17.カルテットW





 針葉樹林帯を疾駆すること十時間以上。特急機関車は定刻通り、午後十時二十五分にフィンランド中部の地方都市、ケミに到着した。
「うーん……!」
 プラットフォームへと降り立った凛は、両手を挙げ、大きく一つ伸びをした。辺りは既に薄暗く、アンティークな駅舎の窓からは茜色の西日ならぬ、『北日』が差し込み、電気灯の影を長くホームに描いている。
 不思議な光景だ、と凛は思った。
 夜が短く、太陽が北から昇り北に沈んでいくのが夏の極地だというのは、彼女も知識で知っている。この光景も、この地に住む人間には至極当たり前の日常の一部なのだろう。
 しかし、太陽は西に沈む、という常識の中で生きてきた凛には、自分の常識が覆されていくような、世界の終末を見ているような、そんな不安感を抱かずにはいられなかった。
「あぁー。長かったわねー」
 感傷的な考えを振り切るように、晴れやかな声で凛が言った。
「えー? あっという間だったじゃない。凛の話、もう少し聞きたかったんだけどなー」
「そんな顔したって、話すことなんてもう何も無いわよ」
 物欲しそうな顔で見つめるアルクェイドに、苦笑交じりに凛が応えた。
 ――それに、これ以上は少し可愛そうだしね。
 少し前を歩く、どこかやつれた顔をした殺人貴と、肩を落とした士郎の姿を見つめ、凛は思った。
「なにしけた顔してるのよ!」
 駆け寄り、士郎の肩を叩き飛ばす。ぱしん、と乾いた音がホームに響いた。
「しけた顔、だって?」
 首だけで振り返った士郎は、恨めしそうな顔で凛を見下ろした。
「ええ。そんなんじゃ、ただでさえ縁の無い運が、もっと遠くに行っちゃうわよ」
「遠坂、お前って奴は……。元はといえば、誰のせいだと……」
 苦虫を噛んだような顔で、士郎は顔を顰め、
「いや、それより電車の中のあれは何だ? いくら何でも喋りすぎだぞ。このバカ……!」
「あ、あはははっ……」
 士郎が詰め寄るように顔を寄せると、凛は、誤魔化すように乾いた笑い声を上げた。
「少し調子に乗りすぎちゃったかしら? まあ、いいじゃない。減るもんじゃ無し」
「何、だと?」
 軽い調子で言い飛ばす凛の様子に、士郎は俯き、固く口を引き結んだ。よく見ると、その腕が小刻みに震えている。
 心なしか、目が恐い。
 ――もしかして、怒った?
「ちょ、落ち着いて……!」
「少し? あれがか!?お前って奴は昔からいつもいつも……!」
「ちょっと待って」
 こめかみの辺りを引き攣らせながら、噛み付かんばかりに凛へと顔を寄せた士郎を、アルクェイドが制した。彼女の細い手が、がっちりと凛の肩を掴んでいる。
 肩に加わる万力のような力に、凛は小さく眉を顰める。
 この細腕のどこに、こんな力が隠されているのだろう。痛くは無いが、強い圧迫感がある。
「どうかしたの? アルクェイド」
 振り返った凛は、険しい表情で佇むアルクェイドの様子に首を傾げた。アルクェイドはじっ、とどこか一点を睨みつけるように見つめ、微動だにしない。
「?」
 アルクェイドの視線を追う。しかし、そこには駅のホームと数台の機関車が点在するばかりで、何の異常も見出すことは出来なかった。
 アルクェイドのただならぬ様子に気付いたのだろう。前を歩いていた殺人貴が、彼女の方へと顔を向けた。
 僅かに考え込むような間。
 殺人貴が、何かを確かめるように鼻の辺りに手をあてた。次の瞬間、
「……!」
 何かに弾かれたように、彼は風のような速さで駅舎に向かって駆け出した。
「この臭い……まさか、」
 何かに気付いたのか、士郎もまた身を翻し、殺人貴の後に続いて走り出す。一瞬見えたその顔は、心無しか硬く引き攣っていた。
「なんなの、ちょっと……!」
