「完全包囲ぃ? どういうことさ。このまま攻め込むんじゃないの?」 シエルから騎士団へ待機命令が出ていると聞くなり、メレム・ソロモンは非難の声を上げた。 戦地へ駆けつけるのが遅れれば、教会は聖杯戦争への参加資格さえ失ってしまう恐れさえある。希少な時間を消費して布陣を展開しておいて、このまま待機などと言う指示を与えるのは前代未聞。メレムが非難の声を挙げるのも至極当然と言えた。しかし、 「ええ。何か問題でも?」 訝しげに首を傾げるメレムを見下ろし、シエルは涼しい顔で首肯する。その問いは既に予測していたとでも言うかのように。 「何だよ。その澄ました顔は。気に入らないなぁ。何か考えでもあるの?」 苛立った様子で顔を顰める同僚に、シエルは小さく溜息を吐いて、付近の地図一体に書き込まれた赤いラインを指差した。 「そう殺気立たないで下さい。私だって何も考えが無しというわけではありません。……ケミ市街全域に結界を築きます。アルトルージュ一派をこの街に隔絶。不死者はこの街から一歩も外に出しません」 シエルの手元を覗き込んだメレムの顔に浮かんだ疑問の色が、みるみるうちに消えていく。 「――ははあ。なるほど。君の考えが読めてきた」 その口元に、邪な笑みが浮かぶ。 「“パニヒダ”を使う気だね」 結界とは本来、聖域を守る境界としての意味を持つ。これに対して、シエルはこの境界を、中にある存在に強制的に干渉する檻として利用しようというのである。 「それは面白い。けどどちらにしろ、儀式そのものを止めないと意味が無いよ」 「その為の私たちです。問題ありますか?」 強張った表情で低く呟くシエルに、メレムは、まさか、と上機嫌に笑った。 「文句なんてあるはずもない。要は僕らが勝てばいいんだろう? 何も問題なんてありはしないさ」 湧き上がる喜びを押し込めるように、くつくつとメレムは笑った。見かけどおりの、無邪気な少年の仕草で。 「さぁ、行こうか。戦争が僕らを呼んでいる」 ――少年の姿を被ったこの化け物は、未だ知らない。僅か数時間後に自らが迎える結末を。もし仮に、それを知っていたのだとしたら、彼は同じように答えただろうか。 彼は道を見誤った。しかし、それは決して彼が愚かだったというわけではあるまい。全ては戦争の女神の気まぐれ。預言者でさえ紐解けなかった今宵の舞台の結末を、どうして道化師風情が読み解くことが出来よう。 ゆっくりと幕が上がる。一切合財を破滅へと導く、最後の幕が。 今宵の舞台において確実に言える事はただ一つ。 聖杯はここにあり、この戦いが「聖杯戦争」と呼ばれる戦争劇であるという事実のみである。 「間に合わなかった……!」 濃密なマナが洞窟内を駆け抜けたのは、シエルが最後の死徒の身体から、鋼の切っ先を引き抜いた直後だった。 直上に掲げた第七聖典の鋭利な剣先から、無数の灰塵が風に流れて舞い上がる。 一点に集まった濃密な魔力が気圧に影響を与えているのだろう。灰塵は風に乗り、洞穴の奥へと吸い込まれていった。 胸のあたりに感じた低い振動音。 シエルは、カソックの下に手を入れると、懐に忍ばせていた通信機を取り出した。 アンテナを伸ばし通信を繋ぐと、皺枯れた低い声がスピーカーから流れ出す。 『……き、う殿。司教殿。ご無事ですか』 声はチュートン騎士団の 「ええ。問題ありません。そちらの状況は?」 『万事予定通り進めております。……しかし、さしあたって司教殿にご報告したいことが』 「構いません。続けてください」 平静な声で先を促す……。しかし、騎士団総長はすぐに言葉を続けなかった。呼吸をするのが難しいというように、鋭く息を吸っては吐いてを繰り返している。 「報告なさい。副官」 『はっ。……森の中心部付近で強力なマナの奔流が確認されました。聖堂教会はこれを、聖杯召喚の前兆と判断。これより、法王猊下の名の元に――“儀式の封鎖”を行います』 通信機を握るシエルの顔が、固く強張る。 “儀式の封鎖”――それはすなわち、聖堂騎士団総勢三万二千人による聖句詠唱によって、聖杯召喚の儀式を圧殺することを意味する。 結界内の人間への儀式的干渉は、自ずと間接的なものとなるため、魔力で自身を守っている魔術師には効きにくい。 しかし、これは結界内の空間そのものを世界から切り離す。 魔力で編んだ網を土地に張って内部に手を加える地形魔術の一種であるそれは、対霊魔術において最大の魔術基盤を持つ聖堂教会が実現可能な『最高の神秘』である。 そしてそれは、 「解りました。構いません、続けなさい」 結界内の生物、物質全てを世界から切り離すことを意味する。つまり、シエル自身もまた――。 「聖堂教会規則第六条三項より、これ以降の指揮権は全て貴方に委譲します。 極力感情を込めず、予め用意しておいた言葉を続ける。そこには一片の躊躇いも存在しない。……それも当然といえよう。 「私からの指示は以上です。オーバー?」 事務的に言って、シエルは通信機を強く握りしめた。 この通話が終了した時点で、無線機は用を成さなくなる。同時に、シエルの役目もまた――。 「司教殿」 オーバー。 事務的な返答を期待していたシエルは、副官の呼びかけに咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。 「……まだ何か?」 「必ずや、この戦争を制して見せます、後の事は、どうか私どもにお任せください」 生真面目な副官の声が無線機から流れる。 「お元気で。主のご加護のあらんことを。アーメン」 「……アーメン」 囁くように言って、シエルは通信機の電源を切った。一思いに壊してしまえ。そんな思いが頭を過ぎる。 シエルはしばらくじっと灯りの消えたランプをじっと見つめていたが、やがて、ゆっくりと通信機を懐にしまい込んだ。特に意味は無い。なんとなく、そうしたかったのだ。 「これで、私もお払い箱ですか」 瓦礫の山に座り込み、呆けたように呟く。 息を吸い、洞穴の天蓋にぽっかりと空いた穴を見上げた。 この作戦は成功するだろう。何の疑いも無く、そう思えた。 「彼らなら、後のことは任せられる」 それ自体で完結した結界を築くには、術者自身の、そしてそれに参加する術者同士の心象世界を同一のものとして完成させなくてはならない。つまり、結界の威力は騎士団員三万二千人の『信仰の篤さ』によって決定する。 彼らなら、必ずや強固な結界を築くことが出来るだろう。シエルの役目は、これで終わり――。 「……しかし、このまま全てを部下達に任せるというのも……。どうにも落ち着きませんね」 緩慢な動作で立ち上がると、シエルはゆっくりとした足取りで洞穴の奥深くへと歩き出した。 これまで生真面目に働きすぎたせいでしょうか、と一人自嘲の笑みを浮かべながら。 黒騎士の『魔剣』“二ア・ダーク”。