喚陣に踏み込む。 あれほど苦しめられた蔦による妨害がまったく無い。とてつもない長さに感じられた数十メートルの距離を数秒で駆け抜け、儀式の基点となっている石柱――白騎士フィナ=ヴラド・スヴェルテンの元へと辿り着く。 「ふん。余計な邪魔が入ったか。折角の余興だというのに、興ざめもいい所だ」 不機嫌さも露に、ヴラドは傲岸な態度で腕を組み、二人を見下ろす。構える仕草さえ見られない。士郎は挑発するような笑みを浮かべ、ヴラドへと一歩踏み出した。 「メレム・ソロモンを先へ行かせたらしいな。白騎士。随分な余裕じゃないか。貴様の主にもしものことがあったらとは思わないのか?」 「問題ない。 不吉な笑みさえ浮かべて、ヴラドは言い切る。 「本物の悪魔、ですって……?」 その言葉に、懐の宝石剣に手をかけていた凛は目を細める。 "本物の悪魔"。 ヴラドの言葉は、単なる言葉遊びではない、重要な含みを持っているように凛には感じられた。予断無くヴラドの表情を探るように見つめる。しかし、自信に満ち溢れるヴラドの表情からは、さしたる変化も見出せなかった。 「お前達こそ、随分と余裕が有るじゃないか」 嘲るように嗤って、白騎士が言う。 「……なんだと?」 「他人の心配をしている場合か、と言っているんだ。矮小な人間達よ。挑んでくる勇気は買うが、あまり失望させてくれるなよ? 儀式を終えるまでの退屈凌ぎくらいは勤めてもらわないとな」 これまでの敵を遥かに凌ぐ威圧感。ヴラドは獣のように口を大きく開き、粗暴な顔に傲岸な微笑を浮かべた。 「どちらにしろ、この白騎士(わたし)を相手にするのだ。楽に死ねると思うなよ」 真紅の裏地を持つ外套がヴラドの魔力を受けて靡く。その色は、凛に鮮血を連想させた。 乳白色の洞穴を、漆黒の体躯が駆ける。洞穴を構成する厚い岩盤はくすんだマーブル模様であり、白一色ではない。しかし、その黒は白地のシャツに付いた一点の染みのように、酷く浮いて見えた。 僅かな上り坂となった洞穴を澱み無く、青年――遠野志貴は駆け抜ける。 つい先ほどまで前方より響いていた、アルクェイドの足音が今は聞こえない。大分距離が離されてしまったようだ。 涼しげな志貴の顔に、焦りの色が差す。思わず鳴らした舌打ちは、外気に触れるとたちまち溶け、消えた。 奥へと進むにつれ、頭蓋の奥に走る痛みが鋭くなっていく。脳を芯から溶かす、腐り落ちた果実のような濃密な香りが、志貴からじわじわと平衡感覚を奪っていく。酩酊感に似た感覚が纏わり着いて離れない。 目元に巻かれた白い眼帯の向こうで、『死の線』が、生物のようにのたうつ。 ――また、線の数が増えた。 洞穴の奥に潜む魔に感化されるように、『直死の魔眼』は刻々とその精度を上げていた。既に無生物の死さえも理解する瞳は、更なる進化を求めて熱を帯びる。 今、遠野志貴には大気にさえ死が視える。 いや、『大気』と言うのは正しくない。正確に言うならば、それは『世界の死』だ。擦過傷にも似た薄い線が、視界を埋め尽くすように縦横無尽に延びている。 ――あまり長くこの空気に触れていると、寿命が縮む。 そう判じた志貴だが、駆ける足には迷いが無い。より濃密な空気を漂わせる深部へと、果敢に踏み入っていく。 アルクェイドに新調してもらった錬金術師製の布地を巻けば、この頭痛も大分マシになるのだろうが、それでは『力の流れ』が見えなくなる。今その力を無くすことは、どうしても避けたい。 凛や士郎、そして白騎士までもが誤解をしていたが、志貴が『本来ならば見えざるもの』を認識できるのは、"直死の魔眼"という突然変異による能力よりも、彼の一族に脈々と受け継がれていた"浄眼"と呼ばれる能力による力が大きい。