28.英雄足り得る条件とはU




「大勢の人々を救う為ならば、僅かばかりの犠牲は止むを得ない」
 かつて、そう言って全体から見れば僅かばかりの人々を切り捨て、平穏な日々をもたらした者は英雄と呼ばれた。
「例え僅かでも、人の命は等価だ。例え大勢の人々の命を危険にさらすことになったとしても、僅かな犠牲も許してはいけない」
 かつて、そう説いた者は偽善者と罵られ、人に仇なすものとして処刑された。
 ここに、選び得る道が二つある。
 どちらを選ぶかは自由。だが、第三の選択はあり得ない。選ばないと言う選択も、また。
 男は再び岐路に立たされる。
「どちらを選ぶのが、正しい答えなのか」

 ――それは、遠い過去に出した答えだったはずなのに。

   

「それがどういうことか解ってるの!?」
 話しを聞き終わるや否や、凛は身体のことなど忘れて思わず声を荒げた。
 顔面は蒼白で、唇は僅かに震えている。彼女が十全な状態だったなら、その日に焼けた頬を殴り飛ばしていたに違いない。
「もちろんだ」
 しかし、詰問を受ける士郎の表情に変化は無い。眉を顰め、ただひたすら色濃い苦悩と、意固地さを強く滲ませている。
「罪も罰も、俺が背負おう」
 重い口ぶりで……。だがはっきりと、士郎は決意を口にした。その瞳は言葉よりも悠然に、全て承知してなお、この決断に迷いは無いのだと物語っている。
「あんたのやろうとしていることは、あいつらと変わらない! そこまでしてやることに、意味なんてないじゃない」
 色を取り戻した凛の大きな瞳が、士郎をひたと睨み据える。それは、旧知の友人に向けるべきものとは思えぬ苛烈さで――。そして、今にも涙が零れ出しそうな、そんな危うさを孕んでいた。
 士郎は凛の視線を真っ向から受け止める。それどころか、逆に凛を睨み据えるように視線を強めると、
「選択の余地は無い。……俺と代行者で時間を稼ぐ。遠坂はすぐに作業に取り掛かってくれ」
話はこれで終わりだ、というようにくるりと凛に背を向けた。
「……私には、出来ない」
「お前がやらなければ、世界が滅びるだけだ」
 吐き捨てるように行って、士郎は歩き出す。凛はその背中に、縋るように手を伸ばした。
 ――お願い、待って。
 喉元まで出掛かった言葉。しかし、ついに震える唇が言葉を紡ぐことは無かった。
 お前がやらなければ、世界が滅びるだけだ――。
 辛辣な言葉が、まるで悪夢のように頭の中をぐるぐると回っている。
「……どうして」
 呟いた声に力は無い。
 遠ざかる背中を見送る目は、今にも泣き出しそうな程に潤んでいる。歩き疲れた子供のように、遠坂凛は立ち尽くす。
「士郎――」
 淀みなく歩き行くその姿に、かつて見た弓兵の頑なな背中が重なる。それは剣の山を登る、罪人のそれを思わせた。

※   ※   ※

 ゆらゆらとたゆたう眠りの縁で、遠くから迫る騒々しくもおぞましい気配を聞いた。
 ――来た。災禍がやってきた。
 目覚めなければ。
 それは地獄の始まり。
 今一度目を見開けば、後悔ばかりが降り積もる、あの荒野を再び歩くことになるのだろう。それは死が安らかな物と感じられるほどに、辛く厳しい茨の道だ。
 だがそれでも……。
 このまま逃げ出すわけにはいかなかった。
 責任を、果たさなければ。
 僅かばかりの未練を後ろに残して、シエルはゆっくりと目を見開く。