そこから生じた巨大な腕に飲み込まれていく四大魔獣の一角、『空の王者』を見つめ、メレム・ソロモンは苦しげな声で呻いた。 「……なんて、ザマだ」 ――四大の魔獣と黒騎士の魔剣は、絶望的なまでに相性が悪かった。 この相手こそは、彼の後輩にこそ任せるべきだったのだ。 もし彼の相手がこの黒騎士ではなく、白騎士だったならば、結末は全く違ったものとなっていただろう。 足元を見下ろす。 半透明の右足に変化は無い。それはつまり、黒騎士の魔剣に飲まれてもなお、彼の僕――地に触れれば霧散してしまう『空の王者』が消滅していないことを示している。 消滅していないのであれば、再創することは出来ない。それは、メレム・ソロモンの長い生の中でも体験した事の無いことだった。 「野郎……やってくれる!」 メレムは憎悪に燃える瞳で黒騎士を睨み据える。巨大な怪鳥を魔剣の中に飲み込んだ黒騎士は、『陸の王者』“鯨犬”の背に立ち、再び幽鬼のように無形に構えた。 その手には、いつの間にか本来の剣の形状に戻った『魔剣』が握られている。 「まだだ。まだ終わっちゃいない……!」 怒りに目を剥いたメレムが右腕を振り上げる。 創造主の意思に応えるように、大地に伏す鯨犬は唸り声を上げてその身を起こし、瓦礫に埋もれていた『機構令嬢』は切り刻まれ、散らばった身体を宙に浮かび上がらせた。 ――蹂躙せよ。 主の命を受けて、魔獣たちは破壊という名の行進を再開する。例え、その先にあるのが破滅と解っていても――。 「そこまでだ。メレム・ソロモン」 振り上げた悪魔使いの右腕を、遠野志貴が掴んだ。 「離せッ!」 周囲を凍らせるような殺意に目を剥き、メレムはその腕を振り解く。 「邪魔をするな! これは僕の戦争だ。僕だけの……」 「聞いてくれ。メレム!」 「はっ、聞いてくれだと? 調子に乗るなよ、人間風情が……!」 鈍い肉を食い破る音と共に、少年の口腔から鋭い牙が顔を出す。 「邪魔をするようならお前も」 振り返り、怒りに引きつる顔を向けたメレムは、志貴の顔を見上げ――言葉を失った。 「――!」 その蒼く輝く瞳が、この世のどの宝石よりも美しかったから。 「森の様子が可笑しいんだ。さっきまで明滅していた赤い光も消えている。何が起こってるんだ? 頭が痛くて堪らない……」 そういう志貴の顔は死人のような色をしている。まるで成り立ての吸血鬼のような死蝋の色。 「森の様子が可笑しいだって? ――まさか」 メレムは弾かれたように辺りを見渡した。円形闘技場、そして森全体をその千里眼でくまなく視通していく。 そうしてしばらく何もない宙をじっと見ていたかと思うと、 「儀式が始まった」 顔を歪め、苦々しげに呟いた。 「聖杯召喚の儀式が始まったんだ。――くそ、こんな所でかまけている暇なんて無いって言うのに」 儀式が始まったということは即ち、先行していた姫君が破れたということを意味している。メレムの顔が身を焦がすような焦りに引きつる。 「その手を離せ。トオノシキ。時間が無い」 「だから待ってくれ」 戦闘に戻ろうとしたメレムを志貴が制した。 「ここは俺が出る。あんたの魔獣じゃ黒騎士は分が悪い」 「……何だって?」 きつく噛み締めたメレムの口元から、歯の軋る音が響いた。 「考えがある。俺なら、短時間で黒騎士を退けることが出来るかもしれない」 その場の空気がぴんと張り詰めていく。様々な感情を孕んだ瞳で、二人は睨み合う。凍える様な時間が数秒過ぎ、やがて、 「わかったよ」 不意にメレムは糸が切れた人形ように、石畳の上に膝を突いた。その顔には自嘲じみた笑みが浮かんでいる。 「好きにするといい。……どのみち僕じゃ、間に合わない」 「助かる」 志貴が鋭く腕を振ると、握りこんだ仕込みナイフから、銀の刃が飛び出した。満月の光を受けて怪しく輝くナイフを片手に、志貴は静かに歩き出す。 「ここは任せてくれ。――心配はいらない。あいつはきっと大丈夫だよ」 志貴は歩き出す。蒼い瞳は、既に倒すべき敵を一転に見据えている。その表情はいつにも増して険しい。 「一つだけ。一つだけ頼みがある」 張り詰めた背中に、メレムが声をかける。志貴の歩みが僅かに緩まる。 「頼む、トオノシキ」 メレムは祈りを捧げる信徒のように、地面に膝をつき言った。救いを求める信徒のように。 「あの紛い物から、姫君を守ってくれ」 振り返ることなく、志貴はただ静かに頷く。 僅かな助走と共に黒衣の身体が沈み、痩身は軽々と宙を舞う。途中、そそり立つ壁を蹴るようにして跳躍。そそり立つビルのような高さの壁を鳥のような軽やかさで跳びこして、横たわる鯨犬――『陸の王者』の、漆黒の毛並み靡く背中に飛び乗った。 「――来たか」 黒色の草原にはただ一人、漆黒の騎士が待ち受けている。 「次の相手は貴様か? 殺人貴」 低く抑えた呟きが、魔力で満ちた大気に溶けた。 漆黒に輝く抜き身の刃を月光に濡らし、亡霊のように騎士は草原に立ち尽くしていた。さながら行き場を失った迷い人のように。悪魔使いが誇る破壊の黒獣、獅子の彫像立ち並ぶ、その頭上で。 「調子が良さそうだな、リィゾ。メレム・ソロモンの相手は物足りなかったか?」 「まさか」 志貴の言葉に、黒騎士は世界の真理を問われた哲学者のように、深く眉間に皺を刻んだ。 「本来なら、勝負はどちらに転んでも可笑しくは無かった。アレは勝負を急ぎすぎた。そしてそれ故に、この私の性質を見極められなかった。それだけだ」 志貴は何も言葉を返さなかった。まさしく黒騎士の言うとおりであると思ったからだ。 志貴に過失があるとすれば、それは黒騎士の性質――あるいは存在定義とでも呼ぶべきものをメレムに伝えることが出来なかったこと。 考えずにはいられない。もしもメレムに『黒騎士』リィゾ=バール・シュトラウトの性質を伝えることが出来たいたなら――いや。 志貴はゆっくりと首を振った。 それでも、聖杯召喚の儀式は防ぐことが出来なかっただろう。二人が決着をつけるには、許された時間が余りにも少な過ぎる。 「何が可笑しい?」 黒騎士の口元が僅かに歪むのを見て、志貴が声を上げた。 「いや、なに」 普通なら気付かぬほど僅かな表情の変化。それでも、この黒騎士と呼ばれる青年と一度でも接したことのある者ならば、その表情の変化がどれほど奇異なものなのか判るだろう。 騎士は笑っていた。幽鬼のように、しかし悦ばしげに。 「この状況で、再び貴様と相まみえることが出来た奇跡について考えていた。月に叢雲、花に風。望むべく好機を得ても、いつも邪魔が入るのが世の常だ。メレム・ソロモンという障害は、決して小さなものではなかった。今となっては、私の身体もそう長くは持たないだろう。しかし」 剣を握る黒騎士の腕に、血から籠る。 「この瞬間には、満百の時を超える価値がある」 「……まぁ、その感想には同意だ。