そう特異な能力ではないが、使用にリスクを伴う魔眼より安全性が高く、安定した力を発揮できる浄眼の方が、今の志貴には使い勝手が良かった。 しかし、錬金術師の作った眼帯は強力過ぎる為、この力をほぼ完全に封じ込めてしまう。それが志貴には少し不満だ。 ――そういえば、あの二人は大丈夫だろうか。 白騎士の前に置いてきた二人のことを思い出す。 二人がかりとはいえ、あの二人で白騎士の相手をするのは荷が重いだろう。彼らはまだ二十七祖を相手に戦えるレベルに達していない。 そして――。何より相手が悪い。相手は彼の姫君の護衛、白騎士"フィナ=ヴラド・スヴェルテン"である。 能力的にも、エミヤには分が悪いと言わざるを得ないだろう。何せ、あの白騎士は固体ではなく、一つの――。 そこまで考えたところで、余計な考えを思考の外に追い出した。 赤黒く脈動する洞穴の向こうから、薄く蒼い輝きが漏れている。その光は、もうまもなくある程度開けた空間に出るということを表している。 そして。 その先に漂う気配に、志貴は心当たりがあった。 視界が開け、脳を毒するように瞬いていた赤黒い光が消え去る。涼やかな風が、火照った頬を撫でた。 「これは――」 薄暗い夜の中に沈むようにして広がっていたのは、広大な吹き抜けの空間だった。 広大な窪地は切り立った崖に囲まれ、見上げると闇色の空がよく見えた。背の低い下草の上には、長方形の御影石が一定の間隔で規則正しく並んでいる。 降り注ぐ青白い月光が、滑らかな表面に反射して輝く。志貴は、すぐにそれが何なのか気付いた。この空間が纏う悲しげな気配には覚えがある。 「墓石、か」 椀のような窪地に並ぶのは、数百に及ぶ石棺だった。 そして。 闘技場には、亡霊のように佇む一人の剣闘士が待ち受けていた。 「……来たか」 カシャリ、 金属の触れ合う重い音が響く。奥へと繋がる通路を守るように立っていた男が、ゆっくりと振り向く。 「――やはり、お前か」 漆黒の甲冑に身を包んだ騎士は、羽織っていた外套を石床に放り、蒼白の顔を上げた。 「リィゾ=バール・シュトラウト……!」 「待ちわびたぞ。殺人貴。こうして相対するのは数年ぶりといったところか。しかし……」 待ちわびた年月はこれまで生きた膨大な時間に拮抗するほどに、長かった、と。 穏やかな白い貌に微笑を浮かべ、黒騎士は言った。 「そこを退いてくれないか、リィゾ。今はアルクェイドが心配だ。お前と闘っている場合じゃ……」 「遠野志貴」 強い意思を孕んだ声が、侵食するように闘技場を犯す。 「逆の立場だったら、貴様は道を明け渡すのか?」 「……!」 「ここを通り我が姫君にお目通り願わくば、この私を倒すことだ。それが黒騎士たる私の、そして殺人貴たる貴様の役目」 それが定められたルールであると言うかのように、リィゾは一言の下に志貴の言葉を切って捨てた。黒光りする篭手の嵌められた右手が、腰元に差した黒塗りの長鞘に伸びる。半身になった騎士の背後で、束ねられた長髪が風に靡いた。 「問答無用、か。相変わらず、融通の利かない奴だな」 「それはお互い様だろう」 穏やかな微笑を絶やすことなく、リィゾは魔剣に力を注いでいく。 「お互い、我侭なお姫様を持つと大変だ。そこは同情するけど――。道を譲る気が無い以上、この闘いは避けては通れないか」 志貴の脳裏に、千年城でエミヤと対峙した時の光景が蘇る。 立場こそ正反対だが、千年城での闘いの焼き直しとなってしまった。巡り合いの皮肉に、微かに唇を歪める。 