20.悪霊の棲む森ヒートラV





 果ての見えない螺旋階段を、石壁の感触を頼りに下っていく。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。無限を思わせる回廊の奥にわだかまる闇を見つめ、凛は胸に形容しがたい不安が圧し掛かるのを感じていた。本当にこの回廊は、出口に繋がっているのだろうか。このまま下れば、いずれ地の底についてしまうのではないのか。そんな幻想さえ抱いてしまう。
 常闇の中を、凛は何度も転びそうになりながら慎重な足取りで進んでいく。灯りを持っているのは先頭を歩く案内役の少年だけであり、殿を務める凛の足元まで光は届かなかった。まごつく彼女を置いて、前を歩く四人はどんどん奥へと進んでいってしまう。その差は開くばかりだ。
「もう。少しは気を使いなさいよ。朴念仁ばかりなんだから……!」
 苛立った様子で、凛は小さく呟いた。
 ――吸血鬼であるアルクェイドや、そもそも眼帯で視界を覆っている殺人貴はともかく、士郎の奴はよく暗闇の中をすたすたと澱みなく歩いていけるものだ。そういえばさっきの戦闘でも随分と夜目が利いていたように思える。いったい、どれだけ目がいいんだ。あいつは。
「ああ、もう……!」
 イラつく自分を抑えられない。その怒りは、凛を置いて先を歩く彼らにではなく、自分自身に対して向けられたものだ。
 もう少し、ゆっくり歩いて。
 その一言が、どうしても言えない。彼女のプライドがそんな子供めいたこと言えるか、と口を突くのを妨げる。幼い頃より染み付いた凛の見栄は並大抵のものではなく、それを贅肉と気って捨てるような真似は、最早出来るわけが無かった。
『遠坂たる者、常に優雅たれ』
 みっともない真似をするくらいなら、凛は迷わず茨の道を選ぶ。それは、彼女の遺伝子に組み込まれた論理であると言っても過言ではない。
「――捨て切れない余分な贅肉は、重荷にしかならないのにね」
 苦笑交じりに呟く。しかし、そのプライドが贅肉であると理解した上で、凛は自分の生き方を貫くことを選んだのだ。今更、弱音なんて吐けはしない。
 太ももの辺りが鈍く傷む。疲れが足に来ているようだ。ずっと走りずめだったのだから無理もない。こんな時は、やはり男性との体力の差を感じる。戦闘面での実力が他のメンバーに劣っているという事は凛自身、十分理解していた。宝石剣を使えば、二十七祖レベルの死徒を相手に一時的な拮抗状態に持ち込むことは出来るだろう。しかし、身体能力で比較すると……。やはり凛は、弱い。
「けど、しょうがないじゃない」
 思わず力ない呟きが漏れた。
 魔術師とは元々、学者なのだ。戦闘力を求めるのはお門違いだろう。戦闘面に特化して、それを売り物にしている武闘派の魔術師も居るには居るが、それだって所詮マイノリティ。まして、凛の基礎体力は並みの魔術師よりも優秀だ。決して彼女が劣っているわけじゃない。回廊の先へと消えていく灯りを見つめ、凛は一人思う。
「そうよ。私は魔術師なんだから、魔術師らしくあればいいのよ」
 うん。と一つ頷き自身のアイデンティティーを保つと、魔術回路を励起させ、呪文を紡ぐ。
「Es werde Licht!」
 凛の目の前にピンポン玉ほどの光の玉が打ち上げられ、あふれ出した光が土色の回廊を明るく照らし出す。
 これで足元に気をつけて歩く必要が無くなった。すぐに、前を歩く三人に追いつかないと――。
「え?」
 色濃い闇が暴かれ露になった回廊の姿に、凛は思わず驚きの声を挙げた。それは全く出し抜けで、予想だにしなかった光景だった。
 三メートルの高さはあろうかという回廊の壁を埋め尽くすように、幾つもの色彩で描かれた文字や記号、図形が並んでいる。言語は、恐らく古代フィン語。先日、図書館でカレワラについて調べていたときに目にしたのと同じ物だ。
「これは……。カレワラの一説ね」
 腫れ物に触れるような慎重さで、そっと石壁に触れる。壁画は、カレワラの叙事詩について描かれたものであるようだ。
 年老いた魔女が、太陽や月、惑星を模した中傷的な図形の下で、小さな器械を覗いている。皺枯れた魔女の手は、機械の隣に設置された時計のようなものに宛がわれている。――天体観測器だろうか?凛は目を細めた。
「けれど、天体観測器アストロラーベがどうしてこんな所に?」
 史実では確か、天体観測器は十六世紀にイスラム世界から西ヨーロッパへもたらされたものであるはず。専門機関で調べてもらわなければ正確にはわからないが、壁画は少なくとも描かれてから千年は経っているだろう。その時代に既に、天体観測器があったということだろうか?