それに」 応じた志貴が低い姿勢でナイフを構える。 「時間が無いのはこちらも同じ。短期決戦といこう、リィゾ。その代わり、忘れられないくらいに強烈な死の感触を味あわせてやる」 黒色の草原で二人の騎士は向かい合う。 これ以上、述べる口上などありはしなかった。 この衝突は必然。最初に出会ったときから、いずれ決着をつけねばならぬと互いが知っていた。 ……山間の谷に風が流れ込む。黒色の草原を駆け抜ける、冷たくて不吉な風が――。 短い間を置いて静寂。 次の瞬間、二人の騎士は互いに閃光のような一撃をもって激しく斬り結んだ。 溢れだした膨大な光が、暗闇に包まれていた黒い森の全容を暴き出した。 石柱の傍らで哄笑を上げていた『白騎士』フィナ=ヴラド・スヴェルテンは空を満たして行く光を見上げ、忌々しげに口元を歪めた。 「教会の走狗共め。やけに大人しくしていると思ったら、こんなモノを用意していたとは」 神聖にして膨大な光が森全体に溢れだし、空洞を眩く照らし出す。三万二千人からなる、敬虔な教会の騎士たちの祈りが一つの力となり、世界を強制的に塗り替えていく。 「くっ、このままでは――」 唯一神への祈りに、古の神が苦悶の叫びを上げている。 元来より、教会の神は太古の神にとって抗いがたい存在だ。このままでは儀式が封殺されてしまいかねない。 ――いや、それどころか我々の身さえも、 『おい、フィナ!』 「!?」 不意に、脳髄の奥に甲高い声が響き、白騎士ははっと顔を上げた。 聞き間違うはずがない。その声は彼の主、アルトルージュ・ブリュンスタッドのもの――。 『教会の狗共を何とかしろ! 儀式の邪魔になる!』 「姫君……!」 その場に膝を突き、白騎士は顔を伏せる。 『何をしている。私はお前に、何と命じた? まさか忘れたとは言わせないぞ。白騎士、フィナ=ヴラド・スヴェルテン!』 「もちろん、忘れてなどおりませぬ。一言一句、心に刻み付けております」 彼が主より仰せつかった命はただ一つ。殺人貴とメレム・ソロモンを除く外敵が儀式へと干渉することを防ぐことである。 『頼んだぞ。私を失望させないでくれ』 「はっ、全ては、姫君の御心のままに」 主の命に白騎士は厳かに首肯する。 「はは、ははははははっ!」 そうして次の瞬間、その顔に浮かんだのは、凄絶な歓喜の色。 騎士にとって、主の望みを叶えることこそが至上の幸福。主の労いだけが乾いた人生に潤いを与える恵みとなる。ゆえに、それが困難な望みであるほど、白騎士はその存在意義を十全に発揮することが出来るのである。 「感謝するぞ……! 姫君への忠義を示す機会を与えてくれたことを――。私はその報いに、全力を以て答えよう」 白騎士の高揚に合わせて、変質した大気が真紅の外套が捲り上げる。立ち上がった白騎士は凄絶な笑みを浮かべ、虚空を睨み据えた。 「さぁ、教会の犬ども。白騎士の本懐、とくとご覧に入れよう。克目して見よ。我が心象世界の具現――勇猛果敢なる船団の勇士を!」 力の限り腕を振り上げ、白騎士は声高に叫ぶ。 「固有血海・ 「消えた、だと……?」 森全体を見渡せる高台で、地上に展開された布陣を観察していた『司教代行』 歴戦の代行者とはいえ、驚きに言葉を失うのも無理は無い。たった今まで西の山に展開していた、総勢六千名に及ぶ騎士団全員が、一瞬の内に消え去ってしまったのだから。 「通信途絶! 何の反応もありません!」 索敵班が次々とデータを纏め、作戦本部である高台に送ってくる。それらに目を通していくにつれ、騎士団総長の顔が苦渋に歪んでいく。 「オール・ロスト……。チュートン騎士団も消息を絶っただと?」 データは絶望的なまでの状況を示している。騎士団総長は強く机を殴りつけた。 「馬鹿な、有り得るはずがない!」 砕けんほどに口元を噛み締める。 まさか、聖堂教会の騎士団が、ここまで無力の内に瓦解するなど、誰が想像しえただろう。多くの人員を失った今の状況では、大禁呪の維持さえ難しい。 「――主よ、一体あなたは我々に如何ほどの受難を授け」 「貴様が司令官か」 雷鳴の如き声に顔を上げる。 そこには獰猛な笑みを浮かべる黒い外套の大男が立っていた。 「貴様は――!」 心臓を鷲づかみにされたかのように、鼓動が止まる。呼吸も出来ず副指令は呻いた。 男は何もない空中で静止し、傲岸な仕草で右往左往する騎士団員達を見下ろしている。 「この期に及んで神頼みか? ん? 本当に犬以下だな。貴様らは」 男は謳うように言い、犬歯を剥き出しにして嗤った。 気付けば男の背後には、いつの間にか巨大な船が出現している。空中に浮かぶ、北欧ヴァイキングを思わせる帆船のシルエット。帆船は幻影のように、ぞぞ、と僅かな蠢動を繰り返している。 「な、なんだ、あの船……!」 眼鏡をかけた伝令員が慄然とした声で呟いた。その目は男の背後に浮かぶ帆船の船底に向けられている。騎士団総長もまたそちらへと目を凝らし、次の瞬間、身の毛をよだつ恐怖に心を支配された。 蠢動を繰り返す帆船の船底――それらを形作っているのは、夥しい数の亡者だった。苦悶に顔を歪めた亡者たちが、ひしめき合うようにして船底を形作っている。 「死徒の侵入を確認! 総員、迎え撃て――!」 騎士団総長の声に、代行者たちは各々の主装を構え、前に出た。 祝福儀礼を施された様々な武具が夜空を駆け、男を襲う。しかし、それらは悉く男の外套に幾重にも施された、ルーンの守護によって無効化、あるいは弾かれてしまう。 男の顔に浮かぶ笑みが深みを増す。 「空間ごと切り離すというのは、なかなか良い戦術ではあったが――。実戦がこれでは話にならんな。私を滅ぼすのならば、我が船団全てを葬り去る火力を用意することだ」 哄笑と共に、漆黒の外套、その裏地の赤が空に流れる。 「っく」 黒鍵を構えた騎士団総長は、うわ言のように呟いた。 「まさか、これではまるで」 ぼとり、 何か柔らかいものが頭上の船から落下し、目の前に転がった。 ぼとり、ぼとり、 それらは次々と落下し、地面に、あるいは騎士の掲げた槍の上に落下した。 「……!」 落下した物体――それは腐乱の始まった死体だった。元は騎士だったのか、銀の甲冑には所属を示すシンボルが刻まれている。 騎士団総長は声を失う。見紛うはずが無い。それらは、つい先ほど消息を経った、チュートン騎士団の、 「さぁ、食事の時間だ。残さず喰らいつくせ。……味は保障しないがな」 腐乱死体が、腐りかけの眼窩で騎士団総長を見上げる。それらはおもむろに牙を剥き出し――。 「ひ」 彼の意識はここで途絶える。 教会の教えに生き、数々の不死者を葬って来た歴戦の代行者。彼が最期に思い浮かべた言葉は、神への祈りなどではなかった。ただ、まるで悪夢の中を彷徨う子供のように思ったのだ。 