「気付いたか」
 シエルが目を開くと、傍らに立った浅黒い肌の長身の男――衛宮士郎は色濃い疲労を歪ませた顔を僅かに緩ませた。
「調子はどうだ? ……立てるか?」
 上体を起こしたシエルへと、無骨な手を差し出す。
「どうした?」
 シエルは手が差し出されても何も言わず、焦点の合わない瞳で士郎を仰ぎ見た。
 どうにも様子が可笑しい。
 士郎は訝しげに思い、その顔を覗き込み――思わず息を飲んだ。
 シエルの紺碧の瞳は、士郎を写してはいなかった。大きく見開かれた瞳は、遥か向こう――。天蓋に穿たれた、満月の浮かぶ大穴を見つめている。
「来ましたね」
 鋭い声音で言って、一度シエルは瞳を閉じる。
「ああ。そのようだな。……立てるか?」
 軽く肩をすくめ、士郎は改めてシエルへと手を差し出す。
 この察しの良さは、さすがとしか言いようが無い。さすが、対吸血鬼のエキスパート。この分では状況説明も必要ないだろう。
「起き抜けで悪いが、協力してくれるか。……アンタだけが頼りだ」
 低い声で言った士郎の表情は、緊張に固く強張っている。しかし、
「……いいでしょう」
 シエルはその浅黒い顔に、数分前まで浮かんでいた諦観の念とは明らかに違う色を見つけた。
「一度は捨てた命です。好きに使いなさい。――どこまで動くかは解りませんが」
 ゆっくりと目を瞑り、意識を体内へと走らせ、傷ついた身体の具合を僅かな狂いもなく把握する。
 差し出されたままになっていた士郎の手を掴み、淀みない足取りで自ら立ち上がった。
「それで、何か良い打開策が浮かびましたか?」
「まぁ、な」
「では――」  青みがかった、空の蒼の瞳が、士郎を映す。
 士郎は嘆息する。屹然と立つその姿は、とても今にも倒れそうな傷を負った女のものには見えなかったから。
「それはどんな?」
「悪いが、答えることは出来ない」
「どうして?」
 シエルは伺うように、色濃い疲れの滲む士郎の顔を見つめた。
「すまない。……ここは、何も聞かずに俺に任せてくれないか」
 途切れ途切れに士郎が言う。シエルは僅かに目を細め、苦渋に顔を染める士郎の顔をじっと見つめた。
「説明は出来ない。だが――。おそらくこれが、現時点で取り得る唯一の手段だ」
 しばし、二人見つめあう。
 やがて、
「いいでしょう。貴方達に賭けます」
 僅かに息を吐いて、シエルは呼吸をするような淀みの無さで、両手に合計十本の黒鍵を構えた。
「どのみち、聖堂教会にはもう切れるカードがありませんから」
 士郎の鳶色の瞳は、進行した吸血鬼化のため、薄く朱色に染まりかけている。しかし、シエルは知っているのかいないのか、何も口にはしなかった。
「それで、私の役割は?」
「普通に闘ってくれればいい。他のことは、俺と遠坂でやる」
「解りました」
 頷き、一歩前に出る。
「エミヤシロウ」
「何だ?」
「この災禍、決してこのまま終わらせてはいけません。少なくともアレは、ここで滅しなければ」
 身を固くし、まるで自分自身に言い聞かせるように呟く。
「ああ。……そろそろ来たようだな」
 士郎が組んでいた腕を解く。
 シエルは一度大きく深呼吸をすると、屹然と蒼い瞳を見開き、聖戦に挑む聖女のように屹然と、大空洞の天蓋を仰ぎ見た。
「ハハハハハ! これは驚いた!」
 頭上から轟く磊落な笑い声。
 弾かれたように顔を上げると、そこには、ぽっかりと空いた天蓋から降下を始める薄灰色の幽霊船――。そして、漆黒の外套を風に靡かせる『白騎士』フィナ=ヴラド・スヴェルテンの姿があった。
「誰かと思えば、貴様らか。逃げずにまだ居たとは!」
 戦地から凱旋する王のような尊大さで、白騎士はゲラゲラと声を上げて笑った。余程気分が高揚しているのか、その口元には肥大化した鋭利な犬歯が覗き、怪しい光を放っている。
「――チッ」
 平時から少しも消耗しているように見えないその姿に、士郎は忌々しげに舌打ちを一つ。傍らに立つシエルに早口で尋ねた。
「代行者。どれだけ時間を稼げる?」