「これってひょっとすると、歴史的大発見って奴じゃない?」
 保存状態が良かったのか、ほとんど風化が見られない。ここまで完璧な遺跡は近年稀だろう。
 これが事実なら、発表すれば一躍時の人だ。お金もがっぽり入ってくるに違いない。
「遠坂、どうした? 何かあったのか?」
 ずっと下の方から、凛を呼ぶ声が響いた。彼女の身を案じる声音が、回廊中に反響して聞こえてくる。
「大丈夫! 今行くから」
 その声に返事を返して、凛はふふふ、と奇妙な笑い声を挙げながら、そろそろと緩やかに傾斜した横穴を、奥へと向かって歩き出した。
 ――この問題が解決した後の楽しみが増えた。これは面白いことになりそうだ。
「ふふ、ふふふふ……。――いやいや、こんなこと考えてる余裕は無いか。しっかりしろ、私……」
 そもそも無事に帰ってこれるかどうか望みさえ薄いというのに、何を考えているのか。雑念はこの際、捨てておくのが賢い選択だろう。
「どうした?何か気になることでもあったか?」
 凛を待っていたのだろう。壁に背を預けた士郎が、伺うように凛を見つめた。
「いえ、別に何も。それより先を急ぎましょう」
 回廊にはまだ終わりが見えない。凛と士郎は、互いに目配せを交わすと、再びゆっくりと歩き出した。そのまま数メートルほど進むと、すぐに人影が見えてくる。凛と士郎を待っていたのだろう。アルクェイドと殺人貴が立っていた。
「男の子は?」
 案内役の少年の姿が見えないことに、凛が疑問の声を上げた。
「貴方たちが来るまで待つ、と言ったら先に行ってしまったわ。そこが出口らしいから、もう案内役も必要ないってことみたいね」
 そう言って、アルクェイドは回廊の先を指し示した。彼女の言うとおり、前方には微かに赤い光が見えている。
「では行こう。――そろそろ、出口だ」
 殺人貴が呟くように言った。四人は再び歩き出す。
 やがて永遠を思わせた細く長い石段は終わりを告げ、巨大な空間が四人の前に現れた。
「―――、」
 目の前に現れた光景に、凛は思わず息を呑んだ。
 太く大きな木の根が無数に組み合わさることによって構成された、巨大なドーム。ドーム球場を丸ごと一つ飲み込んでしまうほどの広大な空間は、血の様に赤い光で満ち満ちている。地下世界に構築された空間は、圧し掛かるような圧迫感をもって凛を圧倒した。
「――けれど、なんて禍々しい空気」
 大気を漂う空気は濃密なマナに溢れ、汚染された空気は肺を犯す。異界の大気が、広大な空間を支配している。心臓のように鼓動を刻む、無数の木の根。赤く明滅を繰り返すそれは、空間を不気味に照らし出している。
 ゆっくりと視線を下ろす。空間の奥に見えた石造りの祭壇に、凛は目を細めた。
 ――あれがこの異界を作り出している基点か。この場所は、地上に喚び出されたあの化け物が居る森の、ちょうど真下に位置するのだろう。床一面には巨大な魔方陣が描かれている。そして、その中心には、彼女達を歓待するように、
「ようこそ。悪霊の棲む森ヒートラへ。白の姫君、アルクェイド・ブリュンスタッド」
 恭しく頭を垂れた、中世の大貴族を思わせるような井出たちの大柄な男が立っていた。
 強い意志を湛えた、真紅の瞳。粗野な印象を与える口髭の奥には、余裕と威厳に溢れた微笑が浮かんでいる。頬のこけた無骨な顔は、見るものに荒々しい印象を与える。重厚な生地で作られた真紅の外套からは、真白な手袋と豪奢なあしらえが。胸元の辺りには銀の甲冑が見えている。
 『粗暴な中世の大貴族』その男を形容するには、この言葉が最も相応しい。
「久しぶりね。白騎士フィナ=ヴラド・スヴェルテン。こんな悪趣味な場所でゲストを出迎えだなんて、主の品性が疑われても仕様が無いのではなくて?」
 一歩前に出たアルクェイドが、挑発するような微笑でヴラドを見下ろした。
「はは。これは手厳しい。確かに、このような場所で真祖の王族"ブリュンスタッド"を冠する貴殿を出迎えるのは失礼にあたるのかもしれませんな」
 ヴラドは恐縮しきったように一度肩をすくめるも、しかし、と粗野な笑みを浮かべてアルクェイドの目を真っ向から見つめ返した。
「しかし、白の姫君。我々には本来、このような場所こそが相応しい。そう、私は思うのです」