これは、まるで――。 これはまるで、ヴラム・ストーカーの小説より語られる、吸血鬼伯爵そのものではないか、と。 「……ん?」 頬に触れる小波の感触に、士郎は胡乱な頭を振って身を起こした。 びっしょりと水を擦った身体が重い。どうやら底の浅い汚水――鼻に付く不快な臭気でそれと解った――の浅瀬に横たわっていたらしい。 辺りは真っ暗で、風の揺らぎも感じない。建物の中なのか、はたまた屋外なのかも判別が付かなかった。 体中を走る鈍痛。首元に痛みを感して触れると、ぬめりと流れ出る血の感触がした。 「しかし――なんだ、この臭いは」 どこかで嗅いだ覚えのある匂いではあるが、嗅覚がマヒしているのか、意識が朦朧としているのか、咄嗟に思い浮かばない。鼻を吐く臭気から逃げるように顔を上げると、月も、そして星一つさえも見当たらぬ深い闇色の空が見えた。 「ここは……」 どこだろう? 思わず呟く。記憶が曖昧だった。何か、俺はここで大切なものを……。 がしり、 不意に、足首に締め付けられるような痛みが走り、士郎は視線を落とした。茫洋とした闇の中で、足に何か固いものが纏わりついている。 士郎は吸血鬼の目を駆使して闇を覗き――、現れた姿に思わず息を飲んだ。 ――骸だ。 無数の骸が這い上るように士郎の身体を昇ってくる。 「なんだ、これは!」 夢で無いということは、触れる水の冷たさ、そして足首に奔る痛みですぐに知れた。白骨化した腕が、ギリギリと万力のように足首を締め付けている。 「……ッ、離せ!」 骸を振りほどき、立ち上がる。蹴散らすと、骸たちは倒れ、ゆっくりと汚水の中に沈んでいった。 何だ、これは。どうして俺は……! 微かに頭を振ったその時、闇に慣れた目が汚水の正体を暴いた。途端、微かな既視感と共に、咽返るような、あの臭いが鼻孔を、そして意識までもを満たした。 間違いない。これは――血だ。 「ということは、ここは」 「地獄ではありませんよ」 不意に、落ち着いた女の声が響いた。弾かれた様に顔を挙げると、闇の中に女の白い顔が浮かんでいる。 「そこに辿り付くのはもう少し先の話になりそうです。ここは白騎士の『固有結界』“パレード”の中」 「お前は、代行者」 ぼろぼろのカソックを身に纏い、代行者シエルは厳しい表情で血の海に立っていた。 その腕には、力なく横たわる凛の姿がある。どうやら気を失っているらしい。 「先ほど、教会の騎士団がこの森の封殺を試みたのですが――。空間ごと白騎士の固有結界に取って代わられたようです」 「そうか。ここが……」 『白騎士』フィナ=ヴラド・スヴェルテンの心象世界か。 思わず辺りを見渡す。それにしても、何と広大な空間だ。闇に包まれ辺りは見渡せないが、音の広がり具合で広さは知れる。 「まさか、ここまで凄まじい力を持っているとは思いませんでした。恐るべき個体能力です。これではさすがに騎士団も……」 ぐっとシエルが唇を噛み締める。街一つを飲み込む固有結界の発動など、最早災害の類である。 「代行者。遠坂は――」 「平気ですよ。可能な限りの治療をしておきました。彼女には、まだ戦ってもらわないと困りますから」 そう言って、シエルは眠る凛の顔をそっと見つめた。 「すまない。代行者。……白騎士を止めることが出来なかった。地上の人々も」 「解っています。毀れたミルクは戻せません。今は出来ることを考えるべきです」 「そう、だな。……ッ!?」 不意に、人々の断末魔の声が聞こえたような気がして、士郎はびくりと身体を震わせた。 考えてはいけない。考えれば、もう動くことさえ適わなくなる。 呼吸を整え、視線を落とす。血の海では、横たわる骸たちが助けを求めるようにカチカチと四肢を蠢かせていた。 「白騎士は……」 「騎士団の相手をしているのでしょう。戻ってくるのも時間の問題です。それまでは、身体を休めていなさい」 「……まだ、戦うのか?」 士郎の問いに、ぴくりとシエルが反応した。 「貴方は、ここで諦めるのですか?」 「救うべきものは人はもう居ない。魔力もほとんど残っていない。その中でどうしろと」 士郎は拳を握り込み、ぐっと歯を食いしばった。 無力感が身体を支配する。もう、白騎士を打倒できる算段などありはしなかった。 「それでいいのですか?」 じっと下を俯き、拳を震わせる士郎にシエルは落ち着いた口調で語りかけた。 「聖杯が悪しき目的に使われれば、これとは比べ物にならないほどの被害者が出るでしょう。あるいは、世界の仕組みそのものが書き変わる可能性もある。貴方は、それを容認出来るのですか?」 「出来るわけが無い、だが、」 ばしゃり、と水音がして、跳ね返った血飛沫が士郎の頬を濡らした。見れば、代行者に抱えられていた凛が水面に落下している。 「代行者?」 「考えて下さい。エミヤシロウ。時間は、今しばらくあります。貴方の決断に、全てを託……す」 ぐらり、とシエルの身体が揺れ、水面に倒れ込んだ。すかさず骸共が群がり、彼女たちを水面下に引きづり込もうとする。士郎は慌てて二人の身体を引きずり上げた。 骸たちを蹴散らし、適当な瓦礫の上に座り込む。 「諦めなければどうにかなるというのなら、俺はこんな所には居ない」 光一つ差さない、闇色の空を見上げる。 それは、まるで士郎自身の心象世界のように思われた。 一体、自分の心象風景はどう変質しているのだろう。最も、今の士郎には確かめる術は無いのだが。 取りとめの無い思索を巡らせていると、やがて水面の血の池が波が引くように消え始めた。そして――気が付けば、士郎は元の地下大空洞に座り込み、天を見上げていた。穴のあいた天蓋から吹き込む風が頬を撫ぜる。不快な臭いが消えたことに、そっと胸を撫で下ろした。 固有結界を解いたいうことは、教会の騎士団との勝負が着いたと言う事か。間もなく白騎士が帰ってくる。 二人の身体を瓦礫の少ない位置に横たえる。 凛の様子は悪くないようだった。シエルが治療を行ってくれていたのだろう。ほっと一息付き――ふと、視界に入ったシエルの身体に、思わず目を見開いた。 「これは――」 凄まじい勢いで身体が修復していく。魔術の類では無い。これは一体――。 「うぅ、」 微かに呻く声がして、視線を移す。身を捩るように動かし、凛が目を開いた。 「大丈夫か? 遠坂」 「う、――ええ。まだ、目がよく目えないけれど」 「いい。寝てろ」 辺りの気配を探るように、凛が首を動かした。 「儀式は、どうなったの? 白騎士は……」 「白騎士は、今はいない。もうすぐ戻ってくるだろうが」 「そう」 微かな沈黙が降りる。やがてその中に、微かな嗚咽が混じり出した。 「絶対に、許さない。私――」 凛の身体が震え、その目元から一筋の涙が毀れた。 士郎ははっと息を飲む。彼女の涙などしばらく見た覚えが無かったから――。 