19.悪霊の棲む森ヒートラU





 街外れに近づくにつれ、街路の端々には火の手が目立つようになった。
 確かに一掃されたはずの死者の姿が、街路には今も尚、まばらに存在している。一体どこから沸いてきているのか。終わりの見えない戦局に、凛は諦観の混じった様子で目を細め、重たげに構えていた銃を降ろした。
「遠坂、あまり気にしてもしょうがない」
 併走していた士郎が、前をしっかりと見つめ言った。
「ええ、わかってる」
 凛は苛立たしげに呟く。近くに死者が潜んでいると思うと、どうにも落ち着かない。
 今するべきは、死者の殲滅ではなく、操り主たる死徒の討伐である。頭を切り替えなければいけない。冷静になれ、と何度も自分に言い聞かせる。
 戦局には終わりが見えないが、確実に事態は変化してきているのだ。きっと、この街にもいつかは夜明けが訪れる。
 確信と共に、凛は駆ける足に力を篭めた。
 これまでと変わらないように思えるこの状況で、これまでと違う点が一つだけ存在している。それは、この街に蔓延る未だ数百はくだらない死者たちの、その行動である。
「あそこにも一匹いるわね」
 背筋に纏わりつくような視線を感じて、凛は背後を振り返り小さく眉を顰めた。
「一定の距離を保っているな。襲ってくる気配は無さそうだ。まあ、今の俺達にはその方が余計な仕事が減って好都合だが」
 どうにも納得の行かない表情で、しかし凛はゆっくりと頷いた。
 纏わり付くようなあの不快な視線さえ我慢すれば、士郎の言うとおり、この状況はそう都合の悪い物ではない。障害が少なければ少ないほど、敵の本陣に乗り込むまでにかかる時間が短くなるのだから。
「でも、気に入らないわ。こればかりは、どうしても」
 凛は気付いていた。急に街に火の手が増えたのが、この死者達の仕業なのだということを。
 人々の生活が、営みが、暴力のままに蹂躙される姿を見るのは、あまりにも、辛い。
「……確かに皆殺しにしたはずなのに。どっからこんなに湧いてきたのかしら」
 駆け足で走る凛の隣で、アルクェイドがぽつり、と呟いた。
「そう多くはないとはいえ、数は確実に増えている。死者がどこから供給されているのかを突き止めなければ、街の浄化は難しいだろう。……これは、聖堂教会も手を焼くだろうな」
 悔しげに、士郎が呟く。彼もまた、凛と同じく、この光景を見過ごさざるを得ない状況に憤りを感じているに違いない。
「けど、どうしてあいつら、街に火なんて放ち出したのかしら?」
「操り主が指示を変更したんだろう。目的は、聖堂教会の連中の足止めといったところか?」
 死者の行動が「攻勢」から「防勢」に替わると、街の浄化という観点から見れば対処は難しくなる。放火による命令を出している死徒にそこまでの考えが合るのかはわからないが、教会が誇るあの騎士団の足を鈍らせるには効果的な戦法といえるだろう。
「……!」
 随分と小賢しい手を使ってくる。凛は思わず舌打ちした。
「けど、どうして今更時間稼ぎなんて?――まさか、逃げるつもりじゃないでしょうね」
「馬鹿を言うな。奴らの目的はここにあるんだろう? 何もせずに大人しく帰ってくれるとは俺には思えないがな」
「士郎の言う通りよ。凛。……二十七祖クラスの死徒の気配を何体も感じるわ。この森の奥が奴らの本拠地だっていうのは、ほぼ間違いない」
 アルクェイドは街の外れ、黒い森の奥深くを見つめ呟いた。
「――うぅ、また胃が痛くなってきた……」
 押しつぶされそうな程の不安を感じ、腹の辺りを押さえ凛は思わず呻く。
 ―――二十七祖クラスの死徒とやらが何体いるかなんて知らないけれど、たぶん、それらすべてが私達の敵となるに違いない。今更だが、こちらの戦力が四人というのは、些か分が悪いのではないだろうか?
 単純計算で言えば、四体の死徒がいれば、少なくとも一体は一人で相手をしなくてはならないということになる。考えるだけで胃に穴が空きそうだ。