「……何を企んでいるの? 私の命を狙っているなら貴方が直接来ればいい。ご丁寧に悪趣味な筋立てまで用意して、こんなにたくさんの人間を巻き込んで、どう事態を収めるつもり?」
「全ては、我が主の望みのままに。美醜は個人の価値観もありますゆえ、ご容赦を」
 ヴラドが再び、恭しく頭を下げる。しかし、その顔に張り付いた微笑は微塵も揺らぐ事はない。この場においては慇懃無礼とさえ取れるその仕草に、アルクェイドの眉が怪訝そうに寄せられた。
「まさか、アルトルージュ・ブリュンスタッドは本当に……。本当に、聖杯を手に入れようとしているの?」
「さあ、どうでしょう?」
 微笑を浮かべたまま、答えをはぐらかす。どこか人を馬鹿にしたようなヴラドの態度に、アルクェイドの視線に殺気が篭った。
「答えなさい! フィナ=ヴラド・スヴェルテン! あの悪趣味としか言いようの無い化け物を喚び出したのも、貴方の主の意思だと言うの!?」
「ほう!あれを見てこられたのですか!」
 アルクェイドの怒声を受けたヴラドの顔が喜悦歪む。眦を吊り上げるアルクェイドの視線をものともせず、大きく手を広げると、パン、パンと白い手袋の嵌められた両手を叩いて見せる。
 戸惑ったのは凛と士郎だ。あれほど凄まじい殺気の篭められた視線を受けて、何故そう笑うことが出来るのか。並大抵の度量では出来ない反応だろう。
「そうか。そうですか! アレを見てこられましたか。それは面白い。しかし、その質問は些か浅慮というものでしょう。姫君? この森が悪霊の棲む森ヒーシと知って。あの夥しい量の贄を見て、それでも我らの目的が解らぬと言うのですか?」
 ヴラドの言葉に含まれた言葉に、凛の肩がぴくり、と震えた。
「贄、ですって?」
 アルクェイドは怪訝そうに、形の良い眉を寄せる。その様子に、ヴラドは澄ました顔で自前の口髭を何度か擦った。
「そういえば、白の姫君は魔術にはあまり詳しくありませんでしたな。――そちらの魔術師のお嬢さんなら、大方の検討がついているのではないかね?」
 どこか時代がかった仕草で凛を流し見ると、白い手袋の嵌められた手を向けてくる。
 その場に居た全員の視線が、一斉に凛へと集まった。
「ご指名は有難いんだけれど。私だって、まだ全部のことがわかったわけじゃないのよね」
 断るようにそう言って、凛は小さく肩をすくめた。
「けど――まだわからないことだらけだけれど、確実に言えることも幾つかある」
 沈黙が、凛の話を促した。
「地上の森……。ちょうどこの真上に位置する、あの平原に召喚儀礼が行われた形跡があったっていうのは、さっきも言ったわよね」
 硬い声で、凛が話しを始める。その視線は、ヴラドから外れることはない。
「森の中に居たあの化け物……。アレを召喚する儀式が行われたのが、この場所よ。大気にはまだその形跡が残ってる。大方、捕らえている人達をあの化け物の生贄にして、聖杯を召喚するつもりなんでしょうけど――そんなの不可能よ。成功する訳が無い」
「ははは、成るほど。まあ、外れてはいない」
 さも面白い話しを聞いたというように、ヴラドが乾いた笑い声を上げる。
「しかし、それでは次第点だ。お嬢さん。あの程度の人間の命で聖杯が召還できるなら、とうの昔に人間おまえたちが自らの手で聖杯を召還しているのではないかね? 数万の命で神秘を手にすることが出来るなら、何時の世の権力者も喜んでそうしただろう」
 片目を眇め、凛を傲岸な仕草で見下ろす。その人を馬鹿にしたような態度に、凛はヴラドへと鋭い視線を向けた。
「それじゃあ、その魔方陣は何よ。どうみても召還陣じゃない!」
 凛の右手が、ヴラドの足元に描かれた巨大な魔方陣を指差す。広大な空間の三分の一を使って描かれたそれは、赤黒く凝固した血液で描かれたものだった。その魔方陣を描くだけでどれほどの命が失われただろう。凛の身体を、熱いものが駆け巡る。
「ああ、その通りだ。お嬢さん」
 ブラドのブーツが、コツコツと足元の魔方陣を叩いた。
「これは召喚陣だ。魔術師ではない私には門外漢だがね。そして我が主の望みは『聖杯』でもある。そこまでは良しとしよう。だが、ソレとコレとを直接結びつけるのは、些か短絡的といえるのではないかね?」
 ククク、と嘲笑を響かせながら、ヴラドは口元に盲い笑みを貼り付ける。
「それはどういう、」