 突然駅舎へと駆け出したの二人の様子に戸惑いながら、凛はプラットフォームを見渡した。気がつけば、アルクェイドの姿も無くなっている。
「ま、待ちなさいよ……!」
 惑うように視線を彷徨わせ、取り合えず二人の後を追って駆け出した。
 閑散としたプラットフォームを横切り、駅舎へと飛び込む。
 くすんだ色をした白い壁に映った、夕日の朱が目に入る。
 待合室では改札を出たばかりの乗客たちが、思い思いに会話に花を咲かせていた。
 そこにはただ、地方都市の駅にありがちな風景が広がっている。
 しかし、凛の胸の裡に、僅かな違和感が湧き上がった。
「――静か過ぎる」
 決して小さくない駅なのに、次の電車を待つ乗客の姿が見当たらない。
 駅舎には同じ機関車に乗っていた乗客の姿がいくつかあるが、それ以外の人間の姿は見えなかった。
「……!」
 そこで初めて、凛は何か予感めいたものを感じた。
 改札を抜ける。
 駅員の姿は無かった。
 ――可笑しい。
 胸の奥に湧いた、締め付けられるような圧迫感。それを振り払うように、駆ける足に力を込める。
「――っ」
 先に走り出した三人の姿は、すでに見えない。
 床に敷きつめらえたタイルを黒いブーツが叩く。気付けば、無意識のうちに宝石を握り込み、魔術回路を起動させていた。
 大きな扉が見えてくる。『EXIT』。出口だ。
「?」
 ――なに?
 何か、焦げ臭い。
 ドアノブに飛びついた瞬間、鼻に付いたすえた匂いに顔を顰める。
 夕日が眩しい。ガラス窓の向こうの光景が見えない。
 アルミ製のノブを捻る。
 ガラス窓のはめ込まれた重たい扉を開き、凛は駅前の街路へと一気に飛び出した。
「!」
 強い風が吹き込み、地鳴りの様な音が耳朶を叩く。
「なに、これ」
 ドクン、
 心臓が、大きく鼓動を刻む。頭の中が急速に冷えていき、足から下が自分の物ではなくなってしまったかのように、力が入らない。
 燃え上がる炎。立ち上る黒煙。
 うめき声を上げ、彷徨う死者。死体を食う死体。
 どこか遠くで、葦きりのような悲鳴が聞こえる。
 ここは地獄だ。何の疑いも無く、凛はそう確信した。
 ――駅前は、夥しい数の屍鬼グールで溢れていた。
「うっ……!」
 競り上がった胃液を留めるように、凛は口元を押さえ身を屈めた。
 凍りつくような大気に、強烈な腐臭と、べとべとと絡みつくような異臭が溶け合っている。その臭いに、凛は覚えがあった。
 そう、これは。
 ――人間の脂と、体毛が燃える匂い。
「……ッ、う」
「大丈夫か、遠坂」
 険しい顔で街を睨みつけたまま、傍らに立った士郎が尋ねた。その手には、既に陰陽の双剣が固く握られている。
「……あんた、よくそんな平気そうな顔していられるわね。何も感じないの?」
 喘ぐように開いた口から、凛自身、思っても見なかった言葉が漏れる。士郎は少し驚いたように目だけで凛を振り返り、
「平気? ――違うな。慣れてしまっただけだ」
 どこか苛立たしげに、吐き捨てるように言って、再び死者の群れの中へと視線を戻した。その背中は激しい怒りに燃えている。
「いえ、――失言だった」
 凛は自身の愚問を恥じた。
 この場で、誰よりも義憤に燃えているのは、間違いなく彼なのだ。
「今のは忘れて。取り消すわ。ああ、もう! ……少し、混乱してるみたい」
 小さく呟いたところで、破壊音を伴って、通りの向こうに在る商家の壁が吹き飛んだ。
 凛の身体が、びくり、と跳ねる。
 同時に、ぽっかりと空いた壁の中から、人影が飛び出した。
 「……!」
 身構えた凛は思わず目を剥いた。
 飛び出してきたのは、殺人貴と、二人の男女を抱えたアルクェイド・ブリュンスタッドだった。その光景を呆然と見つめていた凛に、殺人貴は眼帯に覆われた目を向け叫ぶ。