しかし、今夜はあの時とは違う。既に覚悟は決めていた。 右足を後ろに引き、構える。 今回は、迷わない。 アルクェイドの為、そして何より自身の為に、この男を完膚なきまでに殺害する。 志貴の右手が流れるように動く。手の平に忍ばせていた、刃の出ていない短刀・七ツ夜を水平に構えた。 「思ったより物分りがいいな。喜ばしいことだ」 「そういうお前は今日は随分とお喋りじゃないか、黒騎士。以前やった時は、二言三言しか話さなかったっていうのに」 冗談めかして笑う志貴に、リィゾも笑みを返す。 「前回とは違い、今回は姫君の許可を得ている。今夜は黒騎士の本懐、とくとご覧に入れよう」 涼やかな声音でそう言い、黒騎士は青い唇を真一文字に引き結ぶ。 お互いが放つ鋭い殺気に、大気がピンと張り詰めていく。 臨界点は、すぐに訪れた。 腰元の黒鞘にかかったリィゾの右手が揺れるように動き、志貴がたわむ様に上体を沈め――。 「ねえ、盛り上がってるところ悪いんだけどさ。ここを通さないって、それはボクも同じ?」 酷く緊張感を欠いた、ボーイソプラノが 「――メレム・ソロモン」 リィゾの白い貌が不機嫌そうに歪んだ。限界まで高められていた集中力が、穴の空いた風船のように急速に萎んでいく。彼が興を削がれたのは明白である。 リィゾに争いを続ける意思が無いことを確かめ、志貴はゆっくりと背後を振り返る。 年齢にそぐわない老練な笑みを口元に貼り付けた美しい顔をした少年が一人、志貴を見上げていた。 「やあ、殺人貴。久しぶりだね。……いや、実際はこの姿で会うのは初めてなのかな? 僕たち」 そう言って、愉しそうに赤い瞳を眇める。 「メレム……ソロモン。君がそうなのか」 少年が放つ気配に色濃い異端の色を見て取って、志貴は小さく呟いた。彼の退魔意識は、少年が生半可な化け物ではないということを告げている。 しかし、志貴は警戒した素振りを微塵も見せなかった。不意打ちをする気も無くなる様な、気の抜けた顔をメレムに向け、 「この間は……。その、迷惑をかけたみたいだ。アルクェイドが礼を言ってたよ」 そう、どうにも間の抜けた調子で言った。 メレムは小さく苦笑すると、 「そうかい。それじゃ、勿体無いお言葉でございます、姫君。と伝えておいてよ」 どこか軽薄な口調で言う。志貴は真面目な顔で頷いた。 「――それでさ、黒騎士。僕が用事があるのは、この先にいる二人なんだけど……。ちょっと、そこを通してくれないかな? 君たちの邪魔はしないからさ」 「断る。これより先に進んでよいのは真祖の姫君だけであると、主より申し付かっている」 僅かに言い澱む素振りも見せず、黒騎士はそう言い切った。殺気こそ感じられないが、牽制するような敵意が、甲冑に身を包んだ細い身体から発せられている。 その穏やかだが、頑なな返答に、少年は大げさな仕草で嘆息した。残念だよ、と言うように大仰に肩をすくめ、 「そう。それじゃあ仕方がないか」 その瞳が、獣の如き敵意に赤く輝いた。 「君を相手に議論をしても始まらないし。そして何より、時間が無い」 三日月型に口元を歪め、少年は貼り付けた笑顔の奥に潜む、獰猛な意志を露出させる。 背後の影が長く延びて、細長い影を闘技場の壁に映し出して行く。影絵のシルエットはやがて、童話に出てくるような現実感を欠いた怪鳥のカタチを模していく。 「好戦的だな。メレム・ソロモン。真祖の姫に拘泥しているという話は真実だったか」 「この奥にいる二人には、いろいろな意味で譲れないものがあってね。――特に、紛い物には痛い目を見てもらわないと気がすまない。