「でも……。逃げるわけには行かない、か」
 ここで引き返すわけにはいかない。
 あのロブという死徒だけは、絶対に見逃せないから。
「そろそろ街を抜ける。ここからは何が起きても可笑しくない。十分気をつけてくれ」
 先頭を走る殺人貴が、ぼそりと呟いた。
 炎に包まれた市街地を抜ける。闇が一層、その濃さを増したような気がした。街との気温差によって強烈な気流が生じている。叩きつけるような風圧を感じて、凛は外套の前をしっかりと合わせた。
 荒れ果てた荒野をただ走る。数百メートルほど走ったところで、彼方に黒い森が見えてきた。
 先行するのは殺人貴。吸血鬼の気配を辿るその足取りに迷いは無い。彼には既に、倒すべき敵の根城が視えているのだろう。目元には、白い帯布が硬く結ばれている。錬金術師に揃えさせたという黒い帯布を外したのは、正確に敵の居場所を探るためだろう、と凛は踏んでいる。錬金術師の眼帯は優秀すぎる為、死線を頼りに敵を追うのには向かないのだ。
 いざ戦闘となれば死の線を視なければならないのに、何故殺人貴は改めて布地を巻きなおしたのか、という点に関しても、凛には予測が付いている。
 魔眼の行使は身体……。とりわけ、脳に過大な負荷をかけてしまう。殺人貴の肉体は人間の規格内に納まるポテンシャルしか持たない。常時魔眼を開放すると身体の方が保たないのだろう。
 身の丈に過ぎる力は、その身を滅ぼす。世界に常時影響を与えてしまうライダーの石化の魔眼とは異なるものの、本来見えないものが『視えてしまう』という強力な魔眼は、決して恵まれた能力などではない。魔眼とは何時の世も、災厄をもたらす凶兆でしかないのだから。
 殺人貴の足が、止まった。
「どうしたの?」
 後ろを走っていた凛は、思わず立ち止まり、尋ねた。
 殺人貴は無表情に、森の奥をじぃっと見つめている。深い茂みに覆われた、明かり一つ無い、果てない深遠を湛える森の、その奥深くを。
「こっちが……。気になるんだ」
 森の奥に広がる闇から注意を逸らさず、殺人貴が呟いた。
「気になる、ですって?」
 意味深な彼の言葉に、凛は訝しげ眉を顰める。今は一刻を争う。個人的な趣向で足を鈍らせて良いときではない。
 しかし、殺人貴が気になるというその『何か』を、下らないものと斬って捨てる事は凛には出来なかった。
 ここで焦って重大な何かを見逃す訳にはいかない。殺人貴が凛では知覚出来ない何かを捉えていると言うのなら尚更だ。
「志貴」
 僅かな沈黙の後、腕を組んで難しい顔をしていたアルクェイドが、ゆっくりと口を開いた。
「そっちに敵は居ないわよ」
 それは、妙に断定的な口調だった。
「ああ、わかってる」
 どこか早口に、何かに急かされる様に殺人貴は応える。
「それなら、先を急ぎましょう?……その先にあるモノを見たからと言って、私達に得する所は無いわ」
「――この先に何があるのか、気付いているのか?」
 殺人貴の顔が、アルクェイドの方へと向けられる。アルクェイドは、何も答えなかった。
「俺は、この先にあるモノを知りたい」
 強い意思の篭った声で、殺人貴が言った。
 しばらく視線が交わされるような間があって、やがてアルクェイドは細く息を吐き出した。
「この先に、私達の益になるものは存在しない。貴重な時間も消費する。それでも、志貴はそっちへ行きたい?」
 確かめるように言って、厳しい目で殺人貴を見つめる。その声は、気軽に応えられないような一種の『重さ』を含んでいた。しかし、
「付き合ってくれるか? アルクェイド」
 殺人貴の声に、迷いはなかった。
「志貴が来て欲しい、っていうなら」
 そして、それはアルクェイドもまた同じだった。殺人貴の答えを予見していたかのような即答だった。しかし、
「……一人でなんて、行かせられない」
 そう呟くアルクェイドの目が一瞬、戸惑うように揺れたのを、凛は見逃さなかった。
