18.悪霊の棲む森ヒートラT






 深く色濃い緑は夜闇に沈み、まるで森そのものが底無しの闇と化してしまったかのような静けさに包まれていた。薄い霧が低く立ち込め、夏にしては低い気温がぴりぴりと帯電しているかのように肌を刺激する。
 深く不気味な森を挟んだ彼岸には、赤い灯りが、ぼぅっと浮かんでいた。
 街は今、紅蓮の炎に焼かれようとしている。
「第三大隊! 前へ!」
 冷たい森の中を、甲冑を着込んだ騎士が行進していく。
「穂先を上げろ! 侵攻を許すな!」
 無数の二メートルに及ぶ長槍の穂先が、茨のように闇を刺す。教会に所属する、四千名を超える騎士から構成された連隊は、深い森を雄雄しく蹂躙していく。
 闇を前にして、騎士達に恐れは無い。彼らに或るのは、異端への憎悪と怒り、そして神の仇敵を狩り出す機会を与えられたことに対する歓喜である。狂騒的な信仰と漲る活力を熱として、一軍は目の前に立ちはだかるあらゆる怨敵を討ち払い、侵略していく。
「陣を組め! 心を乱すな!」
 野太く響く副官の怒声。騎士達は闇の奥深くに潜む異端の姿を夢想する。森は一つの生き物のように息を潜め、不吉な意思を孕んで、勇敢にして勇猛な騎士達をその腹腔に飲み込んでいく。
 たった一つの不注意な失策が、崩壊と死滅を意味するということを、彼らはよく知っていた。
 しかし、それらを理解しながらも彼らの歩みに迷いはない。彼らが抱くのは恐怖ではなく、数万へ膨れ上がろうとしている軍勢を単身で指揮する、彼らの長への絶対的な信頼……否、信仰に他ならない。
「救護班は負傷者の手当てに!手遅れは処理班に回して、火葬処分になさい!手間取れば死者になります!」
 細かな指示を与えながら、指揮官は一個連隊を一糸乱れぬ動きに統率していく。その姿に、聖女を重ねる者もいるだろう。しかし、真に驚くべきはそこではない。彼女が騎士達から絶対の信頼と羨望の眼差しを受けるのは、彼女自身が部隊の先陣を切って、軍団を率いているからである。
 騎士よりも遥かに高い身分を持ちながら、最も危ない戦場に、誰よりも果敢に挑んでいくその姿を、騎士達は羨望の眼差しで見つめ、聖女に続け、と士気高く深い森へと踏み入っていく。彼女は、彼らの希望だった。
 黒鍵を矢のように闇の中へと撃ち込みながら、聖女……否、シエルは森に潜む死者の群れに燃えるような瞳を向けた。
 森の中には、数千に及ぶ死者が潜んでいる。惨劇の舞台となっている街へは、これを突破しなければ辿り着くことはできない。
 強い意思の篭った瞳を街へと向け、そこで起こっているであろう惨劇を思い、シエルは砕けんばかりに口元を噛み締めた。

 『ケミ市街にて、聖杯召喚の儀が行われる』

 預言者より神託を受けた聖堂教会は、その日の内に騎士団の派遣を取り決めた。
“聖杯を、あるべき場所へ”
 勅命は、ローマ法王の名で広く世界に下された。半世紀に一度あるかないか、という法王直々の進軍命令に、各教会が保有する騎士団、総勢数万名は、皆一様に身体を奮わせた。
 もちろん、それは歓喜に他ならない。
 これまで培った鍛錬が、そして自身の信仰心が試されるこの機会に、兵どもは我先にと戦地へと向かった。
 実に、召集の発令から六時間。
 フィンランドには、各教会が保有する、敬虔な騎士、二万六千が集合していた。
 一番槍を勤めるのは、最も疾くケミへと辿り着いた、誉れ高いチュートン騎士団。それを指揮するのは、表向きは司教の位を与えられ、異端審問騎士団長に任じられた、埋葬機関第七位、洗礼名シエルである。
「周囲五十キロの完全封鎖を完了。共和国からの緊急要請も取り付けました。それと、聖ヨハネ騎士団が街の東の山裾に布陣を終えています」
 副官の報告に、シエルは満足げに頷いた。
「結構。第一、第三大隊はこれより、ケミ市街に突入します。これは殲滅戦です。一切の隠匿は必要ありません。思う存分日頃の研鑽と信仰の限りを尽くしなさい!」
 おぉ、と勝ち鬨の声を挙げて、一軍の覇気が森を奮わせる。
「司教」
 兵を率い、森の奥へと足を踏み出したシエルの前に、初老の代行者が進み出た。
「正気ですか。これは明らかに罠です! 霊媒は森の中に、あまりにも強大な魔の気配が複数存在すると語っています。今乗り込めば、この布陣では全滅の恐れさえ……」
「だから、なんだというのです? 副官」
 戦況の不利を嘆き訴える男に、シエルは厳しい瞳を向けた。