「稼げというのなら、いくらでも。――と言いたいところですが。正直、十分ももてば良い方でしょうね」
 飄々とした調子でシエルが答える。平時と変わらぬ答えに、士郎は驚いたように目を見開いたが、すぐに頬を引きつらせながらも、いつもの冷笑を浮かべた。
「そうか。奇遇だな。俺とほぼ同じ目算だ」
 二人は挑むように白騎士を――そして、彼が率いる船団の漆黒のシルエットを仰ぎ見た。
 白騎士が駆る船団。その異形の全貌が、月明かりの元、次第に明らかになってくる。
「……骸か」
 小さな声で士郎が呟いた。
 鷹の目が、いち早く白騎士が率いる船団を捉えた。
 それは、骸で出来た船だった。
 いや、船の形をした怪物だった、といった方が正しいかもしれない。
 船体や甲板、マストといった部材は全てが、夥しい数の骸で構成されている。
 外壁は白骨化した骸、マストは皮を繋げたものだろう。船内に至っては、溢れ出しそうなほどの腐肉で隙間無く埋め尽くされている。
 その異様はまさしく、『幽霊船団』の名に相応しい。吸血伯爵の異名を持つ死徒の領主が保有する、異形の船団――。
「クハハハ! なんと愚かな奴らだ。だが、その勇気は褒めてやろう、人間。この後は兎狩りを楽しむつもりだったが、気が変わった!」
 船主に立つ白騎士が軽く右腕を上げる。それに合わせて、船の上からパラパラと幾つかの大きな影が大空洞に振り落ちた。
 地面に落ちたそれらは無機物のように落下し、そのまま動かない。
 シエルは訝しげに目を細め、
「エミヤ?」
 すぐ隣、士郎の顔色が変わったことに気が付いた。
「……何て事を」
 士郎の浅黒い顔が嫌悪に歪む。その鷹の瞳は、振り落ちたそれらの影――。数十に達する骸を、ひたと捉えている。
 カタ、カタカタ、
 石床の上であらぬ方向に手足を投げ出し倒れていた影が、ゆっくりと立ち上がる。
 降り注ぐ月明りが、立ち上がった骸を薄く照らし出した。
「これは――!」
 腐敗し、爛れた頭部。その顔に浮かぶのは、苦悶に満ちた虚ろな表情。
「……!」
 士郎の瞳が赤みを増す。
 ギリ、
 噛み締めた口元に、砕けんばかりの力がかかる。暗く輝く瞳は、地獄の炎を映していた。
 腐り果て今にも崩れそうな身体を引き摺りながら、幽霊船から落下した骸は、幽鬼のように大空洞の中を歩き出す。十や二十では効かない。そして、
「ああ――。まさか」
 その光景をじっと見つめていたシエルが、悪夢のように呟いた。その視線は、一番手近に落下した骸の身体に注がれている。
 骨と皮だけの骸が辛うじて纏った、薄汚い襤褸切れ――そこに、どこかで見た紋章があった。
「あれは、チュートン騎士団の」
 行軍を始めた骸の群れが、月光の中に進み出る。所々破損し失ってはいるが、骸達が纏っているのは教会が保有する騎士団の甲冑だった。
「代行者――」
「そんな顔をしないでください、エミヤ。儀式が失敗した時から、こうなることは予測していました」
 気丈に唇を歪めるシエルと目が合い、士郎はバツが悪そうに目を逸らす。
「済まない。要らぬ気遣いだったな」
「いえ……。私たちは神の剣。覚悟は、とうの昔に出来ています」
「そうか」
 気丈と言うのは余りにも悲壮なその姿に、士郎は迫る骸の群れに視線を戻した。
「そら、宴はまだ続くぞ! 解き放たれたければ、武勲を上げろ! 功績を示せ!」
 合計四隻の船団が地上に降り立ち、骸の群れが次々と大空洞に溢れ出る。
 それらを従え行軍する白騎士の姿は、さながら獄卒の看守のようだった。
「まずは、足止めだ」
 小さく呟き、士郎はさりげなく凛を守る位置に回り込み、漆黒の弓を構える。
「俺はこの位置から骸を狙撃する。……アンタはどうする?」
「先行します。後方支援は頼みました」
 言うなり、シエルは飛ぶような足取りで駆け出した。返事を返す暇も無く、ぼろぼろのカソックが骸の群れへと埋没していく。
「ふん。――頼もしい女だ」
 遠ざかる背中を見つめながら、士郎は一息つくと、意識を素早く切り替えた。
 開戦を告げるように、低く、唸るように呟く。
同調、開始トレース・オン