 二人は何やら目配せをすると、確かめ合うように互いに頷き合う。話が纏まったらしい。しかし、凛と士郎は完全に置いてけぼりになってしまっている。何が何やらわからない。
「ちょっと待って頂戴。二人の世界だけで話を進めないで、きちんと説明して」
「……」
 説明を求める凛に、しかし殺人貴はもちろん、アルクェイドも口を開こうとはしなかった。凛と目を合わせようともしない。
「答えて」
 苛立つ自分を抑え、凛はきつく歯を食い縛った。
 少しでも早く、一秒でも速く、あのロブという死徒の討伐に向かいたいというのが、凛の本音だ。時間を浪費するということは、あの死徒による被害が拡大するという事に他ならない。死徒を取り逃したことに身を焼くほどの責任を感じている凛にとって、今の「停滞」とも言える状況は歯痒いものでしかなかった。
「――ッ! あんた達はどうして……!」
 凛が苛立ちのあまり、抗議の声を挙げようと口を開いたその時、
「……俺達も、行かなくては駄目か?」
 それまで口を噤んでいた士郎が、アルクェイドや殺人貴と同じ慎重さで口を開いた。その声はどこか不安げで、強い緊張で揺れているように感じられた。
「駄目と言うわけじゃない。見たくないならお前達は先に行ってくれて構わない。この先に用があるのは……。そうだな。言ってしまえば、俺の個人的な問題だ」
 そう応える殺人貴の声は冷たい。
「アルクェイドは、この先にある物を見たとしても益は無いと言っている。多分、それは間違いない。――あんたらはあんたらで好きにするといい」
 殺人貴は振り返らない。ただ士郎へとその華奢な背中を向け、淡々と言葉を放つ。
「――殺人貴」
「どうするかは、あんたが決めろ。エミヤ。ただ、俺達はこの先にあるモノを見てから行く」
 冷たくそう突き放したように言って、殺人貴は眼帯の下に隠された双眸を闇に向けると、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「……なによ、あの言い方」
 素っ気無い態度で士郎をあしらう殺人貴の態度に、凛は眦を吊り上げた。仮初とはいえ、この四人は仲間であり、生死を共にする一心同体であるはずだ。少なくとも、これから取る行動について説明する責任くらいはあるだろう。
 だが、凛は強く殺人貴を非難するのを躊躇った。それは、彼女の横で表情を硬くする、士郎の態度が引っかかっているからかもしれない。
 いつもなら「今は寄り道をしている場合ではない」と正論を振りかざして殺人貴に食って掛かりそうな彼が、表情を強張らせたまま、森の奥を見つめ動こうとしない。その様子を見ると、凛にはこの先に彼らをそうさせる、不吉な何かがあるような気がして、迂闊に口を開くことが出来なかった。
「どうしたの? 士郎。三人とも何か変よ。この先には一体何があるって言うの?」
「俺にもよくわからない。だが……。上手く言えないが、何だか、嫌な感じがする」
 戸惑った様子で、呻くように士郎が言った。
 殺人貴とアルクェイドは草むらを掻き分け、道なき道を奥へ奥へと進んでいく。
 悩んだ末に結局、凛は二人の後を付いて行く事にした。凛と士郎だけで敵の本拠地に乗り込むという選択肢も有るには有るが、それでは戦力的に分が悪すぎる。もともと、凛達の仕事は戦闘面におけるバックアップ。アルトルージュ一派に接触する可能性がある以上、凛と士郎だけで乗り込むのは巧くない。
 それに。
 凛は士郎の様子が気がかりだった。士郎の顔は森の奥へと近づくに連れ、目に見えて色を悪くしている。動機が荒く、目はどこか虚ろだ。何が彼をそうさせるのかは解らないが、不安要素を残したままこの先の戦局へ進むわけにはいかない。
「――けれど、嫌な空気ね」
 改めて辺りを観察してみると、どうも森の中に嫌な空気が混じっているような気がする。冷気と腐臭の混じったような、そんな匂い。冷凍焼けした肉の匂いに似ている。
 どこが可笑しいかと問われれば返答に困るが、何か違和感のようなものが、確かにこの森には存在している。