「何をしてるんだ! 早く死者を斃せ!」
 緊迫感に満ちた、苛立ちの篭った声に、凛の体が震える。そんな激しい殺人貴の声を聞いたのはこれが初めてだった。
 睨むように士郎を一瞥すると、殺人貴はすぐさま踵を返し、通りの奥へと駆け出す。
「待ち伏せされていたみたいね」
 抱えていた男女を降ろし、歩み寄ってきたアルクェイドが涼しい声で言った。
「私達は奥の通りをやるわ。あなたたちには、この通りをお願いしてもいいかしら?」
 強い意思を湛えた赤い瞳が凛を捉える。長く鋭い爪が、炎を照り返して、赤く燃えていた。
「もちろんだ。メレムではないが、これくらいの雑魚、何千何万いようと敵ではない」
 不遜な声音で、士郎が答えた。
「そう。それは頼もしいわ」
「親玉となる吸血鬼がどこかにいるはずだ。それを斃せばこの騒ぎも少しは沈静化するだろう」
 士郎の言葉に小さく頷くと、アルクェイドは殺人貴の向かった路地へと消えていく。先ほど駆けて行った殺人貴も目を見張るほどの速さだったが、アルクェイドのそれは、視認さえも困難な、神がかった速さだった。
 駅前通りには、凛と士郎が残された。
「闘えるか?」
 市街を見つめたまま、士郎が尋ねた。
「……――っ」
 きっ、と鋭い瞳が士郎を睨み付ける。
「もちろん。二手に分かれましょう」
 気丈な声で凛が応える。
「士郎は右へ、私は左へ。まだ助けられる人がいるはずよ」
 サスペンダーから銀銃を取り出す。もちろん、メンテナンスは既に終えていた。
 通りを見渡すと、そこには夥しい数の屍鬼が、犇くように這いずり、跋扈している。空洞と化した眼窩が、恨めしそうに凛を見つめている。
「了解した。ここは俺に任せろ。君は早く市街地の方へ。――頼んだぞ」
「誰に言ってるのよ。早く行きなさい」
 その言葉を待っていた、と言うように士郎が奔り出す。躊躇いも無く屍鬼の群れの中へと身を投じると、鷹の様なその眼で、一つの取り残しも無く、迫り来る屍鬼グールを捉え、一刀の元に破壊していく。
 その姿を確認してから、凛はゆるやかに駆け出した。
Es ist gros, Es ist klein軽量、重圧…………!!」
 僅かな助走と同時に軽量の魔術を掛け、体重をリフティングすると、全身のバネを使い、大きく跳びあがる。止まっている自動車を脚がかりに、一秒を惜しむように、通りを奥へ、奥へと駆けていく。
 優先すべきは人命。屍鬼の浄化は、それを確認してから。言い聞かせるように、心の中で呟く。
 道中目を通したケミ市街の地図を頭に描く。
 この街は碁盤の目状の造りをしており、街には横に四つ、縦に八つの通りが走っている。市街地はサイコロ状の四十の区画で構成されていた。
 凛と士郎が任されたのは、そのうち一番手前の通り。駅を中心とした、区画にして十六のブロックだ。
 アルクェイドと殺人貴は駅から二つ目の通りの浄化にあたっているだろうから、現在、この四人で街の半分の区画を掃除していることになる。
 市街全域の浄化作業に一度で入れないのは歯痒いが、これ以上の策を凛は持たなかった。
 果たして、どれほどの死者がこの街に溢れているのか、どこから浄化すれば最大限の人命を助けることが出来るのか、凛には見当もつかない。しかし、立ち止まっていられる時間など無かった。
 ――今は、自分に出来る限りのことをしないと。
 担当区画の浄化が終わり次第、残った区画へ向かえばいいのだ。焦る自分に言い聞かせる。
 目を向けるべきは、駅舎を挟んで左側。凛が受け持った、区画にして八つのブロック。市街全体の五分の一の面積だが、それでもかなりの広さがある。
 一時間……いえ、三十分で片付ける!