あまりお転婆が過ぎるお姫様もどきには、お仕置きが必要だ」 ニヤリ、と影絵の様な笑みを浮かべる少年の背後で、強大な気配が、その存在を露にしていく。 デモニッション。 埋葬機関、第五位にして死徒二十七祖、第十位に名を連ねる"王冠"メレム・ソロモンが持つ、第一位の交霊能力である。 「なん、だと?」 「駄目だよ。本当なら、これは護衛である君が諌めるべきだった。まあ、今更何を言っても意味は無いけれどね」 無邪気な少年の顔が嗜虐に歪む。志貴の右斜め前の床板が、乾いた音を立てて爆ぜる。 「!」 思わず目をやった志貴は、硬い石盤を突き破って伸びていくる白い柱を見て、眼帯の下の目を大きく見開いた。地面より伸びてくる、 「貴様。紛い物、と言ったな? 真祖の王族たる姫君を愚弄するか?」 ぎり、 怒りに歯を食いしばった黒騎士の怒気が、周囲を陽炎のように揺らがせる。しかし、 「なんだ。それくらいで怒ったの?」 世界さえ変質させる怒りの念を前にして、メレム・ソロモンは嘲笑と共に黒騎士を流し見た。 「紛い物は紛い物じゃないか。アルトルージュ・ブリュンスタッドは、真祖の王族なんかじゃ無い。みんな言ってるよ。あの紛い物はブリュンスタッドを名乗ることもおこがましい半端モノだ、ってね」 「貴様――ッ!」 「"拘泥している"のは、君の方じゃないか。黒騎士リィゾ=バール・シュトラウト。アレが"月の王"に足りうる身だって? 笑わせる。その的外れな忠義は、いっそ滑稽だ」 二人が放つ意思は、周囲の世界そのものを侵食していく。世界が現実感を失い、新たな常識に書き換えられていく姿を、志貴は為す術もなく見つめていた。 (――周囲への影響を考えていない! この二人、もう途中で退く気が無いのか……!) 時間にして数分に満たぬやり取りが、二人の軋轢を決定的なものにしたということは、傍から見ていた志貴にも明らかだった。 足元に迫り出してくる巨像の感触を感じて、対峙する二人から跳ぶようにして距離をとる。 「ああ、ゴメン。忘れてた。ちゃんと退いててよ。トオノシキ。うっかり君を踏み潰したとあっちゃ、僕がお姫様に嫌われちゃうからね」 迫り出してきた巨像――冗談のようだが、それは少女の姿を模していた――の肩に飛び乗ったメレムが、愉悦の笑みさえ浮かべて、志貴を見下ろす。 気付けば、空には巨大と言うにはあまりにも巨大な怪鳥の姿。怪鳥は、鮮やかな青色をしたその美しい翼を広げ、ゆるゆると夜空を泳ぐように旋回している。 あれが、 悪魔使い、メレム・ソロモンが使役する強大な四体の魔獣……! 現実感を欠いていく世界に戸惑う志貴の頭上で、千年城で見たモノとは違う、二体の魔獣が それらは、一体で祖に匹敵すると言われる力を持つ、人々が作り出した幻想の悪魔。 「……!」 それらが放つ凄まじい威圧感と相対しながら、黒騎士リィゾ=バール・シュトラウトは単身、剣を握る腕に力を篭める。漆黒の柄を握るその白く華奢な右腕に、膨大な力が注ぎ込まれる。 「我が姫君を侮辱したこと、伏して詫びさせてくれる……!」 「はっ、上等。ここまで心躍る闘争は数百年ぶりだ。どちらが優れた化け物か、力比べと行こうじゃないか」 空には独つきりの望月が浮かんでいる。 この私闘に"聖杯"は介入しない。この戦争に限っては、どのような結末を迎えようとも『聖杯戦争』足りえない。 これは『宗教戦争』。 互いが奉じる、異なる神の威信をかけた闘争。 闇夜の舞台には、黒ずくめの観客が一人きり。演じ手は、二体の生粋の化け物たちだ。 こうして、どちらかの必滅が約束された、一度きりの戦争劇は幕を上げた。 |