 ドクン、

 どこか遠くで、鼓動の音が聞こえたような気がした。もちろん、凛のものではない。というより、人間の鼓動はここまで大きく、大気を振るわせるほどに響くものではない。
「志貴、引き返すなら今のうちよ?」
 硬い声で、アルクェイドが言った。
「うるさい。嫌なら来なくていいぞ」
 苛立ちの混じった声で、殺人貴が答える。その足取りは、どこかふらふらとしていて、危なっかしい。
 ――どうしたのかしら? 士郎も殺人貴も、一体何を感じているの?
 凛は心の中で首を傾げたが、それ以上深く考える事はしなかった。深く考えずとも、すぐに自身の抱く疑問が晴れるだろうということを、凛は本能的に察知していた。

 ドクン、ドクン、

 鼓動が近づいてくる。それは、この先の森の中から聞こえていた。ここまで来れば、目的のモノはすぐそこだ。
 目を凝らす。赤黒い光が、闇の中でゆっくりと明滅しているのが見えた。
「……クソッ」
 額を押さえ、士郎が何度も頭を振る。その額は、大量の汗で濡れている。
「この気配は、まさか」
 ざわざわと背中の粟立つような予感に、凛は身体を震わせた。その予感が気のせいであって欲しいと、心から願う。
「何よ。この空気……!」
 思わず鼻と口を手で押さえる。
 ここまで近づけば、凛もその先にあるモノが何なのか、朧げながらも想像がつく。
 大気中のマナの組成、空間の歪みから、この先に存在するモノを推測する。それは、実に不快な想像だった。
 これ以上近づくことを拒むように、足が鉛のように鈍くなる。これ以上進めば、きっと後悔するぞ、と直感が告げていた。
 
 “禁忌を犯して造られた異界”。

 それが、凛が感じ取ったこの森の奥に潜むモノの正体だ。
 かつて聖杯戦争で体験した、キャスターのサーヴァントが柳洞寺に作った“陣地”。あれに近い気配が……。いや、あんなものじゃない。あれよりももっと濃密で乱暴で粗雑な、周囲への配慮なんて微塵もありはしない、そんな不出来な『異界』の存在を肌で感じる。
「……!」
 ぞくり、と首筋を不快な風が撫でた。
 引き返すなら、今のうちだ。この先にあるものを、凛が確認する必要は無い。アルクェイドが言うとおり、この先に彼女が倒すべき敵はいないのだから。世の中には知らなくて良いものがあるということを、彼女は識っている。
 ――けれど、駄目。逃げるわけには行かないわ。
 しかし、凛は確認せずにはいられない。それは、魔術師と言う探求者としての業の為せる業か、それとも彼女の気質に端を発するものなのか。それは彼女自身でさえも解らない衝動だった。
 覚悟を決めろ。
 凛は自身に言い聞かせる。地獄はここ何日かの間に幾度も見てきた。もう見飽きてしまった。今更、何を恐れるのだ―――。

 ドクン、ドクン、ドクン……

 鼓動は、その滑つく質感さえ感じられるほどに近づいていた。
 じゃり、
 足元の腐葉土に、砂を含んだものが混じる。
 視界が開け、森の風景から樹木が消え去る。腐った臭気が、冷たい森の空気に混じって漏れ出した。
 赤黒く明滅する光が網膜に焼きつく。
 黒い森に反響する鼓動の中で、凛の心臓の音が、消失した。

 四方を木々に囲まれた、黒い森の平原。
 そこには、一面に広がる下草を覆い隠すように広がる――。うねうねと蠢動する、巨大な臓物が横たわっていた。

「――ッ!」
「何て事を……!」
 拳を砕けんばかりに握り締め、殺人貴が震える声で呻く。反対の手は、痛みを堪えるように、胸元に添えられていた。
 喉元を競りあがってきた胃液の感触に、凛は思わず口元を押さえ、下草の生えた地面に膝を突いた。
 赤黒く明滅する巨大なチューブ。臓物……中でも腸を思わせるようなフォルムをした無数のソレらが、巨大な幼虫のように蠢動しながら広場を覆っている。
 凛はその光景から目を逸らさず、しっかりとその『臓物』を見つめた。
 それは、この世のモノとは思えない光景だった。信じられないことに、ぬらぬらと肉色に光るそれらは生き物のハラワタではなく、あまりにも巨大な樹木……。そう、『蔓』だった。あまりにも太くてわからなかったが、無数の蔓が折り合うようにして構成されたチューブが、球場ほども有る広場を埋め尽くしている。それは形骸だけでは有るが、森本来のあり方に沿って存在していた。
 しかし、だからこそこれは度し難い。本来有り得ぬ姿にデフォルメされたその醜悪さは、創造主への冒涜に他ならなかった。
「中に居るのはやっぱり――」
 目を凝らす。複雑に絡まる木の根の間に、無数の生き物が捕らえられている。チューブの中でふらふらと浮遊している、芋虫にも似たソレは―――。