「どうして我々が北欧くんだりまで出向かなければならなかったのか。煩雑な手間暇をかけてこの"ヒーシ"を探さなければならなかったのか。それが抜けている。推理小説の主人公には向かないようだな、お嬢さん」
「……!」
 ――当たり前だ。自慢じゃないけど、私が主人公になったら、推理なんてまどろっこしい過程は必要ない。どんな事件も力技で解決してみせる自信が有る。
「もういいわ」
 話の間隙を見計らったように、アルクェイドが口を開いた。辟易した様子でゆっくりと首を振る。
「下らない謎解きは結構よ。ヴラド。貴方の弄言に付き合っている時間は無い。――志貴、この魔方陣を殺して」
「……ッ!!」
「そうか、その手があった……!」
 アルトルージュがどうやって『聖杯』を手に入れようとしているのかなんてことは知ったことではない。今はとりあえず、この邪法さえ止めることができれば……。凛は思わず手を握り締めた。しかし、
「駄目だ」
 殺人貴は、搾り出すような声で言って首を振った。
「この召還陣は、既に役目を終えている。この魔方陣を殺しても意味が無い」
「……どういうこと?」」
「生贄を欲しているのはあの化け物なんかじゃない」
 白い布地の巻かれた殺人貴の双眸が、ゆっくりと上がっていく。
「生贄を欲しているのは、」
 忌々しげに口元を歪め、
「この森そのものだ」
 殺人貴は、赤黒く明滅する天蓋を仰ぎ見た。
「森そのものを止めなければ、何の解決にもならない。――この奥に森の心臓部がある。それを殺せば、活動は停止するはずだ」
「くっくっく」
 低く嗤い声を挙げるフィナに、殺人貴は殺気の篭った気配を向けた。ヴラドは大仰な仕草で腕を組むと、感心したように片方の眉だけを吊り上げた。
「その“眼”は聞いていた以上に便利だな、殺人貴」
「――羨ましいなら代わってやるよ、白騎士」
 つまらなそうに言う殺人貴に、ヴラドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……まったく皮肉なモノだ。人の身で、しかも魔術師でも無く、根源への到達にも関心のない貴様が、直接それそのものと繋がる眼を持っているなどと……。これを皮肉と言わず何と言う。私は魔道に精通していないが、貴様を見た魔術師達が落胆する姿は容易に想像がつくよ。――まったく、実に贅沢な話しだとは思いませんか。ねえ、」
 そう言って、ヴラドは嗤い、
「――麗しき我が姫君」
遥か後方を、仰ぎ見た。
「……!」
 ヴラドの言葉に、その場に居た全員の視線が空間の最奥、奥へと繋がる通路へと注がれる。凛たちから見て間逆の位置になるそこには、小柄な『黒い少女』と巨大な『白い魔犬』の姿があった。
「アルトルージュ……!」
 アルクェイドの瞳が金色に染まる。彼女を支点に空気が揺れ、衝撃波が大気を伝った。
「――ふふ、」
 その刺すような視線を受け、少女は黒いレースグローブに覆われた手を口元に当て、挑発するように真紅の目を細め嗤った。クスクスと気品漂う仕草で嘲笑すると、すぐに身を翻し、『魔犬』を連れ立って通路の奥へと消えていく。
「待ちなさいッ!」
 アルクェイドの身体に力が奔る。地面を抉るほどの衝撃で踏みしめると、大きく膝を折り、アルクェイドは通路の奥へと向かって跳躍した。自らの主へと敵意剥き出しで接近するアルクェイドをしかし、白騎士フィナ=ヴラド・スヴェルテンは何もせずに見送る。
「すまない。この場は任せた」
 殺人貴も、アルクェイドに続いて駆け出す。全くの無防備に隣を横切る殺人貴を、白騎士はまたもやまったく気にする素振りも無く、見逃した。
「ま、任せたって、なによ!?私達は後方支援じゃ……!」
「だから、あいつらは俺達が何とかする!白騎士の相手は任せた!」
 抗議の声を挙げる凛にそう叫ぶと、殺人貴は駿足を生かし、あっという間に通路の奥へと消えていく。
「な……!」
 殺人貴を追うように伸ばした手をそのままに、石化したように固まる凛の隣で、士郎が呟いた。
「まあ、戦力的にはそうなるだろうな。あいつらの相手は『黒騎士』に『黒の姫君』、そして『ガイアの怪物』。対して、俺達の相手は『白騎士』ただ一人。確かに、俺達への負担は少ない。まぁ、後方支援と呼べなくも無いな」
「『少ない』ですって?私達二人で白騎士を相手にするのよ!?滅茶苦茶じゃない!」