※   ※   ※

 思うように動かない身体を引きずり、這うように魔方陣の描かれた石柱を目指す。
 もつれる足。
 霞む視界。
 周囲に微かに漂う腐臭が、ただ不快だった。
「はぁ、はぁ、は――」
 虚ろな世界で、ただ確信めいた言葉だけが、頭の中をぐるぐると回っている。
 ――私が今やろうとしているコトは、決して正しい行動ではない。
 それだけが公然の事実として、揺るぎない真実として、厳然と存在する。
 他に方法は無いか――。
 縋るようにシミュレートを繰り返すも、頭の中は袋小路で、より良い結末を見出すことは出来なかった。
「私は……。私は」
 頭の中は熱病に冒されたように茫洋として、霧がかかった脳裏には、取り留めの無い言葉が次々と浮かんでは消えていく。
 それは、学生時代の悪友の辛辣な言葉だったり、性格の違う妹の、姉の身体を気遣う声だったりした。
「……っ」
 不意に、右足に奔った激痛。たまらず伸ばした手が、冷たく重い金属に触れた。
 ゆっくりと視線を移す。
 腰元のホルスターには、黒光りする『黒い銃身ブラックバレル』が納められていた。
 ほんの一瞬、呼吸を忘れる。
 これを使えば、あるいは――。
「いえ……。これは、駄目」
 自分の考えを振り払うように、強く瞳を閉じた。
 これは人類を救う切り札と成り得る武装だ。もしもこれが白騎士の手に渡るようなことがあれば、人類が受ける損失は計り知れないものとなるだろう。迂闊に使うわけには行かない。
 それに――。
 そもそも凛には、弾丸を標的に当てる算段が無い。
 ただでさえ吸血鬼に当てることが困難な弾丸を、あの白騎士に当て、あまつさえその存在を滅ぼすなど、今の凛には想像することも出来ないことだった。
 そんな状況で、この銃を使うわけにはいかない。この武装を使うことが許されるのは、必中を確信できる千載一遇の好機のみ。
「重い。……私には、重すぎるわよ」
 目には見えない重圧が双肩に圧し掛かり、凛はくらくらとした酩酊感に襲われる。繰り返し襲い来る吐き気が、ただ苦しくて苦しくてたまらなかった。
「けど――。そうだ。早く始めないと」
 それでも、身体はまるで何かに操られるかのように、魔方陣の前に跪いた。
 震える手でアゾット剣を引き抜き、指先に当てる。ぶつり、という音と共に指先が熱を持ち、血液が滴り落ちた。
「助けられなかった。誰も」
 鮮血が流れ出る指先を強く地面に押し当て、呪詛のように呟く。
「諦めるなんてことは、許されない。私はみんなを救えなかった。だから」
 これは罰なのだ。
「誰も救えなかった。誰も、誰も、誰も誰も……!」
 強く強く。指先を地面へ圧しつける。枯れ枝をへし折るように人差し指を、
「……っ」
 くらり、
 痛みに意識が飛びそうになり、凛は力いっぱい口元を噛み締めた。
 魔術刻印が脳髄に訴えている。これ以上血を流すのは危険だと警鐘を鳴らしている。当然のことだった。元々血の量が足りないというのに、自ら血液を流しているのだから。それでも、
「救えなかった。誰も……救えなかった」
 凛は描かれた魔方陣へと指を強く圧しつける。
 救えなかった。
 ケミの街の人々も。異界の怪物に囚われた人々も。白騎士の暇つぶしに集められた子供達も、全て。
「……何も、出来なかった!」
 冷たくなっていく身体を引きずり、這うようにして、血文字で魔方陣に術式を足していく。命を、擦り付けていく。
 ここに来るまでに犠牲になった人々の挙げた苦悶の声や叫びが、脳裏に浮かんでは消えていった。
 まだ死ぬわけには行かない。許されない。戦わなければ。みんなのために、世界のために、家族のために、友人のために、見知らぬ、誰かのために。

 ――お願い。誰か、助けて。

「ごめんなさい……」
 溢れ出る涙は、誰の為に流されるものなのか。
 自責の言葉は呪いにも似ている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私は――」
 吐き気にも似た思考のループの中、ただ一心に己へと問いかける。
 このまま何も成さずに死ぬべきなのか?
 それとも――。








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