「なんて悪趣味。まだみんな、生きてる」
 
 数千に及ぶ、人間だった。

「……もう、助からないのか?この人たちは」
 半ば諦めの混じった士郎の瞳が、助けを請うように凛とアルクェイドを見つめた。
「――残念だけど、摘出は難しいわね。見ただけで、細かい根が全身にまで回ってるのは想像が付く」
 これはもう、『異界の邪神』に近い。その腹腔に囚われたとなれば、それはもう、この世界の法則にさえ属さない異物である。異界の神に捧げられた人々は今まさに、生きたまま、その存在ごと喰われようとしているのだ。
「酷すぎる。こんなの、あんまりじゃない」
 呟く声は、涙に濡れていた。
 彼らを救う方法は無い。
 もしも彼らに救いが有るとすれば、それはこの化け物の存在を世界から消去し、この邪神に取り込まれる前に彼らを消し去ってしまうことだけだろう。
「ちょっと待って。中の人たちはまだ生きているわね? ねえ、志貴。これなら、もしかしたら――」
「ああ。本体となる親木を殺せば、まだ助けられるかもしれない。寄生しているこの樹だけを殺すことが出来れば、まだ望みは有る」
「本当か!? 殺人貴!」
 士郎が、反射的に殺人貴の腕を掴む。驚いたように士郎を見つめ返した殺人貴は一瞬、眉を顰めたが、士郎の瞳に映る、追い詰められた子供の様な……。必死な懇願の色を見て取って、力強く頷いた。
「望みがあるのは確かだ。この眼にかけて保障する。――ただ、そのためには親木となる部分を見つけ出して殺さなくちゃいけない。末端の根を殺しても、すぐに別の根が伸びてくるから意味が無いんだ」
 そう言って、殺人貴は足元に視線を落とした。
「親木となる部分はここには無い。――死の線の流れから見て、恐らく地下だろう」
 希望が見えた。士郎の目に力が戻り、凛の顔が緊張で固く強張った。
「地下、ね。まだ助けられる見込みが有るのね」
 まだ、望みは有る。
 絶対に。
 絶対に、助けてみせる。
「それにしても、酷いオブジェね」
 異界の邪神チューブに近づき、アルクェイドがその表面に触れる。滑つく臓物の感触に、軽く眉を顰める。
「これが"ヒーシ"。その名の通り、『悪霊の住む森』ってわけね。……『悪霊』っていうより、これじゃ化け物だけど」
 肩を竦め、冗談めかしたように言う。彼女だけが一人、四人の中で涼しい顔をしている。
「これってあれに似てるわよね、――そうそう。ウインナーソーセージ。腸がこの赤黒く点滅している木の蔓で、中につめる肉が人間」
「……冗談でもその言い方は止めろ。真祖」
「冗談なんかじゃないわ。事実を言ったまでよ」
 くすり、と笑ったアルクェイドの真紅の瞳に、瞬間的に殺気が奔る。

 ザシュ、

 肉を切り裂く、柔らかな音が鈍く響く。
 高速で袈裟掛けに振り抜かれたアルクェイドの鋭利な爪が、ぬらぬらと光るチューブを引き裂いた。中から、樹液染みた液体が零れ落ちる。
「やっぱり、普通に引きずり出しても駄目みたいね」
 赤黒く点滅を繰り返しながら、凄まじい速度で傷が塞がっていくチューブを見つめ、アルクェイドが呟いた。その顔は、嫌悪で歪んでいる。
「とんでもないものを喚びだしてくれたものね。……けど、おかげでようやく見えてきた」
 凛の瞳が盲い光を灯した。パズルのピースが、音を立てて連鎖的に繋がっていく。
 アルトルージュ一派が探していた、叙事詩『カレワラ』に伝わる、“ヒーシ”と呼ばれる場所。
 次々とフィンランド国中で起こる、組織化された死徒による街の襲撃。
 そして、数万に上る人々の失踪。
 その目的が。
「奴らはこの化け物を使って、何かを召喚するつもりなんだわ」
 低い声で、凛が呟いた。
 今からそう遠くない時間に、召喚儀礼が行われた形跡が残っている。実際に儀式が行われたのはこの地下か。規模は小さいから、恐らくこの土地の霊脈が使えるかどうかを一度試したのだろう。
 近いうちに、もう一度召喚が行われるはずだ。その時に、この邪神に捕らえられている人たちは、召喚の為のエネルギー源……。生贄として捧げられる。
「けどこれじゃあまだ、不完全。まだ答えとは言えない」
 凛は苛立ちを抑えるように、親指の爪を噛む。他の三人の視線が、凛へと注がれる中、それを全く気に留めることなく、凛は頭の中でパズルのように理論を組み立てていく。
「……問題は、何を召喚するか」
 そう。最大の問題はそれだ。こんな物まで用意して、ろくなモノでは無いのは確かだろうが、何を召喚するつもりなのだろう?
 順当に考えれば、“聖杯”か。彼女達の最終的な目的が聖杯の入手にあるのだとしたら、それが最も最短の理論だ。
 しかし、何かが引っかかる。そもそもこの召喚陣は誰が構築したのだろうか?
 アルトルージュ一派の仕業だというなら、彼女達の中には魔術師がいるということになる。吸血種だけだと思っていたから、これは想定外……。いや、吸血種の中には魔術師から成った者もいると聞く。そうだとしたら、これはそいつの仕業かもしれない。
「でも、それだとやっぱり違和感が……」
 凛は目を硬く瞑り、小さく唸る。
 魔術を極めた者にしては魔術式の組み立てが乱暴すぎる。こんなあからさまな異界、すぐに協会に見つかってしまうし、そもそもこんな方法では聖杯は―――。