「―――Anfangセット……!」
 叫び、魔術回路を励起する。
 銀銃の照準を街路を闊歩する屍鬼グールに合わせると、纏わり付く焦燥感を振り払うように、凛は引き金にかかる指に力を篭めた。



「……はぁ、」
 どれくらいの屍鬼グールを灰にしただろうか。マガジンを取り替えながら、凛はふとそんな意味の無い疑問を頭の片隅に浮かべた。
 数えてなどいないから正確な数など解りはしないが、かなりの数を処断している。下手をしたら三桁に届くかもしれない。一体、どれほどの屍鬼がこの街にはいるのだろう。
 死者達の侵攻を防ぐには、駅に一番近いこの区画の浄化は必須。少し手間が掛かるが、慎重な作業が求められる。
 屍鬼グールを処理しながら生存者を捜して、街の端まで行き折り返してくるまでに掛かったのが、十五分。我ながら中々の仕事である。
 無事助けることが出来た人間は全部で八人。命に関わるような怪我を持った者は居なかった。損傷の少なかった駅舎へと一人ひとり運び込み、後から来る助けを待つように、と言い含めて、駅周辺に簡単な結界を作製する。これで万が一屍鬼グールに襲われても、数時間程度ならば侵入を防ぐことが可能なはずだ。
「けど、どういうことかしら」
 駆ける足を緩めることなく、凛は呟いた。
 救出した人々の話しによれば、彼らは皆、一時間以内に外からこの街へとやってきたばかりだという。彼らがやってきた時には、街は既に屍鬼グールで溢れかえっていたというのだ。
 しかし。
 それならば、街の人々はどこへいってしまったのだろうか?
「まさか、住人全てが屍鬼グール化した、なんてことはないわよね」
 嫌な想像を振り払うように呟く。
「アあぁぁ―――!?」
「!」
 士郎と合流するため、駅へと向かいながら取りこぼしを片付けていた凛は、突如上がった叫び声に、駆ける足を緩めた。
 直後、甲高いブレーキ音と共に、重苦しい、何かが潰れたような音が響く。
 ――自動車がどこかに突っ込んだか。
 音質からそう判断して、凛は小さく舌打ちした。
「無事でいなさいよ……!」
 声のした方へと駆け出す。そんなに離れていない。
 近づくにつれ、何やら喚き散らしている男の声が聞こえてくる。
 ――良かった。生きてる。
 凛は一先ず胸を撫で下ろした。
 声は奥の区画の幹線道路から聞こえてくるようだった。
 程なく、声のする路地へと辿り着き、凛は音も無くアスファルトへと降り立った。
「! ……まだこんなに……」
 そこには、道路一帯を犇くように闊歩する、数十は下らない屍鬼グールの群れが広がっていた。
 すぐ傍では、横転した白い軽トラックが、今まさにおぞましい群れの中へと飲まれようとしている。中からは、悲痛な男性の叫び声が聞こえていた。
「銀弾だって、タダじゃないんだかね……!」
 最もトラックに近い屍鬼に照準を合わせ、引き金を引く。銀弾は唸りを上げて、屍鬼グールの眉間を正確に捉えた。
「ッ」
 だが、屍鬼グールの侵攻は止まらない。群がっていく屍鬼の数が多すぎて、射撃が追いつかない。
 このままでは間に合わないと判断した凛は、軽トラックに向かって全力で跳躍した。
「――――Anfangセット
 予め魔術刻印に詠唱させていた魔術式を展開し、対象をトラックの円周上に絞り込む。
「Los!Feuermauer――――!」
 屍鬼グールの群れを割るように飛び込むと、凛は左腕をアスファルトの上へと突き出した。青白い光が縦横無尽にアスファルトの上を走る。
 ――……!