 呆れたように溜め息を吐く士郎の言葉に、凛は悲鳴のような声を挙げ、頭を抱えた。
「――ふん。戦力差は一応、理解しているようだな」
 不機嫌そうな声に顔を上げると、腕を組んだ白騎士が、侮蔑の篭った視線で凛を見ていた。先ほどの様な紳士然とした姿はどこにも無く、傲岸不遜に二人を見下ろす眼は氷のように冷たい。その鋭利な刃物の様な視線を受け、士郎は、
「――しかし、この程度なら、俺達でも何とかなるだろう。『ガイアの怪物』を相手にしなければならない真祖の姫たちに比べれば、まだマシなほうだ」
 ニヤリ、と口元に不適な笑みを浮かべた。白騎士の左目が、ぴくり、と痙攣するように揺れた。
「……何だと? 貴様程度が、この私と、この白騎士と比肩するとでも言うのか?」
 低く恫喝するような声音で、ヴラドは士郎を睨みつける。
「さぁ?やってみなければわかるまい」
 士郎はその手に一振りの黒塗りの弓矢を投影する。
「ああ、もう。あんたと組むと本当に碌なことが無いわ……!」
 凛の魔術回路が回転を早める。袖の下から宝石の握られた右手を出し、凛はヴラドの一挙手一投足に最大限の注意を払う。
「ふん」
 臨戦態勢へと入った士郎の視線を真っ向から受け、ヴラドは冷めた瞳で鼻を鳴らすと、
「……貴様らは、何か勘違いしているようだな」
 相手の敵意を受け流すように、微笑を浮かべ、肩をすくめた。
「なに?」
「お前達ごとき、この私が相手をするまでも無いといっているのだよ」
 そう言ったヴラドの左手が漆黒の外套を掴む。弓矢を構える士郎へと無防備に背中を向けると、ばさり、と血の様に赤い裏地を翻した。
「ロブ。来い」
 低く響いたその声に、赤黒く鳴動する空間が、震えるように大きく波打つ。
「何か、来る……!」
 上空から迫り来る禍々しい気配に、凛は天を仰ぎ見る。
 木の根で編まれた天蓋から、巨大な何かが落下してくる。巨石か、と身構えた凛は、思わず目を見開いた。"物"ではない。あれは、"生物"だ。
 三メートルに及ぶ巨体が、魔方陣の描かれた床の手前に落下する。轟音が響き大地が激しく揺さぶられ、土煙が舞い上がった。パラパラと落下した小石が顔にかかる。
「蛸・……?いえ、これは……!」
 蠢く土色の長い触手の塊。夥しい数の木の根とも枝とも判別のつかぬ触手を伸ばし、蠢くソレの頭には……。
「はっはっはぁー! さあ、決着を着けようぜ、エミヤ!」
 蔦のように伸びる数多の枝にその身を埋め、怨嗟の篭った真紅の瞳を士郎へと向ける、ロブの姿があった。士郎の目が細まる。
「……何をされた? 貴様」
 厳しい声で、尋ねた。
「何をされた、だと? ――ははは!」
 一瞬、虚を突かれた顔になるも、すぐに狂ったように笑い出す。
「何もされちゃいねぇよ。以前戦った時と何も変わりないぜ? 命を担保にして力を借りているのは以前と同じさ。ただ、貴様を殺すため、掛け金を何倍にも増やしちまっちまったけどなぁ! ははは!」
 荒く息をつきながら、ロブは士郎を見下ろし、凄惨な笑みを浮かべる。
「――神秘そのものに寄生されたな」
 士郎の言葉に、二ィ、とロブの口元が限界まで吊り上る。それは、常軌を逸した笑みだった。
「愚かな……!悪魔に魂を売ったか。もう戻っては来れないぞ!?」
「ああ、そうだ。もう戻れはしねえ。でも、そんなのは承知の上で俺はここにいるんだよ。お前だって同じだろう? コイツは半端無く貪欲でよ、もう、痛くて痛くて堪まんねぇ。貴様を殺して、俺もう楽になっちまいたいんだよ!」
 その身を掻き抱くように押さえつけると、下半身にびっしりと生えた触手が、ゆっくりと空間全体を覆うように伸び広がっていく。褐色の肌を剥き出しにして、ロブは半人半妖の姿で獣のように咆哮を上げた。
「さぁ、踊れ。刻限はそう遠くはないぞ? ははははは!」
 高らかに哄笑を上げると、ヴラドは靴音高く、魔方陣の奥へと歩いていく。
「待て! ヴラド!」
「おっと、」
「!」
 陰陽の夫婦剣を投影し、ヴラドへと斬りかかろうと士郎の前に、ロブが立ちふさがる。巨大な重機のようなその巨体が、威圧的に士郎を見下ろした。ゆるゆると触手のように、褐色の蔦が士郎の身体へと伸びてくる。
「どこを見ている? エミヤ。貴様の相手は俺だと言ってるだろう?」
「邪魔だ! 退け!!」