「待ち伏せ? そんなことは百も承知です。だからといって、我々は一歩も引くことは許されない」
 待ち伏せなど、歩みを鈍らす障害にすらならない。教会は、全力を持ってこれを排除する。シエルは男の不安をそう切って捨てる。
 その迫力に、男は思わず言葉に詰まった。
「時間が無いのです。儀式が始まれば、我々には手が出せなくなる。そうなった時、あなたは全ての責任を取ることができるのですか?」
「……っ、しかし」
 更に言い募ろうと、男が口を開いたそのとき、
「神の尖兵が、悪漢を前にして尻込みだって? ――しばらく見ない間に、聖堂教会ご自慢の騎士団も地に落ちたもんだ」
 あまりのも場違いな少年の声が、夜の森に響いた。
「なんだ、小僧。貴様……」
 カズラと呼ばれる司祭にのみ着用を許される、金の刺繍の施された白い外套を身に纏い、少年は挑むような視線を男へと向けた。
「数百年前、彼の盟主の血脈を追い込んだ、あの鉄の意志と信仰はどこに消えたんだか」
 戦陣の真ん中、それも指揮官の真ん前へと突如現れた少年の姿に、男は一瞬、呆気に取られたかのように目を見開いた。しかし彼とて、一線で幾多数多の修羅場を潜り抜けた猛者の一人である。素早く銃を抜き放つと、男は少年の眉間にぴたり、と照準を合わせた。
「……貴様、ヒトではないな」
「ああ、そうだ。人間。僕はヒトじゃない」
 ぬぅ、と。
 少年は挑発するように、男へと目一杯に顔を近づけた。銃を突きつけられているというのに、その顔には嘲笑さえ浮かんでいる。
「……!」
「撃つの? じゃあ好きにすれば?」
 引き金にかかる男の指が震える。
 両手を広げ、恐れなど微塵も含まぬ仕草で少年は男を見上げている。
 影が黒く、長く伸びる。それは、やがて巨大な獣の形を取り―――。
「メレム!」
 シエルの鋭い声が、少年の名を呼んだ。
「……わかってるよ。ただ、僕も今日は少し気が立ってるんだ。我慢はあまり得意じゃない」
 シエルを振り返る。その言葉の通り、彼はいつになく不機嫌そうに眉を顰めた。
「戦うのが怖いならさっさと消えなよ。目障りだから」
 吐き捨てるように言って、メレムは、
「もう我慢が限界なんだ。すぐにでも僕は、例え一人きりだって殲滅戦を始められる」
 人を遥かに凌駕する気配で、年老いた騎士に盲い瞳を向けた。老騎士の背筋がざわざわと粟立つ。
「……! 司教。これは、一体……!」
 戸惑うように向けられた視線に、シエルは背中を向けると、肩越しに冷たい声で、
「去りなさい。騎士団総長ホッホマイスター。その少年の言うとおりです。法王猊下の命は死徒の殲滅と聖杯の奪還。それが出来ない者はこの戦地に居場所はありません。聖堂教会に臆病者は必要ない」
「……!」
 そう言うと、シエルは男を置いて歩き出す。年若い彼女の言葉に、老騎士は屈辱に歯を鳴らした。
 男はしばしの間、シエルの背を静かに見つめていたが、やがて、大きく息を吐くと、ゆっくりと首を振り、
「……失礼した。長らく忘れていましたが、これが戦なのですな」
 どこか晴れやかな笑みを、その口元に浮かべた。
「この戦が主の望みならば、私はそれに喜んで従うまで。―――第二大隊、槍を持て!」
 歴戦の代行者が灯す盲い光が男の瞳に戻った。男は怒号を張り上げると、シエルの隣を抜け、大隊を率いて誰よりも勇ましく行進を始める。
 その後姿を、メレムはつまらなそうに眺めていた。
「なんだ。指揮が様になってるじゃない、シエル。僕は、もっと手間取ってるかと思ってたんだけど」
 暢気な口調で言って、メレム・ソロモンは口元に大人びた笑みを浮かべた。
「……そうでもありませんよ。それに本来なら、私自身が先陣を切って、ケミ市街に入りたいところですから。正直、この状況は歯痒い」
 その言葉通り、彼女の服装は司教帽ミトラを身につけてはいるものの、いつもと何ら変わりない。野暮ったいカソックに、編み上げブーツと言う井出たちである。権威や身分というものに、彼女は興味が無かった。
「聖堂騎士団。総勢、三万二千。ケミ市街を完全包囲致しました!」
 駆け付けた伝令に手で合図をして、シエルは大きく頷いた。
「完全包囲? どういうことさ。このまま攻め込むんじゃないの?」
 戦地へ駆けつけるのが遅れれば、教会は聖杯戦争への参加資格さえ失ってしまう。希少な時間を消費して布陣を展開しておいて、このまま待機という指示を与えたシエルの判断に、メレムは首を傾げる。