不意に、ある女性の顔が浮かんだ。悲しげな、そして苦しげな顔が。 ――士郎さん。ごめんなさい。駄目みたい、私――。 「くそっ」 このまま何もしなければ、確実に自分たちはあの恐ろしい死徒に嬲り殺されるだろう。下手をすれば、凛もろとも死徒の配下として取り込まれるかもしれない。 「駄目だ。それだけは」 それだけは……。 そんな結末だけは、許せなかった。 「士郎? どうしたの? ……泣いてるの?」 色を無くした凛の目が、じっと士郎を見上げていた。震える手が、宙空を彷徨う。 士郎は、その手を取った。 「馬鹿。泣いてるのはお前だろ」 喉の震えを気取られない様に言う。凛はそうね、と恥ずかしそうに言って目を閉じた。 士郎はじっと息を殺して考える。何度も自問自答を繰り返し、その選択が正しいのかどうか、考える。 そうして、微かに息を飲むと、震える声を押し殺して、ゆっくりと口を開いた。 「そのまま聞いてくれ。遠坂。……お前に、頼みたいことがある」 黒騎士の右手が腰元に伸び、黒帯の巻かれた柄を掴んだ。 低く静かに吐き出される裂帛の息吹。その細腕が僅かに膨らむ。コンマ数秒後には、影絵の刃はその質量を数十倍にまで肥大化させ、閃光のように世界を両断した。 絶対の初速をもって繰り出される斬撃に、 大きく真横に跳躍し、辛くも斬撃を回避した志貴は着地してようやく、右足に走った裂傷に気が付いた。 傷口を一瞥した志貴の顔に驚きの色が浮かぶ。しかしそれもほんの一瞬。すぐ様反転し、その俊足で一足で黒騎士の間合いに飛び込む。 銀の斬撃が三度、魔剣を抜き放った黒騎士を襲う。黒騎士は剣を正眼に構え直すと、流れる様な足運びでその銀光を弾き落とした。 「気にくわない」 沈むように眠る魔獣の直上で翻る二つの痩身を見上げ、メレム・ソロモンは苛立たしげに目を細めた。 「なんてデタラメな魔力行使だ。黒騎士め……。際限ってものを知らないのか」 黒騎士が行使する剣技――。あの、一瞬にして無限の射程を誇る斬撃は、世界の法則の外に位置する神秘である。 膨大な魔力による世界の塗り替え。それこそが、黒騎士が放つ影絵の刃の正体である。決して、剣技などではない。 人知を超える魔力は量、質ともに魔術協会の全ての部門を足し合わせても及ばないだろう。まるで遥か太古の世界に戻ったかのような魔力の行使。 それを可能にしているのが、あの黒騎士が持つ一振りの剣――。 『魔剣』“二ア・ダーク”。 その正体は剣に擬態した『真性悪魔』である。 真性悪魔は聖堂教会において『受肉した魔』であると称される。魔術も魔法も必要としない。ただ『魔』そのものとして、世界に変質をもたらすものだと。 黒騎士はその無限に魔力を生み出す永久機関を自らの身体に寄生させることによって、力任せに世界を塗りつぶす。それは、無限のエネルギーを生み出す兵器を所持しているのに等しい。 「はっ、本物の悪魔が相手じゃ、『悪魔使い』の名前も地に堕ちるか」 なんて無様だ、とメレムは食いちぎれんばかりに強く唇を噛み締めた。 進んで道化を演じる彼も、他人に道化を踊らされるとあっては話は別である。今回は志貴にこの場を譲ったが、この屈辱は倍にして返すと心に刻む。 鯨犬の上で翻る二つの影。今のところ、決着はついていない。勝負は拮抗しているようだ。 志貴が持つ『直死の魔眼』なら、あるいはあの悪魔を滅ぼすことも出来るのかもしれない。しかし、 「トオノシキ――。君に勝てるか? 相手は神と対をなす存在だぞ」 メレム・ソロモンは、この決闘を遠野志貴にとってあまりにも分が悪い勝負であると評した。 志貴に向かって、長大な魔剣が振り下ろされる。 それは瞬く間に質量を増大させ、志貴の元に届く刹那、その剣先が先端から無数に分かれた。 「!」 世界の法則を塗りつぶし、迫りくる刀身。 それら全てがメレム・ソロモンの魔獣を切り裂いた、桁外れの切れ味を誇る刃である。触れれば運が良くとも四肢のうち、どれかが宙を舞う。 しかし、志貴はまるで軌道を読んでいたかのように、急激な跳躍によってそれらを回避し、交わし切れなかった刃には躊躇いもなく自らのナイフを合わせた。 「へぇ――」 ナイフを両断し、志貴の身体を貫くと思えた影絵の刃は、その身を両断され地に落ちると、すぐさま夜の闇に溶けるように消え去る。 更に追いすがるように放たれた影絵の爪をも『殺す』と、志貴は飛ぶような足取りで黒騎士との間合いを離した。 「やっぱり、それも殺せるのか、その眼は。“悪魔の指は、死神の鎌によって存在を無に返される”君は十分、こちら側の生き物だよ、トオノシキ」 教会において唯一神と対を成す存在であると位置づけられる真性悪魔は、本来、死とは無縁の存在である。だというのに遠野志貴が持つ、『直死の魔眼』は、死とは無縁の存在である真正悪魔にさえ死を見出す。 メレム・ソロモンは考える。 聖堂教会が浄化不可能と判じ、その存在を認めざるを得なかった“必要悪”『真性悪魔』。神にも等しいその存在を殺してしまうこの青年は、何と呼ぶべき存在なのだろうか。 二つの影が激しく切り結び、そのうち小柄な方の身体が長剣に押し返され、黒色の平原を滑った。 有に十メートルの距離を離し向かい合う。長剣を携えた黒騎士はナイフを携えた小柄な影を追うことはせず、歪に口元を吊り上げた。 「軌跡が読める剣筋には、ナイフを合わせられる。では、これはどうだ?」 戦闘中に黒騎士が口を開いたことに、志貴は僅かに眉を顰めたものの、何も答えず逆手にナイフを構えた。 悪魔には人間のような後付の魔術回路はなく、その生体機能のすべてが『魔』を呼び込むための機能である。その魔力行使は、真祖が使う『空想具現化』、あるいは年経た死徒が使う魔術の一種、『固有結界』に近い。 つまり、 「来い、 魔剣は『魔』の創造を可能とする。 黒騎士の言葉に呼応するようにして、虚空に向けて異形の魔手が花開く。あらゆる物質の切断を可能にする五指が、虚空より姿を現す。 それは純然たる魔の顕現。黒騎士が行使する『魔』は呼吸も同然に世界を侵食し、自らの色に塗り替えていく。そこには、魔術師のように詠唱も魔術式も介在しない。 メレム・ソロモンが志貴の分が悪いと評したのも当然である。魔術の発動さえも『殺す』ことが出来る志貴とて、呼吸そのものに刃を通すことは出来ないのだから。 何の予兆も無く突如出現し、鋼をも両断する影絵の刃。 軌跡を読めない、闇色の剣閃――! 「ッ!」 身を翻し、志貴は 視認してから動いていたのでは間に合わない。顕現した『魔』を、勘を頼りに避ける。立ち並ぶオブジェがまるでスプーンで掬い取るかのように抉れ、身体を抉る痛みに鯨犬がけたたましい咆哮を挙げ、身じろぎをする。 突如揺れた足場に、志貴は僅かに体勢を崩し――。その足が、鯨犬の濡れた毛並みの上で、滑った。 