 そう吼えた瞬間、士郎の身体が跳ね上がった。迫る無数の蔦をすり抜け、瞬きの間にロブの頭上近くにまで到達する。その速度たるや、まさに弾丸。風のように、そして炎のように相手の領域を侵攻し、自身の間合いに標的を捉える。
「すぐに楽にしてやる!」
「ひひ、」
 絡み付く触手を斬り払い、中核に埋まるロブの身体に肉薄する。突き出した白塗りの鋼が、その首筋に向かって抉るように突き出された。しかし、
「あまり俺を舐めるなよ、エミヤ」
 ロブの喉元へと刃が届くその間際、数多の戦場を潜り抜けてきた士郎の第六感は、死角から伸びる凶器の存在を捉えていた。
「!?」
 腹部に走る、あまりにも凄まじい衝撃。巨大な鋼の塊に全身を打ち付けられたように、士郎の身体は数十メートルの距離を吹き飛び、ドームの壁に全身を打ちつけた。
「っは、」
 槍による刺突。その衝撃は、まさしく手練の一撃である。
 ワイヤーの様な枝が何本も寄り合わさり、巨大な槍となって、士郎の腹を突き上げたのだ。咄嗟に"獏耶"の刃の腹で受け止めなければ、腹に穴が空いていただろう。
「……っく」
 身体を強く打ちつけたせいで、すぐに動くことが出来ない。揺れる視界を繋ぎとめて、敵の姿だけでも視認しようと、震える身体で双剣を構え、化け物を見上げる。
「なんだよ、そりゃ」
「!」
 士郎の足を、地面を這うように伸びた蔦が掴んだ。
 ロブはその場から一歩も動いてはいない。いや、動く必要が無かった。無数の触手は際限なく伸び、士郎の身体に絡みつく。蔓のようにしなやかを持ち、一本一本が鋼鉄製のワイヤーの様な強度を持つそれは、あっという間に士郎の身体を幾重にも巻き上げる。
「ははは。自慢の剣技はどうした?」
ロブの表情が狂気に歪む。
「ん?なんだなんだ、その目は。文句が有るなら言ってみろ!」
「ククク……。思ったより、やるじゃないか」
 不適な微笑で見返して、士郎は震える声を捻り出した。
「止めを刺すなら今のうちだぞ。命を担保に手に入れた力ならば、貴様には時間はもう殆ど残されてはいまい」
 蚊の鳴くような声に、ギョロリ、とロブの眼が士郎を映す。
「うるせぇよ。最後の戦争だ。好きにやらせろ」
「はは。大した胆力だ。その精神力には敬意を表しよう。これが貴様ではなく、あのヴォロドフとかいう吸血鬼だったなら、既に灰になっていただろうな。……っ!」
 ギリギリと、ロブの触手が士郎の身体を締め上げる。
「貴様が、兄貴を語るな……!」
 憤怒の顔を士郎へと寄せ、ロブは地獄の底から響くような怨嗟の声で士郎を罵る。その時、空間の一点から風鳴りが響いた。
「―――Anfangセット……!」
 大気中のマナが収束する。ロブは、はっ、ともう一人の怨敵に視線を向けた。
 ――遅い。
 そこにはロブへと人差し指を向ける、魔術師の姿があった。
「―――Vier Stil Erschiesung……!」
 凛の右手が閃緑に輝き、指先から無数の光弾が迸る。
 士郎へと全ての注意を向けていたロブは、それに対応するのが一瞬、遅れた。頑丈な触手による防壁が間に合わず、ロブは剥き出しの両手にまともに魔力弾を受ける。金切り声のような悲鳴が空間に反響した。
 拘束していた枝がロブ本体から千切れ飛び、士郎は無防備な状態で地面に叩きつけられる。
「女ぁ!!」 
 ロブの身体が震え、憤怒の怒声と共に枝木が無差別に跳ね回る。まだ拘束から抜け出せずに居た士郎の身体に、そのうちの一本が襲い掛かった。
「!!」
 それは、コンクリート塊をも一瞬で吹き飛ばすほどの威力を篭めた一撃だ。数瞬後に自分の身を襲うであろう、鞭のようにしなる蔓の威力に、士郎は思わず歯を食いしばる。
 ずどん、と地面を抉る一撃が空間を揺さぶり、吹き飛んだ石片が空中を舞った。
「どこだ、エミヤァァァ!!」
「――まったく、あんたはそうどうして脇が甘いのよ」
 荒い息を吐いた凛は、ロブから十分な距離をとったことを確認すると、腕に抱えていた荷物を地面に降ろした。
「……面目ない」
 身体に巻きついた蔦により、簀巻きにされた士郎が目を伏せる。
「いいからそれ解いて、さっさと弓でも構えなさい!――Anfangセット……!」
 間髪いれず、詠唱を始める。連続で詠唱された魔術の数々に、魔術回路は魔力の過剰供給を訴える。