「……ケミ市街全域に結界を築きます。アルトルージュ一派をこの街に隔絶。不死者はこの街から一歩も出しません」
 結界は本来、聖域を守る境界線であり、内部へ何らかの干渉をするものではない。
 しかし、ここでシエルの言う『結界』とは、その中にある存在そのものに干渉する類のものである。
「へぇ」
 ニヤリ、とメレム・ソロモンの顔に邪な笑みが浮かんだ。
「それは面白い。けど、どちらにしろ、儀式そのものを止めないと意味が無い」
 シエルはゆっくりと頷いた。
「ははあ。なるほど。君の考えが読めてきた」
 ひとりしきり何度も小さく頷くと、両手を大きく広げ、メレム・ソロモンは踊るような足取りで、森の中へと歩き出した。
「さぁ、シエル。面白いのはこれからだ。戦場が僕らを呼んでいる。嫌な予感が纏わり付いて離れない。こんなにも心が騒ぐのは初めてだ。まるで人間みたいだろう? ――だから、僕は先に行くよ」
 メレム・ソロモンの瞳に狂気を含んだ歓喜が宿る。
 その目は、君はどうする? とシエルを誘っている。
「……私も行きます。敵の本陣はわかりますね?」
 その言葉に、メレムはもちろん、と満足げに頷いた。
 副官に今後の行動を指示すると、二つの師団を伴って、シエルはメレムと共にケミ市街を目指して、深い森へと踏み込んだ。


※   ※   ※


 舞い上がった灰塵を含んだ風が、漆黒の黒衣をはためかせる。言葉を失う凛と士郎を見やって、殺人貴は無表情に彼らの元へと歩き出した。
 黒衣に描かれたヘブライ文字が、月光に照らされて銀色に光る。何か不吉な予感めいたものを感じて、凛は背筋を奮わせた。
 殺人貴は、冷たく硬い表情のまま、瓦礫の中を歩いてくる。
 それは、古来より描かれてきた死神の姿。人の身で死を体現した、殺人貴と言う死の神(タナトス)。
「……ここもか。あいつら何を考えているんだ?」
 不機嫌そうな顔で、殺人貴が呟くように言った。
 どこか拗ねたようなその声が、殺人貴が纏う死神を思わせる気配とはアンバランスで、凛は思わず殺人貴を見つめた。なんだかぼんやりとして、実像が掴めない男である。
「まさか、気付いていないのか?」
 反応の薄い凛の様子に、さも意外だ、と言うように殺人貴は首を傾げた。しかし、凛は先ほどの驚愕が抜けきれておらず、頭がまだ正常な回転を始めていない。彼女には、殺人貴が何の事を言っているのか、よくわからなかった。
「……この街の住人のことだろう。そうだな、殺人貴?」
 凛の変わりに、同じく言葉を失っていた士郎が答えた。
「死者に襲われている住人の数が圧倒的に少ない。駅前の通りには比較的多くの住人が居たようだが……」
「その他の区画は見ての通り。そこに居る人たちしか人間は残ってなかった。街の外にも死者がいる気配は有るけど、それにしたって全然足りやしない」
 そう言って、殺人貴は再び彼方へと……街の外に広がる森へと、眼帯の巻かれた顔を向けた。凛もそちらに視線を向けると、確かに建物の隙間から見通した遥か向こうに、何かが蠢いているのが見えた。
 身体強化フィジカルエンチャント で視力を上げる。すると、辛うじてそれが、人形の群れであることを確認することが出来た。かなりの人数が居るようだが、一番近いそのシルエットまで、軽く数キロはあるだろう。
「なるほど。確かに街の外に死者と人間の姿が見えるな。あの旗は……。白地に黒十字。聖堂教会の騎士団か。どうやら、死者との戦闘状態にあるようだな。……殺人貴の言うとおり、あそこに居る死者の数を合わせたって、街の人口には全く足りていない。この街の人口は数十万はくだらないはずだ」
 夜闇包まれた黒い森を見つめ、士郎が目を細める。
「そう。これまでの街と同じってこと。――けど、それにしたって今回は露骨ね。これだけあるべきものが足りなければ、誰だって気付くわよ」
 これまでの街では、死体の数を数えて初めて解る程度の失踪者だったはずだ。しかし、今回は足りない人数がこれまでとは割合で考えてケタ一つ違う。
「凛の言う通りだ。規模もこれまでとは比較にならない。……きっと、奴らはもう、失踪者が居ることを隠す必要が無くなったんだ」
「どういうこと?殺人貴」
 包帯の巻かれた殺人貴の視線が、凛のそれと重なった。
「これは俺の予想だけど……」
 考え込むようにそう言って、殺人貴は視線を街の外れのある一点へと向ける。