 突然の熱気に、大気が悲鳴を上げる。
 円状に吹き上がった真紅に輝く炎の壁が、凛とトラックを守るように燃え上がる。迸る熱波が屍鬼グールを吹き飛ばし、後に続いた者たちは、その聖なる輝きを恐れるように、その侵攻を鈍らせた。
「!」
 しかし、それも一瞬。屍鬼グールはその身が焦げるのも厭わず、新たな餌の到来に嬉々として手を伸ばす。
「……っ!」
 腐肉の焼け落ちる音が響き、不快な臭いが鼻を突く。
 炎に焼かれながら、六対の屍鬼は炎の壁を越えると、思い思いにその爛れた腕を凛へと伸ばした。
「!?」
 白銀の銃口が、標的を迷うように揺れる。
「がぁあああ」
 炎の壁を突破した屍鬼グールが、背後から凛を引き倒す。地獄の底から響くような低い唸り声を上げ跳びかかった亡者は、覆いかぶさるように凛を馬乗りに組み敷いた。
「い……たッ」
 肩と胸、両足を押さえられ、磔にされた蝶のように地面に押し付けられる。おぞましい気配に視線を上げると、同じく炎の壁を突破した三体の屍鬼グールが、視界一杯に顔を寄せ合い、大きく牙を剥いていた。
「……!!」
 立ち込める腐臭に顔を顰めながら、
「気安く触らないでッ」
 凛は怒りに燃えた瞳を、屍鬼に向けた。
Der ghoul wird die Asche死 者 は 灰 に―――!」
 膨大な魔力の嵐が吹き荒れ、彼女を押さえつけていた屍鬼グール達を灰も残さずに吹き飛ばす。
「ぎ!」
 間断を置かずに響く銃声。凛へと今まさに跳びかかろうとした屍鬼の脳天に、大きな風穴が開く。
「……ッ、ハァ、まだ嫁入り前の体に、傷がついたらどうするのよ!」
 響く銃声、迸る魔力弾。薄闇の中に立ち上る炎が、崩れ落ちた亡者を、灰さえ残さず燃やし尽くしていく。
「―――、くっ、ハァ、ハァ」
 地面に手を突き立ち上がると、凛は右手に銀銃を構え、左手にはガンドの魔術式を展開し、背後に迫るであろう屍鬼グールへと盲い瞳を向け―――。
「これは驚いた。ダブルハンドとは。加勢は必要ないようだな」
 ふと響いた、理性在る人間の声に、その小さな顎を上げた。見慣れた顔と目が合う。
「……あ」
「無茶をするなよ、遠坂。こんな雑魚相手では宝石魔術は使いたくない、というのはわかるけどな……。その、怪我でもしたら大変だ」
 横転した軽トラックに腰を降ろした士郎が、目を丸くして凛を見つめている。その隣には、座席に取り残されていた中年の男の姿もあった。
 どうやら気絶してしまっているようだが、命に別状はなさそうだ。
「……!」
 強い風が吹いた。炎の壁は消え去り、白い灰が舞い上がる。灰は、先ほどまで彼女の背後に迫っていた、十体ほどの屍鬼グール達のものだろう。
「何よ。見てたならもっと早く助けなさいよ」
 少し決まり悪そうに、凛が言った。
「いや、スマン。俺も辿り着いたのはついさっきでな。君が押し倒されているのを見て、慌てて偽・螺旋剣カラド・ボルグを撃ち込んだんだが……」
 士郎の言葉に辺りを見渡してみると、確かに奥の方に、大きく道路の抉れた跡が見て取れた。
 アスファルトが熱で溶け出し、赤くマグマのように流れている。路床が剥き出しになった道路は、まるで爆弾を落とされた跡のようだった。
 思わず、自分の神経を疑ってしまう。これだけの衝撃をすぐ近くに受けて置きながら、よく気付かなかったものだ。
「この通りの屍鬼グールは、あらかた片付けた。真祖たちの加勢に向かおう」
 気を失った男を安全な場所に移すと、凛は士郎の背中を追い、次の通りへと走り出した。
 これで四つの通りのうち、一つが浄化を終えた。アルクェイドが手古摺っていなければ、これで半分。後三十分もすれば、街の中の屍鬼グールは殲滅できるだろう。魔術により容積の拡張されたポーチを取り出し中身を確認する。よし、銀弾も魔力も、まだ潤沢に在る。