 ――ガンドの連射に続いて、軽量の魔術の重ねかけに、身体能力の制限解除。そして、今度は即席の防御陣か。魔術回路のサポートが有るとはいえ、何の補助礼装も無く行使するにはこれが限界だ。
「Eine Mauer der Flamme schu"tzt mich!」
 真紅の炎が吹き上がり、凛の周りを囲む壁となる。これで少しは時間が稼げるはずだ。
「すまない。遠坂。随分と無理をさせたみたいだ」
 枝から抜け出した士郎が、弓を携え、凛の前に進み出た。
「狙うなら本体よ。元々の身体の部分は生身と変わらないわ。回復速度は半端無いけど、頭蓋か心臓を丸ごと吹き飛ばしてしまえば、倒せるはずよ」
 炎の壁の向こうに見える死徒の腕に、既に損傷は見られない。凄まじい復元力。しかし、
「エ、エミヤァ!!」
 本体となるロブの顔は、苦痛に歪んでいた。
 決して効いてないわけじゃない。勝機はまだ残されている。そう、凛は自身に言い聞かせる。
 しかし、ロブに寄生ているあの蔦は一体なんなのだろう? 下法にしては、魔力効率が良すぎる。
 地面に落ちた蔦を手に取る。その断面を見て、凛は眉を寄せた。
「これ、ヤドリギの枝よ。常識はずれなぐらい太くて丈夫だけど」
「ヤドリギ?」
「なに逃げてるんだよ、エミヤァ! ……ヒャハハハ! そこか! 無様に精々逃げ回れ。どのみちお前じゃ、『吸血鬼の木』の力を得た俺には勝てないんだからな!」
 ロブの魔眼が赤く光る。士郎はその並外れた気迫で、凛は身体に魔力を通すことにより防御しているので魔眼は効かない。『魔眼使い』としては三流以下でしかないロブの魔眼など、ライダーの魔眼への耐性がついた二人には負荷にさえならない。
「ヤドリギ……。そうか、『吸血鬼の木』Vampire Plant
「ええ。『吸血鬼の木』はヤドリギの別称。確か、シェークスピアの戯曲にそんな一説があったわね」 
 ヤドリギは、別名『吸血鬼の木』。他の樹木に寄生し、その養分を吸って木の幹に絡みつくように自生する吸血植物だ。
 弓を限界まで引き絞った士郎の顔が、嫌悪に歪む。
「貴様に寄生しているのは、『ヤドリギの木』か」
「そうだ。ヴラド様より戴いた、吸血鬼の木の力だ!」
 炎の壁の向こう側で、醜悪な怪物と化したロブが吼える。その本体に照準を合わせると、士郎は矢へと注ぎ込むように魔力を篭めた。
「―――投影、重装トレース フラクタル
 防御陣は外から内へ働く物理的な結界。内から外へは干渉しない。
「!」
 限界まで引き絞った弓から、刀剣を模った鋼の矢が飛び出す。それは炎の壁を内側から突き破り、一寸の狂いも無く、吸い込まれるようにロブの頭部へと迫り、
「ぎ!」
 標的ロブの頭部を庇うように差し出した腕に命中した。ロブの右腕は千切れ飛び、中空を舞う。しかし、吹き飛んだ腕にはヤドリギの枝が巻きつき、あっという間にロブの体幹へと繋げてしまう。
「へ、へへへ。効かねぇ、っていってんだろうがよ!!千切り飛ばしたくらいじゃ、すぐに戻っちまうぜ? なんせ、枝木はいくらでも生えてくるんだからなぁ」
 士郎は弓を下ろすと、観察するような視線をロブへと向けた。
「そうか。"以前と同じ"。あの時は、腕の中を這う蔦で無理やり腕をくっつけたのか。今回は、その規模を大きくしただけというわけだな」
「士郎、ちゃんと頭を狙いなさいよ!」
 ギリギリと締め付ける枝木に、凛の結界が軋みを上げる。
「駄目、もう保たない!」
「あん?どうした?エミヤ。もう終わりか?」
「いや、まだだ――。猟犬は離たれたままだぞ。吸血鬼」
 そう士郎が言った瞬間、ロブの背後から赤光を纏った魔弾が迫るのを、凛の目は捕らえた。
「!」
 "赤原猟犬"フルンディング
 標的を射抜くまで、何度でも蘇る魔剣。
 それは、文字通り猟犬のようにロブの後頭部から迫り、遂に標的をその顎に――。
「あん? なんだよ? なに呆けた面してんだ? あ?」
 ギチ、ギチ、と赤原猟犬フルンディングが震える。標的を前にして喰らい付けないことを嘆くように。
 背後より迫った刀剣は、無数の枝に阻まれ……。否、掴み取られ、その動きを封じられる。
 赤原猟犬フルンディングは無数の枝の海に飲み込まれ、やがて見えなくなった。
 士郎は苛立たしげに舌打ちをする。