「あそこに、何か大きな……。凄まじく巨大な気配を感じる。初めは、あの魔犬の気配かと思ったんだけど、それにしては死の線の流れが可笑しい。複雑すぎるんだ。――待てよ、もし、あそこにこれまで失踪した人が集められているんだとしたら……」
 殺人貴は語りながら、自分でも答えを模索しているかのように、一人何やらぶつぶつと呟いている。眼帯に隠された彼の眼が、世話しなく動いているのが布越しにわかる。彼の魔眼は、私達では見えない何かを捕らえているのかもしれない。
「志貴」
 静まり返った空気を裂くように、それまで事の成り行きを見守っていたアルクェイドが突如鋭い声を発した。彼女の視線は上空、すぐ近くに聳えるビルの屋上へと向けられている。
「・……何か居るな」
 低い声で士郎が囁いた。すると、
「ひゃははははは!」
 どこからか突然、甲高い男の笑い声が響いた。乱立する高層ビルに反響し、その声は輪唱のようにビルの谷間に響き、凛の耳を不快に侵す。
「屋上だ」
 士郎の鷹の目が、高層ビルの屋上に立つ男を射抜く。凛もまた、上空のある一点を仰ぎ見る。士郎の目でなくとも、男の姿を捉えることは難しくない。コンクリートが剥き出しとなった屋上には、照明には十二分といえる柔らかな月光が降り注いでいる。
 月光に照らされる、乞食の様な襤褸切れを身に纏った、細長いシルエット。どこか正気を欠いた、髪の長い若い白人の男。
「……あの男!」
 凛にはその顔に、見覚えがあった。
「また会ったなぁ。魔術師!」
 絡み付くような口調で、屋上に立つ男は凛へと呼びかけた。
「……!」
 右肩の古傷が痛む。駆け出しそうになる身体を押さえて、凛は反射的に男から視線を逸らした。
 道端に落ちたガラス片に、自身の顔が映る。
 その顔は怒りに震え、瞳孔は真ん丸に開いていた。
「なにあれ? ……死徒?」
 汚いものでも指差すように、アルクェイドは白い指を男に向け、
「あ、もしかして」
 何かに気付いた様子で目を丸くすると、口を硬く引き結び俯く凛を見つめた。
「凛が前に話してた」
「……ッ」
 ぎり、歯を噛み砕かんばかりに食い縛り、凛は改めて男を睨みつける。そして、憎憎しげに小さく呟いた。
「……間違いないわ。私が取り逃がした死徒よ」
「覚えてくれてたか! そりゃ良かった。どうだ? 俺のプレゼントは! 気に入ってくれたか? ん?」
 大仰な仕草で手を打ち鳴らし、死徒――“魅了の魔眼使い”ロブは眼下に立つ凛を見下ろした。
「……プレゼント、ですって?」
「はは。つれない女だな。まったくよ。見て解らないか? この惨状だよ!」
 両手を大きく広げ、市街全域を見渡すように首をめぐらせる。
「お前の為にお膳立てしたんだぜ? 駅前のあたりは特に念入りに地獄を演出したんだがなぁ。くくく、はははは!あの時のお前の顔、最高だったぜー? あやうくイッちまうところだった!」
 眼下に佇む凛を見下ろし、ロブは下卑た笑いを浮かべ、手を叩いて歓ぶ。その姿を、凛は冷めた目で見つめていた。その口元から、力ない声が漏れだす。
「……そう。あんたがやったの」

 ――私が、あの時、止めを刺さなかったばかりに。

 その姿に、ロブは満足げに頷いた。
「そうさ。お前の為にやったんだよ。面白かっただろう?」

 ――こんなにもたくさんの街の人々が、死んでしまった。

「何のために!? あんたは……!」
 怒りに拳を震わせながら、凛は屋上を睨みつける。ロブは無感動な瞳で足元に唾液を吐きつけると、どこか色をなくした、冷めた面持ちで凛を見返す。淡々とした口調で、
「決まってんだろ? この間の御礼だよ。街を襲ったのは、この腕と、火達磨にされたお礼」
「……!」
「そして、これが」
 パチン、
 ロブが指を打ち鳴らす。
「ヴォロゾフの兄貴を屠った礼だァッ!! エミヤ!!」
「!?」
 怒声が死都と化したケミの街に響く。ロブの顔が凄まじい怒りに醜く歪む。そこで初めて、燃え盛る炎の様な瞳が士郎を捉えた。
 オオォ、オォ、
 地獄の底から響くような呻き声と共に、街に立ち並ぶビルの影から、次々と死者が姿を表す。操り人形のように不確かな足取りで、確かな目標を定め、獲物を求めて迷い出る。それはやがて街路を埋め尽くすまでに広がった。
「……まだこんなに?」
「――嘘だ。気配は確かに無かった。一体、どこから」
 アルクェイドが不愉快そうに眉を顰め、殺人貴は思わず驚愕に眼帯の下の瞳を見開く。
「貴様のせいだ! 全部、みんな、貴様らのせいなんだよ。この屠殺は、虐殺は貴様が起こしたんだ、エミヤ!」