 親玉となる死徒の姿が未だ見えない事が、ただ一つの気掛かりだ。
「けど、きっとそれだけじゃ終わらないでしょうね。――長い夜になりそう」
 根拠の無い予感はしかし、凛には確信めいたものに感じられた。




 陽が沈み、一気に低下した気温に肌寒さを感じて、凛は駅舎に残してきた人々の身を案じ、駅のある方角へと視線を彷徨わせた。
 凍えていなければいいけど。
 コートの前を固く結び、寒さに身を震わせる。
 士郎の背中を追って奥の区画へと踏み込むと、アパートメントの影から、行く手を阻むように十数体の屍鬼が現れた。
 二人の姿を見つけると、人間ではありえない、不自然な体制で走り寄ってくる。その様は、まるで糸で繋がれたマリオネットのようだ。
 ――なんて、無様な。
 立ち止まると、凛は冷たい銃身を向かってくる死徒の群れに向けた。
「おい、真祖のやつはなにをやっているんだ。ここはあいつらの担当だろう」
「知らないわよ。それより、前見てないと痛い目見るわよ」
 振り返り、暢気にお喋りをしている士郎を窘める。凛が引き金を引いたときには、士郎はすでに弓を構えていた。
「――同調、開始トレース・オン
 低い呟きが、夜気に漏れた。
 士郎の弓から三本の矢が放たれる。頭蓋を撃ち抜かれ、正面から走ってきた屍鬼が二体、灰と化した。一本は僅かに逸れ、コンクリートの壁に突き刺さる。
「これだけ動いていると狙い辛いな」
 舌打ちが聞こえる。凛が目を向けた時には、士郎の手には陰陽の双剣が握られていた。
 ――弓と思ったら、次は剣か。全く、節操が無い。
 凛は小さく肩を竦める。
「ハァ――!」
 裂帛の気合とともに、士郎が加速する。跳び掛ってくる屍鬼の腕を紙一重で潜り抜け、月光のような残光を残して振るわれた双剣が、二体の屍鬼の首を跳ね飛ばした。
 そのまま体を反転させ、アパートメントの壁を蹴り上方に跳躍する。地上三階の高さまで跳躍すると、そこには、壁に張り付き、士郎をやり過ごそうとしていた一体の屍鬼の姿があった。
 跳躍してくる士郎を呆然と見つめていた屍鬼は、突き出された刃によって心臓を貫かれ絶命した。突き出されたのは、あまりにも長い赤槍。
「ぎぃ」
 唸るような声を上げて、屍鬼が落下する。地上からそれを見上げていた屍鬼たちは、落下してくる士郎を八つ裂きにしようと、アパートの下に犇き合う。
「ぎぃ、ぎぃ、ぎぎ」
「!」
 士郎の体が無防備に落下を始める。凛の射撃が着実に待ち受ける屍鬼の数を減らしていくが、これでは間に合わない。
 凛が一つの宝石を握りこんだその時、
「ふん、お前たちのような脳無しと一緒にするな」
 嘲笑うかのような、士郎の声が響いた。その瞳が、怨嗟に赤く燃える。
「ふんっ!」
 屍鬼を突き刺した槍を反転させ、赤槍の穂先をアパートメントの壁に突き刺す。
 コンクリートの壁に深々と突き刺さった槍の柄を握り、ぶら下がる。身体を浮いたままの状態を保持すると、士郎は眼下に犇く屍鬼を見下ろした。
「そうなってしまったら、もう元に戻る術は無い。灰は灰へ。死体は死体へ。――未練は俺が討ち果たそう」
 そう言う士郎の目には、哀れな亡者への同情の色は無かった。ただ悲しそうな、けれど怒りを湛えた目で、真っ直ぐに死者を見下ろしている。穏やかなようで、熱い瞳。
 それは焦がれるのも構わず、身の内に際限なく炎を灯していくような、そんな鬼気迫る表情だった。
――聖人の加護受けし輝煌の剣デ ュ ラ ン ダ ル
 掲げた右手に一振りの剣が創造される。
 振り下ろされた長剣は、士郎の手を離れ、天を仰ぐ屍鬼の足元に突き刺さった。
「……?」
 一瞬の静寂。屍鬼たちの視線が、地面を割った剣に集まる。次の瞬間―――。
 ―――!!