「あの、」

「!?」
 突如背後から聞こえた声に、凛は飛び上がるように声のした方へと向き直った。身体ごと振り返った先にあるものを見て、表情を強張らせる。
「あの、驚かしてすみません。人が来たら、連れてくるように言われてて、それで……」
 そこにいたのは、気の弱そうな、ブロンド髪の少年だった。
 ローティーンの、普通の人間……。凛の中にある冷静で理論的な部分は、目の前の少年をそう判じた。しかし、

 ――この光景を見て、何とも思わないの?

 アルクェイドの言葉ではないが、あの『人間ウインナーソーセージ』とでも言うべきおぞましい化け物を見て、平常どおりの反応を返すことが出来る人間が果たしているだろうか。いるとしたら、そいつは余程人間的に欠落した奴か、人間の皮を被った何かであるに違いない。
「あなたたちが来たら、この地下にある祭壇に連れてくるように言われているんです。……来てもらえませんか?」
 鋭い凛の視線から逃げるように目を彷徨わせ、おどおどとした様子で、その少年は言った。
「……」
 この少年に同情的な目を向ける者はこの場には居なかった。誰もが冷静に、そして疑惑の目で少年の動向を観察し、これが敵の用意した策略だと仮定した上で、確認するように互いの顔を見渡した。
「――この子はこう言っているけど。どうしましょうか?」
「罠だろう。それ以外には考えられん」
 少年には理解できないように、凛が日本語で尋ねる。士郎もまたそれに倣った。
「ちょっと待て。この子は人間だ。ここは一緒に連れて行って、後から聖堂教会に保護してもらうのが良いんじゃないか?」
 非難するような声音で、殺人貴が反論する。
「正気か? これを普通の子供として扱うのは危険だ。さっき街で遭遇した死徒は“魅了の魔眼使い”だぞ? この子供が操られているという可能性も十分考えられる」
 士郎はそう言って、ちらり、と視線を少年に向けた。少年は、おどおどと落ち着きのない様子で、凛たちの会話を聞いている。
「アルクェイドはどう思う?」
「そうね。魔眼や魔術による精神支配を受けているかどうかまでは私にはわからないわ。けど、どうしても気になるっていうなら、私がこの子供に“魅了の魔眼”をかけてもいい。それで支配を受けているかどうかはっきりするわ」
「――あ。その手があったか」
 “魅了の魔眼”を使えるのは、何も敵だけとは限らない。真祖の王族たるこの姫君ならば、より強力な支配をかけることも可能だろう。が、しかし、
「まあ、そこまでする必要も無いでしょうけど」
 真祖の姫は、涼やかな微笑と共に、その選択肢を斬って捨てた。
「精神支配を受けているにしても、そうじゃないとしても、私達が敵の懐に飛び込まなければならないというこの状況に変わりは無い。それなら、折角のお誘いですし、罠だと知った上で飛び込んでみるのもも悪くないと思うけれど」
 そう言って、優雅な仕草で微笑んで見せる。小ざかしい真似などこの身には通じないと、その仕草は物語っていた。
「ふむ。一理あるな」
 一瞬、虚を疲れたように固まった士郎が、ニヤリ、と不適な笑みを浮かべた。
「面白い。確かにここで操られているかどうかを議論するのは意味がないな。ここは、罠だと知った上で飛び込んでみるか」
「俺も賛成だ。子供をこんな森の中に置き去りにして教会の助けを待つよりも、一緒に連れていったほうが安全だろうしな」
 殺人貴も頷きを返す。凛は苦笑交じりに皆の顔を見渡した。
「本当、面白いメンバーね。あなたたち。必勝を期する魔術師には無い大胆さだわ。――けど、いいでしょう。私もそういうの、嫌いじゃない」
 四人の意見は一致した。
「……よし。待たせたな。では悪いが、道案内を頼もうか」
 士郎の言葉に、少年の顔に喜びの色が浮かんだ。こっちです、急いだ様子で獣道に分け入っていく。凛たちも慎重な足取りでそれに続いた。