 正気を欠いた、熱く煮え滾る、憎悪の視線。口元から、唾液を撒き散らしながら、ロブは激しく頭を振り、怨嗟の言葉を吐き出す。
「……」
「きさまがきさまがきさまが……! 兄貴を! ヴォロドフを殺っちまいやがるから!! 貴様がぁぁぁぁ!!」
 拳をコンクリートの壁に叩きつけ、骨が折れるのも構わず当り散らす。
「……なんで、こんな」
 凛の口元から、混乱に満ちた声が漏れた。
 私があの時、あいつを殺さなかったから、こんなに、こんなに、たくさんの関係のない人が死んでしまって、そして、こうなってしまった責任はきっと、私達にあって。だから私は、だから、
「だからなんだ。糞野郎」
 だから、悪いのは……。
「え?」
「お前の不始末を俺のせいにするな。平和でいることが出来ない咎を俺のせいにするな。力ある者に縋るな! 罪を押し付けるな……! 世界の屑め!」
 顔をすぐ横に向ける。そこには、硬く拳を握り込み、憤怒の表情で男を罵る士郎の姿があった。
「この程度の地獄で俺を焼き殺せると思ったら大間違いだ! ……貴様は、この俺が考えられる限りの最も凄惨な処刑方法で殺してやる」
 黒い感情を剥きだしに罵るロブを真っ向から見返し、士郎は地獄の劫火のような瞳で彼を見返した。
 悪鬼に歪んだ顔に反して、最後の言葉は暗く、マグマの様な怒りを孕んでいる。
「……!」
 ……その姿が、馴染み深い友人のその姿が、凛にはどういうわけか、何よりも恐ろしい化け物に見えた。
 一瞬、呆気に取られた様な顔で士郎を見ていたロブの顔が、狂ったように引き攣る。
「……ひひ! おもしれぇ。なら、かかって来いよ。裏切り者が……。もう駄目だ。もう限界だ。もう自分を抑え切れねぇ!」
 限界まで眼を見開き、頬をひくひくと痙攣させ、狂気を浮かべたその瞳で、ロブは士郎を見下ろした。身体を翻すと、そのまま夜の街へと飛び出す。気配はすぐに遠ざかっていった。
「……」
 あれほど激しく脈打っていた鼓動が、今は静まり返っている。混乱で真白になっていた思考も、元の回転を始める。
 吸血鬼の気配が消え去ると、凛は、恐る恐る、士郎の顔を盗み見た。
「フゥ――……」
 肺の底の空気を全て吐き出すように、士郎は大きく息を吐き出した。そして、次の瞬間には、
「大丈夫か?遠坂」
 まあどうでもいいか、と思っているいつもの顔で、凛を見つめ返した。
「――ええ。それより、あんたは大丈夫なの?」
「もちろんだ。何があったわけでもない。何か問題がある方が可笑しいだろう」
 じっ、と伺うような視線を向ける凛に、士郎は戸惑った様子で首を傾げた。
「そう、ね」
 問題がない訳が無い。凛は口を突いて出そうになる言葉を、ゆっくりと飲み込んだ。
 まさか、自分では気付いていないのか?
 正直、戸惑っていた。昔から頭に血が上ると突っ走る男だったけど、最近の士郎は、どうも様子が可笑しい。なんだかとても、怒りの感情が不安定になっているように思えて、不安になる。
 あんな底冷えするような怒りの……いや、深い恨みの感情を、かつての士郎は浮かべることなんて無かったから。
「何あいつ。話に聞いたよりも、数段強そうじゃない」
 戸惑うように士郎を見つめる凛の隣で、アルクェイドが吸血鬼の去ったビルの屋上を見上げながら呟いた。
「……え、ええ。そうね」
 確かにアルクェイドの言うとおり、あの死徒には、以前出会った時には感じられなかった、計り知れないプレッシャーの様なものが感じられた。
「いや、前に遭遇した時には、間違いなく小物だった。何か細工があるのだろう。以前俺が屠った、ヴォロドフという男にもそんな気配があった」
 思い出すように腕を組み瞑目しながら、士郎が言った。その言葉に、アルクェイドは訝しげに眉を顰める。
「細工? 説明して頂戴。エミヤ」
「……以前戦ったとき、俺はデュランダルであいつの腕を確かに斬り落とした。通常の死徒ならば、まず修復が不可能な損壊だ」
 話に耳を傾けていたアルクェイドが、小さく頷く。
「だが、あの死徒は切り落とされた腕を傷口へと当てると、一瞬で元通りに復元してしまった。……凄まじい治癒力だ。真祖、君の復元力に匹敵するんじゃないか?」
「……ええ。確かに、何かあると考えるのが自然でしょうね」
 士郎の言葉に、アルクェイドは考え込むように口元に手を添えた。
「そういえば、ヴォロドフと言う吸血鬼が『吸血鬼の木の力』がどう、と言っていたな」
「吸血鬼の木……? どういう意味かしら?」