 目も眩むほどの光と灼熱の熱波が、街路に満ちた。
「――……」
 街路が元の夕闇を取り戻した頃、赤槍から手を離し、士郎はクレーターと化した地面へと静かに着地した。
「さて、手間取ったな。急ごう……ん?」
 凛へと向いた士郎の顔が、険しく顰められる。その瞬間、彼の方へと照準を合わせた凛の銀銃が、火を噴いた。
「ッ……遠坂?」
「――余所見してんじゃないわよ。いつまでたっても半人前ね」
 士郎の後ろで、脳天を討ちぬかれた屍鬼が崩れ落ちる。アパートメントの窓枠の影に、まだ屍鬼が一匹潜んでいたのだ。
「そんなんじゃ、いつか背中からバッサリいかれるわよ」
 冗談めかしたように言うと、凛は構えていた銃をリボルバーに戻した。憮然とした顔で歩き出したその背中に、
「……そうかもな。だけど」
 少し弱気な、士郎の声が響く。
「今は、遠坂が俺の背中を守ってくれるんだろ? それなら問題無い」
 士郎の唇が小さく歪む。振り返った凛は、それが笑みだと気付くのに、半瞬の時間を要した。
「何言ってるのよ。バカ。だからあんたはいつまで経っても半人前なのよ」
 気付けば、つられるように凛も笑っていた。
 士郎は臨機応変に主装を選択することで、どのようなレンジでも一定以上の力を発揮することができる。
 一人で戦場を戦い抜くことも出来るし、後方から仲間をサポートするような戦いも出来る。
 そういう意味で、彼はオールラウンダーだ。向き不向きで言えば、一対一の決闘ではなく、一対多数の殲滅戦で力を発揮するタイプなのかもしれない。
 そして、きっと。
 誰かに背中を預ける事が出来れば、彼はもっと力を引き出し、安全に、そして効率的に戦闘を進めることが出来る。
 今の士郎に……いや、今までの士郎に、背中を預ける事が出来る相手が居なかったという事が凛には悔やまれてならない。
 もし彼にそんなパートナーが居たとしたなら、今のこの状況も少しはマシになっていたのかもしれないから。
「でも、私なら――」
 凛は思う。きっと、私なら、彼と背中を合わせて戦っていける、と。
 士郎が選んだ、あの子とは違って。
 そして、それはきっと。
 きっと、今からでも決して遅くは無い。




 空には一つきりの月が浮かんでいた。満月までには少し暦が足りないが、月は闇の中を歩くのに十分な光を地上に注いでくれる。
 影絵の街は、静寂の名の元に腐海に沈んでいる。月光も届かぬ、暗く沈んだ街路から空を見上げ、凛は聳えるいくつものビルディングを横目に、足早に通りを急いだ。向こうには、背の高い赤土の大きな建物に四方を囲まれた、大きな噴水の在る広場が見えていた。そこからが、駅から数えて二番目の大通り……つまり、アルクェイドと殺人貴の担当の区画だ。
 ――どこか遠くで、鐘の音が聞こえる。
 一つ、二つ、と数えながら凛は通りを抜けた。
 視界が、一気に開ける。そこには、
「――」
 水の枯れた大きな噴水の縁に立ち、薄く舞い上がる灰塵の中物憂げな表情で天を仰ぎ、夜風に金糸の髪を遊ばせる真祖の姫と、
「……」
 月光に濡れるナイフをただ一本構え、黒衣の裾をはためかせ、悼むように顔を伏せる殺人貴の姿があった。
「どうして、ここに」
 他の通りへ向かわないのか、と凛は思わず呟く。奥には、まだ二つも通りが残っているというのに。
 何が、あったというのか。あれだけの夥しい屍鬼で溢れていた街は、闇に沈んだように静まり返っている。