 少年は、真っ直ぐに、ある一点を目指して歩いて行く。しかし、その道中にある光景は、凛を当惑させるものだった。
「どうして、こんな所に子供がいるんだ?」
 森の中を歩く途中、何人もの子供とすれ違う。その異常な事態に、辺りを警戒していた士郎が戸惑ったような声を挙げた。子供達は、年齢にそぐわぬ羨望……。いや、恨みや憎しみといった類の感情の篭った眼差しで、先導する少年を睨みつけている。
「僕が羨ましいんです」
 先を歩く少年が、ぽつり、と言った。
「あなた方を連れて行くと、ご褒美が貰えるんですよ。みんなはあなた方があの道を通ってくると思って、道を陣取ってずっと待ち伏せしていたんです」
 そう言って、少年は横手に平行して伸びている林道を指差した。そこは、殺人貴が森の奥が気になると言い出さなければ、本来、凛たちが通るはずだった道だ。
「だから、僕なんかに先を越されて、悔しいんだと思います」
 そう言って笑う少年に、凛はどう接すればいいか解らなかった。凛には、この少年がどうにも不気味に思えてならない。何を考えているのか、さっぱり解らないからだ。
「のけ者にされていた僕が、ご褒美を貰えるのが気に入らないんでしょうね」
 周りの子供達から向けられる視線に肩をすくめ、少年は呟くように言った。
 よく見ると、少年の身体にはあちこちに痣の様なものが見える。子供達は、誰が先に連れてくるかで相当揉めていたのだろう。
「子供達に私達を案内させるのを競わせていたっていうこと? ……何を考えているのかしら?意味がわからない分、余計不気味だわ」
 沈黙に耐えかねた凛が口を開き、小さく身体を震わせた。
「そう? 長く生き過ぎた死徒は、こんなくだらない遊戯を好むものよ。大方、子供達をゲームで競わせて、暇つぶしでもしていたんでしょう」
 どこか達観したように言って、アルクェイドは頬に掛かっていた髪を掻き揚げた。
「悪趣味だな。吸血鬼という生き物は。――反吐が出る」
 侮蔑の感情を篭めて、士郎が言った。その呟きに、アルクェイドが言葉を返すことは無かった。
 目的の場所は、すぐに姿を現した。切り立った山肌が現れ、そこには二人が並んで入れるほどの、石造りの洞穴が掘られている。森の中に隠されるように、洞穴は真っ暗な口を開けている。そこは、凛たちが本来通るはずだった道の終着点でもあった。
 ―――強い力の気配を感じる。
 凛の背筋を、ざわざわと予感めいた気配が走り抜けた。踏み入ることを僅かに躊躇する凛を尻目に、少年はすたすたと洞穴の奥へと進んでいってしまう。
 凛たちもまた、少年に続き洞穴へと踏み入る。
 洞穴には石造りの階段が造られており、地下へと螺旋状に降りていく構造になっていた。精巧に積まれた石段は、かなり古い時代に作られたものらしく、自生した苔が石段の隙間にびっしりと生えている。石の色が白っぽいことからも、回廊はこの辺りの石ではなく、どこか別の場所から運んできたものであるということがわかる。
 凛たち四人は、少年の手に持った蜀台の灯りを頼りに、ゆっくりと階段を下っていく。
「エミヤ」
 果ての見えない回廊の中で、不意に殺人貴が先を歩く士郎を呼び止めた。 
「……その呼び方は止めろ」
 士郎が不機嫌そうな声で応える。
「なら、お前も殺人貴って呼ぶのを止めてくれ」
「なんだ、今更」
 呆れたように鼻を鳴らし振り返った士郎に、
「前から気になってたんだ。殺人貴っていう名称は好きじゃない。それじゃあ、まるで俺が無差別殺人犯みたいじゃないか」
殺人貴はどこか拗ねたような口調で言った。
「何を言っている。事実だろう?」
「事実じゃない! エミヤ、お前わかってて言ってるだろう……!」
「……何やってるんだか」
 背後で言い争いを始めた二人を振り返り、凛は呆れたように息を吐いた。どうにも二人は抜群に相性が悪いらしい。
 先はまだ長い。歩くペースの落ちた二人を尻目に、凛はアルクェイドと共に、回廊の更に奥を目指――。