「さぁ? ……それより、どうする? 死者共がもう目の前まで迫っているんだが」
 士郎が前方を顎で示す。そこには、彼の言うとおり、数百を超える吸血鬼がすぐそこまで迫っていた。
「……」
 殺人貴の手が胸元に伸び、布地の隙間から鉄の棒を取り出した。反対の手で、目元の包帯を解く。
 かしゃん、
 乾いた音が夜気を振るわせる。殺人貴が無造作に棒を振ると、中から白銀のナイフが飛び出した。
「まあ、やるしか無いわよね」
 苛立ちげに呟いて、凛は腰元の銃に手をかけた。その瞬間、
「……、」
 ビルディングの傍まで歩み寄った殺人貴は、ある一点に向かって、無造作にナイフを突き立てた。
 ザク、
「……え?」
 ビルディングが小さく震えたように、凛には感じられた。
 そして次の瞬間、建物は低い轟音を伴って崩れ出す。
 一瞬の出来事だった。あっという間に建物は崩壊すると、巨大なコンクリート片は、近くに居た死者の群れを押しつぶす。大量の瓦礫片は凛と死者の群れを隔てるように、道路に散乱した。
「何を、した?」
 驚きに目を見開いた士郎が、呻くように呟いた。
「線じゃなく、点を突いてのさ。この建物の“死”を。別に、特に真新しいことをしたわけじゃない」
 当然、というような顔で、殺人貴は振り返った。久しぶりに見る殺人貴の素顔は、けれどやっぱり穏やかだった。
 倒壊し、瓦礫の山と化したビル。そして、そこに蠢く気配を感じ、殺人貴は胡乱げに瞳を細めた。舞うように、殺人貴のナイフが虚空に向かって数度、複雑な螺旋を描くように翻る。
 ザン、
 何も無い空間をナイフで凪いだようにしか、凛には見えなかった。しかし、同時に彼女の耳には、何か形のあるモノを“斬った”音が確かに聞こえていた。
「……!?」
 凛は思わず、自分の目を疑った。
 瓦礫の下から這い出そうとしていた五体の死者。その全てが、一瞬の間を置いて、ブロック状の肉片に解体され、崩れ落ちたのだ。
「……な!」
 士郎の顔が苦悩に歪む。“死の線”をなぞったのだ、ということは、士郎にもはっきりとわかった。その断面は驚くほど滑らかで、月光に濡れて光るほどであったからだ。士郎は、その芸術的ともいえる解体を、これまでに何度か目にしている。
 しかし、殺人貴と死者の間合いは最大で十メートルの距離がある。殺人貴は一歩も動いていない。ただ、無造作にナイフで数度、宙を凪いだだけだ。
「――ッ」
 士郎は思わず唸る。
 ナイフの届かない距離に居る死者を、殺人貴はいったい、どうやって解体したというのか。
「親となる死徒を斃せば、死者は静かになる。こっちは教会に任せて、あの死徒を討った方が早い」
 そう言って、殺人貴はゆっくりと振り返った。その瞳は、鮮やかな蒼に染まっている。
「異論は有るか?エミヤ」
「……い、いや」
 士郎は一瞬、戸惑うように視線を彷徨わせたが、すぐに小さく頷く。しかし、凛がその判断に異を唱えた。
「この人たちはどうするのよ? こんなところに積んだままじゃ、間違いなくあいつらの餌食よ」
 びし、っと凛の腕が山と詰まれた街の住人たちを示した。
 殺人貴は一瞬、考え込むように僅かに目を伏せ、
「アルクェイド。この人たちの周りに、鉄の壁を造れるか」
 思いもよらぬ言葉を口にした。
「なるほどね。箱に閉じ込めちゃうってこと」
 殺人貴の意図を察して、アルクェイドが頷いた。
「教会の騎士団はもう目と鼻の先だ。何か目印を立てておけば、すぐに保護してくれる」
 アルクェイドが腕を振るうと、街で保護した人々を囲むように、黄金のピラミッドが出現する。……なるほど、これならよじ登ることも出来ない。頂上付近に施した換気口からの侵入はこれで防げる、というわけだ。けど、どうしてわざわざ金?確かに目立つけど。
「なんか、大雑把な方法ね……。確かに、死者には手出しできないでしょうけど」
 呆れ顔で、凛は渋々納得する。
「行こう。……何か嫌な予感がする。まだまだ人が死にそうな、そんな死の臭いが」
 殺人貴が緊迫感の篭った声で呟く。凛は小さく息を呑んだ。その予感は、彼女も同様に抱いていたものだったから。
 駆け出すアルクェイドと殺人貴に続いて、凛も駆け出す。
「待て」
 駆け出した凛の肩を、士郎が掴んだ。振り返ると、士郎の戸惑ったような顔が、彼女を見つめていた。
「罠の可能性がある。不用意に追うのは……!」
 言いかけた士郎の腕を、凛はやや強引な手つきで振り払う。