思わず膝をつく。 黒騎士の目に殺意が走った。 「貫け、 「!」 声とともに、脳天を貫くように顕現する影絵の刃。ついに、その切っ先が志貴の身体を捉える。 これが神と対を成すと語られる、真性悪魔の暴虐。人間は為すすべもなく、その影絵の刃に貫かれる――かに、思えた。 しかし、 ザン、 悪魔をあざ笑うかのように、銀のナイフが虚空を薙ぐ。 「……!」 確かに射程に捉えていたはずの残撃。万が一にも外れることの無い不可避の刃はしかし、世界に顕現しなかった。 黒騎士の白い顔に、緊張が走る。 「今のは、何だ?」 メレム・ソロモンは思わず自分の目を疑った。 黒騎士の『魔剣』は、確かに志貴を捉えたにと見えたがしかし、刃は顕現しなかった。 思い描いただけで世界を侵食し、カタチを与える黒騎士の『魔剣』。 黒騎士がタイミングを違えたか? 一瞬、そんな考えが頭を過ぎるも、確信めいた違和感に首を振る。 悪魔の五指は、避ける隙の無い必殺の精度で繰り出されていたはずだ。 黒騎士が振るう『魔剣』の精度は完璧。黒騎士自身の剣の腕は達人の域に達している。奴に限って、仕損じるなどということはありえない。となると、考えられるのは、 「まさか――」 僅かな戦慄とともに呟いた。 「視えているのか、トオノシキ」 志貴は手を突いて立ち上がると一瞬のうちに肉薄し、黒騎士の腹部へと掬い上げる様な斬撃を見舞った。 黒騎士は掲げた魔剣の柄で辛くもこれを防ぐ。 一瞬の思考が反応を鈍らせた。この騎士にはあるまじきミスである。 体勢を立て直しつつ正眼に魔剣を構え直し、闇に紛れる殺人貴の姿を追う。殺人貴の姿は、夜目に慣れた吸血鬼の眼を以てしても捉えるのは難しい。 集中しなければ足元を掬われる。しかし――。黒騎士は考えずにはいられなかった。 “一体、今何が起こったのだ?” 心の中は裏腹に、色の無い表情で構えを取る黒騎士に、志貴はこれ以上の追撃は難しいと、一度闇に紛れるように後退を決める。 黒騎士はこれを追うよう二の太刀を放つも、志貴は予期していたようにバックステップでやり過ごし、メレム・ソロモンの『魔獣』“鯨犬”の背に聳えるオブジェの影に回り込んだ。 「次は、殺す」 最後に氷のような言葉を残して、殺人貴の姿は闇に消えた。 「っく」 オオォォォ! 黒騎士の手の中で魔剣が吼える。それは死への恐怖に上げる雄たけび。 魔剣は理解していた。目の前に居るのが、自らに破滅をもたらし得る存在であると。 「……何を畏れる。お前は人知を超える存在、『真性悪魔』だろう?」 死神が黒色の草原を駆ける気配だけが、じりじりと黒騎士を圧迫していく。 しかし、黒騎士は揺るがない。強靭な意志力は、彼に常に最高のパフォーマンスを発揮させる。 黒騎士は、カチカチと震える魔剣を押さえつけ、ゆっくりと刀身を鞘に納めた。 目を瞑り、柄を握り込むと迎え撃つように足を開く。 じり、 甲冑を纏った足が、しっかりと地を踏み締めた。 「畏れることはない。 確かに、不死の存在であるはずの『真性悪魔』にさえ死を見出す『直死の魔眼』は、この魔剣にとって唯一ともいえる脅威である。しかし、 「お前は負けはしない。何故なら、お前を操るのがこの私だからだ」 それを担う騎士は、死徒二十七祖の中でも最古参。月蝕姫第一の護衛、黒騎士と恐れられる、永劫の時を生き抜いた魔剣の担い手である。 「迸れ、 振り抜かれると同時に、悪魔の強大な魔力によって世界が塗り替わる。 黒光となって繰り出された斬撃は、放たれたと同時に八方全てに同時に斬撃を打ち込まれている。もちろん、ただ闇雲に打ち込んでいるわけではない。絶対不可視にして、絶対不可避。黒光は一切の無駄なく収束し、対象をただの肉塊へと変貌させる。 夜空を穿つ、無数の刀身。瞬く間に夜空に剣の茨を象る黒騎士の斬撃はしかし、 「馬鹿な……」 駆ける黒衣に届かない。刃は志貴に届く刹那、時が止まったかのように空間を侵食するのを止める。 志貴は、ゆっくりと水平に薙いだナイフを手元に引き寄せた。 蒼い瞳が、魔剣を振り抜いた黒騎士を睨み据える。 オォ、 「っ――何を、した殺人貴」 黒騎士がたまらず呻く。 「やはり、そうか――!」 メレム・ソロモンは身体の震えを止めることが出来なかった。 偶然も続けば、それは必然と判じざるを得ない。 「トオノシキは視えているんだ。黒騎士が放つ、刃の出現位置が」 架空元素を用いて顕現する黒騎士の魔剣――『真性悪魔』 何も無い虚空より突如出現し、あらゆる物質を寸分の違い無くを斬り裂く剣閃は、理論上、避けることなど出来はしない。しかし――。 そこに 志貴の眼は恐らく、顕在化前の刀身――まだ 黒騎士が刀身の形状を思い描いてから、実際に世界に顕在化するまでの間には、僅かにタイムラグが生じる。 志貴が薙ぐように虚空に向けてナイフを振るったのは恐らく、顕現前の 「まだこの世界に産まれていなくても、産まれてくることが決定した存在には、既に死が内包されているというわけか。はっ、これは何とも」 残酷に過ぎる能力だ。 メレムは確信する。 「 カタチを持たない魔を捉える『淨眼』と、それらに滅びを見出す『直死の魔眼』。それらはまさしく、 メレムの読み通り、遠野志貴が顕現前の 『七夜』と呼ばれるその血族は、近親での交配を重ねることにより突然変異により発生する超能力を次世代に伝えることを可能とし、隠業の技を磨くことで本来使い捨てられる運命にあった超能力者を帰還させる術を身に付けた。 その一族が持っていた超能力『淨眼』は、『ありえざるモノ』を視るという性質ゆえに、堕ちた人間ではなく、純粋な魔にこそ恐れられたという。 『純粋な魔』――それは例えばそう、この真性悪魔のような存在に。 「なるほど。殺人貴とは、我々のような異形にとって天敵となる異能だったのだな」 真理を求める哲学者のように眉を顰め、黒騎士が言った。 「以前はこうはいかなかったはずだ。眼の精度が上がっているようだな。殺人貴」 「それだけ連発してくれれば、嫌でも慣れる。これだけはっきりと異質な気配なんだ。勘だけで捌ける」 二メートルを超す魔剣を正眼に構える『黒騎士』リィゾ=バール・シュトラウトを前にして、志貴は胡乱気な表情でナイフを軽く振って見せた。 「ふん、簡単に言ってくれる」 志貴の軽口に、黒騎士は微かに口元に歪める。声にならない声で呟いた。 ――私はこれが出来る存在を待ち続けて、幾千の年月を待ち続けたというのに、と。 「なんだって?」 「ただの戯言だ」 「……戯言?」 志貴が訝しげに眉を潜める。この男に、戯言などというものを吐ける柔軟さがあるとは思えない、というように。 「さて。休憩はそれくらいにして、再開と行こうか。休んでいる暇などあるまい」 黒騎士が言って、予断無く魔剣を正眼に構えた。 