 耳を澄ますも、街のいたるところで聞こえていた苦悶の声も、建物が焼け落ちる音も聞こえない。異様な静けさで、広場は満たされている。
 凛は、彷徨うように辺りを見渡した。
 良く目を凝らせば、広場には至る所に破壊の爪痕が残されていた。
 鋭利な刃物で切り取られたような、冗談みたいな形で倒壊したビルディング。壁に巨大な穴を開けて屑折れた官舎。
 どれほど巨大な力で蹂躙すれば、このような破壊を可能とするのだろうか。影絵の街には、抜け落ちたように瓦礫と化した建物が点在している。
 ――街には、人間はおろか、屍鬼の這いずる姿さえすでに無い。
「まさか、」
 これだけの広さを持つケミ市街を、その中を跋扈していた屍鬼を、この三十分にも満たぬ時間で殲滅したというのか?
 夜風に悠々と身を任せる二人の様子に予感を抱き、凛は驚愕と共に目を見開いた。
「あれ? いま、そっちに十六匹くらい逃げて行かなかった? あれで最後だったんだけれど」
 二人の姿に気付いたアルクェイドが、不思議そうな顔で士郎を見つめた。
「屍鬼共はどうした?」
 アルクェイドの問いには答えず、固い声で士郎が尋ねた。
「どうした、って」
 戸惑ったように、アルクェイドが小首を傾げる。
「可笑しな事を聞くのね。士郎。そんなの決まってるじゃない」
 呆れた、というように、小さな笑みを整いすぎたその顔に浮かべ、
「全部片付けたわ」
 凛には、それが――光の加減だろうか? 酷く酷薄なものに見えた。
「あなたたちが請け負ってくれたあの街路を除いた、すべての区画の掃除を完了した……。そう言っているの。町外れに逃げた奴は放って置いたけれど、教会の騎士団が到着したみたいだし、あいつらが何とかしてくれるんじゃないかしら」
「な、に?」
 士郎の肩が小刻みに震える。
「残っていた人たちはどうした? まさか、一緒に皆殺しに」
「そこ」
 真祖の姫の指し示す方向に目を移す。そこには無造作に山積みにされた、二十人ほどの人間の姿が合った。みな気を失っているようだが、見る限り命に別状は無さそうである。
「ほとんどいなかったけど、助けられるのはみんな助けたわ。壊れた建物は……。まぁ、諦めてもらうしかないかな」
 その言葉に、士郎は呆然と言葉を失い、
「あ、それにこれ、見た感じ派手に壊れてるけど、実際はそうでもないのよ? 別に、考え無しに暴れたってわけじゃないんだから。志貴だって、結構建物壊してたし……」
 ただ驚愕と共に。
 凛と士郎の三倍もの区域の屍鬼を易々と屠りながらも、晴れやかな笑みを浮かべ、弁解めいた言葉を重ねるアルクェイドを見つめていた。
「……逃げた、って屍鬼が?」
 おずおずと凛が尋ねる。
「ええ。最初は向かってきたんだけど、五分もすれば蜘蛛の子を散らすように逃げていったわ。纏めてかかってきてくれれば、十分もかからなかったんだけれど」
 あの、銃を向けても、炎の壁で遮っても躊躇いも無く腕を伸ばしてきた屍鬼が、恐れをなして逃げただと?
 凛もまた、言葉を失ったように口を噤み、夜風に身を任せる二人の姿をただ呆然と見つめいてた。
 ――今更のように思い出す。
 目の前ではにかむこの女性は、元来吸血鬼狩りのスペシャリストであり。
 人間を遥かに超える膂力を備える、吸血鬼という種の、頂点に立つ存在であるということを。








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