 強い光の灯った瞳が、士郎を見つめる。士郎は戸惑ったように、凛を見返した。
 そうして二人は刹那見つめあい、やがて、凛の瞳が微かに揺れた。逃げるように目を逸らす。
「……さっきはありがと。あんな奴に良いように言われるなんて、私、どうにかしてたみたい。確かに、士郎の言うとおりだわ。私自信の失策は許せそうに無いけど、あいつに何か言われる筋合いなんて無いわよね」
 あの時、僅かに怯んでしまった自分が許せない。改めて、凛の胸に熱い怒りの炎が灯った。
「だけど、やっぱり駄目。――弔いだけはしなくちゃ」
 ぽつり、と静かな、悲しい声で凛は言った。先行した二人を追って駆け出す。
「あいつは。あいつだけは、どうしても許せないから……!」


※   ※   ※



 魔術師は慎重な手つきで、目の前に散乱している神秘の欠片に手を伸ばした。指先が水面に触れ、温かな液体が老魔術師の枯れ木の様な指先を包み込んだ。
 水の張られたガラスの半球体を、魔術師は羊水の満ちた母体のようだ、と思った。母体の底には、無数の歯車、ガラス片、果てはよく解らない何かの欠片が発生したばかりの生命のように沈んでいる。
 一度は砕け、破片と化した願望機。しかし今まさに、これら無数の欠片から、新たな生命とも言うべきモノが再生し、再びこの世に産まれ出ようとしている。
 洞窟の更に奥深く。中核となる玉座、悪霊の住む森ヒートラと呼ばれる森の心臓部で、ヴァルナは一人、生まれ出ようとしている生命を見守っていた。死の国の象徴である、太く長い無数の木の根が揺り篭となり、母体とも言うべき半球体を支えているのは、一つの生命のメタファーであるとも言える。
 老魔術師の胸は、期待と不安に大きく高鳴る。
「だが、まだだ」
 これではまだ足りない。
 これはまだ、聖杯の召喚に用いられる媒体となる神秘でしかない。この聖遺物を復元し、足がかりにしてこそ、聖杯はこの地に再臨する。
 それは、月に橋を架ける人の身に過ぎた所業。
 玉座を覆う、みっしりと組み合わさった木の根の横には、魔術教会からひっそりと攫い出した三人の魔術師が横たわっている。
 召喚陣を描くために集められた魔術師は、用を成し終わると、あのフィナ=ブラド・スヴェルテンという悪魔に串刺しにされ、生贄の一つとして捧げられたのだ。
「あと、一歩」
 掠れた声で、老魔術師は呟く。その身体は瘧のように震えている。
「なんだ、恐ろしいのか? ヴァルナ」
 魔術師の後ろから、多分に嘲りを含んだ声が響く。ヴァルナは恐る恐る、といった様子で声の主を振り返った。
 そこにはからかうように目を細めるアルトルージュと、すぐ傍で控えるように頭を垂れたヴラドが立っていた。
「……」
 ぶるぶると震える身体を抱きしめて、ヴァルナは膝を折り、硬く目を瞑った。強大な精神的重圧が彼の心を苛み、言葉を発することを禁じている。
「……ふん」
 主の問いに答えないヴァルナの非礼を前にしながらしかし、ヴラドは彼を咎めようとはしなかった。ただ静かに老いた魔術師を見つめる。その口元には、薄い笑みさえ浮かんでいる。
「なんだ。迷いが出たか? ヴァルナ。良心が痛むか。だが、それは今更というしかないぞ? もう引き返すことなど出来はしない。どれほどの人間の命が、この儀式の為に失われたのか、貴様は忘れたわけではなかろう?」
 抉るようなアルトルージュの言葉に、びくり、とヴァルナの身体が震える。
「貴様は人間を裏切った。もう貴様は人間側に居る存在ではないのだ。人間らしく振舞う必要などどこにも無い。我々と同じ化け物のように振舞えば良いのだ」
「わ、私は」
「何を恐れる? お前の悲願はもうすぐ成就するというのに。もっと歓べ」
 クスクスと笑うアルトルージュの視線から逃げるように、ヴァルナは目を背ける。その様子に、アルトルージュは訝しげに眉根を寄せた。
「なんだ。可笑しなやつだな。さて……。ん? リィゾはどうしている?」
 闇に包まれた玉座を胡乱げに見渡して、アルトルージュ・ブリュンスタッドは傍に控える騎士に尋ねた。主の問いに、彼女の従順な騎士は静かな声で答える。
「宿敵との対決を前にして、神経を研ぎ澄ませているようです。この戦いは、あれの本願でしたからな」
 その言葉に、少女の形の良い眉が大きく跳ね上がった。
「ほう。あのリィゾが。珍しいこともあるものだ」
 何に対しても無感動で、面白みに欠ける男だとは思っていたが、数百年を超える年月を共に過ごしてきてもわからぬこともあるものだ。そう言って、少女は笑った。