「……っく」 志貴の顔が悔しげに歪む。平素を装っているが、彼の呼吸は千々に乱れている。 幾ら刃が見えていると言っても、避けるのは生身の身体。出現前から視えていると言うアドバンテージがあるからこそ回避は可能だが、だからといって出現前にそられ全てを殺すことは不可能。となれば、最低限の刃を殺し、後は自分の足で刃の効果が及ぶ範囲外まで逃れるしかない。 「リィゾ――。まだ闘う気か?」 「どういう意味だ?」 「それ以上闘うことに意味があるのか、って聞いているんだ。……気付いているんだろう? 自分の身体が」 志貴は僅かに迷い、躊躇いがちに魔剣を構える黒騎士の腕を指差した。 「――悪魔に、喰われていることに」 正眼に構える黒騎士の腕は、肘の半ばまで魔剣と一体化している。 『真性悪魔』は寄生主の願いを叶える代わりに、魂を喰らう。その異能の力と引き換えに支払う代償は、あまりにも大きい。 このまま力を使い続ければ、いずれ『魔剣』に飲み込まれ、『死徒』リィゾ=バール・シュトラウトはこの世から消え去るだろう。 志貴は、この決闘の是非を問う。 自分たちは何のために闘っているのか。闘うことに意味があるのか、と。 「止めるなら今の内だ。なんなら、お前のお姫様には手を出さないって誓ってもいい。俺はアルクェイドさえ無事ならそれでいいんだ。だから」 しかし、 「トオノシキ。お前は今更、そんなくだらない事を考えていたのか?」 黒騎士はその憂いこそ戯言、と斬って捨てた。 「自らの主が危険に晒されているというのに、敵の心配をしていたと?」 眉を潜め、低い声で問う。 「……別に、主じゃないんだけどな、あいつは」 「それでも、貴様は姫を守護する騎士なのだろう!」 静謐な黒騎士の瞳に、明確な怒りの色が混じる。志貴は呆れた、というように肩を竦めた。まったく頭の固い奴だ、と小さな声で呟く。 「……解ったよ。それならリィゾ。聞き方を変えよう。お前は本望なのか? 戦いの果てに、悪魔に飲み込まれることになっても」 「是非もない。これが、姫君の望みと言うのなら私はそれを叶えるまで。その他のことなど、全て些事に過ぎない」 「それが、間違った望みでも?」 「くどい。何度問われようと答えは変わらない。私にとって、姫君の言葉こそが絶対の真理。己が忠義は、全身全霊で貫き通す」 瞳に赤い輝きを宿らせ、黒騎士は大きく足を開くと、『魔剣』を鞘に収め抜刀の構えを取った。 辺りに立ち込める魔力が濃くなるにつれ、宿った悪魔は少しずつその腕を飲み込んでいく。それでもは黒騎士は、ただ真っ直ぐに志貴を見つめていた。 「変わらないな、お前は」 頑なな黒騎士の態度に、呆れたように笑うと、 「その忠誠心には舌を巻くよ。だが」 虚空に向けて、無造作にナイフを振り抜いた。 ザン、 「これで、終わりだ」 「――なに?」 何が終わりだ、と声を荒げようとしたその時、僅かに揺れた身体に痛みが走った。ゆっくりと視線を下ろした黒騎士は瞠目する。 柄を握った左手――その腕から甲にかけてに走った、鋭い裂傷。 覚えの無い傷だ。いったい何時の間に、 「あまり動かない方がいい。首が落ちれば、幾ら吸血鬼でも不味いだろ?」 一息に魔剣を抜き放とうとした黒騎士を制するように、志貴が言った。 一体、何が起きている――。 黒騎士は目を細め、首だけで周りの様子を伺う。そして、気づいた。周囲にくまなく張り巡らされた、月光に濡れ光る銀の傷跡に。 「これは――空間の断層か」 「そう。今の俺には、世界にさえ死の線が見える。死の線とは、世界の綻び。なぞって『殺した』場所は空間の断層となって、触れたものを切断する刃になる」 銀の裂傷は、動きを封じるように幾重にも張り巡らされている。 黒騎士は、自らの退路が断たれていることに気付いた。 「解らんな。お前は、この場所でナイフを振るってなど居なかった」 「そうだな。けど、断層を作ることは可能なんだよ。知ってるか? 『死の線』というのは、基点となる点から発生し、線となって世界の隅々へと流れている」 志貴はナイフで空間の一部をなぞる。剣先は僅かに虚空に没し、世界に傷跡が走った。 「線という概念だけが独立して存在しているわけじゃない。だから、その線の一部を殺し、弾いてやれば――」 ナイフを抜く刹那、僅か手首を返す。すると伝線するように、その線を辿って世界についた傷は瞬く間に線を辿って宙を奔った。 傷跡は黒騎士へと奔り、右足の甲冑に触れた瞬間、鋼鉄製のそれは鋭利な音を立てて切断された。 「ほら、連鎖的に『殺した』範囲は広がる。まぁ、すぐに塞がってしまう傷だけれど」 「なるほど」 黒騎士が唸る。 「いつの間にか、私は捕らえられていたというわけか」 月光に濡れ、銀色に輝くそれらは、まるで――。 「この、蜘蛛の糸に」 闇夜に張り巡らせた、蜘蛛の銀糸のようだった。 「だが、それでどうする? どうやって私を殺す」 黒騎士は嘲笑うように言った。 断層の檻に封じられるということはつまり、志貴もまた黒騎士には近づけないと言うことを意味する。触れれば空間の断層に肉体を切断されるのは、志貴とて変わらない。 「まさか、これで私を封じたつもりか? 世界には自己修復能力が備わっている。この程度の損傷など、すぐに修復してしまうぞ」 断層という檻に守られている以上、志貴は黒騎士を『殺す』ことは出来ない。 刻んだ断層が世界に修正されるまでにかかる時間が十秒弱。ならば黒騎士は、このまま傷跡が世界に修正されるのを待つだけである。 「解ってる。獲物を仕留めるのは、蜘蛛本人の仕事だってことは」 「――なに?」 訪ねるよりも早く、志貴は僅かに身を屈めると、黒騎士の元へと跳躍した。 「馬鹿な。気でも狂ったか!」 自殺行為だ。 思わず声を荒げる。 跳躍した先には、月光に濡れ光る銀の裂傷が鮮やかに浮かんでいる。 自分が斬り付けた傷跡を見誤ったか。 このまま踏み出せば、志貴の身体は断層に触れ、真っ二つに両断されるはずだ。 しかし、 「!?」 跳躍した志貴の足が、夜闇に伸びる銀糸に触れる。しかし、切り裂かれるかと思った足は銀の裂傷を踏み締め、更に先へと跳躍した。 黒騎士は驚きに目を見張り――そして、それはすぐに理解の色へと変わった。 銀の裂傷が蜘蛛の糸だというのなら、蜘蛛が絡め取られることなく、巣の上を渡れるのは道理――。 辛くも振り抜かれたナイフを捌くことが出来たのは、柔軟な理解力の為せる技か。 鮮やかな一閃を放った志貴は、防がれたと見てとると、すぐさま背後に跳躍した。 「逃がすか!」 張り巡らされた糸を掻い潜り、鞘から魔剣を抜くことに成功した黒騎士は、逃げる志貴を追うように、自らに宿る悪魔に命じる。 追撃をかけるように、夜空を穿つ刃を 「っく、追いきれない……!」 悔しげに呟いた。 