「『自動迎撃』と来たか。頭への防御は他の比ではないな。恐らく、ヤドリギの木自体が知っているのだろう。どこを吹き飛ばされれば、寄生主が死んでしまうのかを」
 引き攣った笑みで、士郎はロブを見上げた。
「射撃で奴を倒すのは不可能だ」
「……ッ! どうするのよ!」
 結界の陣地内、士郎のすぐ後ろで、凛が声を荒げた。無数のヤドリギの枝は今も尚、焼き焦げていくその身など構わず、炎の壁を圧迫している。養分を求め大樹に絡み付く、ヤドリギの木のようにじりじりと。
「不味いな」
「っ、もう、駄目!」
 凛が叫んだ瞬間、炎の壁を突き破った一本の枝が、士郎の腕に絡みついた。
「!」
 枝木は次々と士郎へと巻きつき、その自由を奪っていく。やがて巨大な枝木はたわみ、士郎の身体を宙へ高々と吊り上げた。
「っぐぅ……!」
 対象の動きを圧倒的な質量で拘束する枝木は、士郎と相性が悪い。彼が数多の剣は無限に生み出そうとも、それを扱う腕は二本しかないのだ。それを拘束されては、士郎に為す術はない。
「――――Anfangセット……!」
 凛は宝石を構え、目の前に犇く枝の群れに向かって、紅色の宝石を突き出した。
「Das Schwert der Flamme schneidet einen Baum!!」
 熱気が凛の頬を強烈に叩いた。鮮やかな赤熱の一閃が走り、周囲に群がっていた無数の枝木が根こそぎ吹き飛ぶ。しかし、自分の身を守ることで精一杯で、士郎のサポートまでは手が回らない。
「くそっ、……!」
 再び、士郎の体をヤドリギの枝が締め上げる。
「士郎!」
 枝木は次々と燃え落ちるが、その勢いは衰える様子は知らない。縦横無尽に伸びるヤドリギに、凛は為す術べが無かった。
 否、為す術はもう一つしか無かった。
 ――こんなに早い段階で、これを使うしか無いのか。これが無ければ満足に戦うことは出来ないのか。やっぱり私は――弱い。
 凛は歯噛みしながらも、懐に手を差し入れる。そして、次の瞬間――。

 士郎を締め上げていた無数の枝木は、突如、空中から矢のように飛来した数十本もの刀剣に串刺しにされた。

「!?」
 地面に縫いとめられた無数のヤドリギの枝が、刀剣に串刺しにされた点を基点として、次々と燃え上がる。ロブの耳をつんざくような金切り声が空間を揺さぶった。
「―――なんだ、これりゃぁ!?」
 ロブが驚愕の声を上げる。あれほどまでの頑強さを誇った枝木が、おぉ、おぉ、と苦悶の唸り声を上げて地面の上をのた打ち回り、次々と燃え果てていく。
「!」
 凛は驚きに目を見開いた。
 ――"無限の剣製"じゃない! 枝木を燃やしているのは、魔術の炎。これは、一体……。
 硬直した身体を動かす。見渡した視界の隅で、ふわり、と何かが舞った様な気がした。

「ギャアアァァァァ!」
 士郎は地面に横たわりながら、炎に包まれ、のた打ち回る化け物を見上げていた。
 それが魔術による炎だということは、彼もまた気付いていた。そして、それが凛の魔術によるものではないということも。
 しかし、士郎の胸を占めるのは、もっと別の疑問だった。
 ――どうしてロブはあの程度の炎で苦悶の声を上げているのか。火力で言えば、凛の宝石魔術の方がずっと勝っている。だというのに、苦悶の度合いは遥かにこちらの方が上だ。
「耳障りな声だ」
 ロブの絶叫には、この世のモノでは有り得ない響きが含まれている。それは、知性有るものの精神を蝕む音波のようだった。
 この叫びはロブ自身のものではない。恐らくこれは、彼に寄生している存在が上げる苦悶の叫び。
「まさか、これは……」
 身体に巻きついた枝から逃れられない士郎は、この場に居るであろう魔術師……。介入者の姿を探して、身を捩った。

 カツ、

 顎を上げた士郎の視界に、床を叩く黒い編み上げブーツが映りこむ。
 軽やかな足取りで現れたその人物は、どこか酷薄な青い瞳で士郎を見下ろした。
「お前は……! 埋葬機関の……!」
「酷い様ですね。エミヤ。――主の導きは要りませんか? 今なら安くしておきますよ」
 カソック姿のその女性は、実に気楽な口調で言って、その両手に持った幾本もの刀剣を、鉤爪のように構えて見せた。










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