「お前、性格が曲がってるぞ。少しは改めた方がいいじゃないか?」
「余計なお世話だ。少なくとも、お前のような如何わしい男にだけは言われたくない」

「――せるわけないわよね」
 顔を突き合わせて言い争う二人の大人の姿に、凛は肩をすくめたのだった。
「如何わしい、だって?」
「そうだ。自分の姿を鏡で見てみるんだな。その格好でエスプラナーディ通りを歩いてみろ。すぐに武装警官に囲まれるぞ」
 小ばかにしたようにせせら笑い、士郎は頭一つ分背の低い殺人貴を見下ろす。士郎のその物言いに、殺人貴は思わず一瞬、言葉を失った。
「え、えすぷら……?」
 ごもごもと戸惑った様子で呟き、
「と、とにかく、難しい言葉を使って煙に巻こうとしても駄目だぞ。そりゃ確かにこの服装は普通じゃないけど、如何わしいのはお前だって同じじゃないか!」
 殺人貴の右手が、びしり、と士郎の真紅の外套を指差す。指先から辿るようにして自分の身体を見下ろした士郎の眉が、険しく寄った。
「な――。なんだと……!?」
 自慢の一張羅を如何わしい、などと言われたのが余程気に触ったらしい。くっ、と歯を食いしばると、士郎は悔しそうに殺人貴から視線を逸らした。
「もういい! お前には付き合ってられん」
 そう言い捨てると、殺人貴に背を向け、回廊の奥へと向かってずんずんと歩き出す。
「おい、エミヤ」
「なんだ、殺人貴」
 精一杯の皮肉を篭め、士郎が言葉を返す。まっすぐ前だけを見たその顔は、不機嫌そうに歪んでいた。
「生きて帰れよ」
 突如真剣な声が、士郎の耳朶に響いた。
「……。何だ、気味が悪いな。生きて帰れだと? “殺人貴”に言われても不吉な予感しかしないぞ」
「だから、その呼び方は止めろと言っている」
 からかうような口調で返した士郎に、一際大きな声で殺人貴が言った。
 僅かに降りる沈黙。
 やがて、ぽつりと殺人貴は呟く。
「待ってる女性ヒトがいるんだろ?」
「……」
 チッ、と士郎の舌打ちする音が聞こえた。
「だから、余計な話をするべきじゃなかったんだ」
 そろり、と足を踏み出しかけた凛は背後から睨みつけるような視線を感じ、思わず身を固くした。
「この先に居るのは、破格の化け物ばかりだ。一瞬の不注意が、永久の闇を招く」
「ああ。わかっている。そんなこと百も承知だ」
 呆れたように答える士郎だったが、殺人貴の声はやはり真剣だった。
「だから死ぬなよ、エミヤ」
「……ふん、」
 再び士郎と殺人貴は歩き出す。凛は気まずいものを感じて、二人に声をかけていいものかどうかを一瞬迷ったが、結局何も言わなかった。ただ、殺人貴が士郎にそんな言葉を掛けるということが、凛にはとても意外なことであるように思えた。
「殺人貴。一つ、お前に聞いておきたいことがある」
 それから大した間もおかず、歩みをそのままに、今度は士郎が口を開いた。
「お前は、自分の歩んできた人生を……、自分がした選択を、悔やんでいるか?」
 それは、地獄の判事の様な口調だった。
「……」
 考え込むような沈黙が、洞穴に満ちる。アルクェイドの歩調が一瞬、確かに乱れた。
「――いいや。後悔は無い。俺は、これが最良の選択だって信じてるし、そう思えるような未来を切り拓いて見せる」
 殺人貴は何の躊躇も気負いも無く、そう答えた。それは、これまでのことを振り返ってというよりも、これから先の自分への決意であるように凛には感じられた。
「お前はどうなんだ?」
 殺人貴が質問を返す。
「決まっている」
 士郎は皮肉げに唇の端を吊り上げると、背後を振り返り、白い眼帯に覆われた殺人貴の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺の人生には、後悔しかないさ。きっと、これは死ぬまで変わりはしない」


 そのやり取りに、どんな意味があったのか。それを、凛は後に知ることになる。
この会話が、士郎と殺人貴の間に絶対的な隔たりとして立ちふさがり、互いが決して解り合えない存在なのだという認識を決定付けたのだということを、この時の凛は想像だにしていなかった。







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