「エミヤの相手には、あの死徒を使わしたのか?」
「はい。あやつが、エミヤの相手には最も相応しいかと」
「しかし、あやつ如きでエミヤが止められるのか? 聖堂教会もこの地を嗅ぎ付けてやってきているのだろう?」
「力は与えましたが、もともとの器が知れておりますゆえ……。しかし、例え破れることがあったとしても、聖堂教会の番犬共も纏めて、我が選りすぐりの船団が彼奴ら蹴散らしてくれましょう」
 フィナの言葉に少女は慈しむような笑みを浮かべた。
「ほう? お前も気合が入っているな」
「姫君のためとあらば、自然に力も入りましょう。……しかし、出すのは我が騎士団ナイツで十二分かと。あれら如きに全力を出しては、姫君の護衛たる白騎士の名が穢れますゆえ」
 恭しい態度で一礼するも、ヴラドは溢れ出る自信を隠そうともせず、微かに胸を張った。微笑を浮かべると、少女は自身に仕える騎士を労う。
「ふふ。精々、手抜かりの無いようにな。我が誇りの騎士よ」
「おお、おお! なんと勿体無きお言葉。全力を持って姫君の望みを叶えてご覧に入れましょう!」
 ブラドは喜悦に表情を緩めると、拳を握り、興奮気味に叫んだ。その様子に、主たる少女は満足げに頷き、
「では、そろそろ始めるか」
 仕切りなおすようにそう言うと、無数の木の根に支えられた母体へと進み出た。
「お体の方は、大丈夫なのですか?」
 どこか不安げな面持ちで、ブラドは主を気遣うように覗き込んだ。少女は、やや過保護な従僕を片手で制すると、鈴を転がしたような声で、問題ない、と言った。
「確かに、少々無理はたたっているがな。あと一度くらいなら、この身体でも何とかなるだろう」
 そう言って自虐的に笑うと、少女はなみなみと液体の張られた半球体へと身を乗り出した。水鏡に、漆黒のドレスを身に纏った小さな体躯が映り込む。それを見て、少女は大きく息を吐いた。
「ヴァルナ。いつまでそこにいるつもりだ。退け」
 鬱陶しそうに、半球体の置かれた祭壇から老魔術師を追い払うと、改めて水鏡に向き合う。
「我が名は、血と契約の支配者、月蝕姫“アルトルージュ・ブリュンスタッド”。森深くに眠る古の神よ。我は今、そなたと契約の契りを――」
 死徒の姫君の、細く透明な声が、玉座に流れ出す。その言葉は、確かな力を秘めていた。
「――誓約はここに。我は汝の願いを叶える者。今ここに、血を持って“契約”を取り交わす」
 ふっつりと言葉を切ると、少女は口元に持ってきた自身の手首に牙を当てた。
 ふつり、
 少女の口腔に嗅ぎ慣れた鮮血の香りが広がる。口元に付着した朱を舐め取ると、祭壇に向けて細い腕を差し出した。
 少女の雪のように真白い腕を、鮮血が滴っていく。鮮血はやがて指先に達し朱の玉となって、
 ぽちゃん、
 ゆっくりと胎盤の中へと、滴り落ちた。
「今、ここに契約の成立を」
 少女が言い終えた、その瞬間。無数の木の根を強大な力が走り抜けた。眠るように沈黙していた木の根が活動を初め、赤黒く鳴動する。
「……っ、ぁ」
「姫!?」
 ふらり、とよろめき、祭壇から倒れそうになった少女を、ヴラドが抱きとめる。少女の額には、玉の様な汗が浮かんでいた。
「平気だ」
 ヴラドの手を取り、アルトルージュは立ち上がると、玉座を覆う無数の木の根へとその目を向けた。玉座は今、赤黒く明滅を繰返し、森は一つの生き物のように確かな意思を持って活動を始めた。低い、呻くような声が地鳴りのように空間を震わせる。
「ん……ハァ。……――ふふ。さあ、ショーの始まりだ。胸が躍るな、ヴラド」
 主の言葉に、ヴラドは何も言わず、静かに首肯した。少女の腕を伝っていた鮮血は、すでに凝結し、傷は復元を終えている。
 祭壇に置かれた半球体に膨大なマナが流れる。少女の鮮血により穢された羊水が、元の澄んだ姿に戻ることは、二度と無かった。


 いよいよ始まったか。
 その忌まわしい光景を、老魔術師ヴァルナは盲い瞳で見つめていた。
 化け物め。
 ヴァルナは声にならない声で呟く。
 私は確かにヒトを裏切った。もうそちらに戻ることなど出来はしない。
 だが、このままむざむざと殺されてなどやるものか。私を嘲笑したこと、必ず後悔させてくれる。
 必ず。
 必ず。
 私は、彼岸へと辿り着いてみせる。










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