異形の目をもってしても、断層の上を駆け抜ける志貴を捉えることは出来なかった。志貴は糸を張り巡らせた巣を渡る蜘蛛のように、夜闇の中を跳び回る。 「なんと。警戒すべきは『死神の眼』ではなく、『 七夜の一族が得意とする三次元的体術は、密閉された空間で最大の効力を発する。 志貴は何も無い空間に糸を張ることによって、自ら密閉された空間を作り出したのである。それはまさに、餌場に網を張った蜘蛛そのもの。全身くまなく巻かれた黒衣と、布地に刻まれた細かい銀の刺繍は、蜘蛛の節足を模しているかのようだった。 黒騎士は知る由もないことだが、志貴が断層の上を渡ることが出来るのは、黒衣に描かれた幾何学模様――空間の断絶の影響を受けない効果が付与されたヘブライ魔術の効果である。 「終わりだ、リィゾ」 断層の檻の中で周囲を見渡していた黒騎士は、背後で囁く死神の声を聞いた。 「ここは俺の狩場。仕損じることは無い」 避けようも無い背後からの斬撃。正確に黒騎士の首を狙って、蜘蛛が止めの牙を剥く。しかし、 「はっ、」 死を前にして、黒騎士は笑った。愉快で堪らないと、幽鬼のような気配そのままで。 「これで勝ったつもりか? 殺人貴!」 黒騎士は微かな笑みを浮かべたまま、自ら張り巡らされた銀糸の中に飛び込んだ。そこには僅かな躊躇いもありはしない。 「ッ!」 ナイフが目標を外れ、宙を流れる。しかし、世界に刻まれた無数の断層が、黒騎士の四肢を、甲冑を、決定的なまでに切断する。 地面に転がる、十以上のブロックに切断された黒騎士の身体――。 ごろん、 頭部が石床に跳ね、転がり、瓦礫の山にぶつかって静止した。 白い首は死人の相を浮かべ、その目は虚空を睨んでいる。 「な……」 志貴は動けないでいた。ただ、ナイフを振り抜いた姿勢のまま、黒騎士の生首を見つめる。 ――馬鹿な。自ら断層に飛び込んだだと? いったい何故、そんな真似を、 「どうした、トオノシキ」 不意に、黒騎士の生首が――虚空を見つめるその瞳が、志貴を捉えた。驚く志貴を見つめたまま、その口元がゆっくりと動き出す。 「忘れるな、人間。私は化け物だ。どうしようもないほどに。悲しいほどに。おぞましいほどに」 地面に落ちた魔剣から、闇が広がっていく。それらは、ゆっくりと地面に落ちた黒騎士の四肢を覆い、やがて一つどころに集まりだした。 夜を凝縮したような、色濃い闇の中で、ゆっくりと何かが形作られていく。 「空間の断層では私は殺せない。首をはねたくらいでは化け物は倒れない。何度でも蘇る。灰塵と化す、その時まで――」 「!?」 闇の蟠りの中から、魔剣を携えた黒騎士が現れる。 志貴は唇を噛み締める。 それは当然の結果だった。志貴が魔眼で殺したのは断層だけ。断層を通過した物体は切断されるが、それは死の線をなぞられ『殺された』わけではない。通常の傷と変わらないのなら、吸血種の持つ復元呪詛が働く。 「ああ――詰めが甘かったみたいだ。まったく、とんだ化け物だよ。お前は」 微かな笑みを浮かべ、志貴はゆっくりとナイフを構えた。戦慄に凍るその表情とは対照的に、その瞳はより鮮烈に、強く蒼い輝きを放っていく。 「悪いけど、復元を終える前に殺らせてもらう」 闇の中に走る鮮やかな死の線を見つめ、志貴が言った。 「それなら早く来い。復元が終わるまで、もう数秒とかからないぞ」 蟠る闇を纏って、黒騎士が嗤う。その瞬間、志貴の身体が視界から消えた。 「数秒――?」 聞こえた声は、右斜め後ろ――黒騎士の死角から響いた。 「十分だ。四度は殺せる」 背後から迫る、確実に首を落とす一閃。 必殺の確信を持って放たれたその一撃をしかし、黒騎士は魔剣の柄で容易く弾く。 「な……っ」 「どうして? という顔をしているな。トオノシキ」 振り返りもせず、静かな声で黒騎士が言った。 「お前は『死の線』とやらが通る場所しか狙ってこない。何度も受けていれば、自分の身体のどこに線が走っているのか、嫌が応にも解ってくる。当たりをつけるのは容易だ」 言って、黒騎士は左手で自分の首に走る死の線を正確になぞって見せた。 「ここにあるんだろう? 『死の線』とやらが」 「……次は、確実に殺す」 志貴の身体が翻り、闇夜に消える。 「無駄だ」 一人呟き、黒騎士はゆっくりと瞳を閉じる。 「物事には、機会というものがある。お前は、四肢を切断された私が姿を形作るまで動かなかった。決定的な機会を棒に振った。お前は私を殺すことに失敗したのだ」 眼を瞑り、意識を研ぎ澄ませた耳に、虚空へと銀糸を張り巡らし、自らの狩場を形成していく蜘蛛の気配が伝わってくる。 黒騎士は微笑を深める。 志貴は確実に、次で仕留めにくるはずだ。狙うは、首ではなく――もう一箇所、死の線の走っているであろう『右胴』。 背後に感じる死神の気配。瞬間、黒騎士が吼えた。 「『魔剣』二ア・ダーク! 神と並ぶというその力、私に見せてみろ!」 裂帛の気合に、右腕と一体化した魔剣――『真性悪魔』二ア・ダークが嘶きを持って応えた。魔剣の質量が、一気に倍に膨れ上がる。 ギイィィィィィィィィ、 「死ね」 背後から迫る、死神の宣告。 待ち受けていた黒騎士は魔剣に侵食され、半ば悪魔と一体化した右腕――その先端に形作られた口腔を突きつけ、力の限り叫んだ。 「迸れ、 怒号と共に放たれた黒光が夜闇を塗り潰し、志貴の身体を飲み込む。 轟音――。そして、静寂。 地上を駆けた黒光は、背後に聳えていた 土埃舞い上がる 後にはただ一人、甲冑の騎士が残される。 「ぬ、うぅぅぅ!」 力の行使の代償として、二ア・ダークは黒騎士の腕をゆっくりと喰らっていく。侵食する闇はぞろぞろと這い上がり、ついには肩の付け根まで広がった。 「あ、くっ、ああぁ……!!」 苦悶の声を上げ、ひび割れた石床の上に膝をつく。 魂を丸ごと租借されていくような痛み。砕けんばかりに歯を食いしばり、黒光に飲まれた志貴の姿を捜す。その目に浮かんでいるのは、確信めいた光。 「まだだ。これしきで終わるはずが無い……!」 周囲を見回していた赤い瞳が、ついに頭上を捉える。そこには、長年求め続けた死神の姿があった。 「――苦しいんだろ? すぐに楽にしてやる」 銀糸に手足をかけ、冷たい声で死神は言った。蒼い光を宿した瞳は大きく見開かれ、じっと黒騎士を見つめている。 「それがお前の望みだろう? 死にたがり」 「ふふふ、はははははは! それでいい。それでこそ殺人貴!」 頭上の蜘蛛――否、殺人貴を見上げ、肩を揺らして笑う。堪えきれぬ歓喜に、数千年動くことの無かった心が震える。 「いいぞ、死神。彼岸の彼方まで相手をしてやる。無窮の時間でも殺せなかった私を、完膚なきまでに殺害して見せろ!」 黒騎士が吼える。 満身創痍のその姿は、幽鬼のような気配を纏う平素よりも、よほど生の実感に溢れていた。 |